『ファイアーエムブレム 風花雪月』にはこれまでの作品に比べてスラヴ系、とりわけチェコ語の人名が多いことが画期的である、ということを以前の記事「ファイアーエムブレム風花雪月 人名の由来と意味」において例証しました。そのとき私はそれをたんなる偶然というか、シリーズ中で欧米のありふれた人名を使いまわすにも限界がきていたために新たに毛色の違ったものを求めただけのことかと思っていましたが、事実はそれだけではなかったのかもしれません。
というのは――私の怠慢のためにいまだに同作をプレーしきっていないため詳しい背景は把握していないのですが――どうやら作中でシャンバラという SF ふうの場所にロシア語 (これはスラヴ語の代表格です) で書かれた文字が見いだされ、そこからひいてはフォドラは私たちの世界が滅びたあとの遠い未来の世界である?といった説が一部行われているようだからです。なお、前記事情から私はまだネタバレを含む考察を閲覧することを避けているため、こうした説の出所や議論の詳細については知りえておらず立ち入らないということをあらかじめ断っておきます。
さて、それでもこのような興味深い画像が偶然目に入ってしまったため、無視してばかりもいられなくなってしまいました (これは reddit のこのトピックからお借りしたもの。文明崩壊後の未来という説はそこでも触れられています)。たしかに明らかにでかでかと СВЕТИТЬСЯ СВАЯ と、そしてさらに赤い三角の下にはかすれた文字で ЗАКРЫТЫЙ ГОРОД とあるのが読みとれます。またべつの情報源によると、同じマップのどこかには Катакомбы という単語も見いだされるということです。(以下、読みやすさのためすべて小文字に直して書きます。)
ラテン文字に翻字 (参考までにカタカナも併記) するとこれらは順に、svetit’sja svaja (スヴィチーッツァ・スヴァーヤ;-t’sja はまとめてッツァ -cca と読む)、zakrytyj gorod (ザクルィーティイ・ゴーラト)、katakomby (カタコーンブィ) となります。最後のものは見てのとおり「カタコンベ」、また 2 番めのものは「閉鎖都市」または「非公開・秘密都市」といった意味です。しかし第 1 のものは問題含みです。どうやら作中に「光の杭」という超技術による兵器があるそうで、このロシア語はそれを指すことを意図しているらしいことは疑いないはずですが、文法的に正しくありません。
свая はたしかに「杭」のことです。しかし светиться というのは再帰動詞 (ся 動詞) の不定形で、動詞なので辞書にはもちろん「光る、輝く」のように出ていますが、この形で使えば英語の to 不定詞と同じく「光ること」という意味です。したがって「光る杭」のように前から「杭」を修飾することはできません。このように 2 語を並べられたとき、無理に読むとすれば可能性としては「光ることは杭です」というコピュラ文 (英語で言う be 動詞でつないだ文) がもっともらしく思われます。英語なら ‘To glow is a pile.’ というわけです。
ラテン文字に翻字 (参考までにカタカナも併記) するとこれらは順に、svetit’sja svaja (スヴィチーッツァ・スヴァーヤ;-t’sja はまとめてッツァ -cca と読む)、zakrytyj gorod (ザクルィーティイ・ゴーラト)、katakomby (カタコーンブィ) となります。最後のものは見てのとおり「カタコンベ」、また 2 番めのものは「閉鎖都市」または「非公開・秘密都市」といった意味です。しかし第 1 のものは問題含みです。どうやら作中に「光の杭」という超技術による兵器があるそうで、このロシア語はそれを指すことを意図しているらしいことは疑いないはずですが、文法的に正しくありません。
свая はたしかに「杭」のことです。しかし светиться というのは再帰動詞 (ся 動詞) の不定形で、動詞なので辞書にはもちろん「光る、輝く」のように出ていますが、この形で使えば英語の to 不定詞と同じく「光ること」という意味です。したがって「光る杭」のように前から「杭」を修飾することはできません。このように 2 語を並べられたとき、無理に読むとすれば可能性としては「光ることは杭です」というコピュラ文 (英語で言う be 動詞でつないだ文) がもっともらしく思われます。英語なら ‘To glow is a pile.’ というわけです。
ロシア語では現在形で be にあたる語を使わず、また冠詞もないためこういう言いかたになります (べつの再帰動詞 учиться「学ぶ」の不定形を使った例文に «Учиться — наша задача.»「学ぶことが私たちの課題だ」があります;正式にはこのようにダッシュを入れます)。ほかの可能性としては (語順は通常と違いますが) 未来形で быть を省略したものとして「杭は光るだろう」(«Свая [будет] светиться.») とも読めないこともないかもしれませんが、いずれにしても奇妙です。
結論的には、これはロシア語をまったく知らない制作者が機械翻訳かなにかを使って失敗してしまったもの、と言うことができます。ロシア語を少しでも勉強したことがある人なら、-ться という語尾を見た瞬間に再帰動詞の不定形なので変だなと感じます (イタリア語の -rsi、スペイン語の -rse と同じことと言えばピンとくる人もいるでしょうか。それくらい初歩的なミス)。参考までに、светиться という動詞を使って「光る杭」という意味にしたければ、この動詞の能動分詞現在形 (英語で言う -ing 現在分詞) の女性単数形を使って светящаяся свая (svetjaščajasja svaja) のように言うのが正解です。
〔2 月 28 日追記〕ここに提案した светящаяся свая でググってみると、reddit の書きこみ (前掲の画像とはべつのスレッド) で、発売から間もない昨年 8 月 2 日 (日本時間) に早くも私と同じように指摘している――つまり最初の語は間違っていてこのように言うべきという――発言が見つかりました。しかしこれ以後に書かれた前掲のスレッドを含め、この教えは注目されないまま現在に至っているようです。
ところで、『風花雪月』においてはこのロシア語のほかにも、魔法陣にデザインされている英語が間違っていることが知られていますが、このような初歩的な誤りが作中にあるという事実から、私たちはどのような含意を引きだせるでしょうか。
ひとつの解釈として、これらがあくまで「作中世界においては」文法的に正しいものと仮定してみましょう。じっさい作中の誰もそれに突っこんでいないのですから、そのように考えることは自然です。すると当然それらは私たちの知るロシア語や英語とは異なった言語であるということにならざるを得ません。ここから導かれる簡単な結論は、フォドラの (過去の) 世界は私たちの世界と同一ではない、言いかえると私たちの世界の延長上にフォドラがあるわけではない、というものです。なにをあたりまえのことを、と思われるかもしれませんが、これが考察としておもしろいのは作中に描かれた情報を根拠にしてフォドラが私たちの世界の未来であるという説を棄却できることになるからです。
もっとも、私たちの世界においてもピジンやクレオールといって、ある言語を母語としない人々が商売上などの必要に駆られてブロークンな文法で会話を成り立たせる、そしてそれがそのまま次の世代に受けつがれて立派にひとつの「言語」として成立していく、という場合もあります。この可能性を採用するならば、なんらかの事情があってロシア語を母語としない出自もばらばらの人たちが寄り集まり、どうにか片言のロシア語で意思疎通をするうちに светиться свая のような表現が正しくなった、といった想像もできます。
ひとつの解釈として、これらがあくまで「作中世界においては」文法的に正しいものと仮定してみましょう。じっさい作中の誰もそれに突っこんでいないのですから、そのように考えることは自然です。すると当然それらは私たちの知るロシア語や英語とは異なった言語であるということにならざるを得ません。ここから導かれる簡単な結論は、フォドラの (過去の) 世界は私たちの世界と同一ではない、言いかえると私たちの世界の延長上にフォドラがあるわけではない、というものです。なにをあたりまえのことを、と思われるかもしれませんが、これが考察としておもしろいのは作中に描かれた情報を根拠にしてフォドラが私たちの世界の未来であるという説を棄却できることになるからです。
もっとも、私たちの世界においてもピジンやクレオールといって、ある言語を母語としない人々が商売上などの必要に駆られてブロークンな文法で会話を成り立たせる、そしてそれがそのまま次の世代に受けつがれて立派にひとつの「言語」として成立していく、という場合もあります。この可能性を採用するならば、なんらかの事情があってロシア語を母語としない出自もばらばらの人たちが寄り集まり、どうにか片言のロシア語で意思疎通をするうちに светиться свая のような表現が正しくなった、といった想像もできます。
メタ的に言って、現に日本人と思われる制作者がこのような誤りを犯した実例がひとつあるわけですから、そういう使い手たちが集まってロシア語で生活を送った場合それがそのまま普及して文法の一部になるということはありうると言えます。
この場合はかならずしも私たちの世界とフォドラとのつながりが否定されるわけではなく、妄想をたくましくするとたとえば「第三次世界大戦」で東側陣営が勝ち世界的に英語が衰退してロシア語が普及した未来、などというものを考えられるでしょうか。
しかし、いま述べてきたような推測が可能になる原因というのはそもそも――私の解説を信じていただくかぎり――「現実には間違っているロシア語が作中で使われている」という事実、そして間違っているものをそのまま真面目に受けとろうとすることに起因します。実際の真実はおそらく、ただたんに制作者が無知なため意図せずして間違えてしまった、というつまらない出来事であろうとほとんどの人は確信しているでしょう。
そうだとすると私はいましょうもない無用の考察を繰り広げたことになります。ロシア語が見つかったからといって実際にはそこからフォドラが私たちの世界とどんな関係にあるかはなにも読みとれないし、もしそれを強いて読みこもうとするなら作品世界を間違って解釈してしまうというわけです。でもひょっとしたら深い意図があってわざと間違えて書いた可能性も否定はできないし……、と考えると堂々巡りになります。
まさにこの点にこそ、フィクション作品は細部までこだわりぬいて作られるべきである理由があります。あえて陳腐な格言を繰りかえせば「神は細部に宿る」と称するとおりです。作品にどっぷりはまった真摯な読者 (プレーヤー) は作中に描写された情報を隅々まで渉猟し、そこから時に語られていない余白について描写と矛盾しないよう注意しながら考察を深めて楽しむわけですが、その描写のなかに単純に誤ったもの、著者や制作者が意図しないミスがあったとすれば、それは作品世界の理解に際しては不要であるどころか有害になるわけです。
これは私たち読者の考察の土台を根本から掘り崩してしまう危険につながります。じっさい、作中に描かれた細部のうちどれが意図的でどれがそうでないかなど、いち読者には決定的に判断することができません。このような可能性があるかぎり、すべての「考察」は砂上の楼閣になってしまいます。いま述べているのは、受け手によって「解釈」の幅に違いがあるために考察の内容も人それぞれで不確かでそれが楽しいね、という論点とはまた別次元の話で、そもそも解釈すべきテクストじたいに欠陥があって作中の証拠でさえ信用ならないために考察という営みそのものが成り立たなくなるという問題です。
そのような不備のある作品は精緻な考証に堪えないと言わねばなりません。ありていに言えば「深く考えるだけ無駄」ということです。私たちが「考察」を楽しめるのは、まず作品に対する全幅の信頼があって、作中に描かれていることはすべてその世界内においては確たる事実である (時に登場人物が間違ったことを言ったとしても、そのキャラクタが記憶違いなどで間違ったことを信じているということは作中におけるひとつの事実である) ということを前提にしているからです。
『風花』でいうとたとえば『セイロスの書』をはじめとする書庫の文献や教団関係者の発言などに実際のフォドラの史実とは異なる嘘が含まれていたとしても、そう言われているということ、そしておそらく教団がそれを信奉しているとか、人々にそれを信じさせようとしているといったことは事実だと想定したうえで、私たちは考察を行うわけです。万が一文献に誤字があったとしたら作中では現にこう記されていると信じて、写本の伝承過程で誤りが起こったのかな、などと考えたくなるわけです。あるいはまた、お茶会に呼んだ相手がどの話題で盛りあがったり赤面したりするかはそのキャラクタの生い立ちや性格の理解に関連していると信じています。
こうした一連のことを、ゲーム制作者による誤字だとか設定ミスだとかみなす――そうみなすだけのやむを得ない根拠が見つかる――ようでは、もはや解釈の本義を逸脱したメタ解釈になってしまい、その時点ですでに作品世界への没入感は失われてしまっています。
もとより人間の作るものでミスをゼロにすることは不可能ですが、受け手が憂いなく作品を味読して楽しむための前提である信頼を損ねてしまうものはいただけません。今回の件ならロシア語にしてたかが 5 単語、プロの翻訳者に頼んでも何千円もかからないでしょうに、その程度の予算をケチったばかりに不安の種を埋めこんでしまうというのは、またそれ以前に見られて恥ずかしいものを作中に残してしまうというのは、これほどの世界的有名タイトルのすることではないと思います。
関連事項として、以前 Echoes における同様の怪しい点についてまとめた過去記事を紹介しておきます:「ファイアーエムブレム Echoes のギリシア語」「ファイアーエムブレム Echoes のラテン語」。
また、『風花』そのものはロシア語に対応していないものの、ハードの Switch 本体はロシア語に設定できる――すなわち少数とはいえロシア語圏に販売されることは見込まれているはずである――ことを付け加えておきます。
しかし、いま述べてきたような推測が可能になる原因というのはそもそも――私の解説を信じていただくかぎり――「現実には間違っているロシア語が作中で使われている」という事実、そして間違っているものをそのまま真面目に受けとろうとすることに起因します。実際の真実はおそらく、ただたんに制作者が無知なため意図せずして間違えてしまった、というつまらない出来事であろうとほとんどの人は確信しているでしょう。
そうだとすると私はいましょうもない無用の考察を繰り広げたことになります。ロシア語が見つかったからといって実際にはそこからフォドラが私たちの世界とどんな関係にあるかはなにも読みとれないし、もしそれを強いて読みこもうとするなら作品世界を間違って解釈してしまうというわけです。でもひょっとしたら深い意図があってわざと間違えて書いた可能性も否定はできないし……、と考えると堂々巡りになります。
まさにこの点にこそ、フィクション作品は細部までこだわりぬいて作られるべきである理由があります。あえて陳腐な格言を繰りかえせば「神は細部に宿る」と称するとおりです。作品にどっぷりはまった真摯な読者 (プレーヤー) は作中に描写された情報を隅々まで渉猟し、そこから時に語られていない余白について描写と矛盾しないよう注意しながら考察を深めて楽しむわけですが、その描写のなかに単純に誤ったもの、著者や制作者が意図しないミスがあったとすれば、それは作品世界の理解に際しては不要であるどころか有害になるわけです。
これは私たち読者の考察の土台を根本から掘り崩してしまう危険につながります。じっさい、作中に描かれた細部のうちどれが意図的でどれがそうでないかなど、いち読者には決定的に判断することができません。このような可能性があるかぎり、すべての「考察」は砂上の楼閣になってしまいます。いま述べているのは、受け手によって「解釈」の幅に違いがあるために考察の内容も人それぞれで不確かでそれが楽しいね、という論点とはまた別次元の話で、そもそも解釈すべきテクストじたいに欠陥があって作中の証拠でさえ信用ならないために考察という営みそのものが成り立たなくなるという問題です。
そのような不備のある作品は精緻な考証に堪えないと言わねばなりません。ありていに言えば「深く考えるだけ無駄」ということです。私たちが「考察」を楽しめるのは、まず作品に対する全幅の信頼があって、作中に描かれていることはすべてその世界内においては確たる事実である (時に登場人物が間違ったことを言ったとしても、そのキャラクタが記憶違いなどで間違ったことを信じているということは作中におけるひとつの事実である) ということを前提にしているからです。
『風花』でいうとたとえば『セイロスの書』をはじめとする書庫の文献や教団関係者の発言などに実際のフォドラの史実とは異なる嘘が含まれていたとしても、そう言われているということ、そしておそらく教団がそれを信奉しているとか、人々にそれを信じさせようとしているといったことは事実だと想定したうえで、私たちは考察を行うわけです。万が一文献に誤字があったとしたら作中では現にこう記されていると信じて、写本の伝承過程で誤りが起こったのかな、などと考えたくなるわけです。あるいはまた、お茶会に呼んだ相手がどの話題で盛りあがったり赤面したりするかはそのキャラクタの生い立ちや性格の理解に関連していると信じています。
こうした一連のことを、ゲーム制作者による誤字だとか設定ミスだとかみなす――そうみなすだけのやむを得ない根拠が見つかる――ようでは、もはや解釈の本義を逸脱したメタ解釈になってしまい、その時点ですでに作品世界への没入感は失われてしまっています。
もとより人間の作るものでミスをゼロにすることは不可能ですが、受け手が憂いなく作品を味読して楽しむための前提である信頼を損ねてしまうものはいただけません。今回の件ならロシア語にしてたかが 5 単語、プロの翻訳者に頼んでも何千円もかからないでしょうに、その程度の予算をケチったばかりに不安の種を埋めこんでしまうというのは、またそれ以前に見られて恥ずかしいものを作中に残してしまうというのは、これほどの世界的有名タイトルのすることではないと思います。
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関連事項として、以前 Echoes における同様の怪しい点についてまとめた過去記事を紹介しておきます:「ファイアーエムブレム Echoes のギリシア語」「ファイアーエムブレム Echoes のラテン語」。
また、『風花』そのものはロシア語に対応していないものの、ハードの Switch 本体はロシア語に設定できる――すなわち少数とはいえロシア語圏に販売されることは見込まれているはずである――ことを付け加えておきます。