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jeudi 10 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (5)

どちらへ、mester? これは英 Mister にあたる敬称の呼びかけ? セリフらしく見えるが引用符で括られていないのではっきりしない。1 人の drager が自身からその kærre を stillet した、そして彼のほうへやってくる。前半は完了、後半は現在。

彼は kuvert を取り出し (?)、それを広げ、adressen とともに紙をその drager に rækker する。船旅だしチケットかなあ、いや船旅は終わったのだとすると宿のチェックインかも。adressen はどう見ても英 address だがこういう多義語には罠がある。だがとりあえず「住所」ととっておいて大丈夫そうか。Drager はその紙を受けとろうとはしない。彼〔=drageren〕は疑わしげに彼〔=モーテン〕を見るああ、とモーテンは思う、〔この drager は〕文盲なのだ。「文盲」analfabet は万国共通なので明らかだ。このおかげでこの段落全体はおぼろげに理解できる。やはり搭乗券かなにかをモギリ (?) に渡しているのだろう。ホテルのフロントが文字を読めないのはちょっと考えにくい。いくら時代が違うとしても宿帳をつけられない者がフロント業務もないだろう。

北通り、とモーテンは言い、デンマーク語でそれを発音しようと試みる。出版者 (?) シュルツ (Schultz) の gård だ。前半はほぼ確実。forsøger は第 2 回で独 versuchen と仮設したもの。「出版者」bogtrykker は前半が「本」bog、後半が trykke でこれは独 drücken, 英 press なのでたぶんあっていると思う。このあたり、短い文章ですぐ段落が変わるので気が楽だ。

この道です、旦那、と drager は言い、彼を fører する。この動詞は案内か先導? ある tolder が彼の pas を folder ud しそれを studerer するところの porten へと。彼は passet を取り戻す。ああ、pas(set) はそのまま「パスポート」か。モーテンはべつの国からこのコペンハーゲンに来ていたわけだ。では studerer は独 studieren, 英 study で、「詳しく検討・検査する」というところか。それで porten は入国審査をする場所なのだろう。で、tolder がその審査官、でも日本語でなんと言ったかな? とりあえず審査官としておくか。

コペンハーゲンは学生を歓迎し希望します、と審査官は言う。muligvis に皮肉的な tonefald で。最後の単語は「トーン、調子」っぽい。mulig-vis もわかりそうな感じはするのだが。前半はたしか独 möglich, 英 possible「可能な、ありうる」のことだった気がする。

こうして彼は sted から traver する、小さな vippekærre の上の hælene のなかの町へ。vippe(r) も kærre ももう見たなあと思いつつわからない。彼は船旅のあとの benene の上で〔=によって?〕smule な usikker である。はい、第 3 回で定かでなかった skib「船」はこの「船旅」skibsrejsen のおかげで確定した。そして今もかつても (?) 少し slingre するために来る。なんだかおかしいな。町のなかの長い通行は overvældende である。「通行」trafikken というのはなんだかわからないがとにかく英語のトラフィックのこと。beværtninger と torvesalg への varer をもつ bondevogne が tordnende しながら来る。これはいけない。だが続きもまた訳のわからぬ単語が頻発する。エールの tønder をもった vogne、暗い skikkelser をもった diligencer が、bukken の上高くの ruderne と kuske の後ろに。さらに støvler を smældende し、目は死んだように stirrende fremad しながら、sted から行進する兵士たち。何度も出てくる af sted というのはいいかげんに辞書を引いたほうがいいな。sted それじたいは「場所、地点」で (では英語の廃語 stead と同源かな)、af sted だと英語の along と off、って「沿って」と「離れて」ではまったく正反対に見えるのだがどういうことなのか……。slagtede gæs か høns または kaniner でできた (?) 大きな bylter を肩に担ぐ男たち。この文はどうも動詞がない (bærer は関係代名詞 der 節のなかなので) 名詞句だけの文。次の文もそうかもしれない、skillingstryk をもって vifter し、彼らが同じ朝に udenad に覚えた韻文から strofer を vræler する少年たち。英 verse と同じ「韻文、詩歌」vers のおかげで少しは見えてくる、日常的な町の風景だ。Brostenene は sæbeglatte である、彼らは決定的でない hinde のなかで svøbt である。モーテンは snubler するが、自分を vender om し彼を引き上げる drageren の上の腕のなかに griber fat する。そのあとで彼〔=モーテン〕は彼〔=drageren〕を fortovet のなかに向かって厳しく skubber する。「厳しく」とした hårdt は英 hard の中性=副詞形、以前に出たときは自信がなかったが辞書で確認した。だが hard じたい多義的なのでこれまた文脈の助けがなければ訳しようがない。段落の半ばほどであるが少し疲れたので中断する。

mercredi 9 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (4)

本日からいよいよこの小説の本編に入っていく。扉に書かれているのは第 1 部、校長の息子……だろうか? skole は学校に違いないが holder(ens) が心もとない。たぶん英語と同じで保有者ということだと思うが……。とにかくそういう人物が出てくるかどうか少し待ってみよう。

第 1 章、コペンハーゲン、1782–1787 年。なかなかなじみのない時代である。アンデルセンは 1805 年、キルケゴールは 1813 年生まれだから、彼らの父が生まれたくらい、ということは祖父が青年だったほどの時代だ。理解できるかどうか自信がなくなってくると同時に、興味も惹かれる。

雲に覆われた、smule klamt な天気である。「雲に覆われた」は overskyet、これは sky が「雲」なのでたぶん正しいと思う。ノルド語の「雲」が英語に入ってしだいに「空」を意味するようになった話は英語史の豆知識として知っていた。前回までのプロローグもそうだったが、どうしてか地の文の動詞はもっぱら現在形で続いていく。訳文として少し据わりが悪いので過去形にするべきかとも思ったが、まともに訳せていないうちから考える問題ではないのでとにかく書いてあるとおりに移そう。モーテン・ペデルセンが 1782 年 6 月 1 日にコペンハーゲンに到着するときは。順番が前後したがこの da 節のときに先述の天気だったということ。「到着する」ankommer は明らかに独 ankommen なのでわかる。いま言った日付は、彼の 26 歳の誕生日の 10 日後である。ということは彼は 1756 年 5 月 22 日生まれということになるか。彼は座って、chaluppen を vipper し、森の上に戻って kigger する、rheden の上に外への master によって。戻って kigger のところは「振りかえる、顧みる」とかだろうか? rheden は間違いなく借用語だ、rh- なんてつづりがあるわけがない、でもなんなのかわからないのが歯がゆい。時刻は朝の 6 時半。たまさかこういう完璧にわかる文があると本当にうれしい。halv syv (文字どおりには「7 時の半分」) はドイツ語 halb sieben と同じで「6 時半」なのだ。彼は夜じゅう目覚めていた (?)、クリスチャニアからの paketbåden によって dækket の上を行きつ戻りつし、いらいらして、søfolkene の前で ulempe でありながら。søfolkene は sø「湖、海」の folk「人々」に見えるから、「船員」? 残りはちょっと推測がつかない。彼がトルボーデン (Toldboden) の前で kajen の上で跳ねるとき、彼の tøj はエーレスン (Øresund) の prop のように座っている tågen からの fugt によって gennemtrukket されている。うーん……。最後の過去分詞 gennemtrukket はノーヒントではない、gennem は英 through だし、trukket の原形はプロローグでも何度となく見た trække「引く」だ。しかしこの動詞じたい多義的なのでぴったりした訳語を見つけるのは困難。彼は少し forkølet に自分を føler する、そして道の上に hoste があることを知る、しかしそれはさほど遅い時間に (?) とらない。彼はよい konstitution をもっている、この名詞は明らかに独 Konstitution, 英 constitution と同じだが意味は定かでない。まさか「憲法」ではありえないし、「構造、組成」も変だ、独にも英にも「体質、素質」という意味があるからそれだろうか。兄弟姉妹の flokken のなかの udskillelsesprocessen が彼をして overlever のように自分自身を betragte させた。また高度の運命論とともに彼を udstyret した。ちょっと惜しいので最後の udstyre は辞書でカンニングしてしまうと、英 equip ということなので「彼に運命論を備えつけた、もたせた」ということか。旅は 3 日間かかった。これは多少の undervejs を blæst したが、彼は船酔いにはならなかった。søsyg は文字どおり「海の病気」なのでとりあえず船酔いと考えた、たかだか 3 日の話だしまさか壊血病のような本格的な船乗りの病気ではないだろう。彼は føler する、彼はそのはじめての船旅で男たちのように klaret したかと、また mandskabet から anerkendelse のあれやこれやの形を forventet したか、それとも最小のもののなかで〔少なくとも?〕afsked への håndtryk と若干の語を。相も変わらずわからない単語が多すぎて構文もとれない。彼は想像した、彼らは bollemælk のために stikker op しない stoute なノルウェーの knøs についての注意/言及を hvisket したのかと。となると hviske は「無視する」とかかなあ、と思って答えあわせのつもりで辞書を見たら英 whisper「ささやく」だった、まったく想像はあてにならない。だが彼らは一言もなく土地で彼の kiste だけを lemper し、彼を自分自身へ overlader するほかの多数の chalupper が彼の後ろで bolværket に向かって bumper する。chalup(per) は 2 度めの登場だ、これもどう見てもデンマーク語ではないので考えればわかるのかもしれないが。Skikkleser が kajen の上で跳ね、朝の灰色の光のなかで syne へと来て、それらの sække と kister とともに sted によって slæber する。kajen の上で跳ねることはさっき「彼」もやっていたことだ。そういえばプロローグでは最後まで「彼」も「彼女」も正体不明だったが、ここの「彼」は 26 歳の青年モーテン・ペデルセン氏とわかっているのだった。今日はあまり時間がとれなかった、一段落が終わったのでいったん切っておこうか。

mardi 8 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (3)

段落が変わって、luft は穏やかである。風だろうか、それとも波? opadstigende な乱流は muslinger と tang とから dufter する。turbulenser は英語とほぼ同じだから「乱流、大荒れ」で間違いない。難しい言葉ほど借用が多いので、デンマーク語をなにも知らないのにやたら高度な言葉ばかりちゃんと訳せるという事態が生じる。opadstigende はどうだろう、形態素に切ると op-ad-stig-ende と思われ、接頭辞が 2 つと現在分詞語尾がついているが語幹 stig- は独 steigen「登る、上がる」ではないか。op- も上がる感じだし、全体的に上向きの雰囲気がある。それから tidevandslinjen のなか (上?) は blotlagt である。tide-vands-linje(n) と分ければ「時間・水の・線」? 「時間」を意味する tid は英 tide「潮」と同源だったはずなので、それと関係がありそうだが……。その fjerne のなかで mågerne が skriger している。mågerne は複数既知形で、単数は måge だろうか。わからない単語が多すぎて話がまったく見えてこない。Uvilkårligt に彼女は目を開ける。u- は否定の接頭辞で -lig-t は副詞だから、非 vilkårlig に、というのが目を開ける動作の様態を示しているのだろうが、さすがに候補が多すぎる。彼女は今でさえも lade være することができない、このイディオムもいまいちわかっていない。逐語的に訳せば「〜であることをさせる、であらしめる」? それがどうして英 with, 独 mit にあたる med をつけて lade være med になると「させない、やめる」になるというのか (前回)、これがすでに私の勘違いだったのか? どうも泥沼にはまっている。無視。彼女の sind が地上の生のつまらぬ事々の上にあえて hævet され、天的なものへと stemt されるところの、あらゆるもののうちの最後の udkant に。かなりわかったように見えるが肝心なところの動詞がさっぱりである。雰囲気からすると sind は魂とか霊とか? 「つまらぬ事々」ととったのは trivialiteter、つまり独 Trivialitäten である。英語だと trivialities... なんて単語はないか。「天的な」himmelske も独 himmlisch とすぐにわかる。彼女は larmende な måge(r) たちが何を har for しているか見る必要がある。har じたいは英 have で簡単なのだがやはり句動詞は厄介でどうにもならない。そして彼女は北 (から? へ?) の道の上に skibet を、〔すなわち?〕fyldte sejl をもった tomaster を見る。skib は ship「船」、sejl は sail「帆」っぽく見える。fyldte は独 füllen, 英 fill「満たす」にあたる動詞の過去分詞っぽく、この 2 語で「満帆」かもしれない。そうすると vej が「道」というのはべつに陸路にこだわる必要はないので航路だろうか。おそらく前の語句を修飾する分詞節、mågevinger のように白くまばゆく。まばゆくというのは blændende で、すでに mærke の件で独 e : 丁 æ とわかっているのでこれは独 blenden の現在分詞。måge はさっきから何度も出てきている。ving が英 wing だったら鳥の種類らしく思えるが、「翼」は独では Flügel だし、これまでも見てきたように基本的な語は英よりは独に近いのでたぶん違うと思う。そして masterne のまわりを driver する skrigende な måger によって sværmen。また måger、それに skrige という動詞もやはり最初に mågerne が出てきたときにそれらがしていた動作だ。同じ組みあわせが再登場したところでヒントにはならない。いいや、彼女はいまだに自分の skaber を møde するのに parat でない、昼と同じようにではなく。次に for sent が 3 度繰りかえされるのでカンニングして調べてしまった、sent は「遅い」らしい。だが彼女は知っていた、fortryde するにはあまりに遅い、彼女自身にとってあまりに遅い、彼女の後ろに立っている彼にとってあまりに遅いということをすべては rette するよう整えられ置かれている。次の、この段落最後の文は faldet 以外完全な自信をもって訳せる:落下はすでに始まっていた、それは何年もまえに始まったのだ。プロローグのタイトルでもある fald(et) は第 1 回の途中で「落下」と改めていた。どうも海のそばの断崖の上に彼女はいるようなので火サス的な場面を思いうかべているが、投身自殺なら「何年も」というのは妙だし、もしかするともっと抽象的な話で「凋落、没落」とかそういったことかもしれない。

彼女はほかの〔もうひとつの? 他人の?〕静かな vejrtrækning を聞く。trækning というのは trække の名詞形だろう。あっ、わからないと思ったが違う、これは前回出た trækker vejret「呼吸する」の名詞か。では「もうひとりの静かな呼吸」か。「静かな」rolig は独 ruhig と似ていそうで似ていないが少し似ているので覚えていた。で、その vejrtrækning の直後にコンマもなく at-節が続いているかかりかたがよくわからないが、その中身を見ると彼は目をその船に得る〔=一瞥する?〕ことができなかった、と。なんだか違う気がするがしかたがない。彼は彼がしなければならないことによって optaget には老いている。待て待て、どうも前回から、「彼」とは「彼女」が祈りを捧げている相手の主/キリストであって、「彼女」がなにか宗教的幻想を見ている話だと思いこんでいたが、この呼吸もしている「彼」は現実にいる登場人物なのか? そうなると前回の読みもかなり修正を要することになりそうだ。彼は彼女と同じように不安なのだろうか? 彼はそれ (形式主語かも?) が ske しないことを望みたがっているのか? 疑問文が続く。もし彼女が彼に skibet を見させることができたら、と彼女は思う、すべてのことはひょっとして別様になりうるであろうか。skib は「船」だと仮定してきたが、船を見るだけですべてが変わるというのはよくわからないので間違いだったかも。そして彼らはこの morderiske stævnemøde を udsætte できる〔だろうかと〕。morderiske はちゃんと考えればわかりそうな気配のする字面だ。もしかして独 mörderisch, 英 murderous「殺人的な」? でも独 ö は丁 ø のはずだし……。

そのとき彼女は彼の手が halsen の上に〔あることに〕気づく。halsen は肩か背中か、ともかく身体の部位だろう。また彼女は lav klynken とともに farer する。動詞 fare はいくぶん独 fahren「(乗り物で) 行く、走る」っぽくはあるがこの文脈で現れるようには思えない。しかしそれは彼女が ude efter である裸の/むきだしの十字架である。ude は英 out、efter は after だが意味はわからない。素早い/迅速な tag とともに彼は彼女の頭の上に remmen を løfter op する。「素早い」hurtig(t) は独と同じつづりなので明らか。tag は独 Tag「日」ではない、後者は丁 dag なので。remmen (未知形は remme? rem?) はなんであろうか、とにかくそれを頭に載せたかなにかしたようだ。そしてそれを握っていた (?) 彼女の手から金の十字架をひっぱる〔奪う?〕。knuge(t) は初回の末尾で「握る」と想定したがたぶん正しい気がしてきた。裸の十字架を tag、と彼女は思う、私はこれほど長く brug for したことがなかった、と。brug はたしか「使用」という名詞だったと思うが for がつくのはなんだろう。それに多くの gavn をそれは私になさなかった

彼女は頭を少し片側に drejer する、彼からの glimt を得るために。drejer は文脈から「傾ける」でほぼ確定ではないか、しかし glimt のほうは見当がつかない。そのあと現在分詞節、それが hanglingen をただ fremskynder するだけで、それをなおさらいっそう uafvendelig にする、ということが彼女の dumt だとよく知りながら。わかりそうでわからない単語が続く。hangling(en) は英 hang, 独 hängen の名詞なのだろうか。u-af-vende-lig は独 abwenden「逸らす、背ける」の形容詞の否定? もしそうなら「不可避的」くらいだろうか。そして彼女は闇がその肩を skygge しかえすのを見たので、ともに farer し、大声で言う:「主イエス・キリストよ、私たちに憐れみをかけたまえ!」と。もう barmhjertighed は「憐れみ、慈悲」でいいだろう。「肩」skulder(en) は英 shoulder に酷似するのでわかった。そうして彼女は背中に støvle を得、彼女の頭は hårdt に svirper bagud し、そうそう背中は ryg(gen) だ、リュックサックでおなじみ独 Rücken「背中」なので間違いない、では前出の身体部位らしき halse(n) は肩でも背中でもなくなるがいったい……? 次のコンマで挟まれた 2 語 kroppen fremover はまったく不明、そして彼女は kanten の上に tumler ud し、現在分詞がいくつも og (英 and) で結ばれて続く、flagrende に hvirvlende に baksende に落ちる。そして lodret な skrig を引く、彼女の後ろの kulstift から streg な ujævn のように。efter は英 after のようにさまざまの意味があるから「後ろの」ではないかも。火サス的イメージを引きつぎつつここまでを思いきり想像力豊かに読みなおしてみると、「彼」は鈍器かなにかを高速で「彼女」の頭に殴りつけ、「彼女」は助かろうと祈ったり十字架にすがったりしつつも、背中を押されたか刺されたかして崖から転落していく――、という場面に思えてくる。これはミステリ小説だったのだろうか?

ここで場面転換を表すであろう † の記号が段落間に挟まっている。その次の段落。彼は一歩を取り〔=離れ?〕、forsigtigt に støvlen を置く、bløde で eftergivelige な mos の上に。sætter はたぶん英 sit/set, 独 sitzen/setzen, 日「すわる/すえる」のペアの他動詞のほうでないかと思うので「置く」とした。efter-give-lige の give(r) は英 give なので、after-give-ly となるがそれはなんだろう。それから kanten の上に自分を læner ud し、kroppen に目をやる。kant(en) も krop(pen) も何度も見た覚えのある名詞なのにいっこう見当がつかない。その動作は ansigtet nedad をもって brændingen のなかに/を進んだり戻ったりと、fred に満ちて vuggende しながらである。この段落の、そしてプロローグ全体の最後の文、彼は huen を取り去り、mod な brystet を握り、そしてつぶやく:「私たちの主イエス・キリストが、私たちすべてを evindelig に nåde være するように、アーメン」。mumler は知らない単語だが英 mumble に似ているし流れからしても「つぶやく、ぶつぶつ言う」という感じでたぶん正しかろう。bryst(et) もここまで頻出なのに正体不明なのは遺憾だ。

ともかくもこれでやっとかプロローグが完全に終わったわけである。私はデンマークのオンライン書店 saxo で買った電子書籍で読んでおり、ページ数は電子書籍リーダの文字サイズ設定しだいで変わるのでわからないが、たぶん紙の本で 2 ページかぎりぎり 3 ページに入るくらいにすぎない。それだけでまる 3 日かかってしまったのは不甲斐ないばかりで、はたしてこの調子で続けてわかるようになるのか、そもそも続けられるのか自信がなくなっている。せめて現状の倍くらいは読める単語がないと推測もはかどらないのだが……。それでも kors「十字架」、knuge「握る」、mørke「感じる、気づく」のようにいくつか語義の決定に成功した単語のあるのも事実だ。このことに慰めを得てとにかく進んでみるしかない。

lundi 7 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (2)

いまや彼女は彼〔=主/キリストの声?〕を聞くことができる。彼の knirkende からの声が彼女を støvler し戻す? ここは文型というかどの単語がどうかかっているのかよくわからない。どのように彼が彼女に対し (中に?) lister sig stille するのか、ほとんど blu しきって (?)、前回も出てきた næsten を「ほとんど」ととってあるが定かでない、若い bejler のように genert で、彼女は聞く、どのようにして彼がその重い gispende な åndedræt をこらえようと試みるのかを。少し思いきって語義を想像してみた、そうでもなければなにもわからないまま上滑りしてしまうので。まず「こらえる」ととったのは undertrykke で、類似の単語としてデンマーク語 indtryk, udtryk がドイツ語 Eindruck, Ausdruck を介して (英語の impression, expression に対応する) フランス語からの翻訳借用であることを知っていたので、独 druck/drücken が丁 tryk(ke) になるであろうと考える。そうするとこの動詞は unterdrücken「抑える、こらえる」に違いない。ではその at-不定詞を目的にとる定動詞 forsøger は、こらえようとどうするのか、たぶん独 versuchen「試みる」ではないかと仮定しておくが、こちらはちょっと自信がない。だが今後もきっと同じ動詞が出てくるだろうからとりあえず気にしすぎないことにしよう。ところでいま最後に出た åndedræt という名詞はまえにも出たもので、そのときは tvunget の目的語であった。この動詞はまだ判明していないのだが、今回キリスト (?) が耐えようとしているのが重いまたは困難な gispende åndedræt なのだというから、試練とか苦痛とかそういった言葉だろうか。次の助動詞 kan の主語は彼女か彼かよくわからないが、自分のために/まえで genkendende hen して微笑むことをしないではほとんどいられない。lade være med at といういかにもイディオムらしいものはこのままでは永久にわからないだろうと判断したので辞書を引いた。今回の段落は短くて、次のイタリックの祈りで終わりである:「私たちは汝に乞う、私たち〔の声〕を聞きたまえ、主よ!」 bede はたぶん独 bitten「乞う」だと思う、しかし定動詞の現在形なら -r がつくはずなのでなにかがおかしい。

そのように/そのとき彼女は感じる、彼がただ 2, 3 歩ばかり彼女の後ろに stoppet op したことを。ここで mærke「感じる、気づく」は前回首尾よく割りだしたものである。そして彼女は forestiller sig する、彼が立っていて彼女を見つめている (?) ことを、彼らがともにいた最初のときのように。ser ... an という分離動詞というか句動詞っぽいものはいつも苦手だ、その副詞的前置詞の部分がどういうニュアンスなのかつかむのが大変である。ただ「見ている」だけではないようなので暫定的に勝手に言葉を足しておく。その次の overvejer という動詞はまったく見当がつかない。vej は英 way, 独 Weg「道」のことだが vejer とはなんだろう、「道」を over するなら行きすぎるとか逸脱するとかだろうか? その目的語は彼が何を ramme するだろうかということを overvejer する。違いそうだ。ramme という動詞もどこかで見た、そう、海の水が崖を rammer するのであった。削る? 打ちつける? それと何が (どんな、どれくらい?) hårdt かを。デンマーク語 å がドイツ語のどの母音に対応するかもそろそろ見極められたら推定もしやすくなるのだが。というのは彼女は彼が彼女を dræbe したいということを、しかし彼は彼女を fortræd にしたくはないということを知っていたから。それから føles というおそらく s-受動態の動詞がわからないが、慰めのある føles である、彼に så tæt på させることは。trøstende というおそらく現在分詞は独 trösten「慰める、元気づける、希望を与える」に違いない。いまや何を彼女の生が være slut しようとしてるか (を?)。このあたりは文のつながりがわからず前後の句とどう関係しているのか支離滅裂。それは彼女を tryg にし、また彼女に slappe af させる。そして彼女は brystet に向かって下に hagen を曲げ〔=かがみこみ?〕、深く天気を trækker する。最後は絶対に間違っているなあ。原文は trækker vejret dybt で、dybt は「深く」という副詞のはずだし、vejr は「天気」という意味しか知らない。あんまり暗中模索を続けるのも気分がよくないので vejr を辞書で引いてみると「息」という語義もあった。trække vejret で「呼吸する」も載っていた。深呼吸か。また祈り、「神の子よ、私たちは汝に乞う、私たちを聞け!」 かなり信心深い、もしくはそういう境遇に陥っている女性のようだ。あまり進まなかったが時間なので今日はここまで。

dimanche 6 octobre 2019

デンマーク語素読――永遠のフィヨルドの預言者たち (1)

先日、翻訳家の柴田元幸氏の編集する MONKEY 誌の既刊 12 号 (2017 年 6 月発刊) にて、アメリカの作家リディア・デイヴィスによる「ノルウェー語を学ぶ」という記事を読んだ。これはノルウェー語をほとんどなにも知らない彼女が、それを勉強することも辞書を引くこともなしにノルウェー語の分厚い小説――「テレマルク小説」と通称されるダーグ・ソールスターの近著、正式なタイトルは Det uoppløselige episke element i Telemark i perioden 1591–1896, 2013――を読みきる過程をレポートしたものであり、私も触発されて同じ挑戦をしてみようと思いたったものである。これをリディア・チャレンジと呼ぶことにしよう。

だが私とデイヴィス氏とではまったく条件が異なる。彼女は母語が英語で、小学生のときに 1 年間オーストリアに暮らしてドイツ語で小学校教育を受けたことがあり、翻訳家としてフランス語からの翻訳を何冊も手がけるというように、まず英独仏のかなり自由になる知識を有している。さらに少なくともほかにスペイン語とオランダ語も勉強して本を何冊か読んだことがあるという。周知のとおりノルウェー語はゲルマン語の仲間でドイツ語や英語と少なからず単語や文法を共有しており、実際にその記事を読めばわかるとおり、彼女はかなりの頻度で英語とドイツ語の知識に頼ってノルウェー語の意味を推定している。したがって、ほぼゼロから読みはじめるとはいっても、たとえば彼女が日本語の本を読むというのとはぜんぜん話が違うのである。もし彼女の挑戦する相手が日本語であったならば、たとえ本の終わりまで目を通してもほとんど理解は進まなかっただろうし、それどころか途中で投げだす可能性も大きかったのではないか。

さてなにを読むかという段になると、ノルウェー語にも私は興味があるが読みたい本のほうをぱっと思いつかなかったので、かわりにデンマーク語でかねてより気になっていた小説、Kim Leine の Profeterne i Evighedsfjorden, 2012 (『永遠のフィヨルドの預言者たち』) を課題図書として採用しよう。あらすじについては 18 世紀末に行われたグリーンランドへのキリスト教宣教に関わる歴史小説?というくらいしか承知していない。これは翌 2013 年に北欧理事会文学賞に選ばれた世評の高い作品で、「テレマルク小説」と違ってすでに英語を含むいくつかの言語に翻訳されているが、もちろんその翻訳には頼らないことにする。

もっとも私はすでにデンマーク語を少しだけ勉強した経験があるが、アクティブに使う経験はなく単語力はといえばまったく壊滅的なので、ほとんど無知な状態といっても大差がない。私も原則は辞書や人に尋ねることなしにひたすら原文を読み、しかしどうしても困ったら多少はルールを曲げてよい、というデイヴィス氏流の緩やかな縛りを真似ることにしよう。

以下に記録するのは実際にこの本をデンマーク語で読み解読した生の過程である。私のさまざまな悪戦苦闘の部分を除き、原文の翻訳らしきものになっている箇所だけを太字にしてあるので、太字の部分のみを拾い読めば原文の筋がわかる……ようになるのはまだずいぶん先のことであろう。現時点ではわからない単語が多すぎてまったく翻訳としては機能していない。


どうやらプロローグらしい章の最初の行には、見出しとして Faldet という 1 語が出ているが、のっけからなんだかわからない。でも fald- なのでたぶん「落ちる」という動作と関わりがあるのではないか? -et は中性既知形語尾。次の行に日付があるのでもしかして英語の fall と同じくのことか? しかしその日付は 1793 年 8 月 14 日。まだ舞台がデンマークなのかグリーンランドなのかも判断できないが、いくら北の国でもまさか 8 月 14 日が秋ということはないだろう。保留。それにしても「8 月」が august なのは助かる、たとえばチェコ語 srpen のようにてんで違うつづりだったら迷宮入りになるところであった。

本文に入る。最初の語は enken、これも不明。スウェーデン語だかノルウェー語だかの enkel「単純な、簡単な;単独の、一人の」と似ている。不定代名詞っぽさもある。誰かは一人でここへ上がってきた、誰も彼女にそうするよう tvunge することなく。enken と過去分詞 tvunget 以外はだいたいわかるので大づかみに訳してみた。これはかなり幸先がいい、と気をよくする。彼女は自分のとても美しい服から lusene を banket した。lusene の -ene は複数の既知形語尾なので、lus がなにか物を表す名詞だろう。「光、明かり」かとも思ったがそれはデンマーク語だと lys だっただろうか。そして iført sig dem、ほとんどなんだかわからない。自分をそれに iført した? 次に fælleshusets urinbalje のなかで髪を洗い、それを結いあげた。fælles はデンマーク語文法でいう普通名詞 (fællesnavn) や共性 (fælleskøn) の前半部分なので、英語でいえば common だろう。では共通の家の urinbalje か。共用の風呂場? 彼女は 1 つの stille bøn を bedt した。これはだめだ、なにもわからない。彼女の hedenske な同居人から tavst iagttaget した。bofæller が同居人というのも勘でしかない。bo(r) は「住む」だし fælle はさっき見た「共通」なので、たぶん正しいのではないかと思う。そして子どもたちから sodblandede fedt を skrabet した。kinderne が「子ども」というのも嘘かも。独 Kind(er) を連想したせいだが、よく考えたら北欧語で子どもは barn のたぐいだと思う。それからおいしい måltid を食べた? ここは文構造がわからない、ひょっとすると måltid は副詞か接続詞だったりするかもしれない。とにかくなにかよいもの (det gode) を食べた (spist) らしい。それは彼女へ stillet frem されていたように見える。そのようにして彼女はここに上がってきたlette skridt の上に båret して。なんのことやら。lette の上にというからにはなにかその上に乗れるもの、仏 lit「ベッド」を思いうかべるがたぶん関係がない。いまや彼女はここに座っている、ほとんど喜んで、forventning に満たされて。それからまた kinderne が出てくる。怪しいと思いつつ子どもと訳しておくしかない。子どもたちのなかで呼んだ、kanten の上で外に (??)、彼女の下のなかに (???) tækkeligt に benene とともに、enkemaner の上に。支離滅裂。だいたいどうしてデンマーク語 (やフェーロー語やアイスランド語など) では ude på だの ind under だの、ud af だの frem til だのと、前置詞らしきものが二重に重なるのか、この種のものはまったく意味がとれない。片方 (おそらく前者) は場所の副詞か、ドイツ語で言うところの分離前つづりのようなものだろうか? とにかく読み進めるしかない。しかしそのまえに一点、最後の enkemaner の enke は冒頭の enken と同じものではないか? そのことに留意しておく。まだ文はコンマで続いており、このようにして彼女は glamhullet の下の小さな sidebriks の上に derhjemme 座ることを plejer する。sidebriks の後半は英語の brick「レンガ」のようにも見える。片方の手に彼女は korset を knuger し、金の重い varme のなかに trygheden を mærker する。これまでの文に比べれば心なしかましになった。とにかく金製の重いなにかが手のなかにあるらしいという多少とも具体的な情景が思い描かれる。ここまでまったく五里霧中であっただけに、まさしく闇のなかに一筋の光を見たようでありがたみを痛感する。まだ第 1 段落の半分までしか来ていない。彼女のずっと下方、少なくとも数百 favne の落差の下に、彼女は brændingen を聞く。favne は間違いなく長さの単位だろう。「少なくとも」と訳したのは mindst で、それは独 zumindest から類推した。いま fald に再会し「落差」ととったが、これはこのプロローグの見出しの単語であった。やはり「秋」ではなく「落下」だろうか? だがそれでもどういうことかわからない。水がそこで rammer klippen、白い skum に knuse され、sydende が自分を trækker し戻ってくる。高い崖の下で海の波が寄せては返す感じか? なんとなくわかってきた気もするがすべてが妄想である危険性がある。だが彼女はそれを見ていない、彼女は両目を knebet i している。両目をつぶっている? それから indad 瞬きを vendt し、彼女は ængstelsen を bekæmpet した。またわからない単語が増えている。-else は名詞を作る接尾辞だから、ængst の部分が語幹で、独 Angst「不安、恐怖」によく似ているものの、前後の単語もわからないので妥当性が確かめられない。そして 1 行めに出会った動詞 tvunget が再登場する。sej なリズムで åndedrættet と心臓の lagene を tvunget した。rytme はたぶん仏 rythme, 英 rhythm だろうと想定した。それにかかる形容詞 sej とはなんだろう、短いのでかなり基本的な単語に違いないが、速いのか遅いのか。さらに彼女は læberne を bevæger し、litaniet を何度も何度も gentager する。litaniet はどう見たってデンマーク語ではない借用語だ。デンマーク語の辞書は引かないつもりだが、英語ならいいだろうということにすると、litany「連祷」というキリスト教用語が見つかるのでこれに間違いない。同じ祈りの言葉を何度も何度も繰りかえし口にしたわけだ。そういえば læberne も (単数未知形は læb か læbe か) 英 labial「唇の」に似ている。bevæger læberne は「唇を動かし」? be-væg- という字面はどうも動かしそうな感じに見える (独 bewegen)。この次の 2, 3 行はイタリックで組まれている。祈りの句だ。「おお天にいる父なる神よ、私たちに barmhjertighed をもて」? hav はまさか「海」ではないだろうから、たぶん「もつ」har の命令法かと考えた。次の 2 語 elendige syndere は不明。それから「おお神の子よ」と来てまた「barmhjertighed をもて」。-hed=独 -heit なのでなにか抽象名詞のようだがいったいなんなのか。「憐れみ、慈悲」あたりか? 「おお神、救い主よ」。この Helligånd もちょっとわからないが、ヘーリアントに似ているし大文字書きなので「救世主」かと推測。祈りの句の最後、「おお velsignede で herlige な Treenighed よ」。なにもかも不明、だが最後の大文字の名詞は「三位一体」かもしれない。その直前の形容詞は「聖なる」かも? これらを唱え終えると彼女は下から i stød に来る風を mærker し、彼女の dragt のなかの生命/人生を puster する。mærke(r) という動詞は何行かまえにも出たもので、そのときの目的語は tryghed(en) であった。bevæge : bewegen のように æ がドイツ語の e に対応するとすればこれは merken「気づく、感じとる」なのではないか? 「風を感じる」のはかなりそれらしいので有力候補だ。次に彼女は klippen の上の fugtige な tørv に自分を klamrer する。klipp(en) は独 Kliff, 英 cliff「崖、絶壁」のような気がしてきた。彼女がそうするのは utide に kanten について skubbet ud されないためにだという。このように彼女は座ったまま連祷を messer し、助けを待って/期待している。ふたたびイタリックで祈りの言葉、「汝の dødsangst と blodige sved がともに、汝の kors と lidelse がともに、私たちを frels したまえ、主よ!」 これがこの段落最後の文。dødsangst ははじめ død-sangst に見えたが (仏 sang「血」)、døds-angst と切るとすれば「死の恐怖」? kors はしばらくまえに korset という中性単数既知形で出てきたが、思えばこれもぜんぜんデンマーク語らしくない。文脈からイエスに関係する単語、もしかして「十字架」ではないか? ではあのときそれを目的語にとった定動詞 knuger は「握る」とか? 今日はここまで。

mardi 3 septembre 2019

16 世紀ゲルマン語訳聖書を読む:ガラテア 1:1–5

ルター訳およびそれに影響を受けたとされる同時代の北ゲルマン語訳聖書を比較して読んでみる。ここでは「ガラテアの信徒への手紙」1 章 1–5 節を題材にとる。

聖書のテクストはルターが翻訳の底本としたエラスムスによる第 2 版のギリシア語聖書 (1519 年)、ルターの初訳であるいわゆる「9 月聖書」 (1522 年)、そして事実上ルター訳がその「基礎を置くことになった」(塩谷饒『ルター聖書 抜粋・訳注』大学書林、1983 年、194 頁) というデンマーク語、スウェーデン語、アイスランド語訳の順に掲げる。

すなわちデンマーク語訳は 1524 年のいわゆるクリスチャン II 世聖書、スウェーデン語訳はグスタフ・ヴァーサ聖書に利用されることになる 1526 年の新約聖書、アイスランド語訳は 1540 年のオッドゥルの聖書で、いずれもそれぞれの言語で出版された最初の聖書である。

聖書のテクストを現在のような節に分けたのは 1550 年代のロベール・エティエンヌによるギリシア語聖書からであったから、本稿で用いたテクストにはもとよりないものであるが、便宜上この区分けを採用した。

エラスムスのギリシア語刊本にあるさまざまの特殊な文字・合字については再現できないためほとんどを通常の文字に戻したが、例外として ϛ (スティグマ = στ) と ϖ (π の異体字)、また現用と異なる記号の用法 (ὀυκ や ὁι など語頭二重母音における気息記号やアクセント記号の位置、δϊά の分音符など) だけはそのままにした。

その他のラテン文字の各国語訳において、ſ (long s) および ꝛ (r rotunda) はたんなる s, r として区別せず表した。古く上つきの小さな e として書かれていた本来のウムラウトは現代式に直した (スウェーデン語のみ。ルター初版のドイツ語にはまだなく、現在の ä は e、ö, ü はたんに o, u と書かれていた)。


Gal 1:1


Gk. Erasm 1519  [Π]ΑΥΡΟΣ ἀπόϛολος, ὀυκ ἀπὸ ἀνθρώπων, ὀυδὲ δἰ ἀνθρώπου, ἀλλὰ δϊὰ Ιησοῦ Χριϛοῦ, καὶ θεοῦ ϖατρὸς, τοῦ ἐγείραντος ἀυτὸν ἐκ νεκρῶν,
De. Lut 1522  [P]Aulus ein Apostel: nicht von menschen: sondern durch Jhesum Christ vnd Got den vater / der yhn aufferweckt hatt von den todten /
Dk. ChrII 1524  [P]Øuild en apostel / icke aff mēnisken oc ey wed noget mēniske / men wed Jesum Christū / oc gud fader / som haffuer opveisd hānom aff the døde /
Sv. NT 1526  Paulus Apostel icke vthaff mennisker / ey heller genom någhon menniskio / vthan genom Jesum Christum / och gudh fadher som honom vpwäct haffuer aff dödha /
Is. Odd 1540  [P]All ein̄ Apostule / eigi af mōm [= mönnum] / nie helldr fyre man̄in̄ / helldr fyrer Jesū Kristū / ⁊ gud faudr / sa han vpp vackti af dauda /

奇妙なことに、9 月聖書では「人々からではなく」nicht von menschen の次に続くべき「人々を通してでもなく」auch nicht durch menschen が欠けており、すぐさま「イエス・キリストと……」sondern durch Jhesum Christ vnd... と続いている。エラスムスの編集したギリシア語原文では含まれているのであるから、ルターの翻訳ミスか植字工による脱字かのどちらかであろう。ルターが生前最後に手直しした版 (Ausgabe letzter Hand, 1545 年) には „auch nicht durch Menschen“ が入っているので、この間のどこかのタイミングで修正されたらしい。北欧 3 言語ではいずれも正しく含まれている。

オッドゥル訳に Pall (= Páll) の同格の称号 ein̄ (= einn) Apostule「使徒パウロ」とあるが、このように数詞 1 を不定冠詞として使う用法は中世 (古アイスランド語) から現在に至るまでアイスランド語にはない。これは明らかにルター訳 Paulus ein Apostel のドイツ語の敷き写しである。

Gal 1:2


Gk. Erasm 1519  καὶ ὁι σὺν ἐμοὶ ϖάντες ἀδελφοὶ, ταῖς ἐκκλησΐαις τῆς γαλατΐας.
De. Lut 1522  vnd alle bruder die bey myr sind. Den gemeynen ynn Galatia.
Dk. ChrII 1524  oc alle brødre som ere hoss meg. Thend men hed vti Gallatia
Sv. NT 1526  och alle brödher som när migh äro. Then forsamblinge som är j Galatia.
Is. Odd 1540  ⁊ aller þ̄r [= þeir] brædr sem medr mier eru. Sofnudunū [= Söfnuðunum] i Galatia

alle bruder にかかる関係節内の語順に注意されたい (ギリシア語では前置詞句であって関係節でないが)。ドイツ語では die bey myr sind (= die bei mir sind) のように定動詞が末尾に来る枠構造が義務的であるが、北ゲルマン語ではそのような語順をとらない。デンマーク語訳はそのとおりデンマーク語的な語順を呈しているが、スウェーデン語訳およびアイスランド語訳では定動詞 äro, eru が文末に来ているのはルター訳の影響であろう。

ほかにはデンマーク語・スウェーデン語の独立 (前置) 定冠詞 thend, then が興味を引く。デンマーク語では次の 17 世紀の文法書 (Koch) では dend とされているし、すでに 1550 年のクリスチャン III 世聖書でも den になっているので、古東ノルド語式に th の文字が使われている最後の時代と思われる。

Gal 1:3


Gk. Erasm 1519  Χάρις ὑμῖν καὶ ἐιρήνη ἀπὸ θεοῦ ϖατρὸς, καὶ κυρΐου ἡμῶν Ιησοῦ Χριϛοῦ,
De. Lut 1522  Gnade sey mit euch vnd frid von Gott dem vater / vnnd vnserm hern Jhesu Christ /
Dk. ChrII 1524  Nade ware met eder oc fryd aff gud fader wor herre Jesu Christo /
Sv. NT 1526  Nådh wari medh idher och fridh aff gudh fadher och wårom herra Jesu Christo /
Is. Odd 1540  Nad sie med ydr / ⁊ fridr af gudi faudr / ⁊ vorū Drottne Jesu Christo

内容が挨拶の定型的であることも手伝ってか、これまでの 2 節にもまして、すべての語句が順番まで一語一句ルター訳とまるきり同じである。すなわち Gnade = Nade = Nådh = Nad、希求の接続法 sey = ware = wari = sie、前置詞 mit = met = medh = med、人称代名詞 euch = eder = idher = ydr、等々。

Gal 1:4


Gk. Erasm 1519  τοῦ δόντος ἑαυτὸν ὑπὲρ τῶν ἁμαρτϊῶν ἡμῶν, ὅπως ἐξέληται ἡμᾶς ἐκ τοῦ ἐνεϛῶτος ἀιῶνος ϖονηροῦ, κατὰ τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ καὶ ϖατρὸς ἡμῶν,
De. Lut 1522  der sich fur vnser sund geben hat / das er vns erredtet von diser gegenwertigē argen welt / nach dem willen Gottis vnsers vaters /
Dk. ChrII 1524  som haffuer giffued sig selff for wor sønder / paa thet hand motte redde oss fran thenne neruerende onde werden / effter gudz wor faders willte /
Sv. NT 1526  som sigh för wåra synder giffuit haffuer / på thet han skulle vthtagha oss frå thēne näruarādes snödho werld / effter gudz och wårs fadhers wilia /
Is. Odd 1540  sem sialfan sig hefer vt gefit fyre vorar synder / þ̄ [= það] hn̄ frelsadi oss i fra þ̄ssari nalægri vōdri verolld / epter gudz vilia / ⁊ vors faudis /

2 節で見たのと同じく、デンマーク語はルター訳の語順 der ... geben hat に引きずられず、haffuer giffued (= 現 har givet) を関係節内の最初にもってきているのに対し、スウェーデン語訳では som ... giffuit haffuer でルター訳と同じである。アイスランド語訳 hefer vt gefit (= hefur útgefið) はここでは 2 節と異なりアイスランド語本来の語順といえる。

アイスランド語訳についてはもう 1 点指摘することができる。「私たちの父なる神の意志」(希 τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ καὶ ϖατρὸς ἡμῶν, 独 dem willen Gottis vnsers vaters) では「神の」と「私たちの父の」という同格の属格が「意志」の後ろに 2 つ並んでおり、デンマーク語訳とスウェーデン語訳では 2 つがいずれも「意志」willte, wilia の前に並んでいるが、アイスランド語訳 gudz vilia ⁊ (= og) vors faudis では 2 つの属格が vilia の前後に分離しており、これは古風な統語法といえる (たとえば「赤毛のエイリークのサガ」Eiríks saga rauða で saga の前後に「エイリークの」と「赤毛の」が並ぶような)。じっさい、最近のアイスランド語訳聖書 (1981 年、2007 年) ではこの箇所は vilja Guðs vors og föður と後ろにまとめられている。

ギリシア語本文につき 1 点注意すると、τοῦ ἐνεϛῶτος ἀιῶνος は NA28 では τοῦ αἰῶνος τοῦ ἐνεστῶτος だが、意味は同じ (定冠詞つき名詞の修飾語になる形容詞の 2 通りの位置)。

Gal 1:5


Gk. Erasm 1519  ᾧ ἡ δόξα ἐις τοὺς ἀιῶνας τῶν ἀιώνων, ἀμήν.
De. Lut 1522  wilchem sey preysz von ewickeyt zu ewickeyt Amen.
Dk. ChrII 1524  huilken ske ere fran euighed til euighed Amen.
Sv. NT 1526  huilkom ware prijs frå ewogheet till ewogheet Amen.
Is. Odd 1540  hueriū at sie dyrd vm allder allda Amen.

永遠から永遠へ」の訳は、ギリシア語の ἐις τοὺς ἀιῶνας (複数対格) τῶν ἀιώνων (複数属格) に対し、独丁瑞では von ... zu ..., fran ... til ..., frå ... till ... のごとく、語順を逆転させ起点のほうに前置詞 von, fran, frå を補う必要があったが、アイスランド語では vm allder allda = 現 um aldir (複数対格) alda (複数属格) と時を表す格の用法の平行によってすっきり表現できている。すなわちここではオッドゥルはルター訳ではなくギリシア語原文に直接あたったのかもしれない。

samedi 25 août 2018

16 世紀北ゲルマン語圏の聖書を読むための覚書

ヨーロッパの 16 世紀は宗教改革の世紀である。ルターがいわゆる 95 箇条の提題を (ラテン語で) 張りだしたのが 1517 年の 10 月 31 日、そして聖書のもっとも重要な (初期新高) ドイツ語訳であるルター聖書が世に出たのは、1522 年のいわゆる 9 月聖書であった (新約のみ。旧約および外典を含む完訳は 1534 年)。

このときルターが翻訳の基礎としたのは、エラスムスの手になるギリシア語新約聖書 Novum Testamentum omne の第 2 版 (1519 年) である。エラスムス校訂のギリシア語テクスト (初版は 1516 年) は公認本文 (テクストゥス・レケプトゥス textus receptus) と呼ばれ、ルター訳のみならずそれを通して以下の北欧語訳に、それからなにより英訳聖書のティンダルや KJV のもととなっていくもので、現代の本文批評からすればさまざまの問題があるにせよいまも熱心な支持者はいるようだ。

デンマーク語で印刷された最初の聖書は 1524 年のクリスチャン II 世聖書で、これも新約のみであったが、最初の完訳は 1550 年のクリスチャン III 世聖書 (Christian III’s Bibel) である。この底本についてはいまいちよくわかっていないが、王の希望でルターのドイツ語訳に可能なかぎり近づけられたものらしい。そのためデンマーク語訳ではあっても教養のない農民階級にとっては理解困難なものだったという。この聖書はノルウェーでも用いられた。

スウェーデン語訳はやはり翻訳を命じた王の名前をとったグスタフ・ヴァーサ聖書 (Gustav Vasas bibel) が重要であり、これは新約部分が 1526 年、完訳は 1541 年。スウェーデン語は私の守備範囲外なので詳しく調べていない。

アイスランド語の最初の完訳聖書は、ホーラル司教グヴュズブランドゥル・ソルラウクスソンによるグヴュズブランドゥル聖書 (Guðbrandsbiblía) で、これは 1584 年に刊行された。ただしその新約部分は先行する 1540 年出版のオッドゥル・ゴットスカウルクソンの新約聖書 (Nýja testamenti Odds Gottskálkssonar) をあまり変えずに用いているということである。

フェーロー語に聖書が翻訳されるのは残念ながら 19 世紀に入ってからのことなのでここでは取り扱わない。宗教改革期以降フェーロー諸島ではデンマーク語の影響が顕著になり、聖書以下宗教関係の文献はデンマーク語のまま用いられた。


さてこれらの聖書は (エラスムスのものを除いて) 当時のゲルマン語の出版物であるからすべてブラックレター体で印刷されている。ブラックレターは俗にドイツ文字と呼ばれるフラクトゥールの同義語として用いられることも多いが、正確にはより広い呼び名であって、ここではフラクトゥール (Fraktur) の作られるまえに使われていたシュヴァーバッハー体 (Schwabacher) の名をとくにあげておく。

というのは、このシュヴァーバッハー体はだいたい 1530 年ころからフラクトゥールに取って代わられていくのだがそれ以前には広く使われ、とりわけ 1522 年のルター聖書ではシュヴァーバッハー体が用いられているのに加えて、先述のもののなかではオッドゥルのアイスランド語新約聖書もこの書体で組まれているからである。

シュヴァーバッハーにせよフラクトゥールにせよ、読むうえでの注意点はだいたい共通している。まず、何度も頻出する単語や語尾などは略記される場合があるということ。どういう語がそうであるかは言語によって違うので一概に言えないが、その言語を読めるほどに習熟していれば難しくはない。

それからいくつか特殊な文字があるということ。代表例は ſ すなわち「長い s」だが、これはあまりにも有名であって、ブラックレターのみならずかなり最近 (19 世紀) のローマン体の文書でもおなじみであるからあえて贅言を要しない。

しかし s に 2 種類あることは周知でも、r にも 2 種類 (あるいはそれ以上) あったことはあまり知られていないのではないか。ブラックレターを読むときに覚えておかなければならないのは r rotunda「丸い r」と呼ばれるもので、ローマン体の r と似ていてすぐにわかる 𝔯 のほかに、一定の場合に ꝛ という数字の 2 に似たべつの形をとるのである。

その一定の場合というのはかならずしも明らかでなく、前の字が右側に弧状の丸みをもつ場合 (b, o, p など) と説明されていることがあるが、それはドイツ語あるいはラテン語などでは正しかったのかもしれないがどうもそうではない例も見受けられる。


この画像はオッドゥルの新約からルカ伝 4 章冒頭の段落である。いちばん上の行は „fiordi capitule“ と書かれている。その 2 行下の最初の単語は „Jordan“ である。いずれも o の直後に r が来るが、見慣れた r が書かれている。

一方この段落のいちばん最後の単語 „ordi“ では、同じ o のあとなのに r rotunda が使われている。その真上の語 „madrin̄“ (現代のつづりでは maðurinn にあたる) もそうであるが、d はブラックレターでは右側が丸い文字にあたるのでこれは法則どおりである。しかし 1 行め後ろから 2 番めの „aptr“ はそれでは説明がつかない。


いま掲げた画像はグヴュズブランドゥル聖書からルカ伝 4 章の続き。顕著なのは 3 行め右から 5 番めの単語 „fellr“ で、明らかにどこも丸い部分がない l の直後で r rotunda が用いられている。


ダメ押しにもうひとつだけ示しておく。これは 1526 年のスウェーデン語の新約マタイ伝 1 章冒頭だが、1 行め大きい活字の最後 „Chri⸗[sti]“ の r も、この行だけテクストゥールらしい書体で、たまたまどこも丸くない h の直後に r rotunda が置かれている (もっとも r rotunda を使う基準として、その書体のグリフが丸いかどうかはあまり関係がないようだが)。

ところでこれらの文書は s の使いかたもわれわれの知る常識どおりではないところがある。さきほどのグヴュズブランドゥル聖書の画像の 2 行め中央から „⁊ þeſſ pryde mun eg ...“ とあって、明らかに語末なのに長い s が使われている。逆に最初のオッドゥルの最下行を写すと „dr af sier hueriu gudz ordi“ となっているが、語頭で丸い s が使われている。まあどちらの形でも s は s、r は r なので読解上の支障はないと思う。

では最後に、すでに画像から気がついていたかもしれないが、オッドゥルの紙面ではギリシア文字の τ かひらがなの「て」に似た、あるいはグヴュズブランドゥルの活字では数字の 7 か ƶ にでも似た謎の文字が頻出している。

これはアイスランド語では og、すなわち英語の and にあたる記号である。もともとローマ時代の速記官ティロ Tiro の記法 (にあとから付け加えられたもの) といい、とりわけ古英語やアイルランド語で ⁊ の形でよく見かけられるもので、Tironian ond や Tironian et などと呼ばれている (ond は古英語で and にあたる語、et はラテン語で & の字形のもとになった語。アイルランド語のため agus と呼ばれることもある)。

lundi 13 août 2018

アンデルセン「人魚姫」冒頭の翻訳比較

あまたあるアンデルセン童話のなかでも「人魚姫」はもっとも人気のある作品のひとつであり、日本語にも多数の翻訳がある。本稿ではアンデルセンのデンマーク語原文冒頭の数段落を読み、それに逐語的な直訳を付すことで、既存の代表的な邦訳 7 種と比較してお目にかける。

そのさい邦訳が直訳した場合と明らかに食い違っている箇所 (たいていは原文にない敷衍) を赤字で指し示す。ただし日本語が代名詞の過剰使用を避けて名前を繰りかえしたり省いたりすることなど、日本文としてやむをえないと思われる点はいちいち指摘していない (が、その基準を厳格に定式化することは難しく、読者には不統一に感じられる箇所があるかもしれない)。

もとより翻訳の良し悪しを評価する尺度というのは、語学的な厳密な正確さばかりではなく、日本語として読んで自然で美しい文かどうか、あるいはこういうジャンルだとさらに子どもにとって言いまわしが難しすぎないかとか、読み聞かせるため朗読したときの調子とかも基準に加わってくる、きわめて複合的な問題であるから、原文との違い (赤字) が多いからといって短絡的にそれだけ悪いというものでもないことは念のため述べておく。さらに翻訳の底本の違いによって訳文に異同が生じている可能性もあるが、これは確かめていない。

本稿では原文テクストはデンマーク語版 Wikisource によった。ただしいくぶん長い段落については、見比べやすくするためそれぞれ半分に分割した (邦訳でも山室訳・高橋訳・大塚訳・天沼訳はだいたい同じような段落分けをしている)。また「人魚姫」は 1837 年に書かれた古いデンマーク語であるから、随所で現代の正書法と異なっているが、これはあえて改めていない。この点につき知りたい向きは、過去の記事「アリスの最初のデンマーク語訳 (1)」にて概略を述べてあるのでそちらをご覧いただきたい。

ここに私が付す直訳では、日本語としての自然さは犠牲にして一語一句過不足なく移すようにし、句読点の切りかたもなるべく原文と順番が前後しないことに意を用いた。原文を直接読めない人にも違いが見わけられるためにである。原文に対応しない敷衍を行う場合は亀甲括弧〔……〕に入れて示す。一方、引用される各種邦訳に見られる赤字の亀甲括弧と打消線は、実際の訳文には欠けているが原文にあるはずだった語句、すなわちなにが訳し落とされているかを示している (もちろんこれも多いほどただちに悪いというものではない、すべて訳出すると日本語では冗長になる場合も多いので)。

比較対象の邦訳の所収著作一覧は以下のとおり (刊行年順):
訳文の表記は句読点や漢字/かなの変換に至るまで一字一句すべて引用元のとおりとするが、振りがなと傍点は再現せず省略した。上で注意した亀甲括弧以外の括弧は訳書にあるとおりである。


第 1 段落


Langt ude i Havet er Vandet saa blaat, som Bladene paa den deiligste Kornblomst og saa klart, som det reneste Glas, men det er meget dybt, dybere end noget Ankertoug naaer, mange Kirketaarne maatte stilles ovenpaa hinanden, for at række fra Bunden op over Vandet. Dernede boe Havfolkene.

直訳 海のずっと外では水はあまりに青いこと、もっとも美しいヤグルマギク* の花びらのごとく、またあまりに澄んでいることもっとも透明なるガラスのごとくであるが、そこはとても深く、どんな錨綱が達するよりさらに深く、多くの教会塔がたがいの上に積まれねばならない、〔水〕底から水〔面〕の上まで届くためには。その下には海の人々が住んでいる。

* 以下の邦訳ではヤグルマギク・ヤグルマソウが 4 対 3 でほぼ拮抗しているが、デンマーク語版 Wikipedia に „Kornblomst“ として立項されている学名 Centaurea cyanus の植物は日本語版で「ヤグルマギク」、その項目によるとかつて「ヤグルマソウ」とも呼ばれたがべつの植物と混同のおそれがあるのでヤグルマギクのほうが望ましいということである。

大畑訳 海をはるか沖へ出ますと、水は一番美しいヤグルマソウの花びらのように青く、このうえなくすんだガラスのようにすんでいます。ところが、その深いことといったら、どんなに長い、いかりづなでもとどかないくらい深くて、教会の塔をいくつも、いくつも積み重ねて、ようやく〔底から水の上までとどくほどです。このような深い海の底に、人魚たちは住んでいるのです。

山室訳 海をはるか沖へでますと、水はいちばん美しいヤグルマソウの花びらのように青く、またこのうえなくすんだガラスのようにすんでいます。けれども、そのふかいことといったら、どんなに長いいかりづなでもとどかないほどふかくて、その底から水のおもてまでとどかせるには、教会の塔をいくつもいくつもつみかさねなくてはならないことでしょう。人魚たちがすんでいるのは、そういう海の底なのです。

高橋訳 海のずっと沖では、水の色は、いちばん美しいやぐるまぎくの花びらのように青く、きれいにすきとおったガラスのようにすみきっています。そして、たいそう深く、どんな長いいかりづな(いかりと船を結ぶつな)でも、とどかないほど深いのです。海の底から水の上までとどくためには、教会の塔をたくさんつみ重ねなければならないでしょう。そういう深い底に人魚は住んでいます。

大塚訳 海の沖のほうへ、はるか遠くまでいくと、そこの水は、いちばん美しいヤグルマギクの花びらのように青くて、いちばんすきとおったガラスのように、澄みきっています。それでも、そこはとても深いのです。どんなに長いいかり綱をおろしても、底までつかないくらいに深いのです。その海の底から水のおもてまでとどかせるためには、教会の塔をとてもたくさん、上へ上へと積みかさねなければならないでしょう。そういう深い海の底に、海の民である人魚たちは住んでいるのです。

長島訳 ずっと沖の海は、もっともすばらしいヤグルマソウの花びらのように青くて、もっともきれいなグラスのように澄んでいますが、そこはとっても深いのです。どんな錨の綱がとどかないほどで、底から海面まで、教会の塔をいくつも重ねないととどかないような深さです。そんな海の底に人魚たちが住んでいまし

金原訳 海のはるか沖では、水はもっとも美しい矢車菊の花びらのように青く美しくもっとも透明な〕水晶のように澄んでいる。そしてどんな錨のロープをおろして計りきれないほど深い。教会の塔をいくつ積み重ねても水面に届かない* ほどの海の底に、海の王さまと臣下たちが住んでい

* 原文ではたくさん積み重ねれば届くことになっているので、いくつ重ねても届かないというのはこの訳独自の誇張。それはもちろんレトリックの範疇ではあるが、少なくともほかの訳はどれもそこまで言っていない。

天沼訳 はるか海の沖では、水はもっとも美しいヤグルマギクの花さながらに青く、また、もっともすきとおったガラスのように澄んでいる。そのあたりはとても深くて、どれほど長い錨綱だって、底まで届かぬほどなのだ。海の底から水のおもてまで届かせるには、教会の高い塔をいくつも積みかさねなくてはならないだろう。そんな深い海の底に人魚たちは暮らしてい


第 2 段落前半


Nu maa man slet ikke troe, at der kun er den nøgne hvide Sandbund; nei, der voxe de forunderligste Træer og Planter, som ere saa smidige i Stilk og Blade, at de ved den mindste Bevægelse af Vandet røre sig, ligesom om de vare levende. Alle Fiskene, smaae og store, smutte imellem Grenene, ligesom heroppe Fuglene i Luften.

直訳 さて〔次のように〕考えてはぜんぜんいけない、そこにはただむきだしの白い砂地があるだけであると;いいえ、そこではもっとも不思議なる木々や植物が育っており、それらは茎や葉がとてもしなやかなこと、水のもっとも小さな動きでも揺れるほどであり、あたかもそれらは生きている* かのようだ。すべての魚たちは、小さいのも大きいのも、枝々のあいだをすいすいと動く、この〔地〕上で空の鳥たち〔が飛ぶ〕ように。

* この var は反事実的仮定を表す過去時制であり、時間的に過去のことを表すのではないから、逐語訳にもかかわらず非過去 (現在) で訳した。

大畑訳 さて、海の底は、なにも生えていないで、ただ白い砂地だけだろう、などと思ってはいけませんよ。いいえ、そこには、それは珍しい木や草が生えているのです。その茎や葉のなよなよしていることは、水がほんのすこし動いても、まるで生きもののように、ゆらゆら動くのです。そして、小さいのや大きいのや、ありとあらゆる魚がその枝のあいだをすいすいとすべって行きます。それはちょうど、この地上で、鳥が空を飛びまわっているのと同じです。

山室訳 ところでみなさん、海の底はただ白い砂地になっているだけだろう、なぞと思ってはいけません! いいえ、そこには、世にもめずらしい木や草がはえていて、その茎や葉のしなやかなことは、水がほんのちょっとでもゆれると、まるで生きもののようにうごくのです。小さいのや大きいのや、ありとあらゆるお魚が、その枝のあいだをすいすいとすべっていくところは、まるきりこの地上で、鳥が空をとびまわっているのと同じことです。

高橋訳 さて、海の底はがらんとしていて、白い砂地があるばかりだと思ってはなりません。いいえ、そこには、ほんとにふしぎな木や草が生えています。その茎や葉はなよなよしているので、水がちょっと動いても、まるで生き物のようにゆらゆらと動くのです。大小の魚はみんなそのえだの間を地上でをとぶ鳥のようにすいすいと泳ぎ回ります。

大塚訳 さて、そういう海の底には、はだかの白い砂地があるだけだろう、などと思ってはいけません。いいえ、そこには、とてもめずらしい木々や草が生えているのです。そして、それらの茎や葉は、ほんとにしなやかなので、ほんのすこし水が動いても、それにつれて、まるで生きもののように、ゆらゆら動きます。そして、魚たちは、小さいのも大きいのもみんな、それらの枝のあいだをすいすいと泳ぎまわりますが、そのようすは、この地上で鳥が空を飛びまわるのとそっくりです。

長島訳 さて海の底が何もないただの白い砂浜だと思ったりしたら大まちがいです。いいえ、そこには世にもふしぎな木々や草花が生えています。茎も葉もしなやかで、ちょっとした水の動きにもゆらゆら揺れて、まるで生き物のよう。大きな魚も小さな魚もみんなその枝の間を通り抜けていきます。地上で鳥たちが大気の中を飛びまわるようにです。

金原訳 さて海の底の白い砂にはなにもないと思ってはまったくいけない。いや、そこには地上ではとてもみられないような草花が生えている。葉や茎はやわらかで、少しでも水が揺れると、まるで生き物のように体をくねらせ、大きな魚やちいさな魚がすべて、その枝のあいだをすばやく泳いでいくところは、まるで地上で空の鳥が木々のあいだを飛んでいるようだった。

天沼訳 さて、海の底といえば、ガランとしてなんにもなくて、白ちゃけた砂があるだけだと想像しているとしたら、それはずいぶんちがっている。まったくちがうのだ。海の底には、ほんとうに不思議このうえない植物が生えている。その茎や葉はしなやかそのもので、水がすこしばかり動くだけで、生き物のようにユラリユラリと動くのだ。大小の魚たちは、みんなその枝をくぐるようにして、地上でを飛ぶ鳥よろしく、かろやかに泳ぎ回っている。


第 2 段落後半


Paa det allerdybeste Sted ligger Havkongens Slot, Murene ere af Coraller og de lange spidse Vinduer af det allerklareste Rav, men Taget er Muslingskaller, der aabne og lukke sig, eftersom Vandet gaaer; det seer deiligt ud; thi i hver ligge straalende Perler, een eneste vilde være stor Stads i en Dronnings Krone.

直訳 そのもっともいちばん* 深いところには海王の宮殿があり、その壁は珊瑚で、長く先のとがった窓はもっともいちばん* 澄んだ琥珀で〔できて〕いるが、屋根は二枚貝であり**、それらは開いたり閉じたりしている、水の行くのに従って;それは美しく見える;というのもどの〔貝〕のなかにも輝く真珠があり、たったひとつでも女王の王冠のなかで大きな飾りになるであろうから。

* 最上級に接頭辞 aller- がついてさらに強めている。このような訳しかたが適切かどうかは別として、ただの最上級と違うことを訳文だけからも判明にするために便宜上こう書いておく。

** 先行する「壁は珊瑚、窓は琥珀」には、英語の of にあたる素材を表す前置詞 af があるので「〜でできている」と訳せるが、この「屋根は二枚貝」はそうではなく直接 be 動詞で結ばれている。しかし以下に見る邦訳では長島訳「屋根は貝殻でした」以外すべて、ここも素材のように「葺いて」「できて」と訳されている。

大畑訳 この海の底の、そのまた一番深いところに、人魚の王様のお城が建っています。お城の壁はさんごで築いてあり、上のとがった高い窓は、このうえもなくすきとおったこはくでできています。屋根は、貝殻でふいてありましたが、それが水の動くにつれて、開いたり閉じたりする様子は、まったくみごとなものでした。なぜなら、その貝殻の一つ一つには、きらきら光る真珠がはいっているのですから。それ一つだけでも、女王様の冠の、りっぱな飾りになるくらいでした。

山室訳 そして、その海の底の、そのまたいちばんふかいところに、人魚の王さまのお城はあるのでした。お城のかべはサンゴでできていて、上のとがった長い窓には、このうえもなくすきとおったコハクがはめこんであります。屋根は貝がらでふいてありましたが、それが水のながれるにつれて、ひらいたりとじたりするようすは、まったくみごとなものでした。なぜといって、その貝がらの一つ一つには、それ一つだけでも女王さまのかんむりのりっぱなかざりになるくらいの、きらきら光る真珠がはいっているのですもの。

高橋訳 この海のいちばん深い所に、人魚の王様のお城があります。かべは、さんごでできており、先のとがった高いまどは、もっともすきとおったこはくでできていますが、屋根は水の流れにつれて、開いたりとじたりする貝がらばかりできています。どの貝がらの中にも、かがやく真珠が入っているので、何とも言えずきれいに見えます。そのひとつだけでも、女王様の冠の大きなかざりになったでしょう。

大塚訳 その海の底でも、いちばん深いところに、海の王である、人魚の王さまのお城があります。お城の壁はサンゴでできているし、上のとがった高い窓々は、このうえなくすきとおった琥珀でつくってあります。でも、屋根になっているのはたくさんの貝がらで、それらは水が流れるのにつれて、開いたり、閉じたりします。そのようすは、ほんとにきれいです。というのも、その貝がらのどの一つにも、きらきら光る真珠がはいっているからです。それに、その真珠は、そのうちのたった一つだけでも、女王さまの冠の、すばらしい飾りになろうというものなのです。

長島訳 海の底のいちばん深いところに人魚王のお城がありまし。壁は珊瑚、高くて先のとがった窓はこのうえなく澄んだ琥珀でできていましたが、屋根は貝殻でした。それが水の動きにあわせてあいたり閉じたりしていたのです。すばらしい屋根でしたが、それもそのはず、貝殻のひとつひとつに真珠が入っていました。その真珠ひとつだけでも、女王さまの冠のすばらしいかざりになったことでしょう。

金原訳 のいちばん深いところに、海/人魚の王さまの城がたってい。壁は珊瑚で、細長いゴシック風の窓はもっとも透きとおった琥珀、屋根は貝殻で葺いてあり、上を潮が流れるたび、それが開いたり閉じたりするところをみたら誰でも目をみはるだろう。というのは、貝殻すべてにきらめく真珠がはめこんで* あって、その真珠は、ひとつあれば、女王のかんむりを飾るのに十分なほど美しかった。

* 直訳のところで付した注とやや関連するが、ここはおそらく生きた貝たちがそのまま屋根をなしているのであって、だからこそみずから殻を開いたり閉じたりしているのだろう。それを「真珠がはめこんである」と言うと死んで加工された貝殻のようである。

天沼訳 のもっとも深いところに、人魚の王様の宮殿がある。宮殿の壁は珊瑚で、先のとがった高窓には、もっともすきとおった琥珀がはめこまれていた。その屋根はというと、水の流れのままに開いてはまた閉じる貝殻で葺かれていた。貝殻のなかには輝く真珠がはいっていたから、その美しさといったらたとえようもなかった。その一粒だけでも、女王様の冠の大きな装飾にじゅうぶんなくらいだった。


第 3 段落前半


Havkongen dernede havde i mange Aar været Enkemand, men hans gamle Moder holdt Huus for ham, hun var en klog Kone, men stolt af sin Adel, derfor gik hun med tolv Østers paa Halen, de andre Fornemme maatte kun bære seks. — Ellers fortjente hun megen Roes, især fordi hun holdt saa meget af de smaa Havprindsesser, hendes Sønnedøttre.

直訳 その〔海の〕下の海王は多年のあいだ男やもめであったが、彼の老いた母が彼のために家を世話していた、彼女は賢い女性だったが、自分の高貴さを誇っており、それゆえに 12 個の牡蠣を尻尾につけて歩いたものだった、そのほかの高貴な〔者たち〕は 6 個だけを持たねばならなかった〔のに〕。――ほかの点では彼女は多くの称賛に値した、とりわけ彼女は小さな海姫たち、〔つまり〕彼女の孫娘たちをたいそう多く愛したから。

大畑訳 このお城に住まっている人魚の王様は、もう何年も前から、やもめ暮らしをしておいででした。それで、お年寄りのお母様が、いっさい、おうちの世話をしていました。お母様は賢いかたでしたが、家柄のよいのが、ご自慢で、尻尾にはいつも、かきを十二もつけていました。ほかの者は、どんなに身分が高くても、たった六つしかつけられないのです。――けれども、そのほかのことでは、ほんとうに、ほめてあげてよいかたでした。とりわけ、お孫さんの小さい海/人魚姫たちを、だいじにすることは、たいしたものでした。

山室訳 このお城にすまっている人魚の王さまは、もう何年もまえから、やもめぐらしをしておいででした。それで、おうちのことはばんじ、年とったおかあさまが、とりしきっていらっしゃいます。おかあさまはかしこいおかたでしたが、家がらのよいのがごじまんで、しっぽにはカキを十二もつけていらっしゃるのでした。ほかのものは、どんなに身分が高くても、たった六つしかつけることはゆるされませんでしたのに。――けれども、そのほかの点では、ほんとに、ほめてあげてよいかたでした。とりわけ、おまごさんの小さい海/人魚の姫ぎみたちを、それはかわいがってくださったのですから。

高橋訳 海の底の人魚の王様は、何年も前におきさき様をなくされて、おひとりでした。年を取ったお母様が、うちの中のめんどうを見ておりました。お母様は、かしこい方でしたが、身分の高いことを鼻にかけ、しっぽにかきを十二もつけていました。ほかの貴族たちは、六つしかつけることをゆるされませんでした。――そのほかのことでは、このお母様は本当にほめられてよい方でした。とりわけ、孫むすめに当たる小さい人魚ひめたちを、たいそうかわいがっていたからです。

大塚訳 この海の底のお城にいる人魚の王さまは、もう何年もまえにお妃をなくして、ひとり身でした。けれど、王さまの年とったお母さまが、うちの中の世話を、ちゃんとしてくれていました。このお母さまは、かしこいかたでしたが、身分が高いというのがご自慢で、だから、自分の尻尾には、カキを十二もつけていました。ほかのものなら、位が高くても、せいぜい六つしかつけてはいけなかったのです。……けれど、そのほかのことでは、このお母さまは、たいそうほめてもらってもいいかたでした。というのも、とりわけ、このかたが、孫娘にあたる、小さい人魚姫たちを、とてもよくかわいがっていたからです。

長島訳 海の下の人魚王は、妻亡きあと、もう何年も独身でしたので、年老いた母親がかわりに家の世話をやいてくれていました。かしこいおばあさんでしたが、自分の身分の高いことが何よりも自慢で、尻尾に十二のカキをつけていました。ほかの高貴な人たちは六つしかつけてはいけないのでした。――それはともかく、孫にあたる小さな人魚姫たちをとってもかわいがっていましたので、ほめられて当然の人でした。

金原訳 海の下の王さまがお妃をなくしてから何年もたち、王さまの年老いたお母さんが家の〕色んなことを取り仕切っていた。そのかたはとても賢く、しかし〕王さまの母親だということがとても自慢で尻尾には牡蠣を十二個つけていた。どんなに位の高い人魚でも六個しかつけてはならない決まりがあったのに、それを破っていた*。しかしそれさえ目をつぶれば、誰からも尊敬される立派なかただったし、それというのもなにより、孫にあたる幼い海/人魚の姫たちをとてもかわいがっていた。

* さすがに言いすぎ。そもそもこの件、もともとあった規則なのかどうかも不詳である。私は最初に読んだときから、この王母が自分を高い位置に置くために「自分は 12、ほかは 6 まで」と勝手に新しく決めたものだとばかり思っていたので、今回この翻訳を見て既成の有職故実のように捉える解釈がありうることにまず驚いた (「ほかの貴人たち de andre Fornemme」と言っているのだからなおさらそう。はじめから王母も含む一般の規則ならこうは言わなかろう)。

天沼訳 海の底をおさめる人魚の王様は、お妃をなくし、長いこと独身をとおしていたけれど、お年をめされた王様の母上が、宮中のきりもりをしていた。この母上は、ご聡明な方だったけれど、御自分の身分ならそうあるべきだと思いこんで、その尾ひれに牡蠣を十二も飾りつけていた。ほかのやんごとない身分のかたでさえ六つしかつけることをゆるされていなかったのに――けれども、そのほかについては、なかなかご立派なかただった。とりわけ、孫娘の、小さい人魚姫たちのことを、とてもかわいがっていたからである


第 3 段落後半


De vare 6 deilige Børn, men den yngste var den smukkeste af dem allesammen, hendes Hud var saa klar og skjær som et Rosenblad, hendes Øine saa blaa, som den dybeste Sø, men ligesom alle de andre havde hun ingen Fødder, Kroppen endte i en Fiskehale.

直訳 彼女らは 6 人の美しい子どもたちだったが、最年少の〔子〕が彼女ら全員のうちでもっとも美しかった、彼女の肌はとても透きとおって柔らかなること薔薇の花びらのごとく、彼女の目はとても青いこと、もっとも深い湖〔または海〕のごとくであった、しかしちょうどほかの全員と同じように彼女には足がなかった、その体は魚の尾で終わっていた。

大畑訳 姫はみなで六人で、どれもきれいなかたばかりでしたが、わけても末の姫は、一番きれいでした。膚は、バラの花びらのように、すきとおるほどきめがこまかく、目は深い深い海のような青い色をしていました。けれども、おねえさんたちと同じく、足というものがなくて、胴の下は魚の尻尾になっているのでした。

山室訳 姫ぎみはみんなで六人で、みんなたいそうきりょうよしでしたが、わけてもすえのむすめが、いちばんきれいでした。はだは、バラの花びらのようにすきとおって、きめがこまかく、目はふかいふかい海のように青い色をしていました。けれども、やっぱりおねえさまの姫たちと同じく、足というものがなくて、胴のおわりはお魚のしっぽになっていたのです。

高橋訳 六人いた人魚ひめは、そろってきれいでしたが、なかでも、いちばん下の人魚ひめがいちばんきれいでした。はだは、ばらの花びらのようにすきとおっていて、きめが細かく、目は、もっとも深いのように青くすんでいました。でも、ほかの人魚ひめと同じように足がなく、体のすそは、魚のしっぽになっていました。

大塚訳 このお姫さまはみんなで六人で、そろってきれいでしたが、なかでも、いちばん下のお姫さまは、いちばんきれいでした。このお姫さまの肌は、バラの花びらのように、とても清らかで、きめが細かく、その目は、深い深い海のように青いのでした。けれど、このお姫さまも、ほかのお姉さんたちとおなじように、足はなくて、胴の下のほうは、魚の尻尾のようになっているのでした。

長島訳 いい子ばかり六人のお姫さまがいましたが、中でもいちばん年下の子が、飛び抜けてきれいでした。その子の肌はバラの花びらのように透きとおって輝き、目ももっとも深い湖のように青かったのですが、ほかの人魚* たち同様、足がなくて** から下が魚の尻尾になっていました。

* これは間違いと言うと細かすぎるようであるが、純粋に語学的なことを言うとこの alle de andre「ほかの全員」は文脈から 5 人の姉姫たちであって (ほかの既存訳 6 つがすべてそうしているとおり)、いきなり全人魚を指せはしないであろうから、いちおう相違点のひとつに数えた。

** 原語 krop は胴体もしくは体全体の意なので、その端というなら腿からということも不可能ではないだろうが、他訳には見られない独自意見。しかもそのわりにこの本の表紙画は腰からすべて魚の鱗に覆われている。

金原訳 王さまには* 六人の美しいがいたが、とくに末娘は信じられないほど愛らしく、肌はバラの花びらのようにつややかでなめらかで、目はもっとも深い深海のように青かった。しかし、お姉さんたちと同じで足はなく、腰から下は魚の尾だった。

* ここでふたたび王をもちだす理由がわからない。いま話の流れとして、寡夫の王がいて彼には老母がいて、老母にはかわいがっている孫娘たちがいる、という順番にフォーカスが移っている。この祖母は孫たちに人間の世界の話をして彼女らが海上に出かけるきっかけを作り、さらに後には末姫に人間と人魚の寿命について教える重要な登場人物であるのに対し、父王はその存在だけが言及されるのみの背景にすぎないので、原文を曲げてまでここに名前を出すことはいたずらに焦点をぼやかし流れを悪くするばかりである。

天沼訳 六人いる人魚姫は、みな美しい娘さんだった。なかでも、いちばん末の人魚姫がとくべつ美しかった。バラの花びらを思わせる、すきとおってきめの細かい肌をして、もっとも深い海のように青くすんだ瞳をしていた。けれども、ほかの人魚の姫様たちと同じで足がなく、からだの腰から下は魚の尻尾だった。


第 4 段落


Hele den lange Dag kunde de lege nede i Slottet, i de store Sale, hvor levende Blomster voxte ud af Væggene. De store Rav-Vinduer bleve lukkede op, og saa svømmede Fiskene ind til dem, ligesom hos os Svalerne flyve ind, naar vi lukke op, men Fiskene svømmede lige hen til de smaae Prindsesser, spiste af deres Haand og lode sig klappe.

直訳 一日中ずっと彼女らは遊んでいられた、〔海の〕下の宮殿のなか、その大きな広間* のなかで、そこでは生きている花々が壁から生えていた。大きな琥珀の窓が開け放たれた、そうすると魚たちがそのなかへ泳ぎ入ってきた、ちょうど私たちのところで**、私たちが〔窓を〕開け放つとツバメたちが飛んで入ってくるように、しかし魚たちはまっすぐに小さな姫たちのほうへと泳いでいった、〔そして〕彼女らの手から〔餌を〕食べ、自分たちを軽く触れさせた。

* 原文 de store Sale は複数。わざわざ区別させるのも冗長だが、さりとてたんに「大きな広間」とか、また長島訳・天沼訳のようにとりわけ「大広間」と言ってしまうと、特別大きいひとつのホールに全員が雁首そろえて遊んでいるようなイメージになる (というか、私は小さいときからずっとそうだと思っていた)。これをあえて明示的に区別しているのは「いくつもの」を付す大塚訳だけ。

** 文字どおりに「私たちの家」、もしくはより一般的に「地上」ないしは「人間の世界」を指すと解しうるか。

大畑訳 一日じゅうずっと、みんなは海の底宮殿の広々した部屋で遊び暮らしました。部屋の壁には、生きている花が咲いていました。大きなこはくの窓を開きますと、魚が泳いではいってきます。ちょうど私たちのところで、わたくしたちが窓をあけると、ツバメが飛んではいってくるように。魚は小さい姫たちの方へ泳いできて、みんなの手から、たべものをたべたり、また、なでてもらったりしました。

山室訳 一日じゅうずっと姫たちは、海の底のお城の、広びろしたおへやで遊びくらしました。おへやのかべには、生きている花が咲いていますし、大きなコハクの窓をひらくと、ちょうど私たちのところでわたしたちが窓をあけるとツバメがとびこんでくるように、いろんなお魚がおよいではいってきました。そしてお魚たちは、小さい姫たちのそばへおよいでくると、その手からえさを食べたり、せなかをなでてもらったりするのでした。

高橋訳 おひめ様たちは、一日中ずっとのんびり海の底のお城の、大きい広間で遊ぶことができました。広間のかべからは、生きた花が生えていました。大きなこはくのまどが開かれると、魚たちが泳いで入ってきました。ちょうど、わたしたちの所で、まどを開けるとつばめがとびこんでくるのと同じようです。魚たちは、小さいおひめ様たちのすぐそばに泳ぎよってきて、その手から食べ物をもらったり、さすってもらったりしました。

大塚訳 お姫さまたちは、一日じゅう、海の底のお城の、いくつもの大きい広間で遊んでいられました。広間の壁には、生きている花たちが咲いていました。大きい琥珀の窓々をあけると、魚たちが泳いで、はいってきました。それはちょうど、わたしたちのところで、窓をあけると、ツバメが飛びこんでくるのとそっくりです。けれど、その魚たちは泳いで、まっすぐに小さいお姫さまたちのところにやってくると、みんなの手から食べものをたべたり、その手でなでてもらったりするのでした。

長島訳 お姫さまたちは一日中ずっとお城の大広間で遊んでいました。広間の壁からは生きた花が咲き出ていました。大きな琥珀の窓をあけると魚たちが泳ぎ寄ってきま。わたしたちのところで、窓をあけるとツバメが飛んで入ってくるような具合にです。けれども魚たちは、小さいお姫さまたちのほうに泳ぎ寄って、その手のひらにのせられたエサを食べたり、やさしくたたいてもらったりしていたのでした。

金原訳 六人の娘たちは毎日遅くまで、お城の大広間や、壁から生えている揺れうごくのあいだで遊んだりした。大きな琥珀窓は開け放たれていたからよく魚が飛びこんできた。私たちのところで、私たちが窓を開けるとつばめが開け放した窓から飛びこんでくるのにそっくり。ただ魚はつばめとちがって小さい女の子たちのまわりに泳ぎやってきては、手から餌をもらったり、なでてもらったりした。

天沼訳 姫様たちは、海の底にある宮殿の大広間で、一日中のんびりと遊んでいた。広間の壁からは、生きた花がはえていて、大きな琥珀でできた窓を開くと、魚たちが泳ぎはいってきた。ちょうど、私たちのところで家の窓をあけるとツバメが飛びこんでくるのと同じようだった。魚たちは、小さい姫様たちのそばに泳ぎきて、手から餌をもらったり、なでてもらったりした。


第 5 段落前半


Udenfor Slottet var en stor Have med ildrøde og mørkeblaae Træer, Frugterne straalede som Guld, og Blomsterne som en brændende Ild, i det de altid bevægede Stilk og Blade. Jorden selv var det fineste Sand, men blaat, som Svovl-Lue.

直訳 宮殿の外には火のように赤い〔木々〕と暗い青の木々をもつ大きな庭があった、その果実は黄金のように輝き、その花は燃える火のよう〔であった/に輝いた〕、それらはつねに幹や葉を動かしていたので。地面そのものはもっとも細かな砂であったが、硫黄の閃光のように青〔かった〕。

大畑訳 お城のそとには、大きな庭があって、火のようにまっかな木や、まっさおな木が生えていて、木の実は金色に光り、花は燃える火のように輝き、たえず茎や葉をそよがせていました。地面そのものはごくこまかい砂地で、それがゆおうの炎のような青い光をはなっていました。

山室訳 お城の外には、大きな庭があって、火のようにまっかな木やまっさおな木がはえ、金色に光っている実や、もえる火のような花をつけて、たえず茎や葉をそよがせていました。地面そのものはごくこまかい砂でしたが、それがいおう* のような青い光をはなっていました。

* ただの「いおうのような青い光」では、硫黄という化学物質そのものが青いかのように聞こえてしまうが、硫黄はまさに黄の字が示すように鮮やかな黄色である。ついでながら、いま大畑訳と山室訳で「光をはなって」を赤字にしたが、物理的には色が見えることはとりもなおさず光を反射しているにほかならないので、こんなことをうるさく言うのはある意味ナンセンスではある。

高橋訳 お城の外には、広い庭があって、もえるように赤い木や、青あおとしげった* 木がありました。その茎や葉がたえず動き、実は金のように、花はもえる火のようにかがやきました。底のそのものもっとも細かい砂でしたが、いおうの炎のように青い色をしていました。

* これでは通常の植物らしい緑色に見えるが、いま「火のように真っ赤な木」と並んで海の底の不思議な植物の情景を描いているので、正しくは文字どおりの青色を指しているであろう。

大塚訳 お城の外には、大きい庭があって、火のように赤い木や、濃い青色の木が生えていました。それらの茎や葉がたえずゆれ動くのにつれて、木の実は金のようにかがやき、花々は、燃える火のようにかがやきました。そこの地面はとても細かい砂でしたが、それは硫黄の炎のように、青く光っていました。

長島訳 お城の外に、火のように赤い木や濃い青色をした木々が生えている広い庭園がありました。果物は金のように輝き、花々は茎と葉をたえず動かしていたために、燃え上がる炎のようでした。地面そのものはこの上なくすばらしい砂地でしたが、硫黄の炎のような青色でした。

金原訳 お城の外にはきれいな〔広い庭がひろがり、そこには火のようにまっ赤な木やまっ青な木が生えていて、その実は金色に輝き、花は燃えるような赤で、葉や茎はいつも揺れていた。そのものもっともこまかい砂でできていたが、色は硫黄の火のような青。

天沼訳 宮殿の外は広い庭園になっていて、炎のように赤い木や藍色の木々が立っていた。その茎や葉が水の動きでゆれるたびに、その果実は黄金のように、花は燃える炎さながらに輝いたものだ。海の底の土というのはもっとも細かい砂なのだけれど、硫黄が燃えるときの炎のように青い色をはなっていた。


第 5 段落後半


Over det Hele dernede laae et forunderligt blaat Skjær, man skulde snarere troe, at man stod høit oppe i Luften og kun saae Himmel over og under sig, end at man var paa Havets Bund. I Blikstille kunde man øine Solen, den syntes en Purpur-Blomst, fra hvis Bæger det hele Lys udstrømmede.

直訳 その〔海の〕下すべての上には不思議な青い光が横たわっていて、人はむしろ思ったでしょう、自分は空の上高くに立っていて、自分の上にも下にも天を見る* ばかりであると、海の底にいる* と〔思う〕よりも。大凪〔のとき〕には太陽を目にすることができた、それは紫の花のように見えた、その萼からすべての光が流れでてきたような。

* 原文は時制の一致により過去だが、意味は同時性なので非過去で訳してある。

大畑訳 こうして、全体に、不思議な青い光が漂っているので、海の底にいるというよりは、上を見ても下を見ても青々とした大空に、高く浮かんでいるような感じでした。風のないでいる時には、お日様を仰ぐこともできました。そういう時、お日様は紫いろの花のように見え、そのうてなから、あたり一面の光がさしてくるようでした。

山室訳 こうして、ぜんたいの上にふしぎな青い光がただよっていましたので、まるで海の底にいるというよりは、どちらをむいても青あおとした空高くにうかんでいるような感じでした。風がないでいる日には、お日さまをあおぐことさえできましたが、そんなときには、お日さまはちょうど大きなむらさき色の花のようで、そのうてなから、あたりいちめんに光がながれでてくるかのように思われるのでした。

高橋訳 そのあたり全体に、何とも言えない青い光がきらきらとただよっていました。それで、海の底にいるというより、高い空中にうかんでいて、上にも下にも空があるのだという気がしたでしょう。風のない時は、お日様が見えました。お日様は、まっ赤な花で、そのうてな(花のがく)からすべての光が流れ出ているかのように見えました。

大塚訳 こうして、そのあたり一面には、ふしぎな青い光がほのかにかがやきわたっていました。ですから、そこにいると、自分が海の底にいるというより、むしろ、ずっと高くの大気の中にいて、上にも下にも見えるのは空ばかりだ、と思いこんだことでしょう。風がなくて海が静かなときには、上のお日さまも目で見られました。そのお日さまは、深い赤色をした花のようで、その花のがくから、まわりじゅうに光があふれでているように見えました。

長島訳 海の底はどこもかしこもなんとも言えない美しい青に輝いていたのです。それは海の底というよりは、空中高く飛び上がり、上も下も青空ばかりのところに浮かんでいるような感じでした。凪の時には太陽を目にすることができました。まるで緋色の花の萼からすべての光が流れ出ているかのように見えました。

金原訳 あたり一面に不思議な青い光がかがやき、まるで上にも下にも空しか見えない空の高みに浮かんでいるようで、暗い海の底にいるとはとても思えない。凪の日には太陽もみえて、それはその萼からすべての光が流れ出る光のに包まれた紫の花のようだった。

天沼訳 あたり一面は、この世のものと思われぬ青い光につつまれていた。もしも、人間がここに来たとしたら、海の底にいるというより、高い空にうかんでいて、上にも下にも空があるような気がしてしまうかもしれない。風がないでいるようなときは太陽が見えた。太陽は、ほんとうに深紅の花とでもいうべきで、その花びらからあらゆる光が流れでているようだった。


総評


大畑訳と山室訳は、まるでどちらか一方が他方の訳文をそのまま日本語で読んで一部自分の言葉づかいと表記法に直しただけのように似通っている。たんに原文を独立に訳しただけでは決してこれほどの一致はしないであろう。ところで出典一覧では大畑訳を改訳 1963 年、山室訳を 1978 年と記したが、どちらもさらにこれ以前の訳があるようであるから、本当のところ先後関係ははっきりしない。しかもこの 2 人にはアンデルセン童話の共訳もあるらしいから、この「人魚姫」の訳もがんらい両者の共同作業ゆえにこのような類似を呈しているのかもしれない。

金原訳は総じて無意味に思われる敷衍・改変が多すぎるし、そのなかには上で詳しく注記したように有害とすら思われる部分もある。本には訳者のことばがなくデンマーク語から直接訳したのかどうかもよくわからず、本稿で比較した 7 つの訳のなかではいちばんおすすめできないものだが、この訳書の価値は訳文だけではなくアートワークにもあるのであろうから本全体としての評価は保留とする。

それ以外の邦訳はこの範囲ではさほどの欠点なくいずれも甲乙つけがたいが (とりわけ大畑訳はその古さに鑑みれば驚くべき正確さである)、原文にもっとも忠実で過不足がないということでいえば大塚訳がいちばんで、次点が長島訳であろうか。ただ大塚訳はレーベルの制約からかひらがなと読点が多くいささか子ども向きにすぎるきらいはあり、文体が大人の読書に適した落ちついた筆致で読みごたえのあることでは長島訳に軍配が上がるかと感じた。

lundi 30 avril 2018

デンマーク語の受動態に関する覚書

デンマーク語の文法書から受動態に関する箇所を抜粋翻訳した。それぞれ異なる本なので、過去分詞 (præteritum participium) と完了分詞 (perfectum participium) のように同じものを別様に呼んでいる部分もあるが、大きな混乱はないであろうからそれぞれの用語法を尊重して訳してある。


次のものは Ane Børup, Ulrik Hvilshøj, og Bolette Rud. Pallesen, Dansk Basisgrammatik, 2. reviderede udgave, 2000, s. 46f. より。

§45. 能動態/受動態

能動態/受動態 (aktiv/passiv, handleform/lideform) は、状況を記述する 2 つの異なった方法と関わっている。動詞の能動形を用いるとその行為を遂行する人に強調が置かれるのに対し、受動形を用いるとその行為にさらされる人または物に焦点があてられる:

能動態 Lægerne opererer den lille dreng på torsdag
    (医師たちは木曜にその小さな少年を手術する)
受動態 Den lille dreng bliver opereret af lægerne på torsdag
    (その小さな少年は医師たちによって木曜に手術される)
    Den lille dreng bliver opereret på torsdag
    (その小さな少年は木曜に手術される)

したがって受動形を用いるとその行為を受ける者 (「その小さな少年」) が強調され、またそれによって、その行為を遂行するのが誰であるのか (「医師たち」) についての情報は背景に押しやられるか、あるいは最後の文におけるように完全に省略される。

能動文を受動文に転換させるときには 4 つのことが起こる:
  1. 能動文の目的語 (「その小さな少年」) が主語になる
  2. 助動詞 blive が中に置かれる
  3. 主動詞は過去分詞に変えられる (operereropereret に変えられる)
  4. 本来の主語 (「医師たち」) は前置詞 af とともに現れるか、または完全に省略される

§46. Blive-受動態と s-受動態。上述の例における受動態は、助動詞 blive によって作られるために blive-受動態 (blive-passiv) と呼ばれる。デンマーク語にはもうひとつのタイプの受動態、すなわち s-受動態 (s-passiv) があり、これは動詞の不定詞形に -s を加えることによって作られる。例:Den lille dreng opereres på torsdag. S-受動態はたいてい書き言葉において見られる。たとえば新聞の見出し (例:Fiolteatret lukkes「フィオル劇場閉館」)、料理のレシピ (例:Kartoflerne halveres på langs「じゃがいもを縦に半分にします」)、使用説明書 (例:De forreste skruer afmonteres「最初のねじを取り外す」)。

ある種の動詞は受動形をもたないか、もしくはめったに受動態におかれない。これにあてはまるのはたとえばいくつかの自動詞、dø「死ぬ」や sejre「勝利する」がある (§49 を見よ)。いくつかの動詞は受動形でのみ見られ、それにもかかわらず能動の意味をもつ。例:De kan ikke enes「彼らは合意・和解しえない」、Vi trives godt「私たちは十分に幸せである、繁盛する、成長する」、Han væmmes ved tanken「彼はその考えに気分を悪くする」。


次のものは Erik Hvid og Flemming Olsen, Kursus i dansk grammatik: Grundbog, 2002, s. 22f. より。

受動態

A. Min far sælger bilen「私の父は車を売る」という文は能動文 (aktiv sætning) と呼ばれる。私の父の行動は彼がその自動車を売ることにある。彼はその行為を行っているので「私の父」は主語である。

私たちがその自動車を出発点にとるならば、この文は Bilen bliver solgt af min far あるいは Bilen sælges af min far「その車は私の父によって売られる」となる。ここでは「その車」は主語になっている。しかしだからといってその行為を行う者になったのではない。それはある行為もしくは過程にとっての対象とされている。

文法的主語が行為をするのでなく「される」ところの文は受動文 (passiv sætning) と呼ばれる。この文では「その車」は受身になっている。この受動文における行為者はやはり「私の父」である。

B. 前述の 2 つの文、すなわち能動文と受動文は、どちらも同じ出来事を述べている:両方の場合において、ある車を売るある人について語られている。出発点が私の父か車かで違っているが、結果は同じである。

能動文を受動に転換するとき、能動文における目的語は受動文における主語になる。動詞の時制は変化しない:
能動 Min far sælger bilen.
受動 Bilen sælges af min far.
したがって、受動態に転換されるためには能動文中に目的語がなければならない。すなわち、動詞が他動詞として用いられている文だけが、受動文に転換されうるのである。

能動文における主語 min far が、受動文では前置詞句 af min far になっていることに注意せよ。この前置詞句 af min far は文中で副詞句として働いているので、A のマークをつけてある〔訳注。ここでは省略している〕。

C. 動詞が自動詞として用いられている文は、受動文に転換できない:
Cecilie stank af tobak da hun kom hjem fra mødet.
(セシリエは会議から帰ってきたときタバコで悪臭を放っていた)
Christoffer havde ligget og sovet på sofaen det meste af dagen.
(クリストファーはその日の大半をソファに横になって眠っていた)
Inflationen er steget med 1%.
(インフレが 1 % 進行した)
D. デンマーク語では多くの場合、2 通りのしかたで受動態を作ることができる:

S-受動態 (s-passiv):動詞が -s で終わる形。とくに現在形において見られる。
Varerne bringes ud til kunderne.
(その商品は客たちのところへ運びだされる)
Lygterne tændes en halv time efter solnedgang.
(ライトは日没の半時間後に灯される)
Dørene lukkes kl. 7.
(扉は 7 時に施錠される)
Blive-受動態 (blive-passiv):blive と完了分詞からなる形。多くの動詞は過去形で blive-受動態を用いる。現在と過去以外の時制では、blive-受動態のみが用いられうる。
Passagererne bliver ramt hårdt af busstrejken.
(乗客たちはバス・ストライキによって著しく影響を受ける。現在)
Mødet blev holdt i skolens aula.
(集会は学校の講堂で行われた。過去)
Det mord er aldrig blevet opklaret.
(その殺人事件は決して解決されていない。現在完了)
E. S-受動態はいつでも有効である事柄に関して用いられるのに対し、blive-受動態は個別の出来事に関して用いられる、という傾向がある。次の 2 段の文〔訳注。原文では左右に 3 文ずつだが、ここでは段組にせず並べている〕を比較せよ:
Gamle møbler købes og sælges.
(古い家具が売り買いされている)
Den teknik kendtes ikke i Middelalderen.
(その技術は中世には知られていなかった)
Tv? Det fandtes ikke dengang.
(テレビ? そんなものそのころにはなかった)
Maden bliver serveret af lejede tjenere.
(料理は雇われた給仕たちによって供される)
Firmaet blev grundlagt i 1924.
(その会社は 1924 年に設立された)
Pengene blev fundet i tyvens hjem.
(その金は泥棒の家で見つかった)
F. -s に終わるいくつかの動詞は、受動の形にもかかわらず能動的な内容をもっていることに注意せよ。それらは他動詞・自動詞いずれでもありうる:
Der findes mange dyrearter.
(たくさんの動物の種が存在する)
Hun mindedes sin ungdom.
(彼女は自分の若いころを回想した)
Forsøget lykkedes.
(実験は成功した)
Det kunne vanskeligt undgås.
(それを避けることは難しいだろう)
Jeg længes efter sommeren.
(私は夏を待ち焦がれている)


次のものは Lisa Holm Christensen og Robert Zola Christensen, Dansk grammatik, 3. reviderede udgave, 2007, s. 106f. より。

受動形

多くの動詞は能動形または基本形 (aktiv form, grundform eller handleform) と受動形 (passiv form, lideform) とに活用しうる。能動と受動とのあいだの区別は、高度な用語では (diatese) と呼ばれる。受動の活用は不定詞、現在および過去に適用されうる。受動形態素 (passivmorfeme) はどの形でも -s である。不定詞の受動形は -s の付加によって作られる:hentehente-s。現在の受動形は不定詞の受動形と同一である。不定詞受動形と現在受動形はそれゆえ同音異義語である。言語史的な説明では、現在受動形は現在 + s から作られるが現在形は -r で終わり、-rs の組みあわせが強勢のない位置では調音が難しいので、[rs] が [s] に融合したのである。過去受動形は能動の過去形に -s を付加することで作られる:hentedehentede-s。しかしながら受動に活用しうる過去形の動詞のすべてがそうなのではない。意味論的な理由から、だいたいにおいて命令法の受動形は見られない。というのは命令法、とくに要求のために用いられるそれは、何事かをするよう駆り立てられるところの人じしんが能動的に行為を行わねばならないことを前提するからである。〔込み入った文なので「意味論的……」からの原文を載せておく:Af semantiske grunde forekommer der stort set ikke verber i imperativ passiv, da imperativ, der især bruges til at opfordre med, forudsætter, at den, som anspores til noget, selv skal udføre handlingen aktivt.〕

動詞の形態論的受動形 (morfologiske passiv) の概観
不定詞受動形現在受動形過去受動形
henteshenteshentedes「連れてこられる」
læseslæseslæstes「読まれる」
sessessås「見られる」
〔訳注。ここで「形態論的 morfologisk」とは「迂言的 perifrastisk」に対置される用語で、同書 s. 54 によればそれらは「屈折 bøjning によって作られる」ものと「書きかえ omskrivning によって作られる」ものを指す。それぞれ「総合的」(英 synthetic) と「分析的」(英 analytic) に言いかえても大過ないであろう。〕

しばしば強変化動詞は s-受動態を作れない:*hjalp-s, *åd-s。このため blev + 完了分詞による迂言的受動態 (perifrastisk passiv) が必要とされる。

現在能動形現在受動形過去能動形過去受動形
stikkerstikkesstakblev stukket
flyverflyvesfløjblev fløjet
finderfindesfandtblev fundet
hjælpehjælpeshjalpblev hjulpet

完了分詞は受動形の s-形態素を伴って変化することがまったくできないので、受動の意味を表すためにはつねに迂言的な形が必要とされる:Hun er blevet hentet af sin far「彼女は父から呼ばれてきた」〔現在完了〕;Han var blevet udskrevet fra sygehuset「彼は〔すでに〕病院から退院していた」〔過去完了〕;Bilen var blevet undersøgt af politiet「その車は警察によって調査されていた」〔過去完了〕。(Jf. s. 122f.)


次のものは Christensen og Christensen, op.cit., s. 113 より。

〔S. 107 以下「諸活用形のはたらき」の節中の〕受動形

受動形の動詞は 3 つのはたらきとそれに結びついた意味とをもちうる。それらは受動構文 (passiv konstruktion) を作るために用いられうる。形態論的受動形を用いた文は迂言的受動形に変換しうる (大なり小なり意味の変化を伴う)。
Stakittet skal males hvidt. ≈ Stakittet skal blive malet hvidt.
(柵は白く塗られる予定だ)
Lønnen betales af staten. ≈ Lønnen bliver betalt af staten.
(給与は国によって支払われる)
動詞の s-形の第 2 のはたらきは、中間構文 (medial konstruktion) にある。これは典型的には複数形の名詞 + s-形の動詞から構成され、主語の指示対象が (相互的に) お互いに対してとりおこなうところの動詞の行為を媒介する。これらの構文は迂言的受動態に置きかえることはできない。
Per og Line sloges. ≠ Per og Line blev slået.
(ペールとリーネは喧嘩した ≠ ペールとリーネは殴られた)
Vi ses i morgen. ≠ Vi bliver set i morgen.
(私たちは明日会う ≠ 私たちは明日会われる)
Vi samles hos mig klokken 9. ≠ Vi bliver samlet hos mig klokken 9.
(私たちは 9 時に私のもとに集まる ≠ 私たちは 9 時に私のもとに集められる)
Børnene fulgtes til skolen. ≠ Børnene blev fulgt til skolen.
(子どもたちは学校までいっしょに行った ≠ 子どもたちは学校までついてこられた)
Skal I deles om opvasken?
(あなたたちは皿洗いを分けあうか)
De skændtes hele tiden.
(彼らは一日じゅう口論していた)
デポネント動詞 (deponent verb, jf. s. 102) は能動の動詞と同じように使われるが偶然に s-形を獲得したものである。能動形の動詞のなかにこれらとの類義語がしばしば見つかる。
Jeg længes efter dig. (jf. Jeg savner dig.)
(私は君を待ち焦がれている)
Der findes ingen som dig. (jf. Der er ingen som dig.)
(君のような人は誰もいない)
Det lykkedes mig at vinde. (jf. Jeg formåede at vinde.)
(私はうまく勝つことができた)
Hun væmmes, når hun ser ham. (jf. Hun føler sig utilpas, når hun ser ham.)
(彼女は彼に会うと気分が悪くなる)
Bo synes ikke om hende. (jf. Bo elsker hende ikke.)
(ボーは彼女のことを好きではない)
形態論的および迂言的受動構文は 122 頁以下でも扱っている。動詞の s-形のもつその他のはたらきについてはこれ以上扱われない。

mardi 24 avril 2018

デンマークの書籍の購入方法

かつて「諸外国の書籍の購入方法」という記事を書いてから早くも 3 年近くになります。これは私がおもにヨーロッパの各国から本を買い集めていた経験をもとに、便利なサイトリンクと短い所感をまとめておいたものですが、いまでもたまにアクセスをいただいていて、変化した情報につきアップデートの必要を重々感じておりながら、それが果たせていないことには忸怩たる思いがあります。

当時との状況の変化もさることながら、あの時点でまだ扱っていなかった (すなわち私が取引をしたことのなかった) 言語がこの間にいくつか増えており、それはいま思いだせるかぎりでアイルランド語とブルトン語、アルメニア語、それからデンマーク語・スウェーデン語・アイスランド語・フェーロー語の北欧 4 言語に加えてグリーンランド語が挙げられます。

このなかでデンマーク語・フェーロー語 (フェーロー諸島)・グリーンランド語 (グリーンランド) の 3 つは、国としてはデンマーク王国の 1 国であって (今後どうなるかはわかりませんが)、いずれもデンマーク・クローネ (DKK) で買いものができます。といってもクレジットカードで決済するぶんにはあまり意識するところではないかもしれません。とにかく今回これらをまとめて紹介することにしましょう。

デンマーク語の本を買おうと思ったらまず訪れるべきサイトは、デンマークで最初のかつ最大のオンライン書店、Saxo (https://www.saxo.com/dk)  です。紙の本のほか、PDF/ePub 形式の電子書籍、およびオーディオブックを取り扱っていて、紙の本の送料が比較的高めなので私は最近電子書籍のほうにシフトしています。注文を確定するとメールでダウンロードリンクが送られてくるほか、いつでもサイト上から自分の本棚を確認できて端末にダウンロードができることは Amazon などと同じです。

つい最近知ったのですが、Saxo は Android および iOS 用のアプリをリリースしており、これは日本からも入手・利用が可能です。このアプリをインストールして Saxo のユーザアカウントでログインすれば、購入していた電子書籍・オーディオブックが携帯端末からもダウンロードでき、そのまま電子書籍リーダとして読書・音声再生が可能です。もっとも、その用途のものとしては完成度は低いと言わざるをえません (私は iPad と iPhone で利用しているので、以下は iOS 版の評価であって Android 版はわかりませんが)。

まずリーダとしてですが、ePub 形式のものはまだしも、PDF のものをこのアプリで閲覧しようとするとまともに表示ができません。両形式とも表紙などの大きい画像 1 枚のページは上下にぶった切られた形で表示されてしまいますし、PDF ではなぜか文字だけの本文でもそうなってしまいます。そして操作は左右スワイプがページ送りで、指 2, 3 本のジェスチャには反応せずメニューからも拡大・縮小はできないようなので、ページ右側を確認するすべがまったくありません (つまり実質 PDF は読めません)。有料の PDF リーダはもとより、Adobe Reader や iBooks などと比べてさえ非常に不便です。

またオーディオブックの再生機能のほうですが、パソコンからダウンロードするとちゃんと章などの区切りにもとづいたトラック別の MP3 ファイルになっているようなのに (これは商品にもよるかもしれませんが)、アプリ上で聞こうとするとなぜかトラックごとの選択ができず、15 秒または 2 分刻みでの早送り・巻き戻ししか選べないので、これもたいへん使い勝手が悪いです。結局 iTunes などに入れて聞くことになると思います。

というわけで、アプリの出来はまだまだ発展途上ではありますが、すでに言及したように汎用性の高いファイル形式のおかげでべつだん専用アプリでないと読めないわけではないので利用の妨げにはなりません (この点 Amazon Kindle は見習ってほしいものです)。私は最近『星の王子さま』(Den lille prins) の電子書籍版その朗読とセットで購入して少しずつ聞いています。これは以前から紙の本で持っていた古典的な Asta Hoff-Jørgensen 訳 (初版 1950 年) でなく、最近出た Henrik Ægidius による新訳で、吹きこみは元スタントマンのアナウンサー・朗読者だという Paul Becker が行っています。

Saxo 以外だと imusic.dk というサイトを利用したことがあります。名前に反して本もメインに取り扱っていて、1 冊だけ買うならこちらのほうが日本への送料が安いということがありました。Saxo にはない本が置いてある場合もあるので、あきらめずにいろいろ比較してみるとよいでしょう。

勉強が進むと、参考文献リストのなかからすでに新本では手に入らないものが古本でほしくなるという場合があります。こういう場合、英仏独くらいならたいてい Abebooks で事足りるのですが、デンマーク語の古本は少数しか出品されていません。もちろんある場合もあるのでまずは検索をしてみることは無駄ではないでしょう。

じつは上記 Saxo では古本も販売しているようなのですが、この場合カートに 1 点ずつしか入れられない (古本 2 点以上や、新本と古本を混ぜようとすると弾かれる) という制約があります。そうするとただでさえ割高な送料が 1 冊ごとにかかることになり、あまり気が進みません。

デンマーク語の古本を探すときには Antikvariat.net というサイトがたいへん頼りになります。これはデンマーク・ノルウェー・スウェーデン・フィンランドのスカンジナヴィア 4 ヵ国から多くの古本屋の出品が集約されたサイトで、私の経験上送料も (書店ごとに違いますが) 10 ユーロ前後とたいへん良心的です。私にとっては必要な本が見つかる率が高く、とても重宝しています。

グリーンランド語の本は、最初に紹介した 2 つのサイトでデンマーク本土から手に入る場合もありますが、以前紹介したようにグリーンランドのヌーク (Nuuk) にある書店 Atuagkat Boghandel からも注文が可能です。このサイトはデンマーク語および英語でも閲覧が可能です。ただし取り扱っている本の種類はまだかなり少ないようなので (というより、グリーンランド語の出版物そのものが少ないという事情も)、今後に期待しましょう。

フェーロー語の書籍はデンマークのサイトでは基本的に手に入らず、フェーロー諸島の首都トシュハウン (Tórshavn) にある書店 H. N. Jacobsens Bókahandil がオンライン販売を手がけています。ここは (現在も存続しているうちでは) フェーロー諸島で最古の書店だということです (1865 年創業)。

サイトにはドイツ語・英語・デンマーク語を表す国旗がありますが、それらの言語に訳されている部分はあまり多くなく、またショッピングカートからはどうやら 1 点だけ削除する方法がなくて数量を変更しようと思うとぜんぶ消すしかないなど、サイトの使いやすさにはだいぶ難があります。ウィッシュリストのような便利機能はもとより、そもそもユーザアカウントというものが作れないので注文のたびに住所などを入力する必要があるほか、カートの中身も定期的に消えてしまいます。

とはいえもちろん商品の発送は迅速で間違いなく到着しています。梱包のほうはというと、私の注文したとき外箱のダンボールは側面や中身に隙間が多く、さらに折悪しくこちらで雨も降っていてあわやと思われましたが、肝心の本は丁寧に 1, 2 冊ずつプチプチでくるまれており、多少濡れたり揺らされたりしても無事なようになっていました。

もうひとつ、Sprotin.fo という書店もありまして、こちらは紙の本のほか電子書籍・オーディオブックも取り扱っています。販売というか出版が本業なのか、フェーロー語書き下ろしおよび翻訳ものの文芸作品を主体として多くの本・電子書籍を出しています。ウェブページの英語化もたいへん行き届いていてユーザフレンドリーな印象があります。私はこちらからはまだ電子書籍しか買ったことがないのですが、少なくともその部門では不満を感じたことはありません。このサイトはフェーロー語のオンライン辞典も公開しています。

そのほか Rit & Rák というサイトでも紙の本・電子書籍・オーディオブックが取り扱われていますが、これはまだ利用したことがないのでよくわかりません。以前に紙の本を注文しようとしたときには上記の H. N. J. より送料が割高で見送ったのですが、電子版を買うぶんには有用な場合もあるかもしれないのでいちおう挙げておきます。

mardi 30 janvier 2018

北欧語の単語集の必要

デンマーク語やアイスランド語のような北欧語を勉強していると,当然のことではありますが,しばしば英語やドイツ語とよく似た単語に出会います.記憶に定着しやすくするためにも,たとえばアイスランド語の学習書には英語・ドイツ語・デンマーク語の訳語が書いてあると助かるのですが,需要がないためかなかなかそういうふうにはなっていません.

これはしかし一考の余地がある点だと思われます.そもそもアイスランド語 (フェーロー語・デンマーク語・スウェーデン語・ノルウェー語) の学習者じたいが日本では僅少ですから,中学・高校で英語をやったきりの人がいきなりアイスランド語を始めるというパターンと,ゲルマン語を専門に勉強している人か私のような趣味人でドイツ語の知識があるというパターン,かならずしも後者のほうが割合として少数派だとは言いきれないでしょう.

日本語で読める既存の出版物でいまいちばん近いのは河崎・大宮・西出『ゲルマン語基礎語彙集』(大学書林,2015 年) ですが,学習用の単語集として使うにはまったくボリュームが不足していますし不便です.そこでそうした需要を満たすための単語集を自分のためにそのうち作りたいと思っているのですが,なかなか準備が進まないので,走り書き程度に思いつきをここに記しておきます.


配列は見出し語をすべてアルファベット順に並べるというのがいちばんシンプルですが,そうしないという選択肢もあります.それはたとえば野里・白崎『英語から覚えるイタリア語単語』(創拓社,1996 年) がとっている戦略で,まずイタリア語の品詞ごとに分け,それからそのなかで英語と対応しているかどうかで分類,最後に ABC 順という配列になっています.この利点はもちろん,英語から簡単に類推できるものは分離してしまい,覚えにくい単語を重点的に見られるようになることです.

いまこれを模倣して,英語とドイツ語の知識がある人向けの北欧語の単語集を作るとすれば,だいたい次のような 5 分類になるでしょう.

(1) 英語もドイツ語も北欧語もぜんぶ対応している単語.これは大雑把に言って,ゲルマン祖語に遡る単語のリストとおおかた重なるかと思います (ほかにも「茶」のような,どの言語にとっても借用語である単語も考えられますが,アイスランド語はきわめて外来語に不寛容なのでさほど多くないはずです).

このグループの単語はたくさんあるでしょうが,対応しているからといってもただちに語形が思い浮かぶようになるためには,ある程度歴史言語学の知識が必要になりそうです.例としては氷 segja : 丁 sige : 独 sagen : 英 say や, 氷 vatn : 丁 vand : 独 Wasser : 英 water,氷 ungur : 丁 ung : 独 jung : 英 young などなど.一般には cognate だからといって現代における意味および使用頻度も同一とは限らないことが常ですから,もっとも危険なケースといえるかもしれません (次節に後述する英 eat および英 think にあたる語についてを参照).

(2) 英語とドイツ語は対応するが,それらと北欧語が似ていない単語.要するに北欧語 (北ゲルマン語群) 独自の語彙です.その例としてはたとえば氷 vinur : 丁 ven / 独 Freund : 英 friend や,氷 gamall : 丁 gammel / 独 alt : 英 old (なお比較級・最上級では氷 eldri, elstur, 丁 ældre, ældst として英独と同源),氷 aldrei : 丁 aldrig / 独 nie : 英 never (ただし nie と never の対応はちょっとずるいですが) などなどいくらでもあるでしょう.

(3) 英語と北欧語が同源で,ドイツ語だけが似ていない単語.これはいちばんおもしろいパターンです.英語は非常に数奇な歴史をたどった言語で,ノルマン・コンクエストによって中英語以降フランス語の影響が顕著になったことは現代の両言語を見てもただちに知られますが,それ以前にブリテン島はヴァイキングの侵攻とデーン人による支配を受けていましたから,北欧語 (古ノルド語) の語彙が入っている場合があります.

その例のひとつが動詞 take で,ご存知のとおりドイツ語に訳すとまずは nehmen ですが,デンマーク語では tage, アイスランド語では taka です.ほかには氷 rót : 丁 rod : 英 root / 独 Wurzel や,氷 deyja : 丁 dø : 英 die / 独 sterben などの例があります.

(4) その逆に,ドイツ語と北欧語が同源で,英語だけが似ていない単語.中英語までで廃れてしまった単語の事例を思えば,こちらのパターンのほうが (3) よりも多そうです.たとえば氷 hlaupa : 丁 løbe : 独 laufen / 英 run (英語の cognate は leap) や氷 svartur : 丁 sort : 独 schwarz / 英 black,また氷 himinn : 丁 himmel : 独 Himmel / 英 sky が挙げられます.

ところでこの最後の例でおもしろいのは,英語の sky という単語じしんは (3) のように古ノルド語に遡るということです.アイスランド語で ský, デンマーク語で sky は「雲」を意味します.これが英語に入ったあと「空」に転じたものです.ドイツ語で「雲」は Wolke ですから,この線でいけばこの単語は (3) のパターンと言えないこともありません.実際上は北欧語を見出しの基準にすれば曖昧さは生じませんが,このような豆知識は記憶にとってとても有益ですから,そういう遊びを包摂できるような単語集が望ましいでしょう.

(5) 英語もドイツ語も北欧語もてんでばらばらな単語.北欧語を覚えるにあたって英語もドイツ語も頼りにならないということですから,(2) とともにいちばん大変な場合です.おそらく数も少ないとは言えないでしょう (というか構成上 (2) と分ける必要もないかも;ドイツ語を読者にとっての学習 (復習) 対象に見据えるかどうかの違いか).

たとえば氷 skógur : 丁 skov / 独 Wald / 英 forest や,氷 stór : 丁 stor / 独 groß / 英 large (もっとも独 groß は英 great と同源なので,そのかぎりではこれは (2) のパターンですが) がそうです.つづりから想像されるとおり,forest も large も古フランス語から中英語に入った単語です.もちろんそういうものばかりでなく,氷 barn : 丁 barn / 独 Kind / 英 child や氷 spyrja : 丁 spørge / 独 fragen / 英 ask のように,どれもゲルマン語本来の単語なのに現代に残ったものが異なるというパターンもあります.


さてここまで「北欧語」をひとまとめに扱ってきましたが,それは英語・ドイツ語に比べれば北欧語間の互いのばらつきは比較的小さいためです.しかしいまかりにアイスランド語の単語集を作ることにし,そこで英語・ドイツ語のみならずデンマーク語の知識も助けにすることとすれば,アイスランド語とデンマーク語でふつう使われる単語の訳語が同源でない場合が問題になりましょう.

これに関して思いつくのは「食べる」を意味する動詞で,デンマーク語ではふつう spise という動詞を使います.しかし「食べる」が spise だなんていかにもゲルマン語らしくない感じがします.それもそのはず,この単語はラテン語 expensa に源を発し,中低ドイツ語を通してデンマーク語に入ったということです (独 Speise も同源).一方アイスランド語では borða が一般的です.これに対して丁 æde : 氷 éta という,英 eat : 独 essen と同源の動詞もありますが,これらはいずれも動物が餌を食べることを言い,人に使うと軽蔑的な意味になるようです.

また「考える,思う」を意味するいちばんふつうの語は英 think : 独 denken : 丁 tænke ですが,アイスランド語では hugsa です.アイスランド語における前者の cognate は þekkja という動詞で,これは「知っている」を意味します.なおデンマーク語の tænke およびスウェーデン語・ノルウェー語でそれに対応する語は,もともと中低ドイツ語の denken から入ったということです.

こういったことは少なからずほかにも例があろうかと思われます.そして最終的にはそのようなアイスランド語単語集を作りたいのですが,具体的なことはもう少し両者の勉強を進めてから考えることにしましょう.また,資料としてたとえばアイスランド語―デンマーク語辞典のようなものが必要になりますから,その点でもまだ私のほうで準備が不足しています.

jeudi 7 décembre 2017

アリスの最初のデンマーク語訳 (3)

以下は『不思議の国のアリス』の最初のデンマーク語訳 Maries Hændelser i Vidunderlandet (1875 年) 第 3 章の翻刻である.出典および表記の凡例は最初の第 1 章に付記しており,下線の意味については前回第 2 章で断ったとおり.なお第 3 章は有名なネズミの「尾話」(tail = tale) がある箇所であるが,このデンマーク語訳ではあのしっぽ型の配置は再現されていない.



Tredie Kapitel.
Et Formandsvalg og et Væddeløb.
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Det var rigtignok et besynderligt Selskab, som forsamlede sig paa Bredden, Fuglene med forpjuskede Fjer, de firføddede Dyr med deres Pels klæbende fast til Kroppen, alle drivende vaade, gnavne og ilde til Mode.

Det første Spørgsmaal paa Dagsordenen var naturligvis, hvorledes de skulde blive tørre igjen; de havde en Raadslagning derom, og Marie fandt det snart ganske i sin Orden, at hun talte med dem i al Fortrolighed, som om hun havde kjendt dem hele sit Liv. Hun fik sig snart en lang Passiar med Alken, som tilsidst blev tvær og ikke vilde svare hende andet end: „Jeg er ældre end du og maa altsaa vide det bedre.“ Dette vilde Marie ikke indrømme, før hun vidste, hvor gammel den var, og da Alken bestemt nægtede at sige, hvor gammel den var, havde hun ikke mere at sige.

Tilsidst raabte Musen, som syntes at være en Person af nogen Vigtighed i Selskabet: „Sætter Jer alle ned og lytter til min Tale! Jeg skal snart faa Jer alle tørre!“ De satte sig straks alle ned i en stor Kreds med Musen i Midten. Marie holdt sine Øjne ufravendt fæstede paa den med en vis Ængstelse; thi hun var overbevist om, at hun vilde blive forkølet, dersom hun ikke meget snart blev tør igjen.

„Hm!“ sagde Musen med en vigtig Mine, „ere I alle færdige? Denne er den tørreste Sag i Verden, som jeg kjender. Stille, alle Mand, om jeg tør bede! Vi skulde altsaa se at blive tørre, og jeg foreslaar derfor, at vi tale Politik.“

„Hu!“ sagde Alken, idet den rystede af Kulde.

„Maa jeg spørge,“ sagde Musen, idet den rynkede sine Øjenbryn, men meget høflig, „sagde De noget?“

„Jeg sagde ingen Ting!“ raabte Alken hastig.

„Jeg syntes, det var Dem,“ sagde Musen. „Jeg gaar altsaa videre. Vi tale Politik —“

„Poli — hvad?“ sagde Anden.

„Tik!“ svarede Musen vred. „De ved naturligvis, hvad det vil sige. Og da jeg sikkerlig tør supponere, at hele Kompaniet er fuldstændig à jour —“

„Tal Dansk!“ sagde Anden. „Jeg forstaar ikke Meningen af alle disse fremmede Ord, og hvad mere er, jeg tror heller ikke, at De selv gjør det!“ Og Anden bøjede hovedet for at skjule et Smil, og flere af de andre Fugle fnisede lydelig.

„Maa jeg have mig slige Afbrydelser frabedt,“ sagde Musen og vedblev derpaa: „saavel med den højere som den lavere Politik. For Personer i vor Forfatning er Politik jo en herlig Ting. Maalet for vore Bestræbelser er jo pro primo, at vi skulle blive tørre, og da Politik er den tørreste Ting af Verden, er den sikkerlig i Stand til at meddele os noget af sin Tørhed. Pro secundo skulle vi blive varme, og da der ikke existerer noget i Verden, der saa let gjør Folk hede i Hovedet som Politik, tør jeg vel supponere —“

„Jeg maa gjentage,“ faldt Anden atter ind, „at jeg kun forstaar mit Modersmaal.“

„Og jeg maa gjentage,“ vedblev Musen, „at jeg frabeder mig alle Afbrydelser. Og da det ærede Medlem ikke vil holde sig i Skindet, saa foreslaar jeg, at vi vælge en Formand.“

Dette Forslag vandt almindeligt Bifald, og da de lavere Dyr rottede sig sammen, blev Krabben valgt.

„Nu skulle vi nok til at gaa Krebsegang,“ sagde Anden.

„Ja, saa komme vi nok aldrig paa det Tørre,“ sagde Dronten. „Hvorledes gaar det ellers nu, kjære Barn?“ vedblev den, idet den vendte sig til Marie.

„Lige vaad,“ sagde Marie i en ynkelig Tone; „den Snak lader slet ikke til at tørre mig.“

„Mig heller ikke,“ sagde Dronten. „Jeg foreslaar derfor, at vi løbe Væddeløb —“

„Hvorledes skulle vi bære os ad dermed?“ sagde Marie, ikke just fordi det var hende om at gjøre at faa det at vide; men Dronten havde standset, som om den mente, at en eller anden borde tale, og ingen af de andre syntes tilbøjelig dertil.

„Ser du,“ sagde Dronten, „den bedste Maade at forklare det paa er at gjøre det.“

Først afridsede de en Væddeløbsbane omtrent som en Cirkel. „Om Formen er rigtig nøjagtig, gjør intet til Sagen,“ sagde den. Hele Selskabet stillede sig da hist og her langs med Rendebanen. Derpaa blev der talt „en, to, tre og afsted“; men de begyndte at løbe, naar de fandt for godt, og holdt op, naar de fandt for godt, saa at det ikke var let at vide, naar Væddeløbet var til Ende. Da de imidlertid havde løbet en halv Times Tid og vare blevne ganske tørre, raabte Dronten pludselig: „Væddeløbet er til Ende!“ og de stimlede alle sammen om den og spurgte gispende: „Men hvem har vundet?“

Dette Spørgsmaal kunde Dronten ikke besvare uden megen Eftertanke, og den sad længe med den ene Pote trykket paa Panden, saaledes som tænkende Personer ofte pleje at gjøre, medens de andre ventede i Tavshed. Tilsidst sagde Dronten: „Alle have vundet, og alle maa have Præmier.“

„Men hvem skal give Præmierne?“ spurgte et helt Kor af Stemmer.

Hun naturligvis,“ sagde Dronten, idet den pegede paa Marie, og de flokkedes straks alle om hende og raabte i Munden paa hverandre: „Præmier! Præmier!“

Marie vidste slet ikke, hvad hun skulde gjøre, og i Fortvivlelse stak hun Haanden i Lommen og trak en Æske med Konfekt op, som det salte Vand heldigvis ikke var trængt ind i, og uddelte det som Præmie. Der var akkurat et Stykke til hver.

„Men hun maa jo selv have en Præmie,“ sagde Musen.

„Naturligvis,“ svarede Dronten meget alvorlig. „Hvad har du ellers i din Lomme?“ vedblev den, idet den vendte sig om til Marie.

„Kun et Fingerbøl,“ sagde Marie bedrøvet.

„Giv mig det,“ sagde Dronten.

De flokkedes derpaa alle endnu en Gang om hende, medens Dronten højtidelig overrakte hende Fingerbøllet, idet den sagde: „Vi bede dig modtage dette pragtfulde Fingerbøl“, og da den havde endt denne korte Tale, raabte de alle Hurra.

Marie fandt hele Sagen yderst taabelig; men de saa alle saa alvorlige ud, at hun ikke torde le, og da hun ikke kunde finde paa noget at sige, nejede hun blot og tog imod Fingerbøllet, idet hun saa saa højtidelig ud, som hun kunde.

Det næste, der var at gjøre, var at spise Konfekten. Dette foraarsagede en Del Støj og Forvirring, da de store Fugle klagede over, at de ikke kunde smage deres, og de smaa fik deres galt i Halsen og maatte dunkes i Ryggen. Tilsidst fik det dog en Ende dermed, og de satte sig atter i en Krebs og bade Musen fortælle dem en Historie. „Du lovede mig jo at fortælle mig en Historie,“ sagde Marie, „og hvorfor du hader K— og H—“, tilføjede hun hviskende, halvt bange for, at den igjen skulde blive fornærmet.

„Min Historie,“ begyndte Musen, „er ingen morsom Historie; den er lige saa sort og lige saa lang —“

„Som din Hale,“ afbrød Marie, der ikke kunde faa sine Øjne fra Musens lange, sorte Hale; „men hvorfor kalder du den sort?“

„Hør nu bare!“ sagde Musen og fortalte: „Diavolo, den slemme Hund, sagde til en lille Mus, som den mødte: „Lad os føre Proces, jeg vil lægge Sag an mod dig; det nytter ikke, hvad du siger, vi maa have et Forhør; thi i denne Morgenstund har jeg slet ikke noget at bestille.“ Saa sagde den lille Mus: „Et saadant Forhør, min gode Ven, uden Dommer og uden Vidner, vilde tage for meget paa vore Kræfter!“ — „Jeg vil være Dommer, og jeg vil være Vidner,“ sagde den snedige gamle Hund, „jeg skal nok føre den hele Sag og dømme dig til Døden —“ og saa aad den hele den lille Mus rent op.“

Under denne Fortælling havde Marie staaet og stirret ufravendt paa Musens Hale og hørt til med megen Deltagelse.

„Du hører ikke efter!“ sagde Musen vredt til Marie. „Hvad staar du der og tænker paa?“

„Jeg beder om Forladelse,“ sagde Marie ydmygt, „det var rigtignok en bedrøvelig Historie.“

„Naa, saa det synes du dog,“ sagde Musen, idet den lavede sig til at gaa.

„Jeg mente ikke noget ondt dermed,“ sagde Marie. „Vær saa god at komme tilbage og fortæl mig noget mere!“ Marie kaldte paa den, og alle de andre raabte i Munden paa hverandre: „Ja, kom dog!“ men Musen rystede utaalmodig paa Hovedet og skyndte sig kun desto mere.

„Hvor det dog var kjedeligt, at den ikke vilde blive!“ sukkede Dronten, saa snart den var ude af Syne; men Krabben greb Lejligheden til som Formand at holde en Formaningstale til hele Forsamlingen og endte med at henvende sig saaledes til sin Datter: „Mit kjære Barn! Lad dette være en Advarsel for dig til aldrig at lade Vreden faa Bugt med dig!“

„Hold din Mund, Mama!“ sagde den unge Krabbe næsvist. „Du kan da ogsaa sætte selv en Østers’s Taalmodighed paa Prøve!“

„Maa jeg frabede mig alle Personligheder!“ sagde en gammel Østers.

„Jeg vilde ønske, jeg havde min Dina her, det ved jeg nok!“ sagde Marie højt uden at henvende sig til nogen i Særdeleshed. „Den skulde snart bringe Musen tilbage.“

„Og hvem er Dina, om jeg maa spørge?“ sagde Alken. Marie svarede straks, thi hun var altid rede til at tale om sin Øjesten: „Dina er min Kat, og det er saadan en mageløs Kat til at fange Mus! Og du skulde bare se den gaa paa Jagt efter Fuglene! Den kan min Tro lige saa nemt fange en lille Fugl som se paa den!“

Denne Tale foraarsagede en mærkelig Uro i Forsamlingen. Nogle af Fuglene skyndte sig straks bort; en gammel Skade begyndte at pakke sig meget omhyggelig ind, idet den bemærkede: „Jeg maa virkelig se at komme hjem; jeg kan ikke taale Natteluften for min Hals!“ En Kanariefugl skreg med skingrende Stemme til sine Børn: „Kom nu, kjære Børn, det er paa høje Tid, at I alle komme til Sengs!“ Under forskjellige Paaskud tog de alle bort, og Marie stod ganske alene tilbage.

„Jeg vilde ønske, at jeg ikke havde omtalt Dina!“ sagde hun i en bedrøvet Tone. „Ingen her synes at holde af den, og jeg er vis paa, at det er den bedste Kat i Verden! O, min kjære Dina! Jeg gad vidst, om jeg nogen Sinde skal se Dig igjen! Og nu begyndte den stakkels lille Marie igjen at græde, thi hun følte sig meget ensom og forknyt. Hun hørte imidlertid snart igjen Lyden af Fodtrin, som nærmede sig, og saa forventningsfuld op, idet hun haabede, at Musen havde skiftet Sind og nu vendte tilbage for at fortælle Resten af sin Historie.

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