samedi 20 avril 2019

エルヴダーレン語入門 (番外):Levander (1909) を使うために

詳しくはこの企画の第 1 回に述べた概説を見ていただくとして、いわゆる古典エルヴダーレン語の参考書として Lars Levander (1909), Älvdalsmålet i Dalarna の資料的価値は計り知れない。以前述べたことの繰りかえしになるが、それはただに歴史的価値というのではなくて、現在の実践にとって有益であるということである。

Levander は遅くとも 1921 年の時点で、子どもたちの話す新しい世代のこの言語 (方言) が主格と対格の形態的区別を失ったり、語彙の面でもスウェーデン語の影響に侵食されたりしてきていることに気づき懸念していた。このような変化は実際に後の時代の研究で確証される。古典エルヴダーレン語 klassisk älvdalska から伝統的エルヴダーレン語 traditionell älvdalska が区別される所以である。Levander が記述している、名詞形態論に 4 格 (+部分的に呼格) のフルなパラダイムを保持する古典語の文法は、記念碑的業績として現在 2010 年代の諸論文でも頻繁に参照されている。

この本は 1985 年にリプリントされ、いまも紙の現物を古本で入手することはやや困難とはいえ不可能ではないが、最近 Ulum Dalska のページにて全文 PDF へのリンクが紹介されわかりやすく入手できるようになった (ファイルじたいはもう少し以前からスウェーデンの言語・民間伝承研究所 Institutet för språk och folkminnen で同じ叢書の古い巻号とともに公開されていたもの。Internet Archive にも別のスキャンがあるので、好きなほうを選べばよい)。Ulum Dalska は当地のいわばエルヴダーレン語普及協会で、その名前は「エルヴダーレン語を話そう」との意味である。著作年からも推測されることだが、著者 Levander は 1950 年没なので、スウェーデン国内の事情はわからないにしても、日本国内ではすでに著作権が切れているはずである (欧米で一般的な 70 年で数えても来年末までだ)。

しかるにこの本を学習の参考に役立てようとしても容易にはゆかない事情がある。そのことは私が贅言を尽くして説明しなくても、中身をひと目見てもらえばただちに承知してもらえるだろう:


これは Levander が細分するところの男性名詞第 1 曲用 a 型、すなわち kall「男」と同じ型の変化に属する名詞の一覧の一部で、左から順に未知形単数主格、既知形単数主格、既知形単数与格、既知形複数主格の 4 形を並べたものである。

ラテン・アルファベットをひねりまわしたような、非常に奇怪な文字が連なっているのが見てとれる。(当然スウェーデン語の語釈は除いて) この画面に映っている約 300 文字のうち、子音はまだしも普通の形の字も多いが、母音はほとんどひとつも通常の文字がない。唯一の例外は u、あとは æ も 2 種の形 (左側 a 部分が 2 階建てかそうでないか) が区別されているがこれに数えてもよいか。それら以外は、一見ふつうの ae に見えるものも、よく見ればなにかが違っている。それは印刷のかすれやスキャン時のゴミではない。

これはどうやら当時のスウェーデン語方言学に必要とされていた一種の音標文字であって、Levander にはまったく説明がないが、調べてみると J. A. Lundell (1879), ‘Det svenska landsmålsalfabetet’ に詳しい解説が与えられているのを見いだした (どうやらこの文字じたいは Sundevall (1856) に遡るようだが)。音声学的に厳密なことを知りたければこれにあたられるのがよかろう。

しかしややこしいことは置いておいて、さしあたって役に立つのは Adolf Noreen (1881), Dalmålet I: Inledning till Dalmålet の冒頭に見いだされる次の対応表である:


これは Noreen がその本でエルヴダーレン方言の概説をするにあたって、厳密な音標文字でなく簡素な (彼の言う「粗い表記 en «gröfre» beteckning」)、ほぼ通常の北欧語で使われている文字セット (等式の左側、例外は左下の合字 ng くらいか) で話をするために備えられた一覧表である。つまり、これを逆用すれば Levander の表記を現代の通常の正書法に戻せる可能性がある。

以下ではそれを確かめてみよう。どのようにして検証するかというと、近年の論文が Levander (1909) の語形変化表を引用するさい現代の正書法に直して掲げていることがままあるので、それを Levander と比較してみればよい。混乱を避けるため正書法は Råðdjärum 式になっているものを用いる (ただし辞書を使う人の便宜のため Steensland 式にも一部言及する)。

まず、もっとも頻繁に見かけるのは Levander, s. 11 すなわち本論のいちばん最初に出てくる kall「男」の変化表である:


これは Garbacz (2010), ‘Word Order in Övdalian’, p. 40 にて次のような形で引用されている (原文では単複が横に並んでいるが、Levander と見比べやすいよう改めた):

kallkalln
kalleskallemes
kallekallem
kallkalln
kallerkallär/kaller
——kallumes
kallumkallum
kallakallą

ここから学びとれることは、まずいちばん簡単なこととして、見慣れた形の k, l, m, n, r, s に見えるものはそのままそのとおりの文字とみなしてよいということだ。それから、l の下のマクロンは子音が長子音 ll であることを示すのだということ、そして a の字の内側下部にくるっと小さい丸がついていたり、e の書き終わりで小さくはねていたりするものは無視してただの a, e だと思っていいということである。

注意すべきことの第 1 は、既知形複数主格 kallär の ä である。Garbacz の表に -är と -er の 2 形あるのは、Levander の表にも見える脚注 b の内容に書かれてあることで、エルヴダーレン語内部のさらに細かい村間の方言差を反映したもので、いまはとにかく -är のほうに注目しよう。これは Levander では a の左側の弧がへこんだような活字が使われているが、それがじつは ä だということである。上掲 Noreen の対応表に立ち戻ってみると、たしかに ‘ä =’ の右側にそのへこんだ a があるのがわかる。ついでに a と e の対応も確認されたい。

第 2 に、現代の正書法でも ą, ę, į, ų のようにオゴネクがついた文字が鼻母音を表すのに使われるが、それに関して観察されることがある。Svenonius (2015), ‘The Morphological Expression of Case in Övdalian’, p. 178, n. 3 に言われているように、Levander の音声表記はあらゆる鼻母音にフック (原文 hook) をつけて明示しているのだが、現代の正書法では m, n の前で規則的に予測可能な場合はそれをつけないのである。それが上の kall の変化表で、Levander が kallęmes, kallęm, kallųmes, kallųm, kallą のように書いているのに対し、Garbacz では既知形複属 kallą にしかオゴネクをつけていない理由である。このことは Levander を読みとくうえで覚えておいてよい。

次に、Levander, s. 25 で女性名詞の最初に出てくる表が次のものである:


これを Garbacz, p. 40 と比べてみると、未知形単数主・対格は buð であると知られる (「小屋」の意。同じパラダイムが Nyström och Sapir (²2015), s. 64 にもある)。つまり、b はそのまま、偏微分の記号 のようなのは ð で、このことはやはり Noreen の対応表どおりである。また母音 u の下にマクロンがあるが、それは現代の正書法には反映しないということだ。

厄介なのは既知形単数与格に見られる、n の下にリングがついたものである。この箇所が Garbacz では buðn(e) と書かれている。つまりここでは = ðn と理解できるが、なぜそうなるかというと現代の Råðdjärum 式正書法ではときどき読まない文字をつづりに含めるためである。ð は n の前で無音になる (Nyström och Sapir, s. 7)。一方 Levander はあくまで発音を厳密に記録したものだから がないのだ。われわれ学習者が読み書きをするうえでは buðn のほうが都合がよい。もし bun と書く決まりだったなら、それが buð の格変化形だとは気づけない恐れがある。

だがこのような場合、語形変化を調べるのに Levander を利用するのは難しいことになる。まずは現代の正書法で規則 (発音も形態論も) をある程度覚えてからでないと、Levander を正しく使うことはできないということだ。身も蓋もない結論であるが、とにかくこういう陥穽が存在することは認識されるべきである。

そのほか、Noreen の対応表のなかで気づいたことをランダムにメモしておく。子音は大枠で見たままとわかったが、ほかにも落とし穴があるためだ。まず ‘h =’ の右に書かれている、λ に少し似た文字だが、これは無声化 l すなわち [l̥] の音を表す記号であって、現代の正書法では (Råðdjärum も Steensland も) h ではなく s または sl である。たとえば Levander, s. 26 の λläkt (ä は例のへこんだ a) は現 släkt、同頁 ie̯kλ は現 ieksl である。h にあたることはたぶんないと思う。


次にこの画像のような下にループのついた ts であるが (s. 30)、Noreen の表には厳密に見あたらない。これは Råðdjärum では tj にあたる破擦音である (Steensland では tş と書く)。すなわちこの単語は現代式では tjya/tşya とつづる (スウェーデン語 fägata「一種の獣道?」)。

また母音字 æ のうち、左側が 2 階建て a のものは ‘e =’、1 階建てのものは ‘ä =’ となっているが、下にブレーヴェがつく半母音 æ̯ はそのかぎりでなく、順に ö, o に対応する。


この左のものは työr、右のものは fuor である (意味は前者が tjära「タール」、後者が fåra「あぜ溝、畝間」。2 例とも s. 28。後者の関係は Garbacz, p. 41 の引く中性名詞 buord によっても確かめられる)。これらはかなりわかりづらい。また は現代式で u のままになる場合も w に対応する場合もあるようだが、よくわからない (母音の前なら w で後なら u?)。一方 , はそのまま i, e のように見える。

エルヴダーレン語は語形変化が多様で、Levander 以上に豊富かつ体系的に表が並べてある参考書が目下存在しないからには、この本に頼りたくなる機会はかなり多いのであるが、しかしそうするためにはこの言語の文法を一定程度身につけることが前提であるという板ばさみの状況である。エルヴダーレン語学習の障壁はいささか以上に高いようだ。

mercredi 17 avril 2019

エルヴダーレン語入門 (2)

出典および凡例については第 1 回のエントリを参照のこと。Nyström och Sapir 第 1 課の続きから。


5. Fem


Og wen ir eð-dar? ではあれは何ですか?

Eð-dar ir įe grån, eð. あれはモミの木です。grån f. = gran c.「モミ、トウヒ、エゾマツ」〔Steensland 式では gron〕。こういう動植物の名前の翻訳は辞書で一対一の単語対応を見ても難しく、間違いかもしれないが、いまはたいした問題ではないので無精させていただく。似た事例のケーススタディとして新谷 (2017)「アンデルセンの Grantræet はモミの木ではない?」を参照のこと。

Ukin ir ą̊ i ferg, ą̊-dar grånę? そのモミの木はどんな色ですか? ukin = vilken, vem, hurdan「どの、どれ、どんな種類の」。grånę は既知形〔この変化は第 8 課〕。3. の an-dar rattjin や 4. の an-dar erin にも見られるように、指示詞 ą̊-dar がつくと既知形になるようだ。

Ą̊ ir fel gryön. それは緑色です。gryön = grön「緑色の」。

Grånär irå gryöner. モミの木は緑色です。grånär は複数主格既知形。irå 現在 3 人称複数 < wårå。gryöner は一致によって女性複数主格形〔形容詞の変化は第 7 課〕。ドイツ語・オランダ語・フリジア語などの西ゲルマン語を除き、叙述用法 (述語位置、i predikativ (självständig) ställning) の形容詞は性数の一致をするから、スウェーデン語話者には自明の事柄であって文法的説明がない。

6. Sjäks


Jär sir an iet aus åv noger. ここではある種の家が見られます。jär sir an = här ser man「ここでは見られる (=人は見る)」〔男性単数の 3 人称代名詞 an は不定の主語にもなる。スウェーデン語では han と man を区別〕、iet aus åv noger = något slags hus (逐語的には ett hus av något)「なんらかの種類の家」。aus n. = hus n. の対応はエルヴダーレン語で語頭の h- が規則的に消えたためで、代名詞 an = han, ą̊ = hon も同様の例。

An dug it sją̊ åv ukk eð-dar auseð ir byggt. その家がなんの素材で建てられているのかわかりません (=見ることができない)。an は前文と同じく不定主語。dug 現在単数? < dugå = duga「する、適する」〔ここでは kunna「できる」の意〕、åv ukk(u) = av vad, av vilket material「何から、どんな素材から」。

Fråmånað ausę ir eð ien kall og įe kelingg. 家のまえに男と女がいます。fråmånað = framför, före「〜の前に」、kall m. = man, karl「男」、kelingg f. = kvinna「女」。ausę は単数与格既知形または複数主・対格既知形、ここでは前者〔前置詞の与格支配〕。動詞 ir が男女 2 人 (英語なら there are) ではなく eð に一致して単数であるのは、スウェーデン語 det är とパラレルとして理解できるか。

Sir du wen dier djärå? 彼らが何をしているかわかりますか? du pron.2sg. = du「君、あなた」、dier pron.3pl. = de「彼ら」。

Ja, dier knupå min ymsu. ええ、いろんなことで忙しくしていますね。knupå = pyssla「(med 〜で) 忙しい」、min = med〔この前置詞は単語欄に出ていないが本当にスウェーデン語話者が推測できるのだろうか? 第 2 課の文法解説 (与格支配の前置詞) に出る〕、ymsu = allt möjligt, både det ena och det andra「あらゆること、あれやこれや」。

Kalln kumb min watusilån og bjär wattneð. 男性は (桶をぶら下げた) 天秤棒を担いで水を運んでいます。watusilå (古く watusili) m. = ok n.「くびき (英 yoke)」、bjär wattneð = bär vatten〔wattneð 既知形 < wattn「水」は意味上は不定なのに定形標識がつく例。Sapir (2006), p. 25〕。

Keliendję stand nest jäldem. 女性は火のそばに立っています。stand 単数現在? < standa = stå「立っている」、nest = hos, vid、jäld m. = eld c.「火」。

Yvyr ånum aindjer eð ien ketil. その (=火の) 上には鍋がかけられています。yvyr ånum = över den m.「それの上に」〔yvyr など若干の場所の前置詞は与格および対格支配で、その使いわけはドイツ語などと同様。代名詞は男性名詞 jäld を受けたもの。ånum は an の与格、第 3 課〕、aindjer 単数現在 < aindja = hänga「吊るす」、ketil m. = gryta c., kittel c.「鍋」。

7. Sju


Eð-dar ir ien byönn. これは熊です。byönn m. = björn c.「熊」。

Byönn bruker wakken i aprill. 熊は 4 月に目覚めるもの (習性) です。bruka = bruka はここでは「〜する習慣である」の意。wakken = vakna、aprill m. = april。

An kuogär autyr åyvę. (それは) 巣穴から外を窺っています。kuogär 単数現在 < kuogå = titta「見る (look, glance, gaze, stare)」、autyr = utantill; utur, ur、åyve n. = ide n.「冬眠の巣穴」〔Steensland 式では åive。語尾 -ę は与格既知形で、「その熊の」という所有が前提されている。中性名詞の格変化は第 6 課〕。

Brukum sją̊ ferdär etter åm, men int so kringgt sos luokkallär bruka. (私たちは) 熊の足跡を見ることができるでしょうが、ロカ村の人々 (がそうしている) ほど頻繁にではありません。brukum 現在 1 人称複数 < bruka〔1・2 人称複数では代名詞主語が省略されることがある。Sapir (2006), p. 30〕、ferd f. = färd; (fot)spår「旅;足跡 (efter 〜の)」、etter = efter, efteråt、åm = honom「彼に、それに」〔an の与格で ånum の別形、第 3 課〕、sos = som, såsom, liksom、luokkallär = lokakarlarna, folket i byn Loka「ロカ村の人々」。

Isn-jär byönn jät ien fisk. この熊は魚を食べています。fisk m. = fisk c.「魚」〔黙って使われているが主格と同形の対格。対格の説明は第 3 課〕。

8. Åtta


Og wen ir eð-dar? それからあれは何ですか?

Eð-dar ir iet baur, eð. あれは倉庫です。baur n. = härbre, visthusbod「倉庫、貯蔵所」。

Og war stand eð-dar baureð? ではその倉庫はどこに立っているのですか。

Nų stand eð iem ą̊ gardem. いまは家の庭に立っています。nų = nu、iem = hem「家 (で)」〔中性名詞および副詞〕、ą̊ gardem = på gården〔gard m. = gård c.「庭」。前置詞 ą̊ は与格支配〕。

Avið it apt eð dar olltiett? いつもはそれはそこにないのですか。avið apt = har ni haft〔avið は åvå の現在 2 複、apt は同じく完了分詞〕。

Näi, för ar eð stendeð auti buðum. ええ、以前は店の外に立っていました。ar 現在単数 < åvå、stendeð = stått、auti = ute, uti、buð f. = affär, bod。否定疑問への同意なので näi「いいえ」は日本語の肯定。

Ir eð iet gåmålt baur? 古い倉庫なのですか? gåmålt は属詞位置で baur に一致し中性単数形。

Ja, eð-dar baureð ir allt liuotgåmålt, eð. ええ、その倉庫は本当に恐ろしく古いものです。liuot- = väldigt「ひどく、とてつもなく (強調)」。

Irið i baurę kringgt? あなたがたはよくその倉庫にいる (来る) のですか。irið 現在 2 人称複数 < wårå。

Näi, irum it dar noð kringgt. いいえ、そう頻繁にはそこにいません (来ません)。irum 現在 1 人称複数 < wårå、it noð kringgt = inte så ofta, sällan「頻繁ではない、めったにない」。

文法


§ 男性名詞、未知形と既知形。

A. M1a (唇音で終わる語):ien kripp — krippin「子ども」、ien wep — wepin

B. M1b (k または子音 + g で終わる語):ien korg — kordjin、ien påyk — påytjin。〔前舌音 i の影響で破擦音になり、正書法にも反映される。〕

C. M1c (歯音・歯茎音・そり舌音で終わる語) と M3f. (母音で終わる語):ien kall — kalln、ien såmår — såmårn、ien uott — uottn、ien eri — erin。〔これら歯音のあとの語末 -n は成節的 stavelsebildande、本書 s. 7。〕

§ 代名詞。人称代名詞、単数 ig, du, an, ą̊, eð; 複数 wįð, ið, dier。〔wįð と ið は省略されることがあり、じっさい上の 7–8. でもいちども現れていない。〕

指示代名詞 isn, isų, ittað(-jär)「これ」、an-dar, ą̊-dar, eð-dar「それ」。

不定冠詞 ien byönn, įe kulla, iet aus。

§ 動詞の現在形

A1 グループ (dalska, spilå)。エルヴダーレン語では非常にしばしば、動詞の主要形 (temaformer) をその不定形から知ることができない。〔エルヴダーレン語の動詞の主要形とは、不定形・現在単数・過去単数・完了分詞の 4 形。〕

スウェーデン語と同じく、エルヴダーレン語には強変化動詞と弱変化動詞がある。弱変化動詞 (A) はここでは 5 つのグループに分けられる。これらのグループのうちもっとも大きいのは A1 の dalska/spilå グループである。dalska 型の動詞は長音節、spilå 型は短音節である。主に次のことが言える:
  • 長音節動詞は語尾 -a (不定形), -er (現在単数形)
  • 短音節動詞は語尾 -å (不定形), -är (現在単数形)
  • 現在 3 人称複数形は不定形と同一。dalska > dier dalska

A1 グループの動詞の現在形は以下の規則に従って活用する:

dalska 型。ig, du, an dalsker, (wįð) dalskum, (ið) dalsk, dier dalska「tala dalmål エルヴダーレン語を話す」。bruka「bruka 使う;〜する習慣である;〜するつもりである」、ietta「heta 〜という名前である」もこの型。

spilå 型。ig, du, an spilär, spilum, spil, dier spilå「spela 遊ぶ」。kuogå「titta 見る」、luvå「lova 約束する、誓う」もこの型。

不規則動詞。重要な動詞 wårå「vara 〜である」と åvå「ha 持っている」は以下のように活用する。wårå: ig, du, an ir, irum, irið, dier irå。åvå: ig, du, an ar, amme, avið, dier åvå。

mardi 16 avril 2019

エルヴダーレン語入門 (1)

スウェーデンのダーラナ県北西部、エルヴダーレン市で数千人によって話されている、エルヴダーレン語 (övdalsk, スウェーデン語 älvdalska, 英語 Elfdalian; エルフダール語とも) という言語がある。伝統的にはスウェーデン語のいち方言と考えられてきたが、スウェーデン語との相互理解可能性はなく、近年ではひとつの言語とみなされてきている。

ゲルマン祖語・ノルド祖語・古ノルド語まではあったが現代のアイスランド語やスウェーデン語などでは総じて失われている鼻母音をいまも保存していることや、これまたアイスランド語・フェーロー語以外では失われている主格・対格・与格の区別を保っていること (属格もいちおうあるもののもはや生産的ではない、この点はフェーロー語と同じ) などのアルカイスム (古拙性) がとくに注目されている興味深い言語である。世界でもっとも遅くまでルーン文字が現用されていた言語でもある (ダーラナ・ルーン、英 Dalecarlian runes)。

ここでは Gunnar Nyström och Yair Sapir, Introduktion till älvdalska, ²2015 に沿ってこの言語の文法を学んでいくことにしよう。テキストは DiVA Portal にて PDF 全文と付属の音声ファイルとがオープンアクセスとなっている (しかし音声はかならずしもテキストと一致していない。おそらく 2005 年の初版とのあいだに異同があるのだろう)。

原文はスウェーデン語による解説であり、スウェーデン語の読者にとって容易に推定されるエルヴダーレン語の単語や文法事項については説明が省かれている。それゆえ以下に記すものはテキストの忠実な翻訳ではなく、日本語の読者にとって必要と思われたこと (そしてついでにスウェーデン語の勉強になること) を適宜補ったノートというべきものである。

正直に言ってこのテキストの解説はかなり不十分であり、その課で (あるいはテキスト全体のどこにも) 説明されていない事項も無数に出てくるので、たとえスウェーデン語の母語感覚があったとしても満足のゆく理解は難しいと思われる (ヨーロッパの語学入門書にありがちな、母語の類推でなんとなくわかったまま進めていくスタイル。弊害も多いが、人工的でなくまともな内容のある文を序盤から出せるという利点がある)。

したがって以下の日本語部分は括弧〔・〕の有無を問わず大半が私じしんのコメントである。そのさい Steensland のエルヴダーレン語–スウェーデン語辞典 Älvdalsk ordbok を頻繁に活用したことと、時に応じて Lars Levander (1909), Älvdalsmålet i Dalarna など若干の文献を参照したことを記しておく。

重大な注意として、エルヴダーレン語の正書法はいまだ確立されておらず、エルヴダーレン語言語評議会 Råðdjärum によるものと、2 人の著者 Steensland および Åkerberg それぞれのもの (いずれの人物にもこの言語の辞書や文法書などの著作があり、そこで採用されている) との合計 3 つが並立しているという状況のようである。ここで扱っているのは Råðdjärum 式だが上掲のオンライン辞書は Steensland 式なので使いかたには習熟を要する。

また、エルヴダーレン語には時代に応じて 3 期の区分が行われている。すなわち 20 世紀初頭まで使われており上掲 Levander (1909) の記述した古典エルヴダーレン語 klassisk älvdalska、おおよそ 1920–50 年生まれの話者が話す格変化を若干失った伝統的エルヴダーレン語 traditionell älvdalska、そしてそれ以降の世代の話者の現代エルヴダーレン語 modern älvdalska の 3 つである (時期区分については Garbacz (2010), ‘Word Order in Övdalian’, esp. pp. 35f.)。

しかし現在盛んな再活性化 revitalisering の運動のただなかにあるこの言語では、古風な特徴をとどめた古典エルヴダーレン語に大きな敬意が払われており、Nyström och Sapir で概説されているのも、Bo Westling 訳『星の王子さま』Lisslprinsn (初版 2007 年、改訂版 2015 年) が書かれているのもこの文法なのである。百年以上まえの Levander (1985 年にリプリントされた) をいまも参考にしうるのはこのゆえである。


第 1 課 (Fuost leksiuon)


1. Iett


Wen ir ittað-jär? これは何ですか? wen = vad「何」、ittað-jär n. = det här「これ (中性)」〔男性 isn-jär, 女性 isų-jär とともに 3 性を区別する〕。ir は be 動詞 wårå の現在単数形。

Ittað-jär ir įe kulla. これは少女です。kulla f. = flicka c.「少女」。įe は女性の不定冠詞。

Ur ietter isų-jär kullą? この少女はなんという名前ですか? ur = hur「どのように」〔スウェーデン語では vad heter と「何」を使う〕、ietter 現在単数 < ietta = heta「という名前である」。kullą は kulla の既知形〔弱変化女性名詞の既知形は第 3 課〕。

Ą̊ ietter Emma. 彼女はエンマといいます。ą̊ pron.f.sg. = hon, den f.「彼女、それ (女性名詞)」。

Ur gåmål ir ą̊? 彼女は何歳ですか。gåmål = gammal「古い、歳をとった」。

Eð ir it guott witå. それは簡単にはわかりません。eð pron.n.sg. = det「それ」、it = inte「〜ない」、guott 中性単数 < guoð = god「よい」、witå = veta「知る」。単語欄にこの全体が det är inte lätt att veta とあるのでそれを訳したが、エルヴダーレン語文を直訳すれば it is not good [to] know.  英語の to にあたる不定詞標識 te = att が省略されている (Sapir (2006), ‘Elfdalian, the Vernacular of Övdaln’, p. 30 を見よ)。

Ą̊ ir ellåv år, truor ig. 彼女は 11 歳だと思います。ellåv = elva「11」、år n. = år n.「年」、truor 単数現在 < truo = tro「思う、信じる」〔この動詞の活用は第 4 課〕、ig pron. = jag「私」。

Ą̊ sir aut so ny̨ögd og glað. 彼女はとても喜んでいてうれしそうに見えます。sir 単数現在 < sją̊ = se「見る」、aut = ut〔sją̊ aut = se ut「に見える」。sją̊ は Steensland 式の綴字法では sjǫ〕、so = så、ny̨ögd = nöjd「満足した、喜んだ (nöja の過去分詞)」、og = och、glað = glad「うれしい」。

Emma baðer i sju’mm kringgt. エンマはよく湖で (?) 水浴びをします。baðer < baða = bada「入浴する、水浴びする」、kringgt = ofta「しばしば」。sju’mm がわからず、sju m. = sjö c.「湖」の複数与格かと推測〔第 9 課 tjyr の複数与格 tjy’mm に比するか。Levander, s. 23 には sju の完全なパラダイムも載っているが、彼はたいへんややこしい文字表記を用いているため判断がつかない〕。

2. Twå


Wen ir ittað-jär? これは何ですか?

Ittað-jär ir ien påyk. これは少年です。påyk m. = pojke c.「少年」〔Steensland 式では påik。この語は明らかにフィンランド語 poika からの借用である〕。ien は男性の不定冠詞。

Wen bruker isn-jär påytjin djärå? この少年は何をしようとしているのですか? bruker 単数現在 < bruka = använda, bruka「使う、利用する」、しかしここでは英 will の意か。påytjin は påyk の既知形〔k > tj の発音変化はフェーロー語と同じだが、綴り字に反映されるところが向こうと違っている〕。djärå = göra, arbete「する、行う」〔Steensland 式では dşärå、Åkerberg 式では dşäro〕。

An bruker renn ą̊ skrikkskuo’mm. 彼はスケートをするつもりです。an pron.m.sg. = han, den m.「彼、それ (男性名詞)」、renn ą̊ skrikkskuo’mm = åka skridskor「スケートをする」〔ą̊ は与格支配の前置詞、この -’mm も複数与格語尾か〕。

Ur ietter eð an ar ą̊ nevum? 彼が手に持っている (つけている?) ものはなんという名前ですか? ar 単数現在 < åvå = ha「持っている」、ą̊ nevum = på händerna「(両) 手に」〔nevi (若い世代で nevå) m. = hand c.「手」〕。

Eð ir fel uottär. 手袋ですよ。fel = väl, ju, nog、uottär 複数主格既知形 < uott = vante c.「手袋」〔一見わかりづらいが PG. *wantuz > ON. vǫttr, vantr に遡る同源語。älv. および isl. vöttur, før. vøttur では nt > tt の同化が起こったため。男性複数形の説明は第 4 課〕。

3. Tri


Wen ir ittað-jär för iet krytyr? これは何の動物ですか? krytyr n. = djur n., kreatur n.「動物」。iet は中性の不定冠詞。för は調べがつかず、しかし会話の流れから見てこのようにしかとれないだろう。

Ittað-jär ir ien rakke. これは犬です。rakke m. = hund「犬」。

An-dar rattjin ir it stur, an itjä. その犬は大きくはありません。an-dar m. = den där m.「それ、その」〔同様に女性 ą̊-dar, 中性 eð-dar〕、rattjin は rakke の既知形。itjä も否定詞で、ここでは代名詞と否定詞が繰りかえされている (このような反復については Sapir 前掲論文 p. 30 に説明がある)。

Kanstji eð ir ien wep? おそらくこれは仔犬では? kanstji = kanske「たぶん、おそらく」、wep m. = valp c.「仔犬;動物の仔」。

An swisker rumpun, dar nogär kumb. 誰かが近づけば尻尾を振ります。swisk(a) rumpun = vifta med svansen「尻尾を振る」〔rumpa f. = svans c.「尻尾」〕、dar = när「〜するとき」、nogär = någon、kumb 単数現在 < kumå = komma「来る」〔kumå の活用は第 8 課。しかし、ここではなく後掲 6. の会話には kumb = kommer の注釈がある〕。

4. Fyra


Og wen ir eð-dar för krytyr? それからあれは何の動物ですか? やはり för の意味がとれず。しかもなぜ不定冠詞 iet が消えたのか?

Eð-dar ir ien eri. それは兎です。eri m. = hare c.「野兎」。

An ir it stur an eld! それはぜんぜん大きくありません。eld = eller, heller。2 つめの an は不明、代名詞の反復ならばほかの例ではコンマが前置されているが……?

War sit an-dar erin noger? その兎はどこに (座って) いますか? war = var「どこ」、sit 単数現在? < sittja, sitta = sitta「座っている、いる」、noger = någonstans「どこか」?

An sit fel nið ą̊ bokkam, i grasį. 野原に (座って) いますよ、茂みのなかに。nið ą̊ bokkam = på marken「地面に、野原に」〔bokka m. = mark c.「野原」〕、i grasį = i gräset「草のなかに」〔gras n. = gräs n.「草」。grasį は単数与格既知形〕。

An jät graseð, an. それは草を食べます。jät 単数現在 < jätå = äta「食べる」。graseð は gras の単数対格既知形〔中性名詞の語形変化は第 6 課〕。

Itjä ir erin slaik i ferg olltiett? 野兎はいつもこのような色をしていないのではありませんか? itjä = inte, icke〔Steensland 式では itşä〕、erin ir slaik i ferg = haren har sådan färg〔slaik = sådan「その (この) ような」、ferga f. = färg c.「色」〕、olltiett = alltid, hela tiden。

Näi, slaik ir an, dar såmårn ir. ええ、夏にはこんなふうなのです。dar såmårn ir = på sommaren (逐語的には när sommaren är)「夏に (=夏であるとき)」。

Um wittern ir an wait. 冬には白いです。witter m. = vinter c.「冬」〔um wittern = på vintern; um wittrą = på vintrarna〕、wait = vit「白い」。

Du lär fel witå ur erir uppa? 兎がどのように跳ねるかはよくご存知ですね? lär 単数現在? < lära = lära「教える;学ぶ」、erir = harar(na) 複数未知形および既知形、uppa = hoppa「跳ねる」。

jeudi 11 avril 2019

知識の効用――森博嗣『デボラ、眠っているのか?』感想

森博嗣の W シリーズ第 4 作『デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping?』(講談社、2016 年) を読了したので、前巻の感想と同じくネタバレ込みで思いついたところを書き残しておきたいと思う。前巻読了後すぐに読みはじめたのだが、いろいろあってまるまる 3 ヶ月も要してしまった。

前巻『風は青海を渡るのか?』はどうにも中だるみの感が否めなかったが、本巻は冒頭からトップスピードのアクションに始まり、終盤にはまたド派手な銃撃戦がハギリたちを巻きこんで繰り広げられる、ダイナミックで読みごたえあるガンアクション・サスペンスである。

そんな硝煙の匂い漂う――といってもこの時代の銃の弾薬や発射機構がどんなものかは定かでないが――シーンのさなかでも、しっかりとハギリに格好いい見せ場があるところが小気味いい。
「もう、そんな状況じゃない」僕は首をふった。「このシェルの物質は何だ? デボラ、これを見たか? このシェルの材質だよ」
 サリノはそれに触れた。僕はほとんど目が開けていられない。しかし、サリノの赤い瞳が輝いているのはわかった。
「ビスコ・プラスティック・レジンです。今は使われていない。百年以上まえの製品です」サリノが答える。
「厚さは?」
「不明です。弾性波が減衰するため測定できません」
「アネバネがこの上に乗って、足が沈みそうになった。降伏値がかなり小さい」
「この形状を維持するために必要な降伏値は、推定ですが、十から五十キロパスカル。このデータが何の役に立ちますか?」
「五十キロパスカル? えっと、ニュートン・パー・スクエアメートルでいうと?」
「五万」
「粘性は?」
「構造だけからは計算できませんが、弾丸を止めるためには……」(206–207 頁)
たぶん、弾性力学や材料力学のような分野の言葉なのだろうが、降伏値という術語を私はここではじめて知った。こういう見慣れぬ未知の用語が出てきて、しかもそれが解決に決定的な役割を果たす、そこが森作品の白眉だと私は思っている。

十何年もまえに、『すべてが F になる』をはじめて読んだときのあの感動が、この場面で鮮やかに胸に蘇るのだ。「違う……。インクリメントイコールのはずだ」「変数型は?」「たぶん、インティジャだ」「グローバルの……、えっと、スタティックですね。インティジャだわ」「ロング?」「いえ、ショート。アンサインド・ショート」(文庫版 413–416 頁より抜粋)。プログラミングに触れたこともなかった当時の私には――いまもたいして変わらないが――ほとんど意味のわからないやりとりだったけれども、読んでなんだか胸が熱くなったのを覚えている。そして西之園さんの暗算。いま読んだってたとえようもなく格好いい。

今回行われたビスコ・プラスティック・レジンの降伏値のくだりは、まさにこの場面の、およそ 250 年の時を超えてなされた再演なのではないか? ハギリが犀川、デボラが島田文子と西之園萌絵の兼役で、ぴたりと一致しているような気がする。計算を押しつけるところまでそっくりである (しかしパスカルは定義上ニュートン・パー・スクエアメートル N/m² と同じなので、ただ 50 k = 50 000 という、西之園さんでなくても誰でも暗算できることをわざわざやらせてしまうのが彼のとぼけたところだ)。

というわけで、この W シリーズはミステリィの枠を軽々と踏みこえていってしまったけれども、それでも森作品の永久の称号たる「理系ミステリィ」の根幹はこうしていまも失われず脈々と受けつがれていると感じるのだ。すなわち、かつてのイル・サン・ジャックらしきこの陸繋島でも 250 年まえの妃真加島でも、知識をもとにした発想が事件解決を決定づけている。もちろんその着想に至るところがハギリ/犀川の優れた能力なのだが、それは前提の知識がなければ絶対に思いつかないところだ。したがって知識は力なり、を地で行く展開であると言えよう。

もっとも森先生じしんは、理系の学問というのは知識ではない、少なくともその比重が文系よりも小さい、というようなことをいつか語っていたように記憶しているので、私のこのような理解は噴飯ものかもしれないが。

さて話は変わるが、読書メーターで人々の感想を読むかぎり、エピローグのウグイの様変わりについては何十人もの人たちが「かわいい」という意見で一致している。巻が進むごとに彼女は変化している。舌を出すというサプライズもそうだし、「見ますよぉ」という間延びした話しかた。だが私はここを読んだ瞬間、かわいいと感じるよりさきにぞっとしてしまった。だって、本巻のテーマといえるトランスファによる身体の乗っとりの事例をいくつも見せられてきた矢先のことなので、すわ大変なことになったと早合点してしまうではないか。それにウグイは 36 頁で「いいえ。あまり夢は見ません」と明言していたので、発言が矛盾しているということにもただちに思い至ったのだ。

しかし少し考えてみればこれは杞憂であると知れる。というのも、ウォーカロンと人間の識別問題の専門家であるハギリがこのウグイの挙措を見て、「これが人間というものか」と断定しているからだ。ウォーカロンならばこのように舌を出すなど思いつきもしない――それには百年かかる――と。前々巻の感想で述べた内容に関連するが、天才ハギリがそう結論する以上、ウグイの人間たることは揺るぎようがないし、読者はそれを信じてよいのである。そう思ってみれば、矛盾した発言というのも人間特有の行いだと承知される。人間より優れた人工知能であればこのようなケアレスミスはしないであろう。第 1 巻で言われたアンチ・オプティマイズ=反最適化 (第 1 巻 44 頁) がその出力を求めないかぎりは。

そういえば本巻ではアネバネも人間であることがとくに強調されたように思う。178 頁で「その情報は初耳です」という彼にしては余分なコメントを述べた件に代表されるように、これまでになかった意外な言動をいくつかとっていたし、ハギリも何度かアネバネが人間だと明言した。

しかるにハギリではなく読者の私たちがウグイやアネバネを「人間らしく」なってきたと感じるのはなにゆえだろうか。それまでしてこなかった行動をとるようになり、変わっていく、ということが人間らしさなのか? あるいは意想外の行動をとることそのものが? そんなに単純な話ではないことは、W シリーズをこれまで読んできた読者ならば誰もが了解しているはずである。

もともと最初の巻では「機械じみた」人格と思わされていた彼らがだんだん「人間らしい」と感じさせられてきている、そういう情報の出しかたをしている、そこに心理的な仕掛けやトリックが存するように思えてならない。なんのためにそうするかと言えば、もちろん本シリーズに通底する大テーマである、人間とウォーカロンの違い (のなさ) という問題を際立たせるためであろう。

最後にもうひとつ。次のくだりなどは、G シリーズで海月及介などの洞察として、何度も繰りかえし言われてきたことである。本巻ではとうとうハギリもこの気づきに至ったのだ。
 僕たちがどう考えても、もう遅いのかもしれない。
 ずっと以前に、このプロジェクトを考案し、準備をし、少しずつ実現に向かって進めてきた輝かしい知能が存在したのだ。
 誰も、彼女の意図を見通せなかった。あまりにも長いスパンを持って計画されたものだったからだ。(175 頁)
いまが佳境で、これからが最終段階という。ハギリが目撃することになる、G シリーズの行く末を見逃さないよう、注意深く次の巻へと進んでいこう。


本巻『デボラ、眠っているのか?』の表紙画にある英文の翻刻と本文におけるその対応箇所は次のとおり。なお後者は字が強くにじんだ加工をされており大部分が判読不能で、ほとんど文字数だけしかわからないが、なんとか対応するであろう本文に照らして英訳を推定した。
“Fragile,more than my expectation.”〔コンマのあとスペースなし sic〕
“What is?”
“I am.”
“Contrary to my expectation.”
「意外に繊細なんだ」
「誰がですか?」
「私が」
「意外です」(32 頁)
Because there is a life, we take it.
Because we live, we kill.
命なんてものがあるから、それを奪い合う。
生きているから、殺し合う。(183–184 頁)