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mardi 3 septembre 2019

16 世紀ゲルマン語訳聖書を読む:ガラテア 1:1–5

ルター訳およびそれに影響を受けたとされる同時代の北ゲルマン語訳聖書を比較して読んでみる。ここでは「ガラテアの信徒への手紙」1 章 1–5 節を題材にとる。

聖書のテクストはルターが翻訳の底本としたエラスムスによる第 2 版のギリシア語聖書 (1519 年)、ルターの初訳であるいわゆる「9 月聖書」 (1522 年)、そして事実上ルター訳がその「基礎を置くことになった」(塩谷饒『ルター聖書 抜粋・訳注』大学書林、1983 年、194 頁) というデンマーク語、スウェーデン語、アイスランド語訳の順に掲げる。

すなわちデンマーク語訳は 1524 年のいわゆるクリスチャン II 世聖書、スウェーデン語訳はグスタフ・ヴァーサ聖書に利用されることになる 1526 年の新約聖書、アイスランド語訳は 1540 年のオッドゥルの聖書で、いずれもそれぞれの言語で出版された最初の聖書である。

聖書のテクストを現在のような節に分けたのは 1550 年代のロベール・エティエンヌによるギリシア語聖書からであったから、本稿で用いたテクストにはもとよりないものであるが、便宜上この区分けを採用した。

エラスムスのギリシア語刊本にあるさまざまの特殊な文字・合字については再現できないためほとんどを通常の文字に戻したが、例外として ϛ (スティグマ = στ) と ϖ (π の異体字)、また現用と異なる記号の用法 (ὀυκ や ὁι など語頭二重母音における気息記号やアクセント記号の位置、δϊά の分音符など) だけはそのままにした。

その他のラテン文字の各国語訳において、ſ (long s) および ꝛ (r rotunda) はたんなる s, r として区別せず表した。古く上つきの小さな e として書かれていた本来のウムラウトは現代式に直した (スウェーデン語のみ。ルター初版のドイツ語にはまだなく、現在の ä は e、ö, ü はたんに o, u と書かれていた)。


Gal 1:1


Gk. Erasm 1519  [Π]ΑΥΡΟΣ ἀπόϛολος, ὀυκ ἀπὸ ἀνθρώπων, ὀυδὲ δἰ ἀνθρώπου, ἀλλὰ δϊὰ Ιησοῦ Χριϛοῦ, καὶ θεοῦ ϖατρὸς, τοῦ ἐγείραντος ἀυτὸν ἐκ νεκρῶν,
De. Lut 1522  [P]Aulus ein Apostel: nicht von menschen: sondern durch Jhesum Christ vnd Got den vater / der yhn aufferweckt hatt von den todten /
Dk. ChrII 1524  [P]Øuild en apostel / icke aff mēnisken oc ey wed noget mēniske / men wed Jesum Christū / oc gud fader / som haffuer opveisd hānom aff the døde /
Sv. NT 1526  Paulus Apostel icke vthaff mennisker / ey heller genom någhon menniskio / vthan genom Jesum Christum / och gudh fadher som honom vpwäct haffuer aff dödha /
Is. Odd 1540  [P]All ein̄ Apostule / eigi af mōm [= mönnum] / nie helldr fyre man̄in̄ / helldr fyrer Jesū Kristū / ⁊ gud faudr / sa han vpp vackti af dauda /

奇妙なことに、9 月聖書では「人々からではなく」nicht von menschen の次に続くべき「人々を通してでもなく」auch nicht durch menschen が欠けており、すぐさま「イエス・キリストと……」sondern durch Jhesum Christ vnd... と続いている。エラスムスの編集したギリシア語原文では含まれているのであるから、ルターの翻訳ミスか植字工による脱字かのどちらかであろう。ルターが生前最後に手直しした版 (Ausgabe letzter Hand, 1545 年) には „auch nicht durch Menschen“ が入っているので、この間のどこかのタイミングで修正されたらしい。北欧 3 言語ではいずれも正しく含まれている。

オッドゥル訳に Pall (= Páll) の同格の称号 ein̄ (= einn) Apostule「使徒パウロ」とあるが、このように数詞 1 を不定冠詞として使う用法は中世 (古アイスランド語) から現在に至るまでアイスランド語にはない。これは明らかにルター訳 Paulus ein Apostel のドイツ語の敷き写しである。

Gal 1:2


Gk. Erasm 1519  καὶ ὁι σὺν ἐμοὶ ϖάντες ἀδελφοὶ, ταῖς ἐκκλησΐαις τῆς γαλατΐας.
De. Lut 1522  vnd alle bruder die bey myr sind. Den gemeynen ynn Galatia.
Dk. ChrII 1524  oc alle brødre som ere hoss meg. Thend men hed vti Gallatia
Sv. NT 1526  och alle brödher som när migh äro. Then forsamblinge som är j Galatia.
Is. Odd 1540  ⁊ aller þ̄r [= þeir] brædr sem medr mier eru. Sofnudunū [= Söfnuðunum] i Galatia

alle bruder にかかる関係節内の語順に注意されたい (ギリシア語では前置詞句であって関係節でないが)。ドイツ語では die bey myr sind (= die bei mir sind) のように定動詞が末尾に来る枠構造が義務的であるが、北ゲルマン語ではそのような語順をとらない。デンマーク語訳はそのとおりデンマーク語的な語順を呈しているが、スウェーデン語訳およびアイスランド語訳では定動詞 äro, eru が文末に来ているのはルター訳の影響であろう。

ほかにはデンマーク語・スウェーデン語の独立 (前置) 定冠詞 thend, then が興味を引く。デンマーク語では次の 17 世紀の文法書 (Koch) では dend とされているし、すでに 1550 年のクリスチャン III 世聖書でも den になっているので、古東ノルド語式に th の文字が使われている最後の時代と思われる。

Gal 1:3


Gk. Erasm 1519  Χάρις ὑμῖν καὶ ἐιρήνη ἀπὸ θεοῦ ϖατρὸς, καὶ κυρΐου ἡμῶν Ιησοῦ Χριϛοῦ,
De. Lut 1522  Gnade sey mit euch vnd frid von Gott dem vater / vnnd vnserm hern Jhesu Christ /
Dk. ChrII 1524  Nade ware met eder oc fryd aff gud fader wor herre Jesu Christo /
Sv. NT 1526  Nådh wari medh idher och fridh aff gudh fadher och wårom herra Jesu Christo /
Is. Odd 1540  Nad sie med ydr / ⁊ fridr af gudi faudr / ⁊ vorū Drottne Jesu Christo

内容が挨拶の定型的であることも手伝ってか、これまでの 2 節にもまして、すべての語句が順番まで一語一句ルター訳とまるきり同じである。すなわち Gnade = Nade = Nådh = Nad、希求の接続法 sey = ware = wari = sie、前置詞 mit = met = medh = med、人称代名詞 euch = eder = idher = ydr、等々。

Gal 1:4


Gk. Erasm 1519  τοῦ δόντος ἑαυτὸν ὑπὲρ τῶν ἁμαρτϊῶν ἡμῶν, ὅπως ἐξέληται ἡμᾶς ἐκ τοῦ ἐνεϛῶτος ἀιῶνος ϖονηροῦ, κατὰ τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ καὶ ϖατρὸς ἡμῶν,
De. Lut 1522  der sich fur vnser sund geben hat / das er vns erredtet von diser gegenwertigē argen welt / nach dem willen Gottis vnsers vaters /
Dk. ChrII 1524  som haffuer giffued sig selff for wor sønder / paa thet hand motte redde oss fran thenne neruerende onde werden / effter gudz wor faders willte /
Sv. NT 1526  som sigh för wåra synder giffuit haffuer / på thet han skulle vthtagha oss frå thēne näruarādes snödho werld / effter gudz och wårs fadhers wilia /
Is. Odd 1540  sem sialfan sig hefer vt gefit fyre vorar synder / þ̄ [= það] hn̄ frelsadi oss i fra þ̄ssari nalægri vōdri verolld / epter gudz vilia / ⁊ vors faudis /

2 節で見たのと同じく、デンマーク語はルター訳の語順 der ... geben hat に引きずられず、haffuer giffued (= 現 har givet) を関係節内の最初にもってきているのに対し、スウェーデン語訳では som ... giffuit haffuer でルター訳と同じである。アイスランド語訳 hefer vt gefit (= hefur útgefið) はここでは 2 節と異なりアイスランド語本来の語順といえる。

アイスランド語訳についてはもう 1 点指摘することができる。「私たちの父なる神の意志」(希 τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ καὶ ϖατρὸς ἡμῶν, 独 dem willen Gottis vnsers vaters) では「神の」と「私たちの父の」という同格の属格が「意志」の後ろに 2 つ並んでおり、デンマーク語訳とスウェーデン語訳では 2 つがいずれも「意志」willte, wilia の前に並んでいるが、アイスランド語訳 gudz vilia ⁊ (= og) vors faudis では 2 つの属格が vilia の前後に分離しており、これは古風な統語法といえる (たとえば「赤毛のエイリークのサガ」Eiríks saga rauða で saga の前後に「エイリークの」と「赤毛の」が並ぶような)。じっさい、最近のアイスランド語訳聖書 (1981 年、2007 年) ではこの箇所は vilja Guðs vors og föður と後ろにまとめられている。

ギリシア語本文につき 1 点注意すると、τοῦ ἐνεϛῶτος ἀιῶνος は NA28 では τοῦ αἰῶνος τοῦ ἐνεστῶτος だが、意味は同じ (定冠詞つき名詞の修飾語になる形容詞の 2 通りの位置)。

Gal 1:5


Gk. Erasm 1519  ᾧ ἡ δόξα ἐις τοὺς ἀιῶνας τῶν ἀιώνων, ἀμήν.
De. Lut 1522  wilchem sey preysz von ewickeyt zu ewickeyt Amen.
Dk. ChrII 1524  huilken ske ere fran euighed til euighed Amen.
Sv. NT 1526  huilkom ware prijs frå ewogheet till ewogheet Amen.
Is. Odd 1540  hueriū at sie dyrd vm allder allda Amen.

永遠から永遠へ」の訳は、ギリシア語の ἐις τοὺς ἀιῶνας (複数対格) τῶν ἀιώνων (複数属格) に対し、独丁瑞では von ... zu ..., fran ... til ..., frå ... till ... のごとく、語順を逆転させ起点のほうに前置詞 von, fran, frå を補う必要があったが、アイスランド語では vm allder allda = 現 um aldir (複数対格) alda (複数属格) と時を表す格の用法の平行によってすっきり表現できている。すなわちここではオッドゥルはルター訳ではなくギリシア語原文に直接あたったのかもしれない。

samedi 25 août 2018

16 世紀北ゲルマン語圏の聖書を読むための覚書

ヨーロッパの 16 世紀は宗教改革の世紀である。ルターがいわゆる 95 箇条の提題を (ラテン語で) 張りだしたのが 1517 年の 10 月 31 日、そして聖書のもっとも重要な (初期新高) ドイツ語訳であるルター聖書が世に出たのは、1522 年のいわゆる 9 月聖書であった (新約のみ。旧約および外典を含む完訳は 1534 年)。

このときルターが翻訳の基礎としたのは、エラスムスの手になるギリシア語新約聖書 Novum Testamentum omne の第 2 版 (1519 年) である。エラスムス校訂のギリシア語テクスト (初版は 1516 年) は公認本文 (テクストゥス・レケプトゥス textus receptus) と呼ばれ、ルター訳のみならずそれを通して以下の北欧語訳に、それからなにより英訳聖書のティンダルや KJV のもととなっていくもので、現代の本文批評からすればさまざまの問題があるにせよいまも熱心な支持者はいるようだ。

デンマーク語で印刷された最初の聖書は 1524 年のクリスチャン II 世聖書で、これも新約のみであったが、最初の完訳は 1550 年のクリスチャン III 世聖書 (Christian III’s Bibel) である。この底本についてはいまいちよくわかっていないが、王の希望でルターのドイツ語訳に可能なかぎり近づけられたものらしい。そのためデンマーク語訳ではあっても教養のない農民階級にとっては理解困難なものだったという。この聖書はノルウェーでも用いられた。

スウェーデン語訳はやはり翻訳を命じた王の名前をとったグスタフ・ヴァーサ聖書 (Gustav Vasas bibel) が重要であり、これは新約部分が 1526 年、完訳は 1541 年。スウェーデン語は私の守備範囲外なので詳しく調べていない。

アイスランド語の最初の完訳聖書は、ホーラル司教グヴュズブランドゥル・ソルラウクスソンによるグヴュズブランドゥル聖書 (Guðbrandsbiblía) で、これは 1584 年に刊行された。ただしその新約部分は先行する 1540 年出版のオッドゥル・ゴットスカウルクソンの新約聖書 (Nýja testamenti Odds Gottskálkssonar) をあまり変えずに用いているということである。

フェーロー語に聖書が翻訳されるのは残念ながら 19 世紀に入ってからのことなのでここでは取り扱わない。宗教改革期以降フェーロー諸島ではデンマーク語の影響が顕著になり、聖書以下宗教関係の文献はデンマーク語のまま用いられた。


さてこれらの聖書は (エラスムスのものを除いて) 当時のゲルマン語の出版物であるからすべてブラックレター体で印刷されている。ブラックレターは俗にドイツ文字と呼ばれるフラクトゥールの同義語として用いられることも多いが、正確にはより広い呼び名であって、ここではフラクトゥール (Fraktur) の作られるまえに使われていたシュヴァーバッハー体 (Schwabacher) の名をとくにあげておく。

というのは、このシュヴァーバッハー体はだいたい 1530 年ころからフラクトゥールに取って代わられていくのだがそれ以前には広く使われ、とりわけ 1522 年のルター聖書ではシュヴァーバッハー体が用いられているのに加えて、先述のもののなかではオッドゥルのアイスランド語新約聖書もこの書体で組まれているからである。

シュヴァーバッハーにせよフラクトゥールにせよ、読むうえでの注意点はだいたい共通している。まず、何度も頻出する単語や語尾などは略記される場合があるということ。どういう語がそうであるかは言語によって違うので一概に言えないが、その言語を読めるほどに習熟していれば難しくはない。

それからいくつか特殊な文字があるということ。代表例は ſ すなわち「長い s」だが、これはあまりにも有名であって、ブラックレターのみならずかなり最近 (19 世紀) のローマン体の文書でもおなじみであるからあえて贅言を要しない。

しかし s に 2 種類あることは周知でも、r にも 2 種類 (あるいはそれ以上) あったことはあまり知られていないのではないか。ブラックレターを読むときに覚えておかなければならないのは r rotunda「丸い r」と呼ばれるもので、ローマン体の r と似ていてすぐにわかる 𝔯 のほかに、一定の場合に ꝛ という数字の 2 に似たべつの形をとるのである。

その一定の場合というのはかならずしも明らかでなく、前の字が右側に弧状の丸みをもつ場合 (b, o, p など) と説明されていることがあるが、それはドイツ語あるいはラテン語などでは正しかったのかもしれないがどうもそうではない例も見受けられる。


この画像はオッドゥルの新約からルカ伝 4 章冒頭の段落である。いちばん上の行は „fiordi capitule“ と書かれている。その 2 行下の最初の単語は „Jordan“ である。いずれも o の直後に r が来るが、見慣れた r が書かれている。

一方この段落のいちばん最後の単語 „ordi“ では、同じ o のあとなのに r rotunda が使われている。その真上の語 „madrin̄“ (現代のつづりでは maðurinn にあたる) もそうであるが、d はブラックレターでは右側が丸い文字にあたるのでこれは法則どおりである。しかし 1 行め後ろから 2 番めの „aptr“ はそれでは説明がつかない。


いま掲げた画像はグヴュズブランドゥル聖書からルカ伝 4 章の続き。顕著なのは 3 行め右から 5 番めの単語 „fellr“ で、明らかにどこも丸い部分がない l の直後で r rotunda が用いられている。


ダメ押しにもうひとつだけ示しておく。これは 1526 年のスウェーデン語の新約マタイ伝 1 章冒頭だが、1 行め大きい活字の最後 „Chri⸗[sti]“ の r も、この行だけテクストゥールらしい書体で、たまたまどこも丸くない h の直後に r rotunda が置かれている (もっとも r rotunda を使う基準として、その書体のグリフが丸いかどうかはあまり関係がないようだが)。

ところでこれらの文書は s の使いかたもわれわれの知る常識どおりではないところがある。さきほどのグヴュズブランドゥル聖書の画像の 2 行め中央から „⁊ þeſſ pryde mun eg ...“ とあって、明らかに語末なのに長い s が使われている。逆に最初のオッドゥルの最下行を写すと „dr af sier hueriu gudz ordi“ となっているが、語頭で丸い s が使われている。まあどちらの形でも s は s、r は r なので読解上の支障はないと思う。

では最後に、すでに画像から気がついていたかもしれないが、オッドゥルの紙面ではギリシア文字の τ かひらがなの「て」に似た、あるいはグヴュズブランドゥルの活字では数字の 7 か ƶ にでも似た謎の文字が頻出している。

これはアイスランド語では og、すなわち英語の and にあたる記号である。もともとローマ時代の速記官ティロ Tiro の記法 (にあとから付け加えられたもの) といい、とりわけ古英語やアイルランド語で ⁊ の形でよく見かけられるもので、Tironian ond や Tironian et などと呼ばれている (ond は古英語で and にあたる語、et はラテン語で & の字形のもとになった語。アイルランド語のため agus と呼ばれることもある)。

mercredi 16 mai 2018

獣の数字 666 解釈のパターン数

ヨハネの黙示録 13 章末尾に登場する謎めいた数字 666 のことを聞いたこともないという人はほとんどいないだろう。まさにそれが謎と言われるとおり、これがなにを表しているかにはさまざまの説がある。しかしもっとも有名でなおかつ有力視されているのが、皇帝ネロを表すという見かたであることもまた周知の事実であろう。まず本稿の議論の前提として、どのようにして 666 が皇帝ネロを意味するのかを簡単に説明することから始めよう。

旧約聖書の言語であるヘブライ語にせよ、新約のギリシア語にせよ、古代の文字は数価というものをもっていて、単語を書き表すのと同じ通常の「アルファベット」(ここでは広義の意味) でもって数字を表していた。いやヘブライ文字とギリシア文字どころではない、シリア文字、コプト文字、ゲエズ文字、アルメニア文字、グルジア文字、ゴート文字……、聖書学に関係して思い浮かぶ古代の文字はほぼすべてがそうであったといっても誇張にはなるまい (いわゆるローマ数字をもっていたラテン文字はきわめて特殊な部類)。

だからいま名を挙げたどの文字体系でもいいが、どれもあまり一般の人にはなじみがなかろうから、どれでもいいということはべつに日本語のカナを使って解説しても問題はなかろう。イロハニホヘト……のようにこれらの文字には固有の順番が決まっている。そこでイを数字の 1、ロを 2、ハを 3、……ということに決めるとして、ヌ=10 までいったら次の文字ルは 11 ではなく 20、ヲは 30、等々でツ=100 まで進む、その次は 200、300、……という要領である。そうすると 11 は 10 + 1 でヌイ、123 は 100 + 20 + 3 でツルハ、という感じに、2 桁 3 桁の数字を同じ文字数で表すことができる。現代の私たちはアラビア数字の位取り記数法を知っているので、こんなことをしなくても 1 も 10 も 100 も同じ 1 (=イ) という文字を適切な位に据えるだけでよいではないかと思うが、当時はその発想がなかったのである。

さてヘブライ文字でもギリシア文字でもこんなふうにして数字を表していた。ここで各文字が一定の数価をもっているということを逆手にとると、ふつうの単語をもそれを構成する数字に読みかえるという一種の暗号が作れることになる。たとえばさきほど説明したカタカナの数字表記法にのっとると、「ヨハネ」という文字列はヨ=60、ハ=3、ネ=200 であるから、263 と言ってヨハネを意味するというようなものである。もっともこれはいま私が創案した「カタカナの数価」にもとづいた話なので、当時のギリシア語の読者がヨハネ=263 と考えていたわけでないことはわざわざ注意するまでもあるまい。

とにかくこのようにして、数字から逆にもとの言葉を解読するという暗号が可能になる。この暗号というか文字を数と結びつけるヘブライ語の数秘術のことをゲマトリアという。そしてヘブライ文字で נרון קסר‎ (NRŌN QSR [ネローン・ケサル]、皇帝ネロ) と書くと 50 + 200 + 6 + 50 + 100 + 60 + 200 で 666 となるわけだ。ここまでが予備知識である。

しかし少しでも数学的な思考力のある人ならたちどころに気がつくだろう、このような分解が一意ではなく、したがって 666 だからネロという結論が演繹的に出てくるわけではないということに。もとより 666 の解釈には複数の説があり、このようなヘブライ文字のほかにたとえばギリシア文字で読めばとか、ローマ数字で考えればとか、そもそも数秘術とはみなさないとかいろいろ解きかたがあるのであるが、よしんばヘブライ文字のゲマトリアに限定して解釈したとしても皇帝ネロしかないということにはならないわけだ。

もっと簡単な話、かりに争点が 6 という数字だったとしよう。6 は 1 + 5 とも 2 + 4 とも 3 + 3 とも分けられるし、1 + 2 + 3 にも 2 + 2 + 2 にも、さらに細かく分割することもできる。分けずに 6 のままということも可能である。しかもこれらは単語を表す文字列なのであるから、たとえば dog と god が英語でべつの単語であるように、数字の加法とは違って並びもまた役割をもつ。こういうことを考えれば、たったの 6 でもいくつもの解釈可能性 (後述するが 32 通り) があるのであって、666 ほど大きな値となればいったいどれほどの膨大な組みあわせになるだろうか。それを求めてみようというのが本稿の目的である。

といっても、その文字列が意味をなす単語になるためにはどんな並びでもいいということにはならない。たとえば英語で dog と god は可能でも、それ以外の順列 odg, ogd, dgo, gdo は英語においては単語にも句にもなっていない。だから想定される膨大な場合の数のうち実際に許容されるのは比較的わずかであろう。だが一方で英語などのアルファベットがこのように正しい単語になりづらいのは、母音と子音が適切に交互に並んでいなければならないこと、さらに許される子音連続の種類も限られていることが大きな理由だが、ヘブライ文字 (アブジャド) では基本的に母音を書き表さず、母音は読み手が子音間に補って読むので (上の NRŌN QSR = NeRŌN QeSaR を思いおこされたい。この Ō は mater lectionis というもので、最悪これもなくてもネローンと読みうる)、アルファベット言語ほどには減らないという可能性もある。とはいえこのことを正しく考慮するためにはヘブライ語のネイティブなみの知識が必要になってしまうから、いま私たちはこの事情をすっかり捨象して、単純にパターンの数を算出することだけを目指そう。

このときいくつかの点に注意する必要がある。まず第 1 にはすでに説明したとおり、並びが意味をもつということ。それから、分割の項として認められるのは 1, 2, ..., 9, 10, 20, ..., 90, 100, 200, ..., 900 の 27 個の正整数だけで、たとえば 11 や 12 はさらに分割されなければならないということ。この理由は前述した「カタカナの数価」の解説から理解されるだろう。なお目標が 666 の分割であるから実際には 700, 800, 900 が必要になることはないが。

このような意味の「n の分割」のパターン数を Γ(n) とおく。最終目標は Γ(666) である。まず 1 の分割は 1 そのものしかないので、Γ(1) = 1 である。次に 2 の分割は 2 そのものと 1 + 1 の 2 通りなので、Γ(2) = 2。3 の分割は 3 そのものと、1 + 2 および 2 + 1、そして 1 + 1 + 1 の合計 4 通りだから、Γ(3) = 4。

ここまででパターンが見えてくる。このようなものを求めるさい、場合分けの方針としては「何個の項に分割するか」を考えるのがひとつの常套手段であり、じっさいいま 3 の分割についてそのような順で提示をしたが、今回はあまり賢明でない。ここでは「初項が何であるかに応じて場合分けをするほうが、うまいこと漸化式を立てられるようである。並びが違えば異なる文字列になるという特徴のおかげで、このような場合分けが MECE な (=重複がなく漏れもない) 分けかたになるのである。

すなわち、3 の分割の場合には、初項が 1 であれば 1 + 2 と 1 + 1 + 1 の 2 通りがあったわけであるが、このとき初項 1 を除いた後ろの部分は 2 の分割そのものであるから、すでに求めていた 2 の分割の場合の数がそのまま利用できたのである。

この方法で 4 の分割を求めてみると、初項 1 のとき残りは 3 の分割で 4 通り (4 = 1 + 3, 1 + 1 + 2, 1 + 2 + 1, 1 + 1 + 1 + 1)、初項 2 のとき残りは 2 の分割で 2 通り (4 = 2 + 2, 2 + 1 + 1)、初項 3 のとき残りは 1 の分割で 1 通り (4 = 3 + 1)、そして初項 4 のとき残りの文字列はないので 4 そのものの 1 文字という 1 通り (4 = 4) で、合計して Γ(4) = 4 + 2 + 1 + 1 = 8。わかりやすく先述のイロハニで例示してみれば、いま足し算で示した順にイハ・イイロ・イロイ・イイイイ・ロロ・ロイイ・ハイ・ニに対応し、この 8 通りの「語」ないし「文」がすべて同じ 4 を表すのである。

そこで、いま分割の項として使える数の集合を H = {1, 2, ..., 9, 10, 20, ..., 90, 100, 200, ..., 900} とおき、さらに Γ(0) = 1 と約束することにすれば、一般に Γ(n) = ∑k ∈ Hk ≤ n Γ(nk) と書くことができる (あるいは、形式的に負の数に対しても Γ(−m) = 0 (m ≥ 1) と定めておけば、シグマの範囲のうち第 2 の条件 kn は不要になる)。

すると n = 10 までは単純にそれより小さい 0 ≤ k < n による Γ(k) の和で、たとえば Γ(5) = Γ(4) + Γ(3) + Γ(2) + Γ(1) + Γ(0) = 16、もっといえばこれは作りかたからただの 2 のべき乗になるので Γ(6) = 32, Γ(7) = 64, Γ(8) = 128, Γ(9) = 256, Γ(10) = 512 である。

しかし 11 以降はそうではない。11 の場合には初項 11 というのがありえないからである。そこで Γ(11) = 1 023, Γ(12) = 2 045, Γ(13) = 4 088, Γ(14) = 8 172, Γ(15) = 16 336, Γ(16) = 32 656, Γ(17) = 65 280, Γ(18) = 130 496, Γ(19) = 260 864 というように 2 のべき乗から少しずつ離れていく。なお計算法からわかるようにここまでの値は、フィボナッチ数列の一般化の一種で直近 10 項の和をとるデカナッチ数 (decanacci numbers; デカボナッチとも) に一致することになる。

だが 20 でまた事情が変わることになる。20 では新たに初項 20 という場合が付け加わるためである。こうして Γ(20) = 521 473, Γ(21) = 1 042 434, ..., Γ(29) = 265 818 368 である。この段階に至って、(管見のかぎり) 既存のいかなる名前つきの数列からも逸脱することになる。たぶん、このような数列を定義し求めた人は過去いないのであろう。

さらにいくつか続きを求めてみれば、Γ(30) = 531 376 129, Γ(40) = 541 467 712 002, Γ(50) = 551 750 949 002 947, Γ(60) = 562 229 479 206 711 000 (この最後の桁の 000 は正確ではなく、私が表計算ソフトで求めているため下の位が省略されてしまっている) といった要領で爆発的に増えていく。Γ(100) はおよそ 606 171 774 527 530 000 000 000 000 000 (≈ 6.062 × 1029)、Γ(200) はおよそ 731 645 916 580 603 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 (≈ 7.316 × 1059) である。

それゆえ概算ではあるが、求めるべき Γ(666) は約 1.109 × 10200 となろう。恐るべき数である。もちろんすでに注意したとおり、この 201 桁にも上る莫大な数のうちかなりの部分は意味をなさない文字列になるはずだが、それらをすべて排除してもなお相当の数になるであろうことは疑いない。そのなかのわずかにたった 1 つの可能性が皇帝ネロ נרון קסר だというわけだ。

このようなことを見落として「666 をヘブライ文字で解釈すると皇帝ネロになる」などと安易に「解説」すると大恥になるので気をつけていただきたい。נרון קסר ならば 666 になるというのは正しくとも、逆に 666 ならば נרון קסר になるというのは正しくないのである。

ちなみにこれはまったく余談であるが、נרון קסר のうちヌン・ソフィート (語末形) ן は通常のヌン נ と違って 50 でなく 700 になるらしいのに、一般的な 666 の解釈では同じ 50 として扱われているのはなぜなのだろう。

mercredi 25 octobre 2017

Eisegesis の訳語について

聖書解釈の分野に eisegesis という言葉があることを最近知った.鋭い人ならつづりからただちに見てとるかもしれないが,これはギリシア語に由来する exegesis の接頭辞 ex- (ἐξ- = ἐκ-, 外へ) を反対の eis- (εἰσ-, 中へ) に置きかえたつくりになっている.

その意味は,英語版 Wikipedia によれば「テクストもしくはその一部分を解釈するさい,自分自身のもつ前提や意図あるいは偏見を,そのテクストの中に/上に取り入れる解釈手続き」である.Exegesis のほうは本来の著者が意図した意味あいをその文脈に即して読みとる作業で,正しく運用すればなにぶんか「客観的」な手続きであるが,対して eisegesis は多分に主観的である.そして eisegesis をする人を意味する eisegete という言葉は「少し軽蔑的に用いられる」と言うが,それはこれらの単語が「その解釈は勝手な前提を読み込んでいるよ」という非難を含んで使われるのだから当然のなりゆきだろう.

これは余談めくが,英語版 Wikipedia によれば eisegesis の英語での発音は /ˌaɪsəˈdʒiːsəs/ だという.英語で ei をアイと発音するのはわりと例外的なことで,eight, weight, freight のようにエイと読むか,either や seize のようにイーというのが普通だろう (もっとも either はアイザーと読む場合もあるようだが).聖書学はドイツの影響も大きいのでドイツ語の干渉だろうか?

さて聖書学で exegesis はふつう「釈義」と訳されることになっているが,eisegesis のほうには日本語の定訳がないようだ.この言葉を日本語の文献で目にする機会は少ないが,少し調べてみると「恣意的な読み込み」や「主観的釈義」のような説明的な訳語でまかなっているように見える.英語でも ‘reading into’ と言うとおりたしかに「読み込み」でも十分意味は伝わると思うが,原語が eisegesis というギリシア語ふうのお堅い字面であることと,exegesis と対になる単語であるという事情に鑑みれば,どうにか訳語でも「釈義」との対応を見た目に感じられる漢字 2 文字の熟語で表したいところである.これがここで私のとる翻訳方針である.

そのためまず exegesis の「釈義」という訳語に立ち戻って検討してみよう.「釈」という漢字の意味は「解釈」や「注釈」に見られるとおり「ときあかす」であり,「義」とはもちろんここでは「ただしい」ではなく「字義」や「原義」に見られる「意味」という意味である.すなわち「釈義」とはテクストの「意味を解き明かす」ことを言う.

一方そもそも exegesis とはギリシア語 ἐξήγησις に由来し,この大元は ἐξηγεῖσθαι という動詞である.すでに触れたようにこれは ἐξ-「外へ」という前つづりと,ἡγεῖσθαι なる動詞 (これは中・受動態不定詞で,直・中受・1 単にすると ἡγοῦμαι) からなっているが,この動詞の意味は「前を行く,先行する」あるいはそこから「導く,先導する」ということであるから,あわせて ἐξηγεῖσθαι は「導き出す」の意である.その名詞形である ἐξήγησις はもちろん「導き出し=導出」のことであって,じつはこのなかに「意味=義」という字 (その意味に対応する形態素) はないことがわかる.

だからといってもはや固まった訳語である「釈義」の「義」は余計だというわけにはいかず,これはこれですっきりと完成された用語というべきだろう.したがってわれわれはこの「義」の字を尊重しつつ,「○義」という形で eisegesis の訳語を提案することが正道であるように思われる.

テクストから意味を「外に取り出す」ことが exegesis であった.この反対に「中に入り込む」ことが前つづり eis- のイメージであるから,このようなニュアンスを感じさせる 1 文字が望ましい.「侵入」「侵略」の「侵」という字を使って「侵義」というのはいかがだろうか.この字は「中へ攻め入る」という方向性と同時に「そこを侵し傷つける」という意味を両立しており,eisegesis の「前提や先入観を含んだ意味の恣意的な読み込み」すなわち本来の意図の侵害・毀損という含意をなにほどか表しえているように自負している.あるいは「込」の字に音読みがあれば「込義」も可能だったかもしれないが,この字は国字なのでそうはゆかなかった.

私は趣味でときどき Wikipedia の外国語版から日本語版への翻訳記事を作るという作業を細々と続けているのだが,英語版・ドイツ語版・オランダ語版など合計 8 言語で立項されている eisegesis の Wikipedia ページを見て今回のようなことを思いたったのであった.このうち英語版・アフリカーンス語版そしてなかんずくドイツ語版は翻訳されるに値する十分な内容をもった記事なのだが (私はウィキペディアンとしていわゆる包摂主義者なので),これを訳そうにも「読み込み」というふわふわした字面で立項するのは都合が悪いし (コンピュータ用語の ‘loading’ のこととも思われかねない),まして私が勝手に考案した新造語をページ名にするなどもってのほかである.いつの日か日本語版 Wikipedia で eisegesis の項目ができることを祈念して,そのたたき台としてこのようなことを web の片隅に書いておくのも無駄ではないだろう.