mercredi 6 juillet 2016

アイスランドの推理作家 (1): カナ表記の問題

私はあまりフィクションの読みものを読まないたちなので寡聞にして知らなかったのだが,数年まえから北欧発のミステリが流行していたらしい.調べてみると,北欧 5 ヵ国,すなわちデンマーク・スウェーデン・ノルウェー・フィンランド・アイスランドすべてから,何冊もの小説が翻訳されているではないか (もちろん数は均等ではなく,どうやらスウェーデンが頭ひとつ抜けているようだが).それはつまりその原書と訳書とを手に入れれば,日本語訳のついたデンマーク語やアイスランド語の例文を大量に手に入れられるということだ! 小説をとりあげるとは,このブログとしてははじめての語学以外の記事ということになるが,こういう事情であるからどうにも私は語学から完全には離れられない定めのようだ.

アイスランドからの推理小説は,調べのついたかぎり,これまでに 5 点が邦訳されている.Arnaldur Indriðason の『湿地』(Mýrin), 『緑衣の女』(Grafarþögn「墓の沈黙」), 『声』(Röddin), Yrsa Sigurðardóttir の『魔女遊戯』(Þriðja táknið「第三の象徴」), そして Viktor Arnar Ingólfsson の『フラテイの暗号』(Flateyjargáta) である.これらの原著はいずれも 2000 年から 2005 年までの作品だが,邦訳はもっとも早いもので 2012 年,すなわちたったの 4 年まえからのニューウェーブというわけだ.続刊の翻訳が期待される.

とはいえ細かいことを言えば,なんとこれらはどの 1 つをとってもアイスランド語から直接に日本語に移されたわけではなく,Arnaldur の 3 作はスウェーデン語,Yrsa のものは英語,そして Viktor Arnar のものはドイツ語に訳されたものから重訳されたものであるという.それについては残念というよりはむしろ興味深いという思いが先に立つ.アイスランド語を訳せる日本人がまったくいないわけではなかろうが,その能力があってなおかつ現代の大衆的な作品に関心をもっている人というのは難しいのかもしれない (1955 年にノーベル文学賞を受賞した Laxness の作品もあまり邦訳されていない).

さて 3 作が邦訳されている Arnaldur Indriðason のカナ表記は,スウェーデン語文学の翻訳者として著名であるらしい柳沢由実子氏による既刊の訳書ではアーナルデュル・インドリダソンとされており,日本語版 Wikipedia もこの表記で立項されている.しかしもっとも原音に近い表記をするならば,アルトナルトゥル・イントリザソンくらいになろう.IPA で書けば [artnaltʏr ɪntrɪðasɔn] である.

詳しくは昨日のエントリ「現代アイスランド語の発音規則」を参照してほしいが,いま関わりのあるかぎりで,すなわち柳沢氏によって普及し (てしまっ) た表記との相違に関して,5 つのポイントを指摘しておく.言うまでもなくカナ表記には一定の妥協とある種の立場へのコミットメントが不可避であるからして,私の主張にも言い訳が必要なのである.以下ではまた,ゲルマン語学の大家である清水誠先生の論文,
  • 清水誠 (2010).「アイスランド語の音韻とカナ表記の問題点 (一)」,『北海道大学文学研究科紀要』132: 1–44.
  • 清水誠 (2011).「アイスランド語の音韻とカナ表記の問題点 (二)」,『北海道大学文学研究科紀要』133: 57–77.
を参照したところがある.

問題が簡単な順に説明しよう.第 1 は,ar や er はアメリカ英語のように「アー」「エー」のような r 音化母音にはならないということである (というより,そんな奇妙なことが起こるのは英語と中国語,ドイツ語の er の一部,といったどちらかといえば例外的現象と言わねばならない.R は伸ばし棒ではなく子音なので,常識的には「アル」「エル」である).第 2 は,rn という並びのときには [t] の音の語中音添加 (epenthesis) が起こるということである.この点についてはこの記事の最後に紹介する 2 つの音源を聞いてもほとんど疑いがない.

第 3 は,ð という文字は誰にも中学校以来英語の辞書でおなじみのとおり,[ð] という音,すなわち that の th の音を表すということである.しかしこちらの点は音源を聴けば (少なくとも私の耳には)「ザ」よりは「ダ」に聞こえる.面倒な話ではあるが,アイスランド語の実際の音声では有声の [ð] は無声の [θ] ときれいな対照をなすわけではなく,摩擦音よりはむしろ接近音に近い性質を示すからである.それでも私が「ザ」を選んだのは,そちらのほうが ð の字の思い浮かべやすいことと,もう 1 人の作家シグルザルドッティルの「ザ」と一貫するのが望ましいと考えたからである.清水 (2010) でもザ行を選択している.ただしこの点に関しては私も確信しているわけではなく,より聞こえに近い「ダ」が望ましいような気もする.

第 4 は,[ʏ] という音を「ユ」にするか「ウ」にするかという問題である.柳沢氏は前者を選び「デュル」としたわけだが,私は後者として「ドゥル (トゥル)」を推す (濁点の問題は次項).聞こえを優先した形だが,これも非常に微妙な問題であって,前項で述べたような「もとのつづりを思い浮かべやすい」かどうかという基準で言えばじつは「ユ」に軍配が上がろう.ドイツ語の y, ü やフランス語の u をはじめとして,[yː, ʏ] の音は日本では伝統的にそのように表記されてきたからである.しかしながら清水 (2011:59) はこれに関し,長い [ʏː] には「ユー」,短い [ʏ] には「ウ」をあてるという折衷的な立場をとっており,その理由として短い [ʏ] のほうは口蓋化の度合が弱く「ウ」に近く聞こえること,日本語として「ユ」を多用することは不自然に見えること,そしてまたオランダ語の同じ音のカナ表記との兼ねあいをあげている.これはある点では苦しい判断ではあるが,私もこれに賛同するものである.

この点に関してもう少し言えば,じつは柳沢訳は作中でこの (短い [ʏ] の) 音のカナ表記が一貫していない.私はまだ『湿地』しか読んでいないのでそこに出てくる例しかあげられないが,著者名「アーナルデュル Arnaldur」や主人公の「エーレンデュル Erlendur」,事件の起こる「ノルデュルミリ Norðurmýri」などは「ユ」なのに対して,重要人物「ウイル Auður」と,レイキャヴィク市中の通りの名前「バロンスティール Barónsstígur」ではそれぞれ (なぜか)「オ」と「ウ」であり,また同僚の「シデュル Siguur」では「ウ」と「ユ」が混在している.これはやはり清水先生の言うとおり「ユ」ではうるさいので「ウ」にあわせるのがよいと思う.

最後に,閉鎖音を表す b/p, d/t, g/k はアイスランド語においては有声と無声 (日本語の濁音と清音) の対立ではなく,どちらも無声だということである.しかしながらこれに関していえば,それをわかったうえでカナ表記では濁点を用いる,という立場も有力であって,清水論文はそのようにしている.その最大の利点はなんといっても原綴を復元しやすいことである.しかし一方で欠点となるのは,実際の音と食い違うことばかりでなく,同じ音が 2 通りに表されてしまうことである.

というのも,私の主張する「アルナルトゥル」ばかりでなく,作中に出てくる人物名「エッリデ Elliði」(「デ」にはこのさいつっこむまい) や地名「シンクヴェリル Þingvellir」の ll に現れる挿入音「ト」は,d の表す無気無声音 [d̥] ([t]) とまったく同じ音だからである.したがって,もし d をダ行で表し「アルトナルドゥル」とすれば,これは同じ音が 1 度めは「ト」,2 度めは「ド」と書かれてしまうことになる.しかるにこの挿入音のほうを「ド」にすることは考えられない.というのも世界遺産にもなっているシンクヴェトリルはかなり人口に膾炙した表記であるし,アイスランドの地名にはアルトナルスターピ (Arnarstapi) やセルチャルトナルネース (Seltjarnarnes) のようにほかにもこういう「ト」の例はあって,観光ガイドなどの日本語表記でこれらを「ド」にした例はおそらく存在しないからだ.

一貫して清音を使うことの犠牲として,カナ表記から原綴が復元しにくくなることはすでに指摘した.たしかに b, d, g が無声音だからといって p, t, k との違いがまったくないわけではなく,その音の違いがカナ表記上明らかに見えることは有用である.しかしその違いというのは henda [hεnta] 対 henta [hεn̥ta] のように,d/t そのものは同じで隣接する鼻音・流音を無声化するかどうかという違いなのであるから,あくまで「ト」じたいは「ト」なのである.「ン」や「ル」の無声化をカタカナで表記する一般的な方法がない以上は「ド」を次善の策として認める意義はあるのだが,そういう事情を知らないふつうの読者に対しては誤解を与えるので問題なしとはしない.

以上のような検討にもとづいて私は前掲の著者名表記を主張するものだが,清水 (2010) の言うような「カナ表記とカナ発音の違い」に鑑みれば,ダ行の濁点に関しては妥協する用意がある.この場合には「アルトナルドゥル・インドリザソン」となり,清水論文の提案に全面的に沿うならばこの形になる.アイスランド人による Arnaldur Indriðason の発音例としては,原著の版元 Forlagið が YouTube で公開している,この Erlendur シリーズ第 12 作にあたる Einvígið の宣伝動画と,一般人のネイティブによる発音が聞けるソーシャルサイト Forvo に登録された録音を聞いてみて判断してほしい.

このエントリを書きはじめたときには本当は Erlendur シリーズの内容や Yrsa の作品について触れたかったのだが,カナ表記の問題でずいぶん長くなってしまったので,いったんここで区切ることにする.小説の話をしようとしていたのだが,結局語学に関する話題に終始してしまったのは痛恨の極みである.

mardi 5 juillet 2016

現代アイスランド語の発音規則

(現代) アイスランド語のつづりと発音の関係は規則的ではあるが,その規則がほとんど無数といっていいほどにあり,忘れるたびに調べなおすのが大変なので自分にとって参照しやすい形でまとめておく.アイスランド語の教科書として概説的に用いたのは以下 (参照頻度順):
  • [M] Magnús Pétursson, Lehrbuch der isländischen Sprache. Hamburg: Buske, 62014.
  • [R] Rasa Ruseckienė, Islandų kalbos gramatika. Vilnius: Tyto alba, 2013.
  • [N] Daisy L. Neijmann, Colloquial Icelandic. Abingdon, Oxfordshire: Routledge, 22014.
  • [HK] Helga Hilmisdóttir and Jacek Kozlowski, Beginner’s Icelandic. New York: Hippocrene Books, 2009.  この本は IPA による発音表記を示していない.
またより特別の問題について次のものを参照したところがある:
  • Sigrid Valfells and James E. Cathey, Old Icelandic: An Introductory Course. New York: Oxford UP, 1981.
  • Kristján Árnason, The Phonology of Icelandic and Faroese. New York: Oxford UP, 2011.
  • Mark Liberman, “A little Icelandic phonetics”, http://languagelog.ldc.upenn.edu/nll/?p=2264.
以下に示す単語とその発音は,すべて最初の 3 冊のどれかから引用したものである.3 冊の表記法はすべての点で一致しているわけではないから,引用にあたっては本記事内で一貫するように改めた.それには細心の注意を払ったが,なお手抜かりがあることを恐れる.しかしながら発音の規則と考えあわせれば,一部に不手際があったとしても正しい発音はおのずと知られるであろう.


文字


母音字は a, á, e, é, i, í, o, ó, u, ú, y, ý, æ, ö の 14 個.子音字は b, d, ð, f, g, h, j, k, l, m, n, p, r, s, t, v, x, þ の 18 個.c, q, w, z は外来語などを除いて用いない.


母音


母音の大原則として,アクセント記号は語強勢や長短を表すものではない.どの母音も (後に触れる二重母音も含めて) アクセントをもちうるし長になりうる.アクセント位置以外では短であり,アクセント位置ではいくつかの条件のもとで長になる.

母音字のうち,a, e, o にはとくに注意を要しないふつうのア,エ,オである.a が前舌か後舌か,e や o が狭めか広めかということは音韻論的に対立しないので,あまり気にする必要はない.しかし念のため述べておけば,a は M. に従えば後舌寄りであり,また e と o はどちらも広めで R. と N. ははっきり [ɛ, ɔ] と書いている.ただし M. はドイツ語の [ɛ, ɔ] に似るもののそれよりは狭く調音されると述べており,表記上も [e, o] としている.

ií の違いは長短ではなく質で,前者が英 sit のような広い音 [ɪ], 後者が英 seat のような狭い音 [i] である.yý はそれぞれ順に i と í にまったく同じ.

uú は,後者のほうがふつうのウの音 (英 cool).前者はオランダ語の u, ドイツ語の (短い) ü が表す [ʏ] の音に似ており,実際に音韻論上ふつうそのように表記されるが,正確には [ө] ほどに中舌で,ユよりはウに聞こえる.M. はこの u はドイツ語にはない音で,スウェーデン語の hus や nu の u に似ていると説明している.N. はこれを [ø] と書いている.

ごく例外的な事項ではあるが,u については,定形の複数与格語尾 -unum の場合にかぎり,最初の u が [o] と読まれる:börnunum [pötnonʏm] (R, p. 173).

ö は見た目どおりドイツ語の (短い) ö に似た [œ] であるが,これも実際にはもっと中舌であり,また M. によればドイツ語の ö よりも広い.この音を M. と R. は [ö], N. は [œ] と表記している.

é は母音としては e と同じだが硬口蓋音を含む [je] で,この特徴はしいて言えばロシア語の е に似るであろう (ただしアクセント記号のない e も g, k の硬口蓋化をひきおこす:ge, ke は [ce, cʰe] である,後述).

残る 3 つは 1 文字で二重母音を表す.á は [au], ó は [ou], æ は [ai].  2 文字の組みあわせで二重母音になるものとしては au, ei, ey があり,後 2 者の eiey はまったく同じで見た目どおり [ei] である.au はとりわけ注意が必要で,これは字面からはぜんぜん予想のつかない音であって,M. と R. では [öi], N. では [œy] と書かれ,後者の説明に従えばちょうどオランダ語の ui のような音ということになろう.

二重母音は,長であるとき [auː] や [ouː] のように表記されるが,これは「アウー」や「オウー」のように後ろの第 2 要素を伸ばすのではなく,むしろ第 2 要素はわたり音的であって,発音としては「アーウ」などに近い.

NG/NK ルール.単母音のうちのいくつかは,語中で ng または nk の前におかれるとき音が変わる.たとえば -ang- は [aŋk] ではなくあたかも *-áng- と書かれているように [auŋk] と発音される.この変化の規則は,a, i, y, u → á, í, ý, ú;  e → ei;  ö → au である (つづり字が変わるのではなく,読みかたがそうなるということ).


子音


b, d, gp, t, k の対立は有声と無声ではなく,無気と帯気の違いである.前者のグループ b, d, g の発音表記は,伝統的には [b̥, d̥, ɟ̊ (g̊j), g̊] と書かれてきたが,無声化した [b, d, ɟ, g] とは要するに [p, t, c, k] にほかならないのであって,最近ではむしろそういうふうに書かれるようである (M. はこうした事情を断ったうえで後者の表記を採用している.R. は前者,N. は後者の表記を用いている).有声音字 b, d, g が帯気音を表すことは決してないが,無声音字 p, t, k のほうはつねに帯気音であるということではなく,語頭以外では b, d, g と同じ無気音であることがある.

有声ではないということにさえ気をつければ,b, d, g, p, t, k の発音に難しいところはない.ただし g, k はすでに (無断で) 述べてきたとおり硬口蓋閉鎖音 [c, cʰ] になることがあり,それは g, k のあとに j もしくは前母音 i (y), í (ý), e (ei, ey), æ が続くときである (M, 1.1.1).ただし æ がそうだというのは古アイスランド語でもともと [æː] という音価だったからである (Kristján Á., p. 101; Valfells and Cathey, p. 2).このように前母音が子音を硬口蓋化させるという点だけを見ればケルト諸語の狭子音化やバルト・スラヴ諸語の軟音化と共通するが,これはあくまで g/k に作用するのである.

ここまでを見れば,b/p はつねに [p], d/t はつねに [t], g/k はつねに [k] か [c], と言えそうである.しかしそれが正しいのは b と d についてだけである.

g は [k, c] のほかにもいくつもの音価をもつ.語末であるか,母音の後かつ a, u, ð, r の前では [ɣ] となる:draga [traːɣa].  母音の後かつ s, t の前では [x] となる:sagt [saxt].  母音の後かつ i, j の前では [j(ː)] となる:hagi [haiːjɪ], bogi [poiːjɪ] (この音声表記にはコンセンサスがないようである:[pɔijɪ], [pɔːjɪ], [pɔjːɪ].  そうした事情を含む /i/-二重母音化の分析については Kristján Á., pp. 65f. を見よ).流音 l, r と歯音 d, ð, t, n, s の間もしくは á, ó, ú と a, u の間,または ld, nd の前では消失する:fylgdi [fɪltɪ], lágur [lauːʏr].  そのほか,「神」を意味する guð では [kvʏːð] という特別な発音になる (派生語も同様).

k も g と似た条件でべつの音価をもつ.〈s + 子音〉もしくは t の前では [x] になる:lykt [lɪxt].  l, n, r, s と t, st の間,または nt の前で消失する:fylkti [fɪl̥tɪ], æskti [aistɪ].

無声音字 p, t, k は,べつの無声子音字の前で摩擦音化する:skipta [scɪfta], litka [lɪθka], taktu [tʰaxtʏ].  いくつかの語では閉鎖音のまま保たれうるが,そのための条件は先行する母音が長く保たれることである:skips [scɪfs] または [scɪːps], litka [lɪθka] または [lɪːtka] (M, 1.1.3).

無声音字は,二重化した pp, tt, kk の場合,または l か n の前にあるとき,気音を伴う:heppinn [hehpɪn], vatn [vahtn̥], hekla [hehkla].  これを前気音化 (Präaspiration) という (M, 1.1.2, 1.2.6).

ðþ は,前者は英語の発音記号でおなじみだが,英語と同様の歯摩擦音である.

þ は語頭もしくは音節の頭にしか立たず (HK, p. 10),つねに無声音 [θ] である.ただし例外として,強勢のない代名詞または副詞が文中でリエゾンする場合には有声で読まれることもある:Verið þið lengi þar? [verɪðɪ leiɲcɪðaːr] (R, p. 173).

ð は逆に決して語頭に立たない (HK, p. 7).こちらはその字面にもかかわらず,つねに有声の [ð] というわけではなく,語中で k の前では無声である:maðkur [maθkʏr].  また語末ではしばしば読まれない (N, p. 4).

fv は基本的に英語と同じ唇歯摩擦音で,とくに v のほうは例外なく [v] である.f は単独では無声の [f] だが,母音間,または母音と ð, g, j, r との間では有声の [v] になり,こういうことは非常に多い.また l および n の前では [p] になる.それでアイスランド最大の空港のある Keflavík はカタカナではケプラヴィークと書かれる.さらに,ld, lt, nd, nt の前,または l と n, r, s, t との間では消失する:efldi [eltɪ], efnd [emt], sjálfs [sjauls].  ただし nd, nt の前での消失というのは,消失というよりむしろ fnd, fnt の組みあわせで [mt], [m̥t] になるのだと考えたほうがよいかもしれない (N, p. 4).

h はたいていすなおに [h] である.大きな例外は,語頭で hv という連続のとき [kʰv] と読まれることで,N. によればこれはまたアイスランド南部の方言では [x] と発音されるという (M. によれば [xʷ]).hver「誰」,hvað「何」,hvar「どこ」,hvernig「どのように」といった疑問詞に現れるので,このことは重要である.また,hé および hj という組みあわせでは硬口蓋化して [ç] となる.h の特殊な働きとして,語頭の hl-, hn-, hr- という組で h じしんは消失して後続子音を [l̥, n̥, r̥] のように無声化する.これは厳格な規則ではなく [hl, hn, hr] と発音してもかまわない.

j は文字どおりつねに [j] なので難しいところはない.例外といえば前述のように hj が [ç] となるくらいであろう (これも音素としては /hj/ であるところ [ç] として実現するものと考えられるので,例外とは言いがたい).

l [l] および n [n] についてもっとも特筆すべき事項は,いわゆる t-挿入 (t-insertion) である.これは二重化した ll および nn が,二重子音 [lː, nː] ではなく [tl, tn] のように発音される現象である.ll ではほとんどつねにこれが起こり (Páll のような人名も同様),そうならない例外は grilla のような外来語か,Halli, Kalli のようなニックネーム (それぞれ Haraldur と Karl の短縮形) だけである (HK, p. 11).

nn の場合はそうではなく,t-挿入が起こるのはアクセントつき母音または au, ei, ey という二重母音字のあとでだけである.ここにアクセントつき母音とはアクセント記号のいいであって語強勢のことではない.すなわち fínn, brúnn, einn では [tn] と読むが,finna, brunnur, enn では [nː] である.

また,r または s を伴った rl, rn, sl, sn の形でもこの t-挿入が起こる.その場合は [rtl, rtn, stl, stn], もしくは前 2 者では r さえも消えて [tl, tn] という発音になる.音節尾子音 (coda) になっている継続音 (continuant) と,次の音節の頭子音 (onset) になっている非継続音の鳴音 (sonorant) とのあいだに [t] が入って,かえって複雑な頭子音が語中位置では許されているということである (Kristján Á., p. 173).これは複合語の境界では起こらない (ibid., p. 260).

語末で無声化した [l̥] の音は,Liberman によれば額面どおりの側面接近音というよりはほとんど側面摩擦音 [ɬ] として発音されている.この子音をもつ言語の例でもっとも有名なのはウェールズ語の ll であろう.

ついでのようになったが,n は [k] の前で [ŋ], [c] の前で [ɲ], そしてそれ以外では [n] と 3 通りの鼻音の音価をもつ (M, 1.3.2).しかしこのことは日本語の「ん」を知るわれわれにとっては言うまでもないことである.

m はつねに [m] であって,適当な環境で二重化 [mː] もしくは無声化 [m̥] をするが,それ以外に特筆すべき点はない.むしろ f の項で述べたように,m の字でないのに [m] と発音される現象があることに注意せよ.

r は巻き舌の [r] であり,ドイツ語の r とは大きく異なる (M, 1.4.2).これも m と同じく二重化・無声化を無視すればつねに唯一の音価であり,迷う必要はない.ただし上で述べた rl, rn における語中音添加については気をつけること.

s はいかなる場合も無声の [s] であって,たとえ母音間であっても [z] になることはない.このことは英語やドイツ語に慣れていると不思議であるが,ほかの北ゲルマン語 (デンマーク語,スウェーデン語,ノルウェー語) の学習経験がある人にとっては自然であろう.s についても sl, sn の場合を忘れないようにせよ (rl, rn と違い,sl, sn についてのこの規則は M. に記載が見あたらないのが疑問だが,R. や N. には明記されているし,Kristján Á. にもあるので,信じてよいと思う).

x は例外なく [xs] である:vaxa [vaːxsa].  [ks] でないことは,k が適当な条件で [x] になることを思いだせばさして奇妙ではない (その条件とは同一でないにせよ).

最後に,有声子音はしばしば語末や無声音の前で (逆行) 同化して無声音になるが,そのことは以上ではとりたてて別種の音価としては扱わなかった.また,子音字を 2 つ重ねると二重子音になることが多いが,これも特別には断らなかった.

dimanche 22 mai 2016

Briquel, 平田監,斎藤訳『エトルリア人』誤植訂正

Dominique Briquel, 平田隆一監修,斎藤かぐみ訳『エトルリア人』白水社,2009 (文庫クセジュ 932) の typo などのメモです (底本は 2009 年 2 月 5 日第 1 刷).

  • p. 12, l. ↑3: 「エルトリア」
  • p. 23, l. 5: 「埋葬された男性の戦士として役割が」→「……戦士として役割が」
  • p. 26, l. 6: 「八五〜一二九一頁」→「……一二九頁」
  • p. 37, l. ↑5: 「リュデア説」.ほかの箇所では「リュデア」.
  • p. 41, l. ↑3: 「驚かなかったのでである」
  • p. 53, l. ↑3: 「( ウェルギリウスの家名」.スペースの混入?
  • p. 54, l. 10: 「ラテン語で『トリウンス』」→「……『トリウンス』」
  • p. 56, l. 7: 「惹きけられて」.この 2 行まえでは「惹きけてきた」.
  • p. 60, l. 8: 「オリエント的な家屋『ベイト・ヒラニ』というオリエント的な家屋様式」?
  • p. 64, l. ↑1: 「三四一から三七〇頁」.ほかの箇所では「〜」.
  • p. 65, l. 5: 「商取引」.この次の行では「商取引」.
  • p. 67, ll. 8–9: 「イタリア半島南部の同じようにギリシア人をも制圧しようと」.語順?
  • p. 88, ll. ↑4–3: 「『非常に口が悪い』と(コルネリウス・ネポス……で評された)テオポンポス」→「『非常に口が悪い』(と……評された)テオポンポス」
  • p. 89, l. 3: 「いかに間違っていたことを示している」→「いかに間違っていた……」?
  • p. 94, l. 1: 「ぜいたくな暮らし」対 p. 99, l. ↑5: 「贅沢と懶惰」
  • p. 96, l. 4: 「複数形で」→「……」または「……」?
  • p. 103, l. 7: 「作られたのかもれない」.ほかの箇所ではもっぱら「かもれない」.
  • p. 104, l. 6: 「神の怒りの」.ほかの箇所では「兆」(たとえば p. 102, ll. 2, 3, 6).
  • p. 118, l. 1: 「組み合せ法」対 同 l. 4: 「組合わせ法」対 p. 121, l. ↑4; p. 154, l. 7: 「組み合わせ法」
  • p. 124, l. ↑2: 「認められることができる」?
  • p. 125, l. : 「形となり(たとえば三〇は……)、」.括弧のまえの読点を削除.
  • p. 128, l. ↑1: 「fler ……フレ」→「……フレ
  • p. 131, ll. 4–5: 「teis ……テス」→「……テス」
  • p. 134, l. 8: 「エトルリア語には……音素を持たなかった」→「エトルリア語は……」または「……音素がなかった」
  • p. 134, l. ↑2: 「つづけた、がその音価が変えられた」
  • p. 140, 訳注〔3〕: 「ゴクノーメン」
  • p. 141, 訳注〔9〕: この注が付されているところの本文の記述 (p. 121) に照らせば,主格だけでなく与格の固有名詞と並んだ例文をあげるほうが適切ではないでしょうか.
  • p. 142, l. ↑3: 「『ペラスゴイ人その伝説の……』」.「その伝説の」のまえにスペース.
  • p. 143, l. 2: ‘Les Tyrrhènes , ...’ スペースの削除.
  • p. 143, l. ↑2: 「恩師ブロックの同名の著書が本叢書で一九六四年に刊行されてからすでに四〇年」.Bloch, Les Étrusques は 1954 年.
  • p. iv: ‘G. M. Facchetti, L’enigma della lingua etrusca’ → ‘..., L’enigma svelato della lingua etrusca
  • 帯気音のカナ転写が一貫していません.無気音と区別せず「ク,ケ」などとした箇所と,ハ行音を加えて「クフ,クヘ」などとした箇所とが混在し,前者のほうがやや多い印象がありますが,p. 126 における完了形の能動 -ke と受動 -che (-khe) との対立のごとくカナ表記上区別したい気もちもあり,判断が難しいところではあります.ハ行音を加えているのは,p. 121, l. ↑1 で ‘mlakh’ を「ムラクフ」,p. 126, l. 6 で ‘-che’ を「クヘ」,p. 126, ll. 8–9 で ‘zichuche’ を「ツィクヘ」,p. 130, l. ↑4 で ‘vachl’ を「ワクフル」,p. 130, l. ↑2 で ‘ich ca cecha zichuche’ を「イ・カ・ケクハ・ツィクヘ」としている 5 ヶ所と,p. 111 の文字表および pp. 132f. の説明における χ, φ, ψ の名称に関してで尽きていると思われ,ゆらぎのほとんどは kh に関する問題で ph は φ の名称のみ,また th は一貫して無気音と同じになっています.なお ‘zichuche’ については p. 114, l. 5 では「ツィ」となっていることをあわせて指摘しておきます.

dimanche 13 mars 2016

Perrot, 支倉・堤訳『イエス』誤植訂正

Charles Perrot, 支倉崇晴・堤安紀訳『イエス』白水社,2015 (文庫クセジュ 1000) の typo などのメモです (底本は 2015 年 6 月 10 日第 2 刷).
  • p. 22, l. 3; p. 152, l. ↑5: 「ヘレニム世界」.フランス語では濁らない「イスム」は正しいが,その場合語頭 h 音も消えてしまう.なお p. 53, l. ↑1 や p. 76, l. 1 などほかの多数の箇所では「ヘレニズム」.
  • p. 26, l. 2: 「タルピオット で一九八〇年に」.半角スペースの混入?
  • p. 31, l. 3: 「かからわず」
  • p. 40, l. ↑1: 「ゴットロー」→「ゴットロープ」
  • p. 43, l. ↑4: 「ポンオ・ピラト」.ほかの箇所ではすべて「ポンティオ/ポンティウス」.
  • p. 54, l. 6: 「フラィウス・ヨセフス」
  • p. 55, l. 8; p. 70, l. ↑6: 「エリシ」.なお p. 87, ll. 5–6 (3 回) や p. 88, l. 10 では「エリシャ」.
  • p. 60, l. ↑3: 「預言者エレミ」,および p. 131, l. ↑3: 「エレミ」.巻末の聖書索引の項目名および p. 68, l. 5 では「エレミヤ」.
  • p. 66, l. ↑1; p. 121, l. ↑4: 「共同体」.おそらくこの 2 ヶ所のみ旧字体 (ほかの箇所は p. 53, l. ↑4: 「諸共同体」や p. 64, l. 2: 「諸行為」など).
  • p. 69, l. 3: 「ゼカリ」.巻末索引および p. 126, l. ↑1 では「ゼカリヤ書」.
  • p. 69, l. 6: 「ある -『天は今や閉じられている』」.ダッシュ?
  • p. 71, l. 5: 「アラム語の malkoutha」.原語は מַלְכוּתָא で,これはフランス語式の転写と思われるが,k や th の是非はまだしも,ou はフランス語を知らない読者に誤解を与えそうである (アラム語に二重母音 [ou] はなく,これは ū の音).
  • p. 78, l. ↑4: 「( 創二の一〜三)」.半角スペースの混入?
  • p. 78, l. ↑2; p. 101, ll. ↑6, 1: 「カイファ」→「カイファ」.なお p. 117 および pp. 127ff. ではすべて「カイアファ」.
  • p. 78, l. ↑2: 「アンナ」→「アンナ
  • p. 81, l. ↑2: 「語っている」.句点?
  • p. 82, ll. 8–9: 「エピウロス」→「エピダウロス」
  • p. 82, l. ↑2: 「トゥキディデス、ポリュビオス」→「トゥキディデス、……」.前者でも誤りとは断定しがたいが,同じ υ である「ポリビオス」と並ぶと違和感がある.
  • p. 83, l. ↑3: 「ギリシア語の sôtéria」.これもフランス語式の習慣かもわからないが,原語は σωτηρία であり é は重大な誤解を招く.ついでに言えば,これ以前の箇所で外国語の表記はすべてイタリックでなくローマンであり (p. 27, l. ↑3: ‘chrestianoi’ および上掲 p. 71, l. 5: 「ギリシア語の basileia、あるいはアラム語の malkoutha」.これ以後の箇所ではなお混在しており,全体の統一が望ましい),さらにギリシア語の転写に長音符 ô やアクセント記号 é がついている箇所は全編通してほかにない (といってもこのアクサンがギリシア語の意味のアクセント記号といえるかはべつの話である:これは上で指摘した -ou- と同じで,たんに母音 [e] をフランス語式に明示しているにすぎない).
  • p. 85, l. 6: 「彼をして」→「彼をわして」
  • p. 102, l. 3: 「『お前がユダヤ人の王なのか』イエスは」.「王なのか』」と句点を追加.原文は未確認のため不明だが,あるいは新共同訳に従えば「『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは」と補う (マルコ 15:2).
  • p. 111, l. 7: 「呼格(リエ Kyrie 主よ)」.誤りとは言いがたく,ミサ曲をはじめとして日本語では一般にも「キリエ」の形がカタカナ語で定着しているので判断が難しいところだが,上掲「トゥキュディデス、ポリュビオス」の件に加え,この同じページの直前直後の行で l. 5: 「ギリシア語のキュリオス Kyrios」と l. 10: 「キュリオス・ディオニュソス」にはさまれているという理由もあり,ちょうど「キュリオスの呼格がキリエ」という流れでは違和感がある.
  • p. 112, l. 7: 「マラナタ Marana Tha」.p. 149 では「マラナタ」.
  • p. 112, ll. 7–8: 「来て下さい! という」.感嘆符のあとのスペースがちょうど行頭にきてしまっており,改段落に見える.
  • p. 113, l. 2: 「出三の一四 - ヨハネ八の五八」,および p. 151, l. ↑1: 「ルカ二四の五、二三 - ヨハネ一の四」.読点?(この例は下記 pp. 122–124 の事例とは異なり,作中ほかの類似の箇所を参照するとすべて読点になっている)
  • p. 114, l. 2: 「ゴルゴ」→「ゴルゴタ」.日本語ではどちらも通用しているが,p. 133 や pp. 139f. では「ゴルゴタ」.
  • p. 115, l. 2: 「(本書二八頁 )」.半角スペースの混入?
  • p. 116, l. 7: 「アレサンドロス」.別人への言及だが,ほかの箇所ではすべて「アレクサンドロス(・ヤンナイオス)/(シモンの息子)アレクサンドロ/アレクサンドリア(のフィロン)」.
  • p. 117, l. ↑4: 「アナス」→「アンナス」
  • p. 120, l. ↑6: 「大あわてで持っていた」→「……持っていた」
  • p. 122, l. ↑6: 「マルコ一四の四三、五三 - 一五の一」,p. 123, l. 1: 「二の一六、一八、二四 - 三の六 - 七の一〜五 - 一〇の二」,および p. 124, l. 1: 「〔使二の〕二三、三六 - 三の一三〜一五 - 五の三〇、三二」.ここではどうやら章を超える場合に読点に代えてハイフンで区切っているようだが,連続する節を意味するものとまぎらわしい.作中この 3 ページ以外の箇所ではこの場合も読点を用いている (たとえば p. 48, p. 60, pp. 72f., p. 145, p. 152).
  • p. 125, l. ↑2: 「である(ヨハネ一八の三、一二)これは」.句点の位置を修正.
  • p. 129, ll. 8–9; p. 139, l. ↑5: 「ユダヤの王」→「ユダヤの王」.p. 129 のほうは原文しだいだが,p. 139 の箇所はヨハネの引用である.
  • p. 135, l. 3: 「『ユダヤ古代誌五』XVII」と p. 137, l. 3: 「『ユダヤ戦記』二、V」で統一.なお p. 28, l. 7 ではまたべつの記法になっている.
  • p. 138, ll. 8–9: 「並びました」.この文のみ丁寧語.
  • p. 141, l. ↑1: 「ト・ハーミヴタル Giv’at ha-Mirtar」→「ト・ハ・ミヴタル Giv‘at ha-Mivtar」.p. 144, l. 2: 「ジヴァト・ハーミヴタル」も同様.訳書のこの「ジヴァト」という表記はフランス語につられたものであろう.原語は גִּבְעַת で,ベート ב の下のシェヴァが示すとおりここで音節が Giv-‘at と切れるので,「ヴァ」ということはありえない (後ろの「アト」のほうがアクセント音節である).訳書のラテン文字表記のうち Mirtar はご愛敬で,またアイン ע を表す Givat のアポストロフはアレフ א と区別されるべく正しくは右開きの ‘ の形でなければならないが,これをも修正するかどうかは訳者と出版社の判断に委ねる.
  • p. 143, ll. 10–11: 「普通であった(スエトニウス〔……〕)。」.括弧のまえの句点を削除.
  • 聖書索引 p. i: 「列王上」.間違いではないかもしれないが,このすぐ下では「列王下」とされている.

そのほか,「殆ど/ほとんど」,「関連付ける,位置付ける,特徴付ける/づける」,「扇動者/煽動者」といった変換ゆらぎが多数ある.もちろんこれには,新共同訳をはじめとした他書からの引用文とのあいだのゆらぎは数えていない.

また,これは訳書のミスではなく原文のとおりであると思われるが,
  • p. 9, ll. ↑2–1: 「少なくとも五〇年前から〔……〕イエス史料がとりわけ補強された」
  • p. 16, ll. 3–4: 「研究者が自由に使えるようになっている――一〇年ばかり前はそうなっていなかった」
といった記載は,原著初版の刊行された 1998 年を基準にしていると思われ (前者は 1940 年代後半のクムランとナグ・ハマディの発見,後者は 90 年代はじめに死海写本が急速に公開されるようになったことを受けているのであろう),2014 年の最新版をもとに訳出したというわりにはいくぶん時代錯誤に響く (p. 26, l. 7: 「二〇〇二年に東エルサレムの……」のように本文中に新しい情報が混じってもいるのでなおさらである).

最後に,訳者あとがきは巻末の参考文献につき「この中に邦訳されているものは存在しないと思われる」(p. 159) としているが,Theissen, G., Le mouvement de Jésus. Histoire sociale d’une révolution des valeurs, 2006 には邦訳『イエス運動 ある価値革命の社会史』(新教出版社,2010) がすでに存在していた (原著はドイツ語 Die Jesusbewegung: Sozialgeschichte einer Revolution der Werte, 2004).

vendredi 11 mars 2016

Vermes, 浅野訳『イエスの受難』誤植訂正

Géza Vermes, 浅野淳博訳『イエスの受難 本当は何が起こったのか』教文館,2010 の typo などのメモです (底本は 2010 年 3 月 15 日初版〔第 1 刷〕).8 割以上を読了してしまってから振りかえってまとめはじめたので,いくつか見逃している箇所があります.
  • p. 40, l. 7: 「愚象礼拝」
  • p. 54, l. 4: 「蜂起の徴候ともとり違えないのです」→「……とり違えかねないのです」
  • p. 89, l. 6: 「値するほどものもであるか」→「……のもの……」
  • p. 89, l. ↑2: 「罵詈雑言浴びせかけます」→「罵詈雑言……」
  • p. 129, ll. ↑4–1: ヨハネ福音書の引用文のフォント (楷書体) が,この部分のみ明朝体になっている.
  • p. 133, l. ↑4: 「エリアがイエスの救出に」.ほかの箇所では「エリヤ」.
  • p. 144, l. ↑3: 「マコ二五 33」→「マコ一五 33」
  • p. 158, ll. 2–3: 「に鑑みれば注意が必要である」.この文のみですます調でない.
  • p. 174, l. 9: 「外国人の入」?
  • p. 176, l. 8: 「引き立てたてました」
  • p. 184, l. 3: 「後一〇〇―一〇年」.百の位の省略は脱字とは言いきれないが,紀元前後のためひっかかるかもしれない.
  • p. 185, l. 6: 「神殿警備団警護責任を担う」→「神殿警備団が警護に……」
  • p. 190, (8): 「イエスの十字架を担ぐ」
  • p. 196, ll. 6–7: 「であったことがわれます」→「……窺われます」
  • p. 196, l. 7: 「悪魔のよう人物」
  • p. 210, l. 7: 「学生」→「学生証」

増刷の折には修正に役立てていただければ幸いです.そのさい,必要であれば訳注〔4〕において「二〇一〇年刊行予定」とされている「ボーカム『イエスとその目撃者たち』」は,著者名を「ボウカム」,刊行年を「二〇一一年」と改めてもよいかもしれません.