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samedi 4 novembre 2017

Thomson『古典アルメニア語入門』抄訳

中世のアルメニア語の話題を取り扱ったことで思いだしたのだが,今年の 1 月に個人的に古典アルメニア語の入門書の翻訳と解答作成を途中まで行っていた.Robert W. Thomson, An Introduction to Classical Armenian. Caravan Books, ²1989 という本である.

原著の本編 17 課のうち第 1 課から第 8 課まで (pp. 22–70) を全訳し,練習問題にあるアルメニア語聖書訳読 (第 4 課以降) のすべての文に品詞分解と和訳をつけてあるので,これはこれでそれなりに役に立つと思う (もっとも文字の発音および音節と母音交替の説明のあるイントロ部分の訳出を割愛しているので,これだけでは勉強できないだろうが).

作りかけのままだが自分では原著の続きにざっと目を通しており,趣味としてはもう満足できるレベルでアルメニア語を読めるようになってしまったので,残念ながら和訳の続きを作ることはないだろう.死蔵するのもなんなのでここに一般の用に供することとする:Thomson『古典アルメニア語入門』訳と解答 (PDF).

vendredi 3 novembre 2017

谷口訳『中世アルメニア寓話集』「狼の子と手紙」の迷訳

前々回の「雌獅子と狐」,前回の「土地測量技師の水牛」に引き続きこの連載の締めくくりとして,ムヒタル・ゴッシュ,ヴァルダン・アイゲクツィ;谷口伊兵衛訳『中世アルメニア寓話集』(渓水社,2012 年) 所収の寓話のうちもうひとつだけどうしても取り上げたいものがある.それはこの本を一読したとき私がいちばん奇妙だと感じた一編で,アルメニア語の原文を見てみたいと思わせたきっかけである,52 頁の「狼の子と手紙」という話だ.
狼の子と手紙 the wolf-cub and the letters
むかし狼の子が捕らえられて、手紙を読まされました。〝S〟と言うように命じられると、狼の子は〝シープ〟(sheep「羊」)と言うのでした。また〝C〟と言うよう命じられると、狼の子は〝チキン〟(chicken「鶏」)と言うのでした。〝G〟と言うよう教えられると、狼の子は〝ゴート〟(goat「山羊」)と言うのでした。〝I〟と言うように命じられると、狼は続けられなくなり、こう返事するのでした、「ぼく(〝I〟)が遅刻すると、羊の群れが山を通り過ぎ、もう追いつけなくなってしまいます。」
まずオチが意味不明で,なにかうまいことを言おうとして盛大に滑っているというのはオリジナルの問題なので置いておこう.また,英語の letters というのは「手紙」ではなく「文字」だということも明らかだが (「手紙」を読まされていて S と言えだの C と言えだの,おかしいと気づくだろうにこの翻訳は中学生の英文和訳か?),それさえも最大の疑問点ではない.

この話でいちばん不可解なことはなにか.それは S, C, G, I というアルファベットの並びとその選択である.この文字列にいったいなんの必然性があるのか? なにか深遠な謎でも隠されているのか,と不思議に思うはずだ.

私たちはわざわざ原文を照会する手間を割きたくなかったりその能力がなかったりするために日本語訳を読むのである.しかるにこの話の日本語訳だけを読んだとき最大限わかることはと言えば,おそらくは「狼の子は動物の名前を答える法則がある」ということだけであろう.これは彼にとっての友達を挙げているのかもしれないし,食べもののことを言っているのかもしれない (chicken は生きた鶏と鶏肉の両方でありうる.ただし食べものなら sheep は mutton でなければならない).だが根本的になんで S, C, G, I なのか,そしてこの寓話からどんな教訓を読みとったらよいのかということはてんでわからない.


ロシア語訳からわかる情報と新たな謎


合理的に推論して,こんな無軌道な配列を日本語の翻訳者である谷口氏が勝手に創案したとは考えがたいから,この S, C, G, I はまず英訳の時点ですでにあったろうことが予想される.ただ前々回指摘したように谷口氏が英訳の原典を表示してくれていないので英訳については参照できないから,その翻訳元とされるオルベリのロシア語訳をみたび参照しよう:
63. волчонок и азбука
Поймали однажды волчонка, напи-
сали буквы и велели ему читать. И го-
ворят: «Скажи Аз», а он: «Агнец».
Говорят: «Скажи Буки», а он: «Ба-
ран». Говорят: «Скажи Глаголь»,
а он: «Гусь». Говорят: «Скажи
Добро», а он: «Добыча». Говорят:
«Скажи Есть», а он отвечает: «Если
не поспешу, пройдет стадо, и не до-
гнать будет».
まずはタイトルが «волчонок и азбука»「狼の子とアルファベット」なので letters が「文字」であることが再確認できた.ここで狼の子が «Скажи»「言え,口に出せ」(сказать の命令形) と言われていることを並べてみると,Аз, Буки, Глаголь, Добро, Есть となっている.

ここからただちに,これはアルファベットの最初の 5 文字を言っているのだとわかる.Аз, Буки, ... というのはどうやらアルファベットの各文字の古い名称であったようだ.もっともロシア語をご存知のかたなら В が抜けていることに気づくだろうが,これはキリル文字が少々特殊なのであって,「アルファベット」の名の祖であるギリシア文字に遡れば Α, Β, Γ, Δ, Ε であるし,アルメニア語でも Ա (A), Բ (B), Գ (G), Դ (D), Ե (E) なので,おかしなところはない.つまり原文ではアルファベットを順番に数えていたということだ.そうすると露訳でひとつひとつの単語にたいした意味はあるまい,というのは異なる言語から翻訳してなお順番を保つためにはどうしても多少の無理が生じるからである.

しかしそうすると新たな謎が浮上する,というのはロシア語では ABCDE と 5 個言っているのに英訳では 4 つに減っていることである.ただこの疑問は英訳者を捕まえて直接尋ねでもしないかぎり解決不可能なので無視しよう.

では狼の子の回答を見てみると,агнец は古語で「子羊」または「羊」一般,баран は「雄羊」,гусь は「ガチョウ」,добыча は「獲物,餌食」なのでやはり狼にとっての食べものを答えていたようだ.最後の Е はだいたい邦訳のとおりで,「もし僕が急がないと群れが行ってしまい追いつけなくなる」だが,Е にあたる語は «если»「もし」であって「僕」ではない.だから英訳の I も,谷口氏は勘違いしているが「僕 I」ではなく「もし if」のほうがイニシャル I を代表しているに違いない.そもそも狼の子はしりとりのようなことをしているのに,文頭の if でなく次の I がそれというのでは法則が台なしになるのである.また「群れ стадо」について「羊の」とは一言も言われていないので,すなおに考えたら狼の子じしんの属する群れのことではないのだろうか (ただし後述のアルメニア語原文も参照).

さて,英訳は S, C, G, I という奇妙な並びを持ちだしてきたわけだから,私はおそらく「羊・鶏・山羊という単語の意味のほうを忠実に訳したために頭文字は妥協せざるをえなかったのだ」と想像していたのであるが (誰でもそう考えたと思うが),オルベリのロシア語訳と比べると答えすら一致していないことがわかる.露訳にあるガチョウは消え,鶏と山羊が混入しているし,そもそも数があっていない.こうなるともうお手上げである.英訳者はなにを考えてこんなことをしたのか? それとも名前すら示されていない「英訳者」などというのは架空の存在なのか?


アルメニア語原典


ともあれ気をとりなおして,満を持して大本のアルメニア語原文にあたってみよう.これはふたたびヴァルダン・アイゲクツィの作であって,ニコライ・マルの校訂版では ՅԽԵ すなわち 345 番の番号が振られている:


ご覧のとおりまた判読困難な文字も少なくなく,とくに前回「土地測量技師の水牛」のさい «շամբ» で悩まされた բ と ր の文字,գ, դ や զ, ղ の文字,それから ա, տ, ո, ս などつぶれるとまったく区別不可能なのだが,ここまでの考察で「最初の話し手はアルファベットの最初の 5 文字 ա, բ, գ, դ, ե を順番に言っている」ということと,その相手である「狼の子は動物の名前を言う傾向にある」ことがわかっているのでそれが手がかりとなる.

(ちなみに残念ながら前々回頼りにしたサン゠マルタンによるアルメニア語・フランス語対訳版のヴァルダン寓話集は全 45 話の小冊であってこの話が含まれていない.)

まず導入部,冒頭から 2 行めの最初の単語まではこうだろう:Ասի առակաց, թէ գալին (?) ձագն բռնեցին ու գրեցին գիր, թէ կարգայ։

Ասի は ասեմ「言う」の直・現・中受・3 単,առակաց は առակ「たとえ,寓話」の複属与奪 (ここでは奪格か),թէ は英 that で,ここまでで「(この) たとえ話によって թէ 以下のことが言われている」.従来であればこれは教訓段落の導入句に見えるが,今回はここから寓話の本体が始まっている.また露訳以降,英訳,谷口訳まで含めてこの一文は失われており,かわりに「むかし однажды」という語が加わっている.

次の գալին は不明,ձագ-ն は「動物の赤ん坊,幼獣」,բռնեցին 直アオ 3 複 < բռնեմ「捕まえる」,ու「そして」,գրեցին 直アオ 3 複 < գրեմ「書く」,գիր「文字」,թէ は今度は「〜するように」(英 so that) で,կարգայ 直現 3 単 < կարգամ「呼ぶ,唱える;叫ぶ」.こうすると「狼の」という情報が出てきていないので,不明だった գալին galin は գայլ gayl「狼」に関係するであろう (というかそこから逆算して判読不能の գ と ա を決定した).「彼らは狼の (?) 幼獣を捕まえ,彼 (=幼獣) が唱えるように文字を書いた」.なお「彼ら」についても正体不明である.

以降,ասեմ「言う」の活用形である ասեն, ասայ, ասէ が順繰りに繰りかえされる.ասեն は直現 3 複「彼らは言う」,ասէ は直現 3 単「彼は言う」だが,ասայ はわからない.露訳を参考にすれば命令法の 2 単「言え」のはずだが,古典語ではそれは ասա՛ である.中世のヴァリアントだろうか?

「彼ら」が言っている単語は単純で,ա՛յբ, բե՛ն, գի՛մ, դա՛յ, ե՛չ, これらはアルメニア語最初の 5 文字 ա, բ, գ, դ, ե の名前である (アルメニア文字にはギリシア文字アルファ・ベータ・ガンマ等々と同じく固有の名前がある) が,դ はふつう դա であるのに余計な յ が付け足されている.この傾向は前述の ասայ とも符合しているから,さきのものはやはり「言え」と解してよかろう.

それに対して幼獣の応答は,այծ「山羊」,բուծ「子羊」,գառն はまた「子羊」で,դմակ は「羊の脂身」か.確実に「ガチョウ」が見あたらないので,露訳も答えを忠実に訳していたわけでないことがわかった.アルファベット順のほうを尊重していたのである (しかしそれなら А, Б, В, Г, Д に変えてもよさそうなものだが,オチの ‘if’ が Е であることに引っ張られたか).

幼獣の最後のセリフは ես կու (?) երթամ. դիհ (?) անցաւ. այլ չեմ ի հասնիլ։ か.ちなみにこの手前,最後の応酬のときも「彼らは言う,彼は言う」の同じ繰りかえしであり,谷口訳に見られる「狼は続けられなくなり、こう返事する」という補足はアルメニア語文にはない.ロシア語訳でも «отвечает»「答える」の 1 語が加わっているだけである.

ここには古典語の辞書では調べのつかない単語が多く,意味ははっきりしない.わかるところを訳せば「僕は〔……〕行く.〔……〕が通り過ぎてしまう.そうでないと (?) 到達する [獲得する] ことができなくなる」という感じか.とりわけ最後の単語 հասնիլ hasnil に見える動詞の不定詞 -իլ という形は明瞭に古典期以後 (post-classical) の形態であるから (Thomson, Introduction, p. 37),古典語 hasanel から中間の -a- が落ちて現代語の hasnel に至る途中の揺れと解した (この動詞の目的語は訳語によって羊の群れと自分の群れいずれの可能性もあろう).また անցաւ anc‘aw も古典語では anc‘ または加音をした ēanc‘ であるが (-aw は直アオ 3 単の規則的な語尾),現代語では anc‘av となるのでこれも過渡的な形か.解読できる部分はロシア語訳に一致しているようだが,これ以上のことは中世語の文献がなければわからない.


結論


さて原典から訳せば日本語訳で不明な恒例の教訓の部分がわかるかと思いきや,マルのエディションで見てもこの寓話には教訓段落が欠けているようである.結局のところこの話はなにが言いたいのかオリジナルからしてわかりづらいということが判明した.しかし原文に遡ることで「この狼の子は (動物の友達を挙げているのではなく) 食べもののことしか頭にない」ということが蓋然性を高めたので,たぶん言わんとする教訓は「幼い子に勉強をさせようとしても身を入れさせるのは難しい」くらいのことかと想像は可能である.

翻訳に際した「狼の子」の答えの変遷に着目してみると,アルメニア語からロシア語,ロシア語から英語 (あったとして) のいずれの翻訳でも,なんらかの理由から内容を自由に変更していることに気づく.しかしそのことじたいは悪いとは言えないばかりか,少なくとも露訳のそれはむしろ翻訳としてしかるべきありかたであろう.というのもこの話においてもっとも優先されるべきことは,幼獣に文字を教えようという筋書きであるから (これを壊すと登場人物がなにをしているのかわからなくなる),アルファベットの順番のほうを尊重するため答えを変更することは正当化されるからである.原著者の意図した効果を出すためなら翻訳においてそうした操作が現に認められていることは,『不思議の国のアリス』から『フィネガンズ・ウェイク』に至るまで言葉遊びで知られる作品の翻訳を想起してみれば納得されるはずだ.

しかるに英訳の S, C, G, I にはなにか意味があるのか不明瞭であるし (これがたとえば W, O, L, F だったらまだよかったのだが),それを機械的に踏襲していると見られる日本語訳も,翻訳としては輪をかけて不出来と評するのが相当であると思われる.ここは上述の理由からたとえばイロハニホかアイウエオに変更して日本語で適切な答えをあてはめることのほうが「正しい」訳しかたであったろう.中世アルメニアにとってなんの意味もない英単語のまま S, C, G, I を見せられても日本語を母語とする読者にはなにも伝わらないのである.

これまで 3 回にわたって『中世アルメニア寓話集』の和訳の難点を指摘してきた.これら 3 つはそれぞれ性質を異にする問題であって,(1) 最初の「雌獅子と狐」は (おそらくは) 英訳から和訳するさいに生じた誤訳,(2) 次の「土地測量技師の水牛」は英訳ないしそのまえの露訳の時点で生じていた誤訳が影響した,重々訳であることの欠陥であったところ,(3) 今回の「狼の子と手紙」はそれらの「集大成」として単純な誤訳も英訳時点の不備も含みつつ,そもそも原典じたいが翻訳に向いていないテクストであったことに端を発する迷訳であったと要約できる.こうしてわれわれが翻訳に携わるさいのさまざまな教訓を暗に教えてくれている,この邦訳寓話集の存在そのものが新たな寓話であると言えば皮肉が利きすぎであろうか.

谷口訳『中世アルメニア寓話集』「土地測量技師の水牛」の誤訳

前回に引き続き,ムヒタル・ゴッシュ,ヴァルダン・アイゲクツィ;谷口伊兵衛訳『中世アルメニア寓話集』(渓水社,2012 年) 所収の寓話のうち,今度は 32 頁の「土地測量技師の水牛」という話をとりあげてみる.これもまた大誤訳によって脈絡のわからない話になってしまっているのであって,まずは訳文をご覧いただこう:
水牛が土地測量技師になりたがりました。ところが、間もなく土地の測量に飽きてしまい、砂糖きび畑にやって来て、そこで寝そべりました。水牛の親方は彼が怠惰なのを叱りつけました。すると、水牛は応えて言うのでした、「陸地だけが測量されなくちゃならないの? 僕は今度は水も測量するつもりです。」
やはり日本語だけを読んでもなにかがおかしいということが明白だろう.見たかぎり,この水牛くんが自分の怠け癖を言い訳しようと試みていることだけはわかるが,なぜ「砂糖きび畑」で寝そべることが「水も測量」につながるのだろうか?


割愛された教訓段落


オルベリのロシア語訳から調べてみると,この話はムヒタルの作である.ムヒタルの寓話集が印刷されたのは 1790 年にヴェニスで出版されたのが最初で,それから 1842 年と 1854 年に再版 (改訂?) されたらしい.さらに百年近くが経って,1951 年にアルメニア (当時はソ連邦) の首都イェレヴァンでエマヌエル・ピヴァズヤン (Էմանուէլ Ա. Պիվազյան) という人によるテクストが出ているようで (HathiTrust 検索結果),ヨシフ・オルベリによるロシア語訳はこれを参考文献に挙げている.

私はその新しいほうの版を参照できないため,1790 年版のテクストの該当箇所を見てみると次のようである:


ここで邦訳およびオルベリの露訳に反映されているのは前半だけであって,後半の段落 (1 枚めの最終行から 2 枚め全体) はすべて割愛されている.前回の記事「雌獅子と狐」で紹介したものと同じく,この段落はその寓話の寓意を説明したいわば教訓部であり,簡単に訳すとこんなふうだろう:
泥沼 (տղմուտ) を離れたのにそこに舞い戻る者は,責められるとこう言うものである:「(世のなかには) お上品な人間 (պարկեշտ) ばかりでなく,罪が好きな人間たち (մեղսասէրք) もいるもんだ,俺たちのように」.
ここで「泥沼」という語は辞書的には文字どおりの意味しかないが,ここでは日本語のそれと同様「なかなか抜けだせない悪習」のようなもののメタファーとして使われているであろう.沼をそのように解すことで,泥のなかを転げまわる水牛を悪癖の常習者に見立てているわけである.これもまたヨーロッパの動物寓意譚ではありふれたイメージなのだろうか?

このように教訓段落を訳出してみると,前半の本来の姿についても想像がついてくるはずだ.「土地測量」に飽きた水牛が赴いたさきは「砂糖きび畑」ではなく「沼」なのだろう.


「砂糖きび畑」の出どころ


しかしなぜはっきりしないのか? それはこの単語がよくわからないからである.問題の単語は上の画像 1 枚めの 3 行め末尾にある.これは շամ? という 4 文字に見えるが,最後の文字がかすれて判然としない.なにか μ のようにも見えるが,アルメニア語には「左下が基準線より下に出て,なおかつ上は開いている」という文字はないのである (左下がまっすぐ飛び出るのは բ, թ, ի, խ, ր ですべてで,ը と լ はそこから右に延びるので候補から外れる).しかしおそらく շամբ であろうか.

文脈を確定するべく,2 行めのピリオドのあとから翻刻してみると次のとおり:
――.  եւ ՚ի չափելն անդ տաղտ-
կացաւ, եւ երթեալ անկաւ ՚ի շամբ (?)
ինչ,  ――
չափելն は չափեմ「測る」の不定詞に指示接尾辞 -ն がついたもので,անդ は「野,畑,耕地」.次の տաղտկացաւ は տաղտկամ「うんざりする,嫌悪する,怒りを抱く」の直説法アオリスト 3 人称単数で,嫌う対象は ի + 奪格で示すので,ここまでで「(彼は) 野を測るのにうんざりして」となる.

続いて երթեալ は երթամ「行く,去りゆく;向かう」のアオリスト分詞,անկաւ アオ 3 単 < անկանիմ「落ちる;陥る;倒れる;滅びる;飛びこむ」など多義.そのどこへ անկանիմ するかというのが次の ի + 対格で示されている問題の շամբ (?) である.行を超えて最後の ինչ は「なにか,あるもの」という不定代名詞で,これは名詞の後について「なにか〜のようなもの」という意味に使えるらしい (akn ownēr nšan inč‘ leal tesanel i nmanē 彼は彼 (イエス) によって生じた徴のようなものを見たいと願っていた Lk 23,8).これで,測量に飽きた水牛は「去って շամբ かなにかへ飛びこんだ」となる.

とりあえず շամբ だとみなすとして,この語は手もとの『古典アルメニア語辞典』には載っていないので,1875 年の Պետրոսեան の古いアルメニア語・英語辞典によってみると ‘Շամբ, ից s. cane-brake, —-field, fen’ と出ている.Cane は竹や籐やサトウキビなど,あの手の細長い植物の茎のことであるから,canebrake は「竹やぶ,籐の茂み」と訳される.-field はその畑である.一方 fen は「沼地,湿地帯」のことだ.つまりこれが「砂糖きび畑」と「沼」とを分けた原因である.

われわれの訳語としては「沼」をとるべきことは明らかだろう.竹やぶやサトウキビ畑でも泥だらけにはなれるかもしれないが,「測量」できるほど水が豊富とは思われないからである.水を測量できなければ最後のオチ (եղիցիմ ես ջրաչափ「僕は ‘水測量士’ になる」;եղիցիմ は未来を表す接続法アオリスト) にはつながらない.

ではなぜこのような取り違えが生じたのか? われわれは後半の教訓段落をちゃんと読んだのでこのようにわかったわけだが,先述したようにオルベリのロシア語訳以降この部分は省略されているのである.谷口訳はオルベリの露訳から英訳されたものをもとにした重々訳なので,当然この部分は知らなかったであろう.この話のオルベリの露訳全文は以下のとおり:
38. буйвол-землемер
Буйвол пожелал стать землемером.
И наскучило ему измерять, отпра-
вился он и улегся в камышах, а учи-
тель упрекал его в лености. А он от-
ветил: «Разве только землю нужно
измерять? Буду я водомером».
ご覧のように,問題の部分は камышах と訳されている.これは камыш の複数前置格で,камыш には「葦」および複数で「葦の茂み」という意味しかない.オルベリは後半の教訓部を読まなかったか,あるいは彼の依拠したテクストになかったのだろう.なるほど葦が生えるところは水の豊富な湿地帯であるが,いまの文脈で重要なのは生えている植物ではなく水そのもののほうである.

そうするとこれをもとにした英訳も当然 reeds かなにかとしか訳せなかったはずであり,すなわち今回谷口訳が間違っているのはオルベリの露訳に責任があったわけである.それにしてもなぜ谷口訳が葦をサトウキビにしなければならなかったのかは謎で,地面の上に生えるサトウキビでは完全に話の流れが理解不能になってしまっている.ついでに言えば「寝そべる」という語も原文にはないが,これも露訳の улегся (улечься「横になる,横臥する」の過去男性単数) が原因だろう.ともあれこれらは重訳 (重々訳) から生じた欠陥ということだ.


「土地測量技師」という訳語


ついでなので,「土地測量技師」という訳語についてもひとつ思いついたことを述べておく.これもオルベリの訳語 землемер を見れば,露訳の時点で「土地測量士」としか訳せなくなったことがはっきりしている.

ところで原語は երկրաչափութի՟ と書いてある.երկրա- = երկիր は「地」で,չափ は「測ること,測定」であるから,まあ「土地測量」でもよさそうな気はする.しかしこれは要するに geo- + metr であるから,もっと抽象的な学問である「幾何学 geometry」の可能性はないだろうか.少なくとも現代アルメニア語で երկրաչափութիւն は数学の「幾何学」である.

私がこのように疑問に思った理由は,現代語の意味もさることながら,きっかけは谷口訳で「水牛の親方」と訳されているところの վարդապետ という単語であった.これは古典アルメニア語 (西暦 5 世紀にキリスト教の聖書がアルメニア語に訳されたときの言語) では「先生,師,ラビ」(希 διδάσκαλος, ἐπιστάτης) の意味でとくに律法の教師のことであり,ロバート・ベドロシアン (Robert Bedrosian) によれば中世では「教会博士 Doctor of the Church」の意味として,彼の訳では固有名詞的にヴァルダペト (vardapet) とそのまま音写されている.そのような肩書の人物が現場の「親方」として実学である「土地測量」を教えるものだろうか?

これは当時のアルメニアの教育の実情を調べないとなんとも言えない.ただし上で見たとおり,この「幾何学」を習ったあと水牛くんはたしかに「野を測定 չափել անդ」していることに鑑みて,この ‘geometry’ は原義である「土地測量」と「幾何学」が現代の抽象的な数学のようにかけ離れていなかった時代のものであることは疑いないか.

いずれであるにせよ,日本語では「幾何学」と訳してしまうと最後のオチにつなげるのが難しいという欠点がある.アルメニア語の երկրաչափ 対 ջրաչափ (この後者は ջուր「水」と չափ「測定」の複合語である),ロシア語の землемер 対 водомер (やはり「地-測」と「水-測」) のように,単語の成りたちからつながりが見てとれないと,お話としてはうまくないのである.「測地学」ではやや別の学問になってしまうし,こればかりは geo- も metry もまったく活かせていない「幾何学」という中国語の訳語が悪かったとあきらめるほかはないかもしれない.

谷口訳『中世アルメニア寓話集』「雌獅子と狐」の誤訳

ムヒタル・ゴッシュ,ヴァルダン・アイゲクツィ;谷口伊兵衛訳『中世アルメニア寓話集』(渓水社,2012 年) という本がある.中世のアルメニアなどというたいへんロマンのある時代・地域についての本が日本語で読めるという非常に意欲的な訳業なのであるが,いろいろと難点があって手放しでおすすめはできない.

その難点については Amazon レビューのほうで簡単に書いたのでそちらをご覧いただくとしてなるべく繰りかえさないようにしたいが,そこで指摘した本書 19 頁「獅子と狐」の寓話の誤訳について,正しい訳文を与えるべくここで原文を詳しく検討してみよう.ただし「獅子と狐」という同名の話が本書にはもうひとつ 36 頁にもあってまぎわらしいので,本稿で詳論する 19 頁の話のほうは内容に即して「雌獅子と狐」と以降呼ぶことにする.

訳書でわずか 6 行の短い話なので,まずは問題の邦訳の全文を読んでいただこう.
ある雌獅子が子を産んだため、すべての動物たちがその雌獅子を祝福したり、その子への儀式に参加したりしようとして集まりました。儀式の間、狐がみんなの面前で獅子を大声でしかりつけ、こう言って怒らせたのです、「これがあんたの権限なんだ、これだけが。一匹の子だけで、もうこれ以上は一匹たりとも駄目だぞ。」すると獅子は平然と応えて言うのでした、「さよう。儂は一匹の子を産ませた、でも、それは獅子であって、貴様のような狐なぞではないんだぞ。」
一見して,まんなかにある狐のセリフがまったく意味不明なのである.この狐はいったいなぜ「権限」などということを言いだして,他人である雌獅子の出産の権利を制限しようとするのか? これが本当に正しい訳であったとすれば,この寓話はいかなる寓意をもっていると解釈すべきなのだろう?

この大問題に比べれば,本書全体に蔓延する「儂」という独特の一人称 (獅子や狼のみならず,スズメですら「儂」と言う.30 頁) や突然言及される「儀式」,「産ませた」という言いかた (会話相手がいつの間にか夫の獅子にすりかわったのか?),相手は平然としているのに「怒らせた」という言葉 (後掲の仏訳 injuria < injurier, 露訳 поносила < поносить のごとく「侮辱する,ののしる」や「悪口を言う」くらいが適切だろう) などはものの数ではない.

ここでいったん立ち止まって,この支離滅裂な訳文は誰に責任があるのかということを一考しておこう.いや,ふつうに考えれば訳者の谷口氏なのである.しかしこの訳書,Amazon レビューのほうでも書いたが,なんと翻訳の底本が明示されていない.訳者あとがきに「本訳書は一九五二年にポヴセブ・オルベリにより中世アルメニア語から露訳されたもの(抄訳)の英訳からの、重々訳である」と説明があるばかりで (「ポヴセブ」には改めて突っこむまい),誰が英訳したなんという英題の本なのか不明なのである.つまり谷口氏が依拠している英語の原文を確認できないので,英語の時点ですでにまずいのかもわからないのである (もっともそれも含めて訳者の責任ではあろうが).

底本の情報もなく,また本書中でどれがムヒタル・ゴッシュ (Մխիթար Գոշ) の作でどれがヴァルダン・アイゲクツィ (Վարդան Այգեկցի) の作かすら記載されていないことから調査に手こずったが,私の調べたところによるとこの「(雌) 獅子と狐」(Առիւծն եւ Աղուէսն) はヴァルダンのほうの作で,フランスの東洋学者でアルメニア研究の先駆けだというアントワーヌ゠ジャン・サン゠マルタン (Antoine-Jean Saint-Martin) が 1825 年に出版したアルメニア語・フランス語対訳本 Choix de fables de Vartan のなかに見いだすことができたので,これによってアルメニア語の原文テクストを翻刻すると以下のとおりである (行の区切りも再現):
ԻԶ
ԱՌԻՒԾՆ ԵՒ ԱՂՈՒԷՍՆ
Առիւծ մի կորիւն ծնաւ, եւ ժողովեցան կեն-
դանիքն ’ի տես եւ յուրախութիւն։ Գայ
աղուէսն ’ի մէջ բազմամբոխին, եւ մեծա-
հանդիսիւ նախատեաց զառիւծն յատեանն
բարձր ձայնիւ եւ անարգեաց՝ թէ ա՞յդ է քո
կարողութիւնդ, զի մի կորիւն ծնանիս՝ եւ ո՛չ
բազում։ Պատասխանի ետ առիւծն հանդար-
տաբար՝ եւ ասէ• այո՛ մի կորիւն ծնանիմ,
բայց առիւծ ծնանիմ, եւ ոչ աղուէս քան ըզ-
քեզ։
Ցուցանէ առակս՝ թէ լաւ է մի որդի բարի,
քան հարիւր որդի անօրէն եւ չար։
便宜のためサン゠マルタンによる仏訳も掲載しておく:
XXVI.
la lionne et le renard.
Une Lionne ayant mis bas un lionceau, les ani-
maux se réunirent pour la voir et lui présenter
leurs félicitations. Le Renard vint dans la foule,
et, au milieu de l’assemblée, il injuria la
Lionne, avec affectation et à haute voix, en lui
disant avec mépris : Voilà donc toute ta puis-
sance ; tu n’enfantes qu’un Lionceau et pas da-
vantage. La Lionne lui répondit tranquillement :
Oui, je n’ai donné le jour qu’à un petit, mais
j’ai enfanté un Lion et non un Renard comme
toi.
Cette fable montre qu’il vaut mieux n’avoir
qu’un fils vertueux, qu’une centaine d’enfans
méchans et sans foi.
ただし以上のテクストはロシア語訳が参照しているものではない.そこでそのヨシフ・オルベリ (Иосиф Орбели) による露訳もついでに併載しておこう.谷口氏が依拠した英訳がわからない以上,確実に影響をたどれるのはその英訳が下敷きにしているというこのロシア語テクストまでである:
23. львица и лисица.
Львица родила львенка, и собра-
лись все животные, чтобы повидать его
и принять участие в празднестве. При-
ходит лиса и во время торжества, среди
всего этого собрания, громко упрекнула
львицу и поносила ее: «В этом ли твоя
мощь, что рожаешь одного детеныша,
а не многих?». Львица спокойно отве-
тила: «Да, я рожаю одного детеныша,
но рожаю льва, а не лисиц, как ты».
このオルベリの露訳の底本は,ニコライ・マル (Николай Яковлевич Марр) によるヴァルダンの校訂版 Сборники прич Вардана: материалы для истории средневѣковой армянской литературы (テクスト篇の ч. II は 1894 年) であるようだ.これも Google Books で Google によるデジタイズ版を閲覧できるが,ところどころ完全に文字がつぶれた部分がありあまり役に立たない.ただ下記の訳出作業の (9) でいちどだけ利用するので,どんなふうかいちおう画像を掲載しておく (стр. 116–7):



上掲のサン゠マルタン版と見比べてみれば,前半はところどころ単語のつづりに 1 文字加わったり減ったりしているほかは同じだが,後半の教訓部は明らかにサン゠マルタンのものより長い.ともあれこの段落はオルベリの露訳ではまるごと削られており,そのため谷口訳にもないので無理に判読することはやめておく.


(1) Առիւծ մի կորիւն ծնաւ,


それでは本題に戻って,サン゠マルタン版のアルメニア語をもとに「雌獅子と狐」の日本語訳をしてみよう.アルメニア語の知識がまったくない人でも諸訳 (私のものを含む) の妥当性を検証できるよう,初歩から文法の解説をしていく.全体の訳出結果は本稿の末尾にあらためて載せるので,細部に関心のないかたは飛ばしてもよい.

まずアルメニア語には,印欧語としては驚くべきことに,名詞の性がないのである.したがってここまで雌獅子雌獅子と言ってきた առիւծ であるが実際には性別不明である.しかし仏訳も露訳も明示的に「雌のライオン une Lionne, Львица」と書いているのだからとりあえず従ってみよう.英語でも lioness や she-lion と言えるわけであるが,邦訳から唯一知られる英訳の情報であるところの各話の英題では ‘The Lion’ と載っているので,谷口氏の依拠した英訳では性別不明の獅子になっていたと見える (露訳からの重訳なのになぜ反抗したのか?).

次の մի は数詞の「1」,կորիւն は「動物の仔」,ծնաւ は ծնանիմ「産む」の直説法アオリスト 3 人称単数である.これは自動詞として「生まれる」にも使われる (アルメニア語ではしばしば能動と中・受動の境が曖昧である).さらにアルメニア語では名詞の単数主格と対格がつねに同形なので,このままでは獅子と仔のどちらが主語ともとれそうだが (タイトルにはある指示接尾辞 -ն もここではついていない),仔を自動詞の主語にとると առիւծ の主・対格が浮いてしまうので,順当に「獅子が一頭の子を産んだ」である.

なお単語の語義につき,中世アルメニア語の辞典などおそらく本国にしかなかろうから,ここでは手もとの千種眞一編『古典アルメニア語辞典』(大学書林,2013 年) に頼ることにする.これに見られるかぎりでは ծնանիմ の主語は男性の場合もあり,「Abraham cnaw z-Isahak アブラハムはイサクを生んだ Mt 1,2」との例が出ている.ということは文中の「獅子」が父親のほうであっても (少なくとも古典期には) 矛盾はないことになる.


(2) եւ ժողովեցան կենդանիքն ’ի տես եւ յուրախութիւն։


եւ は接続詞「そして」.ժողովեցան 直アオ 3 複 < ժողովեմ「集める;集まる」.կենդանիքն は「生きている」の意の形容詞 կենդանի を名詞として「生きもの,動物」として用い,その複主 կենդանիք に指示接尾辞 -ն のついたもの.これは定冠詞のような働きをするので,全体で the animals の意.ここまでで「ので動物たちが集まった」.この動物たちはいきなり定冠詞つき複数で出てきているので,谷口訳の「すべての動物」というのもおかしくはない.

’ի のアポストロフは,ի- で始まる単語から前置詞の ի を区別するための記号.この前置詞はさまざまな格を支配し多様な意味をもつが,ここでは対格支配で「するために」の意か.同じく対格支配で「〜の方向へ」や「〜とともに」などの意味がある.տես は動詞 տեսանեմ「見る」から来た「見ること」という名詞.յ- は ի が母音の前でとる形.ուրախութիւն「喜び」.したがってここまでを直訳すれば「見る/会うことと喜びとのために」または「喜びをもって見ることのために」となろうか.

ここで 2 つの現代語訳を参考にしてみると,仏訳は « pour la voir et lui présenter leurs félicitations »「彼女に (la) 会い,彼女に祝福/おめでとう (félicitations) を伝えるため」,また露訳は «чтобы повидать его и принять участие в празднестве»「彼に (его, acc.) 会い,祝典 (празднество) に参加するため」となっている.

まず前半に注目すれば,原文で表されていない「見る」の目的語が補われていることに気づく.この補足じたいはそれぞれの言語の文法的制約からしかたのないことである (他動詞は目的語をとらざるをえない).ただしフランス語ではその対象が女性名詞=母ライオン la Lionne であり,ロシア語では男性名詞すなわち (最初の獅子を母親とみなしていたことを確認したので) 子ライオン львёнок と解釈されている.

より著しい違いがあるのは後半である.仏訳は「喜びをもって」の線ですなおに訳しているように見えるが,ロシア語ではなにやら祝祭が行われることになっている.これははっきり言ってどうなのかわからない.古典アルメニア語の辞典には「喜び」の一義しかないのであるが,あんがい時代が下るにつれて「祝典」の意味が加わったことを否定する根拠を私はもたないからである.

谷口訳の「儀式」もこの露訳の延長線で生じた訳語だろうか.しかし谷口訳をよくよく見ると「その雌獅子を祝福したり、その子への儀式に参加したりしようとして」となっており,獅子の親子に「会う」ことが完全に消えて,празднество「祝典」由来と思われる「祝福」と「儀式」が重複してしまっている.これはまず間違いなく誤訳とみなしていいだろう (繰りかえすがそれが谷口氏の責任なのか英訳者の責なのかは判定できない).また追加そのものを脇に置くとしても「その子への儀式」は日本語として言葉足らず.


(3) Գայ աղուէսն ’ի մէջ բազմամբոխին,


Գայ 直現 3 単 < գամ「来る」.աղուէս「狐」(希 ἀλώπηξ).ի մէջ + [属]「〜のただなかに,のあいだで」.բազմամբոխի は բազմ- < բազում「多数の」と ամբոխի 単属 < ամբոխ「群衆,民衆」の複合語.「狐が大群衆のただなかに来る」.


(4) եւ մեծահանդիսիւ նախատեաց զառիւծն յատեանն բարձր ձայնիւ եւ անարգեաց


մեծահանդիսիւ は մեծ「大きい」と հանդիսիւ 単具 < հանդէս「行列;見世物;祝賀祭」の複合語.(2) における露訳の「祝典」はここからきたものか? 具格はふつう「〜とともに,によって」を意味するが,ここでは様態の副詞として使われているであろう (Thomson, An Introduction to Classical Armenian, p. 56).現代アルメニア語でこの語 մեծահանդես は「壮麗な,豪奢な」という形容詞になっているようだが,中世ですでにこのような変化が進みつつあったのか? いずれにせよ副詞として「見世物的に=壮大に,盛大に」のような意味かと推測される.

նախատեաց 直アオ 3 単 < նախատեմ「侮辱する,罵る;非難する」.զ- は対格を支配し直接目的語を標示するマーカー.つまり զ-առիւծ-ն で the lion(ess) の目的格.

ատեան「集まり,評議会;訴訟,弁論;演壇」.ここでは յ- + 対格なので「〜に向かって」のようにしかとれず,「〜のなかで,において」とするには古典語では処格を要するはずだが,これも通時的変化があったとすればわからない.無難に方向の対格としてとっておこう.

բարձր「高い」(その具格は բարձու だがここでは一致していない).ձայնիւ 単具 < ձայն「声」.「大声で」は ի + 対格で ի ձայն բարձր とも言える (ի ձայն բարձր աղաղակեաց 彼女は大声を上げて叫んだ.ルカ 1,42).

անարգեաց 直アオ 3 単 < անարգեմ「侮辱する,軽蔑する;忌避する」.露訳 «поносила ее»「彼女を侮辱した」や仏訳 « en lui disant avec mépris »「彼女に軽蔑を込めて言い」はやはり目的語代名詞を補っている.

以上よりこの箇所の原意は,「そして盛大にその集まりに向かって大声で獅子を罵り,侮辱した」.


(5) թէ ա՞յդ է քո կարողութիւնդ,


թէ は英語の that のような接続詞で,発話の内容を導く.այդ は 2 人称直示 (つまり相手のがわにあるものを指示する) の指示代名詞「それ」.この上に疑問符  ՞ がついている.アルメニア語では疑問符は文末ではなく,文中で重要な単語のアクセント母音の上に書かれる.է はコピュラ動詞 եմ の直現 3 単 (つまり英語の is).

քո は 2 人称単数の所有形容詞「おまえの,あなたの」.կարողութիւն は形容詞 կարող「可能な,力のある」から派生した抽象名詞「力,能力」で,これに 2 人称の指示接尾辞 -դ がついている (これは「その」と訳せるが,所有詞と補いあって要するに「おまえの」を意味しているのであえて訳出しなくてよい.ギリシア語で所有のとき冠詞がつくようなもの).

この「力」が英訳で power かなにかと訳され,谷口訳の「権限」につながったのだろう.仏訳の puissance も同じく「能力」と「権限」の両方の意味をもつ.しかし日本語ではこの 2 つはかなり違った言葉なので,少なくともこの文脈で「権限」と訳すわけにはゆかない.以上より「それがおまえの力なのか?」で,どんな力かの説明は次に続く.

ここで「能力」や「力」という語を不自然に感じるとすれば,「可能な」という原義に遡って「できること」くらいに訳すことも許されるだろう.文脈を重視し多少敷衍して訳すなら「全力」あるいは「限度,限界」ほどにもとれる (現に仏訳は « toute ta puissance » としている).


(6) զի մի կորիւն ծնանիս՝ եւ ո՛չ բազում։


զի は「〜なので;〜するために,するように;〜ということ」といった広い意味あいをもつ接続詞.մի կորիւն は (1) で見たとおり「一頭の仔」.ծնանիս もすでに見た ծնանիմ「産む」の直現 2 単.ここまでで「一頭の仔を産むこと」の意.

ոչ は否定辞 (英 not).բազում「多くの,多数の」も既出.あわせて「多くではなく」,つまり意味あいとしては「たった一頭であってそれ以上ではなく」ということ.仏 « et pas davantage » や露訳 «а не многих» も完全に逐語的に移しており,英語でもすなおに訳していたとしたら ‘and not many [more]’ になる.谷口訳の「もうこれ以上は一匹たりとも駄目だぞ」はまったくの妄想であって,この話の訳文のなかでいちばんひどい部分である.


(7) Պատասխանի ետ առիւծն հանդարտաբար՝ եւ ասէ•

Պատասխանի「返事,弁明」.ետ 直アオ 3 単 < տամ「与える」.この 2 語の組みあわせでふつう「答える,返事をする」の意.առիւծն は既出で「その獅子」.հանդարտաբար は հանդարտ「静かな,穏やかな,穏和な」という形容詞に,「〜のように」を意味する接尾辞 -աբար がついて副詞になったもの.ասէ 直現 3 単 < ասեմ「言う」.「獅子は静かに/穏やかに答えて言った」.


(8) այո՛ մի կորիւն ծնանիմ,


այո は肯定の返事「はい,そうだ,しかり」.ծնանիմ 直現 1 単「産む」.よって単純に「そうだ,私は一頭の仔を産む」で,露訳 «Да, я рожаю одного детеныша» も同様だが,仏訳は « Oui, je n’ai donné le jour qu’à un petit »「そうだ,私は一頭の仔しか産まなかった」と,ニュアンスを重視してか否定の表現 ne ... que を加えている.日本語では否定詞を加えないとしても語順を変えて「私が産むのは一頭だが」のようにすれば含意は通じるだろう.なお谷口訳が同じ動詞なのに「産ませた」に変えている理由は謎.


(9) բայց առիւծ ծնանիմ, եւ ոչ աղուէս քան ըզքեզ։


բայց は反意の接続詞「しかし,そうではなく;もっとも〜だが」.以下 առիւծ「獅子」,ծնանիմ「私は産む」,եւ「そして」,ոչ「でない」,աղուէս「狐」はすべて既出.前半の主語は動詞に含まれている 1 人称単数の「私」なので,「獅子」は対格で,それゆえ後半で対比される「狐」も対格と解するのが相当である.

քան は比較の副詞「〜よりも」(英 than).しかし ըզքեզ の最初の ը- は意味不明.以下の画像のとおりサン゠マルタンの版には間違いなくこの文字があるのだが,誤植か.上に挙げたマルの校訂版にはなく զքեզ となっている.


քան զքեզ と読むとして,քան զ- で対格を支配して「〜よりも」,քեզ は 2 人称単数代名詞 դու の与対処格である.この「おまえよりも」というのは訳しにくいが,仏訳 « et non un Renard comme toi » および露訳 «а не лисиц, как ты» は一致して「〜のような/ように comme, как」と解し「おまえのような [に] 狐ではなく」としている.つまりこの「おまえよりも」というのは「おまえと違って」(cf. other than you) くらいの意味だろう.

以上をまとめると,この箇所の直訳は「しかし [もっとも] 私は獅子を産むのであって,おまえのように狐をではない」.


(10) Ցուցանէ առակս՝ թէ լաւ է մի որդի բարի, քան հարիւր որդի անօրէն եւ չար։


最後に,オルベリの露訳以降で割愛されているこの教訓段落を訳出しよう.

Ցուցանէ 直現 3 単 < ցուցանեմ「示す,見せる;立証する」.առակս は առակ「たとえ,ことわざ,格言,寓話」の複数対格・処格とも見えるが,ここでは առակ に 1 人称指示接尾辞 -ս「この」がついたもので,単数主格である.つまり「この寓話が示している (のは թէ 以下のことである)」.

լաւ「よりよい,優れた」.է「〜である」,մի「一人の」は既出で,որդի は「息子」,բարի は「良い,善い」.հարիւր は基数詞「100」.անօրէն に見える օ という文字は中世 11 世紀末の発明で,本来は二重母音 աւ にあたる.そして անաւրէն は「無法の,不正な,邪悪な,犯罪者」の意.չար もこれと類義語で「悪い,不道徳な,悪意のある」といった意味.

以上で「この寓話が示しているのは,一人の善良な息子は百人の邪悪で非道な息子 (をもつこと) にまさるということである」.獅子が「善良」なのか,狐は逆に貶められすぎではないかという疑念もあるが,これが中世ヨーロッパの動物寓意譚における各動物の印象なのかもしれない.


最終結果


これまでの分析をまとめると,サン゠マルタン版のアルメニア語原文に忠実な (余計な付け足しを極力排した) 日本語訳は以下のようになろう:
獅子が一頭の仔を産んだので,動物たちは見て [見舞い] 喜び (を伝える) ために集まった.狐がその大群衆のなかにやってきて,盛大に獅子を罵りその集まりに向かって大声で「それがあんたのできることか,たくさんではなく (たった) 一頭の仔を産むことが?」と侮辱した.獅子は静かに答えて言った,「そのとおり,私が産むのは一頭だ,もっとも私が産むのは獅子であって,おまえのように狐ではないが」.
この寓話が示しているのは,一人の善良な息子は百人の邪悪で非道な息子 (をもつこと) にまさるということである.