jeudi 10 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (5)

どちらへ、mester? これは英 Mister にあたる敬称の呼びかけ? セリフらしく見えるが引用符で括られていないのではっきりしない。1 人の drager が自身からその kærre を stillet した、そして彼のほうへやってくる。前半は完了、後半は現在。

彼は kuvert を取り出し (?)、それを広げ、adressen とともに紙をその drager に rækker する。船旅だしチケットかなあ、いや船旅は終わったのだとすると宿のチェックインかも。adressen はどう見ても英 address だがこういう多義語には罠がある。だがとりあえず「住所」ととっておいて大丈夫そうか。Drager はその紙を受けとろうとはしない。彼〔=drageren〕は疑わしげに彼〔=モーテン〕を見るああ、とモーテンは思う、〔この drager は〕文盲なのだ。「文盲」analfabet は万国共通なので明らかだ。このおかげでこの段落全体はおぼろげに理解できる。やはり搭乗券かなにかをモギリ (?) に渡しているのだろう。ホテルのフロントが文字を読めないのはちょっと考えにくい。いくら時代が違うとしても宿帳をつけられない者がフロント業務もないだろう。

北通り、とモーテンは言い、デンマーク語でそれを発音しようと試みる。出版者 (?) シュルツ (Schultz) の gård だ。前半はほぼ確実。forsøger は第 2 回で独 versuchen と仮設したもの。「出版者」bogtrykker は前半が「本」bog、後半が trykke でこれは独 drücken, 英 press なのでたぶんあっていると思う。このあたり、短い文章ですぐ段落が変わるので気が楽だ。

この道です、旦那、と drager は言い、彼を fører する。この動詞は案内か先導? ある tolder が彼の pas を folder ud しそれを studerer するところの porten へと。彼は passet を取り戻す。ああ、pas(set) はそのまま「パスポート」か。モーテンはべつの国からこのコペンハーゲンに来ていたわけだ。では studerer は独 studieren, 英 study で、「詳しく検討・検査する」というところか。それで porten は入国審査をする場所なのだろう。で、tolder がその審査官、でも日本語でなんと言ったかな? とりあえず審査官としておくか。

コペンハーゲンは学生を歓迎し希望します、と審査官は言う。muligvis に皮肉的な tonefald で。最後の単語は「トーン、調子」っぽい。mulig-vis もわかりそうな感じはするのだが。前半はたしか独 möglich, 英 possible「可能な、ありうる」のことだった気がする。

こうして彼は sted から traver する、小さな vippekærre の上の hælene のなかの町へ。vippe(r) も kærre ももう見たなあと思いつつわからない。彼は船旅のあとの benene の上で〔=によって?〕smule な usikker である。はい、第 3 回で定かでなかった skib「船」はこの「船旅」skibsrejsen のおかげで確定した。そして今もかつても (?) 少し slingre するために来る。なんだかおかしいな。町のなかの長い通行は overvældende である。「通行」trafikken というのはなんだかわからないがとにかく英語のトラフィックのこと。beværtninger と torvesalg への varer をもつ bondevogne が tordnende しながら来る。これはいけない。だが続きもまた訳のわからぬ単語が頻発する。エールの tønder をもった vogne、暗い skikkelser をもった diligencer が、bukken の上高くの ruderne と kuske の後ろに。さらに støvler を smældende し、目は死んだように stirrende fremad しながら、sted から行進する兵士たち。何度も出てくる af sted というのはいいかげんに辞書を引いたほうがいいな。sted それじたいは「場所、地点」で (では英語の廃語 stead と同源かな)、af sted だと英語の along と off、って「沿って」と「離れて」ではまったく正反対に見えるのだがどういうことなのか……。slagtede gæs か høns または kaniner でできた (?) 大きな bylter を肩に担ぐ男たち。この文はどうも動詞がない (bærer は関係代名詞 der 節のなかなので) 名詞句だけの文。次の文もそうかもしれない、skillingstryk をもって vifter し、彼らが同じ朝に udenad に覚えた韻文から strofer を vræler する少年たち。英 verse と同じ「韻文、詩歌」vers のおかげで少しは見えてくる、日常的な町の風景だ。Brostenene は sæbeglatte である、彼らは決定的でない hinde のなかで svøbt である。モーテンは snubler するが、自分を vender om し彼を引き上げる drageren の上の腕のなかに griber fat する。そのあとで彼〔=モーテン〕は彼〔=drageren〕を fortovet のなかに向かって厳しく skubber する。「厳しく」とした hårdt は英 hard の中性=副詞形、以前に出たときは自信がなかったが辞書で確認した。だが hard じたい多義的なのでこれまた文脈の助けがなければ訳しようがない。段落の半ばほどであるが少し疲れたので中断する。

mercredi 9 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (4)

本日からいよいよこの小説の本編に入っていく。扉に書かれているのは第 1 部、校長の息子……だろうか? skole は学校に違いないが holder(ens) が心もとない。たぶん英語と同じで保有者ということだと思うが……。とにかくそういう人物が出てくるかどうか少し待ってみよう。

第 1 章、コペンハーゲン、1782–1787 年。なかなかなじみのない時代である。アンデルセンは 1805 年、キルケゴールは 1813 年生まれだから、彼らの父が生まれたくらい、ということは祖父が青年だったほどの時代だ。理解できるかどうか自信がなくなってくると同時に、興味も惹かれる。

雲に覆われた、smule klamt な天気である。「雲に覆われた」は overskyet、これは sky が「雲」なのでたぶん正しいと思う。ノルド語の「雲」が英語に入ってしだいに「空」を意味するようになった話は英語史の豆知識として知っていた。前回までのプロローグもそうだったが、どうしてか地の文の動詞はもっぱら現在形で続いていく。訳文として少し据わりが悪いので過去形にするべきかとも思ったが、まともに訳せていないうちから考える問題ではないのでとにかく書いてあるとおりに移そう。モーテン・ペデルセンが 1782 年 6 月 1 日にコペンハーゲンに到着するときは。順番が前後したがこの da 節のときに先述の天気だったということ。「到着する」ankommer は明らかに独 ankommen なのでわかる。いま言った日付は、彼の 26 歳の誕生日の 10 日後である。ということは彼は 1756 年 5 月 22 日生まれということになるか。彼は座って、chaluppen を vipper し、森の上に戻って kigger する、rheden の上に外への master によって。戻って kigger のところは「振りかえる、顧みる」とかだろうか? rheden は間違いなく借用語だ、rh- なんてつづりがあるわけがない、でもなんなのかわからないのが歯がゆい。時刻は朝の 6 時半。たまさかこういう完璧にわかる文があると本当にうれしい。halv syv (文字どおりには「7 時の半分」) はドイツ語 halb sieben と同じで「6 時半」なのだ。彼は夜じゅう目覚めていた (?)、クリスチャニアからの paketbåden によって dækket の上を行きつ戻りつし、いらいらして、søfolkene の前で ulempe でありながら。søfolkene は sø「湖、海」の folk「人々」に見えるから、「船員」? 残りはちょっと推測がつかない。彼がトルボーデン (Toldboden) の前で kajen の上で跳ねるとき、彼の tøj はエーレスン (Øresund) の prop のように座っている tågen からの fugt によって gennemtrukket されている。うーん……。最後の過去分詞 gennemtrukket はノーヒントではない、gennem は英 through だし、trukket の原形はプロローグでも何度となく見た trække「引く」だ。しかしこの動詞じたい多義的なのでぴったりした訳語を見つけるのは困難。彼は少し forkølet に自分を føler する、そして道の上に hoste があることを知る、しかしそれはさほど遅い時間に (?) とらない。彼はよい konstitution をもっている、この名詞は明らかに独 Konstitution, 英 constitution と同じだが意味は定かでない。まさか「憲法」ではありえないし、「構造、組成」も変だ、独にも英にも「体質、素質」という意味があるからそれだろうか。兄弟姉妹の flokken のなかの udskillelsesprocessen が彼をして overlever のように自分自身を betragte させた。また高度の運命論とともに彼を udstyret した。ちょっと惜しいので最後の udstyre は辞書でカンニングしてしまうと、英 equip ということなので「彼に運命論を備えつけた、もたせた」ということか。旅は 3 日間かかった。これは多少の undervejs を blæst したが、彼は船酔いにはならなかった。søsyg は文字どおり「海の病気」なのでとりあえず船酔いと考えた、たかだか 3 日の話だしまさか壊血病のような本格的な船乗りの病気ではないだろう。彼は føler する、彼はそのはじめての船旅で男たちのように klaret したかと、また mandskabet から anerkendelse のあれやこれやの形を forventet したか、それとも最小のもののなかで〔少なくとも?〕afsked への håndtryk と若干の語を。相も変わらずわからない単語が多すぎて構文もとれない。彼は想像した、彼らは bollemælk のために stikker op しない stoute なノルウェーの knøs についての注意/言及を hvisket したのかと。となると hviske は「無視する」とかかなあ、と思って答えあわせのつもりで辞書を見たら英 whisper「ささやく」だった、まったく想像はあてにならない。だが彼らは一言もなく土地で彼の kiste だけを lemper し、彼を自分自身へ overlader するほかの多数の chalupper が彼の後ろで bolværket に向かって bumper する。chalup(per) は 2 度めの登場だ、これもどう見てもデンマーク語ではないので考えればわかるのかもしれないが。Skikkleser が kajen の上で跳ね、朝の灰色の光のなかで syne へと来て、それらの sække と kister とともに sted によって slæber する。kajen の上で跳ねることはさっき「彼」もやっていたことだ。そういえばプロローグでは最後まで「彼」も「彼女」も正体不明だったが、ここの「彼」は 26 歳の青年モーテン・ペデルセン氏とわかっているのだった。今日はあまり時間がとれなかった、一段落が終わったのでいったん切っておこうか。

mardi 8 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (3)

段落が変わって、luft は穏やかである。風だろうか、それとも波? opadstigende な乱流は muslinger と tang とから dufter する。turbulenser は英語とほぼ同じだから「乱流、大荒れ」で間違いない。難しい言葉ほど借用が多いので、デンマーク語をなにも知らないのにやたら高度な言葉ばかりちゃんと訳せるという事態が生じる。opadstigende はどうだろう、形態素に切ると op-ad-stig-ende と思われ、接頭辞が 2 つと現在分詞語尾がついているが語幹 stig- は独 steigen「登る、上がる」ではないか。op- も上がる感じだし、全体的に上向きの雰囲気がある。それから tidevandslinjen のなか (上?) は blotlagt である。tide-vands-linje(n) と分ければ「時間・水の・線」? 「時間」を意味する tid は英 tide「潮」と同源だったはずなので、それと関係がありそうだが……。その fjerne のなかで mågerne が skriger している。mågerne は複数既知形で、単数は måge だろうか。わからない単語が多すぎて話がまったく見えてこない。Uvilkårligt に彼女は目を開ける。u- は否定の接頭辞で -lig-t は副詞だから、非 vilkårlig に、というのが目を開ける動作の様態を示しているのだろうが、さすがに候補が多すぎる。彼女は今でさえも lade være することができない、このイディオムもいまいちわかっていない。逐語的に訳せば「〜であることをさせる、であらしめる」? それがどうして英 with, 独 mit にあたる med をつけて lade være med になると「させない、やめる」になるというのか (前回)、これがすでに私の勘違いだったのか? どうも泥沼にはまっている。無視。彼女の sind が地上の生のつまらぬ事々の上にあえて hævet され、天的なものへと stemt されるところの、あらゆるもののうちの最後の udkant に。かなりわかったように見えるが肝心なところの動詞がさっぱりである。雰囲気からすると sind は魂とか霊とか? 「つまらぬ事々」ととったのは trivialiteter、つまり独 Trivialitäten である。英語だと trivialities... なんて単語はないか。「天的な」himmelske も独 himmlisch とすぐにわかる。彼女は larmende な måge(r) たちが何を har for しているか見る必要がある。har じたいは英 have で簡単なのだがやはり句動詞は厄介でどうにもならない。そして彼女は北 (から? へ?) の道の上に skibet を、〔すなわち?〕fyldte sejl をもった tomaster を見る。skib は ship「船」、sejl は sail「帆」っぽく見える。fyldte は独 füllen, 英 fill「満たす」にあたる動詞の過去分詞っぽく、この 2 語で「満帆」かもしれない。そうすると vej が「道」というのはべつに陸路にこだわる必要はないので航路だろうか。おそらく前の語句を修飾する分詞節、mågevinger のように白くまばゆく。まばゆくというのは blændende で、すでに mærke の件で独 e : 丁 æ とわかっているのでこれは独 blenden の現在分詞。måge はさっきから何度も出てきている。ving が英 wing だったら鳥の種類らしく思えるが、「翼」は独では Flügel だし、これまでも見てきたように基本的な語は英よりは独に近いのでたぶん違うと思う。そして masterne のまわりを driver する skrigende な måger によって sværmen。また måger、それに skrige という動詞もやはり最初に mågerne が出てきたときにそれらがしていた動作だ。同じ組みあわせが再登場したところでヒントにはならない。いいや、彼女はいまだに自分の skaber を møde するのに parat でない、昼と同じようにではなく。次に for sent が 3 度繰りかえされるのでカンニングして調べてしまった、sent は「遅い」らしい。だが彼女は知っていた、fortryde するにはあまりに遅い、彼女自身にとってあまりに遅い、彼女の後ろに立っている彼にとってあまりに遅いということをすべては rette するよう整えられ置かれている。次の、この段落最後の文は faldet 以外完全な自信をもって訳せる:落下はすでに始まっていた、それは何年もまえに始まったのだ。プロローグのタイトルでもある fald(et) は第 1 回の途中で「落下」と改めていた。どうも海のそばの断崖の上に彼女はいるようなので火サス的な場面を思いうかべているが、投身自殺なら「何年も」というのは妙だし、もしかするともっと抽象的な話で「凋落、没落」とかそういったことかもしれない。

彼女はほかの〔もうひとつの? 他人の?〕静かな vejrtrækning を聞く。trækning というのは trække の名詞形だろう。あっ、わからないと思ったが違う、これは前回出た trækker vejret「呼吸する」の名詞か。では「もうひとりの静かな呼吸」か。「静かな」rolig は独 ruhig と似ていそうで似ていないが少し似ているので覚えていた。で、その vejrtrækning の直後にコンマもなく at-節が続いているかかりかたがよくわからないが、その中身を見ると彼は目をその船に得る〔=一瞥する?〕ことができなかった、と。なんだか違う気がするがしかたがない。彼は彼がしなければならないことによって optaget には老いている。待て待て、どうも前回から、「彼」とは「彼女」が祈りを捧げている相手の主/キリストであって、「彼女」がなにか宗教的幻想を見ている話だと思いこんでいたが、この呼吸もしている「彼」は現実にいる登場人物なのか? そうなると前回の読みもかなり修正を要することになりそうだ。彼は彼女と同じように不安なのだろうか? 彼はそれ (形式主語かも?) が ske しないことを望みたがっているのか? 疑問文が続く。もし彼女が彼に skibet を見させることができたら、と彼女は思う、すべてのことはひょっとして別様になりうるであろうか。skib は「船」だと仮定してきたが、船を見るだけですべてが変わるというのはよくわからないので間違いだったかも。そして彼らはこの morderiske stævnemøde を udsætte できる〔だろうかと〕。morderiske はちゃんと考えればわかりそうな気配のする字面だ。もしかして独 mörderisch, 英 murderous「殺人的な」? でも独 ö は丁 ø のはずだし……。

そのとき彼女は彼の手が halsen の上に〔あることに〕気づく。halsen は肩か背中か、ともかく身体の部位だろう。また彼女は lav klynken とともに farer する。動詞 fare はいくぶん独 fahren「(乗り物で) 行く、走る」っぽくはあるがこの文脈で現れるようには思えない。しかしそれは彼女が ude efter である裸の/むきだしの十字架である。ude は英 out、efter は after だが意味はわからない。素早い/迅速な tag とともに彼は彼女の頭の上に remmen を løfter op する。「素早い」hurtig(t) は独と同じつづりなので明らか。tag は独 Tag「日」ではない、後者は丁 dag なので。remmen (未知形は remme? rem?) はなんであろうか、とにかくそれを頭に載せたかなにかしたようだ。そしてそれを握っていた (?) 彼女の手から金の十字架をひっぱる〔奪う?〕。knuge(t) は初回の末尾で「握る」と想定したがたぶん正しい気がしてきた。裸の十字架を tag、と彼女は思う、私はこれほど長く brug for したことがなかった、と。brug はたしか「使用」という名詞だったと思うが for がつくのはなんだろう。それに多くの gavn をそれは私になさなかった

彼女は頭を少し片側に drejer する、彼からの glimt を得るために。drejer は文脈から「傾ける」でほぼ確定ではないか、しかし glimt のほうは見当がつかない。そのあと現在分詞節、それが hanglingen をただ fremskynder するだけで、それをなおさらいっそう uafvendelig にする、ということが彼女の dumt だとよく知りながら。わかりそうでわからない単語が続く。hangling(en) は英 hang, 独 hängen の名詞なのだろうか。u-af-vende-lig は独 abwenden「逸らす、背ける」の形容詞の否定? もしそうなら「不可避的」くらいだろうか。そして彼女は闇がその肩を skygge しかえすのを見たので、ともに farer し、大声で言う:「主イエス・キリストよ、私たちに憐れみをかけたまえ!」と。もう barmhjertighed は「憐れみ、慈悲」でいいだろう。「肩」skulder(en) は英 shoulder に酷似するのでわかった。そうして彼女は背中に støvle を得、彼女の頭は hårdt に svirper bagud し、そうそう背中は ryg(gen) だ、リュックサックでおなじみ独 Rücken「背中」なので間違いない、では前出の身体部位らしき halse(n) は肩でも背中でもなくなるがいったい……? 次のコンマで挟まれた 2 語 kroppen fremover はまったく不明、そして彼女は kanten の上に tumler ud し、現在分詞がいくつも og (英 and) で結ばれて続く、flagrende に hvirvlende に baksende に落ちる。そして lodret な skrig を引く、彼女の後ろの kulstift から streg な ujævn のように。efter は英 after のようにさまざまの意味があるから「後ろの」ではないかも。火サス的イメージを引きつぎつつここまでを思いきり想像力豊かに読みなおしてみると、「彼」は鈍器かなにかを高速で「彼女」の頭に殴りつけ、「彼女」は助かろうと祈ったり十字架にすがったりしつつも、背中を押されたか刺されたかして崖から転落していく――、という場面に思えてくる。これはミステリ小説だったのだろうか?

ここで場面転換を表すであろう † の記号が段落間に挟まっている。その次の段落。彼は一歩を取り〔=離れ?〕、forsigtigt に støvlen を置く、bløde で eftergivelige な mos の上に。sætter はたぶん英 sit/set, 独 sitzen/setzen, 日「すわる/すえる」のペアの他動詞のほうでないかと思うので「置く」とした。efter-give-lige の give(r) は英 give なので、after-give-ly となるがそれはなんだろう。それから kanten の上に自分を læner ud し、kroppen に目をやる。kant(en) も krop(pen) も何度も見た覚えのある名詞なのにいっこう見当がつかない。その動作は ansigtet nedad をもって brændingen のなかに/を進んだり戻ったりと、fred に満ちて vuggende しながらである。この段落の、そしてプロローグ全体の最後の文、彼は huen を取り去り、mod な brystet を握り、そしてつぶやく:「私たちの主イエス・キリストが、私たちすべてを evindelig に nåde være するように、アーメン」。mumler は知らない単語だが英 mumble に似ているし流れからしても「つぶやく、ぶつぶつ言う」という感じでたぶん正しかろう。bryst(et) もここまで頻出なのに正体不明なのは遺憾だ。

ともかくもこれでやっとかプロローグが完全に終わったわけである。私はデンマークのオンライン書店 saxo で買った電子書籍で読んでおり、ページ数は電子書籍リーダの文字サイズ設定しだいで変わるのでわからないが、たぶん紙の本で 2 ページかぎりぎり 3 ページに入るくらいにすぎない。それだけでまる 3 日かかってしまったのは不甲斐ないばかりで、はたしてこの調子で続けてわかるようになるのか、そもそも続けられるのか自信がなくなっている。せめて現状の倍くらいは読める単語がないと推測もはかどらないのだが……。それでも kors「十字架」、knuge「握る」、mørke「感じる、気づく」のようにいくつか語義の決定に成功した単語のあるのも事実だ。このことに慰めを得てとにかく進んでみるしかない。

lundi 7 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (2)

いまや彼女は彼〔=主/キリストの声?〕を聞くことができる。彼の knirkende からの声が彼女を støvler し戻す? ここは文型というかどの単語がどうかかっているのかよくわからない。どのように彼が彼女に対し (中に?) lister sig stille するのか、ほとんど blu しきって (?)、前回も出てきた næsten を「ほとんど」ととってあるが定かでない、若い bejler のように genert で、彼女は聞く、どのようにして彼がその重い gispende な åndedræt をこらえようと試みるのかを。少し思いきって語義を想像してみた、そうでもなければなにもわからないまま上滑りしてしまうので。まず「こらえる」ととったのは undertrykke で、類似の単語としてデンマーク語 indtryk, udtryk がドイツ語 Eindruck, Ausdruck を介して (英語の impression, expression に対応する) フランス語からの翻訳借用であることを知っていたので、独 druck/drücken が丁 tryk(ke) になるであろうと考える。そうするとこの動詞は unterdrücken「抑える、こらえる」に違いない。ではその at-不定詞を目的にとる定動詞 forsøger は、こらえようとどうするのか、たぶん独 versuchen「試みる」ではないかと仮定しておくが、こちらはちょっと自信がない。だが今後もきっと同じ動詞が出てくるだろうからとりあえず気にしすぎないことにしよう。ところでいま最後に出た åndedræt という名詞はまえにも出たもので、そのときは tvunget の目的語であった。この動詞はまだ判明していないのだが、今回キリスト (?) が耐えようとしているのが重いまたは困難な gispende åndedræt なのだというから、試練とか苦痛とかそういった言葉だろうか。次の助動詞 kan の主語は彼女か彼かよくわからないが、自分のために/まえで genkendende hen して微笑むことをしないではほとんどいられない。lade være med at といういかにもイディオムらしいものはこのままでは永久にわからないだろうと判断したので辞書を引いた。今回の段落は短くて、次のイタリックの祈りで終わりである:「私たちは汝に乞う、私たち〔の声〕を聞きたまえ、主よ!」 bede はたぶん独 bitten「乞う」だと思う、しかし定動詞の現在形なら -r がつくはずなのでなにかがおかしい。

そのように/そのとき彼女は感じる、彼がただ 2, 3 歩ばかり彼女の後ろに stoppet op したことを。ここで mærke「感じる、気づく」は前回首尾よく割りだしたものである。そして彼女は forestiller sig する、彼が立っていて彼女を見つめている (?) ことを、彼らがともにいた最初のときのように。ser ... an という分離動詞というか句動詞っぽいものはいつも苦手だ、その副詞的前置詞の部分がどういうニュアンスなのかつかむのが大変である。ただ「見ている」だけではないようなので暫定的に勝手に言葉を足しておく。その次の overvejer という動詞はまったく見当がつかない。vej は英 way, 独 Weg「道」のことだが vejer とはなんだろう、「道」を over するなら行きすぎるとか逸脱するとかだろうか? その目的語は彼が何を ramme するだろうかということを overvejer する。違いそうだ。ramme という動詞もどこかで見た、そう、海の水が崖を rammer するのであった。削る? 打ちつける? それと何が (どんな、どれくらい?) hårdt かを。デンマーク語 å がドイツ語のどの母音に対応するかもそろそろ見極められたら推定もしやすくなるのだが。というのは彼女は彼が彼女を dræbe したいということを、しかし彼は彼女を fortræd にしたくはないということを知っていたから。それから føles というおそらく s-受動態の動詞がわからないが、慰めのある føles である、彼に så tæt på させることは。trøstende というおそらく現在分詞は独 trösten「慰める、元気づける、希望を与える」に違いない。いまや何を彼女の生が være slut しようとしてるか (を?)。このあたりは文のつながりがわからず前後の句とどう関係しているのか支離滅裂。それは彼女を tryg にし、また彼女に slappe af させる。そして彼女は brystet に向かって下に hagen を曲げ〔=かがみこみ?〕、深く天気を trækker する。最後は絶対に間違っているなあ。原文は trækker vejret dybt で、dybt は「深く」という副詞のはずだし、vejr は「天気」という意味しか知らない。あんまり暗中模索を続けるのも気分がよくないので vejr を辞書で引いてみると「息」という語義もあった。trække vejret で「呼吸する」も載っていた。深呼吸か。また祈り、「神の子よ、私たちは汝に乞う、私たちを聞け!」 かなり信心深い、もしくはそういう境遇に陥っている女性のようだ。あまり進まなかったが時間なので今日はここまで。

dimanche 6 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (1)

先日、翻訳家の柴田元幸氏の編集する MONKEY 誌の既刊 12 号 (2017 年 6 月発刊) にて、アメリカの作家リディア・デイヴィスによる「ノルウェー語を学ぶ」という記事を読んだ。これはノルウェー語をほとんどなにも知らない彼女が、それを勉強することも辞書を引くこともなしにノルウェー語の分厚い小説――「テレマルク小説」と通称されるダーグ・ソールスターの近著、正式なタイトルは Det uoppløselige episke element i Telemark i perioden 1591–1896, 2013――を読みきる過程をレポートしたものであり、私も触発されて同じ挑戦をしてみようと思いたったものである。これをリディア・チャレンジと呼ぶことにしよう。

だが私とデイヴィス氏とではまったく条件が異なる。彼女は母語が英語で、小学生のときに 1 年間オーストリアに暮らしてドイツ語で小学校教育を受けたことがあり、翻訳家としてフランス語からの翻訳を何冊も手がけるというように、まず英独仏のかなり自由になる知識を有している。さらに少なくともほかにスペイン語とオランダ語も勉強して本を何冊か読んだことがあるという。周知のとおりノルウェー語はゲルマン語の仲間でドイツ語や英語と少なからず単語や文法を共有しており、実際にその記事を読めばわかるとおり、彼女はかなりの頻度で英語とドイツ語の知識に頼ってノルウェー語の意味を推定している。したがって、ほぼゼロから読みはじめるとはいっても、たとえば彼女が日本語の本を読むというのとはぜんぜん話が違うのである。もし彼女の挑戦する相手が日本語であったならば、たとえ本の終わりまで目を通してもほとんど理解は進まなかっただろうし、それどころか途中で投げだす可能性も大きかったのではないか。

さてなにを読むかという段になると、ノルウェー語にも私は興味があるが読みたい本のほうをぱっと思いつかなかったので、かわりにデンマーク語でかねてより気になっていた小説、Kim Leine の Profeterne i Evighedsfjorden, 2012 (『永遠のフィヨルドの預言者たち』) を課題図書として採用しよう。あらすじについては 18 世紀末に行われたグリーンランドへのキリスト教宣教に関わる歴史小説?というくらいしか承知していない。これは翌 2013 年に北欧理事会文学賞に選ばれた世評の高い作品で、「テレマルク小説」と違ってすでに英語を含むいくつかの言語に翻訳されているが、もちろんその翻訳には頼らないことにする。

もっとも私はすでにデンマーク語を少しだけ勉強した経験があるが、アクティブに使う経験はなく単語力はといえばまったく壊滅的なので、ほとんど無知な状態といっても大差がない。私も原則は辞書や人に尋ねることなしにひたすら原文を読み、しかしどうしても困ったら多少はルールを曲げてよい、というデイヴィス氏流の緩やかな縛りを真似ることにしよう。

以下に記録するのは実際にこの本をデンマーク語で読み解読した生の過程である。私のさまざまな悪戦苦闘の部分を除き、原文の翻訳らしきものになっている箇所だけを太字にしてあるので、太字の部分のみを拾い読めば原文の筋がわかる……ようになるのはまだずいぶん先のことであろう。現時点ではわからない単語が多すぎてまったく翻訳としては機能していない。


どうやらプロローグらしい章の最初の行には、見出しとして Faldet という 1 語が出ているが、のっけからなんだかわからない。でも fald- なのでたぶん「落ちる」という動作と関わりがあるのではないか? -et は中性既知形語尾。次の行に日付があるのでもしかして英語の fall と同じくのことか? しかしその日付は 1793 年 8 月 14 日。まだ舞台がデンマークなのかグリーンランドなのかも判断できないが、いくら北の国でもまさか 8 月 14 日が秋ということはないだろう。保留。それにしても「8 月」が august なのは助かる、たとえばチェコ語 srpen のようにてんで違うつづりだったら迷宮入りになるところであった。

本文に入る。最初の語は enken、これも不明。スウェーデン語だかノルウェー語だかの enkel「単純な、簡単な;単独の、一人の」と似ている。不定代名詞っぽさもある。誰かは一人でここへ上がってきた、誰も彼女にそうするよう tvunge することなく。enken と過去分詞 tvunget 以外はだいたいわかるので大づかみに訳してみた。これはかなり幸先がいい、と気をよくする。彼女は自分のとても美しい服から lusene を banket した。lusene の -ene は複数の既知形語尾なので、lus がなにか物を表す名詞だろう。「光、明かり」かとも思ったがそれはデンマーク語だと lys だっただろうか。そして iført sig dem、ほとんどなんだかわからない。自分をそれに iført した? 次に fælleshusets urinbalje のなかで髪を洗い、それを結いあげた。fælles はデンマーク語文法でいう普通名詞 (fællesnavn) や共性 (fælleskøn) の前半部分なので、英語でいえば common だろう。では共通の家の urinbalje か。共用の風呂場? 彼女は 1 つの stille bøn を bedt した。これはだめだ、なにもわからない。彼女の hedenske な同居人から tavst iagttaget した。bofæller が同居人というのも勘でしかない。bo(r) は「住む」だし fælle はさっき見た「共通」なので、たぶん正しいのではないかと思う。そして子どもたちから sodblandede fedt を skrabet した。kinderne が「子ども」というのも嘘かも。独 Kind(er) を連想したせいだが、よく考えたら北欧語で子どもは barn のたぐいだと思う。それからおいしい måltid を食べた? ここは文構造がわからない、ひょっとすると måltid は副詞か接続詞だったりするかもしれない。とにかくなにかよいもの (det gode) を食べた (spist) らしい。それは彼女へ stillet frem されていたように見える。そのようにして彼女はここに上がってきたlette skridt の上に båret して。なんのことやら。lette の上にというからにはなにかその上に乗れるもの、仏 lit「ベッド」を思いうかべるがたぶん関係がない。いまや彼女はここに座っている、ほとんど喜んで、forventning に満たされて。それからまた kinderne が出てくる。怪しいと思いつつ子どもと訳しておくしかない。子どもたちのなかで呼んだ、kanten の上で外に (??)、彼女の下のなかに (???) tækkeligt に benene とともに、enkemaner の上に。支離滅裂。だいたいどうしてデンマーク語 (やフェーロー語やアイスランド語など) では ude på だの ind under だの、ud af だの frem til だのと、前置詞らしきものが二重に重なるのか、この種のものはまったく意味がとれない。片方 (おそらく前者) は場所の副詞か、ドイツ語で言うところの分離前つづりのようなものだろうか? とにかく読み進めるしかない。しかしそのまえに一点、最後の enkemaner の enke は冒頭の enken と同じものではないか? そのことに留意しておく。まだ文はコンマで続いており、このようにして彼女は glamhullet の下の小さな sidebriks の上に derhjemme 座ることを plejer する。sidebriks の後半は英語の brick「レンガ」のようにも見える。片方の手に彼女は korset を knuger し、金の重い varme のなかに trygheden を mærker する。これまでの文に比べれば心なしかましになった。とにかく金製の重いなにかが手のなかにあるらしいという多少とも具体的な情景が思い描かれる。ここまでまったく五里霧中であっただけに、まさしく闇のなかに一筋の光を見たようでありがたみを痛感する。まだ第 1 段落の半分までしか来ていない。彼女のずっと下方、少なくとも数百 favne の落差の下に、彼女は brændingen を聞く。favne は間違いなく長さの単位だろう。「少なくとも」と訳したのは mindst で、それは独 zumindest から類推した。いま fald に再会し「落差」ととったが、これはこのプロローグの見出しの単語であった。やはり「秋」ではなく「落下」だろうか? だがそれでもどういうことかわからない。水がそこで rammer klippen、白い skum に knuse され、sydende が自分を trækker し戻ってくる。高い崖の下で海の波が寄せては返す感じか? なんとなくわかってきた気もするがすべてが妄想である危険性がある。だが彼女はそれを見ていない、彼女は両目を knebet i している。両目をつぶっている? それから indad 瞬きを vendt し、彼女は ængstelsen を bekæmpet した。またわからない単語が増えている。-else は名詞を作る接尾辞だから、ængst の部分が語幹で、独 Angst「不安、恐怖」によく似ているものの、前後の単語もわからないので妥当性が確かめられない。そして 1 行めに出会った動詞 tvunget が再登場する。sej なリズムで åndedrættet と心臓の lagene を tvunget した。rytme はたぶん仏 rythme, 英 rhythm だろうと想定した。それにかかる形容詞 sej とはなんだろう、短いのでかなり基本的な単語に違いないが、速いのか遅いのか。さらに彼女は læberne を bevæger し、litaniet を何度も何度も gentager する。litaniet はどう見たってデンマーク語ではない借用語だ。デンマーク語の辞書は引かないつもりだが、英語ならいいだろうということにすると、litany「連祷」というキリスト教用語が見つかるのでこれに間違いない。同じ祈りの言葉を何度も何度も繰りかえし口にしたわけだ。そういえば læberne も (単数未知形は læb か læbe か) 英 labial「唇の」に似ている。bevæger læberne は「唇を動かし」? be-væg- という字面はどうも動かしそうな感じに見える (独 bewegen)。この次の 2, 3 行はイタリックで組まれている。祈りの句だ。「おお天にいる父なる神よ、私たちに barmhjertighed をもて」? hav はまさか「海」ではないだろうから、たぶん「もつ」har の命令法かと考えた。次の 2 語 elendige syndere は不明。それから「おお神の子よ」と来てまた「barmhjertighed をもて」。-hed=独 -heit なのでなにか抽象名詞のようだがいったいなんなのか。「憐れみ、慈悲」あたりか? 「おお神、救い主よ」。この Helligånd もちょっとわからないが、ヘーリアントに似ているし大文字書きなので「救世主」かと推測。祈りの句の最後、「おお velsignede で herlige な Treenighed よ」。なにもかも不明、だが最後の大文字の名詞は「三位一体」かもしれない。その直前の形容詞は「聖なる」かも? これらを唱え終えると彼女は下から i stød に来る風を mærker し、彼女の dragt のなかの生命/人生を puster する。mærke(r) という動詞は何行かまえにも出たもので、そのときの目的語は tryghed(en) であった。bevæge : bewegen のように æ がドイツ語の e に対応するとすればこれは merken「気づく、感じとる」なのではないか? 「風を感じる」のはかなりそれらしいので有力候補だ。次に彼女は klippen の上の fugtige な tørv に自分を klamrer する。klipp(en) は独 Kliff, 英 cliff「崖、絶壁」のような気がしてきた。彼女がそうするのは utide に kanten について skubbet ud されないためにだという。このように彼女は座ったまま連祷を messer し、助けを待って/期待している。ふたたびイタリックで祈りの言葉、「汝の dødsangst と blodige sved がともに、汝の kors と lidelse がともに、私たちを frels したまえ、主よ!」 これがこの段落最後の文。dødsangst ははじめ død-sangst に見えたが (仏 sang「血」)、døds-angst と切るとすれば「死の恐怖」? kors はしばらくまえに korset という中性単数既知形で出てきたが、思えばこれもぜんぜんデンマーク語らしくない。文脈からイエスに関係する単語、もしかして「十字架」ではないか? ではあのときそれを目的語にとった定動詞 knuger は「握る」とか? 今日はここまで。