ルター訳およびそれに影響を受けたとされる同時代の北ゲルマン語訳聖書を比較して読んでみる。ここでは「ガラテアの信徒への手紙」1 章 1–5 節を題材にとる。
聖書のテクストはルターが翻訳の底本としたエラスムスによる第 2 版のギリシア語聖書 (1519 年)、ルターの初訳であるいわゆる「9 月聖書」 (1522 年)、そして事実上ルター訳がその「基礎を置くことになった」(塩谷饒『ルター聖書 抜粋・訳注』大学書林、1983 年、194 頁) というデンマーク語、スウェーデン語、アイスランド語訳の順に掲げる。
すなわちデンマーク語訳は 1524 年のいわゆるクリスチャン II 世聖書、スウェーデン語訳はグスタフ・ヴァーサ聖書に利用されることになる 1526 年の新約聖書、アイスランド語訳は 1540 年のオッドゥルの聖書で、いずれもそれぞれの言語で出版された最初の聖書である。
聖書のテクストを現在のような節に分けたのは 1550 年代のロベール・エティエンヌによるギリシア語聖書からであったから、本稿で用いたテクストにはもとよりないものであるが、便宜上この区分けを採用した。
エラスムスのギリシア語刊本にあるさまざまの特殊な文字・合字については再現できないためほとんどを通常の文字に戻したが、例外として ϛ (スティグマ = στ) と ϖ (π の異体字)、また現用と異なる記号の用法 (ὀυκ や ὁι など語頭二重母音における気息記号やアクセント記号の位置、δϊά の分音符など) だけはそのままにした。
その他のラテン文字の各国語訳において、ſ (long s) および ꝛ (r rotunda) はたんなる s, r として区別せず表した。古く上つきの小さな e として書かれていた本来のウムラウトは現代式に直した (スウェーデン語のみ。ルター初版のドイツ語にはまだなく、現在の ä は e、ö, ü はたんに o, u と書かれていた)。
聖書のテクストを現在のような節に分けたのは 1550 年代のロベール・エティエンヌによるギリシア語聖書からであったから、本稿で用いたテクストにはもとよりないものであるが、便宜上この区分けを採用した。
エラスムスのギリシア語刊本にあるさまざまの特殊な文字・合字については再現できないためほとんどを通常の文字に戻したが、例外として ϛ (スティグマ = στ) と ϖ (π の異体字)、また現用と異なる記号の用法 (ὀυκ や ὁι など語頭二重母音における気息記号やアクセント記号の位置、δϊά の分音符など) だけはそのままにした。
その他のラテン文字の各国語訳において、ſ (long s) および ꝛ (r rotunda) はたんなる s, r として区別せず表した。古く上つきの小さな e として書かれていた本来のウムラウトは現代式に直した (スウェーデン語のみ。ルター初版のドイツ語にはまだなく、現在の ä は e、ö, ü はたんに o, u と書かれていた)。
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Gal 1:1
Gk. Erasm 1519 [Π]ΑΥΡΟΣ ἀπόϛολος, ὀυκ ἀπὸ ἀνθρώπων, ὀυδὲ δἰ ἀνθρώπου, ἀλλὰ δϊὰ Ιησοῦ Χριϛοῦ, καὶ θεοῦ ϖατρὸς, τοῦ ἐγείραντος ἀυτὸν ἐκ νεκρῶν,
De. Lut 1522 [P]Aulus ein Apostel: nicht von menschen: sondern durch Jhesum Christ vnd Got den vater / der yhn aufferweckt hatt von den todten /
Dk. ChrII 1524 [P]Øuild en apostel / icke aff mēnisken oc ey wed noget mēniske / men wed Jesum Christū / oc gud fader / som haffuer opveisd hānom aff the døde /
Sv. NT 1526 Paulus Apostel icke vthaff mennisker / ey heller genom någhon menniskio / vthan genom Jesum Christum / och gudh fadher som honom vpwäct haffuer aff dödha /
Is. Odd 1540 [P]All ein̄ Apostule / eigi af mōm [= mönnum] / nie helldr fyre man̄in̄ / helldr fyrer Jesū Kristū / ⁊ gud faudr / sa han vpp vackti af dauda /
奇妙なことに、9 月聖書では「人々からではなく」nicht von menschen の次に続くべき「人々を通してでもなく」auch nicht durch menschen が欠けており、すぐさま「イエス・キリストと……」sondern durch Jhesum Christ vnd... と続いている。エラスムスの編集したギリシア語原文では含まれているのであるから、ルターの翻訳ミスか植字工による脱字かのどちらかであろう。ルターが生前最後に手直しした版 (Ausgabe letzter Hand, 1545 年) には „auch nicht durch Menschen“ が入っているので、この間のどこかのタイミングで修正されたらしい。北欧 3 言語ではいずれも正しく含まれている。
オッドゥル訳に Pall (= Páll) の同格の称号 ein̄ (= einn) Apostule「使徒パウロ」とあるが、このように数詞 1 を不定冠詞として使う用法は中世 (古アイスランド語) から現在に至るまでアイスランド語にはない。これは明らかにルター訳 Paulus ein Apostel のドイツ語の敷き写しである。
奇妙なことに、9 月聖書では「人々からではなく」nicht von menschen の次に続くべき「人々を通してでもなく」auch nicht durch menschen が欠けており、すぐさま「イエス・キリストと……」sondern durch Jhesum Christ vnd... と続いている。エラスムスの編集したギリシア語原文では含まれているのであるから、ルターの翻訳ミスか植字工による脱字かのどちらかであろう。ルターが生前最後に手直しした版 (Ausgabe letzter Hand, 1545 年) には „auch nicht durch Menschen“ が入っているので、この間のどこかのタイミングで修正されたらしい。北欧 3 言語ではいずれも正しく含まれている。
オッドゥル訳に Pall (= Páll) の同格の称号 ein̄ (= einn) Apostule「使徒パウロ」とあるが、このように数詞 1 を不定冠詞として使う用法は中世 (古アイスランド語) から現在に至るまでアイスランド語にはない。これは明らかにルター訳 Paulus ein Apostel のドイツ語の敷き写しである。
Gal 1:2
Gk. Erasm 1519 καὶ ὁι σὺν ἐμοὶ ϖάντες ἀδελφοὶ, ταῖς ἐκκλησΐαις τῆς γαλατΐας.
De. Lut 1522 vnd alle bruder die bey myr sind. Den gemeynen ynn Galatia.
Dk. ChrII 1524 oc alle brødre som ere hoss meg. Thend men hed vti Gallatia
Sv. NT 1526 och alle brödher som när migh äro. Then forsamblinge som är j Galatia.
Is. Odd 1540 ⁊ aller þ̄r [= þeir] brædr sem medr mier eru. Sofnudunū [= Söfnuðunum] i Galatia
alle bruder にかかる関係節内の語順に注意されたい (ギリシア語では前置詞句であって関係節でないが)。ドイツ語では die bey myr sind (= die bei mir sind) のように定動詞が末尾に来る枠構造が義務的であるが、北ゲルマン語ではそのような語順をとらない。デンマーク語訳はそのとおりデンマーク語的な語順を呈しているが、スウェーデン語訳およびアイスランド語訳では定動詞 äro, eru が文末に来ているのはルター訳の影響であろう。
ほかにはデンマーク語・スウェーデン語の独立 (前置) 定冠詞 thend, then が興味を引く。デンマーク語では次の 17 世紀の文法書 (Koch) では dend とされているし、すでに 1550 年のクリスチャン III 世聖書でも den になっているので、古東ノルド語式に th の文字が使われている最後の時代と思われる。
alle bruder にかかる関係節内の語順に注意されたい (ギリシア語では前置詞句であって関係節でないが)。ドイツ語では die bey myr sind (= die bei mir sind) のように定動詞が末尾に来る枠構造が義務的であるが、北ゲルマン語ではそのような語順をとらない。デンマーク語訳はそのとおりデンマーク語的な語順を呈しているが、スウェーデン語訳およびアイスランド語訳では定動詞 äro, eru が文末に来ているのはルター訳の影響であろう。
ほかにはデンマーク語・スウェーデン語の独立 (前置) 定冠詞 thend, then が興味を引く。デンマーク語では次の 17 世紀の文法書 (Koch) では dend とされているし、すでに 1550 年のクリスチャン III 世聖書でも den になっているので、古東ノルド語式に th の文字が使われている最後の時代と思われる。
Gal 1:3
Gk. Erasm 1519 Χάρις ὑμῖν καὶ ἐιρήνη ἀπὸ θεοῦ ϖατρὸς, καὶ κυρΐου ἡμῶν Ιησοῦ Χριϛοῦ,
De. Lut 1522 Gnade sey mit euch vnd frid von Gott dem vater / vnnd vnserm hern Jhesu Christ /
Dk. ChrII 1524 Nade ware met eder oc fryd aff gud fader wor herre Jesu Christo /
Sv. NT 1526 Nådh wari medh idher och fridh aff gudh fadher och wårom herra Jesu Christo /
Is. Odd 1540 Nad sie med ydr / ⁊ fridr af gudi faudr / ⁊ vorū Drottne Jesu Christo
内容が挨拶の定型的であることも手伝ってか、これまでの 2 節にもまして、すべての語句が順番まで一語一句ルター訳とまるきり同じである。すなわち Gnade = Nade = Nådh = Nad、希求の接続法 sey = ware = wari = sie、前置詞 mit = met = medh = med、人称代名詞 euch = eder = idher = ydr、等々。
内容が挨拶の定型的であることも手伝ってか、これまでの 2 節にもまして、すべての語句が順番まで一語一句ルター訳とまるきり同じである。すなわち Gnade = Nade = Nådh = Nad、希求の接続法 sey = ware = wari = sie、前置詞 mit = met = medh = med、人称代名詞 euch = eder = idher = ydr、等々。
Gal 1:4
Gk. Erasm 1519 τοῦ δόντος ἑαυτὸν ὑπὲρ τῶν ἁμαρτϊῶν ἡμῶν, ὅπως ἐξέληται ἡμᾶς ἐκ τοῦ ἐνεϛῶτος ἀιῶνος ϖονηροῦ, κατὰ τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ καὶ ϖατρὸς ἡμῶν,
De. Lut 1522 der sich fur vnser sund geben hat / das er vns erredtet von diser gegenwertigē argen welt / nach dem willen Gottis vnsers vaters /
Dk. ChrII 1524 som haffuer giffued sig selff for wor sønder / paa thet hand motte redde oss fran thenne neruerende onde werden / effter gudz wor faders willte /
Sv. NT 1526 som sigh för wåra synder giffuit haffuer / på thet han skulle vthtagha oss frå thēne näruarādes snödho werld / effter gudz och wårs fadhers wilia /
Is. Odd 1540 sem sialfan sig hefer vt gefit fyre vorar synder / þ̄ [= það] hn̄ frelsadi oss i fra þ̄ssari nalægri vōdri verolld / epter gudz vilia / ⁊ vors faudis /
2 節で見たのと同じく、デンマーク語はルター訳の語順 der ... geben hat に引きずられず、haffuer giffued (= 現 har givet) を関係節内の最初にもってきているのに対し、スウェーデン語訳では som ... giffuit haffuer でルター訳と同じである。アイスランド語訳 hefer vt gefit (= hefur útgefið) はここでは 2 節と異なりアイスランド語本来の語順といえる。
アイスランド語訳についてはもう 1 点指摘することができる。「私たちの父なる神の意志」(希 τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ καὶ ϖατρὸς ἡμῶν, 独 dem willen Gottis vnsers vaters) では「神の」と「私たちの父の」という同格の属格が「意志」の後ろに 2 つ並んでおり、デンマーク語訳とスウェーデン語訳では 2 つがいずれも「意志」willte, wilia の前に並んでいるが、アイスランド語訳 gudz vilia ⁊ (= og) vors faudis では 2 つの属格が vilia の前後に分離しており、これは古風な統語法といえる (たとえば「赤毛のエイリークのサガ」Eiríks saga rauða で saga の前後に「エイリークの」と「赤毛の」が並ぶような)。じっさい、最近のアイスランド語訳聖書 (1981 年、2007 年) ではこの箇所は vilja Guðs vors og föður と後ろにまとめられている。
ギリシア語本文につき 1 点注意すると、τοῦ ἐνεϛῶτος ἀιῶνος は NA28 では τοῦ αἰῶνος τοῦ ἐνεστῶτος だが、意味は同じ (定冠詞つき名詞の修飾語になる形容詞の 2 通りの位置)。
2 節で見たのと同じく、デンマーク語はルター訳の語順 der ... geben hat に引きずられず、haffuer giffued (= 現 har givet) を関係節内の最初にもってきているのに対し、スウェーデン語訳では som ... giffuit haffuer でルター訳と同じである。アイスランド語訳 hefer vt gefit (= hefur útgefið) はここでは 2 節と異なりアイスランド語本来の語順といえる。
アイスランド語訳についてはもう 1 点指摘することができる。「私たちの父なる神の意志」(希 τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ καὶ ϖατρὸς ἡμῶν, 独 dem willen Gottis vnsers vaters) では「神の」と「私たちの父の」という同格の属格が「意志」の後ろに 2 つ並んでおり、デンマーク語訳とスウェーデン語訳では 2 つがいずれも「意志」willte, wilia の前に並んでいるが、アイスランド語訳 gudz vilia ⁊ (= og) vors faudis では 2 つの属格が vilia の前後に分離しており、これは古風な統語法といえる (たとえば「赤毛のエイリークのサガ」Eiríks saga rauða で saga の前後に「エイリークの」と「赤毛の」が並ぶような)。じっさい、最近のアイスランド語訳聖書 (1981 年、2007 年) ではこの箇所は vilja Guðs vors og föður と後ろにまとめられている。
ギリシア語本文につき 1 点注意すると、τοῦ ἐνεϛῶτος ἀιῶνος は NA28 では τοῦ αἰῶνος τοῦ ἐνεστῶτος だが、意味は同じ (定冠詞つき名詞の修飾語になる形容詞の 2 通りの位置)。
Gal 1:5
Gk. Erasm 1519 ᾧ ἡ δόξα ἐις τοὺς ἀιῶνας τῶν ἀιώνων, ἀμήν.
De. Lut 1522 wilchem sey preysz von ewickeyt zu ewickeyt Amen.
Dk. ChrII 1524 huilken ske ere fran euighed til euighed Amen.
Sv. NT 1526 huilkom ware prijs frå ewogheet till ewogheet Amen.
Is. Odd 1540 hueriū at sie dyrd vm allder allda Amen.
「永遠から永遠へ」の訳は、ギリシア語の ἐις τοὺς ἀιῶνας (複数対格) τῶν ἀιώνων (複数属格) に対し、独丁瑞では von ... zu ..., fran ... til ..., frå ... till ... のごとく、語順を逆転させ起点のほうに前置詞 von, fran, frå を補う必要があったが、アイスランド語では vm allder allda = 現 um aldir (複数対格) alda (複数属格) と時を表す格の用法の平行によってすっきり表現できている。すなわちここではオッドゥルはルター訳ではなくギリシア語原文に直接あたったのかもしれない。