lundi 30 avril 2018

デンマーク語の受動態に関する覚書

デンマーク語の文法書から受動態に関する箇所を抜粋翻訳した。それぞれ異なる本なので、過去分詞 (præteritum participium) と完了分詞 (perfectum participium) のように同じものを別様に呼んでいる部分もあるが、大きな混乱はないであろうからそれぞれの用語法を尊重して訳してある。


次のものは Ane Børup, Ulrik Hvilshøj, og Bolette Rud. Pallesen, Dansk Basisgrammatik, 2. reviderede udgave, 2000, s. 46f. より。

§45. 能動態/受動態

能動態/受動態 (aktiv/passiv, handleform/lideform) は、状況を記述する 2 つの異なった方法と関わっている。動詞の能動形を用いるとその行為を遂行する人に強調が置かれるのに対し、受動形を用いるとその行為にさらされる人または物に焦点があてられる:

能動態 Lægerne opererer den lille dreng på torsdag
    (医師たちは木曜にその小さな少年を手術する)
受動態 Den lille dreng bliver opereret af lægerne på torsdag
    (その小さな少年は医師たちによって木曜に手術される)
    Den lille dreng bliver opereret på torsdag
    (その小さな少年は木曜に手術される)

したがって受動形を用いるとその行為を受ける者 (「その小さな少年」) が強調され、またそれによって、その行為を遂行するのが誰であるのか (「医師たち」) についての情報は背景に押しやられるか、あるいは最後の文におけるように完全に省略される。

能動文を受動文に転換させるときには 4 つのことが起こる:
  1. 能動文の目的語 (「その小さな少年」) が主語になる
  2. 助動詞 blive が中に置かれる
  3. 主動詞は過去分詞に変えられる (operereropereret に変えられる)
  4. 本来の主語 (「医師たち」) は前置詞 af とともに現れるか、または完全に省略される

§46. Blive-受動態と s-受動態。上述の例における受動態は、助動詞 blive によって作られるために blive-受動態 (blive-passiv) と呼ばれる。デンマーク語にはもうひとつのタイプの受動態、すなわち s-受動態 (s-passiv) があり、これは動詞の不定詞形に -s を加えることによって作られる。例:Den lille dreng opereres på torsdag. S-受動態はたいてい書き言葉において見られる。たとえば新聞の見出し (例:Fiolteatret lukkes「フィオル劇場閉館」)、料理のレシピ (例:Kartoflerne halveres på langs「じゃがいもを縦に半分にします」)、使用説明書 (例:De forreste skruer afmonteres「最初のねじを取り外す」)。

ある種の動詞は受動形をもたないか、もしくはめったに受動態におかれない。これにあてはまるのはたとえばいくつかの自動詞、dø「死ぬ」や sejre「勝利する」がある (§49 を見よ)。いくつかの動詞は受動形でのみ見られ、それにもかかわらず能動の意味をもつ。例:De kan ikke enes「彼らは合意・和解しえない」、Vi trives godt「私たちは十分に幸せである、繁盛する、成長する」、Han væmmes ved tanken「彼はその考えに気分を悪くする」。


次のものは Erik Hvid og Flemming Olsen, Kursus i dansk grammatik: Grundbog, 2002, s. 22f. より。

受動態

A. Min far sælger bilen「私の父は車を売る」という文は能動文 (aktiv sætning) と呼ばれる。私の父の行動は彼がその自動車を売ることにある。彼はその行為を行っているので「私の父」は主語である。

私たちがその自動車を出発点にとるならば、この文は Bilen bliver solgt af min far あるいは Bilen sælges af min far「その車は私の父によって売られる」となる。ここでは「その車」は主語になっている。しかしだからといってその行為を行う者になったのではない。それはある行為もしくは過程にとっての対象とされている。

文法的主語が行為をするのでなく「される」ところの文は受動文 (passiv sætning) と呼ばれる。この文では「その車」は受身になっている。この受動文における行為者はやはり「私の父」である。

B. 前述の 2 つの文、すなわち能動文と受動文は、どちらも同じ出来事を述べている:両方の場合において、ある車を売るある人について語られている。出発点が私の父か車かで違っているが、結果は同じである。

能動文を受動に転換するとき、能動文における目的語は受動文における主語になる。動詞の時制は変化しない:
能動 Min far sælger bilen.
受動 Bilen sælges af min far.
したがって、受動態に転換されるためには能動文中に目的語がなければならない。すなわち、動詞が他動詞として用いられている文だけが、受動文に転換されうるのである。

能動文における主語 min far が、受動文では前置詞句 af min far になっていることに注意せよ。この前置詞句 af min far は文中で副詞句として働いているので、A のマークをつけてある〔訳注。ここでは省略している〕。

C. 動詞が自動詞として用いられている文は、受動文に転換できない:
Cecilie stank af tobak da hun kom hjem fra mødet.
(セシリエは会議から帰ってきたときタバコで悪臭を放っていた)
Christoffer havde ligget og sovet på sofaen det meste af dagen.
(クリストファーはその日の大半をソファに横になって眠っていた)
Inflationen er steget med 1%.
(インフレが 1 % 進行した)
D. デンマーク語では多くの場合、2 通りのしかたで受動態を作ることができる:

S-受動態 (s-passiv):動詞が -s で終わる形。とくに現在形において見られる。
Varerne bringes ud til kunderne.
(その商品は客たちのところへ運びだされる)
Lygterne tændes en halv time efter solnedgang.
(ライトは日没の半時間後に灯される)
Dørene lukkes kl. 7.
(扉は 7 時に施錠される)
Blive-受動態 (blive-passiv):blive と完了分詞からなる形。多くの動詞は過去形で blive-受動態を用いる。現在と過去以外の時制では、blive-受動態のみが用いられうる。
Passagererne bliver ramt hårdt af busstrejken.
(乗客たちはバス・ストライキによって著しく影響を受ける。現在)
Mødet blev holdt i skolens aula.
(集会は学校の講堂で行われた。過去)
Det mord er aldrig blevet opklaret.
(その殺人事件は決して解決されていない。現在完了)
E. S-受動態はいつでも有効である事柄に関して用いられるのに対し、blive-受動態は個別の出来事に関して用いられる、という傾向がある。次の 2 段の文〔訳注。原文では左右に 3 文ずつだが、ここでは段組にせず並べている〕を比較せよ:
Gamle møbler købes og sælges.
(古い家具が売り買いされている)
Den teknik kendtes ikke i Middelalderen.
(その技術は中世には知られていなかった)
Tv? Det fandtes ikke dengang.
(テレビ? そんなものそのころにはなかった)
Maden bliver serveret af lejede tjenere.
(料理は雇われた給仕たちによって供される)
Firmaet blev grundlagt i 1924.
(その会社は 1924 年に設立された)
Pengene blev fundet i tyvens hjem.
(その金は泥棒の家で見つかった)
F. -s に終わるいくつかの動詞は、受動の形にもかかわらず能動的な内容をもっていることに注意せよ。それらは他動詞・自動詞いずれでもありうる:
Der findes mange dyrearter.
(たくさんの動物の種が存在する)
Hun mindedes sin ungdom.
(彼女は自分の若いころを回想した)
Forsøget lykkedes.
(実験は成功した)
Det kunne vanskeligt undgås.
(それを避けることは難しいだろう)
Jeg længes efter sommeren.
(私は夏を待ち焦がれている)


次のものは Lisa Holm Christensen og Robert Zola Christensen, Dansk grammatik, 3. reviderede udgave, 2007, s. 106f. より。

受動形

多くの動詞は能動形または基本形 (aktiv form, grundform eller handleform) と受動形 (passiv form, lideform) とに活用しうる。能動と受動とのあいだの区別は、高度な用語では (diatese) と呼ばれる。受動の活用は不定詞、現在および過去に適用されうる。受動形態素 (passivmorfeme) はどの形でも -s である。不定詞の受動形は -s の付加によって作られる:hentehente-s。現在の受動形は不定詞の受動形と同一である。不定詞受動形と現在受動形はそれゆえ同音異義語である。言語史的な説明では、現在受動形は現在 + s から作られるが現在形は -r で終わり、-rs の組みあわせが強勢のない位置では調音が難しいので、[rs] が [s] に融合したのである。過去受動形は能動の過去形に -s を付加することで作られる:hentedehentede-s。しかしながら受動に活用しうる過去形の動詞のすべてがそうなのではない。意味論的な理由から、だいたいにおいて命令法の受動形は見られない。というのは命令法、とくに要求のために用いられるそれは、何事かをするよう駆り立てられるところの人じしんが能動的に行為を行わねばならないことを前提するからである。〔込み入った文なので「意味論的……」からの原文を載せておく:Af semantiske grunde forekommer der stort set ikke verber i imperativ passiv, da imperativ, der især bruges til at opfordre med, forudsætter, at den, som anspores til noget, selv skal udføre handlingen aktivt.〕

動詞の形態論的受動形 (morfologiske passiv) の概観
不定詞受動形現在受動形過去受動形
henteshenteshentedes「連れてこられる」
læseslæseslæstes「読まれる」
sessessås「見られる」
〔訳注。ここで「形態論的 morfologisk」とは「迂言的 perifrastisk」に対置される用語で、同書 s. 54 によればそれらは「屈折 bøjning によって作られる」ものと「書きかえ omskrivning によって作られる」ものを指す。それぞれ「総合的」(英 synthetic) と「分析的」(英 analytic) に言いかえても大過ないであろう。〕

しばしば強変化動詞は s-受動態を作れない:*hjalp-s, *åd-s。このため blev + 完了分詞による迂言的受動態 (perifrastisk passiv) が必要とされる。

現在能動形現在受動形過去能動形過去受動形
stikkerstikkesstakblev stukket
flyverflyvesfløjblev fløjet
finderfindesfandtblev fundet
hjælpehjælpeshjalpblev hjulpet

完了分詞は受動形の s-形態素を伴って変化することがまったくできないので、受動の意味を表すためにはつねに迂言的な形が必要とされる:Hun er blevet hentet af sin far「彼女は父から呼ばれてきた」〔現在完了〕;Han var blevet udskrevet fra sygehuset「彼は〔すでに〕病院から退院していた」〔過去完了〕;Bilen var blevet undersøgt af politiet「その車は警察によって調査されていた」〔過去完了〕。(Jf. s. 122f.)


次のものは Christensen og Christensen, op.cit., s. 113 より。

〔S. 107 以下「諸活用形のはたらき」の節中の〕受動形

受動形の動詞は 3 つのはたらきとそれに結びついた意味とをもちうる。それらは受動構文 (passiv konstruktion) を作るために用いられうる。形態論的受動形を用いた文は迂言的受動形に変換しうる (大なり小なり意味の変化を伴う)。
Stakittet skal males hvidt. ≈ Stakittet skal blive malet hvidt.
(柵は白く塗られる予定だ)
Lønnen betales af staten. ≈ Lønnen bliver betalt af staten.
(給与は国によって支払われる)
動詞の s-形の第 2 のはたらきは、中間構文 (medial konstruktion) にある。これは典型的には複数形の名詞 + s-形の動詞から構成され、主語の指示対象が (相互的に) お互いに対してとりおこなうところの動詞の行為を媒介する。これらの構文は迂言的受動態に置きかえることはできない。
Per og Line sloges. ≠ Per og Line blev slået.
(ペールとリーネは喧嘩した ≠ ペールとリーネは殴られた)
Vi ses i morgen. ≠ Vi bliver set i morgen.
(私たちは明日会う ≠ 私たちは明日会われる)
Vi samles hos mig klokken 9. ≠ Vi bliver samlet hos mig klokken 9.
(私たちは 9 時に私のもとに集まる ≠ 私たちは 9 時に私のもとに集められる)
Børnene fulgtes til skolen. ≠ Børnene blev fulgt til skolen.
(子どもたちは学校までいっしょに行った ≠ 子どもたちは学校までついてこられた)
Skal I deles om opvasken?
(あなたたちは皿洗いを分けあうか)
De skændtes hele tiden.
(彼らは一日じゅう口論していた)
デポネント動詞 (deponent verb, jf. s. 102) は能動の動詞と同じように使われるが偶然に s-形を獲得したものである。能動形の動詞のなかにこれらとの類義語がしばしば見つかる。
Jeg længes efter dig. (jf. Jeg savner dig.)
(私は君を待ち焦がれている)
Der findes ingen som dig. (jf. Der er ingen som dig.)
(君のような人は誰もいない)
Det lykkedes mig at vinde. (jf. Jeg formåede at vinde.)
(私はうまく勝つことができた)
Hun væmmes, når hun ser ham. (jf. Hun føler sig utilpas, når hun ser ham.)
(彼女は彼に会うと気分が悪くなる)
Bo synes ikke om hende. (jf. Bo elsker hende ikke.)
(ボーは彼女のことを好きではない)
形態論的および迂言的受動構文は 122 頁以下でも扱っている。動詞の s-形のもつその他のはたらきについてはこれ以上扱われない。

mardi 24 avril 2018

デンマークの書籍の購入方法

かつて「諸外国の書籍の購入方法」という記事を書いてから早くも 3 年近くになります。これは私がおもにヨーロッパの各国から本を買い集めていた経験をもとに、便利なサイトリンクと短い所感をまとめておいたものですが、いまでもたまにアクセスをいただいていて、変化した情報につきアップデートの必要を重々感じておりながら、それが果たせていないことには忸怩たる思いがあります。

当時との状況の変化もさることながら、あの時点でまだ扱っていなかった (すなわち私が取引をしたことのなかった) 言語がこの間にいくつか増えており、それはいま思いだせるかぎりでアイルランド語とブルトン語、アルメニア語、それからデンマーク語・スウェーデン語・アイスランド語・フェーロー語の北欧 4 言語に加えてグリーンランド語が挙げられます。

このなかでデンマーク語・フェーロー語 (フェーロー諸島)・グリーンランド語 (グリーンランド) の 3 つは、国としてはデンマーク王国の 1 国であって (今後どうなるかはわかりませんが)、いずれもデンマーク・クローネ (DKK) で買いものができます。といってもクレジットカードで決済するぶんにはあまり意識するところではないかもしれません。とにかく今回これらをまとめて紹介することにしましょう。

デンマーク語の本を買おうと思ったらまず訪れるべきサイトは、デンマークで最初のかつ最大のオンライン書店、Saxo (https://www.saxo.com/dk)  です。紙の本のほか、PDF/ePub 形式の電子書籍、およびオーディオブックを取り扱っていて、紙の本の送料が比較的高めなので私は最近電子書籍のほうにシフトしています。注文を確定するとメールでダウンロードリンクが送られてくるほか、いつでもサイト上から自分の本棚を確認できて端末にダウンロードができることは Amazon などと同じです。

つい最近知ったのですが、Saxo は Android および iOS 用のアプリをリリースしており、これは日本からも入手・利用が可能です。このアプリをインストールして Saxo のユーザアカウントでログインすれば、購入していた電子書籍・オーディオブックが携帯端末からもダウンロードでき、そのまま電子書籍リーダとして読書・音声再生が可能です。もっとも、その用途のものとしては完成度は低いと言わざるをえません (私は iPad と iPhone で利用しているので、以下は iOS 版の評価であって Android 版はわかりませんが)。

まずリーダとしてですが、ePub 形式のものはまだしも、PDF のものをこのアプリで閲覧しようとするとまともに表示ができません。両形式とも表紙などの大きい画像 1 枚のページは上下にぶった切られた形で表示されてしまいますし、PDF ではなぜか文字だけの本文でもそうなってしまいます。そして操作は左右スワイプがページ送りで、指 2, 3 本のジェスチャには反応せずメニューからも拡大・縮小はできないようなので、ページ右側を確認するすべがまったくありません (つまり実質 PDF は読めません)。有料の PDF リーダはもとより、Adobe Reader や iBooks などと比べてさえ非常に不便です。

またオーディオブックの再生機能のほうですが、パソコンからダウンロードするとちゃんと章などの区切りにもとづいたトラック別の MP3 ファイルになっているようなのに (これは商品にもよるかもしれませんが)、アプリ上で聞こうとするとなぜかトラックごとの選択ができず、15 秒または 2 分刻みでの早送り・巻き戻ししか選べないので、これもたいへん使い勝手が悪いです。結局 iTunes などに入れて聞くことになると思います。

というわけで、アプリの出来はまだまだ発展途上ではありますが、すでに言及したように汎用性の高いファイル形式のおかげでべつだん専用アプリでないと読めないわけではないので利用の妨げにはなりません (この点 Amazon Kindle は見習ってほしいものです)。私は最近『星の王子さま』(Den lille prins) の電子書籍版その朗読とセットで購入して少しずつ聞いています。これは以前から紙の本で持っていた古典的な Asta Hoff-Jørgensen 訳 (初版 1950 年) でなく、最近出た Henrik Ægidius による新訳で、吹きこみは元スタントマンのアナウンサー・朗読者だという Paul Becker が行っています。

Saxo 以外だと imusic.dk というサイトを利用したことがあります。名前に反して本もメインに取り扱っていて、1 冊だけ買うならこちらのほうが日本への送料が安いということがありました。Saxo にはない本が置いてある場合もあるので、あきらめずにいろいろ比較してみるとよいでしょう。

勉強が進むと、参考文献リストのなかからすでに新本では手に入らないものが古本でほしくなるという場合があります。こういう場合、英仏独くらいならたいてい Abebooks で事足りるのですが、デンマーク語の古本は少数しか出品されていません。もちろんある場合もあるのでまずは検索をしてみることは無駄ではないでしょう。

じつは上記 Saxo では古本も販売しているようなのですが、この場合カートに 1 点ずつしか入れられない (古本 2 点以上や、新本と古本を混ぜようとすると弾かれる) という制約があります。そうするとただでさえ割高な送料が 1 冊ごとにかかることになり、あまり気が進みません。

デンマーク語の古本を探すときには Antikvariat.net というサイトがたいへん頼りになります。これはデンマーク・ノルウェー・スウェーデン・フィンランドのスカンジナヴィア 4 ヵ国から多くの古本屋の出品が集約されたサイトで、私の経験上送料も (書店ごとに違いますが) 10 ユーロ前後とたいへん良心的です。私にとっては必要な本が見つかる率が高く、とても重宝しています。

グリーンランド語の本は、最初に紹介した 2 つのサイトでデンマーク本土から手に入る場合もありますが、以前紹介したようにグリーンランドのヌーク (Nuuk) にある書店 Atuagkat Boghandel からも注文が可能です。このサイトはデンマーク語および英語でも閲覧が可能です。ただし取り扱っている本の種類はまだかなり少ないようなので (というより、グリーンランド語の出版物そのものが少ないという事情も)、今後に期待しましょう。

フェーロー語の書籍はデンマークのサイトでは基本的に手に入らず、フェーロー諸島の首都トシュハウン (Tórshavn) にある書店 H. N. Jacobsens Bókahandil がオンライン販売を手がけています。ここは (現在も存続しているうちでは) フェーロー諸島で最古の書店だということです (1865 年創業)。

サイトにはドイツ語・英語・デンマーク語を表す国旗がありますが、それらの言語に訳されている部分はあまり多くなく、またショッピングカートからはどうやら 1 点だけ削除する方法がなくて数量を変更しようと思うとぜんぶ消すしかないなど、サイトの使いやすさにはだいぶ難があります。ウィッシュリストのような便利機能はもとより、そもそもユーザアカウントというものが作れないので注文のたびに住所などを入力する必要があるほか、カートの中身も定期的に消えてしまいます。

とはいえもちろん商品の発送は迅速で間違いなく到着しています。梱包のほうはというと、私の注文したとき外箱のダンボールは側面や中身に隙間が多く、さらに折悪しくこちらで雨も降っていてあわやと思われましたが、肝心の本は丁寧に 1, 2 冊ずつプチプチでくるまれており、多少濡れたり揺らされたりしても無事なようになっていました。

もうひとつ、Sprotin.fo という書店もありまして、こちらは紙の本のほか電子書籍・オーディオブックも取り扱っています。販売というか出版が本業なのか、フェーロー語書き下ろしおよび翻訳ものの文芸作品を主体として多くの本・電子書籍を出しています。ウェブページの英語化もたいへん行き届いていてユーザフレンドリーな印象があります。私はこちらからはまだ電子書籍しか買ったことがないのですが、少なくともその部門では不満を感じたことはありません。このサイトはフェーロー語のオンライン辞典も公開しています。

そのほか Rit & Rák というサイトでも紙の本・電子書籍・オーディオブックが取り扱われていますが、これはまだ利用したことがないのでよくわかりません。以前に紙の本を注文しようとしたときには上記の H. N. J. より送料が割高で見送ったのですが、電子版を買うぶんには有用な場合もあるかもしれないのでいちおう挙げておきます。

lundi 9 avril 2018

ファイアーエムブレム Echoes のギリシア語

For the readers not acquainted with Japanese, there is an abridged translation of this entry and the summary of my decipherment at the very bottom.


まえがき


つい先日、『ファイアーエムブレム Echoes』の設定資料集が発売されました。その出来は個人的に見ると、ビジュアル面は充実していてファンアートなど描かれる人にとっては価値が高いと思われるものの、背景設定のほうはさほど新情報が盛りこまれているわけでもなく期待したほどではなかったように感じます (もっとも、新しい説明が後づけで出てくる余地がないということはゲーム単体の完成度の高さと表裏一体の事柄ですが)。私としては (アルムとセリカ以外の) キャラの生年すら不明なこと、最終マップ BGM「神よ、その黄昏よ」の歌詞が載っていないことがとくに不満でしたし、イラストレータさんたちにとっても各キャラクタの身長のような基本的情報が欠けていたことは重大な短所でしょう。とはいえ今回の主題はこの本の批評ではありません。

『Echoes』をプレイしたときから気になっていましたが、おもに最後の第 5 章〜クリア後に見かけることになった魔法陣がありましたね。あの地下のマップを何度も転移するさいに眺める機会があったかと思います。これはドーマの魔法陣とミラの魔法陣という 2 種類があって、かなり小さな画像ですが設定資料集 57 頁でも確認することができます。


これはネットに転がっていた画像で、ミラの魔法陣のほうです (出典 URL は後述)。ゲーム中でもこの文字は鮮明に判読することができて、明らかにギリシア文字がそのまま使われていることに興味を惹かれたものです。ギリシア語を勉強したことのないかたでも、θ や ω など数学や物理でなじみのある文字に気づかれたことでしょう。

しかし、この言語に触れたことのない人でも (いやむしろないからこそ?) ただちにわかるとおり、画面いちばん手前の部分だけはなぜか英語で ‘Pearl River’ と書かれています。これはおかしいと疑問に思われていたかたも多いのではないでしょうか? そこで今回はこれらの魔法陣に書きこまれた文字をすべて解説していきましょう。


先行研究


『Echoes』はまもなく発売から 1 年になります。私が調べたかぎり、これまでにこの文字の解読を試みたブログや掲示板の書きこみは以下の 3 つがあります:
日付順にしていないのは、最後の日本語の記事はこの魔法陣についてが主題でなくわずかにしか触れられていないためです。この 1 番めの掲示板のトピックがさきほどの画像の出典で、ここには魔法陣単独の画像もあるのでそれもいまお借りしておきましょう:



前者が「ドーマの魔法陣」、後者が「ミラの魔法陣」と設定資料集では呼ばれているものです。魔法陣の中央にそれぞれドーマとミラの紋章がかたどられていることが見てとれます。なお設定資料集所収の画像も小さく判読しづらいものですが、そちらは文字の部分が気もち濃い目に写っていて気休め程度には参考になります。

じつのところ、上掲の 1 番めのスレッドは画像以外にあまり役立つところがなく、解読に関して有益な議論にはなっていません。話題提起者はギリシア語の知識がまったくないようで、アクセント記号を完全に落としているほか、ミラの魔法陣左上の «βοηθήσει, είμαστε ο» をこれだけで完結するフレーズと誤解し、機械翻訳にかけてか ‘help us’ と訳しているところが致命的です (詳しくは後述しますが、ここで切ったら文にはなりませんし ‘us’ はどこにもありません)。ただしドーマの魔法陣について内側の小さい文字を判読しようと試みた努力には価値があります。

2 番めの reddit の書きこみはミラの魔法陣のみに関する検討です。その内容は先のものと大同小異で、‘help us’ に関してまったく同じ陥穽にはまっているほか、右上を ‘slaves of the master’ と複数形で訳しているところはまさに想像で都合よく解釈したという印象ですが、謎の ‘Pearl River’ に関して一定の案を挙げているところには見るべきものがあります。さらに、返信でギリシア語の知識のある ScipioAsina さんが説明している内容は私もまったく同意見で、本稿ではこれに賛同したうえでもっと詳しく解説し、私見を多々付け加えていくことになるでしょう。

ところで、あからさまにギリシア文字が書かれているミラの魔法陣に対比して、ドーマの魔法陣のほうはファイアーエムブレムオリジナルの文字が使われています。この文字は『Echoes』ワールドマップでも地図の随所に見受けられ、前掲 3 番めのブログにて解読が試みられているものです。

しかしこれはどうやら『覚醒』のときから使われている文字で、(私は未確認ですが)『覚醒』の設定資料集に表が載っているということです (Fire Emblem Wiki のこのページで参照できます)。それにのっとってこの文字を括弧つきの「古代文字」と呼びましょう。『覚醒』のファルシオンや、『ヒーローズ』でも総選挙ルキナの武器ゲイルスケグルにこの文字で隠しメッセージが彫られているので、興味のあるかたは調べてみてください。


これらの言語について


まずこれら魔法陣に用いられている言語ですが、結論から言えばミラのほうも、「古代文字」で暗号化されたドーマのほうも、同じく現代ギリシア語です。それもミラのほうを見ればわかるとおり、ごく最近 (1980 年代) になって改められた、気息記号を廃止しアクセントを鋭アクセントに一本化した新しい正書法で書かれているディモティキ (民衆口語) です (といってもこれだけ短い文例ではカサレヴサ=「純正語」と比べて文体や語彙がどうのという違いはあるかわかりませんが)。

これはたいへん奇妙なことです。ふつうたんにギリシア語といえば、ギリシア本国以外では古典ギリシア語を指すことのほうが多いものです (逆に現代語のほうに「現代ギリシア語」‘Modern Greek’ のように「現代」をつけて区別します)。古典ギリシア語というのは紀元前 5–4 世紀にアテナイを中心とする地方で使われ、プラトンらが著作に用いたそのころの言語のことです。

そして前掲のブログでも触れられていますが、『Echoes』作中では「古代文字」でラテン語が随所に書きこまれています。そしていま見ているギリシア語は、ラテン語と同じ資格で権威ある古代の言語として、雰囲気づくりの小道具として採用されているのですから、これは当然古典ギリシア語でなければいけません。にもかかわらず見るからに現代語のつづり・文法で、なおかつディモティキの記法を用いているのはおかしなことです。

これはちょうど日本語における旧字体・旧仮名づかいに対する新字新仮名のような関係に似ており、古文書をひもといてみたら現代仮名づかいで書かれていたと思えばどれほどちぐはぐかわかるでしょう。正しくは現代仮名づかい (ディモティキ) ではなく旧仮名づかい (カサレヴサ) でもなく、平安や奈良時代の日本語 (古語) で書くべきということです。

こう言うと古語を自力で書くなんて手に余るだろうと思われるかもしれませんが、さきにも述べたようにギリシア語は日本語とは事情が違って、古典語のほうが広く一般的に学ばれており調べるのも容易なのです。ただ大きな違いは機械翻訳に対応しているかどうかという 1 点です。自力で勉強したり知っている人を探したりするなら古典語のほうが簡単に見つかりますが、機械翻訳を頼った場合のみ、現代語のほうが楽に扱えるのです。そこまで踏まえると、なぜ『Echoes』が現代ギリシア語を使ってしまったのか、その残念さが真に理解されるでしょう。


ミラの魔法陣について


それでは実際の翻訳に入ります。まずはひねりもなくギリシア文字が明記されているミラの魔法陣から始めましょう。もっともなぜ「古代文字」ではなくギリシア文字 (と一部ラテン文字の英語) を使ったのかという点はたいへんな難問なのですが、これは脇に置きます。

正三角形の並びに配置された 3 つの小円のなかに 1 語ずつ書かれている単語は、手前左が ζωή (zōē), 右が θάνατος (thanatos), そして奥は小さくて見づらいですが αναπαραγωγή (anaparagōgē) です。これらはわかりやすく「生」「死」そして生物学用語としての「生殖」を意味しており、べつだん解釈に曖昧さの余地はありません。とくにゲームをやるような人にとっては θάνατος (古典語発音ではタナトス) はおなじみの単語でしょう。

ほかに読める箇所はいちばん外側の円に書かれた文で、左上から時計回りに «βοηθήσει, είμαστε ο», «δούλος του Κυρίου», «Pearl River μας» となっています。アクセントもコンマも大文字も、表記はすべてこのとおりです。ギリシア文字をご存知ない人のためにラテン文字に翻字しますと ‘boēthēsei, eimaste o / doulos tou Kyriou / Pearl River mas’ となります。

すでに少し説明しましたが、これは 3 つの独立したフレーズではなく、1 つまたは 2 つの文になっています。2 つかもしれないのは英語まじりの «Pearl River μας» が意味不鮮明で立ち位置が明瞭でないためです。残りの部分はなぜつながっているとわかるかというと、左上の «βοηθήσει, είμαστε ο» の最後、«ο» という単語は定冠詞で英語の ‘the’ にあたる語だからです。『フィネガンズ・ウェイク』ではあるまいし、the で終わる文というのはギリシア語でも通常ありえません。

こうして «βοηθήσει, είμαστε ο δούλος του Κυρίου» はひとつづきの文だということがわかります。残ったパール・リバーもあわせて、«βοηθήσει, είμαστε ο δούλος του Κυρίου Pearl River μας» (ただこれは統語的に困難) か «Pearl River μας βοηθήσει, είμαστε ο δούλος του Κυρίου» なのか (こちらも βοηθήσει が文法違反なのは後述)、それともパール・リバーは別なのかは不明です。

ちなみに「真珠の川」パール・リバーを一貫してカタカナで書いているのは、ギリシア語のなかでここだけ英語で浮いているからです。もし英語であることがミスでなく意図的なものだとしたら、日本語でもこのように訳すべきでしょう。

まず冒頭の «βοηθήσει» という語ですが、これは動詞で «βοηθώ»「助ける」の活用形の 1 つであることには疑いがありません。しかしこの «βοηθήσει» という語形は決して単独では現れない形なのです。助動詞 έχω (英 have) と組みあわせて完了形の一部として使われるか、小辞 θα や να を伴って未来形や接続法になるのがこの変化形です。ですからこれは単純に誤りと思われます。

私見では、これは正しくは接続法 3 人称単数 «να βοηθήσει» か、そうでなければ命令法アオリスト «βοήθησε» の間違いでしょう。後者は明らかに「助けよ」の意味ですが、前者も命令や祈願に使えて「助けんことを」のようなニュアンスです。主語・目的語を補って訳せば「神がわれわれを救わんことを」(May God save us.) と言いたかったのでしょうか。

それにしたって主語はともかく目的語がないことは不自然です。そこで浮いているパール・リバーのあとの人称代名詞 «μας» を対格の「私たちを」と解したくなります。もし «Pearl River [να] μας βοηθήσει» だとすれば、「パール・リバーがわれわれを救わんことを」という願望を述べた接続法と読めます。

現代ギリシア語で人称代名詞は、命令法を除いてかならず動詞の定形の直前に置かれますから、文法的にもこれは通ります。また、少しあとの «Κυρίου» に見られるようにこの魔法陣をデザインした人は大文字を知っていますから、かりに «βοηθήσει» から文が始まるとすればこちらも大文字書きするはずで、では «Pearl River» が文頭なのだろうと考えることは辻褄があっています。

とはいえこれはまったく私の想像からくる独自見解であり、前掲の 2 つのスレッドではいずれも «μας» を属格「私たちのパール・リバー」ととってこの句を宙に浮いたままにしていることと対照的ですから、いまのところ補強する他人の意見はありません。あくまでひとつの案として受けとめてください。

また、英語で書かれた「パール・リバー」の正体とその表記の理由については私は答えを持ちません。前掲 reddit のトピ主はギリシア神話から三途の川ステュクスや忘却の川レテかもしれないと提案しています。その根拠はとくにないようですが、生や死などとあわせて書かれているところを見るとあながち的外れな想像でもないでしょう。それらと「真珠の川」を関連づけられる理由が神話のなかにあればご教示いただきたいです。

ここまでで話がだいぶ長くなってしまっていますが、まだ後半の «είμαστε ο δούλος του Κυρίου» の訳が終わっていません。もっともこちらは文法的にはさほど難しいところはありません。

最初の «είμαστε» は英語で言うところの be 動詞で、この活用形は ‘we are’ すなわち「私たちは〜だ」にあたります (主語もこの形に含まれているので改めて代名詞 we を言う必要はありません)。残りの部分は聖書的な決まり文句で (よく知られているようにギリシア語は新約聖書の言語です)、‘the servant of the Lord’「 (しゅ) (しもべ)」の意です。したがって意味としては「私たちは主のしもべである」となります。

しかしこれも問題なしとはしません。まず文法的には、英訳ですでにお気づきのかたもいるかもしれませんが、数が一致していません。主語が「私たち」と複数なのですから、補語ももちろん複数の ‘the servants’、(現代) ギリシア語にすれば «οι δούλοι» でなければならないはずです。

さらに「主」‘the Lord’、ギリシア語で ο Κύριος という言いかたですが、これはキリスト教的な言葉づかいをそのまま踏襲したものに見えます。『Echoes』の舞台であるバレンシア大陸の人々はドーマやミラをそのように呼んでいたでしょうか? たしかにドーマ教団の人々は「ドーマのしもべ」を自称していた気がしますし、ミラのほうもクラスチェンジ像が「ミラのしもべ」と書かれていますが、人間が神を「主」と呼ぶ部分があったかどうか私にはわかりません。

しかもいま見ているのはミラの魔法陣です。かりに「主」と呼ぶことを認めたとして、ミラは女性なのですから (そしてそのことは神話の言い伝えや偶像から、バレンシア大陸で生きる人々にとって子どもでも知っている事実ですから)、«του Κυρίου» ということはありません。女性形の単数属格 «της Κυρίας» であるべきかと思われます。

以上のようにこのギリシア語文には、10 語にも満たぬ短さに比してあまりに多くの初歩的な誤りが見受けられます。おそらくデザイナーにギリシア語 (古典語・現代語いずれも) の知識がかけらほどもなく、機械翻訳かなにかで日本語か英語から現代ギリシア語に移したものでしょう。

そうであれば、‘Pearl River’ が意味深に英語であることにも深い含意はなさそうです。たぶん現代ギリシア語に対応する言葉が見つからず機械翻訳がそこだけ英語のままにしてしまったものを、知識のない者がこれもギリシア語の言いかたなのかと早合点したもの、と考えるのがいちばんありそうな線です。こういう細部こそちゃんとお金をかけて古典語の専門家に依頼するか、せめて文学部出の人間でもいれば誰かが気づいたのではないかと思うのですが。


ドーマの魔法陣について


こういうわけですから、ドーマの魔法陣についてもあまりまじめに捉えてもしかたはありませんが、乗りかかった船なので最後まで解説していきましょう。

まず魔法陣の外周部に書かれている「古代文字」ですが、これは画像下部から時計回りに ‘o ischyro ena dose mou dynami’ と復号できます。言語としては明らかにギリシア語なのでギリシア文字で書かれるべきところですが、この「古代文字」がラテン文字にしか対応していないためにこうなっています。

ギリシア文字をラテン文字で表すように、一定の規則でべつの文字体系に移す作業を翻字 (transliteration) と言いまして、本稿でも上で何度か行ってきました。これは本当であればちゃんと 1 対 1 でもとの文字に戻せるように表さねばなりません。古典ギリシア語の場合はだいたい世界共通で決まっているルールがあります。

しかしここがややこしいところで、現代ギリシア語は古典語からかなり発音が変わりました。たとえば母音の η, ι, υ, ει などがすべて同じ「イ」の発音になったり、もともと長短や開閉の区別があった ο と ω がいずれも「オ」になったりしています。そしてこれをラテン文字で表記するさいに区別せず i, o と書いてしまうことがままあり、今回の場合もそういう曖昧さが生じています。

そしてギリシア文字に直したときべつのつづりになるということは、ギリシア語では異なる単語・異なる変化形になってしまうということです。つまり、このようにラテン文字で書かれている場合、ギリシア文字に直す段階ですでに解釈が混入してしまうのです。このことをあらかじめお含みおきください。

Google 翻訳などはラテン文字表記の ‘o ischyro ena dose mou dynami’ のままでギリシア語と認識して翻訳してくれますが、いま試してみたところそこでは «ο ισχυρό ένα δώσε μου δύναμη» と解釈されています。しかし ‘o’ を男性単数主格の定冠詞 «ο» と読んだのでは宙に浮いてしまい、中性単数の «ισχυρό ένα» にかかっていきませんから、これは確実に誤読と言えます。

Google 翻訳の名誉のために言いますと、これは機械翻訳の精度が悪いと一概に責めることはできません。なにしろミラの魔法陣についてすでに見てきたように、『Echoes』のギリシア語はめちゃくちゃですから、もとが間違った文では認識のしようもありません。ともかく、これも機械翻訳頼りでは正しく推測できない箇所です。

そこで ‘o’ は間投詞の «ω»「おお」であろうと考え、全体を «ω, ισχυρό ένα, δώσε μου δύναμη» と読みます。ω は事実上の呼格標識です。ισχυρό は ισχυρός「力強い」の中性単数主格・対格または呼格、あるいは男性単数対格でありえます。ένα は数詞の「1」で、不定冠詞および不定代名詞として「ある〜な人、もの」をも意味し、性数格は前のものと同じです。しかし続きの語から見て主格や対格とは解しえず、ω からもわかるように私は呼格ととっています。もし続きが dose mou でなく na mou dosei であれば主格でした。

δώσε は δίνω「与える」の命令法アオリストで、これはミラの場合と違って正しい活用形です。μου は属格の人称代名詞で、現代語に与格はないのでこれで「私に」の意味になります。命令法なので代名詞が動詞のあとにきています。δύναμη は (主格も同形ですが) 単数対格で「力を」、これが目的語ですね。

ということで、以上を好意的に解釈すれば ‘Oh, [the] Mighty One, give me [the] power!’ となり、「古代文字」で書かれたゲーム中の文なのでそれらしい日本語にしてみれば、「おお能なる者よ、我に力を与えたまえ」というところでしょう (欧米語の角括弧 [·], 日本語の亀甲括弧〔・〕は、原文に対応する語のない訳者・引用者の補足を表す慣習です)。

これは余談ですが、「古代文字」という呼び名は 2 千年後の『覚醒』の時代の理解ですから、『Echoes』の時代においては古いものでない可能性はあります。じっさい大陸地図に使われているわけですから現用の文字なのでしょう。

もっとも、ある文字が現役であることは、その文字で書かれた言語が現代語であることを含意しません。ほんらい楔形文字で書かれたシュメール語やヒッタイト語、ヒエログリフで書かれた古代エジプト語を、いまのラテン文字やカタカナで書き写すことは当然可能ですが、そうしたからといって言語まで新しいものになるわけではありませんね。

では怪しいところがいっさいなかったかというとそれはどうでしょうか。後半は完璧に正しいと思われますが、前半がどうも疑わしい。まず、英語で ‘[the] Mighty One’ と訳すとこれは神の呼び名のひとつとして古くから通用している言いまわしです。しかしこれをそのまま逐語的にギリシア語に移したような «ισχυρό ένα» という言いかたは本当に可能なのでしょうか。これがどうにも怪しい。

語順も怪しいし、ένα(ς) と言うとどうも不定のような感じがひしひしとしてきます。とある神、ある力持つ者というような、誰でもいい印象がしてドーマを表象している気がしません。とはいえ私も現代ギリシア語について明るいわけではないので、確信はないのですが。

加えて明らかに間違っているのは、これが中性形であること。これでは「力ある者」ならぬ「物」になってしまいます。先にもミラの魔法陣で «του Κυρίου» にツッコミを入れましたが、ここでも同じ理屈で、ドーマが男神であることは誰でも (なかんずくドーマに由来する魔道を使うような信仰ある者なら) 知っているはずの周知の事実ですから、男性形で呼ばない理由は考えられません。


外周部の文についてはこれくらいにして、ドーマの魔法陣にはまだ読める部分があります (便宜のため画像を再掲)。この外周部の文字に次いで 2 番めに大きいのは、いちばん内側に斜め 45 度で書かれているドーマの紋章の左下と右下の単語で、それぞれ ‘exousia’ と ‘theos’ と読めます。これはわかりやすくて、«εξουσία» は「権威、権限、権力」といった意味、«θεός» は「神」です。ここまでは前掲の最初のフォーラムでも指摘されています。

さらに 8 語、正八角形の形に並んだいちばん小さい単語群があります。ほとんどは小さすぎて長い単語ほど判読不能であり、これまで誰も読もうとしてきませんでした。しかるに 0 時のところから時計回りに番号をつけますと、3 番めのもの (上を北とすると東南東の位置) は短く 4 文字なので読みやすそうです。「I I I C I」のような字形をしていて、後ろ 2 字は間違いなく ‘ga’ でしょうが前半は ‘an’ にも ‘na’ にも見えます。しかし ‘anga’ よりは ‘naga’ (ナーガ?) と解するのが至当でしょうか。

そうすると残る 7 つもファイアーエムブレム作品の神格かと思われてきますが、5 番めすなわち南南西の位置にある単語は比較的明瞭に ‘thymos’ と読めますから、これは疑問の余地なくギリシア語の «θυμός» です。この単語はもと多義的で「魂、心」「欲求」「気概、熱意」「愛」「怒り」などなどを意味しましたが、現代語では「怒り」の一義に収まっているようです。

ほかのものの判読はさらに困難を極めますが、8 番め (北北西) のものがどうにか ‘al?th??a’ に見えるような気がして、そうだとすればこれはさだめし «αλήθεια»「真理」でしょう。また 4 番め (南南東) のものは ‘?a?ad???’、たぶん ‘ka?ad?k?’ かもしれず、ここまでが正しければ «καταδίκη» と思われ、これは法律用語で「判決」とくに有罪の宣告を意味します。

こうなってくると「ナーガ」には強い違和感があり間違いのような気がしてきますが、「ナーガ」と左右対称の位置にある 6 番め (西南西) のものは ‘akan??a’ のように見え、ここまでくるともう ‘Akaneia’「アカネイア」に違いありません。

残された 1, 2, 7 番めは文字数が多くそのぶんだけ小さく書かれているため、もっとも判読が至難です。上の画像ではとうてい読めませんが設定資料集のほうを見れば、2 番め (東北東) は ‘?atastro??’ すなわち «καταστροφή»「(大) 災厄」に見えないこともない気がします (そうだとすると文字数から見て、この「古代文字」の翻字方式は φ を ph でなく f に移していることになります)。

同じく 1 番め (北北東) は ‘?pana???o’ のように見え、かなり怪しいですが «επαναφέρω» だろうかと想像されます。つづりからわかるとおりこれは動詞で、「もとに戻す、修復する、復活させる」といった意味です (現代ギリシア語には不定詞というものがなく、「私は〜する」という直説法現在 1 人称単数形が辞書の見出し形になります。したがって正確にはこれも「修復する」ではなく「私は修復する」という意味です)。ほかがすべて名詞だったのにこれは奇妙なので、読み間違いかもしれません。

7 番め (西北西) はもっとも長くて字が小さく、設定資料集で見ても文字数すら判然としません。最初が g, 最後が a であることだけはまず間違いないでしょうが、あとのことはほぼいっさい不明です。たぶん ‘g [2–3 字] o [5–6 字] a’,さらに最大限想像力の翼をはためかせてみると ‘g??okt?n?a’ に見える気がしてきて、こうすれば «γενοκτονία»「大虐殺、皆殺し」と推測されます。

あまりに小さい文字のため、かなり無理に読んでいてなかば妄想めいた部分も多いですが、番号づけを改めて上から順に直してみると、最上段が「真理」と「復活」(?)、2 段めが「大虐殺」と「大災厄」、3 段めが「アカネイア」と「ナーガ」、そして最下段が「怒り」と「判決」、たぶん雰囲気としては「神の怒りと裁き」かと解釈されます。これでいちおうの筋は通っているのでないかと期待しますが、その当否は読者の判断に委ねるほかありません。これらの解読結果は記事末尾の画像にまとめてあります。


Abridged translation


This is an attempt to decipher the letters on two magic circles (of Mila’s and Duma’s) appeared in Fire Emblem Echoes: Shadows of Valentia.

Regarding Mila’s circle, there is no such need to ‘decipher’, since here they used the Greek alphabet as it is in the real world. However, the sentence in modern Greek (not classical Greek, strangely enough!) is devastatingly broken and thus cannot be interpreted unambiguously.

The sequence of the words written there, «Pearl River μας / βοηθήσει, είμαστε ο / δούλος του Κυρίου», is I believe one sentence in this order. (Or rather the comma is misplaced instead of a period or semicolon, and this sequence may be virtually two sentences.)

Because «βοηθήσει» is a dependent form of the verb «βοηθώ» (‘I save’) and therefore cannot be used alone, it must be accompanied by some particle or auxiliary verb. This is why I read «Pearl River [να] μας βοηθήσει» (the verb «να βοηθήσει» is in subjunctive mood). While the personal pronoun «μας» has been understood as genitive modifying the preceding words (meaning ‘our Pearl River’) so far in the previous studies, I regard it as accusative ‘us’ and thus as a direct object of the verb. If my opinion is correct, the entire sentence means ‘May Pearl River save us’ as a prayer, though I don’t know what Pearl River is nor why it is written in English.

The rest of the sentence, «είμαστε ο δούλος του Κυρίου» is a simple statement that means ‘We are the servant of the Lord.’ As you may have noticed immediately, there is an elementary mistake. The predicate must be ‘the servants’ in plural form («οι δούλοι» in Greek) instead of singular «ο δούλος». Moreover, we find that «του Κυρίου» (‘of the Lord’) is genitive masculine (thus it represents a male Lord). Since the sentence is written on Mila’s circle, this must be feminine form, «της Κυρίας». (It must be a well-known fact for the people living in the continent of Valentia that Mila is female god.)

Most of the ‘ancient letters’ on Duma’s circle is too small to read. Some people had tried this challenge but no one could accomplish it in a thorough manner. By the virtue of Memorial Book Valentia Accordion (published on 30 March 2018 in Japan), some of the letters (but not all) have newly become legible, so that I managed to propose a suggestion of deciphering them in modern Greek.

On the outermost circle: ‘o ischyro ena dose mou dynami’. I consider the first word ‘o’ as interjection «ω» (‘oh’) instead of nominative definite article «ο» (‘the’). This is because ‘dose’ (δώσε) is in imperative mood (‘give!’) and thus ‘ischyro ena’ seems to be vocative case. (‘mou’ [μου, ‘to me’] and ‘dynami’ [δύναμη, ‘power’] are objects of the verb.) The meaning of the sentence is clear. However, ‘ischyro ena’ in neuter form is very strange, because similarly to the aforementioned argument for Mila, this is written on Duma’s magic circle and virtually all the people in Valentia must know that Duma is a male god. Besides, I’m not sure that indefinite pronoun ‘ena(s)’ can be used in this way, that is, of the same usage as English ‘one’.

The second largest two words lie below the Duma’s emblem at the centre of the circle. There is no doubt and no difficulty: they denote ‘exousia’ (εξουσία, ‘authority’) and ‘theos’ (θεός, ‘god’).

The smallest eight words arranged in the form of an octagon are too tough to read precisely. I made my best effort to read them with help from the Memorial Book, but still there remain many unreadable letters. The table below shows the result of my decipherment and corresponding Greek words I suggest (each ‘?’ stands for one letter to be read):

LeftRight
Top‘al?th??a’
→ αλήθεια (alitheia, ‘truth’)
‘?pana???o’
→ επαναφέρω (epanafero, ‘I restore’*)
‘g[2–3]o[5–6]a’, possibly ‘g??okt?n?a’
→ γενοκτονία (genoktonia, ‘genocide’)
‘?atastro??’
→ καταστροφή (katastrofi, ‘catastrophe’)
‘akan??a’
→ Akaneia (EU), Archanea (US)
‘naga’
→ Naga
Bottom‘thymos’
→ θυμός (thymos, ‘rage, wrath’)
‘?a?ad???’, possibly ‘ka?ad?k?’
→ καταδίκη (katadiki, ‘sentence, conviction’)

(On my observation, it seems that those who designed this magic circle transliterated both Greek η and ι to i with no distinction and φ to f instead of ph.)

* There is no infinitive (‘to restore’) in modern Greek and first-person singular present indicative form is substituted as a lexical (dictionary) form. But yet this is quite strange, for they could use here a corresponding noun such as «επαναφορά» (epanafora, ‘restoration’) or else. So my suggestion of «επαναφέρω» may possibly be incorrect.

Following is the summary image: