jeudi 10 janvier 2019

思考の飛躍――森博嗣『風は青海を渡るのか?』感想

森博嗣の W シリーズ第 3 作『風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake?』(講談社、2016 年) を読了した。今回の感想は内容に事細かに触れるためネタバレを辞さないのでご注意。比較の都合上、『女王の百年密室』のネタバレも扱ってしまう。その他いくつかの作品にも触れるが、これらはネタバレというほどでもない範囲の情報だと判断される。


どうやら世間ではよく前巻『魔法の色を知っているか? What Color is the Magic?』について「つなぎのための巻」と評されているのを目にするが、私見では本巻のほうがはるかにその印象が強かった。一方で過去作、主に百年シリーズへのほのめかしの非常に豊富な巻でもあり、総じてファンサービスが充実していると感じた。

今回起きた事件らしい事件といえば、HIX の研究所に赴いた帰りのトンネル外とフフシルの村で遭遇した 2 度の襲撃がそれにあたるが、前者は犯人すら不明のままだし、後者の件とあわせてチベット警察への不信が高まったというだけで、なぜ警察がそんなことをしたのか、黒幕は誰なのかなどの内実はなにも明かされない。その襲撃の規模あるいはサスペンスとしてのスリルでいっても、前巻の大々的な武装蜂起と、「魔法の色」で九死に一生を得た場面に比べれば格段に見劣りすると言わざるをえない。

もちろん、イベントといえるものがなかったわけではない。ナクチュの「聖地」で発見された冷凍死体の見分が実施されたこと、識別に役立つ低年齢のデータを多数得られたこと、HIX の保有する「天文台」で巨大な頭像のコンピュータと邂逅したこと、タナカと知己を得て前巻のクーデターの原因について真相がいくぶん判明したことと、人間とウォーカロンのあいだに子どもが生まれるという実例に出会ったこと、そしてなによりハギリが十年に一度と自認する会心のアイデアを得たことである。しかしこれらはどれも起承転結でいえば承〜転にあたる事柄で、そこからどうなるかという結は続刊に持ちこされる。

これらの合間合間に、ファンサービス的な過去作への言及が散りばめられる。第一に保管された多数の冷凍死体というのが『女王の百年密室』で言われた「眠った」人々であるし、そのなかに含まれる 10 代の少年の絞殺体 (153 頁) というのはジュラ・スホのことに違いない。ナクチュが『百年密室』の舞台ルナティック・シティそのものであるがゆえに、同作への暗示は数多い。何度も言われた「目にすれば失い、口にすれば果てる」(初出 46 頁) という言葉も、区長 (=女王) の家系が世襲制 (44 頁) であってその家名がスホであること (162 頁) もそうだ。塔内で発見された居住空間 (154 頁) は女王が暮らしていたあの場所であり、そこに神様が飛行機で出入りする、しかも騒音がしてしまうのに誰も認識しない (151 頁) という話は、マイカ・ジュクが実際に行ったトリックであった。砂の曼荼羅 (124 頁) といえば『迷宮百年の睡魔』のモン・ロゼでクラウド・ライツが描いていたものである (新潮文庫版 54 頁以下、「曼荼羅」という名前を知るのは 126 頁)。

より古い起源に遡るものとして、カンマパのミドルネーム「デボラ」はご存知『すべてが F になる』(文庫版 87 頁) に登場した音声認識機能をもつ真賀田研究所のシステムの名前だし、スーパ・コンピュータの発する「私はどこから来たのか、私は何者か。私はどこへ行くのか?」(249 頁) という言葉は『有限と微小のパン』で聞いたセリフ「どこから来た? 私は誰? どこへ行く?」(文庫版 825 頁) のリフレイン。いずれも明瞭に真賀田四季その人を連想させる。最後の一行、タナカの娘の名前 (261 頁) は論じるまでもない。

現象面で目に見えた派手な動きには乏しかったが、ハギリの頭のなかでは甚大な激動が起こった巻でもあった。このシーン (222 頁以下) こそ本作の白眉であるといって過言ではなかろう。ずっと以前から森作品ではクライマックスの場面で短く一文一文を寸断して改行するということが行われるのが常だから、実際このシーンは本巻の頂点として意図されている。

この感動のためにこの 1 冊の、あるいはこれまでの 3 冊の価値はあった、と言ってもいいと私は思っている。新たな発想を胚胎する (言うまでもなく着想・構想と妊娠・懐胎とは同じ言葉 conception である)、そのハギリの「没頭」を追体験するこの数ページの読書経験は、『喜嶋先生の静かな世界』読後に得たあの感慨にも似て、彼らのような修道的とも呼べる純粋な研究生活への憧憬を喚起し、無性に学問に触れたくなる静かだが熱い想いを胸のうちに生じさせる。

人間とウォーカロンのあいだにはたしかに差異があるのに識別しきれないこと、ウォーカロンの思考は整然として合理的、緻密で遊びがないのに対し、「人間の思考の方がランダムで、他回路へ跳びやすい」こと、ウォーカロンに起こっている異変は危険性ではなく気まぐれと呼ぶべきものであること……。ハギリが今回理解した、識別システムの検知しているものとは、ウォーカロンが人間になろうとしている変異であって、だからこそいつまでも識別精度が上がらないのであった。

密接に関連するが見かけのまったく異なる 2 つの命題のあいだで、A ではなく B だ、と気づいたとき、発想の転換、と言われる。そう思うのは、まず A だろうという先入見が前提に横たわっているからである。最初から B だと考えていれば、それは転換でもなんでもない。A から B への移行が行われるとき、変わったのは世界のほうではなく、認識主体の物の見かたにすぎない。

真賀田博士は、最初から答えのほうを知っていた。彼女は早くも『すべてが F になる』の時点、すなわち 1994 年の時点で、西之園萌絵に対しこう語っている:「それが、人間の思考の切れ味というものなの。貴女、今、急にそれを思いついたでしょう? 素晴らしいわ……。それが機械にはできません。私が誰かなんて質問、人工知能には、思いもつきませんものね」(文庫版 14 頁)。突飛な発想、飛躍する思考をもつこと、それが人間にあって人工知能のできない思考法であるとされる。それから 200 年も後に、四季はハギリにこれを気づかせるために彼を導いていたのだ。

道を用意されていたとはいえ、その飛躍を実際に遂行しえたのはハギリの独力によるものというべきだろう。前巻の感想 (前々巻を話題に含む) で私は「天才の条件」と呼びうるものについて論じたが、そこで契機となった斬新な発想とは、前々巻『彼女は一人で歩くのか?』ではアリチから教えられたもの、前巻『魔法の色を知っているか?』ではヴォッシュの語った告白であり、いずれも外部から与えられたものであった。今回もまた、核心を見抜く発想を得た瞬間にこれで正しいと確信している点ではこれまでと同じだが、今回の件で彼はみずからの独創性・発想力を読者に証明したと言えよう。

彼の名誉のため言い添えておくが、この一事をもってハギリの「成長」などと誤解することは戒められねばならない。もとより以前から彼は第一線の研究者だったのであって、識別の理論の確立とシステム開発をはじめとして創造的な能力を有していたのである。今回の着想を彼が「十年に一度」のアイデアと称したことは、裏を返せばそれが十年ごとに行ってきた程度のものだという意味でもある (ハギリの年齢は 80 代)。


本巻『風は青海を渡るのか?』の表紙画にある英文の翻刻と本文におけるその対応箇所は次のとおり (後者は字が小さくて判読困難)。
“Do you think you are bold?”
“No, I don’t.”
“Eh? Is it so? Hum... Then, you think you are a coward?”
“No, I don’t.”
「自分が勇敢だと思っている?」
「いいえ」
「え、そうなの? ふうん……、じゃあ、臆病だと思っている?」
「いいえ」(39 頁)
Actually, I have picked up such shiners many times.
That is why, I can not but believe that I will meet (?) something greater in future (?).
It is no exaggeration to say that this is the faith of researchers.
 現に何度も、そんな光り物を僕は拾ってきた。だからこそ、きっとまた、もっと凄いものを拾うことになる、と信じてしまう。これが、研究者の信仰だといっても過言ではない。(10 頁)

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