ジメクのゲルマン神話事典 (Rudolf Simek, Lexikon der germanischen Mythologie, ³2006) の内容を翻訳紹介するシリーズ第 5 弾にして最終回。これ以上はやりすぎかと思われるので、もっと読みたいかたはぜひともリンクから Amazon に飛んで買ってほしい (ドイツ語を読める必要はある)。私の翻訳の底本は第 3 版だが、これから買う人の便宜のためリンク先は最新第 4 版 (2021) にしてある。
目次リンク:1. アールヴ/光アールヴ/闇アールヴ/黒アールヴ、2. ヴァン神族/ヴァン戦争、3. 巫女/巫女の予言/巫女の予言短編、4. ラグナロク/ラグナレクル/終末論、5. フレイヤ/マルドッル/ホルン/ゲヴン/スュール/ヴァナディース
最後に取り扱う内容は女神フレイヤの関連名を一挙紹介。同書 S. 112–14, 129, 200, 264, 404, 459 より、「フレイヤ」Freyja, 「マルドッル」Mardöll, 「ホルン」Hörn (1), 「ゲヴン」Gefn, 「スュール」Sýr, 「ヴァナディース」Vanadís の 6 項目のほぼ全訳である (項目末の参考文献と近現代の受容についてのみ省略)。なお「ホルン」Hörn には同名の女巨人を扱う (2) があるがこれは省いた。
じつはフレイヤの別名はここに挙げられている以外にもまだあり、まずは (スュールの項で触れられているスルル Thulur の同じ箇所に) スキャルヴ Skjalf とスルングヴァ Þrungva がある。前者は本書にも立項されているが、基本的にはユングリンガ・サガ 14 章におけるフィン人の王の娘と説明され、そのあとでフレイヤの一名でもあるとして関連を述べている。後者は項目そのものがない。またメングロズ Menglöð がフレイヤと同一視されることもあり、これもその項には解説されている。その他、全部はまとめきれない。
本稿を補うものとして次の論文をあげることができ、翻訳に際しても参考にした:Britt-Mari Näsström (1996), ‘Freyja—A Goddess with Many Names’, in: Sandra Billington and Miranda Green (eds.), The Concept of the Goddess, pp. 68–77。この著者にはフレイヤに関してだけで 200 頁超の成書になった Freyja: The Great Goddess of the North, 1995, ²2003 があるのだが、残念ながら私は未読である。また、フォルケ・ストレム、菅原邦城訳『古代北欧の宗教と神話』(人文書院、1982) のフレイヤの節 (186–90 頁) も参照し、とくにノルウェーとスウェーデンの地名のカナ表記はほぼこれに従った。
亀甲括弧〔・〕は通例に従って訳者の補足を表す。丸括弧 (・) は原文のもの。エッダ各編の略号は次のとおり:Vsp 巫女の予言、Grm グリームニルの言葉、Ls ロキの口論、Thrk スリュムの歌、Odd オッドルーンの嘆き、Hdl ヒュンドラの歌;Gylf ギュルヴィたぶらかし、Skáldsk 詩語法。
❀
フレイヤ (古ノルド語 Freyja「女性、貴婦人」) は、古スカンディナヴィア神話でもっとも重要な女神であり、恋人たちのための麗しい女神である。彼女はヴァン神族に属し、ニョルズとその姉妹との娘であり、フレイの妹 (にして本来は妻でもあったはず) である。エッダ神話は彼女にオズ Oðr〔またはオーズ Óðr〕という夫がいると言っており (ほかではほとんど言及されていない)、彼とのあいだにフレイヤはフノッス Hnoss とゲルシミ Gersimi〔またはゲルセミ Gersemi〕という娘たちをもうけたという (Gylf 34);この娘 2 人の名前は同義であり「貴重なもの」を意味し、したがってあくまで遅い時期の、女神〔フレイヤ〕自身の詩的流出である。
スノッリは彼女について次のように記述している (Gylf 23):「フレイヤは女神たちのうちもっとも有名である;彼女は天においてフォルクヴァング Folkvangr という名前の場所に住んでおり、戦いに赴くときには全戦死者の半分を受けとり、オーディンがもう半分をとる」(Grm 14 も同様で、スノッリはここでそれを引用している);「彼女の館はセッスルームニル Sessrúmnir という名で、それは大きく美しい。フレイヤが旅をするとき、彼女は猫たちの牽く車に座る (中略)。彼女は恋の歌を好み、恋に関わる事柄においては彼女に願うのが有益である」。
猫たちの牽く車のほかに、隼〔または鷹〕の衣 Falkengewand (フリッグと同様:Thrk 5; Skáldsk 1) とおそらく猪ヒルディスヴィーニ Hildisvíni (Hdl 7)、そしてなかんずく首飾りブリーシンガメン Brísingamen が彼女のシンボルである。
古ノルド語文学においてフレイヤはしばしば話題に出てくる;Thrk では巨人スリュム Thrymr が、フレイヤを妻に得られるならそのときに限り〔盗んで隠していた〕ミョルニルの鎚を引き渡そうと言い、Ls 30 では彼女は姦淫を咎められ、Hdl ではある女巨人と競いあい、そして Odd 9 で彼女は女神フリッグといっしょに願われる。
スノッリはフレイヤの立ち位置を、女神たちのうちでもっとも美しくもっとも重要なものとして強調している。巨人たちの企てにおいて彼女は女神たちの代表者であり、Thrk のみならず、巨人の建築家の話や巨人フルングニル Hrungnir の話においても、巨人たちにとって彼女はいつも何度でも求める価値のある女なのである。
10 世紀のスカルド詩人たちもまた、フレイヤの名を挙げることがまれではない;異教宗教における彼女の代表的な立ち位置の特徴を明らかにしているのは、スカルド詩人ヒャルティ・スケッギャソン Hjalti Skeggjason に関する逸話である。この人物は、異教とキリスト教との対立を背景とした 999 年のアルシング〔アイスランドの全島集会〕において、フレイヤの風刺詩を創作した:「われは吠えたてる神々を好かぬ/わが思うにフレイヤは雌犬なり」。そしてその代償として彼は涜神のかどで法益剥奪刑を受けた (アイスランド人の書 7)。
フレイヤはヴァン神族の出身であり、それゆえに豊穣の女神である。彼女は魔術の教師でもあり、アース神族に魔術をもたらす (ユングリンガ・サガ 4)。スノッリはこれとの関連で、ヴァン神族のもとでは兄弟姉妹間の結婚が一般に行われていることに言及する。このことからフレイとフレイヤにおいて神的な兄妹対/夫婦対を想定してかまわないであろう;フレイヤにオズという名の夫が見いだされるのは、のちになってアース神の社会においてのことである。彼はあるとき長らく不在となって、そのことでフレイヤは黄金の涙を流す (Vsp 25, Hdl 47; Gylf 35)。この話も同様に 10 世紀にはすでに周知であった。
スカルド詩においてフレイヤは多数の名前で呼ばれており、スノッリ (Gylf 34) が列挙するところではマルドッル Mardöll, ホルン Hörn, ゲヴン Gefn, スュール Sýr, さらにまたヴァナディース Vanadís が加えられる。これらの名前を通してフレイヤは、家内の守り神としての性質が際立っている;スュールという別名が指摘しているのは、フレイヤは彼女の兄フレイと同様、豚のシンボルで特徴づけられていたということである;Hdl において彼女は猪〔または豚〕ヒルディスヴィーニにも騎乗している。
同様に Hdl 10 においてフレイヤは、彼女のお気に入りであるオッタル Óttar が彼女の祭壇を築き犠牲を捧げてくれたことを自慢している。そして文献資料はこのほかにはまったくフレイヤの祭儀について知らせてくれないのではあるが、スカンディナヴィアの地名の総数は、フレイヤへの崇拝がスウェーデンとノルウェーにおいて存在していたことを示している;ノルウェーの地名としてはフレイホヴ Frøihov (*Freyjuhof「フレイヤの神殿」から)、スウェーデンの地名としてはフレーヴィ Frövi (*Freyjuvé「フレイヤの聖域」から) などが、公的な祭儀のあったことを示唆しているかもしれないが、守り神や愛の女神としてはむしろ純粋に家庭内の祭儀が期待されるところであろう。
❀
マルドッル (古ノルド語 Mardöll) とは、スノッリ (Gylf 34) が挙げている女神フレイヤの名前のひとつで、スカルド詩においては「黄金」を表すケニングのなかで何度か登場している。その名前の意味は完全に明らかではないが、おそらくマルドッルとは「海を照らす者」(ヘイムダッル Heimdallr と比較せよ)、あるいは「海を膨れあがらせる者」(þöll に比する) の意か?
〔訳注。ヘイムダッルを挙げている箇所は、「世界を照らす者」と解しうるヘイムダッルの -dallr という男性形に対して、マルドッルの -döll が対応する同じ意味の女性形である可能性があるという理屈である。〕
❀
ホルン (1) (古ノルド語 Hörn) とは、スカルド詩とスノッリ (Gylf 34) において女神フレイヤを表す名前のひとつで、その意味は完全に明らかではないが、hörr「亜麻」と関係があるかもしれない;だからといってただちに彼女が亜麻の収穫の女神とみなすべき (デ・フリースはそうしている〔『古ゲルマン宗教史』§556〕) なのではなく、むしろ亜麻の加工一般——じっさいこれは完全に女性の専門領域であった——の守り神としてみなすべきである。
スウェーデンの地名ヘーネヴィ Härnevi (またイェーネヴィ Järnevi も〔異綴ではなくそれぞれ別の地〕) < *Hörnar-vé「ホルンの聖域」がホルンの祭儀を暗示していることによって彼女は、その他若干数の北欧の、マトロンやディースと類似した女性の守護女神 (フリーン Hlín, スノトラ Snotra, ヴァール Vár などのような) とは一線を画している。
❀
ゲヴン (古ノルド語 Gefn「与える女」) とは、スノッリ (Gylf 34, Skáldsk 35) によれば女神フレイヤを表す名前のひとつで、スカルド詩にも何度か現れている。もしこれが本来独立した守護女神のことだったのでないとすると、この名前はもうひとつの別名としてフレイヤを豊かさの女神として呼称するものであろう。
❀
スュール (古ノルド語 Sýr「雌豚」) とは、女神フレイヤの別名のひとつで、早くもスカルド詩人ハッルフレズ Hallfreðr〔1007 年ころ没〕の作品において、それからスノッリ (Gylf 34) とスルル Thulur〔一種の記憶詩〕のなかに見られる。豚はどうやら祭儀と生贄の習慣においてヴァン神族と、とりわけフレイ・フレイヤ兄妹と密接に結びついているらしいことは、フレイの所有する猪グッリンボルスティ Gullinborsti も示すとおりである。
❀
ヴァナディース (古ノルド語 Vanadís「ヴァン神族のディース」)。フレイヤを表すこの名前はスノッリ (Gylf 34) にのみ見られ、ヴァン神族に数えられるべき女神を表すケニング (「ヴァンの女」) にすぎないと言ってよさそうである。とはいえディースとの関連がまったくありえないわけではない。