vendredi 8 novembre 2019

ポケモン XY (カロス地方) の道路名の意味

ポケットモンスター XY』の道路にはすべて別名がついており、大部分はフランス語から名づけられている。カナ表記にはヴァ行を使わずバ行になっているが、基本的には読みかたはあっているのでフランス語を知っていればすぐに由来がわかる。6 年まえの作品だが意外にもこれをまとめたページが見あたらなかったので解説してみた (フランス語でないものは原則として除いた)。


1 ばんどうろ=アサメのこみち

2 ばんどうろ=アバンセどおり──過去分詞アヴァンセ avancé「(文化・文明的に) 進んだ、発達した;進歩的な」ととると最序盤の道路にはそぐわないし、不定詞アヴァンセ avancer「前進する」なら通るが以下でほかに動詞を使っている例はない。たぶん名詞アヴァンス avance「前進」の読みかたを間違えたものではないか。

3 ばんどうろ=ウベールどおり──ウヴェール ouvert「開いた、開いている;公開・開放された」。

4 ばんどうろ=パルテールかいどう──パルテール parterre「花壇」。

5 ばんどうろ=ベルサンどおり──ヴェルサン versant「斜面」。

6 ばんどうろ=パレのなみきみち──パレ palais「宮殿」。パルファムきゅうでんにつながる道だから。

7 ばんどうろ=リビエールライン──リヴィエール rivière「川」。ラインは英語。バトルシャトーのある川沿いの道。

8 ばんどうろ=ミュライユかいがん──ミュライユ muraille「壁;城壁、城塞」。コウジンタウンを取り囲む切り立った断崖にちなむか。

9 ばんどうろ=トゲトゲさんどう

10 ばんどうろ=メンヒルロード──メンヒル menhir はヨーロッパ先史時代の、数メートルの細長い石を直立させた巨石記念物を指す、ブルトン語から作られた術語 (maen「石」+ hir「長い」)。ブルトン語はフランス北西部ブルターニュ地方の言語で、フランスをモデルとしたカロス地方でもちょうどセキタイタウンはブルターニュのあたりに位置している。ロードはもちろん英語。

11 ばんどうろ=ミロワールどおり──ミロワール miroir「鏡」。うつしみのどうくつにちなむ。

12 ばんどうろ=フラージュどおり──フラージュ fourrage「まぐさ、飼い葉」。メェールぼくじょうにちなむ。余談ながらメェールぼくじょうはメェークルの脱字ではなく、メール mer「海」に由来するようだが (アズールわんにつながる立地から)、わざわざ「ェ」をはさんでいるのはメェークルともかけているために相違ない。

13 ばんどうろ=ミアレのこうや

14 ばんどうろ=クノエのりんどう

15 ばんどうろ=ブランどおり──ブラン brun「褐色の、茶色の」。カタカナで見るとブラン blanc「白い」のほうがさきに思いうかびやすいが (モンブラン Mont-Blanc のブラン)、現地の色あいからして前者のほうだろう。

16 ばんどうろ=トリストどおり──トリスト triste「悲しげな;陰気な、陰鬱な」。

17 ばんどうろ=マンムーロード

18 ばんどうろ=エトロワ・バレどおり──エトロワ étroit「細い、狭い」とヴァレ vallée「谷、渓谷」からなるが、フランス語では形容詞は一部の語を除いて後置で、しかも vallée は女性名詞なのでエトロワ étroit ではなくエトロワト étroite にしてヴァレ・エトロワトが正しい。

19 ばんどうろ=ラルジュ・バレどおり──ヴァレ vallée「谷」は上と同じもの。前半ラルジュ large「幅の広い」はエトロワと対になっている。

20 ばんどうろ=まよいのもり

21 ばんどうろ=デルニエどおり──デルニエ dernier「最後の」。チャンピオンロードにつながる最後の通りだから。

22 ばんどうろ=デトルネどおり──デトゥルネ détourné「遠回りの、迂回した」。序盤のハクダンシティから来られるが、チャンピオンロードに入るには遠回りしてすべての町を回ってこなければならないから。

jeudi 10 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (5)

どちらへ、mester? これは英 Mister にあたる敬称の呼びかけ? セリフらしく見えるが引用符で括られていないのではっきりしない。1 人の drager が自身からその kærre を stillet した、そして彼のほうへやってくる。前半は完了、後半は現在。

彼は kuvert を取り出し (?)、それを広げ、adressen とともに紙をその drager に rækker する。船旅だしチケットかなあ、いや船旅は終わったのだとすると宿のチェックインかも。adressen はどう見ても英 address だがこういう多義語には罠がある。だがとりあえず「住所」ととっておいて大丈夫そうか。Drager はその紙を受けとろうとはしない。彼〔=drageren〕は疑わしげに彼〔=モーテン〕を見るああ、とモーテンは思う、〔この drager は〕文盲なのだ。「文盲」analfabet は万国共通なので明らかだ。このおかげでこの段落全体はおぼろげに理解できる。やはり搭乗券かなにかをモギリ (?) に渡しているのだろう。ホテルのフロントが文字を読めないのはちょっと考えにくい。いくら時代が違うとしても宿帳をつけられない者がフロント業務もないだろう。

北通り、とモーテンは言い、デンマーク語でそれを発音しようと試みる。出版者 (?) シュルツ (Schultz) の gård だ。前半はほぼ確実。forsøger は第 2 回で独 versuchen と仮設したもの。「出版者」bogtrykker は前半が「本」bog、後半が trykke でこれは独 drücken, 英 press なのでたぶんあっていると思う。このあたり、短い文章ですぐ段落が変わるので気が楽だ。

この道です、旦那、と drager は言い、彼を fører する。この動詞は案内か先導? ある tolder が彼の pas を folder ud しそれを studerer するところの porten へと。彼は passet を取り戻す。ああ、pas(set) はそのまま「パスポート」か。モーテンはべつの国からこのコペンハーゲンに来ていたわけだ。では studerer は独 studieren, 英 study で、「詳しく検討・検査する」というところか。それで porten は入国審査をする場所なのだろう。で、tolder がその審査官、でも日本語でなんと言ったかな? とりあえず審査官としておくか。

コペンハーゲンは学生を歓迎し希望します、と審査官は言う。muligvis に皮肉的な tonefald で。最後の単語は「トーン、調子」っぽい。mulig-vis もわかりそうな感じはするのだが。前半はたしか独 möglich, 英 possible「可能な、ありうる」のことだった気がする。

こうして彼は sted から traver する、小さな vippekærre の上の hælene のなかの町へ。vippe(r) も kærre ももう見たなあと思いつつわからない。彼は船旅のあとの benene の上で〔=によって?〕smule な usikker である。はい、第 3 回で定かでなかった skib「船」はこの「船旅」skibsrejsen のおかげで確定した。そして今もかつても (?) 少し slingre するために来る。なんだかおかしいな。町のなかの長い通行は overvældende である。「通行」trafikken というのはなんだかわからないがとにかく英語のトラフィックのこと。beværtninger と torvesalg への varer をもつ bondevogne が tordnende しながら来る。これはいけない。だが続きもまた訳のわからぬ単語が頻発する。エールの tønder をもった vogne、暗い skikkelser をもった diligencer が、bukken の上高くの ruderne と kuske の後ろに。さらに støvler を smældende し、目は死んだように stirrende fremad しながら、sted から行進する兵士たち。何度も出てくる af sted というのはいいかげんに辞書を引いたほうがいいな。sted それじたいは「場所、地点」で (では英語の廃語 stead と同源かな)、af sted だと英語の along と off、って「沿って」と「離れて」ではまったく正反対に見えるのだがどういうことなのか……。slagtede gæs か høns または kaniner でできた (?) 大きな bylter を肩に担ぐ男たち。この文はどうも動詞がない (bærer は関係代名詞 der 節のなかなので) 名詞句だけの文。次の文もそうかもしれない、skillingstryk をもって vifter し、彼らが同じ朝に udenad に覚えた韻文から strofer を vræler する少年たち。英 verse と同じ「韻文、詩歌」vers のおかげで少しは見えてくる、日常的な町の風景だ。Brostenene は sæbeglatte である、彼らは決定的でない hinde のなかで svøbt である。モーテンは snubler するが、自分を vender om し彼を引き上げる drageren の上の腕のなかに griber fat する。そのあとで彼〔=モーテン〕は彼〔=drageren〕を fortovet のなかに向かって厳しく skubber する。「厳しく」とした hårdt は英 hard の中性=副詞形、以前に出たときは自信がなかったが辞書で確認した。だが hard じたい多義的なのでこれまた文脈の助けがなければ訳しようがない。段落の半ばほどであるが少し疲れたので中断する。

mercredi 9 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (4)

本日からいよいよこの小説の本編に入っていく。扉に書かれているのは第 1 部、校長の息子……だろうか? skole は学校に違いないが holder(ens) が心もとない。たぶん英語と同じで保有者ということだと思うが……。とにかくそういう人物が出てくるかどうか少し待ってみよう。

第 1 章、コペンハーゲン、1782–1787 年。なかなかなじみのない時代である。アンデルセンは 1805 年、キルケゴールは 1813 年生まれだから、彼らの父が生まれたくらい、ということは祖父が青年だったほどの時代だ。理解できるかどうか自信がなくなってくると同時に、興味も惹かれる。

雲に覆われた、smule klamt な天気である。「雲に覆われた」は overskyet、これは sky が「雲」なのでたぶん正しいと思う。ノルド語の「雲」が英語に入ってしだいに「空」を意味するようになった話は英語史の豆知識として知っていた。前回までのプロローグもそうだったが、どうしてか地の文の動詞はもっぱら現在形で続いていく。訳文として少し据わりが悪いので過去形にするべきかとも思ったが、まともに訳せていないうちから考える問題ではないのでとにかく書いてあるとおりに移そう。モーテン・ペデルセンが 1782 年 6 月 1 日にコペンハーゲンに到着するときは。順番が前後したがこの da 節のときに先述の天気だったということ。「到着する」ankommer は明らかに独 ankommen なのでわかる。いま言った日付は、彼の 26 歳の誕生日の 10 日後である。ということは彼は 1756 年 5 月 22 日生まれということになるか。彼は座って、chaluppen を vipper し、森の上に戻って kigger する、rheden の上に外への master によって。戻って kigger のところは「振りかえる、顧みる」とかだろうか? rheden は間違いなく借用語だ、rh- なんてつづりがあるわけがない、でもなんなのかわからないのが歯がゆい。時刻は朝の 6 時半。たまさかこういう完璧にわかる文があると本当にうれしい。halv syv (文字どおりには「7 時の半分」) はドイツ語 halb sieben と同じで「6 時半」なのだ。彼は夜じゅう目覚めていた (?)、クリスチャニアからの paketbåden によって dækket の上を行きつ戻りつし、いらいらして、søfolkene の前で ulempe でありながら。søfolkene は sø「湖、海」の folk「人々」に見えるから、「船員」? 残りはちょっと推測がつかない。彼がトルボーデン (Toldboden) の前で kajen の上で跳ねるとき、彼の tøj はエーレスン (Øresund) の prop のように座っている tågen からの fugt によって gennemtrukket されている。うーん……。最後の過去分詞 gennemtrukket はノーヒントではない、gennem は英 through だし、trukket の原形はプロローグでも何度となく見た trække「引く」だ。しかしこの動詞じたい多義的なのでぴったりした訳語を見つけるのは困難。彼は少し forkølet に自分を føler する、そして道の上に hoste があることを知る、しかしそれはさほど遅い時間に (?) とらない。彼はよい konstitution をもっている、この名詞は明らかに独 Konstitution, 英 constitution と同じだが意味は定かでない。まさか「憲法」ではありえないし、「構造、組成」も変だ、独にも英にも「体質、素質」という意味があるからそれだろうか。兄弟姉妹の flokken のなかの udskillelsesprocessen が彼をして overlever のように自分自身を betragte させた。また高度の運命論とともに彼を udstyret した。ちょっと惜しいので最後の udstyre は辞書でカンニングしてしまうと、英 equip ということなので「彼に運命論を備えつけた、もたせた」ということか。旅は 3 日間かかった。これは多少の undervejs を blæst したが、彼は船酔いにはならなかった。søsyg は文字どおり「海の病気」なのでとりあえず船酔いと考えた、たかだか 3 日の話だしまさか壊血病のような本格的な船乗りの病気ではないだろう。彼は føler する、彼はそのはじめての船旅で男たちのように klaret したかと、また mandskabet から anerkendelse のあれやこれやの形を forventet したか、それとも最小のもののなかで〔少なくとも?〕afsked への håndtryk と若干の語を。相も変わらずわからない単語が多すぎて構文もとれない。彼は想像した、彼らは bollemælk のために stikker op しない stoute なノルウェーの knøs についての注意/言及を hvisket したのかと。となると hviske は「無視する」とかかなあ、と思って答えあわせのつもりで辞書を見たら英 whisper「ささやく」だった、まったく想像はあてにならない。だが彼らは一言もなく土地で彼の kiste だけを lemper し、彼を自分自身へ overlader するほかの多数の chalupper が彼の後ろで bolværket に向かって bumper する。chalup(per) は 2 度めの登場だ、これもどう見てもデンマーク語ではないので考えればわかるのかもしれないが。Skikkleser が kajen の上で跳ね、朝の灰色の光のなかで syne へと来て、それらの sække と kister とともに sted によって slæber する。kajen の上で跳ねることはさっき「彼」もやっていたことだ。そういえばプロローグでは最後まで「彼」も「彼女」も正体不明だったが、ここの「彼」は 26 歳の青年モーテン・ペデルセン氏とわかっているのだった。今日はあまり時間がとれなかった、一段落が終わったのでいったん切っておこうか。

mardi 8 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (3)

段落が変わって、luft は穏やかである。風だろうか、それとも波? opadstigende な乱流は muslinger と tang とから dufter する。turbulenser は英語とほぼ同じだから「乱流、大荒れ」で間違いない。難しい言葉ほど借用が多いので、デンマーク語をなにも知らないのにやたら高度な言葉ばかりちゃんと訳せるという事態が生じる。opadstigende はどうだろう、形態素に切ると op-ad-stig-ende と思われ、接頭辞が 2 つと現在分詞語尾がついているが語幹 stig- は独 steigen「登る、上がる」ではないか。op- も上がる感じだし、全体的に上向きの雰囲気がある。それから tidevandslinjen のなか (上?) は blotlagt である。tide-vands-linje(n) と分ければ「時間・水の・線」? 「時間」を意味する tid は英 tide「潮」と同源だったはずなので、それと関係がありそうだが……。その fjerne のなかで mågerne が skriger している。mågerne は複数既知形で、単数は måge だろうか。わからない単語が多すぎて話がまったく見えてこない。Uvilkårligt に彼女は目を開ける。u- は否定の接頭辞で -lig-t は副詞だから、非 vilkårlig に、というのが目を開ける動作の様態を示しているのだろうが、さすがに候補が多すぎる。彼女は今でさえも lade være することができない、このイディオムもいまいちわかっていない。逐語的に訳せば「〜であることをさせる、であらしめる」? それがどうして英 with, 独 mit にあたる med をつけて lade være med になると「させない、やめる」になるというのか (前回)、これがすでに私の勘違いだったのか? どうも泥沼にはまっている。無視。彼女の sind が地上の生のつまらぬ事々の上にあえて hævet され、天的なものへと stemt されるところの、あらゆるもののうちの最後の udkant に。かなりわかったように見えるが肝心なところの動詞がさっぱりである。雰囲気からすると sind は魂とか霊とか? 「つまらぬ事々」ととったのは trivialiteter、つまり独 Trivialitäten である。英語だと trivialities... なんて単語はないか。「天的な」himmelske も独 himmlisch とすぐにわかる。彼女は larmende な måge(r) たちが何を har for しているか見る必要がある。har じたいは英 have で簡単なのだがやはり句動詞は厄介でどうにもならない。そして彼女は北 (から? へ?) の道の上に skibet を、〔すなわち?〕fyldte sejl をもった tomaster を見る。skib は ship「船」、sejl は sail「帆」っぽく見える。fyldte は独 füllen, 英 fill「満たす」にあたる動詞の過去分詞っぽく、この 2 語で「満帆」かもしれない。そうすると vej が「道」というのはべつに陸路にこだわる必要はないので航路だろうか。おそらく前の語句を修飾する分詞節、mågevinger のように白くまばゆく。まばゆくというのは blændende で、すでに mærke の件で独 e : 丁 æ とわかっているのでこれは独 blenden の現在分詞。måge はさっきから何度も出てきている。ving が英 wing だったら鳥の種類らしく思えるが、「翼」は独では Flügel だし、これまでも見てきたように基本的な語は英よりは独に近いのでたぶん違うと思う。そして masterne のまわりを driver する skrigende な måger によって sværmen。また måger、それに skrige という動詞もやはり最初に mågerne が出てきたときにそれらがしていた動作だ。同じ組みあわせが再登場したところでヒントにはならない。いいや、彼女はいまだに自分の skaber を møde するのに parat でない、昼と同じようにではなく。次に for sent が 3 度繰りかえされるのでカンニングして調べてしまった、sent は「遅い」らしい。だが彼女は知っていた、fortryde するにはあまりに遅い、彼女自身にとってあまりに遅い、彼女の後ろに立っている彼にとってあまりに遅いということをすべては rette するよう整えられ置かれている。次の、この段落最後の文は faldet 以外完全な自信をもって訳せる:落下はすでに始まっていた、それは何年もまえに始まったのだ。プロローグのタイトルでもある fald(et) は第 1 回の途中で「落下」と改めていた。どうも海のそばの断崖の上に彼女はいるようなので火サス的な場面を思いうかべているが、投身自殺なら「何年も」というのは妙だし、もしかするともっと抽象的な話で「凋落、没落」とかそういったことかもしれない。

彼女はほかの〔もうひとつの? 他人の?〕静かな vejrtrækning を聞く。trækning というのは trække の名詞形だろう。あっ、わからないと思ったが違う、これは前回出た trækker vejret「呼吸する」の名詞か。では「もうひとりの静かな呼吸」か。「静かな」rolig は独 ruhig と似ていそうで似ていないが少し似ているので覚えていた。で、その vejrtrækning の直後にコンマもなく at-節が続いているかかりかたがよくわからないが、その中身を見ると彼は目をその船に得る〔=一瞥する?〕ことができなかった、と。なんだか違う気がするがしかたがない。彼は彼がしなければならないことによって optaget には老いている。待て待て、どうも前回から、「彼」とは「彼女」が祈りを捧げている相手の主/キリストであって、「彼女」がなにか宗教的幻想を見ている話だと思いこんでいたが、この呼吸もしている「彼」は現実にいる登場人物なのか? そうなると前回の読みもかなり修正を要することになりそうだ。彼は彼女と同じように不安なのだろうか? 彼はそれ (形式主語かも?) が ske しないことを望みたがっているのか? 疑問文が続く。もし彼女が彼に skibet を見させることができたら、と彼女は思う、すべてのことはひょっとして別様になりうるであろうか。skib は「船」だと仮定してきたが、船を見るだけですべてが変わるというのはよくわからないので間違いだったかも。そして彼らはこの morderiske stævnemøde を udsætte できる〔だろうかと〕。morderiske はちゃんと考えればわかりそうな気配のする字面だ。もしかして独 mörderisch, 英 murderous「殺人的な」? でも独 ö は丁 ø のはずだし……。

そのとき彼女は彼の手が halsen の上に〔あることに〕気づく。halsen は肩か背中か、ともかく身体の部位だろう。また彼女は lav klynken とともに farer する。動詞 fare はいくぶん独 fahren「(乗り物で) 行く、走る」っぽくはあるがこの文脈で現れるようには思えない。しかしそれは彼女が ude efter である裸の/むきだしの十字架である。ude は英 out、efter は after だが意味はわからない。素早い/迅速な tag とともに彼は彼女の頭の上に remmen を løfter op する。「素早い」hurtig(t) は独と同じつづりなので明らか。tag は独 Tag「日」ではない、後者は丁 dag なので。remmen (未知形は remme? rem?) はなんであろうか、とにかくそれを頭に載せたかなにかしたようだ。そしてそれを握っていた (?) 彼女の手から金の十字架をひっぱる〔奪う?〕。knuge(t) は初回の末尾で「握る」と想定したがたぶん正しい気がしてきた。裸の十字架を tag、と彼女は思う、私はこれほど長く brug for したことがなかった、と。brug はたしか「使用」という名詞だったと思うが for がつくのはなんだろう。それに多くの gavn をそれは私になさなかった

彼女は頭を少し片側に drejer する、彼からの glimt を得るために。drejer は文脈から「傾ける」でほぼ確定ではないか、しかし glimt のほうは見当がつかない。そのあと現在分詞節、それが hanglingen をただ fremskynder するだけで、それをなおさらいっそう uafvendelig にする、ということが彼女の dumt だとよく知りながら。わかりそうでわからない単語が続く。hangling(en) は英 hang, 独 hängen の名詞なのだろうか。u-af-vende-lig は独 abwenden「逸らす、背ける」の形容詞の否定? もしそうなら「不可避的」くらいだろうか。そして彼女は闇がその肩を skygge しかえすのを見たので、ともに farer し、大声で言う:「主イエス・キリストよ、私たちに憐れみをかけたまえ!」と。もう barmhjertighed は「憐れみ、慈悲」でいいだろう。「肩」skulder(en) は英 shoulder に酷似するのでわかった。そうして彼女は背中に støvle を得、彼女の頭は hårdt に svirper bagud し、そうそう背中は ryg(gen) だ、リュックサックでおなじみ独 Rücken「背中」なので間違いない、では前出の身体部位らしき halse(n) は肩でも背中でもなくなるがいったい……? 次のコンマで挟まれた 2 語 kroppen fremover はまったく不明、そして彼女は kanten の上に tumler ud し、現在分詞がいくつも og (英 and) で結ばれて続く、flagrende に hvirvlende に baksende に落ちる。そして lodret な skrig を引く、彼女の後ろの kulstift から streg な ujævn のように。efter は英 after のようにさまざまの意味があるから「後ろの」ではないかも。火サス的イメージを引きつぎつつここまでを思いきり想像力豊かに読みなおしてみると、「彼」は鈍器かなにかを高速で「彼女」の頭に殴りつけ、「彼女」は助かろうと祈ったり十字架にすがったりしつつも、背中を押されたか刺されたかして崖から転落していく――、という場面に思えてくる。これはミステリ小説だったのだろうか?

ここで場面転換を表すであろう † の記号が段落間に挟まっている。その次の段落。彼は一歩を取り〔=離れ?〕、forsigtigt に støvlen を置く、bløde で eftergivelige な mos の上に。sætter はたぶん英 sit/set, 独 sitzen/setzen, 日「すわる/すえる」のペアの他動詞のほうでないかと思うので「置く」とした。efter-give-lige の give(r) は英 give なので、after-give-ly となるがそれはなんだろう。それから kanten の上に自分を læner ud し、kroppen に目をやる。kant(en) も krop(pen) も何度も見た覚えのある名詞なのにいっこう見当がつかない。その動作は ansigtet nedad をもって brændingen のなかに/を進んだり戻ったりと、fred に満ちて vuggende しながらである。この段落の、そしてプロローグ全体の最後の文、彼は huen を取り去り、mod な brystet を握り、そしてつぶやく:「私たちの主イエス・キリストが、私たちすべてを evindelig に nåde være するように、アーメン」。mumler は知らない単語だが英 mumble に似ているし流れからしても「つぶやく、ぶつぶつ言う」という感じでたぶん正しかろう。bryst(et) もここまで頻出なのに正体不明なのは遺憾だ。

ともかくもこれでやっとかプロローグが完全に終わったわけである。私はデンマークのオンライン書店 saxo で買った電子書籍で読んでおり、ページ数は電子書籍リーダの文字サイズ設定しだいで変わるのでわからないが、たぶん紙の本で 2 ページかぎりぎり 3 ページに入るくらいにすぎない。それだけでまる 3 日かかってしまったのは不甲斐ないばかりで、はたしてこの調子で続けてわかるようになるのか、そもそも続けられるのか自信がなくなっている。せめて現状の倍くらいは読める単語がないと推測もはかどらないのだが……。それでも kors「十字架」、knuge「握る」、mørke「感じる、気づく」のようにいくつか語義の決定に成功した単語のあるのも事実だ。このことに慰めを得てとにかく進んでみるしかない。

lundi 7 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (2)

いまや彼女は彼〔=主/キリストの声?〕を聞くことができる。彼の knirkende からの声が彼女を støvler し戻す? ここは文型というかどの単語がどうかかっているのかよくわからない。どのように彼が彼女に対し (中に?) lister sig stille するのか、ほとんど blu しきって (?)、前回も出てきた næsten を「ほとんど」ととってあるが定かでない、若い bejler のように genert で、彼女は聞く、どのようにして彼がその重い gispende な åndedræt をこらえようと試みるのかを。少し思いきって語義を想像してみた、そうでもなければなにもわからないまま上滑りしてしまうので。まず「こらえる」ととったのは undertrykke で、類似の単語としてデンマーク語 indtryk, udtryk がドイツ語 Eindruck, Ausdruck を介して (英語の impression, expression に対応する) フランス語からの翻訳借用であることを知っていたので、独 druck/drücken が丁 tryk(ke) になるであろうと考える。そうするとこの動詞は unterdrücken「抑える、こらえる」に違いない。ではその at-不定詞を目的にとる定動詞 forsøger は、こらえようとどうするのか、たぶん独 versuchen「試みる」ではないかと仮定しておくが、こちらはちょっと自信がない。だが今後もきっと同じ動詞が出てくるだろうからとりあえず気にしすぎないことにしよう。ところでいま最後に出た åndedræt という名詞はまえにも出たもので、そのときは tvunget の目的語であった。この動詞はまだ判明していないのだが、今回キリスト (?) が耐えようとしているのが重いまたは困難な gispende åndedræt なのだというから、試練とか苦痛とかそういった言葉だろうか。次の助動詞 kan の主語は彼女か彼かよくわからないが、自分のために/まえで genkendende hen して微笑むことをしないではほとんどいられない。lade være med at といういかにもイディオムらしいものはこのままでは永久にわからないだろうと判断したので辞書を引いた。今回の段落は短くて、次のイタリックの祈りで終わりである:「私たちは汝に乞う、私たち〔の声〕を聞きたまえ、主よ!」 bede はたぶん独 bitten「乞う」だと思う、しかし定動詞の現在形なら -r がつくはずなのでなにかがおかしい。

そのように/そのとき彼女は感じる、彼がただ 2, 3 歩ばかり彼女の後ろに stoppet op したことを。ここで mærke「感じる、気づく」は前回首尾よく割りだしたものである。そして彼女は forestiller sig する、彼が立っていて彼女を見つめている (?) ことを、彼らがともにいた最初のときのように。ser ... an という分離動詞というか句動詞っぽいものはいつも苦手だ、その副詞的前置詞の部分がどういうニュアンスなのかつかむのが大変である。ただ「見ている」だけではないようなので暫定的に勝手に言葉を足しておく。その次の overvejer という動詞はまったく見当がつかない。vej は英 way, 独 Weg「道」のことだが vejer とはなんだろう、「道」を over するなら行きすぎるとか逸脱するとかだろうか? その目的語は彼が何を ramme するだろうかということを overvejer する。違いそうだ。ramme という動詞もどこかで見た、そう、海の水が崖を rammer するのであった。削る? 打ちつける? それと何が (どんな、どれくらい?) hårdt かを。デンマーク語 å がドイツ語のどの母音に対応するかもそろそろ見極められたら推定もしやすくなるのだが。というのは彼女は彼が彼女を dræbe したいということを、しかし彼は彼女を fortræd にしたくはないということを知っていたから。それから føles というおそらく s-受動態の動詞がわからないが、慰めのある føles である、彼に så tæt på させることは。trøstende というおそらく現在分詞は独 trösten「慰める、元気づける、希望を与える」に違いない。いまや何を彼女の生が være slut しようとしてるか (を?)。このあたりは文のつながりがわからず前後の句とどう関係しているのか支離滅裂。それは彼女を tryg にし、また彼女に slappe af させる。そして彼女は brystet に向かって下に hagen を曲げ〔=かがみこみ?〕、深く天気を trækker する。最後は絶対に間違っているなあ。原文は trækker vejret dybt で、dybt は「深く」という副詞のはずだし、vejr は「天気」という意味しか知らない。あんまり暗中模索を続けるのも気分がよくないので vejr を辞書で引いてみると「息」という語義もあった。trække vejret で「呼吸する」も載っていた。深呼吸か。また祈り、「神の子よ、私たちは汝に乞う、私たちを聞け!」 かなり信心深い、もしくはそういう境遇に陥っている女性のようだ。あまり進まなかったが時間なので今日はここまで。

dimanche 6 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (1)

先日、翻訳家の柴田元幸氏の編集する MONKEY 誌の既刊 12 号 (2017 年 6 月発刊) にて、アメリカの作家リディア・デイヴィスによる「ノルウェー語を学ぶ」という記事を読んだ。これはノルウェー語をほとんどなにも知らない彼女が、それを勉強することも辞書を引くこともなしにノルウェー語の分厚い小説――「テレマルク小説」と通称されるダーグ・ソールスターの近著、正式なタイトルは Det uoppløselige episke element i Telemark i perioden 1591–1896, 2013――を読みきる過程をレポートしたものであり、私も触発されて同じ挑戦をしてみようと思いたったものである。これをリディア・チャレンジと呼ぶことにしよう。

だが私とデイヴィス氏とではまったく条件が異なる。彼女は母語が英語で、小学生のときに 1 年間オーストリアに暮らしてドイツ語で小学校教育を受けたことがあり、翻訳家としてフランス語からの翻訳を何冊も手がけるというように、まず英独仏のかなり自由になる知識を有している。さらに少なくともほかにスペイン語とオランダ語も勉強して本を何冊か読んだことがあるという。周知のとおりノルウェー語はゲルマン語の仲間でドイツ語や英語と少なからず単語や文法を共有しており、実際にその記事を読めばわかるとおり、彼女はかなりの頻度で英語とドイツ語の知識に頼ってノルウェー語の意味を推定している。したがって、ほぼゼロから読みはじめるとはいっても、たとえば彼女が日本語の本を読むというのとはぜんぜん話が違うのである。もし彼女の挑戦する相手が日本語であったならば、たとえ本の終わりまで目を通してもほとんど理解は進まなかっただろうし、それどころか途中で投げだす可能性も大きかったのではないか。

さてなにを読むかという段になると、ノルウェー語にも私は興味があるが読みたい本のほうをぱっと思いつかなかったので、かわりにデンマーク語でかねてより気になっていた小説、Kim Leine の Profeterne i Evighedsfjorden, 2012 (『永遠のフィヨルドの預言者たち』) を課題図書として採用しよう。あらすじについては 18 世紀末に行われたグリーンランドへのキリスト教宣教に関わる歴史小説?というくらいしか承知していない。これは翌 2013 年に北欧理事会文学賞に選ばれた世評の高い作品で、「テレマルク小説」と違ってすでに英語を含むいくつかの言語に翻訳されているが、もちろんその翻訳には頼らないことにする。

もっとも私はすでにデンマーク語を少しだけ勉強した経験があるが、アクティブに使う経験はなく単語力はといえばまったく壊滅的なので、ほとんど無知な状態といっても大差がない。私も原則は辞書や人に尋ねることなしにひたすら原文を読み、しかしどうしても困ったら多少はルールを曲げてよい、というデイヴィス氏流の緩やかな縛りを真似ることにしよう。

以下に記録するのは実際にこの本をデンマーク語で読み解読した生の過程である。私のさまざまな悪戦苦闘の部分を除き、原文の翻訳らしきものになっている箇所だけを太字にしてあるので、太字の部分のみを拾い読めば原文の筋がわかる……ようになるのはまだずいぶん先のことであろう。現時点ではわからない単語が多すぎてまったく翻訳としては機能していない。


どうやらプロローグらしい章の最初の行には、見出しとして Faldet という 1 語が出ているが、のっけからなんだかわからない。でも fald- なのでたぶん「落ちる」という動作と関わりがあるのではないか? -et は中性既知形語尾。次の行に日付があるのでもしかして英語の fall と同じくのことか? しかしその日付は 1793 年 8 月 14 日。まだ舞台がデンマークなのかグリーンランドなのかも判断できないが、いくら北の国でもまさか 8 月 14 日が秋ということはないだろう。保留。それにしても「8 月」が august なのは助かる、たとえばチェコ語 srpen のようにてんで違うつづりだったら迷宮入りになるところであった。

本文に入る。最初の語は enken、これも不明。スウェーデン語だかノルウェー語だかの enkel「単純な、簡単な;単独の、一人の」と似ている。不定代名詞っぽさもある。誰かは一人でここへ上がってきた、誰も彼女にそうするよう tvunge することなく。enken と過去分詞 tvunget 以外はだいたいわかるので大づかみに訳してみた。これはかなり幸先がいい、と気をよくする。彼女は自分のとても美しい服から lusene を banket した。lusene の -ene は複数の既知形語尾なので、lus がなにか物を表す名詞だろう。「光、明かり」かとも思ったがそれはデンマーク語だと lys だっただろうか。そして iført sig dem、ほとんどなんだかわからない。自分をそれに iført した? 次に fælleshusets urinbalje のなかで髪を洗い、それを結いあげた。fælles はデンマーク語文法でいう普通名詞 (fællesnavn) や共性 (fælleskøn) の前半部分なので、英語でいえば common だろう。では共通の家の urinbalje か。共用の風呂場? 彼女は 1 つの stille bøn を bedt した。これはだめだ、なにもわからない。彼女の hedenske な同居人から tavst iagttaget した。bofæller が同居人というのも勘でしかない。bo(r) は「住む」だし fælle はさっき見た「共通」なので、たぶん正しいのではないかと思う。そして子どもたちから sodblandede fedt を skrabet した。kinderne が「子ども」というのも嘘かも。独 Kind(er) を連想したせいだが、よく考えたら北欧語で子どもは barn のたぐいだと思う。それからおいしい måltid を食べた? ここは文構造がわからない、ひょっとすると måltid は副詞か接続詞だったりするかもしれない。とにかくなにかよいもの (det gode) を食べた (spist) らしい。それは彼女へ stillet frem されていたように見える。そのようにして彼女はここに上がってきたlette skridt の上に båret して。なんのことやら。lette の上にというからにはなにかその上に乗れるもの、仏 lit「ベッド」を思いうかべるがたぶん関係がない。いまや彼女はここに座っている、ほとんど喜んで、forventning に満たされて。それからまた kinderne が出てくる。怪しいと思いつつ子どもと訳しておくしかない。子どもたちのなかで呼んだ、kanten の上で外に (??)、彼女の下のなかに (???) tækkeligt に benene とともに、enkemaner の上に。支離滅裂。だいたいどうしてデンマーク語 (やフェーロー語やアイスランド語など) では ude på だの ind under だの、ud af だの frem til だのと、前置詞らしきものが二重に重なるのか、この種のものはまったく意味がとれない。片方 (おそらく前者) は場所の副詞か、ドイツ語で言うところの分離前つづりのようなものだろうか? とにかく読み進めるしかない。しかしそのまえに一点、最後の enkemaner の enke は冒頭の enken と同じものではないか? そのことに留意しておく。まだ文はコンマで続いており、このようにして彼女は glamhullet の下の小さな sidebriks の上に derhjemme 座ることを plejer する。sidebriks の後半は英語の brick「レンガ」のようにも見える。片方の手に彼女は korset を knuger し、金の重い varme のなかに trygheden を mærker する。これまでの文に比べれば心なしかましになった。とにかく金製の重いなにかが手のなかにあるらしいという多少とも具体的な情景が思い描かれる。ここまでまったく五里霧中であっただけに、まさしく闇のなかに一筋の光を見たようでありがたみを痛感する。まだ第 1 段落の半分までしか来ていない。彼女のずっと下方、少なくとも数百 favne の落差の下に、彼女は brændingen を聞く。favne は間違いなく長さの単位だろう。「少なくとも」と訳したのは mindst で、それは独 zumindest から類推した。いま fald に再会し「落差」ととったが、これはこのプロローグの見出しの単語であった。やはり「秋」ではなく「落下」だろうか? だがそれでもどういうことかわからない。水がそこで rammer klippen、白い skum に knuse され、sydende が自分を trækker し戻ってくる。高い崖の下で海の波が寄せては返す感じか? なんとなくわかってきた気もするがすべてが妄想である危険性がある。だが彼女はそれを見ていない、彼女は両目を knebet i している。両目をつぶっている? それから indad 瞬きを vendt し、彼女は ængstelsen を bekæmpet した。またわからない単語が増えている。-else は名詞を作る接尾辞だから、ængst の部分が語幹で、独 Angst「不安、恐怖」によく似ているものの、前後の単語もわからないので妥当性が確かめられない。そして 1 行めに出会った動詞 tvunget が再登場する。sej なリズムで åndedrættet と心臓の lagene を tvunget した。rytme はたぶん仏 rythme, 英 rhythm だろうと想定した。それにかかる形容詞 sej とはなんだろう、短いのでかなり基本的な単語に違いないが、速いのか遅いのか。さらに彼女は læberne を bevæger し、litaniet を何度も何度も gentager する。litaniet はどう見たってデンマーク語ではない借用語だ。デンマーク語の辞書は引かないつもりだが、英語ならいいだろうということにすると、litany「連祷」というキリスト教用語が見つかるのでこれに間違いない。同じ祈りの言葉を何度も何度も繰りかえし口にしたわけだ。そういえば læberne も (単数未知形は læb か læbe か) 英 labial「唇の」に似ている。bevæger læberne は「唇を動かし」? be-væg- という字面はどうも動かしそうな感じに見える (独 bewegen)。この次の 2, 3 行はイタリックで組まれている。祈りの句だ。「おお天にいる父なる神よ、私たちに barmhjertighed をもて」? hav はまさか「海」ではないだろうから、たぶん「もつ」har の命令法かと考えた。次の 2 語 elendige syndere は不明。それから「おお神の子よ」と来てまた「barmhjertighed をもて」。-hed=独 -heit なのでなにか抽象名詞のようだがいったいなんなのか。「憐れみ、慈悲」あたりか? 「おお神、救い主よ」。この Helligånd もちょっとわからないが、ヘーリアントに似ているし大文字書きなので「救世主」かと推測。祈りの句の最後、「おお velsignede で herlige な Treenighed よ」。なにもかも不明、だが最後の大文字の名詞は「三位一体」かもしれない。その直前の形容詞は「聖なる」かも? これらを唱え終えると彼女は下から i stød に来る風を mærker し、彼女の dragt のなかの生命/人生を puster する。mærke(r) という動詞は何行かまえにも出たもので、そのときの目的語は tryghed(en) であった。bevæge : bewegen のように æ がドイツ語の e に対応するとすればこれは merken「気づく、感じとる」なのではないか? 「風を感じる」のはかなりそれらしいので有力候補だ。次に彼女は klippen の上の fugtige な tørv に自分を klamrer する。klipp(en) は独 Kliff, 英 cliff「崖、絶壁」のような気がしてきた。彼女がそうするのは utide に kanten について skubbet ud されないためにだという。このように彼女は座ったまま連祷を messer し、助けを待って/期待している。ふたたびイタリックで祈りの言葉、「汝の dødsangst と blodige sved がともに、汝の kors と lidelse がともに、私たちを frels したまえ、主よ!」 これがこの段落最後の文。dødsangst ははじめ død-sangst に見えたが (仏 sang「血」)、døds-angst と切るとすれば「死の恐怖」? kors はしばらくまえに korset という中性単数既知形で出てきたが、思えばこれもぜんぜんデンマーク語らしくない。文脈からイエスに関係する単語、もしかして「十字架」ではないか? ではあのときそれを目的語にとった定動詞 knuger は「握る」とか? 今日はここまで。

dimanche 15 septembre 2019

ファイアーエムブレム風花雪月 人名の由来と意味

本稿では『ファイアーエムブレム 風花雪月』に登場する人名の由来およびその語の表す意味を主に解説します。そのさい、神話などの登場人物についてその事績などを改めて詳しく述べることは最小限にし (それについてはたいてい Wikipedia などでご覧になれると思うので)、ここではもっぱら語学的な事柄に関心を傾注することとします。つづりとカナ表記から判断して、姓名それぞれの語が何語として読まれており本来どういう意味であるかを明らかにするよう努めました。

語源・語義に関する参考文献としては主に次のものを用い、以下で言及するさいは著者の姓をその略称とします (辞典・事典の場合ページ数の指示は省略)。しかし特記なく用いる場合も多くあります。

また、以下の本文で何度か「前年の地図」という表現で名指すことになるものは、『風花雪月』発売の 1 年あまりまえ、すなわち 2018 年 6 月 13 日に任天堂公式のニュースで発表されたフォドラ大陸地図のことです。これは開発中のもので、書きこまれている地名 (したがって貴族の家名を含む) のつづりは実際に製品版として出たものとは随所で異なっていますが、それだけに開発段階での名前の由来を推測させる重要な情報源になっています。

以下のカナ表記において、ラテン語・ギリシア語は慣習に従い原則として長短を省略します。一方それ以外の言語、とりわけ古ノルド語では厳密に長音符「ー」を付します。各言語の原語表記およびそのラテン文字への翻字について、ヘブライ語では母音点記 (ニクダー) はすべて省き、翻字はもっぱら Lambdin の方式に従いますが、BGDKPT のバーは省略し一般にわかりやすいように改変した部分があります (f など)。ギリシア語の翻字では η, ω のために ē, ō を厳密に用いますが、α, ι, υ の長短はすべて省きました。また υ は単独では y、ου では ou と写します。ラテン語の表記ではカナ表記と同様に長短の符号を用いません。ロシア語などのキリル文字の翻字にさいして軟母音は y でなく j、軟音符は で写します。エジプト語は本来ヒエログリフで表記すべき筋合いですが技術的理由から翻字のみとし、方式は (参考文献にあげた Allen に反し、日本語文献でおなじみと思われる) Gardiner 式に統一しました。その他数回しか現れない言語の翻字については適当に常識的なものを用います。


主人公


ベレト/ベレス Byleth


ベレト Beleth あるいはビュレト Byleth は悪魔の名で、85 の軍団を従える地獄の強大な王。th はふつうトと写すのが適切である (ベレトの名の出典である悪魔学の書の原文ラテン語、およびその他大多数の言語、とりわけ『風花雪月』および『ヒーローズ』のローカライズがあるドイツ語・フランス語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語のいずれにおいても)。

したがって女性版のスというのは (全世界的に見ればかなり異常な) 英語なまりで読んだつもりだろう。ただし参考までに、悪魔の名ということで連想されるヘブライ語や (現代) ギリシア語で読めば th (ת, θ) は英語と同じ発音になる (ヘブライ語の発音は流儀にもよる。また現代ギリシア語で Βέλεθ と書くとヴェレスになるが)。この Beleth という悪魔の名前そのものは何語ともつかず意味も不明であるが、私の印象ではヘブライ語に似せて作ったようにも見える。そこでヘブライ文字で בלת や בילת などと書いてはみたがそれらしい検索結果には至らなかった。

ソティス Sothis


ソティス Sothis は、古代エジプトでおおぐま座の星シリウス、およびその擬人化である女神ソプデト Spdt (あるいはセペデト、古代エジプト語はヘブライ語やアラビア語などと同じく母音を書かなかったので正確な発音は不明であり理論上のもの) の、ギリシア語 Σῶθις (Sōthis) およびそこから伝わったラテン語における読み。語根セペド spd「鋭い、尖 (ってい) る」からきて「三角形、尖ったもの」の意であり、シリウスは冬の大三角を形成する頂点の 1 つ。

エジプトの夜空でシリウスはほぼ年中通して視認できるが、晩春の一時期だけ水平線上に昇らない期間があって、これが明けてふたたび現れるタイミングが毎年のナイル川氾濫の開始に一致しており、古代エジプトにおいてシリウスは年の始まりを標す役割があった (Allen, 135)。このことは「はじまりのものとしてのソティスの性格に符合している。また FE でシリウスというと某仮面の人と同じ名前で、正体が謎に包まれている (笑) のと「すまぬ」と言いそうなところも似ている。


黒鷲の学級


この学級の生徒の多く、および金鹿の学級の約半数の名にあるフォン von は、ドイツ語で出身地「〜からの」を表す前置詞で、領地の地名をあわせて名乗ったことから貴族の家名の一部になった。観察されるかぎりアドラステア帝国出身の貴族の名すべてに含まれている。なお青獅子の学級のうち、メルセデス・フォン・マルトリッツはもともと帝国出身である。

エーデルガルト・フォン・フレスベルグ Edelgard von Hresvelg


エーデルガルト Edelgard は現代ドイツ語で、古高ドイツ語 adal「高貴な」と gard からなる。後者の要素はゴート語 gards「庭、家」、古ノルド語 garðr「囲い、壁;庭」、古英語 geard「囲い、柵、垣根」、古サクソン語 gard「家;畑」、古高ドイツ語 gart「囲い」などの類で、要するに「囲われた領域=庭や家」あるいは「塀で囲うこと=守り」と関連する意味あいから、「高貴な家」または「高貴な守り手」などに解せる。なお語末のつづりが d なのにカナ表記でトになることについては後述フェルディナントの項を参照。

フレスベルグ Hresvelg は古ノルド語で、北欧神話に登場する巨人フレースヴェルグ Hræsvelgr* の表記を簡単にしたもの。その意味は「死体 hræ を飲みこむ者 svelgr」(つまり切りかたはフレ/スベルグであってフレス/ベルグではない**)。フレー hræ は「死体」といっても病気や事故で死んだ者ではなく、戦場で戦って殺された者を言う (Gordon)。はじめはおどろおどろしい名前と思えたが、覇道をゆく彼女には案外おあつらえ向きのネーミングかもしれない。なお、このフレスルグと次のストラを除き、ヘリング、ヴァレンティン、ヴィクター等々 V はすべてヴで表記されているので、この 2 例は稀有な例外といえる。

* 北欧神話に登場する古ノルド語の名前をカタカナ表記するさいには、一般にしばしば主格語尾のル -r を省略する慣習がある。このことからエイリーク Eiríkr やスルト Surtr、スリーズ Slíðr やユルグ Ylgr などの名前もおなじみの表記になるのである (古ノルド語ではエイリークル、スルトルのように -r まで発音するが、日本語の本では煩雑を避けて略すことが多いということ)。しかしその統一はかならずしも徹底されているわけではない。

** したがって当然、ドイツの都市名によくあるニュルンベルクやハイデルベルクのようなベルク berg ともまったく関係がない。svelgr の g は見てのとおり語末ではないためクにはならずグと書かれる (し読まれる) のである。もっとも作中のつづりは Hresvelg なのでドイツ語話者はクと読んでしまうだろう。

ヒューベルト・フォン・ベストラ Hubert von Vestra


ヒューベルト Hubert は英語読み (ヒューバート) とドイツ語読み (フーベルト) の中間。ゲルマン祖語 *hugi-「知性、理解 (力)」(ゴート語 hugs「同前」、古ノルド語 hugr「知性;欲求、願望」、古英語 hyge「知性、精神、魂」など) と *berhta-「明るい」(ゴート語 bairhts「明るい、明白な」、古ノルド語 bjartr「明るい、輝く」、古英語 beorht など、そこから現代英語 bright) の 2 要素からなり、「明晰・明敏な知性」のような意味。まったくこの人物にぴったりの名前のようであるが、(ここに逐一記す余裕のないさまざまの理由から) 制作側はそれほど言語に明るいとは思われないので偶然であろう。

ベストラ Vestra は欧米版では V- だが、さきにフレスベルグに関して述べたとおり例外的にヴを使わずバ行で書かれている。そのことを考慮すると、当初は B であってベストラ Bestla という北欧神話に登場する女巨人でオーディンの母が元ネタではなかったかという推測が成り立つ。Simek によれば、その意味は不詳であることから相当に古い時代に属すると考えられるが、候補として「妻」あるいは「樹皮、植物の内皮」が検討に値するという。谷口の注にもこの名は語義の記載がない。

ドロテア・アールノルト Dorothea Arnault


ドロテア Dorothea はギリシア語 δῶρον (dōron)「贈り物」と θεός (theos)「神」からなり「神の贈り物」の意。その英語読みがドロシー Dorothy なので、『封印の剣』に登場する彼女とドロテアは同名ということになるがキャラはいわば正反対である。

アールノルト Arnault は海外版のこのつづりであれば本来フランス語でアルノーと発音されるべき名前である。しかしドイツ語読みのアルノルト Arnold が本来の元ネタだったかもしれない。どちらも同じ名前であって、これもゲルマン語起源で、古高ドイツ語 arn「鷲」(同じく古サクソン語 arn、古ノルド語 ǫrn < ゲルマン祖語 *aran-) と waltan「支配・統制する」(ゴート語 waldan「同前」、古ノルド語 valda「支配する;原因となる」、古英語 wealdan「〜に力をもつ」、古フリジア語 walda「同前」< ゲルマン祖語 *waldan-) とからなる。「鷲の支配者」あるいは「力ある鷲」の意味に解すことができるが、このようにまさに黒鷲のリーダーにふさわしい名前が、この学級で唯一の平民である彼女につけられていることは非常に皮肉な巡りあわせと思える。

フェルディナント・フォン・エーギル Ferdinand von Aegir


フェルディナント Ferdinand はドイツ語読みで、語末の文字は d だが濁らないトと読むのは語末子音の無声化と呼ばれる現象による*。由来はゲルマン祖語 *fardi-「旅」(古ノルド語・アイスランド語・フェーロー語 ferð「同前」、古英語 fierd「小旅行」、古フリジア語 ferd「旅、船旅」、古サクソン語 fard「同前」など。現代ドイツ語 Fahrt「走行」) と *nanþa-「大胆な、勇敢な」(そこから古高ドイツ語 nand「性急・軽率・無分別さ」) とで、「大胆・勇敢あるいは無謀な旅」の意味であったろう。わりとしっくりくる名づけではなかろうか。さらにフェルナン (フランス語 Fernand またはポルトガル語 Fernão) と読めば『Echoes』のキャラと同名である。

* ドイツ語やオランダ語などの西ゲルマン語、ロシア語やチェコ語やポーランド語などのスラヴ語、ほかリトアニア語やトルコ語など数々の言語で起こるので覚えておいてよい。作中でもフェルディナンのほかエーデルガル Edelgard、イングリッ Ingrid、(アロイス・) ランゲル Rangeld などに応用がある。

エーギル Aegir は古ノルド語、北欧神話の海の神の名であって、そのまま「海、大洋」という意味の語である。本来 ae は合字で Ægir とつづり、現代式に読めばアイイル (古ノルド語とはほとんどのところ古アイスランド語と同義であって、現代のアイスランドではその祖先の文学を現代語式に読むのが普通なのである。森田『アイスランド語文法』)。なお、『烈火の剣』におけるエーギルが同じ由来をもつかどうかは不明であり、『烈火英語版でエーギルは Quintessence (文字どおりには「第五元素」) と呼ばれている。

ベルナデッタ・フォン・ヴァーリ Bernadetta von Varley


ベルナデッタ Bernadetta はイタリア人名で、ベルナルド Bernardo に縮小辞の女性形 -etta をつけた女性の愛称形。ベルナルドもまた起源はゲルマン語の名で、ドイツ語読みのベルンハルト Bernhard とすればあからさまに bern「熊」(ゲルマン祖語 *beran-) と hard「頑丈な;勇敢な」(ゲルマン祖語 *hardu-) との複合と見てとれる。すなわち「熊」と「勇敢な」と「〜子ちゃん」とも訳すべき指小辞女性形との 3 要素から成っているわけであるが、このうち「勇敢な」を除いた 2 つを並べてみれば、じつは『烈火』のウルスラ Ursula とそっくりであって、これはラテン語で ursa「雌熊」と女性形指小辞 -ula とから構成された、いわば「熊子」のような名前なのである。それでもそういう名前が現実の女性名に使われているわけだから外国語の名づけのセンスは謎だ (動物シリーズで言うと後述するレオニーもそうだし、ユルグ Ylgr も古ノルド語で「雌狼」のことである。もっともユルグはほんらい人名ではなく北欧神話の川の名)

ヴァーリ Varley というつづりをそんなふうに読むヤツはほとんど英語しかいねぇよ、この世界ひろしと言えどもな……。この英語の名前の起源は、ノルマン・コンクエストにより中世フランスのノルマン語からイギリスに入ったか、あるいはアイルランドのゲール語起源であるかの 2 通りがあるようだ。しかし実際のところ本作のヴァーリの元ネタとしてはその Varley ではなく、前年の地図に Váli と書かれていることから見て、北欧神話のオーディンの息子にして司法神のヴァーリ Váli がそれである蓋然性が高いであろう。そうだとして、その古ノルド語の名の語源は不詳であるらしい (Simek には 2 通りの可能性が提示されているが客観的に根拠がないという)

カスパル・フォン・ベルグリーズ Caspar von Bergliez


カスパル Caspar あるいはガスパル Gaspar はいちおうラテン語と言っておくが、ヘブライ語ギズバル גזבר (gizbār) の音訳が写し間違いなどによりだんだんと変化して生じた名前。そのヘブライ語もさらに東方の言語の借用であるが、いずれにせよエズラ記 1:8 にあるとおりその意味は「宝物庫管理人、財務官」あるいは「出納係、会計係」といったものであった。彼の実家が財務卿 (大蔵卿) であればぴったりだったが、当人の性格としても軍務卿の息子という立場としてもトンチンカンな組みあわせといえる。

ところでそのカスパ (ー) ル Caspar という名はキリスト教会の伝承では、幼子イエスに会いにきて贈り物をした東方の三博士 (マタイ 2 章) のうちの 1 人の名前ということになっており、黄金・乳香・没薬の 3 種のうち没薬を与えた老賢者が Caspar であるというが、没薬といえばギリシア語でミュルラ μύρρα (myrrha)、すなわち『聖魔の光石』のミルラ Myrrh の由来である。もちろんこうしたことはまったくの偶然のつながりだろう。

ベルグリーズ Bergliez は何語ともつかない。字面はメジャーどころではフランス語 (発音するならベルグリェ) やドイツ語 (ベルグリーツ) に見えなくもないがそれらの言語として解釈することはできない。それもそのはずで、このベルグリーズの領地は前年の地図では Vergilius と書かれているのだ。この高名なラテン詩人ウェルギリウスの名を適当にひねりまわした (Ve をヴェ=ベと読み、真ん中の i をとり、語尾を雑に読んだ?) 結果がベルグリーズなのだろう。ヴァーリと同じく、そのあとで欧米版のつづりをでっちあげたのである。

ペトラ・マクネアリー Petra Macneary


ペトラ Petra はギリシア語で「」という意味の名詞。人名としてはおそらく男性形ペトロス Πέτρος (Petros) のほうが先でその語尾を女性形にしたものだろうが、しかしそのペトロスという名前は普通名詞 πέτρα (petra)「岩」を男性語尾にしたところから来ているのである。BDAG によるとペトロスが人名として使われることはキリスト教以前にはなかった。この名はマタイ 16:18 を原文で読めばわかるとおり、イエスが第一の弟子ペトロ (本名シモン) に向かって「あなたはペトロである、私はこの (ペトラ) の上に私の教会を建てる」(σὺ εἶ Πέτρος, καὶ ἐπὶ ταύτῃ τῇ πέτρᾳ οἰκοδομήσω μου τὴν ἐκκλησίαν) と名づけて、使徒たちのリーダーでのちに初代ローマ教皇とされるペトロを教会の礎に据えることを言ったことに淵源するのであった。

マクネアリー Macneary の Mac (Mc) はマクドナルド McDonald やマッキントッシュ Macintosh、また「ハリー・ポッター」シリーズのマクゴナガル McGonagall 教授などの名でおなじみのもので、ゲール語で「息子」という意味の語であった。つまり一種の父称から生じた名字であって、マクドナルドとはドナルドの息子、ドナルドソン Donaldson と同じことである。したがってマクネアリーもこの線で理解できる。このようにマック Mac のついたあからさまにゲール語という名前は作中で彼女 (とその王家?) だけで、現実のアイルランドと少し似て世界の果ての言語圏らしさを演出している。

それにしてもゲール語 (アイルランド語およびスコットランド・ゲール語) は恐るべきつづり字の複雑さで学習者を後込みさせることで知られる。M(a)cDonald というのは英語化した形で、本当はスコットランド・ゲール語で MacDhòmhnaill と書き、ドーヴナウ Dòmhnall の息子という意味だが、D- が Dh- に、また語尾の -all が -aill になっているのは、属格の語尾変化と後置による語頭の軟音化のためである。このような面倒な変化が裏にあるので、MacNeary も「ネアリー」の息子ということにはならないわけで、本当はアイルランド語でマク・ナーライ Mac Náradhaigh、すなわちナーラッハ Náradhach の息子、この名は「謙虚な」という意味 (現代アイルランド語 náireach「恥ずべき;恥じ入りやすい、謙虚な、内気な」)。

リンハルト・フォン・ヘヴリング Linhardt von Hevring


リンハルト Linhardt の 2 要素のうち、後半 hardt はすでに見た hard, hart「頑丈な;勇敢な」の異綴 (ヴァリアント) であることは疑いない。前半 Lin- の部分は定かでないが、これもリーンハルト Lienhard の異綴にすぎないという考えを認めると、後者はレオンハルト Leonhard とも同じものであって、「勇敢な獅子」ということになる。-hardt からしてこの名の全体はゲルマン語であるとみなせるが、古高ドイツ語 leo「獅子」はもちろん歴史時代のヨーロッパには生息しておらず、ラテン語 leo そしてそれはさらにギリシア語 λέων (leōn) からの借用語であった。

ヘヴリング Hevring は本来 Hefring とつづる筋合いのもので (古ノルド語でこの位置の f は [v] の音)、「(高く) 持ちあげる者」の意 (Lindow)。もとの動詞は古ノルド語 hefja「持ちあげる」、同源語にゴート語 hafjan「同前」、古英語 hebban「同前」(> 現代英語 heave)、等々。さらにこの名をもつのは北欧神話では海の神エーギルの 9 人の娘である「波の乙女」の 1 人である。フェルディナント (エーギル) とリンハルト (ヘヴリング) が親子というのもまた奇妙な取りあわせである。


青獅子の学級


この学級の貴族の名は、黒鷲の帝国貴族が「フォン」で特徴づけられたのに対して、既述のごとくメルセデスを除いてかならずセカンドネーム (ミドルネーム) を持っていることで際立っている。これに対し、平民は名と姓の 2 つしかもたないということで一貫しており、つまり「フォン」かどうかを問わず 3 単語からなるのが貴族、2 単語が平民ということが、青獅子に限らず黒鷲・金鹿も含むフォドラ全体の傾向として観察される (ペトラ・マクネアリーは王孫であるがフォドラ外なので例外)。このように本作の命名では国籍や地域、階級による文化の違いということの表現にも留意しているように見える。

ディミトリ・アレクサンドル・ブレーダッド Dimitri Alexandre Blaiddyd


ディミトリ Dimitri は典型的にはロシア語 Димитрий (Dimitrij)、あるいはその仲間であるスラヴ語のいずれかに数えるのが正当 (フランス・アメリカ・オランダなどでも同じ名が行われているとしても)。というのは、この名はもとをただせばギリシア人名デメトリオス Δημήτριος (Dēmētrios) に遡り、それはギリシア神話の地母神デメテルの名にちなんでその「デメテルを崇拝・信仰する者」という意味の名前であるが、そんな異教の神に由来する名がヨーロッパのキリスト教世界に広まるようになったのは、東方正教会で非常に崇敬された殉教者テサロニケの聖デメトリオスの影響によるところ大で、このためギリシア語・スラヴ語圏に特徴的な名であると認められるからである。

アレクサンドル Alexandre という読みはいかにもフランス語のものであるが、その名の構成要素はまったくギリシア語的なもので、もちろんラテン語アレクサンデル Alexander を介してギリシア語アレクサンドロス Ἀλέξανδρος (Alexandros) を借用したものである。動詞 ἀλέξω (alexō)「守る、防御する」と ἀνήρ, ἀνδρός (anēr, andros)「男;夫;人、人間」とからできており、「人を守る ()」という意味の名前である。まだ私は青獅子ルートをプレーしていないので定かでないが、守るよりは攻撃や壊すことのほうが得意な人物に見えるので、狙ってのことならなかなか深い。

ブレーダッド Blaiddyd という読みはどうにも英語なまりだが、そのつづりはウェールズ語のものである。この名はジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』に現れる伝説上のブリトン人の王のもので、現代でもジェフリーの時代のウェールズ語でも dd は [ð] (英 that の th) で読んだはずである (Evans, A Grammar of Middle Welsh)。ウェールズ語でブライズ blaidd は「狼」だが後半要素は調べがつかず、しかし英語版 Wikipedia の Bladud の項では Ifor Williams を引いて iudd「支配者、主人」としているのを信じてもよいとすれば、全体で「狼の主人・王」ということになろう。

さて次のことは偶然ではないように思う。すなわちジェフリーの『列王史』によればこのブレーダッドないしブラドッドの息子にして次代の王がレイア Leir なのであるが、このレイアとはシェイクスピアの『リア王』の題材となった当の人物である。そのレイアが建設したという伝承があり、名前の由来となったイングランドの都市こそレスター Leicester である。歴史上ファーガスから分かれたレスター諸侯同盟が、ブレーダッド=ファーガス王家の息子によって創建されたという符合は示唆的であり、さらにわれわれは金鹿の人物名に至ってさらなる『リア王』との明瞭なつながりを確認するであろう。

ドゥドゥー・モリナロ Dedue Molinaro


ドゥドゥー Dedue についてはこのままではまったく見当がつかない。発音とつづりの関係もいかにも恣意的で、英語 (ディデュー?) にもフランス語 (ドゥデュー) にもその他なににでも近いようで遠い。しかしカタカナのほうからアプローチすることが許されるとすれば、ポルトガル語ドゥドゥー Dudu であってエドゥアルド Eduardo の指小形であるとする見解に一考の余地はあるだろうか。

その想像はモリナロ Molinaro の由来に関する次の投機的な憶測によってにわかに補強されることとなる、すなわちエドゥアール・モリナロ Édouard Molinaro というフランスの映画監督がいるということである (フランス人だがその名字は明らかにイタリア語だ)。エドゥアールはもちろんさきほどのエドゥアルド (英語のエドワード) と同じ名前である。なにより決定的なこととして、この映画監督は親しい人たちからドゥドゥー Doudou とあだ名されていたという! これで彼の名前全体の元ネタは明白な上にも明白になったと結論づけてよいと思う。

念のため意味についての議論を添えておくと、モリナロ Molinaro はイタリア語 molino = mulino「水車小屋、粉挽き場」から派生する語で、明らかに英語名のミラー Miller、ドイツ語名のミュラー Müller と同じものであり「粉挽き屋、製粉業者」という意味である (語形が酷似しているのは英語・ドイツ語のほうがゲルマン祖語の時代に後期ラテン語から借用したため)。ドゥドゥー Doudou はポルトガル語 Dudu と同じく名前の音にもとづく愛称であって意味というものはない。

フェリクス・ユーゴ・フラルダリウス Felix Hugo Fraldarius


フェリクス Felix はあからさまにラテン語 felix「幸福な、幸運な」そのものであって疑いを容れる余地はない。これはラテン語でも人名に使われたが、そのままのつづり (あるいはアクサンのついた Félix) で現代でも多くの言語で男性名になっている。日本語にするなら「幸夫、幸男」というところか。全体的に陰惨な過去をもつ者の多い王国の生徒のなかで彼の境涯は本当に「幸福」なものなのか私はまだ確かめていない。ちなみに『if』のフェリシア Felicia はここから派生する女性名である。

ユーゴ Hugo は (ユゴーと表記するほうが近いが) ありふれたフランス人の男性名である。同じつづりでヒューゴウと読めば英語名、フーゴーと読めばドイツ語名、ウーゴとすればスペイン語名、その他省略。その名の意味はすでにヒューベルトの第 1 要素として説明したゲルマン語 *hug- そのものであって、「知性、精神」の意。

フラルダリウス Fraldarius の意味は判然としないが、ポルトガル語 fraldário とここまで一致しておいて無関係ということは無理だろう。もとよりポルトガル語はラテン語の末裔のひとつだが、この男性名詞の語尾 -o をラテン語ふうに -us に戻してやるだけで作れてしまうのだから! そのポルトガル語は fralda「おむつ」と関係しており、手もとの辞書には出てこないがどうやらおむつ交換のできる授乳室のような部屋や設備のことを指しているらしい。その fralda はゴート語からの借用なのでもともとのラテン語にはなかった言葉だが (授乳室そのものも古代ローマにはなかったろう)、いま現代のラテン語にその単語を取り入れるとすればポルトガル語から自然に逆形成できるフラルダリウス fraldarius はきわめて有力な候補といえる。もっとも実際のところ前年の地図では L/R が逆の Flar- となっているので、これもカタカナありきでかっこいい語感を考えた可能性が大だが、これほど長い単語の完全な一致がかえって偶然だとすればなんとも不幸ではないか。

メルセデス・フォン・マルトリッツ Mercedes von Martritz


メルセデス Mercedes はスペイン語で「恩恵、好意、慈悲」を表す merced の複数形で、もとをただせば María de las Mercedes「慈悲の (聖母) マリア」から生じた女性の洗礼名。スペイン語における愛称形 Merche はメーチェではなくメルチェだがご愛嬌か。

マルトリッツ Martritz は正直に言って手がかりがない。かりに最初の R を L に読みかえることが許されるならばマルトリッツ Maltritz はドイツ語圏の実在の名字になるし (その名のサッカー選手 Marcel Maltritz はファーストネームも少し似ている、というのは牽強付会か)、2 つめの R をそうするならば英語の martlet(s)「イワツバメ、アマツバメ」とほぼ同音、しかしいずれも根拠薄弱。開発時にカタカナからさきに考えていたとすれば可能性は残るか。オープンクエスチョン。

アッシュ・デュラン Ashe Ubert


アッシュ Ashe は英語で男女どちらにも使える名前で、アシュリー Ashley の短縮形 (こちらも男女両用だが女性のほうが優勢) だがもちろん最初からアッシュだけつけたと考えてもよい。この名は英語にしてはめずらしく英語だけで完結している本来語だけから成っており、ash (古英語 æsċ) は「トネリコの木」、lea (古英語 lēah) は「(森林地帯の) 空き地、開拓地」。自然にちなんだ素朴な名は植物好きで純朴な彼に似あっている。

ところで彼の名字は海外版では Ubert となっている。これはフランス語で読めばユベールで、フランス語では語頭の h を読まないので Hubert とまったく同音の異綴として通用している (したがって意味も同じ)。しかしフランス本国よりはスイスとベルギー (どちらもフランス語が公用語の 1 つ) にずっと多い名前のようだ。名字としても用例はあるが下の名前としてはもちろん男性名。

日本語版のデュランに文字をあてるならば Duran または Durand, Durant などになるだろう (いずれもフランス語読み)。究極的にはラテン語の動詞 duro「硬くする;耐える、続ける」または形容詞 durus「硬い」に由来し、そこから直接に能動分詞 durans をとってから変化を経るか、古フランス語の動詞 durer を作ってから現在分詞 durant にするかはどうあれ、要するに「忍耐・我慢強い、耐久力のある」といった意味あいになる。

ちなみに Duran(d) というつづりを見ると誰しも『封印・烈火』や FE 外のゲームでもおなじみデュランダルの剣を思いうかべるだろう。その名は 11 世紀フランスの叙事詩『ローランの歌』に見えるもので (じつは両作の八神将の名は多くここから出ている)、その語源考にははっきりした結論は出ないようだが、いずれにしてもお察しのとおりこのラテン語・フランス語の語幹 dur- と関係があることは間違いないようだ。

アネット・ファンティーヌ・ドミニク Annette Fantine Dominic


彼女の名前は上から下までおおむねフランス語の響きで一貫しており気持ちがいい (望むらくは最後のつづりは Dominique のほうがうれしかったが、カタカナだけ見ればすべてフランス語に見える)。アネット Annette はアンヌ Anne に指小辞 -ette のついたもので、これはすでにベルナデッタの -etta (そちらはイタリア語形) でおなじみのものであった。このアン、アンヌないしアンナという名前も遡るとすれば究極的にはヘブライ語ハンナ חנה (ḥannah) に行きつき、これは「好意、恩恵」といった意味であるから、まさにメルセデスときれいに照応する名前になる。なんとも美しい命名ではないか、まさか偶然ではないのだろうか?

ファンティーヌ Fantine の名はなんと言ってもやはりヴィクトル・ユゴーによる『レ・ミゼラブル』の登場人物として非常に有名なものだ。男性形の Fantin は古くから何人か名を残す人物が知られているのでゼロから作ったわけでもなかろうが、ユゴーはこれをフランス語 enfant「子ども」の派生語たることを意図して名づけたと考えられているらしい。そうすると派生接尾辞 -in(e) のさまざまの用法からして、「子どもっぽい」あるいは「小さな子ども」や軽蔑的に「ガキ」など、なかなか 1 つには決めがたい微妙な広がりをもつ語である。『レ・ミゼラブル』にてファンティーヌに生まれる娘にもまた、いくぶん軽蔑的にコゼット Cosette という「小さなもの」や「取るに足らない、いらないもの」といった意味のあだ名をつけられる運命であった。

ドミニク Dominic はきわめて明瞭だ。ラテン語 dominus「主人」に所属・由来・関係を示す -icus という接尾辞がついた dominicus「主に属する、主の」から来たもので、Dominic というつづりは英語的なのですでに言ったように Dominique であれば完璧だった。

シルヴァン・ジョゼ・ゴーティエ Sylvain Jose Gautier


アネットに続いて 2 度めの正直 (?)、今度こそ上から下までぜんぶフランス語の名前・つづり・発音である (厳密に言えばジョゼ José のアクセント記号を欠くが、それはどのキャラの名にもないので仕方あるまい)。

シルヴァン Sylvain はラテン語名シルウァヌス Silvanus のフランス語形で、これは見てのとおりシルウァ silva「森」に由来する「森の」という形容詞である (シルウァヌスはローマ神話において森を守護する神ないし精霊の名でもある)。ところで新約聖書においてそのシルウァヌス Silvanus は日本語だとふつうシルワノという表記で知られているが、この人はシラス Σίλας (Silas) と同一人物 (Silvanus の短縮形が Silas) だと言われている。その Silas を英語なまりで読んだのが『if』のサイラスであるから、一見似ていない名前でもシルヴァンとサイラスはじつは同名だったのである。

ジョゼ Jose は本当なら José とつづるべきもので、フランス語および南米のポルトガル語ではジョゼ、ポルトガルのポルトガル語ではジュゼに近く、そしてスペイン語ではホセと読まれる。ジョゼフ=ラテン語・ギリシア語ヨセプ Joseph, Ιωσήφ (Iōsēph) はいずれもヘブライ語ヨセフ יוסף (yôsēf)「彼は加えるだろう」(cf. 創世記 30:24) の音写。父のお気に入りの子であったヨセフは異母兄たちに憎まれ、嫉妬から事故で死んだことにされて放逐される。このあたりのエピソードは兄弟関係に難を抱えていたシルヴァンと重ねられる部分があるのではないか。もっともヨセフはその客地で成功者となり、最後には兄弟たちと再会して和解するが……。

ゴーティエ Gautier は英語やドイツ語の Walter に対応する名前。面食らうかもしれないが英・独の W にフランス語の G が対応するということはあって (ロマンス語で語頭に子音 [w] が立てないとき)、後述する英ウィリアム William=独ヴィルヘルム Wilhelm=仏ギヨーム Guillaume がそうだし、卑近な例をもう 1 つ挙げるとお菓子の英ワッフル waffle=仏ゴーフル gaufre も同様。そこで Walter の話に戻ると、じつは前半要素 *waldan-「支配・統制する」は (ドロテア・) アールノルトで見たもの。後ろは *harja-「軍団、軍勢」(ゴート語 harjis、古ノルド語 herr、古高ドイツ語 hari, heri、そこから現代ドイツ語 Heer で意味はすべて同前) であって、「軍団を支配する者」の意。まさに他国との戦線の最前に立つ辺境伯の名にふさわしい。

イングリット・ブランドル・ガラテア Ingrid Brandl Galatea


イングリット Ingrid は北欧すなわちデンマーク・スウェーデン・ノルウェーで人気の名前だが (とりわけノルウェーでは 1989 年以来 30 年間、女の子の名づけでベスト 10 以内を維持しつづけている。世界では毎年千人を超えるイングリットちゃんが誕生している)、しかしトという語末に無声閉鎖音をもつカナ表記を見れば、北欧語ではなくむしろドイツ語またはオランダ語として数えるのが正確かもしれない。その名は古ノルド語でイングリーズル Ingríðr、あるいはもっとフルに書けばインギフリーズル Ingifríðr であって、イング Ing という神が fríðr「美しい」、すなわち「イングの美」という意味である。といってもピンとこないかもしれないが、イング Ing とはユングヴィ Yngvi のことであってイングリットはユングヴィを讃える名前だといえば『聖戦の系譜』ファンには響くところがあるのではなかろうか。

ブランドル Brandl はブランド brand に指小辞 -l がついたもので、そのブランドとは古高ドイツ語 brant、古サクソン語 brand「火;剣」の意味なので、ブランドルは「小剣」と訳せようか。じつは現代英語 brand にも古い語義として「剣」の意味が残るが、そのことは FF シリーズの武器「アイスブランド」に生きている。Brandle, Brandli, Brandlin などさまざまのバリエーションがあるが、おおむねほかと同じく Brandl という形の名前もオーストリアおよびドイツ南東部に集中している (-le, -li などはドイツ語のフロイライン Fräulein「お嬢さん」などに見る〜ライン -lein と同じ指小辞の方言形)

ガラテア Galatea という地名は新約聖書の一書「ガラテア人への手紙」でつとに知られているが、その小アジアにあった地名ガラティア Γαλατία (Galatia) はガリア人 Galli の名にちなむ。一方、ギリシア神話に複数登場するガラテイア Γαλάτεια (Galateia) は別物で、γάλα (gala)「乳」に由来する「乳白色の女」の意か (グラント゠ヘイゼルはこちらだけをあげている)、γαλήνη (galēnē)「静かな、凪いだ」からくる「凪いだ海の女神」を意味するという説もある。どちらが根本的な由来であるかは決めきれない。


金鹿の学級


すでに黒鷲と青獅子について、貴族の名は帝国人の「フォン」か王国人のセカンドネームかという画然たる識別のあることを確認してきたが、同盟の貴族は一筋縄ではいかない。クロード、マリアンヌ、リシテアの 3 人が「フォン」で、ローレンツとヒルダの 2 人がセカンドネームと相半ばしている。事前の予想として私は、「フォン」の家のほうが歴史的・地理的あるいは文化的また政治的に帝国と親密なのではないかという予断を抱いていたが、コーデリア家はまだしもリーガン家とエドマンド家は地理的にかなり北寄りだし、帝国との関係で言えばリーガンとグロスタールなどむしろ逆にくくったほうが当を得ているように思われる。この「フォン」の法則について私は答えを持ちあわせていない (開発陣が深く考えていなかったとすれば骨折り損である)

ところで同盟諸侯の家名の由来については不穏な気配のあることを発売前に感じていた。さきにブリテン島の神話的歴史叙述において、ブラドッド=ブレーダッドの息子レイア=リア王が興した街がレスターだということを指摘したが、シェイクスピア『リア王』とのつながりは貴族の名前にこそ歴然と見てとれる。それはリア王の 3 人の娘の名前がゴネリル、リーガン、コーデリアであって、また王の廷臣としてグロスタール、その次男にエドマンドと、5 人の貴族の家名がすべてリア王からとられていることだ。しかも (有名なことなのでネタバレするが) これらの人物は『リア王』劇中で全員死亡するし、みな無残な死にかたをするか、あるいは死ぬ間際にはいちおう満足していてもそれまでにひどい目にあっている。それで戦々恐々としていたものだが、どうやら実際の金鹿ルートはそんなに悲惨なものではなかったようだ。

クロード・フォン・リーガン Claude von Riegan


クロード Claude はフランス語読みで、ラテン語の氏族名クラウディウス Claudius から来ている。その語源は伝統的に claudus「跛行の、足の不自由な」という擁護しがたいほど悪い意味の語だと思われていたが、いまではサビニ人の名 Clausus のラテン語化した形と考えられるようになってきたようだ。すなわちラテン語で言うと claudo「閉じる;取り囲む」の完了受動分詞 clausus「閉じられた」に対応する同源の語であるらしい。

それでもいまいちいい意味なのかどうかピンとこない部分があるが、妄想をたくましくしてみて、さきにエーデルガルトの gard についてその意味範囲を論じたことと同様に考えると、「閉じられた、囲まれた」とは「家、庭、畑」のような支配領域か、「塀で囲まれた=守られた」の意味に結びつくのかもしれない。もっとも、これはまったくの想像である。

ここでフォン von について一言。黒鷲では大多数の生徒の名前がドイツ語かその仲間であるゲルマン語に連なる響きのため、ドイツ語のフォンと組みあわせて違和感が薄かった。しかしクロードという圧倒的にラテン語系のフランス語らしい名前につくとそれは著しい。じっさい、Hubert von 〜や Ferdinand von 〜というれっきとしたドイツ語の名前の実在著名人物は歴史上掃いて捨てるほどいるのに対し、Claude von 〜というのはいないも同然である。クロードはフランス語名なので、フランス語の貴族の前置詞「ド de」を使って Claude de 〜ならたくさん存在するのだ。たぶん私などより、ネイティブのフランス人やドイツ人などはずっと強い違和感を覚えているのではなかろうか。

世界史で実例を習ったと思うが、複数の国の王位や爵位を継承・兼任したり他国に嫁いだりなどして、いくつかの国にまたがって関係する人名は、それぞれの言語で読まれるのが通常である。たとえば英ウィリアム=蘭ウィレム=独ヴィルヘルム=仏ギヨームという名前をもつ歴史上の人物に、英語ではオレンジ公ウィリアム、オランダ語ではオラニエ公ウィレムがいるが (たぶんこの両方で習ったはずである)、この名をもつ何人かの人物はドイツ語では von を使ってヴィルヘルム・フォン・オラニエン、フランス語では de でギヨーム・ドランジュと呼ばれている。こういうわけでクロード・フォンという結合はかなり奇妙に響くのだ。

リーガン Riegan はすでに述べたとおりリア王の次女の名前である、ただし本来のリア王では Regan というつづりであるが。これはじつは前年の地図では Regan だったのだがいつの間にか変更されたものであって、あえて変える理由は定かでないが、Re でリーなんておかしな読みかたをするのは英語以外には困難なのでそこの配慮かもしれない。そのリーガン Regan の語義だがあいにく不詳であり、おそらくケルト起源であろうということ以外わかっていない。姉妹のゴネリルおよびコーデリアもそうだが、これらはシェイクスピアが元ネタとした 12 世紀のジェフリー・オブ・モンマス『列王史』にすでに出てくる名前であって、したがってそれよりはるか以前の伝説に属する時代 (『列王史』の叙述を真に受ければ紀元前 8 世紀ころの人物) のものなのである。

ローレンツ・ヘルマン・グロスタール Lorenz Hellman Gloucester


ローレンツ Lorenz はドイツ語で、その由来はラテン語すなわちローマ時代の家名 (第三名) ラウレンティウス Laurentius、すなわち「ラウレントゥム出身の」という意味である。そのラウレントゥム Laurentum は古代ローマの都市で、ローマからティベリス (テヴェレ) 川を下った河口の街オスティア (『封印・烈火』ではおなじみの名前だろう) から、今度は海岸沿いに 10 km ばかり南下したところにある街であった。その名はラウルス laurus すなわち「月桂樹」にちなむようである。ちなむというのは月桂樹の木がたくさん茂っていたのか、それとも詩人ウェルギリウスによれば聖なる月桂樹の木が 1 本だけあったか、両方の説が行われている。ともあれ月桂樹の葉から作る月桂冠といえば、当時剣闘士の闘技会や詩作の競技で優勝した者に送られる最高の栄誉であった。なんとなくローレンツのイメージにあうようなあわないような感じである。

ヘルマン Hellman とは地獄 Hell の男、ヘルシェイク矢野……ではなくて、簡単な名前だけに英語・ドイツ語・オランダ語・イディッシュ語といろいろの可能性がある。第一に hell とは英語の hill「丘、小山、傾斜地」、あるいは中低ドイツ語 helle「崖、急な勾配」のことで、そういう地形に住む者という意味の地名姓。次に、hell は現代ドイツ語で「明るい」という意味で、この単語の仲間と関係して「金髪の」あるいは「明るい肌色の」という身体的特徴を言うもの。あるいはまた、hild「喧嘩、戦闘」の人ということで、「好戦的な者」という場合もある。彼に似あうのは最後 2 つのどちらかだろうか。

グロスタール Gloucester はイングランド南西部の都市グロスターそのもので、『リア王』ではグロスター伯として出てくる。Gloucester はウェールズ語でカイルロイウ Caerloyw という名前になるが、これらはパラレルで、-cester と caer はいずれもラテン語 castrum に由来し「砦、城」の意。残りの部分は、じつは loyw というのは caer の後ろにくっついたための軟音化で g が落ちていて (マクネアリー → ペトラでも触れたが、こうした語頭子音変異が前出のゲール語をも含むケルト語の特徴である)、本当は gloyw「明るい、輝く」という単語である。したがって「輝く (白い) 」という意味 (マルカルの訳書カエル・ロイウの項目ではグロスターを「光の都市」と称する)。

ヒルダ・ヴァレンティン・ゴネリル Hilda Valentine Goneril


ヒルダ Hilda はついさきほどちらっと言及してしまったが、いずれも「戦い、戦闘」を意味する古ノルド語 hildr、古サクソン語 hild, hildi、古英語 hild そのものである。Hilda という形はいまの英語・ドイツ語・オランダ語など数々の言語で使われている。私たちの感覚からすると不思議なことであるが、「戦い」hildr が女性名詞なので、そのまま人名に使うと女性の名前になるわけだ。ちなみに名詞の性は複合語では後ろの要素で決まるので、hildr のまえになにかがついても女性名詞、したがってブリュンヒルド Brynhildr やクリームヒルト Kriemhild (中高ドイツ語読みクリエムヒルト)、マティルドすなわちマチルダ Mathilde/a などもすべて「ヒルダ」を含む女性名なのである。

ヴァレンティン Valentine は言うまでもないだろうが、バレンタインデーのもととなった殉教者ウァレンティヌス Valentinus のような人物名が由来で、いちおうフランス語読みと言っておこう (しかしファンティーヌ Fantine で見たように語末の -ne はヌというカナ書きが一般的である)。その語は valens「力の強い;健康な、壮健な」から派生している。「戦い」に続いて「強い」とは、たしかにヒルダにぴったりなのかもしれないが本人はきっと不満であろう。

ゴネリル Goneril はすでにリーガンにつき断ったようにおそらくケルト語源で語義不詳。しかし由来を解明するという観点から見ればこれ以上ないほど明らかで、伝説上のレイア王の長女であるとともにそれに取材したシェイクスピア『リア王』の長女の名前からとったものとはっきりしている。ジェフリーの『ブリタニア列王史』における古いつづりはゴノリラ Gonorilla だがゴリラ gorilla を連想してはいけない。

ラファエル・キルステン Raphael Kirsten


ラファエル Raphael はユダヤ教・キリスト教の (大) 天使の名前として周知のことだろう。ヘブライ語ラファエル רפאל (rāfāʾēl)「神は癒やす」の音写、ギリシア語 Ραφαήλ (Raphaēl)、コプト語 ⲣⲁⲫⲁⲏⲗ (raphaēl)、ラテン語 Raphael、アラビア語 رفائيل‎ (rafāʾīl)、その他どの言語でも同様、ヘブライ語はありがたいのでみんなそのまま使っている。まさかフォドラの民までありがたがってそのまま踏襲するとは。

もっとやばいのがキルステン Kirsten で、これは見たまんまクリスチャン Christian、つまり「キリスト教徒」という意味の北欧語形 (デンマーク語・スウェーデン語・ノルウェー語)。下の名前としては女性名だが名字にも使う (たいへんややこしいことに、Kirsten は女性名で Karsten は男性名)。そんなことはさておいて、ラファエルにキリスト教徒とは、そんなごりごりの名前の人間がよく名簿上ではねられずにセイロス聖教会の附属学校に入れたものである。案外この宗教は近代的で (レア様の顔に似あわず) 寛容なのかもしれない。

リシテア・フォン・コーデリア Lysithea von Ordelia


リシテア Lysithea はギリシア語名リュシテア Λυσιθέα (Lysithea) の転写。ギリシア神話のなかでは相当マイナな人物で (グラント゠ヘイゼルには言及がない)、語義どころかじつは本来のつづりも定かではない (詳細は以前 Wikipedia 日本語版記事を作ったのでそちらを参照)。例の迷惑な主神ゼウスの被害者の 1 人の名であって、そこから木星の衛星の名 (木星ジュピターとはゼウスのラテン語 [=ローマ神話] の名ユピテルの英語読みで、それを取り巻く衛星には多く彼の愛人たちの名がつく) にも選ばれたためそれが直接の元ネタだろう (ちなみにアドラステアも木星の衛星である)。

ほんらい古典ギリシア語でもラテン語でも古ノルド語でも、またドイツ語をはじめとした現代の多くの言語でも、υ = y と書けばイではなくてユ (イュ) と読む。そのことは『if』のニュクス Nyx や『ヒーローズ』のルグ Ylgr、今作でもリシテアの経歴と関係のあるフリュム家 Hrym などの表記に見るとおりで、彼女の名も適切にリュシテアとしたほうが統一感があるうえにかわいいと思うのだが、先述の記事を私が作ったのはごく最近であってそれまでは木星の衛星リシテアの項目しかなかったため、日本語でしか物を調べられない開発陣にとってはリの表記しかなかったことが明暗を分けた (ギリシア神話のニュクスや北欧神話のフリュムなどにはかねてから日本語の情報源があったことと好対照)。

元ネタが木星の衛星リシテアであることはわかったが、では Lysithea をそう読むのは何語かというと、じつはこれは何語でもない、しいて言うなら日本語である (英語読みはライシシア、フランス語ではリシテ Lysithée)。天文学の天体名や生物学の学名ではラテン語とギリシア語がよく使われるが、それらの業界ではカタカナ読みするに際して、原則ローマ字読み、ただしローマ字と違って母音 y は i と同じに、子音 th と ch は h がないものと同じ、ph は f として読むという慣行がまかり通っているためである。

コーデリア Cordelia の由来と語義不明の弁解についてはリーガン、ゴネリルと同文である。ただコーデリアについてはとくに、ラテン語 cor, cordis「心臓」に遡る英語・フランス語その他の cordial「心からの、真心の」との関連を見るのは、民間語源の疑いがあるとはいえ、現代の欧米人が Cordelia という字面を見たときその連想による印象を抱くことまでは否定できない。ジェフリー『列王史』での名前はコルデイラ Cordeilla で、悲劇『リア王』とは違って生きてレイア=リア王の王位を継ぎ女王となるが、5 年間の平和な統治のあと甥 (姉リーガンの息子) によって仕掛けられた戦争に敗北し獄中で自殺することになる。

ところで海外版では C が落ちて Ordelia となっていることは注目に値する。その理由はもとより想像するしかないが、Cordelia といえば『覚醒』のティアモの海外名であって、「天才」などいくつかの属性の一致から推して、リシテアの造形上ティアモのことが念頭にあったことはまず間違いない (FE には伝統的に赤緑騎士、ジェイガン、長髪剣士等々の役回りの踏襲があるが、新しくティアモの系列もその 1 つとして確立されつつあるということ)。そうであればコーデリアという名前は『リア王』だけでなくティアモへのオマージュとしても機能していただけに、そのつながりをあえて断ち切ったことは不可解である。Ordelia というつづりそのもので検索すると古いゲルマン語起源、エルフの槍という意味とするサイトもあるが、まともな情報源ではない。

イグナーツ・ヴィクター Ignatz Victor


イグナーツ Ignatz はドイツ語名、つづりとしては (ローレンツ Lorenz と同じように) z だけの Ignaz のほうが人口は倍ほど多い。ラテン語の名イグナティウス Ignatius から来ており、それじたいさらに古くは Egnatius でエトルリア起源とされる。本来の意味は不詳だが、当時の民間語源によってラテン語 ignis「火」との連想が起こり、「燃えている、火のような、猛烈な ()」と解されるようになった。

ヴィクター Victor というつづりと読みは英語のもの、Ignatz との調和を考えれば Viktor のほうが望ましかった。現代英語にもそのまま victor として残っているが、ラテン語ウィクトル victor「勝利者、征服者」に遡る。イグナーツともども荒々しく勇猛な名前で彼のキャラとはミスマッチに見える。とはいえ日本人でも誰でもそうだが子どもは名前のとおりに育つものではあるまい。

マリアンヌ・フォン・エドマンド Marianne von Edmund


マリアンヌ Marianne というつづりの名前はさまざまの言語で行われているが、その読みはフランス語名 (たとえばドイツ語ではマリア (ン) ネ)。由来はマリー Marie とアンヌ Anne の結合から。アンヌの意味はアネットの項を参照。マリーはもちろん聖母マリア、すなわちギリシア語マリア Μαρία (Maria) で、マの母音はアラム語読みマルヤム מרים (maryam) に起因するが、ヘブライ語ではミルヤム מרים (miryām)。その意味の探求は諸説紛々であって決定的ではなく、「子を望む」「苦さ」「反抗」などさまざまあるが、古代エジプト語の語根メリ mrı͗「愛する、望む」の完了受動分詞女性形であって女性の人名にも使われたメリート mryt愛された」ととるものを、うますぎるのでかえって嘘くさいものの美しい解釈として掲げておく (すでにソティス=ソプデトの項でも断ったが、エジプト語の読みは理論的な便宜上のもの)

エドマンド Edmund は英語読みで、ドイツ語なら同じつづりでエドムント。その第 1 要素はエドガー Edgar やエドワード Edward と同じもので、古英語 ēad「富んだ」(< *auda-「富」。同じく古ノルド語 auðr、古サクソン語 ōd「富」)。第 2 要素は古英語 mund「保護、防御、警備」、これは古くは「手」の意味でゲルマン祖語 *mundō-「手」に遡りラテン語 manus「手」とも同源であり、「防御」の意味を発達させたのは古英語のほか古フリジア語 mund, mond、古高ドイツ語 munt など西ゲルマン語のみで、現代英語 mound「(要塞用の) 土手、小山;(野球の) マウンド」に至る。したがって「富のまたは富裕な守護 ()」の意。エドワードの ward (古英語 weard) も「警護 (者)」の意味なのでだいたい同じ名前。

レオニー・ピネッリ Leonie Pinelli


レオニー Leonie はドイツ語またはオランダ語、あるいは Léonie とアクサンをつければフランス語読みでもある (シルヴァンのジョゼ José で見たようにアクサンは一貫して落とされたようなのでどちらの可能性もある)。言うまでもないかもしれないがレオ Leo およびレオン Léon の女性形であって、「雌獅子」の意。

ピネッリ Pinelli はイタリア語名で、イタリア語 pino「松」(英 pine) に縮小辞 -ello をつけ複数形 -i にしたもの。複数形が家名になることはイタリア史 (というか世界史) 上有名なメディチ家 (Medici は medico「医者」の複数) やガリレオ・ガリレイなどの例を思いおこせば納得できるだろう。つまり「小さな松 (の一家)」という意味なので、まさに日本語の「小松」という名字そのものである。


セイロス聖教会


レア Rhea


レア Rhea の名の由来には 2 通りのものが考えられる。ひとつはギリシア神話の女神レア Ῥέα (Rhea) で、クロノスの妻でありゼウスを含む多くの神々の母である。古い神の名前につきもののこととして語源は定かでなく、動詞 ῥέω (rheō)「流れる」との関連、あるいは ἔρα (era)「地」の音位転換である可能性が一般には想像されているが、Frisk は印欧語起源とするその他さまざまの説を否定し語源なしとする。またもう 1 人のレアとして、ローマの伝説上の祖ロムルスとレムス兄弟の母であるレア・シルウィア Rhea Silvia を想定することも可能。いずれの場合も、神話・伝説上の決定的に重要な存在を誕生させる母という点で共通しており、セイロス聖教会の大司教としてのレアのイメージにふさわしいと思われる。

マヌエラ・カザグランダ Manuela Casagranda


マヌエラ Manuela はスペイン語・ポルトガル語・イタリア語などでマヌエル Manuel の女性形、大元はヘブライ語インマヌエル עמנואל (ʿimmānûʾēl)「神は我々とともにある」から。信仰を教える教会の教師としてうってつけの名前である。

カザグランダ Casagranda は正確にイタリア語と言いきっていいかわからないが意味は「大きな家」ということで疑いない。イタリア語でもスペイン語でも casa は「家」(しかしスペイン語では濁らないのでカーザと読むのはイタリア語)、grande は「大きい」で、普通名詞としては una grande casa となるが、固定した名字としては Casagrande の異綴として Casagranda もいるようである。

ハンネマン・フォン・エッサー Hanneman von Essar


ハンネマン Hanneman の語尾に n が 1 つの形は英語化したものだが、響きとしてはドイツ語風で Hannemann の異綴としてみなしてよかろう。名前というよりは名字であり、ヨハンネス Johannes の短縮形に -mann のついた父称、あるいはまれにヨハンナ Johanna の短縮形に同じく -mann のついた母称らしい。そうだとすれば英語のジョンソン Johnson に相当する表現である。『小学館 独和大辞典』によれば „Hannemann, geh du voran!“「ハンネマン、君が先に行け (いやな・困難なことについて、お前がまず先にそれをやれの意)」という決まり文句があるという。ハンネマンを起用している人は特攻させるときなどに言ってみてはどうか。

エッサー Essar は不明、もしかしてエッサー Esser のつづりを勝手にひねったのではないか? Esser だとすればドイツ語の名字で「車大工」を意味する職業由来の名である (車というのはもちろん自動車ではなくて荷車のこと。ゲルマン祖語 *ahsō- から古高ドイツ語・古サクソン語 ahsa、古英語 eax、意味はいずれも「車軸、心棒」)。また現代ドイツ語の普通名詞としては Esser は「食べる人、大食漢」のことでもある。

セテス Seteth


セテス Seteth の名の由来には次のフレンと並んでまったく手がかりがない。こじつけるとすればヘブライ語の 3 語根 ס־ת־ת (s-t-t)「のみで彫る、彫刻する」はピエル動詞なので完了 3 人称単数男性でシテス סתת (sitēth)「彼は彫刻した」となりよく似る、とはいえ彫刻が趣味なのはセテスではなくギルベルトだし、だいたい制作陣がヘブライ語文法を知っているわけがないので関係がない。しかし次のフレンの項も参照。

フレン Flayn


フレン Flayn も由来不明で、たとえばアイルランド語 flann や Flynn (前者は「血」または「血のように赤い」、後者はその名前からきた「Flann の子孫」という名字の英語化) と関連づけても無駄だろう。おそらくセテスもフレンも既存の名前ではなく架空のものではないか。

そこで自由に想像するとして、四聖人すべてと共通して聖セスリーン Cethleann (これは現代アイルランド語の英語読み) の元ネタはアイルランド神話であり古アイルランド語で Cethlenn だが、この名前をセス Ceth とレン lenn に二分して 1 文字ずつ足したのがセテスとフレンなのではないか、と私は邪推している。ちなみに Cethlenn という名前そのものはアイルランド語名カティリーン Caitlín の異綴の 1 つであって (MacKillop)、これは見てのとおりカトリーヌ Catherine というフランス語名を借用したもの (ただし神話の Cethlenn はキリスト教と無関係なので異説もある)、だがもちろん開発陣が意識しているとは思えないので雷霆のカトリーヌとの一致は偶然。それにしても、どうして聖セスリーンのことをわたくしの項目で説明しますの?

イエリッツァ Jeritza


イエリッツァ Jeritza は姓名どちらとしても実在はするようだがきわめてまれ。その名をもつ数少ない例にチェコ生まれのソプラノ歌手マリア・イェリッツァ Maria Jeritza がいたが (チェコ語版 Wikipedia で Jeritza の検索結果 24 件はすべてこの人関連)、この人は芸名であって本来の名字はイェドリチュコヴァー Jedličková といい、それをつづめたのが Jeritza か? チェコ語で女性の名字は男性形に -ová をつけて作るので (したがって夫婦でつづりが少し違い、たとえばノヴァーク Novák さんの妻はノヴァーコヴァー Nováková になる)、この名前ももとに戻せば Jedlička, Jedličko か Jedliček あたりになるだろう。その語は jedle「モミの木」に、道具などを表すか縮小形を作る接尾辞がついたものと考えられる。

ツィリル Cyril


ツィリル Cyril は明白にチェコ語読みで、ギリシア語名キュリロス Κύριλλος (Kyrillos)「主の、主に属する」に由来する。その語はギリシア語キュリオス κύριος (kyrios)「主、主人」から派生しており、キリスト教で神を指す言葉である (その呼格キュリエ κύριε [kyrie]「主よ」は祈りやミサ曲でおなじみの「キリエ・エレイソン」というフレーズで一般にも有名)。したがってツィリルとはアネットの家名ドミニク<ラテン語 dominicus「主の」とまったく同じ言葉である。

ローマ帝国の分裂後、西方のキリスト教ではラテン語、東方ではギリシア語が使われたが、そのとき東方でスラヴ語圏 (現在のマケドニア・ブルガリアから始まりロシアに至る方面) へのキリスト教伝道に着手したのがキュリロスとメトディオス兄弟で、そのキュリロスの名は現在ロシア語やセルビア語などで使われるキリル文字にも残っている。すなわち (キュリロスという人物は歴史上たくさんいるとはいえ) ツィリル=キリルといえば誰しも思いだすのがこの兄弟だが、兄メトディオスのほうのチェコ語形がメトジェイなので、第 1 部 2 月に戦う敵メトジェイの元ネタはこれだろう。

トマシュ Tomas


トマシュ Tomas もまたあからさまにチェコ語、あるいはその隣のスロヴァキア語だが、正しくは Tomáš と表記する (Tomas では当然トマでしかない。-s でシュと読むなんて冗談はハンガリー語だけにしなさい)。英語その他のト (ー) マス Thomas と同じもので、ギリシア語 Θωμᾶς (Thōmas)、究極的にはアラム語 תאומא (tāʾômāʾ) に遡る。その本来の意味は「双子」であって、イエスの十二弟子 (使徒) のうちヨハネ福音書で「ディデュモスと呼ばれるトマス」(ヨハネ 11:16, 20:24, 21:2) という表現が見られるのは、ギリシア語とアラム語両方で「双子」と言ったもの。第 1 部 11 月のネタバレになるがトマシュの [役目の二重性を考えるとおもしろい名づけといえる]。

ジェラルト・アイスナー Jeralt Eisner


ジェラルト Jeralt は Jerald, Gerald の異綴とみなせる英語読み。ゲルマン祖語 *gaiza-「槍;先端」(古ノルド語 geirr「同前」。その語は『ヒーローズ』総選挙ルキナの武器「ゲイルスケグル」や『Echoes』のオーバークラス「ゲイレルル」とも共通するもの) と、もう何度か既出の *waldan-「支配する」(ドロテアの項を参照) とから成り、「槍の支配 ()」の意。これも槍の達人である傭兵団長・騎士団長にはおあつらえ向きの、名が体を表すといった形である。しかしゲラルト Gerald とドイツ語読みすれば思わずよだれが出そうになりますぜ。

アイスナー Eisner という姓は『風花』公式サイトのキャラクタ紹介には載っていないが、シナリオ上重大な情報とも思われないしピクシブ百科事典でもフルネームで項目名になってしまっているくらいなので解説してしまう。この名は明らかにドイツ語で、Eisen「鉄」(< 古高ドイツ語 īsarn, īsan < ゲルマン祖語 *īsarna-「鉄」) を扱う者、すなわち「鉄工、鍛冶屋;金物屋」を意味する職業姓。日本人名でも「鍛冶」や「金屋」があるのと同じこと。

カトリーヌ Catherine


カトリーヌ Catherine という読みはまさしくフランス語であって (さきにフレンの項で少し触れた)、その起源はギリシア語名アイカテリネ Αἰκατερίνη (Aikaterinē) あるいは〜ナ Αἰκατερίνα (Aikaterina) に遡るが、語義は諸説あり不詳で、ギリシア神話の女神ヘカテ Ἑκάτη (Hekatē) に関連づける説は疑われている。キリスト教時代の初期に καθαρός (katharos)「清い、清潔な;純粋な」との連想が起こり、このゆえにつづりの t は th となった。現代におけるヴァリアントは多数あり、北欧語や一部のスラヴ語など多くの言語でカタリナ Katarina, Catharina と読めば『新紋章』に同名人物、また縮小形としてイタリア語カティア Catia や北欧語、ロシア語などのカ (ー) チャ Katja, Катя (Katja) とすれば『暗黒竜』ほかのカチュアにも近い (彼女の海外名 Catria は Catherine との関連を裏づけている)。

別名に言うカサンドラ Cassandra はギリシア神話の人物カッサンドラ Κασσάνδρα (Kassandra) の音写。後半の -ανδρα (-andra) の部分は素人目にもアレクサンドラと同じ「男;人」の意味に見え (アレクサンドル → ディミトリの項参照)、12 世紀ビザンツの文法家ツェツェス以来 κάσις (kasis)「兄弟」と ἀνήρ (anēr) の結合で「勇ましい男を兄弟にもつ (女)」の意とする解釈が行われてきたがいまでは否定されており、結局のところ語義不詳 (Frisk) というのが誠実な態度。ただもし καίνυμαι (kainymai、完了 1 単 κέκασμαι [kekasmai] なので語幹は κασ- [kas-])「勝る、しのぐ、卓越する」という動詞と結びつける説が正しいとすれば「人に勝る、人より優れた者」と読める。

アロイス・ランゲルト Alois Rangeld


アロイス Alois はチェコ語名で、ドイツ語ルートヴィヒ Ludwig、フランス語ルイ Louis、イタリア語ルイージ Luigi に対応する名前。ゲルマン語起源で古いつづりには L のまえに H = ラテン語形 Ch があり、メロヴィング朝フランク王国の王クローヴィス (フランク語 *Hlōdowig) と同じ名である。その成り立ちは *hlūda-「やかましい、騒々しい」(古高ドイツ語 hlūt, lūt、古英語・古フリジア語・古サクソン語 hlūd、そこから現代ドイツ語 laut、現代英語 loud、意味はすべて同前) と *wigan- ~ *wihan-「戦う」(ゴート語 weihan、古英語・古高ドイツ語 wīgan「同前」)。彼のイメージには「やかましい戦士」でぴったりだと思うが、「有名な戦士」の意味とする語釈もある (究極的には印欧語根 *ḱlew-「聞こえる」に遡ることからどちらの意味も納得できる)

ランゲルト Rangeld はドイツ語読みとしていかにも自然にありそうなつづりだが、実際には実例が僅少ではっきりしない。ドイツ語に rangeln「取っ組みあいをする」という動詞はあるが関係は不明。Rangel で終わればスペイン語・ポルトガル語圏 (スペインおよび南米) に多数いるのだが。

ギルベルト・プロスニラフ Gilbert Pronislav


ギルベルト Gilbert はドイツ語で、英語的にはギルバート、フランス語ならジルベールとなる。これまたゲルマン語の名で、後半の -bert はヒューベルトですでに説明したとおり「明るい、輝く」。しかし前半要素は定かならず、ゲルマン祖語 *gīsla- に 2 つの異なる意味があって、ひとつは「矢柄、槍の柄」(古ノルド語 gísl「杖、棒」、古高ドイツ語ランゴバルド方言 gīsil「矢」)、いまひとつは「人質」(古ノルド語 gísl、古英語 gīsel、古サクソン語・古高ドイツ語 gīsal、そこから現代ドイツ語 Geisel、すべて同前)。この後者は古アイルランド語 gíall「人質」、中期ウェールズ語 gwyst(y)l「人質、保証」にも見られ、ゲルマン祖語のほうがケルト祖語から借用したとする Matasović の説を Kroonen は合理的と認める。だがこれでは結局のところしっくりこない。

ドイツ語版 Wikipedia は Gilbert (Vorname) の項でなぜか根拠なく gisil を「貴族の子孫・後継者」の意味とし、さらに後半 berht/beraht を「明るい」ではなく「有名な、著名な」の意味に限定しておきながら、全体としてギルベルトにはどうしたわけか「輝く新芽・若枝=後裔」(der glänzende Spross) の意味を帰する (有名はどこに行った?)。このままでは信用ならないが、一方 Nordic Names のサイトは Brylla, Förnamn i Sverige を典拠として *gīsala-, gīsila- には「保証、人質」のほか「子孫、後裔」の意味があるとしており、まったく無から生じたわけでもなさそうだ。根拠は曖昧だが子どもにつける名前としてはそれらしくはある。

プロスニラフはおそらく不注意のミスに起因している。一見チェコ語あたりに本当にありそうな雰囲気にはなっているが、カタカナではプロスニラフなのに海外版ではプロニスラフ Pronislav である。Prosnilav でググると今作のギルベルト関係以外にまったく検索結果が存在しない。カタカナのプロスニラフについては、2ch の書きこみではあるが発売前の 7 月 3 日時点で 1 件しか出なかったという証言がある。さらに言うと、じつは Pronislav であっても Gilbert を除外した検索結果でユニークなのはわずか数十件足らずである。したがってこれはたぶん「スニ」だけでなく語頭の「プ」も間違っており、ニスラフという実在するありふれたスラヴ語の名前 (チェコ語・スロヴァキア語ブロニスラフ Bronislav、ポーランド語ブロニスワフ Bronisław、ロシア語 [モスクワ標準発音] ブラニスラフ Бронислав [Bronislav]、等々) を間違えたものと断定してよい。

こういうことは FE では昔から少なからずあるのであって、『暗黒竜』以来の「オレルアン王国」は明らかにオルレアンの書き間違いだったし (海外版のつづり Orleans からもそれは確証される。「オルレアンの乙女」ジャンヌ・ダルクの活躍した戦いでこれほど有名な都市の名前を覚え間違えるなど笑止)、濁点と半濁点の取り違えということでいえば『封印』の八神将テュルンの例がある (ローラン、バリガン、ブラミモンドとともにテュルン Turpin は『ローランの歌』に登場する人物である)。「プロスニラフ」はこの恥の歴史に加わる新たな 1 ページとなった。なおなにかの配慮から故意に変えたという可能性などはないことは、ここまでに何十もの実在する固有名をそのまま使っている例を見たらわかる。実在人名と重なることを避けたいならとっくにやっているだろう。

気をとりなおしてブロニスラフ Bronislav の意味について言うと、その要素は前半 Broni- が「戦闘」(スラヴ祖語 *bornь > 古教会スラヴ語 брань [branĭ] など) または「防御、保護」(スラヴ祖語 *borna「まぐわ;防御、障壁」からチェコ語 bránit「防衛する;妨害する」、ロシア語 борона [borona]、これと動詞 боронить [boronit’] には現在「まぐわ・耕耘機 (で耕す)」の意味しかないが、古くは「守る、保護する」の意味もあった) で、後半 slav は「栄誉、名声」(スラヴ祖語 *slava > 古教会スラヴ語 слава [slava]、ブルガリア語・セルビア語・ロシア語 слава [slava]、チェコ語・スロヴァキア語 slava、ポーランド語 sława など、いずれも同義)。チェコ語版 Wikipedia ではこの名前の意味を「名誉のために戦う、名誉を守る」または「有名な戦士、戦いで有名な」と説明している。

シャミア・ネーヴラント Shamir Nevrand


シャミア Shamir という発音は英語なまりであって本来シャミ (ー) ルと読むべきところだが、そのシャミル שמיר (šāmîr) はヘブライ語の本当は男性名で、由来である旧約聖書では 2 つのだいぶ異なった意味に使われている。すなわちイザヤ書では一貫して「いばら」の意で (イザヤ 5:6, 7:23–25, 9:18, 10:17, 27:4, 32:13)、ほかの預言書では「金剛石=ダイヤモンド」の意味である (エレミヤ 17:1、エゼキエル 3:9、ゼカリヤ 7:12)。またユダヤの伝承では、ソロモン王がエルサレム神殿を建てるさいに使った、石でも鉄でもダイヤモンドでも切れる伝説の素材の名でもある (この詳細は Wikipedia の Solomon’s shamir の項を参照)。また関係は不明だが動詞シャマル שמר (šāmar)「守る、番をする」の派生語である「番兵、見張り」ともみなせるし、同じつづりで植物の「ディル、イノンド (学名 Anethum graveolens)」か「ハマナツメの一種 (学名 Paliurus aculeatus)」、鉱物の「金剛砂」でもありうるようだ。

ネーヴラント Nevrand は判断に困る名前である。このつづりはたしかに常識的に読めばネーヴラント/ドになるので候補が多すぎて何語ともつかないが、絞りこむうえでは V の音がありしかも R の直前に立っていることが印象的といえば印象的だ。Shamir を除外して Nevrand でググってみるとルーマニア語のページがかなりの割合を占めるが、それは vrând-nevrând という表現によってである。これは動詞 vrea「〜したい、欲する」の現在分詞 vrând とそれに否定辞がついたもので、「好むと好まざるとにかかわらず、否応なしに」という意味。したがって nevrând だけでは「好まないので/のに」という意味だが (英語の動名詞と違って名詞的意味では言えず、付帯状況や分詞構文に使う)、まさかそんなものを知っていてつけたわけはなく偶然だろう。そうするとこれも既存の言葉ではなく造語なのではないか? ひょっとすると「理想郷ネバーランド Neverland から 2 文字抜いて作ったのではなかろうか。根拠はまったくないけれども、彼女がフォドラ外の遠い大陸から来たことを思えばあながち的はずれな憶測でもないかもしれない。あるいはいまひとつの、しかし決して可能性として小さくはないと思われるのは、単純に L と R を間違えたというしょうもないもので、Nevland という名字は北欧に実在している。


あとがきにかえて――中点とダブルハイフン


最後に、いまさらながらにではあるが、ここまで一貫して登場人物のフルネームを公式に即した「=」ではなく「・」で記してきたことについて説明しておきたいと思う。その理由は端的に言えば、「を用いるのが日本語として正しくないからである。名前に用いる中点とダブルハイフンにはれっきとした使いわけがあるのだ。

なお些末なことから断っておくと、正確にはこの記号はイコール「=」とは違うもので、ダブルハイフンという名があり「゠」(U+30A0) という記号である。入力しづらいためにしばしばイコールで代用されているが、あまり見栄えのよいものではない。表示環境の問題もあり、以下ではとくに区別せず使うが、どうせ使うなら「゠」のほうが望ましいということには留意しておいてほしい。といって、「゠」に置きかえれば問題解決というのではない。

「・」と「=」の 2 つの記号の使いわけは、原語の単語の区切りであるスペースには「・」、ハイフンで結ばれた複合姓などには「=」というのが原則である。ここから、「=」で結ばれた単語は「・」以上に緊密なひとまとまりをなし、その全体でひとつの名もしくは姓を表すということが従う。それゆえ、もし「エーデルガルト=フォン=フレスベルグ」と書いてしまえばそれは Edelgard-von-Hresvelg という一塊を表すことになり、名字か下の名前かどちらでもよいがフルネームということにだけはならないのである。「=」では名字と名前の区切りになることはできない。

当面の目的には小学生でも知っている例を 2 つほどあげてみれば十分だろう。『ハリー・ポッターと賢者の石』の主人公の名前を「ハリー=ポッター」と書く人がいったいこの世にいるだろうか? またアメリカの大統領を「ドナルド=トランプ」と表記している新聞やニュースを見たことがある人はいるのか? いるわけがない。それは日本語として間違いであって、誰もそんな奇怪な書きかたはしないからだ。実在の人物でもフィクションの登場人物でも変わりはない。

ダメ押しに同じ FE シリーズでも過去作、すなわち『烈火』における「ブレンダン・リーダス」、『蒼炎・暁』の「エリンシア・リデル・クリミア」や「ジル・フィザット」、『Echoes』の「アルバイン・アルム・ルドルフ」などなど、以前から直近の作品までずっと正しい表記を作中で行っていた。したがってこの「=」は、ちょうど『ファイアーエムブレム』の「ム」のように特殊なこだわりによっているという言い訳も通らず、むしろ実際にはこれまでの過去作の伝統にさえ真っ向逆らっているのである。

以上のとおり、歴代でも異例の大量の人物にフルネームが与えられた今作において、このような間違った情けない形になってしまったのは残念でならない。本件の責任者は『ハリー・ポッター』シリーズどころかその他いっさいの本を読んだことがなく、日々の新聞やニュースも見たことがなく、かてて加えて過去作すらプレーしたことがなかったのだろう。たまたまおかしな表記をするラノベやネット小説しか文字というものを読んだことがなかったのだ (べつにネット小説が悪いわけではないが、言語能力はほかで涵養すべきである)

いや、いかに日本語として見苦しくても公式がそう書いているからそうなのだ、という論法も通らない。日本語で創作する以上は日本語のルールのほうが優先されるからだ。かりにエーデルガルトが作中で「皇女」ではなく「王女」と表記されている箇所があったとしよう。その場合、公式がそう書いているからそれも正しいと盲信するのは思考停止であって、誤字だとみなすほうが健全な判断ということには誰しも同意すると思う (会話集を編纂するなら「王女」と載せたうえで「原文ママ」とでも注記することになる)。そう考えるならそれは皇帝の娘なら皇女だという日本語の知識が念頭にあるためである。

念のため「=」の正しい用法のほうも著名人の名で例解すると、ジャン=ジャック・ルソー (Jean-Jacques Rousseau) はジャン=ジャックが名でルソーが姓、クロード・レヴィ=ストロース (Claude Lévi-Strauss) はクロードが名でレヴィ=ストロースが姓である。ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロ=ポンティ、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、ガブリエル・ガルシア=マルケス (後注)、……いくらでも同様の例を挙げられる。いずれもおなじみの人名と思うが、こうした有名な名前を想起すれば「・」と「=」は基準があって使いわけられていることは察せられてしかるべきでないか。

ところで反対に原語がどうであれすべて「・」で区切るぶんにはかまわない。それゆえ「メルロ・ポンティ」のような表記も見受けられるわけだ。中点は万能の区切りである。「=」の使いかたに自信がないのならぜんぶ「・」にすればよい。

と、ここまで快刀乱麻を断つがごとく日本語の規則について断定的に述べてきたが、以上のことはあくまで常識に従えばの話だ。常識を知っていれば先年報道をにぎわした日産の元会長は「カルロス・ゴーン」氏だし、「コナン・ドイル」の書く架空の名探偵は「シャーロック・ホームズ」である。「カルロス=ゴーン」や「シャーロック=ホームズ」とする人はめったにいない。だが世のなかにはどうも一般的な書きかたに従いたくない人たちがいて、日本語の書記体系はそのような自由放縦を認容しているという側面のあることも事実である。

それゆえごくまれにではあるが、大人向けのしっかりした本のなかにさえ、姓名の区切りすべてに「=」を使う例も存在はするのである。もっとも私じしんは蔵書およそ 1 万冊 (ラノベや漫画は除いても) に及ぶ愛書家の端くれとして、このような例は 1 % にも満たないということをはっきり証言しておく。推奨されるべき例ではない。

日本語にはたとえばフランス語やスペイン語におけるほどに正書法 (単語のつづりなど文字の使いかたの規則) を強力に定める権威ある統制機関がない。旧国語審議会、文化審議会の答申や内閣告示というものも、すべて厳密に実践しているのは官庁の刊行物くらいだろう。一般の人々が使う漢字や送りがな、句読点の用いかたなどについて事実上はかなりの勝手が許されているし、まして日本語に本来ないコロンやセミコロン、そしてわれらがダブルハイフンのような外来の記号に至ってはなおさら曖昧である。

「あかるい」という漢字の送りがなは、小学校では「明るい」と書くよう教えられているはずだし、したがってこれが一般的には「常識」であって優勢であるが、「明かるい」あるいは「明い」と印刷している本は (とくに古いものでは) たしかにあるし、間違いとはいえないということを知る人は知っている。だが小学校の漢字テストでは「明るい」だけが正解であったように記憶しているし、じっさい現在の世代ではそう信じている人はかなりの数に上るのではないか。もっと極端な話、文章のすべてをひらがなで記した本があったとしてもやはり「間違い」ではないのだ。日本語にそれを禁止する規則はないといえばない。しかし現実にそれをされると読みづらいしたいていの場合はみっともない。

全文をひらがなで書くのはふつう小学 1 年生か外国人向けの文章だけだし、「明かるい」という送りがなを見れば違和感を覚える人も多かろう。すなわち現実に目にする多くの刊行物でそれをすれば修正されるか、よほどこだわりがある書き手なのだなと思われるのが関の山だ。そういう実際的・平均的な意味ではこれらは「許されていない」とも称せる。「日本語のルール」というのはいまのところこの程度の緩やかな「空気」的なものだ。

ダブルハイフンも同じことである。いやむしろ外来の記号であるからにはいっそう、その規範は本来の外国語に倣うのが筋のはずだ。「ハリー=ポッター」や「シャーロック=ホームズ」や「ドナルド=トランプ」などが認められていないのとまったく同じ程度に、「エーデルガルト=フォン=フレスベルグ」は異様だし現在のところ間違っているというのが、日常的に活字を読む人の常識的判断というものである。

「常識」というのはなるほど曲者であって不確実な存在ではあるが、無視してよいものでもない。日本語の表記についてなにほどか誠実かつ確実に言えるのはこれだけである。

(後注) あまりに脱線が長くなり論旨を混乱させるかと思われたので末尾に注記する。ガブリエル・ガルシア=マルケス (Gabriel García Márquez) やマリオ・バルガス=リョサ (Mario Vargas Llosa) のような例は、原語がスペースによる区切りでありながらダブルハイフンを使っている。これらはスペイン語圏の人名によくある、両親の姓を 1 つずつもらった複合姓であり、日本語の表記でもガブリエル・ガルシア・マルケスのようにすべて中点を使うことも多く、両者相半ばしている。しかるに同じスペイン語で両親からとった複合姓でもホセ・オルテガ・イ・ガセット (José Ortega y Gasset) の場合には「=」はきわめてまれである。私の所見では、ガルシア=マルケスのように実詞が裸で連結される例では中点と並んでダブルハイフンが許容されやすく、接続詞や前置詞による場合には中点が優勢になるように観察される。

このことはさきに挙げた、原語がハイフンによる事例とも統一的に説明することができる。まず、たとえばレヴィ=ストロースをたんに「ストロース」、サン=テグジュペリを「テグジュペリ」(より正確には「エグジュペリ」だが)、などと半分だけで呼んだとすれば失笑を買うこと請けあいだが、これはハイフンで結ばれた名前はそれ以上分割できないためである。

ここから翻って、日本語で教養ある書き手がダブルハイフンを使うときにも、連結を分断させたくない意図があるさいに「ガルシア=マルケス」のような任意のダブルハイフンを使っているように見受けられる。「オルテガ・イ・ガセット」や「ド・モルガン」や「フォン・ノイマン」など、接続詞や前置詞による複合姓の場合にふつう「=」を使わないのは、ごく短い単語であるそれらの機能語は一見してそれと知れるため結びつきが自明だからである。一方で「ガブリエル・ガルシア・マルケス」や「マリオ・バルガス・リョサ」などのように実詞が並ぶ場合、姓なのかミドルネームなのか知識がないと判然としない。いきおい作家をよく知らない人は「マルケス」と母方の姓だけで呼んでしまいかねない。そこで「ガルシア=マルケス」の部分は切らないでほしいと読者に伝えたい意識から「=」を使う人がいるのではないか。

以上をまとめると、原つづりがハイフンであれスペースであれ、日本語でふつう「=」が使われる場合には複数語からなる姓または名を緊密に結びつけ、姓は姓、名は名でグルーピングするものである点で共通している。かくのごとく「=」で結ばれた両語のつながりは強力であって、「=」の前後どちらかだけを切りとって呼ぶということはできなくなる。こういうふうに使いわけるのでなければ「クロード・レヴィ=ストロース」にしろ「ガブリエル・ガルシア=マルケス」にしろ 2 種類の記号がある意義が失われてしまう。したがって姓と名の区切りに「=」が使われてはならないのである。

mardi 3 septembre 2019

16 世紀ゲルマン語訳聖書を読む:ガラテア 1:1–5

ルター訳およびそれに影響を受けたとされる同時代の北ゲルマン語訳聖書を比較して読んでみる。ここでは「ガラテアの信徒への手紙」1 章 1–5 節を題材にとる。

聖書のテクストはルターが翻訳の底本としたエラスムスによる第 2 版のギリシア語聖書 (1519 年)、ルターの初訳であるいわゆる「9 月聖書」 (1522 年)、そして事実上ルター訳がその「基礎を置くことになった」(塩谷饒『ルター聖書 抜粋・訳注』大学書林、1983 年、194 頁) というデンマーク語、スウェーデン語、アイスランド語訳の順に掲げる。

すなわちデンマーク語訳は 1524 年のいわゆるクリスチャン II 世聖書、スウェーデン語訳はグスタフ・ヴァーサ聖書に利用されることになる 1526 年の新約聖書、アイスランド語訳は 1540 年のオッドゥルの聖書で、いずれもそれぞれの言語で出版された最初の聖書である。

聖書のテクストを現在のような節に分けたのは 1550 年代のロベール・エティエンヌによるギリシア語聖書からであったから、本稿で用いたテクストにはもとよりないものであるが、便宜上この区分けを採用した。

エラスムスのギリシア語刊本にあるさまざまの特殊な文字・合字については再現できないためほとんどを通常の文字に戻したが、例外として ϛ (スティグマ = στ) と ϖ (π の異体字)、また現用と異なる記号の用法 (ὀυκ や ὁι など語頭二重母音における気息記号やアクセント記号の位置、δϊά の分音符など) だけはそのままにした。

その他のラテン文字の各国語訳において、ſ (long s) および ꝛ (r rotunda) はたんなる s, r として区別せず表した。古く上つきの小さな e として書かれていた本来のウムラウトは現代式に直した (スウェーデン語のみ。ルター初版のドイツ語にはまだなく、現在の ä は e、ö, ü はたんに o, u と書かれていた)。


Gal 1:1


Gk. Erasm 1519  [Π]ΑΥΡΟΣ ἀπόϛολος, ὀυκ ἀπὸ ἀνθρώπων, ὀυδὲ δἰ ἀνθρώπου, ἀλλὰ δϊὰ Ιησοῦ Χριϛοῦ, καὶ θεοῦ ϖατρὸς, τοῦ ἐγείραντος ἀυτὸν ἐκ νεκρῶν,
De. Lut 1522  [P]Aulus ein Apostel: nicht von menschen: sondern durch Jhesum Christ vnd Got den vater / der yhn aufferweckt hatt von den todten /
Dk. ChrII 1524  [P]Øuild en apostel / icke aff mēnisken oc ey wed noget mēniske / men wed Jesum Christū / oc gud fader / som haffuer opveisd hānom aff the døde /
Sv. NT 1526  Paulus Apostel icke vthaff mennisker / ey heller genom någhon menniskio / vthan genom Jesum Christum / och gudh fadher som honom vpwäct haffuer aff dödha /
Is. Odd 1540  [P]All ein̄ Apostule / eigi af mōm [= mönnum] / nie helldr fyre man̄in̄ / helldr fyrer Jesū Kristū / ⁊ gud faudr / sa han vpp vackti af dauda /

奇妙なことに、9 月聖書では「人々からではなく」nicht von menschen の次に続くべき「人々を通してでもなく」auch nicht durch menschen が欠けており、すぐさま「イエス・キリストと……」sondern durch Jhesum Christ vnd... と続いている。エラスムスの編集したギリシア語原文では含まれているのであるから、ルターの翻訳ミスか植字工による脱字かのどちらかであろう。ルターが生前最後に手直しした版 (Ausgabe letzter Hand, 1545 年) には „auch nicht durch Menschen“ が入っているので、この間のどこかのタイミングで修正されたらしい。北欧 3 言語ではいずれも正しく含まれている。

オッドゥル訳に Pall (= Páll) の同格の称号 ein̄ (= einn) Apostule「使徒パウロ」とあるが、このように数詞 1 を不定冠詞として使う用法は中世 (古アイスランド語) から現在に至るまでアイスランド語にはない。これは明らかにルター訳 Paulus ein Apostel のドイツ語の敷き写しである。

Gal 1:2


Gk. Erasm 1519  καὶ ὁι σὺν ἐμοὶ ϖάντες ἀδελφοὶ, ταῖς ἐκκλησΐαις τῆς γαλατΐας.
De. Lut 1522  vnd alle bruder die bey myr sind. Den gemeynen ynn Galatia.
Dk. ChrII 1524  oc alle brødre som ere hoss meg. Thend men hed vti Gallatia
Sv. NT 1526  och alle brödher som när migh äro. Then forsamblinge som är j Galatia.
Is. Odd 1540  ⁊ aller þ̄r [= þeir] brædr sem medr mier eru. Sofnudunū [= Söfnuðunum] i Galatia

alle bruder にかかる関係節内の語順に注意されたい (ギリシア語では前置詞句であって関係節でないが)。ドイツ語では die bey myr sind (= die bei mir sind) のように定動詞が末尾に来る枠構造が義務的であるが、北ゲルマン語ではそのような語順をとらない。デンマーク語訳はそのとおりデンマーク語的な語順を呈しているが、スウェーデン語訳およびアイスランド語訳では定動詞 äro, eru が文末に来ているのはルター訳の影響であろう。

ほかにはデンマーク語・スウェーデン語の独立 (前置) 定冠詞 thend, then が興味を引く。デンマーク語では次の 17 世紀の文法書 (Koch) では dend とされているし、すでに 1550 年のクリスチャン III 世聖書でも den になっているので、古東ノルド語式に th の文字が使われている最後の時代と思われる。

Gal 1:3


Gk. Erasm 1519  Χάρις ὑμῖν καὶ ἐιρήνη ἀπὸ θεοῦ ϖατρὸς, καὶ κυρΐου ἡμῶν Ιησοῦ Χριϛοῦ,
De. Lut 1522  Gnade sey mit euch vnd frid von Gott dem vater / vnnd vnserm hern Jhesu Christ /
Dk. ChrII 1524  Nade ware met eder oc fryd aff gud fader wor herre Jesu Christo /
Sv. NT 1526  Nådh wari medh idher och fridh aff gudh fadher och wårom herra Jesu Christo /
Is. Odd 1540  Nad sie med ydr / ⁊ fridr af gudi faudr / ⁊ vorū Drottne Jesu Christo

内容が挨拶の定型的であることも手伝ってか、これまでの 2 節にもまして、すべての語句が順番まで一語一句ルター訳とまるきり同じである。すなわち Gnade = Nade = Nådh = Nad、希求の接続法 sey = ware = wari = sie、前置詞 mit = met = medh = med、人称代名詞 euch = eder = idher = ydr、等々。

Gal 1:4


Gk. Erasm 1519  τοῦ δόντος ἑαυτὸν ὑπὲρ τῶν ἁμαρτϊῶν ἡμῶν, ὅπως ἐξέληται ἡμᾶς ἐκ τοῦ ἐνεϛῶτος ἀιῶνος ϖονηροῦ, κατὰ τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ καὶ ϖατρὸς ἡμῶν,
De. Lut 1522  der sich fur vnser sund geben hat / das er vns erredtet von diser gegenwertigē argen welt / nach dem willen Gottis vnsers vaters /
Dk. ChrII 1524  som haffuer giffued sig selff for wor sønder / paa thet hand motte redde oss fran thenne neruerende onde werden / effter gudz wor faders willte /
Sv. NT 1526  som sigh för wåra synder giffuit haffuer / på thet han skulle vthtagha oss frå thēne näruarādes snödho werld / effter gudz och wårs fadhers wilia /
Is. Odd 1540  sem sialfan sig hefer vt gefit fyre vorar synder / þ̄ [= það] hn̄ frelsadi oss i fra þ̄ssari nalægri vōdri verolld / epter gudz vilia / ⁊ vors faudis /

2 節で見たのと同じく、デンマーク語はルター訳の語順 der ... geben hat に引きずられず、haffuer giffued (= 現 har givet) を関係節内の最初にもってきているのに対し、スウェーデン語訳では som ... giffuit haffuer でルター訳と同じである。アイスランド語訳 hefer vt gefit (= hefur útgefið) はここでは 2 節と異なりアイスランド語本来の語順といえる。

アイスランド語訳についてはもう 1 点指摘することができる。「私たちの父なる神の意志」(希 τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ καὶ ϖατρὸς ἡμῶν, 独 dem willen Gottis vnsers vaters) では「神の」と「私たちの父の」という同格の属格が「意志」の後ろに 2 つ並んでおり、デンマーク語訳とスウェーデン語訳では 2 つがいずれも「意志」willte, wilia の前に並んでいるが、アイスランド語訳 gudz vilia ⁊ (= og) vors faudis では 2 つの属格が vilia の前後に分離しており、これは古風な統語法といえる (たとえば「赤毛のエイリークのサガ」Eiríks saga rauða で saga の前後に「エイリークの」と「赤毛の」が並ぶような)。じっさい、最近のアイスランド語訳聖書 (1981 年、2007 年) ではこの箇所は vilja Guðs vors og föður と後ろにまとめられている。

ギリシア語本文につき 1 点注意すると、τοῦ ἐνεϛῶτος ἀιῶνος は NA28 では τοῦ αἰῶνος τοῦ ἐνεστῶτος だが、意味は同じ (定冠詞つき名詞の修飾語になる形容詞の 2 通りの位置)。

Gal 1:5


Gk. Erasm 1519  ᾧ ἡ δόξα ἐις τοὺς ἀιῶνας τῶν ἀιώνων, ἀμήν.
De. Lut 1522  wilchem sey preysz von ewickeyt zu ewickeyt Amen.
Dk. ChrII 1524  huilken ske ere fran euighed til euighed Amen.
Sv. NT 1526  huilkom ware prijs frå ewogheet till ewogheet Amen.
Is. Odd 1540  hueriū at sie dyrd vm allder allda Amen.

永遠から永遠へ」の訳は、ギリシア語の ἐις τοὺς ἀιῶνας (複数対格) τῶν ἀιώνων (複数属格) に対し、独丁瑞では von ... zu ..., fran ... til ..., frå ... till ... のごとく、語順を逆転させ起点のほうに前置詞 von, fran, frå を補う必要があったが、アイスランド語では vm allder allda = 現 um aldir (複数対格) alda (複数属格) と時を表す格の用法の平行によってすっきり表現できている。すなわちここではオッドゥルはルター訳ではなくギリシア語原文に直接あたったのかもしれない。

lundi 1 juillet 2019

トリエステ方言訳『星の王子さま』を読む:第 5 章・第 6 章

トリエステ方言訳『星の王子さま』El Picio Principe の第 5 章・第 6 章の解説。凡例など詳しいことは序文を参照のこと。


P. 21


le pegore magna albereti「羊たちが小さな木々を食べる」――動詞 magnar は伊 mangiare。トリエステ方言の gn という二重子音字は標準イタリア語のような ñ の音ではなく別々の [gn] という子音連続であるというが (Zeper, 35–37, とくに 36 の注 4, 7)、しかし ñ の音の場合もあるようで、この動詞ではどうか定かでない。またここでは伊 ng に対するトリエステ gn という転倒が起きているが (もっとも語源のラテン語 manducare を思えば音位転換の例とは言いがたいが)、歴史音声学的な Zeper, 29–32 に記述を見いだせないため散発的な現象と思われる。


P. 22


なし


P. 23


un picio buto「小さな芽」――この buto「芽」という語は直接には標準語にないようだが、buttata「発芽、新芽」に名残をとどめているようだ。動詞 butar に対応するイタリア語 buttare はふつう「投げる、放る」の意だが、「(植物が) 芽生える、(泉などが) 噴出する」という語義もある。

se pol lassarlo cresser, come che ’l vol「それが望むように成長させておくことができる」――第 2 章では come se と同義の come che があることを確認したが、今回の come che はそれではなく、標準イタリア語で言うたんなる come であって che は冗語 (Zeper, 139, d.)。最初の se はもちろん伊 si と同じ非人称の si。放任動詞 lassar (伊 lasciare) の語法もイタリア語と同じ。

se devi subito tirarlo fora de la tera, ’pena che se lo riconossi「それとわかるや否や、すぐにそれを地面から引き抜かなければならない」――se devi の se は同上。’pena は apena の語頭音省略で、che はやはり冗語で伊なら appena だけで済むところ。Zeper, 138.

i lo fa s’ciopar「それらはそれを破裂させてしまう」――s’ciopar (伊 scoppiare) のアポストロフォは音の脱落を表すのではなく一種の分音符。破擦音の c のまえでのみ用い、s と ci が「シ」ではなく別々に「スチ」と発音されることを示す。Zeper, 36.


P. 24


なし


P. 25


Basteria ’ndar in Francia in un minuto「1 分でフランスに行けば事足りるだろう」――めずらしくと言うべきか、接続法半過去ではなく標準イタリア語と同じ条件法現在 basteria (伊 basterebbe) を使っている。この bastar (伊 bastare) は非人称の用法で不定詞を従えている。

co se xe ’sai tristi「とても悲しいとき」――se は非人称の補語代名詞 (伊 si)。このように人一般を表すとき、意味上の一致をして形容詞が男性複数形 tristi になることは標準イタリア語でも同じ (坂本『現代イタリア文法』190 頁)。続く後半の inamorai (inamorar の過去分詞男性複数) も同様。


さてここまでの章をお読みになっておわかりのとおり、トリエステ方言とはいっても相当の部分は標準イタリア語の知識で読めるしその知識が第一に重要であるのであって、この解説も章を追うごとに改めてトリエステ方言に独自の文法事項として説明することがいよいよ少なくなり、たんなるイタリア語の文法の確認に陥るようになってきたので、このあたりで連載を切りあげたいと思う。次はまたべつの言語で読むことにしよう。

dimanche 30 juin 2019

トリエステ方言訳『星の王子さま』を読む:第 4 章

トリエステ方言訳『星の王子さま』El Picio Principe の第 4 章の解説。凡例など詳しいことは序文を参照のこと。


P. 17


no poderli veder gnanche col telescopio「望遠鏡でさえ見えない」――gnanche は伊 neanche。ほか、gnente = 伊 niente や gnora = 伊 nuora のように、n が gn になっていることがある。Cf. Zeper, 31, n. 8.

el ghe da「彼はそれに与える」――動詞 dar の直説法現在は、dago, te da, el da, demo, de, i da。Zeper, 241.

’Sto asteroide lo ga visto [...], un astronomo turco「この小惑星は〔……〕トルコの天文学者が見た」――文脈から判断がつくであろうが、この文頭の ’sto asteroide は主語ではなく目的語。もしこれが主語だったとすれば次の直接補語代名詞 lo が浮いてしまう、というのはその仮定のもとでは文末の un astronomo turco が目的語ということになるが、その不定の名詞句を lo で先取りすることはできないので。したがってその場合は lo ではなく非強勢形の二重主語 el であるか、あるいはなにもなく ga visto と続くのでなければならない。このように、直接目的語を文頭に出して倒置する場合、直後に直接目的補語代名詞 (いまは lo) を反復するのは、トリエステ方言の文法というよりは標準イタリア語にある用法 (坂本『現代イタリア文法』338 頁)。Zeper にも二重目的語という節があるが (§8.1.7, p. 108)、そこにはこの件に関連した説明は見いだされない。

Per fortuna, per la reputazion de l’asteroide B 612「幸運なことに、小惑星 B 612 の評判のために」――日本語の訳者もしばしば誤訳する箇所。フランス語原文は « Heureusement pour la réputation de l’astéroïde B 612 » で、「小惑星 B 612 の評判にとって幸運なことに」という意味であり、per 前置詞句は fortuna と強く結びついているので、ここにコンマを挟んではいけない。ケマル・アタテュルクがモデルと考えられるこの「トルコの独裁者 un ditator turco」は、わざわざ小惑星 B 612 のために法令を制定したのではないからである。

参考までに手もとのイタリア語訳 Il Piccolo Principe 11 種を見比べると、Bompiani Bregoli, Bruzone, Candiani, Carra, Colasanti, Di Leo, Gardini, Masini, Piumini の 9 種がコンマなしの «Fortunatamente per la reputazione/fama» (fama は Piumini のみ)、これに対して Cecchini 訳 «Fortunatamente, per la reputazione» と Melaouah 訳 «Fu una vera fortuna, per la reputazione» のみがコンマを挿入している。


P. 18


su’ papà「その人の父親」――単数形の所有形容詞 tuo, tua および suo, sua は語末音が脱落して tu’, su’ となることがあるが、今日これは親族名称の前に来る場合にのみ生き残っている。複数形 tui, tue, sui, sue もかつてそうなることがあったが廃用。Zeper, 78.

Cussì se ghe dirè [...] lori alzerà le spale e i ve traterà come un fioluz「だからもし君たちが彼らに〔……〕と言ったら、彼らは肩をすくめ、君たちを子ども扱いするだろう」――dirè は 2 人称複数、alzerà と traterà は 3 人称複数の未来形。後 2 者は第 1 活用の動詞だが、第 1 活用の未来および条件法の活用語尾にはこの -erà, -eria のほか -arà, -aria も認められており、両方の形が同じほど使われるが、-ar- のほうがより純粋な方言形という。Zeper, 174.


P. 19


Gavessi volù cominciar「始めたかった」――接続法大過去が条件法過去の意味で用いられている。このことは第 1 章で説明した。次の文 Me gavessi piasso dir「言いたかった」も同様。

Per chi che capissi la vita, un principio cussì gavessi avù un’aria ’sai più vera「人生がわかっている人にとっては、このような始めかたがもっとずっと本当らしく思われただろう」――やはり前件だけでなく後件も接続法になっている。この文についてもう 1 点注意すべきは、chi che という冗語で標準語なら che は不要。Zeper, 138. このすぐ次の文にもまた chi che が現れる。

solo che de numeri「数字にしか」――この che もやはり冗語。Zeper, 139.


P. 20


che fussi come lu「〔私が〕彼のようであると」――pensava che の従属節なので接続法半過去になっている fussi の主語は mi だが省略されている。この法と時制では (noi) fùssimo 以外すべて同形の fussi になる (Zeper, 143) ので混同しそうだが、もし主語が彼だとすれば非強勢形主語代名詞 el が省略できないはずである。

Pol darse che mi sia [...]「私は〔……〕なのかもしれない」――伊 può darsi che + 接続法 (io sia) と同じ。すでにここまでの読解で (取りあげなかったものも含めて) 何度も実例を見てきたように、イディオム単位でも標準イタリア語とパラレルになる言いまわしが多いので、方言とはいっても堅実なイタリア語力が求められる。

samedi 29 juin 2019

トリエステ方言訳『星の王子さま』を読む:第 3 章

トリエステ方言訳『星の王子さま』El Picio Principe の第 3 章の解説。凡例など詳しいことは序文を参照のこと。


P. 14


Ghe go messo ’sai tempo「多くの時間がかかった」――この文の残りの語も含めて、訳語の選択と語順まで N. Bompiani Bregoli による伊訳 «Ci misi molto tempo a capire da dove venisse» の敷き写しだが、これは仏原文からすればすなおな訳なので別段どうということもない。そこからも見てとれるように最初の ghe は伊 ci で、伊 metterci「費用・時間をかける」と同じように言えるらしい。

ma ’l pareva no sentir mai le mie「だが彼は私の〔質問〕をまったく聞いていないように見えた」――’l は el で、非強勢形の主語代名詞。誰に「見えた、思われた」pareva かを示す間接補語の「私に」はない。le mie は言うまでもなく所有代名詞「私のもの=質問」(前出 domande を受ける) でイタリア語と同じ。

Solo dele parole, [...], le me ga, [...], svelà tuto「ただ〔……〕言葉だけが私に〔……〕すべてを明らかにした」――コンマで何度も分断されているが、いま掲げた部分が骨格で、dele parole が主語、le はそれを受けてふたたび言われている非強勢形の主語代名詞で二重主語 (Zeper, 104、§8.1.5 の 1.)、me は間接補語、ga ... svelà が動詞で近過去の 3 人称複数である (2 単・3 単・3 複が同形。ga = 伊 a だからといって単数と間違えないように)。第 1 章で説明したとおり、前置詞 de であれば女性冠詞 le とは結合せず de le だが (Zeper, 52s.)、この dele は部分冠詞 (articolo partitivo) なので女性でも dela, dele となる (Zeper, 59)。


P. 15


Lu el me ga dito「彼は私に言った」――lu el の二重主語。3 人称の場合、主語代名詞の強勢形 lu と非強勢形 el の両方を省略することはできず、少なくとも一方は言われねばならない (Zeper, 104)。二重に言ったからといって特別にどうという記述は見いだせないが、Zeper, 106 (§8.1.6 の 1.) によれば「暗示されている場合も含め、強勢形の主語 (代名詞・名詞) の用法はイタリア語のそれと同一である」というから、lu があることそのものが、伊でわざわざ lui の言われる場合と同様の重みをもつと考えてよいと思う。

Te son cascà zo del cel「君は空から落ちたのか」――te は非強勢形の主語代名詞で、3 人称と異なり 2 人称単数では、ti te の両方を言う場合と非強勢形 te だけを言う場合の 2 通りのみが認められ、強勢形 ti だけというのと両方の省略とのパターンは許されない (Zeper, 95, 104, 107)。son cascà は cascar の近過去 2 単で、助動詞 esser の活用形 son は 1 単と同形 (3 人称と同じ ×te xe もあったが廃用。Zeper, 141)。zo は伊 giù。

Mi voio che le mie disgrazie vegni ciapade sul serio「私は私の不運がまじめに捉えられてほしいのだ」――vegni は vignir (伊 venire) の接続法現在 3 複。イタリア語 venire の場合と同じく、vignir を用いた受動態は単純時制でしか用いられない (Zeper, 170)。過去分詞 ciapade は女性複数なので性数一致している。

anche ti te vien del cel「君も空から来たのか」――これは過去の意味の現在というよりは、出身を表すふつうの現在と解すべきだろう。vegnir (不定形は vignir と 2 つの形がある) の直説法現在の活用は vegno, te vien, el vien, vegnimo, vegnì, i vien。ついでに 1 つ前で出た接続法現在は vegno, te vegni, el vegni, vegnimo, vegnì, i vegni。Zeper, 295s.

Go visto tutintun una luce「不意に光を見た」――tutintun「突然、不意に」(伊 all’improvviso) は標準イタリア語にパラレルな単語がないかもしれない。ひょっとして tutto a un tempo か?

Con ’sto trabicolo non te pol esser vignù de ’sai lontan「このおんぼろでは君はそう遠くから来たはずはない」――『小学館 伊和中辞典』を引くと伊 trabiccolo にも、「釣鐘状の輪骨入りの木枠」の次に、諧謔的として「がたのきた道具、がたがたの車」という語義が出ているが、トリエステ方言ではふつうに «veicolo vecchio e sgangherato»「古くて壊れそうな乗り物」の意味に使われているようだ。

ちなみにこの箇所はフランス語の原文では « C’est vrai que, là-dessus, tu ne peux pas venir de bien loin… » となっており、伊 NBB の訳 «Certo che su quello non puoi venire da molto lontano...» は全体を逐語的に移しているが、su quello とはどうも玉虫色の訳である。もともと仏の là-dessus からしてそれほど判明だとは言えないことは、日本語の内藤訳がここを「じゃ」と接続詞のように解したことにも影響を落としているが、それを加藤『自分で訳す星の王子さま』は内藤の誤訳と判定している。トリエステ方言訳 con ’sto trabicolo はこれらに反し、わかりやすく語句を修正したようである。また esser vignù という複合形の不定詞によって時間的先行を示したのもトリエステ独自の改変。


P. 16


’ndò che stago mi「僕のいるところ」――stago は star (伊 stare) の直説法現在 1 単。その他の人称の活用は te sta, el sta, stemo, ste, i sta。Zeper, 283.

vendredi 28 juin 2019

トリエステ方言訳『星の王子さま』を読む:第 2 章

トリエステ方言訳『星の王子さま』El Picio Principe の第 2 章の解説。凡例など詳しいことは序文を参照のこと。


P. 10


solo per oto giorni「8 日間だけ」――oto は伊 otto で、前回述べたようにトリエステ方言には重子音がないことが反映している。フランス語 huit jours、イタリア語 otto giorni と同様、「8 日」で「1 週間」を表す用法があるようだ。

sora ’na zatera「いかだの上で」――sora が伊 sopra なのは少々見抜きにくいか (じつは前回も登場していたが指摘しそびれた)。zatera は伊の gia や cia ではなく zattera。

’na strana voseta me ga sveià「奇妙な小さな声が私を目覚めさせた」――voseta は vose に接尾辞 -eto/eta (伊 -etto) のついた指小形 (Zeper, 216)。ga sveià は sveiar (伊 svegliare) の近過去 3 単で、もののついでに注意しておくと、トリエステ方言にはほかのすべての北部方言と同様、遠過去が消えており近過去で代用される。Zeper, 172.

Te me dissegni「僕に描いて」――me は弱形の間接補語人称代名詞、だが te はもちろんそうではなく、弱形の主語人称代名詞。ところでこの箇所はフランス語原文ではまず vouvoyer をしたあとに tutoyer に切りかわるところだが、このトリエステ方言訳では最初から ti (伊 tu) で話している。トリエステ方言にももちろん敬称の lei, la はあり、la me dissegni と言えたはずのところだが、意図的な判断かは不明。

Dissegnime「僕に描いて」――上は直説法の言いかただったが、こちらは命令法。dissegnar は第 1 活用なので、単独では 2 人称親称の命令法は dissegna であるが、後ろに代名詞が結合する場合に限り、第 2・第 3 活用の影響によって語尾が -a でなく -i になる (dar, far, andar のような命令法が単音節の動詞を除く)。Zeper, 173 の 6. a. 標準イタリア語ではそういうことはなく disegnami。

come che fussi sta’ ciapà de un fulmine「雷に打たれたように」――come che は標準イタリア語のように come se とも言える (Zeper, 135 の 9. b.)。動詞は ciapar の受動態・接続法半過去 (伊訳 fossi stato colpito、ただし語源的に単語を対応させれば動詞は (ac)chiappato)。つまり sta’ は esser の過去分詞男性単数だが、これはふつうの第 1 活用が vardà (= vardado) のようになるのと違って、アポストロフォで sta’ (= stado) とつづる (Zeper, 144)。その理由は、音節の省略によって母音で終わる単音節語になる場合には、そのことがアポストロフォで示されねばならないからである (Zeper, 43 の 3.)。前置詞 de はこれまで見てきたように伊の di だけでなく da にも対応し (Zeper, 117)、ここでは受動態の動作主を示す da。

vardandome ben ’torno「あたりを見まわしながら」――vardandome は vardarse のジェルンディオで、その vardar は伊 guardare と同源。これらは古フランク語 *wardon に遡る語で、その言語の *w はしばしばロマンス語の gu に対応するが、トリエステ方言を含むヴェネト語では v を残した。’torno は atorno (伊 attorno) の語頭音消失。

’Sto qua xe el meo ritrato che [...]「これは〔……〕最良の肖像だ」――文法・語彙には改めて説明することはないが、本来あるはずの王子さまの絵が編集で入っていないため意味不明の文になっている (私の依拠するのは紙の本だが、Kindle 版にもないようだ)。

vardavo coi ioci spalancai「目を見開いて見つめた」――coi は con と定冠詞 i の結合。たぶん、ioci は oci (ocio「目」の複数) の誤記であろう。spalancai は spalancar の過去分詞・男性複数。


P. 11


Co finalmente go ’vudo la possibilità de parlarghe「ようやく話せるようになったとき」――過去分詞の男性複数には avù と avudo の 2 形 (およびそれらの語頭音省略をしたもの) がある。この章のはじめには co go avù un incidente col mio aroplan「私の飛行機の事故があったとき」という例があるので、理由は不明だが、同じ話者 (著者) であっても両方の形を場合に応じて使うようだ。

調べたついでに触れておくと、このように複合時制において過去分詞 avudo は、その目的語が非強勢形人称代名詞であるときに la go avuda などとなる場合を除いて、ほかは「中性形」avù, avudo を用いる (Zeper, 152)。ここでは la possibilità は女性だが名詞なので ’vudo。

また parlarghe の ghe は「彼に」ではなく、伊 ci にあたる代名小詞で一種の冗語ともみなせる用法 (Zeper, 97 の 2. d.) かと解する。つまり伊 vederci「目が見える」や sentirci「耳が聞こえる」と同じ「口が利ける」の謂いか。

E lu me rispondi「すると彼は私に答える」――この箇所は当然意味的に過去のはずで、じっさい伊訳を引き比べると遠過去 (lui) mi rispose が多数派だが (N. Bompiani Bregoli, A. Colasanti, Y. Melaouah, R. Gardini, L. Carra;また B. Masini も lui mi disse)、すでに説明したようにトリエステ方言には遠過去はないので、じつは現在である。これは標準イタリア語にもある物語の現在、つまり歴史的現在かと思われるが (坂本『現代イタリア文法』217 頁)、Zeper の文法は語形変化には詳しいものの動詞の法や時制のそれぞれの用法は説明していないので確証はない (もっとも確立した文法として文学的用法を語れるほどトリエステ方言の文学そのものがイタリア語を離れて存在しうるものでもないだろうが)。

quei due dissegni che gavevo fato tante volte「私が何度も描いたことのあったあの 2 つの絵」――大過去。フランス語原文は « deux seuls dessins dont j’étais capable »「私が描くことのできたただ 2 つの絵」なので、けっこう表現を変えていることになる (tante volte を加えて関係節内を大過去に、また仏 seuls を削除し指示形容詞 quei を追加)。

当然 C. L. Candiani 訳や A. Colasanti 訳のイタリア語 «due soli disegni che sapevo fare» のように逐語訳することもできただろうに、N. Bompiani Bregoli (1949 年) による古典的な伊訳 «quei due disegni che avevo fatto tante volte» と完全に一致しているのは偶然とは考えがたいものがある。フランス語から直接移したのではなく NBB の伊訳が下敷きになっているのではないかという疑いを容れさせる。

この点ではほかに、前章にあった「私の絵は帽子を描いたのではなかった」、すなわち仏 « Mon dessin ne représentait pas un chapeau. » に対する、伊 NBB «Il mio disegno non era il disegno di un cappello.» とトリエステ «El mio dissegno no iera el dissegno de un capel» の合一も思いおこされる。これも動詞を era にして il disegno を反復するのではなく、raffigurava や rappresentava と逐語訳できたはずのところで (前者は Candiani, Carra, Melaouah、後者は Gardini, Masini の訳に見られる)、もちろん逐語訳を避けたい気もちは誰しもあるとしても、その変えかたがまったく同じになる必然性はない。だが後述するように、NBB に反して仏原文に近い文もあり、そこでは仏語を参照していることは確からしい。

e son restà a sentirme risponder「そして私に答えるのを聞くままでいた (?)」――restà は restar (伊 restare) の過去分詞で近過去だが、ここは原文 « Et je fus stupéfait d’entendre le petit bonhomme me répondre »「すると坊やが私に答えるのを聞いて驚いた」、伊 NBB も «e fui sorpreso di sentirmi rispondere» なので、なぜ restar か不明。私に調べのつかないべつの語義があるのかもしれない。伊 restare には「(ある状態に) なる」という意味があり、restare sorpreso「驚く」と言うが、restà (伊 restato) だけでそうなるのはわからない。下記に再出、後述する。

No voio「ほしくない」――voler の直説法現在の活用は、voio, te vol, el vol, volemo, volè, i vol。Zeper, 301.

Indove che vivo mi「僕の住んでいるところ」――イタリア語なら dove 一語ですむところ、冗語。Zeper, 139.

Lu la varda con atenzion e po el me disi「彼はそれを注意深く眺めて、それから私に言う」――やはり varda, disi は現在。イタリア語では順に guardò, disse と遠過去で言うところ (仏原文でも単純過去 regarda)。ひょっとして、語尾変化により一語ですむすっきりした遠過去に比べ、迂言的構成の近過去は字面が間延びするからか、あるいは標準語の遠過去に比較的語形が似ているためにか、一定の条件が整うと現在を過去のかわりに使う頻度が高まるのではないか? 研究が必要なテーマ。

’Sta qua xe za ’sai malada「これはもうかなり病気だ」――za は伊 già。NBB «Questa pecora è malaticcia» に反し仏原文 « Celui-là est déjà très malade. » にそっくりなので、ここは重訳を否定する材料。

Fame n’altra「ほかのを僕に描いて」――上述 dissegnime の項で説明したとおり、単音節の命令法 fà では例外的に語尾が変わらない。ただしイタリア語 fa’ + mi = fammi のように子音を重ねないことを念のため注意。n’ は不定冠詞 ’n’ < una で、読みやすさのため前のアポストロフォが消える。Zeper, 44 の 8.


P. 12


la xe serada qua dentro「このなかにしまわれている」――serada は serar の過去分詞女性単数で、これはイタリア語 serrare にあたるが、意味的には chiudere。

Ma son restà co go visto [...]「だが〔……〕を見たとき驚いた」――前出のとおり、やはり restar 単独で「驚く」の意味に使われているとしか考えられない。2 度めなので脱字ということもないだろう。だが Zeper, 145 の表では restar は伊 restare としか書かれていないので、意味不明。


P. 13


Perchè ’ndò che vivo mi「なぜなら僕の住んでいるところでは」――’ndò は indò の語頭音脱落。この後者はさらに indove の語末音脱落だが、語末のほうはアポストロフォでは書かない (書いてはならない)、というのは省略によって母音で終わる多音節語になる場合である (これは大部分の動詞の過去分詞男性単数形にもあてはまる)。Zeper, 43 の 2. a.

El ga piegà la testa verso el dissegno「彼は頭を絵のほうに傾げた」――ここも NBB ではなく仏に忠実。仏 « Il pencha la tête vers le dessin », 伊 NBB «Si chinò el disegno»。

La se ga indormenzà「それ (=羊) は寝入った」――再帰動詞の近過去だが、過去分詞は女性名詞の主語に一致しない。男性および女性の複数でも同じく -à。これが -ada, -ai, -ade と変わるのはイタリア語形。Zeper, 159.