水谷智洋『古典ギリシア語初歩』(岩波書店、1990 年) の練習問題の解答例。このページでは第 25 課から第 28 課までを扱う。
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第 25 課 直説法中・受動相現在,直説法中動相未来,能動相欠如動詞,危惧・恐怖を表す文
練習 25
1. 時間によってすべてのことは判定される。
2. 私はつねに多くを学びながら老いていく。〔διδασκόμενος は現在中動分詞で、再帰的「自分に教える=学ぶ」。このソロンの言葉はキケロ『老年について』にも繰りかえされている。〕
3. 彼らは自分たち自身が同じことを受けはしないかと恐れた。〔πάθοιεν は πάσχω の希求法アオリスト 3 複。出典がなく詳細不明だが、田中・松平『ギリシア語入門』XLIII 課の和訳 5 にほぼ同文があり、そちらの暗示するところ「同じこと」とは彼らがある人たちを追放したことを指すのかもしれない。〕
4. なぜなら青春は速やかに夢のように君を通り越していくのだから。
5. 彼らは案内人が (彼らを) そこから出ることができなくなるようなところへ連れていくのではないかと恐れている。〔ἀγάγῃ は ἄγω の接続法アオリスト 3 単。ἔσται はここでは不定詞を伴って (不) 可能の意 (§52.4) で、ἐξελθεῖν は ἐξέρχομαι の不定法アオリスト。なぜか出典がついていないが、クセノポン『アナバシス』1.3.17 の改変だと思われる:「またキュロスのくれる案内人についてゆくのも恐ろしい、逃げ場のない場所へ連れてゆかれるかも知れぬからな」(松平千秋訳)。〕
6. 立法者は法律を作るが、民衆は法律を自分たちのために作る。
7. 異国の人よ、ラケダイモーン人たちに伝えてくれ。ここに/われらは眠る、彼らの言葉 [命令] に従いて。〔πειθόμενοι は主語「私たち」に一致した男性複数主格の現在中動分詞。〕
8. ある農夫が、その生を終えるにあたって、子どもたちが農業を経験していてほしいと思って、彼らを呼んで言った:「子どもたちよ、ぶどう畑には宝が隠されている」と。すると彼らは父の死後、鍬をとってぶどう畑の土をぜんぶ掘りかえした。そして宝は見つからなかったが、ぶどう畑のほうは、彼らがみごとに掘ったので、収穫をたくさん返した。この話が示すのは、苦労が人間にとって宝だということである。〔最初の文は 3 つの分詞を父の行動として順番に訳すとよい。父のセリフのあとの οἱ δὲ は主語の転換を示す (練習 14.10 の注)。λαβόντες は λαμβάνω の第 2 アオリスト分詞・男複主。εὗρον は εὑρίσκω の第 2 アオリスト 3 複。σκαψάντων は σκάπτω のアオリスト分詞・男複属で、ここは独立属格句になっている。ἀπέδωκεν は ἀποδίδωμι の第 2 アオリスト 3 単。ちなみに、この (ἀπ)έδωκα, -κας, -κε(ν) という形をこの本は第 2 アオリストと称しているけれども (§90)、田中・松平 (§600 ニ) は第 1 アオリストとして扱っているし、田中新 (§§293ff.) はその特例としてカッパつきアオリストと名づけている。また複数の ἔδομεν, ἔδοτε, ἔδοσαν の部分は田中新や堀川では第 3 アオリストと呼ばれる。このように一定しないのはそれだけ特殊で重要な変化だというわけで気をつける必要がある。〕
第 26 課 直説法中・受動相未完了過去,直説法中動相第 2 アオリスト,再帰代名詞,所有形容詞,配慮・努力を表す文
練習 26
1. 徳はそれ自身に従って (=それ自体で) 美しい。
2. 私はみじめに死んだ (も同然だ)。私はもう何物でもない。〔発言者はエレクトラ (δύστηνος は男女同形でありここでは女性単数主格)。父のための復讐において頼るべきただ 1 人の弟オレステスが事故死したと聞かされ嘆いているところ。〕
3. 君たちが自由にふさわしい男たちになるようによく考えたまえ。
4. アテーナイ人たちが向かっていくとシュラークーサイ人たちは退却していたが、(前者が) 退くと (後者は) 追撃したものだった。〔過去の一般的な仮定 (§124.2)。〕
5. 母は父よりもいっそうわが子を愛するものだ。なぜなら (母) は (息子が) 自分じしんの (生んだ子) であると知っているのに対して、(父) は (自分の子だろうと) 考える (しかない) からである。〔補うべき言葉が多く非常に難しい問題! 第 2 文は ἡ μὲν と ὁ δ’ で冠詞の性別から母と父が対比されている主語とわかる。文は分詞を用いた間接話法になっており、その引用内容は αὑτῆς ὄνθ’ というたった 2 語であるが、これで「息子が彼女じしんの (生んだ) ものである」ということ。ὄνθ’ は ὄντα が省音され後続の ὁ によって帯気音となっている、これが男性単数対格なので息子と確定する。したがって後半で省略されている父の考える内容は (対格主語も補えば) αὑτοῦ ὄντα τὸν παῖδα と復元できる。母にとって自分がお腹を痛めて生んだ子は間違いなく実の子だが、父にとっては決して推測以上には出ない、これを進化心理学では「父性の不確実性」と言っているのだが、その最古の定式化がこのメナンドロスであるかもしれない。〕
6. インド人たちは入ってくるとこう言った。インド人たちの王は、いったいなんの (理由) から戦争が (起こって) いるのかと尋ねるよう (自分たちに) 命じて、自分たちを派遣したのだと。〔主文の伝達動詞 ἔλεξαν がアオリストのため、引用内容の主文の動詞 πέμψειε は §127.2 に従って、また副文の動詞 εἴη は §128.2 に従って希求法とされている。ὅτου は不定関係代名詞・中性単数属格で οὗτινος の別形。〕
7. しかし彼らは、正しくかつ立派に熟慮しながら、名誉と尊敬とのために恐ろしいことごとに自身を与えることを欲していた。というのは、たとえ誰かが小部屋に自身を閉じこめて警戒していたとしても、たしかにあらゆる人間にとって生の終わりは死なのである。よき人々はつねにあらゆる立派なことごとを試みねばならぬ、またよき希望を全面に押し出して、神が与えることはなんであれ勇ましく耐えねばならぬ。
第 27 課 直説法中動相アオリスト,事実に反する仮定の条件文,過去の可能性を表す文
練習 27
1. もしあなたが若いうちに結婚していたら、あなたはすでにおじいさんになっていただろうに。〔過去の事実に反する仮定。ἔγημας は γαμέω の直説法アオリスト 2 単、ἦσθα は未完了 2 単 (εἰμί にアオリストはないので)。〕
2. どうしてその場におらず自国にとどまってもいなかった私が、君になんの害をなせるだろうか。〔παρών は πάρειμι の現在分詞。現在という時制だが、過去における現在なので日本語は「いなかった」と訳せる。ἠδίκησα は ἀδικέω のアオリスト 1 単。〕
3. 私たちは君たちのために笛を吹いたのに、君たちは踊らなかった。私たちは挽歌を歌ったのに、君たちは泣かなかった。
4. すなわち驚くことを通して人間はいまも最初も哲学することを始めたのである。〔ἤρξαντο は ἄρχω のアオリスト中動態 3 複で、中動では「始める」の意味がある。〕
5. 彼は (ティッサペルネースの讒言を) 信じて、キューロスを殺そうとして捕らえる。だが母が (キューロスの身柄を) 引き受けて彼をふたたびその領地に送りかえす。〔注のとおり練習 24.10 の続きであり、そちらと同様 πείθεται, συλλαμβάνει, ἀποπέμπει と続く現在はいずれも歴史的現在で過去の意味。πείθεται の中・受動は「従う」でもいいが、すなおに「説得されて、信じて」とも解せる。ἀποκτενῶν は目的を表す未来分詞 (§§101.6, 102) であり、ὡς は主語アルタクセルクセスの意図として「殺そうということで、殺す目的で」ということ (練習 21.5 の注を参照)。〕
6. もし人々の祈りに神が従う [聞き入れる] のであれば、すべての人間はひっきりなしに互いに対して多く困難なことを祈っているのだから、いっそう速やかに滅びるであろうに。〔κατηκολούθει と ἀπώλλυντο はいずれも直説法未完了中動態で、現在の事実に反する仮定の文。現在中動分詞 εὐχόμενοι をここでは理由として訳したが、いろいろとりようはある。〕
7. 諸法は言うかもしれない、「ソークラテースよ、私たちには大きな証拠があるのだ、私たちも国家もあなたの気に入っていたということの。なんとなれば、もし (国家すなわちアテーナイが) とくにあなたの気に入っていなかったなら、いったいあなたはほかのアテーナイ人たち全員とは異なってそれ (=国家) のうちにとどまっていなかっただろうから。」〔冒頭は可能性の希求法 (§121.2)。発言の最初の ἡμῖν ... ἐστιν は所有の表現。ここでは構文をとりやすいよう直訳を与えたが、動詞 ἀρέσκω「気に入る」の訳しかたはむしろ与格の σοι を主語「あなたが」、主格で表される気に入られるものを「〜を」としたほうが日本語として自然だろう。最後の文は ἐπεδήμεις, ἤρεσκεν ともに直説法未完了で、現在または過去の事実に反する仮定だが、前文の「気に入っていた」は明確に過去であるから、こちらも過去の仮定ととるのが道理。また条件文はどの型でも一般に前文の否定は μή, 後文の否定は οὐ ということもあわせて思い起こしたい (§116)。対応箇所は岩波文庫版 (久保訳) では 14 章 (96 頁)。〕
第 28 課 接続法中・受動相現在,接続法中動相アオリスト,ἕως, πρίν の用法
練習 28
1. もし君が欲するならばできるだろう。〔βούλῃ は βούλομαι の接現中 2 単、δυνήσῃ は δύναμαι の直未中 2 単で、実現可能な未来の仮定。〕
2. そして暗闇が生じるまで (=暗くなるまで) 彼らはそうしていた。〔松平千秋訳「そうこうしている内に、漸く夜に入った」のように、ギリシア語の語順のとおりに訳すほうができごとの順番とも一致して望ましいかもしれない。〕
3. 幸運であると思われる者を妬むな、(その人が) 死ぬのを見るまでは。〔現在能動分詞の名詞的用法 τὸν ... δοκοῦντα が目的語。θανόντ’ は θνῄσκω のアオ分・男単対、ἴδῃς は ὁράω の接アオ能 2 単。幸福かどうかは全生涯が終わってみるまで決まらないという同様の考えは、このエウリピデスのほかにもしばしば見いだされる:「人の一生は、その人が死ぬまでは、よかったか悪かったか言うことはできないのですよね」(ソポクレス『トラキニアイ』1)、「望ましい幸運に恵まれて一生を終えた者をこそ、幸福な人間と呼ぶべきであろう」(アイスキュロス『アガメムノン』928)、「人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも幸福な人と申すのは差控えねばなりません」(ヘロドトス『歴史』1.32、松平千秋訳) など。柳沼重剛編『ギリシア・ローマ名言集』31–32 頁を参照。〕
4. まことに、ふさわしい分別をもたぬ悪い人間に富が伴うときはいつだって、飽満が傲慢を生みだすものである。〔κακῷ ... ἀνθρώπῳ と ὅτῳ とは καί で結ばれているが、2 種類の人間を並べたのではなくむしろ 1 つのものを表す二詞一意 (hendiadys) のように私は理解した (べつに 2 人でも文法上なんら問題ないが、「悪い人間」を独立に立てると漠然としすぎるので、それを明確化した表現ととるほうが自然に流れると思う)。ὅτῳ は関係節内では所有の与格として働いているが、外側でも ἕπηται の目的語の与格であって先行詞 τούτῳ が省略されている。〕
5. そして私は生きていてできるかぎりのあいだ止めはすまい、知を愛することを、また諸君らを督励し、諸君らのうち私が出くわした者にはいつだって誰にでもあれ宣言することを、私が (言うのを) 習慣にしてある次のようなことを言いつづけることを:「おお人々のうちもっとも優れたる者よ、知と力とにおいてもっとも大にしてもっとも高名なる国家の、アテーナイ人たる者よ、君は金銭を、また名声と尊敬とを、それが君になるべく多くあるようにと注意していることを恥じないが、思慮と真実と魂とを、それがなるべく良くあるようにとは注意も熟慮もしないのか」。〔ἕωσπερ は ἕως に強調の前接辞 περ がついたもの。παύσωμαι 接アオ中 1 単 < παύομαι「やめる」は補語に分詞をとる (§110.1)。そのやめる内容の分詞が φιλοσοφῶν, παρακελευόμενός τε καὶ ἐνδεικνύμενος, ならびに λέγων まで続いている。不定関係代名詞 ὅτῳ の与格はべつに牽引ではなく ἐντυγχάνω が与格目的語をとるからであるが、関係節の外で ἐνδείκνῡμι の示す相手の与格 (先行詞 τούτῳ 省略) もついでに兼ねているか。セリフに入って、長い 1 文だが大枠は (1) 呼びかけ、(2) 主文の前半部 χρημάτων μὲν ..., (3) 後半部 φρονήσεως δὲ ... に分けられ、対比の μὲν ..., δὲ ... に着目することでそれぞれの直前の語が分かれ目だという骨格がわかる。ちなみに A, B, and C のように 3 つ以上を並べるときギリシア語では A καὶ B καὶ C とかならず καί を繰りかえす (もしくは 1 つも使わない)、そのことからも φρονήσεως の前で切れることは判断できるのである。これらの属格は ἐπιμελέομαι が属格目的語をとるから。前後半それぞれにおいて ὅπως と直説法未来 ἔσται で目的が示されているが、ここに主語を補うとすれば前半は χρήματα なので πλεῖστα はそれに一致した中性複数主格で動詞は単数扱い (おそらくここの性数を混乱させないために、残り 2 つの目的語 καὶ δόξης καὶ τῑμῆς を後回しにしている)、後半は φρόνησις その他の女性名詞が続くのでそのひとつひとつが βελτίστη ἔσται と言ったものか。対応箇所は岩波文庫版 (久保訳) では 17 章のなかば (43–44 頁)。〕
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