聖書解釈の分野に eisegesis という言葉があることを最近知った.鋭い人ならつづりからただちに見てとるかもしれないが,これはギリシア語に由来する exegesis の接頭辞 ex- (ἐξ- = ἐκ-, 外へ) を反対の eis- (εἰσ-, 中へ) に置きかえたつくりになっている.
その意味は,英語版 Wikipedia によれば「テクストもしくはその一部分を解釈するさい,自分自身のもつ前提や意図あるいは偏見を,そのテクストの中に/上に取り入れる解釈手続き」である.Exegesis のほうは本来の著者が意図した意味あいをその文脈に即して読みとる作業で,正しく運用すればなにぶんか「客観的」な手続きであるが,対して eisegesis は多分に主観的である.そして eisegesis をする人を意味する eisegete という言葉は「少し軽蔑的に用いられる」と言うが,それはこれらの単語が「その解釈は勝手な前提を読み込んでいるよ」という非難を含んで使われるのだから当然のなりゆきだろう.
これは余談めくが,英語版 Wikipedia によれば eisegesis の英語での発音は /ˌaɪsəˈdʒiːsəs/ だという.英語で ei をアイと発音するのはわりと例外的なことで,eight, weight, freight のようにエイと読むか,either や seize のようにイーというのが普通だろう (もっとも either はアイザーと読む場合もあるようだが).聖書学はドイツの影響も大きいのでドイツ語の干渉だろうか?
さて聖書学で exegesis はふつう「釈義」と訳されることになっているが,eisegesis のほうには日本語の定訳がないようだ.この言葉を日本語の文献で目にする機会は少ないが,少し調べてみると「恣意的な読み込み」や「主観的釈義」のような説明的な訳語でまかなっているように見える.英語でも ‘reading into’ と言うとおりたしかに「読み込み」でも十分意味は伝わると思うが,原語が eisegesis というギリシア語ふうのお堅い字面であることと,exegesis と対になる単語であるという事情に鑑みれば,どうにか訳語でも「釈義」との対応を見た目に感じられる漢字 2 文字の熟語で表したいところである.これがここで私のとる翻訳方針である.
そのためまず exegesis の「釈義」という訳語に立ち戻って検討してみよう.「釈」という漢字の意味は「解釈」や「注釈」に見られるとおり「ときあかす」であり,「義」とはもちろんここでは「ただしい」ではなく「字義」や「原義」に見られる「意味」という意味である.すなわち「釈義」とはテクストの「意味を解き明かす」ことを言う.
一方そもそも exegesis とはギリシア語 ἐξήγησις に由来し,この大元は ἐξηγεῖσθαι という動詞である.すでに触れたようにこれは ἐξ-「外へ」という前つづりと,ἡγεῖσθαι なる動詞 (これは中・受動態不定詞で,直・中受・1 単にすると ἡγοῦμαι) からなっているが,この動詞の意味は「前を行く,先行する」あるいはそこから「導く,先導する」ということであるから,あわせて ἐξηγεῖσθαι は「導き出す」の意である.その名詞形である ἐξήγησις はもちろん「導き出し=導出」のことであって,じつはこのなかに「意味=義」という字 (その意味に対応する形態素) はないことがわかる.
だからといってもはや固まった訳語である「釈義」の「義」は余計だというわけにはいかず,これはこれですっきりと完成された用語というべきだろう.したがってわれわれはこの「義」の字を尊重しつつ,「○義」という形で eisegesis の訳語を提案することが正道であるように思われる.
テクストから意味を「外に取り出す」ことが exegesis であった.この反対に「中に入り込む」ことが前つづり eis- のイメージであるから,このようなニュアンスを感じさせる 1 文字が望ましい.「侵入」「侵略」の「侵」という字を使って「侵義」というのはいかがだろうか.この字は「中へ攻め入る」という方向性と同時に「そこを侵し傷つける」という意味を両立しており,eisegesis の「前提や先入観を含んだ意味の恣意的な読み込み」すなわち本来の意図の侵害・毀損という含意をなにほどか表しえているように自負している.あるいは「込」の字に音読みがあれば「込義」も可能だったかもしれないが,この字は国字なのでそうはゆかなかった.
私は趣味でときどき Wikipedia の外国語版から日本語版への翻訳記事を作るという作業を細々と続けているのだが,英語版・ドイツ語版・オランダ語版など合計 8 言語で立項されている eisegesis の Wikipedia ページを見て今回のようなことを思いたったのであった.このうち英語版・アフリカーンス語版そしてなかんずくドイツ語版は翻訳されるに値する十分な内容をもった記事なのだが (私はウィキペディアンとしていわゆる包摂主義者なので),これを訳そうにも「読み込み」というふわふわした字面で立項するのは都合が悪いし (コンピュータ用語の ‘loading’ のこととも思われかねない),まして私が勝手に考案した新造語をページ名にするなどもってのほかである.いつの日か日本語版 Wikipedia で eisegesis の項目ができることを祈念して,そのたたき台としてこのようなことを web の片隅に書いておくのも無駄ではないだろう.
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