dimanche 18 juin 2023

ハーヴェステラ資料翻訳集成 (2) 楽園の終わり 四十一篇『遡行』

本稿では「楽園の終わり 四十一篇『遡行』」を対象とする。順番からいけば「十二篇」を扱うべきところだが、それについては前回簡単に触れてしまったのと、その意味するところは『楽園の遺書の断片』で種明かしがなされてしまっているので、新しく語りうることが少ないと思われたからである。

全体の目次リンクは「序論」冒頭部をご参照いただきたい。


日本語版:楽園の終わり 四十一篇『遡行』

楽園の終わりと呼ばれる説話集のひとつ。

『その楽園では 遡行を求めた……。

 赤き蛇が やってきた頃
 その楽園には 赤子の骸しかなかった。

 「時の遡行は 偽りだ。」
 「この場所にはなにもない。
  こんなものでは 私のイヴは……」

 罪人が赤き蛇を見ていた。
 罪人は 自らの罪を告白する。
 蛇は つまらなさそうに嘆息すると
 罪人に 銀の林檎を渡した。

 かくして罪人もまた楽園を後にした……』

日本語版の分析 (1):遡行の真実


「赤子の骸」と言われると非常にショッキングな絵面ではあるが、これは文字どおりの嬰児殺しではない。『遡行』と題されているこのエピソードの真実は、一言でいえば『ベンジャミン・バトン』(The Curious Case of Benjamin Button) であろう。この映画ないし短編小説をご存知ないかたのために簡単に説明すると、生まれたときに 80 歳の老人の姿であった表題の人物が、年を経るごとにだんだん若返っていって、最後には赤子の姿となって老衰で死ぬという設定である。

したがって、ここに言われている赤ん坊の遺体というのは、実際には寿命で死んだ老人たちということになるはずで、それほどおぞましい話ではない。あるいはベンジャミンよりももっと急速に若返ってしまったのかもしれないが、ともかく赤子殺しはなかったという結論じたいは動かないであろう。

体が若返っていくことを「遡行」と呼んだとして、これは世界の時間そのものを巻き戻せたわけではない。「赤き蛇」とあだ名される赤髪の青年が落胆しているのもそれが理由である。彼はおそらく、イヴが病気になるまえの時点にまで戻ってその原因を排除する、といったことを夢見ていたのだと思われる。「こんなものでは私のイヴは……」のあとには、「助けられない」といった主旨の言葉が予期される。


日本語版の分析 (2):楽園を滅ぼさぬ蛇


この第 41 篇の描く楽園は、青年が訪れた時点ですでに破滅していたという点が特徴といえるかもしれない。といっても私たちの知りうるのはたった 5 篇ではあるのだが、枠物語の外枠にも似た最初の第 1 篇と最後の第 118 篇を除けば、各篇は青年がひとつの楽園を訪れてはそこがなんらかの原因で滅びていく、という構成になっているはずであると、『プロジェクト凍結のお知らせ』の記す「寓話製造プロジェクト」の趣旨に従えばそのように想定されるのである。

ところでイヴ・楽園・蛇といったキーワードは明らかに旧約聖書の失楽園の物語にもとづいている。いま私は、現実世界においてシナリオライターはそれを元ネタにしたのだ、というメタ的な話をしているのではない。『ハーヴェステラ』の作中の地球=ロストガイアはフィクションではあるが現実の地球をモデルにしており、その世界には旧約聖書もあった (現にアリアが言及している)。したがって作中の『楽園の終わり』の書き手や読み手がもつであろう蛇に対するイメージもその影響を引きずっており、私たちの思うそれといささかの違いもなく、基本的には「楽園の暮らしを終わらせる元凶」たる悪者として観念されていると思われる。そのように考えると、第 41 篇の顛末が特異だと推定したくなるのも道理であろう。

だがこの寓話集の裏面には現実の楽園群に起こった史実があることを忘れてはならない。プロジェクトの趣旨から見て、楽園滅亡の原因については虚構はないはずであることを再確認しよう。したがってソフィアがこの寓話集を書いたとき、蛇というものは楽園を擾乱するものだという固定観念がいかに強力でも、事実を曲げてまで蛇を元凶に仕立てることは許容されなかったわけである。青年以外の原因によって滅びた楽園については、そのとおり記さなければならないという制約があった。そうすると案外、『楽園の終わり』には赤き蛇が原因で滅びるエピソードは多くないのかもしれない。

滅亡原因を偽ることができない以上、滅亡に彼が加担していないような楽園においてまで銀の林檎を原因かのように物語ることは寓話集制作の趣旨に真っ向から反してしまう。そのように考えてみると、じつはこの第 41 篇の結末の情報不足も理解できるように思われるのである。


日本語版の分析 (3):罪人は林檎を食べたか


赤髪の青年はすべてが終わったあとの楽園に到来して、ただひとり残っていた「罪人」に林檎を渡す。だが罪人ははたしてこの林檎を食べたのか、食べたならこの人になにが起こったのか。このエピソードで銀の林檎の作用についていっさい触れられていないことは、第 12 篇や第 75 篇と鋭い対照をなしており、大きな問題である。最終行では例に漏れず「罪人もまた楽園を後にした」からには、おそらく死なずに「棺の国」に参加したのかもしれないが、その決断が林檎と関係があるのかどうかもわからない。それに第 118 篇の表現と比較すればここで「罪人」は死んだという解釈も成り立ちうる。本当のところ生死さえ定かでないのである。

このあやふやさの原因こそ、以下の点に求められるのではないか。この楽園において、青年と林檎は滅亡になんら関与していない。それは史実である。それでも連続する全 118 篇の寓話集という体裁をとる以上、全体を引っぱる役割を担うシンボルである赤髪の青年と銀の林檎が不在では物語の結びつきが損なわれてしまう。そこで実際には役割を果たさなかったものを無理やり登場させたために、具体的なことをなにも語れなかったということは考えられないだろうか。

すなわち、本当は銀の林檎は渡されなかった、あるいはそもそも赤髪の青年は 41 番楽園を訪れなかった、という可能性さえ浮かんでくる。ただ、第 1 篇で論じたように私の理解ではソフィアにそこまで自由な物語の改変はできなかったと考えるので、後者は少々行きすぎである。この第 41 篇には失望した青年のセリフが 3 行用意されているが、これは本当に青年が語った言葉であるとみなしたい (供述資料説)。

これに対して林檎が渡されなかった可能性は十分あるとみている。理由は 2 つで、林檎が本当に使われたなら口にした結果まで記すほうが自然であるというのがひとつ。もうひとつは、「蛇は楽園の住人に林檎を食べることをそそのかすもの」との聖書的常識を知悉しているソフィアが、この定式を全編にわたり墨守することに凝り固まっていた、ということはいかにもありそうだからである。あるいはソフィアがそのように頭が固いのでないとしても、寓話集としての統一性を保つために意図的にそうしたのだと考えてもよい。そしてこのように考えてこそ、この第 41 篇における林檎の役割の空疎さに説明がつくというのが私の見解である。


英語版:End of Eden XLI: Time Travel

A story from The End of Eden:
“The Eden that sought time travel...
By the time the red serpent arrives,
there was naught but the corpses of
babies. ‘Time travel is a lie.’
‘There is nothing here. My Eve would not
be in such a place...’ The sinner looks
to the snake and confesses their sins.
The snake yawns, disinterested, and
hands them a silver apple. And so, the
sinner, too, left paradise behind...”

フランス語版:Fin d’Eden : Rétrospective

Une histoire tirée de la Fin d’Eden :
« L’Eden qui convoitait le voyage dans
le temps... Lorsque le serpent rouge
arrive, l’Eden est jonché de cadavres de
nourrissons. “Le voyage dans le temps
est un mensonge.” “Il n’y a rien ici.
Jamais mon Ève ne viendrait dans ce lieu
maudit...” Le pécheur se tourne vers le
serpent et confesse ses péchés. Le
serpent, indifférent, bâille et lui tend
une pomme argentée. Et c’est ainsi que
le pécheur quitta également le
paradis... »

ドイツ語版:Edens Ende XLI: Zeitreise

Eine Geschichte vom Ende Edens: „Das
Eden, das Zeitreisen suchte ... Als die
rote Schlange eintraf, gab es nichts
mehr als die Leichen der Babys.
‚Zeitreisen sind eine Lüge.‘ ‚Hier ist
nichts. An so einem Ort würde sich meine
Eva nicht aufhalten ...‘ Der Sünder sah
zur Schlange und beichtete seine Sünden.
Die Schlange gähnte gelangweilt und
reichte ihm einen silbernen Apfel.
So verließ der Sünder das Paradies ...“

スペイン語版:Fin de Eden XLI: Viaje temp.

Historia del fin de Eden:
El Eden que buscó viajar en el tiempo...
«Cuando la serpiente roja llegó, no había
más que cadáveres de bebés. “Los viajes
en el tiempo son mentira”, “No hay
nada aquí, mi Eva no se quedaría en un
lugar así...”. El pecador mira a la
serpiente y confiesa sus pecados. La
serpiente bosteza y le da una manzana
plateada. Y así, el pecador también
abandonó el paraíso...».

欧米語版の分析:行方知れずになったイヴ


まずはタイトルについて一言。英語版の Time Travel およびそれを訳した独 Zeitreise, 西 Viaje temp[oral] は文字どおり「時間旅行」であって、あまり適切ではないように思われる。どうやら英語では「遡行」を名詞 1 語で表すことが難しいようだ。フランス語の Rétrospective は文字どおり「後ろを (rétro-) 見る (spect-)」というわけで「回顧」の意味だが、ただ振りかえって見るだけではこれも「遡行」とはズレがある (また本文第 1 行では仏訳も「時間旅行」le voyage dans le temps と言っている)。同じ retro- を使うのであれば、私としては英訳に retrogression「後戻り、逆行」を提案したい。

「罪人」の性別は英語版では単数の they を使うことで明示を回避している。しかしこの努力にもかかわらず仏・独・西訳は男性の罪人にしている。なおこの「罪人」を表す語、英 sinner, 独 Sünder, 仏 pécheur, 西 pecador は法的な「犯罪者」ではなくて、道徳的・宗教的な「つみびとを表す語であることは注目に値する。とはいえこれをもって楽園時代に国家の法が機能していなかったとまでは言えまい。わかるのは、刑法上も罪になったかもしれないがそれ以上に道義上の罪咎をここでは問題にした、ということだけである。

「赤子の骸」のくだりについて、英・独・西は日本語版と同じく「〜しかなかった」を直訳しているが、フランス語版だけはそのショッキングさを引き立てるように「その楽園は乳飲み子の骸で埋めつくされていた」と言っており、これと関連して青年の発言中「この場所」にあたる部分に「呪わしき」という形容詞が付け足されている。次に述べる相違点ともあわせて、フランス語訳には強く感情が出ているといえる。

翻訳中もっとも大きな違いは青年のセリフの最終行である。日本語では「こんなものでは私のイヴは……」という部分が、英語では ‘My Eve would not be in such a place...’「私のイヴならこんな場所にいはしないだろう」となっている。またドイツ語とスペイン語もおおよそ同義だが、独 sich aufhalten, 西 quedarse という、つまり「とどまる、居残る」という再帰動詞を使っていて、いくぶん長い時間の滞在 (をしないこと) を考えている。そしてフランス語訳は上述したとおり maudit「呪われた」という形容詞と jamais「決して」という語を、それも文頭に出してきわめて強調しているほか、動詞に venir「来る」を用いているという違いがある:「私のイヴならこんな呪わしき地に来ることは絶対にありえないだろう」。

ちなみに動詞は英語では仮定法 would になっており、それを反映してドイツ語訳は接続法 II 式 würde、スペイン語は直説法過去未来 se quedaría、フランス語は条件法現在 viendrait である。いずれも仮定の感じが隠されていて、「私のイヴだったら」こんな場所にいたり来たりとどまったりはしないという表現である。イヴはいま青年とともにいないということがこの活用形だけで読みとれるわけだが、それに関連してもっと根本的な問題がある。

このように動詞からしてさまざまに食い違うのは、そもそも日本語が「イヴは……」というふうに述語をぼかしていたことが原因である。そしてそのせいで英訳者は文意を正しく汲みとれなかったと見える。いないもなにも、べつに青年はイヴを探しているのではなかったはずだ。イヴの居場所は最初からわかっており、彼はイヴの治療法を探して旅に出たのである。日本語版の原文は「こんなものでは」であり、つまりこの楽園の研究成果である「遡行」によっては「イヴは助けられない」という話だったはずだが、欧米語版ではイヴが行方不明になってしまったようだ。

改めて考えてみれば、日本語の「もの」と「こと」の区別は母語話者にとっても難しい。まして英語話者から見ればどちらも thing である。かりにここを「こんなことでは私のイヴは……」と思ってみると、「見つけようがない」と続いたとしても不自然ではない。それでも「……」の続きが具体的であれば困難はなかっただろうが、この言葉足らずのために解釈が難しくなり、誤訳が生じてしまったのかもしれない。

samedi 17 juin 2023

ハーヴェステラ資料翻訳集成 (1) 楽園の終わり 一篇『永遠』

第 0 番という番号をつけた「序論」からはや半年以上。ずいぶんと続きの執筆を遅らせてしまいました。アクセス履歴によればこの間にも「序論」や「人物名鑑」をご覧になりに訪れてくれたかたは毎日のようにおられ、『ハーヴェステラ』のファン層の熱心さを日々感じつつ、早く書かねばという焦りを募らせていました。こうしてようやく本論に着手することができて少しだけ肩の荷が下りた思いです。

本稿では「楽園の終わり 一篇『永遠』」を扱います。目次は「序論」の冒頭部のリストによって兼ねるので、そちらをご利用ください。


『楽園の終わり』の史実性


本論に入るまえに最初にはっきりさせておくと、『楽園の終わり』はあくまで高次人工知能ソフィアが編纂した寓話集であるから、書かれていることすべてをそのまま事実の記録と受けとるわけにはゆかない。どこまでが実際の事実でどこからが脚色かを判断するための材料にも乏しいために、扱いには十分な注意を要する難しい文書群だといえる。

とは言っておきながら、その困難はかなりな程度緩和されうると楽観的に見ることもできる。理由はいくつかあり、『楽園の遺書の断片』や『蒼き髪の挟まった手記』などべつの資料による記録から内容をクロスチェックしうること、また滅亡を避けるための教訓物語として用意された以上、滅亡原因については確実に事実をもとにしていると考えられることが挙げられるが、これまで指摘されていないと思われるもうひとつの根拠がある。それはまさしく編纂者が人工知能だということに起因しており、これらは「寓話集」と名乗ってはいるのだが、本物の寓話に見られるような比喩性や創作性が低いように見受けられることである。

顕著なのは、われわれがアクセスしうる 5 篇を見るかぎり、この寓話集には動物がまったくと言っていいほど登場しない点である。唯一の例外と見える「赤き蛇」というのも実際には「赤髪の青年」のあだ名にすぎず、あとは諍いを続ける「六十四」の人物 (第 12 篇)、「赤子の骸」を作りだした遡行の「罪人」(第 41 篇)、楽園からの脱出を求める人々と、無限を生きのびた「無垢なる乙女」(第 75 篇)、そしてこの第 1 篇に現れる「蒼き髪の乙女」、「医師」、「不治の病に横たわる人々」、どれもこれも通常の人間である。ただひとり神的な存在である「翼の少女」さえ、れっきとした現実の存在であることを私たちは知っている。この寓話集にはひとり残らず実在性の高い人物しか出てきていないのである。

人工知能であるソフィアは、ファンタジックな物語を創作するような想像力にはまったく欠けていたのだと思われる (2023 年に生きるわれわれは画像生成 AI や ChatGPT の飛躍的な発展を知っているが、本作はそれらの擡頭以前に作られたという文脈を含みおかれたい)。彼女がしたこととはつまり、現実の記録をもとにちょっと名前をぼかしたりするくらいの浅い加工であって、この「寓話集」にはほとんど実際のできごとがそのまま描かれているのだ、というのが私の考えである。

『プロジェクト凍結のお知らせ』においてこのプロジェクトが「アベル種に対する不適切な情報開示の恐れ」を理由として凍結されたことからもこのことは裏づけられる。漏れてはならない真の情報がかなり判明に読みとれてしまうからこそこのような処置が下ったわけで、裏を返せばこの「寓話集」からは相当程度の事実を読みとってよいということになろう。

もう 1 点思いおこされたいのは、ソフィアはのちに季石教団の教母「マザー」となって君臨するが、その宗教の教典として彼女は『汎化聖典』を、地球の歴史上の諸宗教の教典から継ぎ接ぎして作ったということである。ここでも彼女はもともとある文書を切り貼りして編集する能力には長けているが、一からまったく新しいものを執筆する創造力を発揮してはいないのである。


日本語版:楽園の終わり 一篇『永遠』

楽園の終わりと呼ばれる説話集のひとつ。

『その楽園では 永遠を求めた……。
 不治の病に 横たわる人々。
 蒼き髪の乙女と 傍らの医師。
 「妹君の生命はもう……」
 くずおれる赤髪の青年。

 禁断の銀の果実を手にした青年を
 翼の少女が止める。
 「絶望を手に どこへいこうというの?」
 「決まっている。別の楽園へ」

 かくして 彼は楽園を後にした……』

日本語版の分析 (1):ソフィアはどのようにして知りえたか


全部で 118 篇ある『楽園の終わり』のなかでも、この第 1 篇はとりわけ脚色の少ない写実的な語りだと評価できる。前半における「赤髪の青年」「蒼き髪の乙女」そして「医師」の 3 名のやりとりは、『蒼き髪の挟まった手記』の語るところとぴったり符合している。ただし乙女が青年の「妹」と呼ばれている点についてだけは、『手記』に見られる表現と比べて幾分か疑義を挟む余地がある。それに関しては『手記』の分析で改めて触れることにしよう。

医師と、病人と、彼女に親しい青年と。この余命宣告の場面が史実にもとづくことはともかく確かだが、不可解なのはどのようにして著者であるソフィアがそれを知ったかという点である。可能性としてはざっと 3 つほど想定できる。そしてこれらは排反ではなくすべて同時に成立しうる。

ひとつはソフィアがこの場面を直接目撃した、あるいは電磁的記録によって見聞きしたというもの (次回以降の議論の便宜のため、直接見聞説と名づけておく)。患者のプライバシー保護を考えると肯いがたい可能性ではあるが、山ほどの病人がいる終末世界において倫理観が低下していたということは随所で確認できる事実である (星核螺旋研究所のレポートでは、意識のないアリアを被検体「チャイルドフッド 1」としたことに触れて、「世相が平和なら人権意識が問われる所だが、もうそんなことを言っていられる状況ではない」と告白している)。

少々想像の行きすぎかもしれないが、ソフィア自身がもともと医療用 AI であって現場に居あわせていたとか、診察記録へのアクセス権があったといったこともありえなくはない。そんなことを考えるのは、アベル種人類のために寓話集を独自に立案し、のちにマザーとなる彼女の面倒見のよさや人類への慈しみを知っているからである (本作のプレーヤーには言うまでもないことだが、人工知能たちには「個性」がありそれぞれ考えかたが違っている。魔族にクラウドという用語があったとおり、任務によっても思考の傾向は方向づけられている)。

第 2 の線としては、『蒼き髪の挟まった手記』に直接依拠して書かれたというもの (手記資料説)。これがおそらくいちばん思いつきやすい可能性であろう。しかし私としてこれが本命とは思えないのは、ソフィアが参照したにしては『手記』が研究所の床に打ち捨てられていたのはおかしいという点である。ソフィアが読んでからそこに捨てた、あるいは誰かがそこに捨てたのをソフィアが見つけた、どちらの前後関係にしても不自然な結果である。

ありそうなのはカメラによって遠隔で読みとったという方法だろうか。重要な研究所なのだからそこらじゅうにカメラは取りつけられていただろうし、研究所が放棄されたあとのセキュリティはないも同然だった (内部にモンスターははびこっていたが、主人公たちも入るだけなら素通りできた)。そして 2 000 年経っても電源が生きているくらいなので、ソフィアが衛星軌道上にいた時代にも言うまでもなく使えたはずだ。あとはカメラの分解能さえ十分ならば、現場に行かずしても『手記』を閲覧できたことになる。ソフィア自身はいちどもそこを訪れていないから拾えなかったということである。

もうひとつ、私が第 3 の可能性として考えるのは、「赤髪の青年」その人の供述をもとにしたというものである (供述資料説)。それを示唆する根拠が作中に明示されているわけではないが、彼はおそらく接近禁止であったと思われるレッドクイーンを勝手に「イヴ」に触れさせたり、いかがわしい「銀の林檎」を配って歩いたり、それによって「棺の国」という怪しげな勢力を組織したり、極めつけには 118 ある楽園へ侵入して滅亡の原因になったりしている。楽園散在の時代にどれほど法律が実効性をもっていたかは疑問だが、明らかに彼は複数の犯罪に問われうる立場にある。

したがって彼はどこかのタイミングで拘束され供述調書をとられたということも十分ありえよう。青年の足跡や動機が詳しく判明しているのも、本人から聞いた話なのであれば当然である。この場合、最終 118 篇の結末だけは青年を美化する創作ということになる。あるいはこの部分も事実であり青年は翼の少女のまえで死んだのだとしても、そこに青年自身の手になる日記や遺書が残されていて、それを資料にできたと考えてもよい。この場合も死にざまだけは当人には語りようがないのだから、「赫き霧となって散っていった」という 1 行は創作ということになるが。

話題が第 118 篇の内容にまで及び、少し話が長くなってしまった。ともかくここでは、前半の余命宣告の場面をソフィアが事実に即して語りえたということが確認できたのがまず 1 点あるのだが、そこをいくとむしろ不思議に思われるのは後半かもしれない。ソフィアはどうして「翼の少女」と青年との会話を知っていたのか、いやそもそもどうして「翼の少女」の存在を認識していたか。ソフィアに創作の能力はほとんどなかったと考える私の立場ではいっそうこの点は問題となりうる。

だがじつはこれはそれほど難題ではない。このために「青年自身の供述」という論を提示したのであって、当事者本人が語ったとおりにソフィアは物語を構成したということであればどこにも困難は存在しないのである。そうすると今度は「青年がどこまで事実を語ったのか」が気になってくるだろうが、それはもともとあった「ソフィアが執筆のさいにどこまで脚色を交えたか」という問題から責任の所在がスライドしただけであって、新たな課題が生じたわけではない。

また、「翼の少女」の存在じたいについては別口でソフィアが知りえた可能性があることも指摘しておきたい。それは第六話で見た星核螺旋研究所の映像記録に一瞬だけ姿が映っていたことである。上でソフィアが『手記』を研究所のカメラ経由で目視した可能性に言及したが、同じように研究所の映像データも閲覧できたかもしれない。このさい引っかかるのは、あの映像再生の場面で一瞬だけ映ったガイアの姿に誰も言及しなかった——まるでアリアにも現在は見えていないようだった——ことであり、ひょっとするとガイアは主人公にしか見えないのかもしれないと思ったのだが、これは単独でも大きな疑問点なのでまたべつの機会に考えてみたい。いずれにせよ、かりにソフィアに創作能力があったとしてもだが、偶然に「翼の少女」という真実を言いあてるというのは考えがたく、この存在についてもなんらかの情報源に依拠したと考えるほうが自然である。


日本語版の分析 (2):銀の果実とは絶望のことである


『ハーヴェステラ』発売から 7 ヶ月を経たいま、改めて虚心坦懐にこれらの文書を読みなおしたとき、私はいままで大きな思い違いをしていたのかもしれないと思うようになった。

赤髪の青年の目的は (妹か恋人かはわからないが) 蒼き髪の乙女=イヴの病を治すことである。一方、『棺の国 調査記録・後』によって私たちは、彼のもつ「銀の林檎」が「赫き病」を癒やす特効薬であることを知っている。どうもここがごっちゃになって、またストーリーでも死季/ガイアダストの問題が非常にクローズアップされていたこともあって、「赫き病」=死季の病=イヴの病といつの間にやら短絡してしまっていた。が、これはまったくの勘違いであった。

青年のもつ銀の果実はイヴを癒やせる薬ではない。すなわち赫き病はイヴの患っていた病とは異なるのである。この第 1 篇を冷静に読むとそれがはっきりとわかる。なぜか。後半に書かれているとおり、青年は楽園を出発するまえからすでに「禁断の銀の果実」をもっているからである。青年はイヴの命が長くないと告げられて、彼女がまだ生きているうちに銀の果実をもって別の楽園へ向かった。これが端的な事実なのである。銀の果実は彼らの暮らす楽園に最初からあったのである。

そうすると銀の果実はいったいどんな効能をもつものなのか。こういう疑問を念頭に改めて文章を眺めてみると、じつは驚くほどわかることは少ないことに気づく。先述した『棺の国』の印象が強いため見誤りやすいが、『楽園の終わり』本編においては、第 12 篇で増殖する 64 人のクローンたちの「口論」を収めたことと、第 75 篇で「無限」によって苦しむ住民たちのもとで「無限は終焉を迎え」たと記されている、たったこの 2 例だけなのである (ちなみに私はこの第 75 篇で描かれている楽園こそ『棺の国』調査者の故郷かもしれないと疑っているので、そうするとこれらは 3 例とは数えられないことになる)。

これら 2 例ないし 3 例の共通点を考えてみたいところだが、第 75 篇の物語は「無限」の正体がはっきりしないため効果のほうも杳として知れないし、『棺の国』にしても「赫き病」という病名がわかる以外にはほとんど情報がない。調査者が述べているのは「林檎を食べれば癒やしを得られよう」という青年の「言葉に偽りはなかった」ことであり、ともかく調査者じしんの主観として「癒やしを得られ」たと感じたということだけである。こちらも赫き病の症状がわからないことがネックだといえる。

しかしじつははっきりとした答えが、やはり本文のなかに記されているのである。もういちど読んでみよう。「禁断の銀の果実を手にした青年」を呼び止めた翼の少女は、彼の様子を見て「絶望を手に」どこへ行くのかと問う。……これが答えである。紛れもない、「銀の果実=絶望」、一見どんなに意味不明に見えてもこれが真実なのである。私は本稿のはじめに、著者ソフィアの言ってみれば文学的能力の低さを確認した。したがって、これは比喩や詩的表現などではないのだ、と考える。だいいち比喩だとすれば「手に」というのは不自然だろう。「絶望を胸に」などと言うはずだ (人工知能であるソフィアは文学的創造力は低くとも、言葉を文法どおり運用するリテラシーは非常に高いと想定される)。

であれば、銀の果実とは絶望の具象化、食べれば絶望を引きおこすものなのではないだろうか。もっと現実に引きつけて言うなら、強い鎮静作用と考えてもよい。絶望がどうして薬といえるのか、これだけで納得してもらえたなら話は終わりなのだが、まだ不思議に思われるかもしれないのでもう少し言葉を補おう。絶望が薬になるということは、それと対になるもの、すなわち希望こそが病だという運びになる。実のところそういう発想を作中においてはっきり確認できるガイストのセリフがある (第七話、月の揺り籠・全知の集積所における):
やめておけ ディアンサス。
一度 その希望というものに蝕まれた
私だから言えることだが その希望とやらは
ある種のバグだ。
希望なんてものは 願いを糧に育ち
思考の中に巣食う魔物だ。
やがて 破滅という怪物に育つな。
これにはいわゆる抑うつリアリズム (depressive realism) の理論に通じるところがある。聞いたことはないだろうか。うつ病を患っている人のほうがじつは世のなかを客観的に正確に把握しているのであって、逆に正常とされる人のほうが認知が歪んでいてポジティブに見誤っているのだ、という考えかたである。世界は本来耐えがたいものであり、人間は希望をもつことによって厳しい現実から目をそらして生きているというわけだ。希望こそが病的状態なのであって、それを「癒やす」ために絶望を薬とする、という理屈が通ることを承服してもらえただろうか。

「死に至る病とは絶望のことである」というキルケゴールの有名な言葉は、たとえその著書『死に至る病』そのものを読んだことがなくとも誰でも聞き覚えがあるだろう。まして第三話 C のボスにキルケゴールの名をあてがったシナリオライターその人が知らなかったはずもない。絶望が病である、この定式を反転させると希望が病であることになるのはたった一歩の飛躍である。既存の抑うつリアリズム理論と、死に至る病と、この 2 つの材料が古屋氏の発想源であったのかもしれない。

繰りかえしになるが、私の主張する「禁断の銀の果実を手に=絶望を手に」とは書いてあるとおりに読んだだけなのである。突飛なことはなにもなく、書いてあることをすなおに読めばそう解さざるをえない。私じしんどうして最近まで気づかなかったのか不思議なほどで、まさしくコロンブスの卵というべきか。

そしていま示した説が第 12 篇の描写とも符合していることを確認しよう。自分こそが本物だと信じて争っていたクローンたちは、絶望の林檎を口にしたことで自己の存在証明への執着がなくなり、生き残りの権利を相手に譲るようになった。その結果 64 が 32 になり、32 が 16 になり、最後の 1 人になるまで続いたのである。なお、生に頓着しないということは積極的に死を望むこととイコールではない。絶望とは望みの絶えていることなのだから、生を希望しないだけでなく死への希望すらもたないということなのだ。だから最後の 1 人はあえて死ぬ必要はなかったのである。

第 75 篇との整合性はどうだろう。ここはすでに「絶望が繰り返される楽園」となっているのに、改めて絶望の林檎を口にする意味はあるといえるのか。それには『アンナ・カレーニナ』よろしく、希望とはひとつのものであるが絶望には人の数だけ絶望がある、と答えよう。第 75 の楽園を覆っていた絶望と、銀の果実により与えられた絶望はべつの種類のものであり、だからこそこの絶望によって解放がもたらされたのだ。

最後に、銀の果実がイヴに使えない理由もこれではっきりとわかる。この禁断の果実は生への執着を取り除く絶望なのだ。イヴに生きていてほしい青年が、そんなものを彼女に与えるはずもない。というより、そもそも彼女は最初から生に執着していなかった。『蒼き髪の挟まった手記』で彼女は、「不思議と落胆はなかった」「私の番が来ただけだ」と達観して語っている。たとえ銀の果実を口にしたとしても、イヴにはなんらの変化もなかったかもしれない。


英語版:End of Eden I: Eternity

A story from The End of Eden:
“The Eden that sought eternity, filled
with those blighted by incurable
disease. A blue-haired maiden and a
doctor by her side. ‘There is nothing
more we can do...’ A young man with
flame-red hair collapses. He is
stopped, forbidden silver fruit in hand,
by a winged girl. ‘Where are you going,
with such despair in your grasp?’
‘To another Eden,’ he says.
And so, he left paradise behind...”

フランス語版:Fin d’Eden I : Éternité

Une histoire tirée de la Fin d’Eden :
« L’Eden qui convoitait l’éternité,
peuplé d’âmes brisées par une maladie
incurable. Une jeune femme aux cheveux
bleus et un médecin à ses côtés. “Il n’y
a plus rien à faire.” Un jeune homme aux
cheveux roux s’effondre, un fruit
argenté interdit dans la main. Il est
rattrapé par une fille ailée : “Où
vas-tu, avec un tel désespoir au creux
de ta main ?”
“Dans un autre Eden”, répond-il. Et
c’est ainsi qu’il quitta le paradis... »

ドイツ語版:Edens Ende I: Ewigkeit

Eine Geschichte vom Ende Edens: „Das
Eden, das die Ewigkeit suchte, voll mit
jenen, die von einer unheilbaren
Krankheit befallen waren. Eine
blauhaarige Magd und ein Arzt an ihrer
Seite. ‚Wir können nichts mehr tun ...‘
Ein junger Mann mit feuerrotem Haar
brach zusammen. Ein geflügeltes Mädchen
hielt ihn an, mit silbernem Obst in der
Hand. ‚Wohin gehst du so voller
Verzweiflung?‘ ‚Zu einem anderen Eden‘,
sagt er. So verließ er das Paradies ...“

スペイン語版:Fin de Eden I: Eternidad

Historia del fin de Eden:
«Un Eden en busca de la eternidad lleno
de afectados por una enfermedad
incurable. Una muchacha de pelo azul y
un médico. “No podemos hacer nada más”.
Un joven pelirrojo se desmaya. Lo detiene
una muchacha alada que lleva una manzana
plateada en la mano. “¿Adónde te diriges
con tal desazón en tu mirada?”.
“A otro Eden”, replica él.
Y así dejó atrás el paraíso...».

欧米語版の分析:青年の棄てた楽園


基本的に日本語版の忠実な翻訳になっているので、翻訳からとくにわかることと相違点だけをピックアップしよう。「医師」の性別は日本語と英語では不明だが、仏・独・西ではすべて男性になっている。現れている「銀の果実」は単数である。おかしなこととして、フランス語版では青年は医師の宣告を受けて崩れ落ちる時点ですでに「禁断の銀の果実」を手に握っている。またドイツ語版とスペイン語版では「翼の少女」のほうが銀の果実をもっているのだが、これでは次以降のエピソードと整合しないので誤訳と判定せざるをえない。

以上は他愛もないことだが、ひとつだけ注目に値する相違点として、「楽園」を表す語の不統一を指摘できる。英語版を含めて 4 言語とも、表題『楽園の終わり』および本文最初の行の「その楽園では永遠を求めた」と青年のセリフ「別の楽園へ」という部分では固有名詞として大文字書きの Eden を用いているのに、最終行の「彼は楽園を後にした」だけは英 paradise およびそれと同様の語を使っているのである。

ひとつにはこれは、作中の用語として「楽園」と「エデン」が同義語の言いかえであることを示唆している、あるいはその事実を背景としている。日本語版の文書では「楽園」で一貫しているが、一方で物語中で訪れる場所のほうはふつうカタカナの「エデン」と呼ばれていたので、(章題「遺棄楽園」や「殻の楽園構想」のような手がかりは随所にあるにせよ) あの白いエデンと寓話中の楽園とを結びつけるにはわずかな飛躍があった。それに比べると欧米語版のこの文書の表現は、2 つの語のつながりが文書だけでも、または文書とストーリーのあいだでも接続がスムーズになる効果があるかもしれない。

しかし劇的なのは英語版における he left paradise behind という無冠詞の paradise である。仏・独・西では定冠詞つきになっており、いまいる楽園 (青年とイヴの故郷であるエデン) を指示するためには当然そうでなければならない。だが英語版は the paradise とは書かなかったのである。この無冠詞の paradise は物理的な地である彼らのシェルターを指しているのではない。地名としてのエデンではない。これは抽象名詞である。青年はただたんに「楽園を後にした」だけでなく、精神的な「安楽の状態」を捨て去り旅に出たということを言っているのである。心利く英語話者ならばかならずやここに the がない違和感に気がつき、その含意を感じとるであろう。さりげなくも青年の悲愴な覚悟をはっきりと示す翻訳の妙である。