あまたあるアンデルセン童話のなかでも「人魚姫」はもっとも人気のある作品のひとつであり、日本語にも多数の翻訳がある。本稿ではアンデルセンのデンマーク語原文冒頭の数段落を読み、それに逐語的な直訳を付すことで、既存の代表的な邦訳 7 種と比較してお目にかける。
そのさい邦訳が直訳した場合と明らかに食い違っている箇所 (たいていは原文にない敷衍) を赤字で指し示す。ただし日本語が代名詞の過剰使用を避けて名前を繰りかえしたり省いたりすることなど、日本文としてやむをえないと思われる点はいちいち指摘していない (が、その基準を厳格に定式化することは難しく、読者には不統一に感じられる箇所があるかもしれない)。
もとより翻訳の良し悪しを評価する尺度というのは、語学的な厳密な正確さばかりではなく、日本語として読んで自然で美しい文かどうか、あるいはこういうジャンルだとさらに子どもにとって言いまわしが難しすぎないかとか、読み聞かせるため朗読したときの調子とかも基準に加わってくる、きわめて複合的な問題であるから、原文との違い (赤字) が多いからといって短絡的にそれだけ悪いというものでもないことは念のため述べておく。さらに翻訳の底本の違いによって訳文に異同が生じている可能性もあるが、これは確かめていない。
本稿では原文テクストは
デンマーク語版 Wikisource によった。ただしいくぶん長い段落については、見比べやすくするためそれぞれ半分に分割した (邦訳でも山室訳・高橋訳・大塚訳・天沼訳はだいたい同じような段落分けをしている)。また「人魚姫」は 1837 年に書かれた古いデンマーク語であるから、随所で現代の正書法と異なっているが、これはあえて改めていない。この点につき知りたい向きは、過去の記事「
アリスの最初のデンマーク語訳 (1)」にて概略を述べてあるのでそちらをご覧いただきたい。
ここに私が付す直訳では、日本語としての自然さは犠牲にして一語一句過不足なく移すようにし、句読点の切りかたもなるべく原文と順番が前後しないことに意を用いた。原文を直接読めない人にも違いが見わけられるためにである。原文に対応しない敷衍を行う場合は亀甲括弧〔……〕に入れて示す。一方、引用される各種邦訳に見られる
〔赤字の亀甲括弧と打消線〕は、実際の訳文には欠けているが原文にあるはずだった語句、すなわちなにが訳し落とされているかを示している (もちろんこれも多いほどただちに悪いというものではない、すべて訳出すると日本語では冗長になる場合も多いので)。
比較対象の邦訳の所収著作一覧は以下のとおり (刊行年順):
訳文の表記は句読点や漢字/かなの変換に至るまで一字一句すべて引用元のとおりとするが、振りがなと傍点は再現せず省略した。上で注意した亀甲括弧以外の括弧は訳書にあるとおりである。
第 1 段落
Langt ude i Havet er Vandet saa blaat, som Bladene paa den deiligste Kornblomst og saa klart, som det reneste Glas, men det er meget dybt, dybere end noget Ankertoug naaer, mange Kirketaarne maatte stilles ovenpaa hinanden, for at række fra Bunden op over Vandet. Dernede boe Havfolkene.
直訳 海のずっと外では水はあまりに青いこと、もっとも美しいヤグルマギク* の花びらのごとく、またあまりに澄んでいることもっとも透明なるガラスのごとくであるが、そこはとても深く、どんな錨綱が達するよりさらに深く、多くの教会塔がたがいの上に積まれねばならない、〔水〕底から水〔面〕の上まで届くためには。その下には海の人々が住んでいる。
* 以下の邦訳ではヤグルマギク・ヤグルマソウが 4 対 3 でほぼ拮抗しているが、デンマーク語版 Wikipedia に „
Kornblomst“ として立項されている学名
Centaurea cyanus の植物は日本語版で「
ヤグルマギク」、その項目によるとかつて「ヤグルマソウ」とも呼ばれたがべつの植物と混同のおそれがあるのでヤグルマギクのほうが望ましいということである。
大畑訳 海をはるか沖へ出ますと、水は一番美しいヤグルマソウの花びらのように青く、このうえなくすんだガラスのようにすんでいます。ところが、その深いことといったら、どんなに長い、いかりづなでもとどかないくらい深くて、教会の塔をいくつも、いくつも積み重ねて、ようやく〔底から〕水の上までとどくほどです。このような深い海の底に、人魚たちは住んでいるのです。
山室訳 海をはるか沖へでますと、水はいちばん美しいヤグルマソウの花びらのように青く、またこのうえなく〔すんだガラスのように〕すんでいます。けれども、そのふかいことといったら、どんなに長いいかりづなでもとどかないほどふかくて、その底から水のおもてまでとどかせるには、教会の塔をいくつもいくつもつみかさねなくてはならないことでしょう。人魚たちがすんでいるのは、そういう海の底なのです。
高橋訳 海のずっと沖では、水の色は、いちばん美しいやぐるまぎくの花びらのように青く、きれいにすきとおったガラスのようにすみきっています。そして、たいそう深く、どんな長いいかりづな(いかりと船を結ぶつな)でも、とどかないほど深いのです。海の底から水の上までとどくためには、教会の塔をたくさんつみ重ねなければならないでしょう。そういう深い底に人魚は住んでいます。
大塚訳 海の沖のほうへ、はるか遠くまでいくと、そこの水は、いちばん美しいヤグルマギクの花びらのように青くて、いちばんすきとおったガラスのように、澄みきっています。それでも、そこはとても深いのです。どんなに長いいかり綱をおろしても、底までつかないくらいに深いのです。その海の底から水のおもてまでとどかせるためには、教会の塔をとてもたくさん、上へ上へと積みかさねなければならないでしょう。そういう深い海の底に、海の民である人魚たちは住んでいるのです。
長島訳 ずっと沖の海は、〔もっとも〕すばらしいヤグルマソウの花びらのように青くて、〔もっとも〕きれいなグラスのように澄んでいますが、そこはとっても深いのです。〔どんな〕錨の綱がとどかないほどで、底から海面まで、教会の塔をいくつも重ねないととどかないような深さです。そんな海の底に人魚たちが住んでいました。
金原訳 海のはるか沖では、水は〔もっとも美しい〕矢車菊の花びらのように青く美しく、〔もっとも透明な〕水晶のように澄んでいる。そしてどんな〔錨の〕ロープをおろしても計りきれないほど深い。教会の塔をいくつ積み重ねても水面に届かない* ほどの海の底に、海の王さまと臣下たちが住んでいた。
* 原文ではたくさん積み重ねれば届くことになっているので、いくつ重ねても届かないというのはこの訳独自の誇張。それはもちろんレトリックの範疇ではあるが、少なくともほかの訳はどれもそこまで言っていない。
天沼訳 はるか海の沖では、水は〔もっとも〕美しいヤグルマギクの花さながらに青く、また、〔もっとも〕すきとおったガラスのように澄んでいる。そのあたりはとても深くて、どれほど長い錨綱だって、底まで届かぬほどなのだ。海の底から水のおもてまで届かせるには、教会の高い塔をいくつも積みかさねなくてはならないだろう。そんな深い海の底に人魚たちは暮らしていた。
第 2 段落前半
Nu maa man slet ikke troe, at der kun er den nøgne hvide Sandbund; nei, der voxe de forunderligste Træer og Planter, som ere saa smidige i Stilk og Blade, at de ved den mindste Bevægelse af Vandet røre sig, ligesom om de vare levende. Alle Fiskene, smaae og store, smutte imellem Grenene, ligesom heroppe Fuglene i Luften.
直訳 さて〔次のように〕考えてはぜんぜんいけない、そこにはただむきだしの白い砂地があるだけであると;いいえ、そこではもっとも不思議なる木々や植物が育っており、それらは茎や葉がとてもしなやかなこと、水のもっとも小さな動きでも揺れるほどであり、あたかもそれらは生きている* かのようだ。すべての魚たちは、小さいのも大きいのも、枝々のあいだをすいすいと動く、この〔地〕上で空の鳥たち〔が飛ぶ〕ように。
* この var は反事実的仮定を表す過去時制であり、時間的に過去のことを表すのではないから、逐語訳にもかかわらず非過去 (現在) で訳した。
大畑訳 さて、海の底は、なにも生えていないで、ただ白い砂地だけだろう、などと思ってはいけませんよ。いいえ、そこには、それは珍しい木や草が生えているのです。その茎や葉のなよなよしていることは、水がほんのすこし動いても、まるで生きもののように、ゆらゆら動くのです。そして、小さいのや大きいのや、ありとあらゆる魚がその枝のあいだをすいすいとすべって行きます。それはちょうど、この地上で、鳥が空を飛びまわっているのと同じです。
山室訳 ところでみなさん、海の底はただ白い砂地になっているだけだろう、なぞと思ってはいけません! いいえ、そこには、世にもめずらしい木や草がはえていて、その茎や葉のしなやかなことは、水がほんのちょっとでもゆれると、まるで生きもののようにうごくのです。小さいのや大きいのや、ありとあらゆるお魚が、その枝のあいだをすいすいとすべっていくところは、まるきりこの地上で、鳥が空をとびまわっているのと同じことです。
高橋訳 さて、海の底はがらんとしていて、白い砂地があるばかりだと思ってはなりません。いいえ、そこには、ほんとにふしぎな木や草が生えています。その茎や葉はなよなよしているので、水がちょっと動いても、まるで生き物のようにゆらゆらと動くのです。大小の魚はみんなそのえだの間を〔地上で〕空をとぶ鳥のようにすいすいと泳ぎ回ります。
大塚訳 さて、そういう海の底には、はだかの白い砂地があるだけだろう、などと思ってはいけません。いいえ、そこには、とてもめずらしい木々や草が生えているのです。そして、それらの茎や葉は、ほんとにしなやかなので、ほんのすこし水が動いても、それにつれて、まるで生きもののように、ゆらゆら動きます。そして、魚たちは、小さいのも大きいのもみんな、それらの枝のあいだをすいすいと泳ぎまわりますが、そのようすは、この地上で鳥が空を飛びまわるのとそっくりです。
長島訳 〔さて〕海の底が何もないただの白い砂浜だと思ったりしたら大まちがいです。〔いいえ、〕そこには世にもふしぎな木々や草花が生えています。茎も葉もしなやかで、ちょっとした水の動きにもゆらゆら揺れて、まるで生き物のよう。大きな魚も小さな魚もみんなその枝の間を通り抜けていきます。地上で鳥たちが大気の中を飛びまわるようにです。
金原訳 〔さて〕海の底の白い砂には〔なにもないと思ってはまったくいけない。いや、そこには〕、地上ではとてもみられないような草花が生えている。葉や茎はやわらかで、少しでも水が揺れると、まるで生き物のように体をくねらせ、大きな魚やちいさな魚が〔すべて〕、その枝のあいだをすばやく泳いでいくところは、まるで〔地上で〕〔空の〕鳥が木々のあいだを飛んでいるようだった。
天沼訳 さて、海の底といえば、ガランとしてなんにもなくて、白ちゃけた砂があるだけだと想像しているとしたら、それはずいぶんちがっている。まったくちがうのだ。海の底には、ほんとうに不思議このうえない植物が生えている。その茎や葉はしなやかそのもので、水がすこしばかり動くだけで、生き物のようにユラリユラリと動くのだ。大小の魚たちは、みんなその枝をくぐるようにして、〔地上で〕空を飛ぶ鳥よろしく、かろやかに泳ぎ回っている。
第 2 段落後半
Paa det allerdybeste Sted ligger Havkongens Slot, Murene ere af Coraller og de lange spidse Vinduer af det allerklareste Rav, men Taget er Muslingskaller, der aabne og lukke sig, eftersom Vandet gaaer; det seer deiligt ud; thi i hver ligge straalende Perler, een eneste vilde være stor Stads i en Dronnings Krone.
直訳 そのもっともいちばん* 深いところには海王の宮殿があり、その壁は珊瑚で、長く先のとがった窓はもっともいちばん* 澄んだ琥珀で〔できて〕いるが、屋根は二枚貝であり**、それらは開いたり閉じたりしている、水の行くのに従って;それは美しく見える;というのもどの〔貝〕のなかにも輝く真珠があり、たったひとつでも女王の王冠のなかで大きな飾りになるであろうから。
* 最上級に接頭辞 aller- がついてさらに強めている。このような訳しかたが適切かどうかは別として、ただの最上級と違うことを訳文だけからも判明にするために便宜上こう書いておく。
** 先行する「壁は珊瑚、窓は琥珀」には、英語の of にあたる素材を表す前置詞 af があるので「〜でできている」と訳せるが、この「屋根は二枚貝」はそうではなく直接 be 動詞で結ばれている。しかし以下に見る邦訳では長島訳「屋根は貝殻でした」以外すべて、ここも素材のように「葺いて」「できて」と訳されている。
大畑訳 この
海の底の、そのまた一番深いところに、人魚の王様のお城が建っています。お城の壁はさんごで築いてあり、上のとがった高い窓は、このうえもなくすきとおったこはくでできています。屋根は、貝殻で
ふいてありましたが、それが水の動くにつれて、開いたり閉じたりする
様子は、
まったくみごとなものでした。なぜなら、その貝殻の一つ一つには、きらきら光る真珠がはいっているのですから。それ一つだけでも、女王様の冠の、りっぱな飾りになるくらいでした。
山室訳 そして、その海の底の、そのまたいちばんふかいところに、人魚の王さまのお城はあるのでした。お城のかべはサンゴでできていて、上のとがった長い窓には、このうえもなくすきとおったコハクがはめこんであります。屋根は貝がらでふいてありましたが、それが水のながれるにつれて、ひらいたりとじたりするようすは、まったくみごとなものでした。なぜといって、その貝がらの一つ一つには、それ一つだけでも女王さまのかんむりのりっぱなかざりになるくらいの、きらきら光る真珠がはいっているのですもの。
高橋訳 この海のいちばん深い所に、人魚の王様のお城があります。かべは、さんごでできており、先のとがった高いまどは、〔もっとも〕すきとおったこはくでできていますが、屋根は水の流れにつれて、開いたりとじたりする貝がらばかりでできています。どの貝がらの中にも、かがやく真珠が入っているので、何とも言えずきれいに見えます。そのひとつだけでも、女王様の冠の大きなかざりになったでしょう。
大塚訳 その海の底でも、いちばん深いところに、海の王である、人魚の王さまのお城があります。お城の壁はサンゴでできているし、上のとがった高い窓々は、このうえなくすきとおった琥珀でつくってあります。でも、屋根になっているのはたくさんの貝がらで、それらは水が流れるのにつれて、開いたり、閉じたりします。そのようすは、ほんとにきれいです。というのも、その貝がらのどの一つにも、きらきら光る真珠がはいっているからです。それに、その真珠は、そのうちのたった一つだけでも、女王さまの冠の、すばらしい飾りになろうというものなのです。
長島訳 海の底のいちばん深いところに人魚王のお城がありました。壁は珊瑚、高くて先のとがった窓は〔このうえなく澄んだ〕琥珀でできていましたが、屋根は貝殻でした。それが水の動きにあわせてあいたり閉じたりしていたのです。すばらしい屋根でしたが、それもそのはず、貝殻のひとつひとつに真珠が入っていました。その真珠ひとつだけでも、女王さまの冠のすばらしいかざりになったことでしょう。
金原訳 海のいちばん深いところに、〔海/人魚の〕王さまの城がたっていた。壁は珊瑚で、細長いゴシック風の窓は〔もっとも〕透きとおった琥珀、屋根は貝殻で葺いてあり、上を潮が流れるたび、それが開いたり閉じたりするところをみたら誰でも目をみはるだろう。というのは、貝殻すべてにきらめく真珠がはめこんで* あって、その真珠は、ひとつあれば、女王のかんむりを飾るのに十分なほど美しかった。
* 直訳のところで付した注とやや関連するが、ここはおそらく生きた貝たちがそのまま屋根をなしているのであって、だからこそみずから殻を開いたり閉じたりしているのだろう。それを「真珠がはめこんである」と言うと死んで加工された貝殻のようである。
天沼訳 海のもっとも深いところに、人魚の王様の宮殿がある。宮殿の壁は珊瑚で、先のとがった高窓には、〔もっとも〕すきとおった琥珀がはめこまれていた。その屋根はというと、水の流れのままに開いてはまた閉じる貝殻で葺かれていた。貝殻のなかには輝く真珠がはいっていたから、その美しさといったらたとえようもなかった。その一粒だけでも、女王様の冠の大きな装飾にじゅうぶんなくらいだった。
第 3 段落前半
Havkongen dernede havde i mange Aar været Enkemand, men hans gamle Moder holdt Huus for ham, hun var en klog Kone, men stolt af sin Adel, derfor gik hun med tolv Østers paa Halen, de andre Fornemme maatte kun bære seks. — Ellers fortjente hun megen Roes, især fordi hun holdt saa meget af de smaa Havprindsesser, hendes Sønnedøttre.
直訳 その〔海の〕下の海王は多年のあいだ男やもめであったが、彼の老いた母が彼のために家を世話していた、彼女は賢い女性だったが、自分の高貴さを誇っており、それゆえに 12 個の牡蠣を尻尾につけて歩いたものだった、そのほかの高貴な〔者たち〕は 6 個だけを持たねばならなかった〔のに〕。――ほかの点では彼女は多くの称賛に値した、とりわけ彼女は小さな海姫たち、〔つまり〕彼女の孫娘たちをたいそう多く愛したから。
大畑訳 このお城に住まっている人魚の王様は、もう何年も前から、やもめ暮らしをしておいででした。それで、お年寄りのお母様が、いっさい、おうちの世話をしていました。お母様は賢いかたでしたが、家柄のよいのが、ご自慢で、尻尾にはいつも、かきを十二もつけていました。ほかの者は、どんなに身分が高くても、たった六つしかつけられないのです。――けれども、そのほかのことでは、ほんとうに、ほめてあげてよいかたでした。とりわけ、お孫さんの小さい〔海/人魚〕姫たちを、だいじにすることは、たいしたものでした。
山室訳 このお城にすまっている人魚の王さまは、もう何年もまえから、やもめぐらしをしておいででした。それで、おうちのことはばんじ、年とったおかあさまが、とりしきっていらっしゃいます。おかあさまはかしこいおかたでしたが、家がらのよいのがごじまんで、しっぽにはカキを十二もつけていらっしゃるのでした。ほかのものは、どんなに身分が高くても、たった六つしかつけることはゆるされませんでしたのに。――けれども、そのほかの点では、ほんとに、ほめてあげてよいかたでした。とりわけ、おまごさんの小さい〔海/人魚の〕姫ぎみたちを、それはかわいがってくださったのですから。
高橋訳 海の底の人魚の王様は、何年も前におきさき様をなくされて、おひとりでした。年を取ったお母様が、うちの中のめんどうを見ておりました。お母様は、かしこい方でしたが、身分の高いことを鼻にかけ、しっぽにかきを十二もつけていました。ほかの貴族たちは、六つしかつけることをゆるされませんでした。――そのほかのことでは、このお母様は〔本当に〕ほめられてよい方でした。とりわけ、孫むすめに当たる小さい人魚ひめたちを、たいそうかわいがっていたからです。
大塚訳 この海の底のお城にいる人魚の王さまは、もう何年もまえにお妃をなくして、ひとり身でした。けれど、王さまの年とったお母さまが、うちの中の世話を、ちゃんとしてくれていました。このお母さまは、かしこいかたでしたが、身分が高いというのがご自慢で、だから、自分の尻尾には、カキを十二もつけていました。ほかのものなら、位が高くても、せいぜい六つしかつけてはいけなかったのです。……けれど、そのほかのことでは、このお母さまは、たいそうほめてもらってもいいかたでした。というのも、とりわけ、このかたが、孫娘にあたる、小さい人魚姫たちを、とてもよくかわいがっていたからです。
長島訳 〔海の下の〕人魚王は、妻亡きあと、もう何年も独身でしたので、年老いた母親がかわりに家の世話をやいてくれていました。かしこいおばあさんでしたが、自分の身分の高いことが何よりも自慢で、尻尾に十二のカキをつけていました。ほかの高貴な人たちは六つしかつけてはいけないのでした。――それはともかく、孫にあたる小さな人魚姫たちをとってもかわいがっていましたので、ほめられて当然の人でした。
金原訳 〔海の下の〕王さまがお妃をなくしてから何年もたち、王さまの〔年老いた〕お母さんが〔家の〕色んなことを取り仕切っていた。そのかたはとても賢く、〔しかし〕王さまの母親だということがとても自慢で尻尾には牡蠣を十二個つけていた。どんなに位の高い人魚でも六個しかつけてはならない決まりがあったのに、それを破っていた*。しかしそれさえ目をつぶれば、誰からも尊敬される立派なかただったし、〔それというのも〕なにより、孫にあたる幼い〔海/人魚の〕姫たちをとてもかわいがっていた。
* さすがに言いすぎ。そもそもこの件、もともとあった規則なのかどうかも不詳である。私は最初に読んだときから、この王母が自分を高い位置に置くために「自分は 12、ほかは 6 まで」と勝手に新しく決めたものだとばかり思っていたので、今回この翻訳を見て既成の有職故実のように捉える解釈がありうることにまず驚いた (「ほかの貴人たち de andre Fornemme」と言っているのだからなおさらそう。はじめから王母も含む一般の規則ならこうは言わなかろう)。
天沼訳 海の底
をおさめる人魚の王様は、お妃をなくし、長いこと独身をとおしていたけれど、お年をめされた王様の母上が、宮中のきりもりをしていた。この母上は、ご聡明な方だったけれど、御自分の身分
ならそうあるべきだと思いこんで、その尾ひれに牡蠣を十二も飾りつけていた。ほかのやんごとない身分のかたでさえ六つしかつけることをゆるされていなかったのに――けれども、そのほかについては、なかなかご立派なかただった。とりわけ、孫娘の、小さい人魚姫たちのことを、とてもかわいがっていた
〔からである〕。
第 3 段落後半
De vare 6 deilige Børn, men den yngste var den smukkeste af dem allesammen, hendes Hud var saa klar og skjær som et Rosenblad, hendes Øine saa blaa, som den dybeste Sø, men ligesom alle de andre havde hun ingen Fødder, Kroppen endte i en Fiskehale.
直訳 彼女らは 6 人の美しい子どもたちだったが、最年少の〔子〕が彼女ら全員のうちでもっとも美しかった、彼女の肌はとても透きとおって柔らかなること薔薇の花びらのごとく、彼女の目はとても青いこと、もっとも深い湖〔または海〕のごとくであった、しかしちょうどほかの全員と同じように彼女には足がなかった、その体は魚の尾で終わっていた。
大畑訳 姫はみなで六人で、どれもきれいなかたばかりでしたが、わけても末の姫は、一番きれいでした。膚は、バラの花びらのように、すきとおるほどきめがこまかく、目は深い深い海のような青い色をしていました。けれども、おねえさんたちと同じく、足というものがなくて、胴の下は魚の尻尾になっているのでした。
山室訳 姫ぎみはみんなで六人で、みんなたいそうきりょうよしでしたが、わけてもすえのむすめが、いちばんきれいでした。はだは、バラの花びらのようにすきとおって、きめがこまかく、目はふかいふかい海のように青い色をしていました。けれども、やっぱりおねえさまの姫たちと同じく、足というものがなくて、胴のおわりはお魚のしっぽになっていたのです。
高橋訳 六人いた人魚ひめは、そろってきれいでしたが、なかでも、いちばん下の人魚ひめがいちばんきれいでした。はだは、ばらの花びらのようにすきとおっていて、きめが細かく、目は、〔もっとも〕深い湖のように青くすんでいました。でも、ほかの人魚ひめと同じように足がなく、体のすそは、魚のしっぽになっていました。
大塚訳 このお姫さまはみんなで六人で、そろってきれいでしたが、なかでも、いちばん下のお姫さまは、いちばんきれいでした。このお姫さまの肌は、バラの花びらのように、とても清らかで、きめが細かく、その目は、深い深い海のように青いのでした。けれど、このお姫さまも、ほかのお姉さんたちとおなじように、足はなくて、胴の下のほうは、魚の尻尾のようになっているのでした。
長島訳 いい子ばかり六人のお姫さまがいましたが、中でもいちばん年下の子が、飛び抜けてきれいでした。その子の肌はバラの花びらのように透きとおって輝き、目も〔もっとも〕深い湖のように青かったのですが、ほかの人魚* たち同様、足がなくて腿** から下が魚の尻尾になっていました。
* これは間違いと言うと細かすぎるようであるが、純粋に語学的なことを言うとこの alle de andre「ほかの全員」は文脈から 5 人の姉姫たちであって (ほかの既存訳 6 つがすべてそうしているとおり)、いきなり全人魚を指せはしないであろうから、いちおう相違点のひとつに数えた。
** 原語 krop は胴体もしくは体全体の意なので、その端というなら腿からということも不可能ではないだろうが、他訳には見られない独自意見。しかもそのわりにこの本の表紙画は腰からすべて魚の鱗に覆われている。
金原訳 王さまには* 六人の美しい娘がいたが、とくに末娘は信じられないほど愛らしく、肌はバラの花びらのようにつややかでなめらかで、目は〔もっとも深い〕深海のように青かった。しかし、お姉さんたちと同じで足はなく、腰から下は魚〔の尾〕だった。
* ここでふたたび王をもちだす理由がわからない。いま話の流れとして、寡夫の王がいて彼には老母がいて、老母にはかわいがっている孫娘たちがいる、という順番にフォーカスが移っている。この祖母は孫たちに人間の世界の話をして彼女らが海上に出かけるきっかけを作り、さらに後には末姫に人間と人魚の寿命について教える重要な登場人物であるのに対し、父王はその存在だけが言及されるのみの背景にすぎないので、原文を曲げてまでここに名前を出すことはいたずらに焦点をぼやかし流れを悪くするばかりである。
天沼訳 六人いる人魚姫は、みな美しい娘さんだった。なかでも、いちばん末の人魚姫がとくべつ美しかった。バラの花びらを思わせる、すきとおってきめの細かい肌をして、〔もっとも〕深い海のように青くすんだ瞳をしていた。けれども、ほかの人魚の姫様たちと同じで〔足がなく〕、からだの腰から下は魚の尻尾だった。
第 4 段落
Hele den lange Dag kunde de lege nede i Slottet, i de store Sale, hvor levende Blomster voxte ud af Væggene. De store Rav-Vinduer bleve lukkede op, og saa svømmede Fiskene ind til dem, ligesom hos os Svalerne flyve ind, naar vi lukke op, men Fiskene svømmede lige hen til de smaae Prindsesser, spiste af deres Haand og lode sig klappe.
直訳 一日中ずっと彼女らは遊んでいられた、〔海の〕下の宮殿のなか、その大きな広間* のなかで、そこでは生きている花々が壁から生えていた。大きな琥珀の窓が開け放たれた、そうすると魚たちがそのなかへ泳ぎ入ってきた、ちょうど私たちのところで**、私たちが〔窓を〕開け放つとツバメたちが飛んで入ってくるように、しかし魚たちはまっすぐに小さな姫たちのほうへと泳いでいった、〔そして〕彼女らの手から〔餌を〕食べ、自分たちを軽く触れさせた。
* 原文 de store Sale は複数。わざわざ区別させるのも冗長だが、さりとてたんに「大きな広間」とか、また長島訳・天沼訳のようにとりわけ「大広間」と言ってしまうと、特別大きいひとつのホールに全員が雁首そろえて遊んでいるようなイメージになる (というか、私は小さいときからずっとそうだと思っていた)。これをあえて明示的に区別しているのは「いくつもの」を付す大塚訳だけ。
** 文字どおりに「私たちの家」、もしくはより一般的に「地上」ないしは「人間の世界」を指すと解しうるか。
大畑訳 一日じゅう〔ずっと〕、みんなは海の底の〔宮殿の〕広々した部屋で遊び暮らしました。部屋の壁には、生きている花が咲いていました。大きなこはくの窓を開きますと、魚が泳いではいってきます。ちょうど〔私たちのところで〕、わたくしたちが窓をあけると、ツバメが飛んではいってくるように。魚は小さい姫たちの方へ泳いできて、みんなの手から、たべものをたべたり、また、なでてもらったりしました。
山室訳 一日じゅう〔ずっと〕姫たちは、海の底のお城の、広びろしたおへやで遊びくらしました。おへやのかべには、生きている花が咲いていますし、大きなコハクの窓をひらくと、ちょうど〔私たちのところで〕わたしたちが窓をあけるとツバメがとびこんでくるように、いろんなお魚がおよいではいってきました。そしてお魚たちは、小さい姫たちのそばへおよいでくると、その手からえさを食べたり、せなかをなでてもらったりするのでした。
高橋訳 おひめ様たちは、一日中〔ずっと〕、のんびり海の底のお城の、大きい広間で遊ぶことができました。広間のかべからは、生きた花が生えていました。大きなこはくのまどが開かれると、魚たちが泳いで入ってきました。ちょうど、わたしたちの所で、まどを開けるとつばめがとびこんでくるのと同じようです。魚たちは、小さいおひめ様たちのすぐそばに〔泳ぎ〕よってきて、その手から食べ物をもらったり、さすってもらったりしました。
大塚訳 お姫さまたちは、一日じゅう、海の底のお城の、いくつもの大きい広間で遊んでいられました。広間の壁には、生きている花たちが咲いていました。大きい琥珀の窓々をあけると、魚たちが泳いで、はいってきました。それはちょうど、わたしたちのところで、窓をあけると、ツバメが飛びこんでくるのとそっくりです。けれど、その魚たちは泳いで、まっすぐに小さいお姫さまたちのところにやってくると、みんなの手から食べものをたべたり、その手でなでてもらったりするのでした。
長島訳 お姫さまたちは一日中ずっとお城の大広間で遊んでいました。広間の壁からは生きた花が咲き出ていました。大きな琥珀の窓をあけると魚たちが泳ぎ寄ってきます。わたしたちのところで、窓をあけるとツバメが飛んで入ってくるような具合にです。けれども魚たちは、〔小さい〕お姫さまたちの〔ほうに泳ぎ寄って、その〕手のひらにのせられたエサを食べたり、やさしくたたいてもらったりしていたのでした。
金原訳 六人の娘たちは毎日遅くまで、お城の大広間や、壁から生えている揺れうごく花のあいだで遊んだりした。大きな琥珀窓は開け放たれていたから、よく魚が飛びこんできた。〔私たちのところで、私たちが窓を開けると〕つばめが開け放した窓から飛びこんでくるのにそっくり。ただ魚はつばめとちがって、〔小さい〕女の子たちのまわりに〔泳ぎ〕やってきては、手から餌をもらったり、なでてもらったりした。
天沼訳 姫様たちは、海の底にある宮殿の大広間で、一日中のんびりと遊んでいた。広間の壁からは、生きた花がはえていて、大きな琥珀でできた窓を開くと、魚たちが〔泳ぎ〕はいってきた。ちょうど、〔私たちのところで〕家の窓をあけるとツバメが飛びこんでくるのと同じようだった。魚たちは、小さい姫様たちのそばに〔泳ぎ〕きて、手から餌をもらったり、なでてもらったりした。
第 5 段落前半
Udenfor Slottet var en stor Have med ildrøde og mørkeblaae Træer, Frugterne straalede som Guld, og Blomsterne som en brændende Ild, i det de altid bevægede Stilk og Blade. Jorden selv var det fineste Sand, men blaat, som Svovl-Lue.
直訳 宮殿の外には火のように赤い〔木々〕と暗い青の木々をもつ大きな庭があった、その果実は黄金のように輝き、その花は燃える火のよう〔であった/に輝いた〕、それらはつねに幹や葉を動かしていたので。地面そのものはもっとも細かな砂であったが、硫黄の閃光のように青〔かった〕。
大畑訳 お城のそとには、大きな庭があって、〔火のように〕まっかな木や、まっさおな木が生えていて、木の実は金色に光り、花は燃える火のように輝き、たえず茎や葉をそよがせていました。地面〔そのもの〕はごくこまかい砂地で、それがゆおうの炎のような青い光をはなっていました。
山室訳 お城の外には、大きな庭があって、〔火のように〕まっかな木やまっさおな木がはえ、金色に光っている実や、もえる火のような花をつけて、〔たえず〕茎や葉をそよがせていました。地面〔そのもの〕はごくこまかい砂でしたが、それがいおう* のような青い光をはなっていました。
* ただの「いおうのような青い光」では、硫黄という化学物質そのものが青いかのように聞こえてしまうが、硫黄はまさに黄の字が示すように鮮やかな黄色である。ついでながら、いま大畑訳と山室訳で「光をはなって」を赤字にしたが、物理的には色が見えることはとりもなおさず光を反射しているにほかならないので、こんなことをうるさく言うのはある意味ナンセンスではある。
高橋訳 お城の外には、広い庭があって、もえるように赤い木や、青あおとしげった* 木がありました。その茎や葉がたえず動き、実は金のように、花はもえる火のようにかがやきました。底の土〔そのもの〕は〔もっとも〕細かい砂でしたが、いおうの炎のように青い色をしていました。
* これでは通常の植物らしい緑色に見えるが、いま「火のように真っ赤な木」と並んで海の底の不思議な植物の情景を描いているので、正しくは文字どおりの青色を指しているであろう。
大塚訳 お城の外には、大きい庭があって、火のように赤い木や、濃い青色の木が生えていました。それらの茎や葉がたえずゆれ動くのにつれて、木の実は金のようにかがやき、花々は、燃える火のようにかがやきました。そこの地面はとても細かい砂でしたが、それは硫黄の炎のように、青く光っていました。
長島訳 お城の外に、火のように赤い木や濃い青色をした木々が生えている〔広い〕庭園がありました。果物は金のように輝き、花々は茎と葉をたえず動かしていたために、燃え上がる炎のようでした。地面〔そのもの〕はこの上なくすばらしい砂地でしたが、硫黄の炎のような青色でした。
金原訳 お城の外にはきれいな〔広い〕庭がひろがり、そこには〔火のように〕まっ赤な木やまっ青な木が生えていて、その実は金色〔に輝き〕、花は燃えるような赤で、葉や茎はいつも揺れていた。庭〔そのもの〕は〔もっとも〕こまかい砂でできていたが、色は硫黄の火のような青。
天沼訳 宮殿の外は広い庭園になっていて、炎のように赤い木や藍色の木々が立っていた。その茎や葉が水の動きでゆれるたびに、その果実は黄金のように、花は燃える炎さながらに輝いたものだ。海の底の土というのは〔もっとも〕細かい砂なのだけれど、硫黄が燃えるときの炎のように青い色をはなっていた。
第 5 段落後半
Over det Hele dernede laae et forunderligt blaat Skjær, man skulde snarere troe, at man stod høit oppe i Luften og kun saae Himmel over og under sig, end at man var paa Havets Bund. I Blikstille kunde man øine Solen, den syntes en Purpur-Blomst, fra hvis Bæger det hele Lys udstrømmede.
直訳 その〔海の〕下すべての上には不思議な青い光が横たわっていて、人はむしろ思ったでしょう、自分は空の上高くに立っていて、自分の上にも下にも天を見る* ばかりであると、海の底にいる* と〔思う〕よりも。大凪〔のとき〕には太陽を目にすることができた、それは紫の花のように見えた、その萼からすべての光が流れでてきたような。
* 原文は時制の一致により過去だが、意味は同時性なので非過去で訳してある。
大畑訳 こうして、庭全体に、不思議な青い光が漂っているので、海の底にいるというよりは、上を見ても下を見ても
青々とした大空に、高く
浮かんでいるような感じでした。風のないでいる時には、お日様を仰ぐこともできました。そういう時、お日様は紫いろの花のように見え、そのうてなから、あたり一面の光がさしてくるようでした。
山室訳 こうして、庭ぜんたいの上にふしぎな青い光がただよっていましたので、まるで海の底にいるというよりは、
どちらをむいても青あおとした空高くに
うかんでいるような感じでした。風がないでいる日には、お日さまをあおぐことさえできましたが、そんなときには、お日さまはちょうど
大きなむらさき色の花のようで、そのうてなから、あたりいちめんに光がながれでてくるかのように思われるのでした。
高橋訳 そのあたり全体に、何とも言えない青い光がきらきらとただよっていました。それで、海の底にいるというより、高い空中に
うかんでいて、上にも下にも空があるのだという気がしたでしょう。風のない時は、お日様が見えました。お日様は、
まっ赤な花で、そのうてな(花のがく)から
〔すべての〕光が流れ出てい
〔るかのように見え〕ました。
大塚訳 こうして、そのあたり一面には、ふしぎな青い光がほのかにかがやきわたっていました。ですから、そこにいると、自分が海の底にいるというより、むしろ、ずっと高くの大気の中にいて、上にも下にも見えるのは空ばかりだ、と思いこんだことでしょう。風がなくて海が静かなときには、
上のお日さまも目で見られました。そのお日さまは、深い赤色をした花のようで、その花のがくから、まわりじゅうに光があふれでているように見えました。
長島訳 海の底はどこもかしこもなんとも言えない美しい青に輝いていたのです。それは海の底というよりは、空中高く
飛び上がり、上も下も青空ばかりのところに
浮かんでいるような感じでした。凪の時には太陽を目にすることができました。まるで
緋色の花
〔の萼〕から
〔すべての〕光が流れ出ているかのように見えました。
金原訳 あたり一面に不思議な青い光がかがやき、まるで
〔上にも下にも空しか見えない〕空の高みに浮かんでいるようで、
暗い海の底にいるとはとても思えない。凪の日には太陽もみえて、それは
〔その萼からすべての光が流れ出る〕光の萼
に包まれた紫の花のようだった。
天沼訳 あたり一面は、この世のものと思われぬ青い光につつまれていた。もしも、人間がここに来たとしたら、海の底にいるというより、高い空にうかんでいて、上にも下にも空があるような気がしてしまうかもしれない。風がないでいるようなときは太陽が見えた。太陽は、
ほんとうに深紅の花とでもいうべきで、その
花びらからあらゆる光が流れでているようだった。
総評
大畑訳と山室訳は、まるでどちらか一方が他方の訳文をそのまま日本語で読んで一部自分の言葉づかいと表記法に直しただけのように似通っている。たんに原文を独立に訳しただけでは決してこれほどの一致はしないであろう。ところで出典一覧では大畑訳を改訳 1963 年、山室訳を 1978 年と記したが、どちらもさらにこれ以前の訳があるようであるから、本当のところ先後関係ははっきりしない。しかもこの 2 人にはアンデルセン童話の共訳もあるらしいから、この「人魚姫」の訳もがんらい両者の共同作業ゆえにこのような類似を呈しているのかもしれない。
金原訳は総じて無意味に思われる敷衍・改変が多すぎるし、そのなかには上で詳しく注記したように有害とすら思われる部分もある。本には訳者のことばがなくデンマーク語から直接訳したのかどうかもよくわからず、本稿で比較した 7 つの訳のなかではいちばんおすすめできないものだが、この訳書の価値は訳文だけではなくアートワークにもあるのであろうから本全体としての評価は保留とする。
それ以外の邦訳はこの範囲ではさほどの欠点なくいずれも甲乙つけがたいが (とりわけ
大畑訳はその古さに鑑みれば驚くべき正確さである)、原文にもっとも忠実で過不足がないということでいえば
大塚訳がいちばんで、次点が
長島訳であろうか。ただ大塚訳はレーベルの制約からかひらがなと読点が多くいささか子ども向きにすぎるきらいはあり、文体が大人の読書に適した落ちついた筆致で読みごたえのあることでは長島訳に軍配が上がるかと感じた。