samedi 1 juillet 2017

キルケゴール『死に至る病』邦訳一覧

デンマーク語を勉強するついでに,キルケゴール (Søren Aabye Kierkegaard, 1813–1855) の主著『死に至る病』(初版 1849 年) を一部だけでも原文で読んでみたいと思いたち,いまはその準備段階として邦訳をいろいろと探して少しずつ読み進めている.

キルケゴールは実存主義の祖として祭りあげられ,一時は日本でもずいぶんな人気を博したようであるから,この書の日本語訳は数が多い.日本におけるキルケゴールの紹介は,早くも 1915 年 (大正 4 年) に和辻哲郎の浩瀚な研究書『ゼエレン・キエルケゴオル』(内田老鶴圃,661 頁) が出ているが,『死に至る病』の訳書が次々と現れるのは 1930 年代後半 (昭和 10 年代) になってからである.以来,私の調べえたかぎり以下の 9 種の邦訳が登場している.

とはいえ私はまだそれらのひとつとて通読したわけではなく,もともとこの種の哲学に明るいわけでもないので,訳の良し悪しを比較して云々するのは差し控え,ここでは単純に機械的なリストアップに努める.ただ翻訳の底本がデンマーク語原典であるかあるいはほかの何であるかくらいは注意しておいたほうが参照にも便利だろうと思い,その点のみ言及する.

邦題『死に至る病』はデンマーク語の原題 Sygdommen til Døden のすなおな直訳であって,ドイツ語訳 Die Krankheit zum Tode ならびに英訳 The Sickness unto Death も同様であるが,フランス語では一般に直訳にあたる La maladie à la mort よりは Traité du désespoir (『絶望論』) の名でよりよく知られているようだ.これらの外国語訳については私の調査が不徹底なので,基本的には日本語訳の底本として関与するかぎりでとりあげることとする.


日本語訳


斎藤信治 (1907–1977) 訳『死に至る病』.初刊は岩波書店,1939 年で,Gottsched und Schrempf の独訳 (1924 年) からの重訳.のち 1957 年第 23 刷より改訳で (版を改めているのに刷数を通算するのは岩波の間違ったところで,またこの書は違うが時には訳者すら変わり中身が別物にもかかわらず同じ番号 [青 XXX-Y などの] に重ね,近年は同一 ISBN に上書きするという悪行を重ねている),あとがきによれば旧訳をもとにしつつ Hirsch の独訳 (1954 年),Dohrenburg の独訳 (1949 年),Lowrie の英訳 (1941 年),Ferlov et Gateau の仏訳 (1931 年) を参照して改めているという (仏訳は版元の Gallimard 社サイトによれば 1932 年で,おそらくこのほうが正しい)

菅円吉 (1895–1972)・大村晴雄 (1910–2016) 共訳?「死に至る病 (弁証法的人間学)」,伊藤郷一ほか訳『キェルケゴール選集 第 1 巻』改造社,1935 年所収.

安中登美夫 (生没年不明) 訳『死に至る病』史学社,1948 年

片山泰雄 (1910–1989) 訳『死に至る病』人文書院,1949 年

以上 3 者は古く現物未見のため詳細不明だが,後述する飯島宗享 (改訳版) のあとがきを考えればいずれも Schrempf の独訳からの重訳と思われる.ただ飯島の旧訳初版のあとがきを考慮すれば,安中訳だけは Schrempf の改訂が入るまえの Gottsched 訳か?〔7 月 6 日追記:大学図書館にて片山訳の 1949 年 10 月 5 日再版の現物を確認.扉裏・奥付・訳者あとがきなどのどこにも翻訳の底本につき書かれていないが,訳文からまず間違いなく Schrempf の独訳によっていると見える.〕

松浪信三郎 (1913–1989) 訳『死にいたる病』.初刊は小石川書房,1948 年.その後,パンセ書院,1952 年;三笠書房,1953 年などから単行本,また『世界大思想全集 13』河出書房,1953 年;『キルケゴール著作集 11』白水社,1962 年,新装復刊版 1995 年;哲学思想名著選『死にいたる病・現代の批判』白水社,1983 年,同 イデー選書版 1990 年,同 白水 u ブックス版 2008 年 (「現代の批判」のほうは飯島宗享訳) など多数の版に収録される.白水社のものはイデー選書版より当初の訳者松浪・飯島による解説・訳者あとがきが割愛され,池澤直樹・村上恭一による解説・解題に変えられている.これももともとは Schrempf の独訳 (1924 年) からの重訳で,白水 u ブックス版巻末の原典表記によれば Ferlov et Gateau の仏訳 (1932 年),Lowrie の英訳 (1946 年),Hirsch の独訳 (1957 年) を参照したというので,初版以後どこかのタイミングで修正が加えられたのだろう (松浪本人の解説が削られているため詳細不明.出版年がすべて斎藤訳と食い違うことについては後述)

飯島宗享 (1920–1987) 訳『死にいたる病』.初刊は創元文庫『キルケゴール選集 第 6 巻』創元社,1952 年.底本はデンマーク語原典の全集第 2 版 (1929 年).のちキリスト教古典叢書『死にいたる病』教文館,1982 年として改訳され,こちらの底本はデンマーク語の全集第 3 版 (1963 年).この改訳版の訳者あとがきにて 1954 年の初訳当時の事情を述懐し,「当時は、一九三九年に岩波文庫で出された斉〔ママ〕藤信治氏の訳書をふくめて、すでに存在した四種ほどの訳書のどれもが、クリストフ・シュレンプフによるドイツ語訳を底本とするものであった」と述べている.前掲のとおりこうした先行訳は飯島以前に 4 種ではなく 5 種あるが,飯島の旧訳のあとがきにはこれらすべてが挙げられているので知らなかったということはないであろう.

桝田啓三郎 (1904–1990) 訳『死にいたる病』.初刊は『キルケゴール全集 第 24 巻』筑摩書房,1963 年.その後,『世界の名著 40 キルケゴール』中央公論社,1966 年,同 中公バックス版 1979 年;ちくま学芸文庫『死にいたる病』筑摩書房,1996 年;中公クラシックス『死にいたる病・現代の批判』中央公論新社,2003 年などに収録.底本はデンマーク語原典〔全集第 2 版か.未確認〕.

山下秀智 (1944– ) 訳『死に至る病』.初刊は『キェルケゴール著作全集 原典訳記念版 12』創言社,1990 年.のち,『死に至る病』創言社,2007 年として単行本化.底本はデンマーク語全集第 3 版 (1963 年).

鈴木祐丞 (1978– ) 訳『死に至る病』.初刊は講談社学術文庫『死に至る病』講談社,2017 年.デンマーク語最新版全集 Søren Kierkegaards Skrifter (『死に至る病』を含む第 11 巻は 2006 年) からの目下唯一の翻訳.

上記のうち,現在手に入りやすいのは最初の岩波文庫の斎藤訳,ちくま学芸文庫の桝田訳 (と中公クラシックス版),そして 3 ヶ月まえに出たばかりの講談社学術文庫の鈴木訳の 3 つだけである.ほかはすべて絶版か品切となっており,古本で探すしかない.


独・英・仏語訳


ドイツ語訳そのものもむろんいくつもあるわけだが,邦訳にあたって重訳の底本とされてきたのはもっぱら,Hermann Gottsched und Christoph Schrempf (übers.), Die Krankheit zum Tode. Eugen Diederichs, 1924 であった.これはドイツ語版キルケゴール全集 Sören Kierkegaard Gesammelte Werke の Bd. 8 として出たもので,もともと Gottsched による単独訳として 1911 年に刊行されたものが Schrempf によって改訂されたものである.

この両者について飯島の旧訳 (1952 年) の訳者あとがきによれば,
ゴットシェド版(一九一一年版)は極めて忠実な翻訳で、デンマルク原典をほとんど片言隻句にいたるまで直訳的にドイツ語に移しているが、シュレンプフの改訂版(一九二四年版)は個々の語句はもとより、文章全体にわたって、かなり大幅の言いかえ、省略補訳が行われ、時としては数頁にわたって原典の意味だけを汲んでの解義的文章に改変され、原典とは相当趣きの異ったものとなっている。
と言い,Gottsched 版ならばまだしも Schrempf 版からの重訳には問題があるとして日本初の原典訳に踏み切ったということである.このとき飯島は同時に Schrempf の自由な改変の意図を好意的に認めもし,彼の「解義」そのものはたいていの場合に正しく,キルケゴールの原文よりわかりよくなってすらいると述べているのであるが,のちの新訳 (1982 年) のあとがきではこの評価を変え,
とりわけ、シュレンプフ自身の理解がゆきとどかなかったせいか、本文中の重要な箇所での原典における「前置詞の使い分け」が無視され、その重要性のゆえに原典でこの「前置詞の使い分け」について説明されている長文の注が完全に脱落させられていることは、本書解釈とキルケゴール理解に重大な損傷を与えるほどのものとして、許されないことのように思えた。
と書いている.まさにその Schrempf からの重訳である岩波文庫の斎藤訳がいまもって一般に親しまれているとき,私たちはこの意見を念頭に置いたうえで重訳に接する必要がある.

Schrempf と並んで重要視されている独訳は Emanuel Hirsch, Die Krankheit zum Tode. Eugen Diederichs, 1954 である.Schrempf 訳に比べて「精密にデンマーク語からの逐語訳をおこなっていた」(飯島) と言い,斎藤訳 (改訳後) などはかえってこれを「あまりに厳密に原文を追いすぎている」と評している.これは 1957 年にも刊行されているようだが,書誌情報を見ると出版者もシリーズ名も同じでページ数も xi + 185 p. と共通なので,おそらく実質は同一のものだろう.上で斎藤訳が参照した Hirsch を 1954 年,松浪訳が 1957 年と書いているのはこのことの反映と思われる.

もうひとつ上で名前が挙がっている独訳は Thyra Dohrenburg, Die Krankheit zum Tode. Johs. Storm, 1949 で,斎藤訳によればこれは「シュレンプㇷ訳に一番近い」ということである.いずれにせよ現在ではこれらはどれも手に入りにくい.参考までに,その他ここに名前が出ていないものとしては Walter Rest 訳 (1956 年),Liselotte Richter 訳 (1962 年),Hans Rochol 訳 (1995 年),Gisela Perlet 訳 (1997 年) などが存在しているようだ.この最後のものは Reclam 版で入手が容易である.

英訳として上記で参照されているのは Walter Lowrie (trans.), The Sickness unto Death. Princeton U. P., 1941 だけである.この評価については日本語訳者の誰もとくに述べていないようなのでよくわからない.松浪訳がこれのことを 1946 年と言っている理由は不明だが,まあ昔の本なのでそういうこともあるのだろう (日本語訳も上記リストのとおり昭和期には何度も同じものが装いを変えて出たものである).

これも参考として,近年は Hong 夫妻 (Howard Vincent Hong and Edna Hatlestad Hong) による英語版全集 (うち The Sickness unto Death は 1980 年,ペーパーバック版 1983 年) が定評あるものである.また Penguin Classics からも Alastair Hannay 訳 (1989 年,増補版 2004 年) が出ていて安価で手に入る.

仏訳は最初に述べたとおり Traité du désespoir (『絶望論』) の表題で知られ,斎藤訳・松浪訳でも利用されている Knud Ferlov et Jean-Jacques Gateau (1932 年) は,現在もっとも入手しやすいものと言って間違いないと思う.これはいまもペーパーバック版 (1988 年) で売られている (同訳者で『哲学的断片』Miettes philosophiques および『不安の概念』Le concept de l’angoisse と 3 ついっしょになったペーパーバック版もある).

このほかには,La maladie à la mort の題で,L’Orante 社版フランス語全集 Œuvres complètes de Søren Kierkegaard, t. 16 (ISBN 2703110413) 所収の P.-H. Tisseau 訳 (1971 年) が存在する.Régis Boyer 編のもの (R. Laffont, 1993. ISBN 2221073738) は,フランス国立図書館の検索結果では書誌情報に « trad. du danois par Paul-Henri Tisseau et Else-Marie Tisseau » とあるので同じものだろう.


デンマーク語原典全集


この 100 年あまりのあいだに,デンマーク語でキルケゴールの全集は都合 4 度出ている.最初の Søren Kierkegaards Samlede Værker が 1901 年から 1906 年にかけてで全 14 巻 (A. B. Drachmann, J. L. Heiberg og H. O. Lange 編).次の第 2 版は同一の刊行者により,J. Himmelstrup による主要用語解説・索引がついた全 15 巻で 1920 年から 1936 年.それから全集第 3 版は全 20 巻で 1962 年から 1964 年にかけて出ており,これは全集第 2 版を底本として若干の校訂・本文批評を加えたものであるという (以上の説明は P. ガーディナー,橋本淳・平林孝裕訳『キェルケゴール』に付された訳者作成の参考書目によった).

その後,前世紀末 1997 年から 2013 年にかけて,SKS (Søren Kierkegaards Skrifter) のタイトルで最新のかつより徹底した全集が刊行された (N. J. Cappelørn, J. Garff, A. M. Hansen og J. Kondrup 編).これは本編全 28 巻とコメンタール (K) 全 28 巻からなり,『死に至る病』(Sygdommen til Døden) はこのうち bd. 11/K11 (2006 年) のなかに収録されている.これには web 版 (http://sks.dk) もあり,全文検索までできてたいへん便利になっている.


『キリスト教への修練』邦訳一覧


補足として,当初一体のものとして構想され『死に至る病』の続編にあたる『キリスト教への修練』(Indøvelse i Christendom) の日本語訳をまとめておく.これは数がそう多くない.

井上良雄 (1907–2003) 訳「キリスト教の修練」.『イエスの招き―キリスト教の修錬』角川書店,1948 年として初出,1953 年より角川文庫.のち改題して『キリスト教の修練』新教出版社,2004 年として復刊.これは現在でも新本で手に入る.表紙に Einübung im Christentum の題が見えるので独訳からの重訳か.

杉山好 (1928–2011) 訳「キリスト教の修練」.白水社『キルケゴール著作集 17』1963 年所収.新装版 1995 年.現在品切.

山下秀智 (1944– )・國井哲義 (1947– ) 共訳「キリスト教への修練」.創言社『キェルケゴール著作全集 原典訳記念版 第 13 巻』2011 年所収.版元が今年 2017 年 3 月に廃業し,いくつかの巻は手に入るがこの巻はすでに品切.