jeudi 2 août 2018

『フラテイの暗号』冒頭による重訳の影響の検証

前回のエントリでは、ここ数年のアイスランドの小説の邦訳を目につくかぎり列挙し、それらが例外なくほかの言語を介した重訳である事実に触れた。そのとき重訳であることは残念とはいえ、実際上にたいした問題が起こっていることはなかろうというようなコメントを述べた。

しかしもちろんそのような結論を責任をもって出すためには、ちゃんとアイスランド語原文とドイツ語なりスウェーデン語なりの訳文、それから最終的な日本語訳の訳文とを比較検討したうえでというのが正道である。原文を読みもしないでこういうことを言うのは無責任だ。

そこで今回はヴィクトル・アルナル・インゴウルフソン、北川和代訳『フラテイの暗号』(創元推理文庫、2013 年) を題材にとって、アイスランド語原文・ドイツ語訳・日本語訳の 3 者がどれくらい一致しているものか、あるいはどれくらい乖離しているか説明してみることにする。

対象の選択は、私が原典と一次訳 (ドイツ語訳) と邦訳との 3 点をセットで所有しているのがこの作品だけだからであって、とくに他意はない。この作品の重訳についてなんらかの結論が引きだせたとして、それはあくまでこのドイツ語訳と日本語訳の質の問題であって、ほかの 4 人の著者の作品について同じことが言えるともかぎらないのであるが、とりあえずは具体的な比較をお目にかけよう。

引用は第 1 章の最初の 3 段落である。当初は第 1 章全体 (原文で 4 ページ、日本語訳の文庫本で 6 ページ) を対象にしようと思っていたが、3 段落 (1 ページ少々) の時点ですでにけっこうな違いがあることが判明したので、これで十分おもしろい比較になるかと判断した。

読者が比べやすいよう、アイスランド語とドイツ語にはできるだけ過不足のない直訳を付した。なるべく直訳から離れないようにしたかったので、原文にないが日本語にするための最低限の敷衍は亀甲括弧〔……〕に入れて示してある。そのうえでドイツ語訳における変更点は赤字、日本語訳で新たに生じた変更点は青字にして見やすくした。変更点のうち前のものと比べて消えてしまっている箇所 (対応しうる語が明らかに足りない場合のみ) を示すさいはアンダースコア__によった。アイスランド語中の赤字はドイツ語訳で変更または消えることになる部分を表す。

なお、邦訳と関係がないので全文は掲げないが、アイスランド語原文の理解のため英訳 (Brian FitzGibbon 訳、2012 年) を一部参考にし、そのたびに注釈で言及する。


アイスランド語原文 (2002 年)

Vindátt var að austan á Breiðafirði í morgunsárið og svalur vornæðingur ýfði upp hvítfyssandi báru á sundunum milli Vestureyja. Einbeittur lundi var á hröðu lágflugi yfir öldutoppum og forvitinn skarfur teygði úr sér á lágu skeri. Nokkrar teistur köfuðu í hafdjúpið en í háloftunum svifu íbyggnir mávar og skimuðu eftir mögulegu æti. Allt sköpunarverkið í firðinum var í senn kvikt og vakandi í glampandi morgunsólinni.

Lítill en traustbyggður mótorbátur steytti stömpum á kröppum bárum og fjarlægðist Flateyjarlönd í suðurátt. Fleytan var með gömlu árabátalagi, svartbikuð, en á kinnungunum stóð bátsnafnið KRUMMI með stórum hvítum upphafsstöfum. Skipverjar voru þrír, ungur drengur, fulltíða maður og annar talsvert eldri. Þrír ættliðir og heimilismenn í Ystakoti, lítilli hjáleigu á vesturhorni Flateyjar.

Sá elsti, Jón Ferdinand, sat í skut og stýrði bátnum. Hvítir skeggbroddar í teknu andliti og svartur neftóbakstaumur rann úr víðri nös. Nokkrar gráar hárlufsur löfðu undan gamalli derhúfu og leituðu fyrir andlitið undan vindi. Stór og beinaber hönd hélt um stýrisskaftið og gömul augu undir loðnum brúnum leituðu að lítilli eyju í suðri. Siglingaleiðin var ekki augljós þrátt fyrir að skyggnið væri gott. Hólma og sker bar við meginlandið en Dalafjöllin sátu í bláu húmi þar fyrir handan.

明け方、風向きは東からブレイザフィヨルズルへ〔向けて〕で、冷涼な春風が西の島々のあいだの海峡で泡立つ波をかきまわした。決然としたニシツノメドリが、波頭の上を高速で低空飛行していて、物見高い鵜が低い岩礁の上で〔=羽または首。注 1〕を伸ばしていた。数羽のハジロウミバトが海の深みへ潜る一方、その高空では賢しらなカモメたちが浮かび〔注 2〕、獲物たりうるものを求めて見張っていた。フィヨルドにいるすべての被造物が、きらきら光る朝日のなかで同時に生き生きとしてかつ活発であった。

小さいが頑丈に作られたモーターボートが狭い波間で樽にぶつかり〔注 3〕、フラテイの陸地から南に遠ざかっていった。その小舟は古い手漕ぎ舟の形〔?。注 4〕を備えており、黒くタールで塗られていたが、船首には大きく白い大文字で „KRUMMI“ (大ガラス) という船の名前があった。乗組員は三人、年若い少年と、成人した男性、そしてもうひとりずっと年長の〔男〕であった。三世代の、フラテイの西端にある小さな貸家「最果て小屋」に〔住む〕一家の男たち〔である〕。

その最年長〔の男〕ヨウン・フェルディナンドは、船尾に座って船を操っていた。とられた〔??。注 5〕顔には白いひげでざらざら、黒い嗅ぎタバコの taumur〔注 6〕が広がった鼻の穴から流れでていた。数房の灰色の髪束が古い帽子からだらりと垂れ下がり、風のもとで顔のまえを探っていた〔注 7〕。大きくて骨と皮ばかりの手が舵の取っ手をつかみ、毛深い眉の下の老いた両目は南にある小さな島を探していた。路は明らかではなかった、たとえ視程がよかったとしても。小島や岩礁を本土のそばに抱えた一方、ダーリルの山々がその向こうがわで青い薄明のなかに鎮座していた。

〔注 1〕原文では再帰代名詞なので体のどの部分とは言っていない。現実の生態としてウミウは休むとき羽を広げることがあるそうだが、forvitinn「物見高い、好奇心の強い」という形容詞からすればここは首を伸ばしていると考えるほうがそれらしいのではないか (あるいは少なくとも首をも含めた体全体)。しかし下記のとおりドイツ語訳ではその形容詞が失われ、伸ばす箇所が「翼」と限定されている。

〔注 2〕svifu 過 3 複 < svífa「漂い [ふわふわ] 動く、浮かぶ」という動詞が、独訳では kreisen「旋回する」というはっきりした軌跡をもった動きに変わることになる。

〔注 3〕この箇所、独訳はおろか英訳 (‘tackled the choppy waves’) にもまるで対応しないので私の誤訳の可能性大。steytti は steyta「衝突する」の過去 3 単、stömpum は stampur「桶、たらい;樽」の複数与格だと思うのだが……。

〔注 4〕árabátalagi の語義は調べがつかなかった。どうやら árabátur という種類の小舟があって (アイスランド語版 Wikipedia に写真もある)、その lag がどうたらということだが (lagi はその与格)、これが「層;形;順番」などなど多義語でよくわからない。下に見るとおりドイツ語訳ではこの前後をかなり敷衍して訳している。英訳もこの箇所は比較的自由に訳しており、‘a converted old rowboat’ と古い漕船を改装してモーターボートにしたものと解されている。

〔注 5〕teknu は強変化ならば tekinn の中性単数与格でしかありえず、それは動詞 taka「とる、つかむ、得る」の過去分詞である。独訳では「皺の刻まれた zerfurchten」となるが、tekinn にそのような意味があるのか当方では根拠が得られなかった。「つかまれた=くちゃくちゃになった」? 参考までに英訳 ‘his hollow face’ =「落ちくぼんだ、うつろな」。

〔注 6〕taumur は「馬勒、手綱」の意だが、それではどうも話が通らない。もしかして嗅ぎタバコの粉で色が染みついて鼻輪かなにかのようになっている様子かとも想像するが飛躍しすぎか。後述するようにドイツ語訳では Striemen「ミミズ腫れ」、日本語訳では「ヤニが混じる鼻汁」になる。なお英訳ではこの複合語の第 2 要素にあたる部分が消え、単純に嗅ぎタバコ (の粉末) が鼻から漏れていることになっている。

〔注 7〕これもどうやら怪しいが、次の文にも出る leituðu は leita の過 3 複で、アイスランド語のアイスランド語辞典で確認してもこの動詞には「探す」とそれに類する意味しか見あたらない。英訳 ‘groping for his face’「手探りする、まさぐる」はこれに味方している。他方「顔のまえを」というのもあやふやで、これだけでは髪束が顔面をまさぐっているのか、それとも背中からの風で目のまえの空中を暴れているのか 2 通りに読める。しかし第 1 段落に東からの風とあり、フラテイから目的地ケーティルセイへは南東方向なので、向かい風で顔にあたる前者のほうが蓋然性が高いであろう。そのためもあってか独訳・邦訳の描写ではそちらに固定される。


ドイツ語訳 (Coletta Bürling 訳、2005 年)

Ein scharfer Ostwind blies in der Morgenfrühe über die weite Bucht des Breiðafjörður und wühlte das Meer zwischen den westlichsten Inseln zu weiß schäumenden Kämmen auf. Ein Papageitaucher flog konzentriert in schnellem Tiefflug dicht über der Wasseroberfläche dahin, und ein Kormoran breitete auf einer flachen Klippe die Flügel aus. Einige Gryllteisten tauchten in die Tiefen des Meeres ab, während hoch oben Möwen kreisten und nach möglicher Beute Ausschau hielten. Die gesamte Tierwelt des Fjords tummelte sich in der strahlenden Morgensonne.

Ein kleines, aber stabiles Motorboot hatte von der Insel Flatey abgelegt, Kurs in südliche Richtung aufgenommen und schlingerte jetzt auf den eiligen Wellen. Es war gebaut wie die alten Ruderboote, mit denen man in früheren Zeiten zum Fang ausgefahren war. Am Bug des schwarz geteerten Fahrzeugs stand der Name RABE mit einem großen weißen Anfangsbuchstaben. Drei Menschen befanden sich in dem Boot, ein kleiner Junge, ein Mann mittleren Alters und einer, der sichtlich älter war. Drei Generationen, die alle in Endenkate zu Hause waren, einem kleinen Hof am westlichen Ende von Flatey.

Der Älteste hieß Jón Ferdinand. Er saß im Heck und steuerte das Boot. Weiße Bartstoppeln standen in einem zerfurchten Antlitz, und aus den weiten Nasenlöchern rannen schwarze Schnupftabaksstriemen. Die grauen Haarbüschel, die unter der alten Schiffermütze hervorguckten, wehten ihm ins Gesicht. Seine große knochige Hand hielt die Ruderpinne mit festem Griff, und die alten Augen hielten unter buschigen Brauen Ausschau nach einer kleinen Insel im Süden. Es war nicht einfach, den richtigen Kurs zu halten, auch wenn die Sicht gut war. Die vielen Inseln und Schären hoben sich gegen das Festland ab, und jenseits von ihnen lagen die Berge von Dalir in blauem Dunst.

早朝、激しい東風がブレイザフィヨルズルの広い湾の上を吹き渡り、西の島々のあいだのを泡立つ波頭を立ててかきまわした。ニシツノメドリが集中して水面のすぐ上を高速で低空飛行していて、____鵜が低い岩礁の上でを広げていた。数羽のハジロウミバトが海の深みへ潜るかたわら、上空では____カモメたちが旋回し、獲物たりうるものを求めて見張っていた。フィヨルドのすべての動物界が、輝く朝日のなかではしゃぎまわっていた。

小さいが頑丈なモーターボートがフラテイ〔注 1〕から離れて針路を南の方角にとり、いまや速い波の上で横揺れしていた。それは以前の時代に漁に使われていた古い漕船のような作りだった。黒くタールで塗られた船体の舳先には、大きく白い大文字で RABE という__名前があった。三人の男が小舟には乗っていた、小さな男の子、中年の男〔注 2〕、そして見るからに年配の者であった。みなフラテイの西端の小さな農家、「最果て小屋」に住んでいる三世代〔である〕。

最年長〔の男〕はヨウン・フェルディナンドという名前だった。彼は船尾に座りボートを操っていた。白い無精髭が皺の刻まれた顔にあり、広い鼻の穴〔注 3〕からは黒い嗅ぎタバコの Striemen〔注 4〕が流れでていた。古い船乗り帽の下から覗いた___灰色の髪束が彼の顔に吹きつけていた。彼の〔注 5〕大きくて骨ばった手はしっかりした握りで舵柄をつかみ、老いた両目は毛深い眉の下で、南にある小さな島を求めて見張っていた。__正しい針路を保つこと容易ではなかった、視界がよかったとしても。本土の向かいには多数の島々と岩礁〔注 6〕が浮かびあがっており、それらの向こうがわにはダーリルの山々が青い〔注 7〕のなかに横たわっていた。

〔注 1〕Flatey の ey がアイスランド語で「島」の意味なので、「フラテイ島 Insel Flatey」はちょうど「サハラ砂漠」にも似た重言である。もっともサハラもそうだがなじみのない言語の固有名詞ではこういう配慮はよくあるので、べつだん誤訳とは言えないだろう。なぜか次の Flatey では「島 Insel」を付していないが、日本語訳ではそちらも「フラテイ島」になる。

〔注 2〕「成人、大人」(fulltíða, ドイツ語で言えば erwachsen) と「中年」とでは言葉の与える印象がだいぶ変わってくる。べつに事実として彼は中年であるのかもしれないが。英訳では ‘a grown man’ で直訳。

〔注 3〕原文 víðri nös は単数与格であるのに、独訳では den weiten Nasenlöchern と複数 3 格になっている。この結果次に見る日本語訳でも「鼻の穴の両方」と変わる。

〔注 4〕この語、どう調べても「ミミズ腫れ」という語義しか見あたらないのだが、どうして日本語訳は「ヤニが混じる鼻汁」にできるのだろうか。たしかにそう考えると前後が自然に流れるとは思うが……。私は嗅ぎタバコの実物を見たこともないので、鼻水が黒くなるものなのかどうか知らない。

〔注 5〕一般論として、ドイツ語や英語・フランス語などが所有形容詞 (所有代名詞) を使って言うところを、北欧語では文脈から明らかならばわざわざ所有詞を添えずに名詞の既知形 (定形) だけでもって代えることが多いが、この箇所ではアイスランド語原文は未知形であるにもかかわらず独訳が所有形容詞を独自に補ったところが指摘される。

〔注 6〕アイスランド語原文で「小島と岩礁 hólma og sker」は、対格でいずれも単数と複数とが同形であり、対格目的語のため文の動詞の形でも区別がつかない。もちろん文脈から言えば複数だろう。ドイツ語訳ではこれを主語に据えかえたうえ、原文にない「多数の vielen」の語を補っている。日本語訳ではこれがさらに「無数の」と誇張される。

〔注 7〕原文では「薄明、薄暗がり húm」だったのが独訳で「靄、霞 Dunst」に変わり、これが邦訳に受けつがれる。なお英訳では ‘dusk’。原語の húm は夜明けと日暮れ両方の意味がある薄明るさのようだが、いまは早朝とはっきりしているので dusk は変ではないか?


日本語訳 (北川和代訳、2013 年)

早朝、西に大きく開けたブレイザフィヨルズル強烈な東風が吹き渡り、無数に点在する___島々のあいだの海に白い波を立たせていた。パフィンという愛称で知られる、ピエロのように滑稽な顔をした〔注 1〕ニシツノメドリが____、水面ぎりぎりを猛烈な速さで飛び去り、____ウミウが低い岩壁で漆黒のを広げている。ハジロウミバトが数羽、海中深くをめざして潜水するその上空では、____カモメが一羽〔注 2〕、旋回して獲物____に目を光らせている。フィヨルドに棲むありとあらゆる種類の生き物は、輝く朝日を浴びて大はしゃぎしていた。

一艘の頑丈そうな〔注 3〕小型モーターボートがフラテイを離れ、波にもまれて南に進路をとっていたその昔、人々が漁に使った旧式のゴムボート〔注 4〕に似た小型艇だ。タールを塗った黒いボートの舳先には、大きな白い_文字で〝カラス号〟と船名〔注 5〕が書かれている。ボートには男が三人乗っていた。少年と中年男性、そして見るからに年老いた男の三人だ。フラテイの西端の、〝最果て小屋〟と呼ばれるみすぼらしい家に暮らす三世代の男たちだった。

祖父の名をヨウン・フェルティナントという。そのヨウン老人艫に座ってボートを操縦していた。皺が刻まれた顔に白い無精髭を生やし、大きな鼻の穴の両方から、嗅ぎ煙草のヤニが混じる黒い鼻汁が流れだしている。__船乗り帽からはみだした灰色の髪束が風に吹かれ、顔を打っていた。ごつい〔注 6〕手で舵をしかと摑み、濃い眉の下の老いた瞳で南に浮かぶ小島を見すえている〔注 7〕。たとえ視界が良好でも、__針路真っ直ぐに保つこと容易ではなかった。陸地を背景にして無数の〔注 8〕島々や岩礁が際立っている。その遙か向こうには、立ちこめる青白いの中にダーリル地方の山々が横たわっていた。

〔注 1〕ニシツノメドリに関する長い追加説明はすべて日本語訳者の挿入。私じしんもそうだがニシツノメドリと聞いてピンとこない人のための補足であって、これじたいは目くじらを立てるには及ばない。次のウミウに関する「漆黒の」と、冒頭の「西に大きく開けた」も同様。そもそも本稿では重訳に伴うトラブルを検証しているので、ドイツ語文になく日本語訳がまったく新たに導入している変更はかならずしも問題視するものではない。それは日本語の翻訳作品としての翻訳家ひとりひとりの方針の問題である。

〔注 2〕アイスランド語・ドイツ語ともに「カモメ mávar, Möwen」は複数 (もちろん英訳 seagulls も)。日本語でどうしても 1 羽に変えたい理由は考えられないし、ケアレスミスではないか。

〔注 3〕なぜか主観的な推測のように言われているが、大元のアイスランド語 traustbyggður は英語に直訳すれば trustfully-built、そのような造りであることは事実として描写されていると思われる。そこからドイツ語の stabil というあっさりした形容を経て「頑丈そう」に変わることはまさに伝言ゲームの弊害といえる。

〔注 4〕原文にもドイツ語にもゴム製とは書いていないし、アイスランド語原文の注 4 にリンクを載せた árabátur の写真を見ても、「ゴムボート」という言葉から想像されるものとはだいぶ違っている。ただしもし前時代 (本文の時代設定が 1960 年なので、それよりさらに数十年まえか) に当地の漁でゴムボートを使っていたという事実があってこう訳されたのだとしたらすみません (もっとも「前時代 in früheren Zeiten」前後の語句がまるっきりドイツ語訳の挿入なので、こういう難しさが生じることじたい重訳のせいである)。

〔注 5〕アイスランド語にあったのにドイツ語訳では消え、日本語訳では偶然にも復活している「船」の字。

〔注 6〕「ごつい」という俗語はたしかに「大きい」と「骨ばった」の両方を一言で表現できているように見える。しかしここの原文は „stór og beinaber“ で、beinaber という語は Boots, Íslenzk-Frönsk orðabók だと « étique, qui n’a que la peau et les os »「皮と骨しかない、がりがりにやせた」と説明されている。この老人の手は大きいが年相応にやせ衰えた感じなのだろう。それがドイツ語訳の „große knochige“ になった時点でいくぶんか変容し、「ごつい」になるに及んで力強く頑健な印象に変わっている。

〔注 7〕アイスランド語では明らかにまだあっさりと「探していた leituðu」だったのに (なお英訳も ‘searched for’)、ドイツ語訳で「〜の出現を (期待して) 見張っていた hielten [...] Ausschau nach ...」と若干前のめりになった。それが日本語訳では「見すえている」と、すでに視野に捉えている感じである。フラテイからケーティルセイまでは直線で 20 km くらいのようだが、この時点で見えているものかどうか私にはわからない。しかし次の文で richtig「正しく」を即「真っ直ぐに」と言うのはこの間近に見えていることを前提とした訳かもしれない。

〔注 8〕すでに独訳のところで述べたように、アイスランド語になくドイツ語で追加された「多数」が「無数」へと強調される。次の文の「遙か」とあわせ、いずれも日本語訳で加わった誇張。

さて注 5 のようなまれな例外を除けば、2 度の訳のたびにいくつもの変更点が加わり蓄積することで、重訳では赤字青字をあわせれば原文と比べて少なからぬ割合の変化を被っていることがわかる。これを重大と考えるかどうかは人によるだろう。

本作の場合、意味に関わる変化では独 → 日よりも、そのまえの氷 → 独における削除のほうがとくにひっかかるように私個人としては感じる。なんのことはない情景描写とはいえ、このように細部の性格が省略されてしまうのでは今後どうなるかわかったものではない。重訳を行う場合、どの翻訳をもとにするかは最終的な出来にとって一大決定になるということである。

人間の業である以上どんな翻訳にも不行き届きはいくつもあるはずであり、訳を重ねるほどその数も質の重大さも累積していくことは当然のことである (たとえば単数・複数の取り違えというつまらないミスをとっても、この短い範囲に氷 → 独と独 → 日で 1 度ずつ生じ、結果として間違いは 2 つになっている。それ以外の質的な違いについては上記の注を細かく読まれたい)。そうである以上、もしアイスランド語に十分に習熟した翻訳者がいるのであれば直接訳が望ましいことは言うまでもない。

Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire