vendredi 4 janvier 2019

天才の証明――森博嗣『魔法の色を知っているか?』感想

本の感想のたぐいはふだん読書メータに手短に書く習慣にしているので、こうしてブログにまとまったものをという試みは今回がはじめてである。その最初の挑戦が森博嗣『魔法の色を知っているか? What Color is the Magic?』(講談社、2016 年)、すなわち W シリーズの「第 2 巻」というのはなんとも中途半端な話だが、適宜第 1 巻『彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone?』およびその他の森作品にも論及することをもってエクスキューズとしたい。

なお、各作品の事件そのものや重大な核心には触れないが、会話の引用を行う以上少しはネタバレとなる可能性があるので注意されたい。また、特定の作品に真賀田四季が登場するという言及じたいネタバレであるとも言える。


さて W シリーズといえばついこのあいだ (2018 年 10 月) 最終巻が出て完結したもので、これまでに出ている、少なくとも S&M や V シリーズから連なる世界設定を共有する森作品のなかでは、もっとも未来の時間に属するシリーズである (ただし、今年 6 月から同じ講談社タイガで刊行の始まるという新シリーズは、W の続きのさらなる未来かもしれない)。

あらためて指摘するまでもないことだが、これら一連の作品は真賀田四季という人類史上の大天才のサガとでも呼んでよいものだろう。あるいは「真賀田神話」と言ってもいいかもしれない。なにせ彼女はしばしば作中人物たちから神として崇められているのだから、言葉の本来の意味で神話と称して間違いではない。そして G シリーズでは直接姿を現すことをほとんどしてこなかった彼女だが、この W シリーズでは 2 作連続で主人公ハギリと面と向かって会い話をしている。

本作で真賀田四季は、科学史上の大人物たちとともに「ガリレィ、ニュートン、アインシュタイン、そしてマガタ」と並び称される箇所がある (156 頁)。もっとも余談ながら注文をつけるとすれば、私じしんはこの人選にはぜんぜん納得がいっていない。たしかにここに名前の挙げられている 3 人は、余人には発想できない斬新で時代を画する新説を唱え、大きく学問 (なかんずく物理学) を前進させた。しかし森作品における真賀田博士はそれどころの人物ではないのだ。彼女という「神」に比べれば、これらの歴史上の偉人たちでさえ何ほどのものであろうか。

真賀田四季の「覇業」の特徴は、ただに時代に先駆ける革新性ばかりでなく、むしろ手がける領域の広大さにこそある。それこそニュートンくらいまでの時代ならいざ知らず、学問の専門化が極まる 20 世紀後半以降の時代に、数々の領域を横断してどの分野でも大きな業績を挙げるなど人間業ではない。だがどうしても 3 人の名前を並べるとしたら、私であれば「アリストテレス、ライプニッツ、フォン・ノイマン、そしてマガタ」と言いたい。あまりにも多くの学問に関与し貢献したその影響力の広さと、そのなかでもとりわけ論理学から計算機の歴史に至る一定の分野 (真賀田四季の出発点は計算機科学であった) への寄与とによって、彼女と特徴を共有していると思われるからである。

いずれにせよ、森ワールドのなかで大文字定冠詞つきの天才 the Genius がいるとしたら真賀田四季をおいてほかにない。だが彼女の存在があまりに大きいがために霞んでしまうものの、小文字で複数形の天才 geniuses はたくさんいる。一連の作品の探偵役たちは全員そうであったろうし、なんならそれ以外にも森ミステリィの作品にはかならずなんらかの優れた頭脳がいると言っても過言ではない。とりわけ、真賀田四季その人の口からはっきり「天才」との称号を頂戴した犀川創平 (『有限と微小のパン』文庫版 825 頁) と島田文子 (『χ の悲劇』ノベルス版 282 頁) に関しては疑うべくもない。

W シリーズの主人公ハギリ・ソーイもとくに顕著な天才の 1 人である。たんに主人公で事件の解決役だからというばかりではなく、また真賀田博士に手ずから認められているからというのでもなく、はっきりと彼が天才であることを証明する描写があるのである。私ははじめ第 1 巻を読んでいたときにはこのことに気づかなかった。

もちろんハギリはウォーカロンの識別問題に関して最先端を行く研究者であるから、その意味では最初から世界一の学者だとはっきりしていたのであるが、どうも間の抜けたところがあるというか、飄々としたどこかコミカルな人物で、彼の頭脳に関してことさらに手放しで称揚されることがなかったので意識できなかったのである。私が最初に明確にそうと理解したのは、第 2 巻の次のようなヴォッシュのセリフが契機であった:
〔前半略〕新仮説は、あまりにも複雑で、直観的に正しさを感じられるのは、我々のようなマニアックな科学者だけだ。一般人には、まだ証明されていない得体の知れないただの新説にすぎない。普通の頭脳というものは、なかなか新しい発想を受け入れないものだ」(『魔法の色を知っているか?』193 頁)
ヴォッシュ博士は「マニアックな科学者」と謙遜しているが、これをそのまま「天才」と読みかえることができる。既存の常識にかかわらず、ある正しい説を聞いたり自分で思いついたりした瞬間に、これは正しいと直観してしまう、つまり腑に落ちたと認識し、答えが正答であると悟ってしまう、これが天才の能力なのである。凡庸な頭脳にとってはちゃんと筋道立てて証明してからでないと正しいか正しくないかわからない、そういう思いつきを一足飛びに正しいと判断できてしまい、かつ実際その判断が正しい……。それはまるで、どこか人間の認識を超えた場所にある真理のデータベースにアクセスし照合する権限を有しているかのようである。プラトン的なアナムネーシスを連想しないでもない。

この「洞察」を意識しつつ振りかえってみれば、じっさいハギリはそれを幾度か行っている。本巻においては 139 頁のヴォッシュとの会話にある次のごとき反応がそうである:
「どうしてですか?」僕は促した。是非とも理由が聞きたかった。
「何故なら……、私なら、それをするからだ」ヴォッシュは言った。
 その言葉に、僕は背筋が寒くなった。
 圧倒的な説得力を感じ、受け止めるのが精一杯だった。〔以下略〕
また、第 1 巻『彼女は一人で歩くのか?』56–57 頁において、アリチから例の話を聞かされたときの次の反応もそうであった。まず正しいということが完全に理解されてしまい、それから後づけで根拠を確認しようとしている:
「被害者? え、えっと……、それは、どういうことですか……」しかし、そこで思考が巡った。湯の中に躰が沈みそうだった。「あ……、あの、え?」
 熱い湯の中に躰があるのに、一瞬寒気がするほど震え上がった。
「え、まさか……」そう言って、アリチの顔を見る。
「今の説明だけでわかったようだね?」
「いや、まさか……」
〔核心のため省略〕
「本当ですか?」
「どう思うね?」
「いえ、絶対に、そうだと思いました。心当たりがあります。えっと……、そうだ、そういうデータが幾つかあった。えっと……、ああ……」
「まあまあ、慌てることはない」
「駄目だ。ちょっと、頭がくらくらする」
「宇宙の物質が解明されたときも、物理学者たちは溜息をついた。それだけだ。絶対にそうだと思ったって、みんなが頷いたんだ。〔以下略〕
これはむしろ最近の森博嗣の描く天才の特徴とみなしてもよいのかもしれない。多少ぼかして言及すると、『χ の悲劇』の終盤 (ノベルス版 267 頁) で島田が「切る」に気づいたとき「全身が痺れる」体験をしたのも、これとまったく同類の現象であると言える。

たしかに真理に到達したときそのことを直観するような経験は、より卑小な問題に関してなら天才ならぬ私じしんにもある。それはせいぜい教科書の練習問題のなかの難問という程度で、きっちり証明を書ききったり計算の最終結果を得たりするまえに、「この方針でいける」ということをなぜか確信し実際そのとおりになるというような場合である。その正答に続く道の着想を得た瞬間にはすでに謎の自信がみなぎっているし、それが難しい問題であれば身震いし感動することさえある。思いついたとたん、答案を完成させるまえにわかるのである。みなさんもそういう体験をしたことがあるのではないか。

しかし、プロセスをすっ飛ばしたこのような正解の洞察を、もっとはるかに複雑で困難な問題、それも人類で誰もまだ答えを知らないような未解決の難題に対して、遂行してしまうのが天才の天才たるゆえんなのである。この記事の表題に掲げた「天才の証明」とはそういうダブルミーニングである。それは天才が実践する証明とも呼べない証明 (主語的属格) であると同時に、それじたい翻ってその人が天才であることを示す証明 (目的語的属格) なのである。

うがった見方をすれば、これは一面においてはいわゆる後期クイーン的問題に対する森博嗣の (もとより解決ではないにせよ) 対策と捉えることもできる。このように作中の天才たちが身震いとともに得る発想は、そうすることによってそれが疑いない正解の答えであることを暗示している。そのような形で獲得された答えは、彼ら天才たちの認識している情報の多寡によらず、距離を飛びこえて真理を直接に指し示しているのである。彼らがそれを真だと察知した以上、「まだ考慮されていないほかの可能性」などない。

この洞察の能力に関して、『彼女は一人で歩くのか?』のほうからもうひとつ、関連しそうな発言を引用しておく。38–39 頁にあるハギリとウグイの会話である:
「では、根拠はないということになります」
「根拠はない。そうなんだ、そこが、論理的思考の限界だ。そこが、私の研究の一つの到達点なんだ。人間は根拠によって理解や判断をするのではない。そうではなく、変化のパターンなんだ」
「意味がわかりませんが」
「わからないと思う。でも、この判断は、今のところ確かだという自信がある。〔以下略〕
つまり、ハギリは人間として、確たる根拠によらず (少なくともそうと自覚せず) 論理を超えた思考をふだんから行っているということである (じっさい、さきに引用したヴォッシュとの会話でも、根拠とすら言えない理由を聞いて確信してしまっている)。そしてそれがウォーカロンとの違いである。言うまでもなく、論理から外れていればよいというものではなく、むしろ凡人による論理的根拠のない思考は大方が間違っているだろう。正しいことを正しいと直観する能力は、天才だけに許された特権である。そうすると、ここまで述べきたった意味での天才は人間のなかからしか生まれないということになる。

さらに、同書 189 頁前後では、研究者という職業を全面的にウォーカロンに任せうるかという問題に関して、人間だけがもつとされる「インスピレーション」について議論されていることも注目に値する。もしひらめきの能力が幻想でなく人間にしか存在しないものであり、なおかつその部位が将来的にも特定できない (それゆえウォーカロンで再現できない) とすると、人間の子どもが生まれない社会は学問的に完全に停滞してしまうであろう。

その障害を真賀田四季はなんとするのか? 自分以外の小文字の天才たちを興味深く観察し、その思考をトレースして吸収してきた彼女にとってそれは由々しき事態ではないだろうか。2060 年代なかば〜70 年代とみられる『ψ の悲劇』ではまだ、四季は八田洋久の人格を必要としていた。その約 100 年後にあたる本シリーズにおける彼女はそうではなく、すでに完全な存在になってしまったのか? そんなはずはない。だからこそ彼女はハギリという若き天才と対話しているのに違いない。

最後に。S&M や四季シリーズ以来、森博嗣の示唆する人類の到達点、叡智のたどりつく最後の答えは、「神様、わかりません」「私には、わかりません」であった。四季と犀川 (『有限と微小のパン』文庫版 826–7 頁) 以来何人もの天才たちが、「わからない」という結論にひとつの終着点を求めてきた。『χ の悲劇』では島田文子が (ノベルス版 282 頁)、『ψ の悲劇』では八田洋久が (同 275 頁)、この同じ答えに至って思考を終えている。その展開が何度も繰りかえされるので私は正直食傷気味であった。

しかしどうだろう、本稿で述べてきた「天才の洞察」がそれを正しいと教えているのだとしたら? 天才は偽なる命題を誤って真と思いこむことはない。彼らがその能力でもって真と直観したことは、本当に真なのだ。そう思って顧みてみれば、この簡潔で一種浅薄にも見えていた言葉がまったくべつの相貌をもって立ち現れてくる。ただ偶然わからない、現時点では答えが見いだせない、と言っているのではない。見せかけは「私にはわからない」という 1 人称であるが、事実では 3 人称の、時間を超越した客観的真理なのである。「わからない」がイデア的な真理であるということの意味は、一見そう見えるよりもはるかに深遠であるのかもしれない。

Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire