mercredi 1 avril 2020

星の王子さまのキツネを女性として訳す

星の王子さま』XXI 章に登場するキツネは、「大切なものは目には見えない」をはじめとして数々の重要な教えを「王子」に伝える作中屈指の重要人物だ (言うまでもなく人間ではないが「人物」という語を使うことにする、以下同様。また『星の王子さま』の訳文については、私はいまのところ稲垣訳をもっとも推奨できるものとみなしているので、以下でもこれに依拠する;とはいえキツネの章に関しては賛同しない部分も少なくないのだが)。

このキツネのモデルは――少なくともそのうち核の部分は――サン゠テグジュペリの女友達、というかはっきり言うと浮気相手であった、アメリカ人ジャーナリストのシルヴィア・ハミルトン (のちに結婚してシルヴィア・ラインハルトになる) であったことがはっきりしている。有名な話なので『星の王子さま』関連書の多くに出ていると思うが、たとえばステイシー・シフ『サン゠テグジュペリの生涯』(檜垣嗣子訳、新潮社、1997 年) の第 16 章を参考に指示しておく。詳細にして雄弁すぎるシフの伝記にはいくぶん疑義のある点もあるので、食い違うところでは『イカール』誌に寄稿されたシルヴィア自身の証言にもとづいて書かれた藤田尊潮『『星の王子さま』を読む』27–29 頁も有益である。

キツネとシルヴィアとの符合としてもっとも典型的なものはやはり次の箇所だろう:
「同じ時間にやって来たほうがよかったね」とキツネが言いました。「例えば、午後四時に君がやって来るとする。そうなれば、もう三時からぼくは幸せな気分になりはじめるのさ。そして、時間が近づくにつれて、ぼくはだんだん幸せな気持ちが強くなる。四時になろうものなら、ぼくはもうそわそわして、わくわくする。自分は幸せなんだなあ、とぼくは心底思うことだろうよ。それにひきかえ、君がでたらめな時間にやって来たら、何時に自分の心の着がえをしたらいいか、ぼくにはまるで見当がつかなくなってしまう……。ならわしというものが、どうしてもなくっちゃならないんだ」
放埒なサン゠テグジュペリはシルヴィアのマンションを訪れるのに時間の予告をせず、深夜でも構わずやってくるので、彼女は会えなくなることを恐れてやきもきしながらずっと家にいたものだ。そしてあるとき彼女はそのつらさを彼に訴え、あらかじめ時間を決めて来訪するよう願ったおり、言い逃れるサン゠テグジュペリに対し「あなたがもうすぐ来ると思うと、心がはずみだすの」と語ったそうである。この言葉の反映は明らかであろう。

それからキツネには、仲よくなるための手続きを説明するくだりで「言葉というのは、なにかと誤解を招くもとだからね」というセリフもある。サン゠テグジュペリは英語をまったく解さなかったし、シルヴィアのほうもフランス語はあまりできなかったから、2 人は身振りを交えたり、どちらも得意ではないドイツ語を介して会話したりしていたらしい。言葉がなくても――あるいはないからこそ――気もちが通じあえる関係という点で、「王子」とキツネはサン゠テグジュペリとシルヴィアの間柄と二重写しになる。

キツネ以外の部分でもシルヴィアが『星の王子さま』に影響を与えた箇所は多い。VIII 章でバラを威嚇するトラの絵はシルヴィアの飼っていた (あるいは彼女がサン゠テグジュペリにプレゼントしたとも言われる) ボクサー犬、また II 章の羊はやはり彼女が飼っていたプードルがモデルであると言うし、「王子」の容姿でさえシルヴィアの家にあった金髪の人形がモデルのひとつとなったらしい。

『星の王子さま』の執筆が行われた期間のおよそ半分はシルヴィアの居宅においてなされた。彼女は甲斐甲斐しくこの作家の世話をし、出版後まもなく彼が戦場に復帰するためアメリカを発つとき、『星の王子さま』の手書き第一稿は、別れを告げにきた作家の手ずからシルヴィアに――妻のコンスエロにではなく!――委ねられた。1943 年 4 月のことであった。

さて以上のようなあからさまな照応をもとに『星の王子さま』のキツネの言動を見かえしてみると、私の想像ではあるが、シルヴィアの姿がダブって見えてくる部分はまだほかにもあるように思われる。たとえば「王子」とキツネの出会いに際してはキツネのほうから声をかけているが、ここにもシルヴィアとサン゠テグジュペリとの最初の出会いが彷彿される。それはシルヴィアのほうからの一目惚れで、まずは 2 人の共通の知人 (サン゠テグジュペリの作品の英訳者ルイス・ガランティエール) を介してアプローチ、その意思疎通がうまくいかないと見ると直接に言葉の通じない彼に迫り電話番号を伝えたという。

また最後にはサン゠テグジュペリ/「王子」の都合でシルヴィア/キツネのもとを去らなければならなくなる点も符合する。もちろん作家がシルヴィアと別れるのは『星の王子さま』執筆時点から見れば未来に属する事柄だが、彼が祖国フランスのためにいずれ亡命先のアメリカを離れ戦線に復帰するということはだいぶ以前から心に決めていたのである。これに関して、フランスという国は妻コンスエロとともにバラの「モデル」をなしているという解釈は意義深い。

それにもまして意味深長なのはキツネのいちばん最後の発言だ。「君が自分でなじみになった〔=飼いならした〕ものに対して、君はずっと責任があるんだからね。君は君のバラに対して責任があるんだよ……」。これは『星の王子さま』を読んでいて昔からどうにも引っかかるセリフであった。

本作のキーワードのひとつに違いない「飼いならす」(apprivoiser、稲垣訳では「なじみになる」) という概念はやはりキツネが「王子」に教える言葉であって、「王子」はそれ以前に自分がバラとそういう関係になっていたことを悟るのだが、それはバラのほうが彼を飼いならしたのだし (もっともこの主客はやがて混同されるのだが)、なにより「飼いならす」ことをそれとはっきり自覚したうえで行うのはキツネに対してが最初だ。「王子」はキツネから請われてとはいえ、意図的にキツネを飼いならすのである。

そうだとすれば、いわば成りゆきで飼いならすことになったバラとの関係にもまして、キツネに対して責任があると言うべきではないか。三野博司『『星の王子さま』の謎』145–46 頁が指摘するように、飼いならすことは一生で一度きりとは限らず「人は複数の相手と絆を結ぶことができる。そのときには、絆のあいだの優先順位が問題になるだろうし、そこからいわゆる嫉妬、三角関係、憎悪などが生じる危険がある」のである*。「王子」は少なくともバラとキツネの両者に対して責任があり、これが恋愛だとすればここには三角関係が生じている。サン゠テグジュペリと妻コンスエロ、およびシルヴィアとのあいだの微妙な関係がオーバーラップする (というか現実にはこの時期サン゠テグジュペリと関係した女性はシルヴィアだけではないのだが)。

* ただし誤解を与えることを避けるため付言すると、三野の論では「王子」とキツネとの関係は恋愛ではなく友情関係だとされており、この 2 組の絆のバッティングは恋愛と友情のどちらを優先するかという問題と捉えられる。さらにキツネの秘義伝授者としての性格を考えあわせるとこれは師弟関係でもあるから、師を乗りこえた弟子は師のもとを去っていかねばならないという形で解決される。

このことを踏まえて先述のキツネの発言を聞くと、キツネは「王子」が「バラに対して責任がある」と指摘するまえに、飼いならした関係から生じる一般論に言及することで、言外に「自分に対しても責任がある」ことを糾弾、あるいはアピールしているのではないのかと思われてくる。賢いキツネは「王子」との別れは引き止められないことを了解しているので、このように遠回しに言うしかなかったのである。

それともひょっとすると、「バラに対して」と言うのさえ迷いの所産だったかもしれない。ここは原文では « Tu deviens responsable pour toujours de ce que tu as apprivoisé. Tu es responsable de ta rose... » であって、日本語と異なり目的語が出てくるのは文の最後である。「飼いならしたものに……」と口に上せたとき、「飼いならされた私」のことが思い浮かぶのは至当であろう。だがそれを相手に突きつけると「面倒くさい女」になってしまう。だから本当は « de moi »「私に対して」と結びたかったところをぐっと呑みこんで、物わかりのいい彼女は « de ta rose »「あなたのバラに」と言いなおしたのかもしれない……。

だがこのいじらしい訴えは「王子」にはまったく聞きとられない。「王子」はこの前後で三度伝えられるキツネの重要な教えを口に出して反復し心に刻もうとするのだが、この最後の場合には「ぼくはぼくのバラに対して責任がある……」と言葉の後半部を繰りかえすだけである。飼いならしたものに対して、の部分を反復してフォーカスしてしまうと、どんな読者にもキツネに対する責任があからさまになってしまうから、作者によって意識的に省かれたのであろうが、あるいは「王子」じしん気づいていてなお、別れの場面をこじらせないために無視したのだとも解釈できる。VIII 章末などに見られるとおり、地球に来てからの「王子」はもはや恋愛面に関してうぶではないからだ。

私が知るかぎりこの最終行の「王子」の応対についてこのような注意が払われたことはこれまでいちどもない。キツネに対する責任の重視も含めて、こうした読みは厳密に言えばキツネを女性とみなすことを必須の要件とするわけではないが (男性相手であろうと責任があることには違いないし、このあと「王子」は語り手の飛行士をも「飼いならす」ことになるがこちらは曖昧さなく男性どうしの関係である。そこはひょっとしてクィア批評に開かれている部分かもしれない)、そうすることによって見やすくなることは間違いないと思われる。これはキツネを女性として訳すことの実用的な価値である。

しかるに数ある『星の王子さま』の日本語訳において、キツネはふつう男性 (オス) として、それもほとんどの場合に判で押したように活発でわんぱくな少年のような人物として描かれてきた。古典的な内藤訳では「おれ、キツネだよ」、稲垣訳では「ぼくはキツネさ」のような口調である。観察されるかぎりキツネの一人称は「おれ」か「ぼく」が圧倒的である。ここに比較した全 28 種の内訳を明かすと、
なお最後の「わたし/私」だが女性らしくはなく、三田では「わたしはキツネだ」「あんたは、遠くから来たんだろ? なにをさがしているんだね?」「忘れてしまいがちのことだけどな」といった要領で、偉そうな男性という雰囲気であった (大橋も同様)。したがって公刊されている 28 種もの邦訳のすべてが、ただの 1 例の例外もなく、キツネを男性としていることになる。

それはある意味では当然のことであって、サン゠テグジュペリの原文フランス語が男性で書いているからである。しかし「キツネ」という名詞を男性名詞の le/un renard としているのは、動物名の総称であるからまだしもメスである可能性を即座に排除するものではないし、それを男性の代名詞 il で受けるのも文法上の制約にすぎないから、ここまでなら女性であってもおかしくはないのである。とはいえキツネ自身のセリフのうちで « Je ne suis pas apprivoisé. » (イタリックは引用者。以下同様) のように男性形を用いているところが痛い。女性なら過去分詞は apprivoisée でなければならないからだ。

それでもこの両者は発音はまったく同じであるから、一種のトリックのようなものとして、語り手あるいは「王子」の認識をもとに男性形の apprivoisé とつづられている……と食い下がれる可能性も私は考えた。unique のように男女同形の形容詞も支障はない。だがこの仮説に抗する致命的なセリフがただ 1 つだけあった。それはシルヴィアの困惑が透けて見える箇所として先にも引用した、君が 4 時に来るなら 3 時にはうれしくなる、というくだりである:« Si tu viens, par exemple, à quatre heures de l’après-midi, dès trois heures je commencerai d’être heureux. Plus l’heure avancera, plus je me sentirai heureux. » という部分だ。2 度現れる heureux「うれしい」という単語は、主語が女性なら heureuse でなければならず、これらははっきりと発音が違うのである。

では原文がこのとおりだとすると、キツネを女性として訳すことはまったく許されないのか。じつはそうとは限らないのである。フランス語と同様に文法上男女を区別する各種のヨーロッパ語訳、たとえばイタリア語訳やチェコ語訳、スロヴァキア語訳などでは、問題なくキツネを女性にしてしまっているのだ。

イタリア語訳を例にとって説明しよう。私は都合 13 種類の (標準) イタリア語訳 Il piccolo principe を所有しているので (この内訳は N. Bompiani Bregoli, E. Tantucci Bruzzi, B. Masini, A. Colasanti, Y. Melaouah, L. Carra, R. Piumini, C. L. Candiani, R. Gardini, M. Di Leo, G. Corà, E. Bruzone, S. Cecchini)、以下の比較はこれらにもとづく。

まずキツネ当人のセリフのうちはじめて性が表れる場面、つまり飼いならされていないからと遊ぶことを拒否するセリフを比べてみると、これはなんと 13 種類すべてが “Non sono addomesticata.” で一字一句まで符合している (最初の non に小文字の場合があることを除いて)。日本語訳が苦労に苦労を重ねている「飼いならす」の訳語を addomesticare ひとつで済ませてしまえることはうらやましいかぎりだが (もっともどれほど熟慮しているのかは怪しいものだ)、ともあれ過去分詞が女性単数形に置かれていることがわかる。つまりこのキツネは自身を女性として表現しているのである。

また「王子」が 5 千本のバラに向かって演説し、キツネを友達にしたからこの世でたった 1 匹のキツネになった、と語るシーン。これはさすがに十人十色だが、たとえば Masini 訳では “Ma io l’ho fatta diventare la mia amica, e adesso è unica al mondo.” となって、イタリックにした部分はすべて「女友達」「唯一の女性」であることを明示している。ほか 11 種も同様。Carra 訳だけは “Ma siamo diventati amici”「僕たちは友達になった」と言って「王子」自身を含めた表現のため男性複数だが、キツネが女性であることには矛盾しないし (男女混合の集団は男性複数になる)、彼の訳でも XXIV 章で飛行士にキツネの話をするときには “La mia amica” と言っており結局女性であったとわかる。

おもしろいのは「王子」がキツネの姿を認めてからの第一声、「君は、なかなかすてきだね……」というセリフだが、上述のようにキツネ自身のセリフで女性と判明するまえの段階のため男女が割れている。語尾の -o が男性で -a が女性だが、Bompiani Bregoli 訳の “sei molto carino” に対して Candiani 訳 “Sei molto carina”、また Piumini 訳 “Sei molto grazioso” に対して Tantucci Bruzzi 訳 “Sei molto graziosa” というふうである。だが全体的にはここも女性形のほうが優勢であった。

煩瑣になるのでこれ以上の比較は差し控えるけれども、ともあれイタリア語訳ではキツネ本人の発言以降一貫して女性として取り扱われており、これは 13 通りもの翻訳を確認してもひとつも例外がなかった。またチェコ語訳 7 種とスロヴァキア語訳 4 種についても事情はまったく同様であり、これも例外なくすべて女性であった (たとえばバラたちへの演説における「友達」はチェコ語 přítelkyně, スロヴァキア語 priateľka)。

むろん、この現象の背後には、「キツネ」を表す普通名詞の性の問題が決定的に影響している。フランス語では renard は男性名詞だが、イタリア語の volpe や、チェコ語 liška, スロヴァキア語 líška は女性名詞なのである。したがってこれらの言語への翻訳でキツネが女性になっている理由は、別段シルヴィアがモデルだからというような考察を踏まえての判断ではなく、むしろ反対にキツネの性別などどちらでもよいと等閑視しているからこそこれほど一致しているのではないかとも疑われる。

しかしそうだとしても、翻訳の作法において、フランス語の原文が男性のキツネだからとてこれを女性に移すことを妨げはしないのだという事実は揺るぎない。とすれば『星の王子さま』を日本語訳するにあたっても、キツネを女性にして悪いということはないはずであろう。ましてキツネのモデルとしてシルヴィア・ハミルトン゠ラインハルトの影を透かし見る読者にとってはなおさらである。既存の邦訳ではそういうことは行われてこなかったが、もし私が自家版『星の王子さま』の翻訳を手がけるとすればこれはかならず女性にすると心に決めている。この選択には十分な根拠があり、なおかつ清新な解釈を開く点で有意義でもあることは上で論証したとおりである。

最後に余談をひとつ。キツネのモデルであるシルヴィアの姓がラインハルトになるとはなんという運命のいたずらであろう。キツネを意味するフランス語 renard はラインハルト Reinhardt と同源の語である。そもそも古フランス語でキツネを表す語は goupil であったが、中世フランスに成立した『狐物語』の主人公の名ルナール Renart そのものがキツネ一般を意味するようになりこれに取って代わったのである。日本で言えば「ごんぎつね」が有名すぎるからと「ごん」がキツネの意味になるようなことであろうか。このルナールがラインハルトのフランス語形である。シルヴィアが未来の夫ゴットフリート・ラインハルトに見初められるのは、『星の王子さま』が出版されサン゠テグジュペリがアメリカを去って間もなくのことだった。


〔2020 年 9 月 11 日追記〕邦訳の比較例に奥本訳、永嶋訳、浅岡訳を加えて 25 種とした。論旨にはまったく変更なし。

〔2022 年 2 月 1 日追記〕邦訳の比較例に大橋訳と助川訳を加えて 27 種とした。同前。

〔2022 年 7 月 21 日追記〕邦訳の比較例に加藤訳を加えて 28 種とした。同前。

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