dimanche 1 juillet 2018

ファイアーエムブレム Echoes のラテン語

ただいま『ファイアーエムブレムヒーローズ』で行われている大制圧戦では『外伝/Echoes』のバレンシア大陸が舞台ということで、『Echoes』の作中でも見られた「古代文字」の書きこまれた地図が 3DS の画面よりも鮮明に拡大されて読むことができる。

この「古代文字」については過去の関連記事「ファイアーエムブレム Echoes のギリシア語」にていわゆるドーマの魔法陣を解読したときにも触れた。そのときこの「古代文字」を使って書かれていたのは現代ギリシア語であったが、この地図中では同じ文字がラテン語を書き表すのに使われている。

異なる言語に同じ文字体系が使われているということじたいある程度不思議なことであって、まじめに受けとるならば『Echoes』中の 2 言語の関わりあい、文字の伝播のしかたについて考察する材料になる事柄ではあるが (たとえば日本語が漢字を使っているのは中国からの影響であるように)、とりあえずいまは脇に置いておくこととする。

本稿ではこの地図中のラテン語がいかに間違っていて、本当ならどのように書くべきであったかということの検討・解説を行う。各語句が文法的にどのような点で間違っているかに応じて類型化し、簡単な説明を付してラテン語を勉強したことのない人にも論点が理解できるよう書いたつもりである。

最初に「古代文字」の解読結果、すなわちラテン文字に書きなおしたものをまとめて以下の図に示す。全体を 1 枚に収めた無修正の画像が見あたらないため、ここでは大制圧戦の画面で見られるかぎりの範囲、すなわちソフィア領の全域だけを対象とすることとし、この画面であいにく隠れてしまっている部分はほかの画像や設定資料集を参照して適宜補った。補った部分は図中で角括弧 [...] に入れて明示してある (煩雑なので解説中では省略)。



修飾語の不一致


Meridianus mare「南の海」。ラテン語の名詞類には、現代の多くのヨーロッパ語と同じく文法性がある。ラテン語では男性・女性・中性の 3 性。ここで mare「海」は中性名詞なので、これを修飾する形容詞は meridianum という形でなければならない。この地図のラテン語を書いた人はラテン語の初歩の初歩すら知らないことがわかる。

ついでに言えば、修飾する形容詞は後置するほうがふつうなので、mare meridianum がより望ましい。古典ラテン語は語順がわりあい自由なので、前に出しても絶対に間違いというわけではないけれども、少し強調の感じが出ることがある。


主格を並べただけの稚拙な修飾


この地図中の問題点のうちもっとも頻繁なパターンだが、ラテン語として扱いづらい固有名詞の関与するものを除けば、fur silva「盗賊は森」と mare fanum「海は聖域」(=海のほこら) の 2 例。さらにこの図では見切れているが、べつの画像を参照すれば西の端には silva fanum「森は聖域」(=森のほこら) という文字もあることがわかる。

ラテン語には格のシステムがあり、日本語だと助詞の違いによって表す「盗賊が」「盗賊の」「盗賊に」「盗賊を」のような文中での役割を、名詞の語尾の変化で言い表す。この格変化は英語では I, my, me のように人称代名詞にのみ残っているが、ラテン語ではありとあらゆる名詞がこのように変化する。Fur「盗賊」の語形変化は単数ならば主格 fur, 属格 furis, 与格 furi, 対格 furem, 奪格 fure, 呼格 fur である。

辞書の見出し語として載っているのは単数主格の形なので、文法を知らない人ががんばって辞書を引いても主格を並べることしかできない。しかし主格は「〜が」という役割の形であるから、主格を並べただけの fur silva では「盗賊の森」という意味にはならないのだ。英語で例えれば my house のつもりで I house と言うような間違いである。ここは「の」なので用いるべきは属格、それに盗賊は 1 人ではなかろうから複数属格を用いて silva furum と言うべきだろう。Mare fanum, silva fanum も同様で、「海/森の聖域」ならば fanum maris と fanum silvae,あるいは前置詞 in + 奪格を使って fanum in mari, fanum in silva のようにも書ける。

作中の固有名詞を含むこのパターンの事例は、Ram silva「ラム森」、Sofia silva「ソフィア森」、Sofia castrum「ソフィア城」、Sofia litus「ソフィア海岸」、Mira valles「ミラ谷」、Mira templum「ミラ神殿」、Geeth imperium「ギース指揮官」(=ギースの砦) と多岐にわたり、さらに見切れているが西の端には Dossey imperium「ドゼー指揮官」(=ドゼーの砦) と Ram vella「ラム荘園」(=ラムの村) があるはずである。

これを書いた人は、英語的な (あるいは日本語的?) 発想からこのように並べただけで地名になると思ったのだろうが、残念ながら固有名詞でもそうはいかない。こういうものを調べるときのアドバイスとして、辞書でだめならラテン語版 Wikipedia の項目名を参考にするという手段がある。

たとえば森 silva の例であれば、ラテン語版 Wikipedia の検索ボックスにこの語を入れてみると、イタリアのコムーネのひとつセルヴァ・ディ・カドーレがラテン語式には Silva Catubrii もしくは Silva Catubrina と呼ばれていることが知られる。この地名は「Catubrius の森」という意味で、名詞の主格 -us が修飾するときには属格 -i になるか、もしくは対応する形容詞形 Catubri-n-us が女性名詞 silva にあわせて女性単数主格形 -a になっているのである (形容詞ならば性数格が一致するから主格)。Castrum「城砦」の場合も、前方一致するものを見れば Castrum Lastrae, Castrum Minervae, Castrum Timiniani などのように、やはりあからさまに固有名詞の属格で修飾されている。

このような例にならうと、たとえば「ソフィアの森/城」は Silva Sofiae と Castrum Sofiae,「ミラの谷/神殿」は Valles/Templum Mirae のように書くべきことがわかる。しかし Ram, Geeth, Dossey のように一般的なラテン語からはかけ離れた語形の固有名詞である場合、どのように属格形を作ればいいかは容易ではない。私見では Rami か Ramis, Geethis くらいがしっくりくるように感じるが、Dossey はちょっといかんともしがたい。無変化名詞とみなし単純に後置するだけで妥協するか、あるいは前置詞を使うほうがよい。

ところで Geeth imperium と Dossey imperium,それから次項で見る meridiem imperium の例からして、Echoes 式ラテン語は imperium という単語で「砦」を意味しているようである (ギースとドゼーだけなら誰々の「支配領域」とも解せたが、南の砦が反例になる)。しかし研究社の羅和辞典でこの単語を引いてみると、「命令,指令」「権力,支配権,命令権」「支配,統治」「官職,職権;軍隊指揮権」「命令権者,指揮官,官吏」「領土,帝国」ですべてで、「砦」の意味はまったく見あたらない。「砦、要塞」はふつう castrum または castellum である。

また、Ram vella に見られる vella とは villa の別形だが、同じ辞典によればこの語では「別荘、田舎屋敷」「荘園、農場」のあとでいちばん最後に「村」の語義があがっており、「村」を意味するもっとも一般的な単語ではないことがわかる。ラムの村のような鄙びた小村の場合、vicus もしくは pagus を使うべきではないかと思われる。


突然の対格


Nova insulam「ノーヴァは島を」、Nova portum「ノーヴァは港を」、Sofia solitudinem「ソフィアは荒野を」、meridiem imperium「南を命令」(=南の砦)、harenam via「砂を街道」、montem fanum「山を聖域」(=山のほこら)。さらにこの大制圧戦の地図ではなぜか消えているが、作中ではアトラスの山の村のところに montem vella「山を荘園」という字があったはずである。

上でも少し触れたとおり、対格というのは「〜を」というときの語尾変化をした形である。ここでは実際のところ上記の例のうち大部分が、前項で指摘した主格 (同格) を並べただけという誤りと複合したパターンを呈している。つまり、主格を並べて作ったうえで一部を対格にしてしまっているというのがこれらの誤りかたである。

たとえば insulam「島を」は insula「島」の対格、portum「港を」は portus「港」の対格、solitudinem「荒野を」は solitudo「荒野」の対格である。本当なら Insula Novae や Solitudo Sofiae のように主格+属格で書くべきだったところ、ただ主格を並べただけの形を作ったうえ、さらに片方をなぜか対格にしてしまっているのである。

もっとも Nova はそのままでもラテン語らしさを感じさせるので (というかラテン語の nova「新しい」がノーヴァ島の語源そのものなのだろうが)、わざわざ固有名詞と見なして属格 Novae にするより Insula Nova (Nova Insula) のほうがラテン語っぽくは見える。このへんは好き好きでよい。いずれにしても対格 insulam や portum にはならない。

Meridiem imperium について、imperium の問題点は前項で述べたが、meridiem (meridies「正午;南」の対格) もわざわざ名詞の対格を使う理由はない。すでに「南の海」で meridianus という形容詞を知っているのだから、「南の砦」なら castrum (castellum) meridianum と言えばすむことであろう。

Harenam via「砂を街道」は意図が不明瞭だが、harena は arena の別形で「砂」という意味なので、「砂漠の (を通る) 街道」と言いたかったものか。「砂漠」の意味では複数形 (h)arenae が使われるようなので、per + 対格で via per (h)arenas と言えばよいかと思う。

Montem「山を」の主格形は mons、属格形は montis なので、「山の聖域」は fanum montis (あるいは in + 奪格で fanum in monte)、「山の村」は前述のこともあわせれば vicus montis (または vicus in monte) がよい。

それにしてもいったいどうしたらこんなことが突然起こるのか。この地図の「ラテン語」を書いた人は格の意味を知らないにもかかわらず、mons「山」を montem にするなど正しい対格形を作ることはできている。これはなにも知らない人が辞書を引いただけでできることではない (辞書には対格形は載っていないため。それなら前項のように主格を並べたものばかりになるはずである)。このようなちぐはぐさは、機械翻訳を不適切に用いていることを強く示唆しているように思われる。機械翻訳を使うなら使うで、正しい結果を出力しやすい使いかたがあるものである。


自由すぎる ut


Ut Rigel via「リゲルとして街道」、ut urbe via「都でように街道」。街道 via と共起しているところを見れば、おそらく「リゲル/都への」か「リゲル/都からの」のどちらかを意図したものだろう。Rigel は固有名詞でラテン語の屈折を受けていないため判断材料にならないが、urbe が奪格「都で/から」であって対格 urbem「都を/へ」でないことに鑑みれば、「からの」のほうが本来の意図だろうか。

といってもそれは書いた人が格の用法を知っていることを前提としての話であって事実はそうではなさそうだが、あくまでテクストを所与のものとしていちばんもっともらしく解釈すればそう読めるということ。

しかし接続詞 ut にそんな用法はない。「へ」であれば via ad urbem、「から」であれば via ab urbe または ex urbe と言うべきところである。Rigel のほうはラテン語にとっては外来語である固有名詞なので、Ram その他と同様に適切な変化形を作るのが難しい。ただしこの場合 ad や ab のような前置詞とともに使えば無変化でも混乱の心配はない。


突然の文


Sofia patet「ソフィアは開いている/通行可能である」、aqua repono asreas「私は水によって敷地をとっておく」、ただしここで asreas という単語は存在しないので areas と読んだ。いずれも名詞句ではなく、主語+動詞 (+目的語と手段) の完結した文になっている。地図に「私は〜」などと言われても困る。

この後者 aqua repono a[s]reas は、各語のばらばらの意味と水門の上に書いてあるところから推して、たぶん「貯水用地」などと言いたかったものか。しかるに repono「戻す、とっておく」という動詞の 1 人称単数の活用形を置いてしまい意味不明になっている (ラテン語では英語の I や you のような代名詞主語をふつう言わず、動詞の形だけで判断される)。主語は動詞のなかに含まれた「私」、対格 a[s]reas が目的語なので、残った aqua は主格「水が」でなく奪格「水で、水によって」ととらざるをえない。

正しくは「貯水池」なら羅和辞典の和羅の部にも aquae receptaculum と出ているので、これでよかろう。機械翻訳にかけるまえに紙の辞書くらい引いたほうがいい。とはいえ辞書だけあっても文法を知らなければ、属格にできず主格を羅列してしまったり形容詞を正しい形にできなかったりすることはここまで口を酸っぱくして述べてきたとおりであるが。

前者 Sofia patet も動詞 pateo の 3 人称単数を使った文でまったく意味不明だが、位置的にはたぶん「ソフィア平野/平原」と言いたかったものかと推測される。その場合、planities Sofiae もしくは campus Sofiae が適切。


脱字


Monaste < monasterium「修道院」、cemeterium < coemeterium「墓地」の 2 例。説明不要のたわいもないものである。Coe- を ce- にしてしまったのは英語の影響だろうから同情のしようもあるが、monaste で突如途切れて終わるのは自分で書いていてなにかおかしいと思わなかったのか? 英語でも monastery なのに。


突然の外国語


Cataconb < catacumba(e)「地下墓地」、cargo via「貨物街道?」、fur Gorat「盗賊ゴラト?」の 3 例。最初のものは、カタコンベ catacumba(e) を英語式の catacomb にしてしまったうえで、さらに日本人らしく「ン」の m を n と書き間違えている二重の誤り。

Cargo「貨物、積荷」は一見そのままでもラテン語っぽく見えなくもないが、これは後期ラテン語 carricare にさかのぼるスペイン語、あるいはそれを借用した英語。ゲーム内にもこのような地名は現れず、これが日本語でどういう意味のつもりで書かれたのか判然としない以上、ラテン語でなんと言うべきか考えようがない。Sarcina の派生語を使って via sarcinaria「荷物の道」もしくは via sarcinariorum「運搬人の道」とか?

Fur Gorat はいったいなんなのか輪をかけてわからない。ラテン語には go- で始まる単語はなく、辞書に載っているのはすべて固有名詞かギリシア語からの借用語 (ほぼすべて医学・生物学用語) であるから、Gorat もラテン語ではなく Echoes に出てくるなにかの固有名詞だろうか? 位置的にはこの場所はダッハと戦う海賊の砦であるから、ダッハかその英語名 Barth の開発段階における仮称かもしれない (ギース Geeth やドゼー Dossey も、実際の海外版の名前 Grieth および Desaix とは異なるつづりが使われていたことを思いおこされたい)。

前述のように Echoes 式ラテン語が砦を imperium と訳していることにならえば、お決まりの主格を並べた fur imperium「盗賊は命令」か、お得意の突然の対格を使って furem imperium「盗賊を命令」とでも言いそうなものなのに、ここだけ予測不能の名称になっていて解釈のしようがない。それにしても「盗賊を命令」のほうがよく言いたいことが伝わるとはなんたる皮肉か。念のため「海賊の砦」を正しく言えば castrum praedonum または piratarum のようになる。


唯一正しいもの


Terminus「境界」。ソフィアとリゲルの国境を表しており、ちゃんと主格を用いているし誤字脱字もない! すばらしい。文句なし!

mercredi 16 mai 2018

獣の数字 666 解釈のパターン数

ヨハネの黙示録 13 章末尾に登場する謎めいた数字 666 のことを聞いたこともないという人はほとんどいないだろう。まさにそれが謎と言われるとおり、これがなにを表しているかにはさまざまの説がある。しかしもっとも有名でなおかつ有力視されているのが、皇帝ネロを表すという見かたであることもまた周知の事実であろう。まず本稿の議論の前提として、どのようにして 666 が皇帝ネロを意味するのかを簡単に説明することから始めよう。

旧約聖書の言語であるヘブライ語にせよ、新約のギリシア語にせよ、古代の文字は数価というものをもっていて、単語を書き表すのと同じ通常の「アルファベット」(ここでは広義の意味) でもって数字を表していた。いやヘブライ文字とギリシア文字どころではない、シリア文字、コプト文字、ゲエズ文字、アルメニア文字、グルジア文字、ゴート文字……、聖書学に関係して思い浮かぶ古代の文字はほぼすべてがそうであったといっても誇張にはなるまい (いわゆるローマ数字をもっていたラテン文字はきわめて特殊な部類)。

だからいま名を挙げたどの文字体系でもいいが、どれもあまり一般の人にはなじみがなかろうから、どれでもいいということはべつに日本語のカナを使って解説しても問題はなかろう。イロハニホヘト……のようにこれらの文字には固有の順番が決まっている。そこでイを数字の 1、ロを 2、ハを 3、……ということに決めるとして、ヌ=10 までいったら次の文字ルは 11 ではなく 20、ヲは 30、等々でツ=100 まで進む、その次は 200、300、……という要領である。そうすると 11 は 10 + 1 でヌイ、123 は 100 + 20 + 3 でツルハ、という感じに、2 桁 3 桁の数字を同じ文字数で表すことができる。現代の私たちはアラビア数字の位取り記数法を知っているので、こんなことをしなくても 1 も 10 も 100 も同じ 1 (=イ) という文字を適切な位に据えるだけでよいではないかと思うが、当時はその発想がなかったのである。

さてヘブライ文字でもギリシア文字でもこんなふうにして数字を表していた。ここで各文字が一定の数価をもっているということを逆手にとると、ふつうの単語をもそれを構成する数字に読みかえるという一種の暗号が作れることになる。たとえばさきほど説明したカタカナの数字表記法にのっとると、「ヨハネ」という文字列はヨ=60、ハ=3、ネ=200 であるから、263 と言ってヨハネを意味するというようなものである。もっともこれはいま私が創案した「カタカナの数価」にもとづいた話なので、当時のギリシア語の読者がヨハネ=263 と考えていたわけでないことはわざわざ注意するまでもあるまい。

とにかくこのようにして、数字から逆にもとの言葉を解読するという暗号が可能になる。この暗号というか文字を数と結びつけるヘブライ語の数秘術のことをゲマトリアという。そしてヘブライ文字で נרון קסר‎ (NRŌN QSR [ネローン・ケサル]、皇帝ネロ) と書くと 50 + 200 + 6 + 50 + 100 + 60 + 200 で 666 となるわけだ。ここまでが予備知識である。

しかし少しでも数学的な思考力のある人ならたちどころに気がつくだろう、このような分解が一意ではなく、したがって 666 だからネロという結論が演繹的に出てくるわけではないということに。もとより 666 の解釈には複数の説があり、このようなヘブライ文字のほかにたとえばギリシア文字で読めばとか、ローマ数字で考えればとか、そもそも数秘術とはみなさないとかいろいろ解きかたがあるのであるが、よしんばヘブライ文字のゲマトリアに限定して解釈したとしても皇帝ネロしかないということにはならないわけだ。

もっと簡単な話、かりに争点が 6 という数字だったとしよう。6 は 1 + 5 とも 2 + 4 とも 3 + 3 とも分けられるし、1 + 2 + 3 にも 2 + 2 + 2 にも、さらに細かく分割することもできる。分けずに 6 のままということも可能である。しかもこれらは単語を表す文字列なのであるから、たとえば dog と god が英語でべつの単語であるように、数字の加法とは違って並びもまた役割をもつ。こういうことを考えれば、たったの 6 でもいくつもの解釈可能性 (後述するが 32 通り) があるのであって、666 ほど大きな値となればいったいどれほどの膨大な組みあわせになるだろうか。それを求めてみようというのが本稿の目的である。

といっても、その文字列が意味をなす単語になるためにはどんな並びでもいいということにはならない。たとえば英語で dog と god は可能でも、それ以外の順列 odg, ogd, dgo, gdo は英語においては単語にも句にもなっていない。だから想定される膨大な場合の数のうち実際に許容されるのは比較的わずかであろう。だが一方で英語などのアルファベットがこのように正しい単語になりづらいのは、母音と子音が適切に交互に並んでいなければならないこと、さらに許される子音連続の種類も限られていることが大きな理由だが、ヘブライ文字 (アブジャド) では基本的に母音を書き表さず、母音は読み手が子音間に補って読むので (上の NRŌN QSR = NeRŌN QeSaR を思いおこされたい。この Ō は mater lectionis というもので、最悪これもなくてもネローンと読みうる)、アルファベット言語ほどには減らないという可能性もある。とはいえこのことを正しく考慮するためにはヘブライ語のネイティブなみの知識が必要になってしまうから、いま私たちはこの事情をすっかり捨象して、単純にパターンの数を算出することだけを目指そう。

このときいくつかの点に注意する必要がある。まず第 1 にはすでに説明したとおり、並びが意味をもつということ。それから、分割の項として認められるのは 1, 2, ..., 9, 10, 20, ..., 90, 100, 200, ..., 900 の 27 個の正整数だけで、たとえば 11 や 12 はさらに分割されなければならないということ。この理由は前述した「カタカナの数価」の解説から理解されるだろう。なお目標が 666 の分割であるから実際には 700, 800, 900 が必要になることはないが。

このような意味の「n の分割」のパターン数を Γ(n) とおく。最終目標は Γ(666) である。まず 1 の分割は 1 そのものしかないので、Γ(1) = 1 である。次に 2 の分割は 2 そのものと 1 + 1 の 2 通りなので、Γ(2) = 2。3 の分割は 3 そのものと、1 + 2 および 2 + 1、そして 1 + 1 + 1 の合計 4 通りだから、Γ(3) = 4。

ここまででパターンが見えてくる。このようなものを求めるさい、場合分けの方針としては「何個の項に分割するか」を考えるのがひとつの常套手段であり、じっさいいま 3 の分割についてそのような順で提示をしたが、今回はあまり賢明でない。ここでは「初項が何であるかに応じて場合分けをするほうが、うまいこと漸化式を立てられるようである。並びが違えば異なる文字列になるという特徴のおかげで、このような場合分けが MECE な (=重複がなく漏れもない) 分けかたになるのである。

すなわち、3 の分割の場合には、初項が 1 であれば 1 + 2 と 1 + 1 + 1 の 2 通りがあったわけであるが、このとき初項 1 を除いた後ろの部分は 2 の分割そのものであるから、すでに求めていた 2 の分割の場合の数がそのまま利用できたのである。

この方法で 4 の分割を求めてみると、初項 1 のとき残りは 3 の分割で 4 通り (4 = 1 + 3, 1 + 1 + 2, 1 + 2 + 1, 1 + 1 + 1 + 1)、初項 2 のとき残りは 2 の分割で 2 通り (4 = 2 + 2, 2 + 1 + 1)、初項 3 のとき残りは 1 の分割で 1 通り (4 = 3 + 1)、そして初項 4 のとき残りの文字列はないので 4 そのものの 1 文字という 1 通り (4 = 4) で、合計して Γ(4) = 4 + 2 + 1 + 1 = 8。わかりやすく先述のイロハニで例示してみれば、いま足し算で示した順にイハ・イイロ・イロイ・イイイイ・ロロ・ロイイ・ハイ・ニに対応し、この 8 通りの「語」ないし「文」がすべて同じ 4 を表すのである。

そこで、いま分割の項として使える数の集合を H = {1, 2, ..., 9, 10, 20, ..., 90, 100, 200, ..., 900} とおき、さらに Γ(0) = 1 と約束することにすれば、一般に Γ(n) = ∑k ∈ Hk ≤ n Γ(nk) と書くことができる (あるいは、形式的に負の数に対しても Γ(−m) = 0 (m ≥ 1) と定めておけば、シグマの範囲のうち第 2 の条件 kn は不要になる)。

すると n = 10 までは単純にそれより小さい 0 ≤ k < n による Γ(k) の和で、たとえば Γ(5) = Γ(4) + Γ(3) + Γ(2) + Γ(1) + Γ(0) = 16、もっといえばこれは作りかたからただの 2 のべき乗になるので Γ(6) = 32, Γ(7) = 64, Γ(8) = 128, Γ(9) = 256, Γ(10) = 512 である。

しかし 11 以降はそうではない。11 の場合には初項 11 というのがありえないからである。そこで Γ(11) = 1 023, Γ(12) = 2 045, Γ(13) = 4 088, Γ(14) = 8 172, Γ(15) = 16 336, Γ(16) = 32 656, Γ(17) = 65 280, Γ(18) = 130 496, Γ(19) = 260 864 というように 2 のべき乗から少しずつ離れていく。なお計算法からわかるようにここまでの値は、フィボナッチ数列の一般化の一種で直近 10 項の和をとるデカナッチ数 (decanacci numbers; デカボナッチとも) に一致することになる。

だが 20 でまた事情が変わることになる。20 では新たに初項 20 という場合が付け加わるためである。こうして Γ(20) = 521 473, Γ(21) = 1 042 434, ..., Γ(29) = 265 818 368 である。この段階に至って、(管見のかぎり) 既存のいかなる名前つきの数列からも逸脱することになる。たぶん、このような数列を定義し求めた人は過去いないのであろう。

さらにいくつか続きを求めてみれば、Γ(30) = 531 376 129, Γ(40) = 541 467 712 002, Γ(50) = 551 750 949 002 947, Γ(60) = 562 229 479 206 711 000 (この最後の桁の 000 は正確ではなく、私が表計算ソフトで求めているため下の位が省略されてしまっている) といった要領で爆発的に増えていく。Γ(100) はおよそ 606 171 774 527 530 000 000 000 000 000 (≈ 6.062 × 1029)、Γ(200) はおよそ 731 645 916 580 603 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 (≈ 7.316 × 1059) である。

それゆえ概算ではあるが、求めるべき Γ(666) は約 1.109 × 10200 となろう。恐るべき数である。もちろんすでに注意したとおり、この 201 桁にも上る莫大な数のうちかなりの部分は意味をなさない文字列になるはずだが、それらをすべて排除してもなお相当の数になるであろうことは疑いない。そのなかのわずかにたった 1 つの可能性が皇帝ネロ נרון קסר だというわけだ。

このようなことを見落として「666 をヘブライ文字で解釈すると皇帝ネロになる」などと安易に「解説」すると大恥になるので気をつけていただきたい。נרון קסר ならば 666 になるというのは正しくとも、逆に 666 ならば נרון קסר になるというのは正しくないのである。

ちなみにこれはまったく余談であるが、נרון קסר のうちヌン・ソフィート (語末形) ן は通常のヌン נ と違って 50 でなく 700 になるらしいのに、一般的な 666 の解釈では同じ 50 として扱われているのはなぜなのだろう。

mercredi 9 mai 2018

比較的古い洋書の著作権・翻訳権についての疑問

だいぶ以前から海外の古い本の翻訳公開について考えているのだが、著作権関係の法律の理解に関して心もとないのでなかなか作業に身が入らない。いちおう手前で調べたところでは事実は次のようかと信じている。下記 6. まで (枝番号を除く) が調べた事実らしきことの記述で、枝番号のついたものと 7. 以降は私の考えや疑問点である。尋ねる相手もいないので、とりあえずメモとして残しておく。

1. まず、他国の著作物の権利はベルヌ条約 (文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約) というもので守られていて、日本もこれに加盟しているので他国の著作物については自国の著作権者と同等以上の保護をせねばならない (以上とあるが事実上はイコールということだろう)。

2. そして著作権が死後何年間保護されるかは国によって異なっており、日本は 50 年、ヨーロッパのほとんどの国では 70 年だが、ベルヌ条約では短いほうの期間を適用すればよいので、70 年と定めている国が相手でも日本国内では 50 年しか保護されない。そのかわりに日本の著作物も向こうの国では 50 年しか保護されない。

3. 著作権の保護期間を算出するさい、著作権者の死亡日にかかわらず 12 月 31 日まで保護される。したがって 1967 年の何月に死亡した人物であっても、その当日ではなく (日本国内では) 2017 年 12 月 31 日までが保護期間で、2018 年 1 月 1 日から使用自由になる。

4. ただし、(ほぼ日本のみの特殊事情として) 著作権の戦時加算というものがあって、第二次大戦の行われていた期間は著作権が保護されていなかったものとみなしてそのぶんの年数を加算する必要がある。たとえばイギリス・フランス・アメリカが相手の場合には 3 794 日 (10 年と 5 ヶ月弱) が加算される。

4a. このことは『星の王子さま』がらみで有名になったように思うので知っていた。まずサン゠テグジュペリの遺体が確認されず正確な死亡日が不明という事情もあるのだが、それは別としても 3 794 日が足されるため、1944 年に亡くなった人物なのに日本国内で著作権が切れたのは 2005 年 1 月 22 日であり、この年に大量の新訳が現れた。ところでなぜ 1 月なのだろう。5 ヶ月弱を足して 1 月 22 日ということは、年末でもなくサン゠テグジュペリの公式の死亡日である 7 月 31 日でもなく、9 月 3 日あたりから起算しているように見える。上記 3. の記述は嘘かもしれない。

5. ところで昔の日本にはまたべつに翻訳権の 10 年留保なるものがあった。これは 1970 年まで通用していた旧著作権法にもとづく制度で、1970 年までに発行された著作物は、もし 10 年以内に翻訳されなかった場合翻訳自由になるというのである。このことは次の文化庁の web ページでも確認される:「著作権なるほど質問箱――著作権制度の概要」。

5a. これはかなり驚きの制度である。額面どおり受けとるなら、1970 年までに出版された本で訳書が出ていないものは、たとえ現在も原著者が存命していたとしても翻訳権は消滅しており自由に翻訳出版できるということになる。いやそれどころか訳書が出ていたとしてもそれが 10 年以上経ってからのものならばやはり翻訳自由ということになる。本当なのだろうか?

5b. ちなみにこの文化庁のページには上記 3. のこともはっきり書かれている。いったいサン゠テグジュペリの件はどういうことなのかさっぱりわからない。

6. 以上のことにもとづいて具体例を考えてみる。話を簡単にするため戦時加算を考えなくていい国を例にとろう。いまデンマークの本を翻訳する場合、デンマークは第二次大戦時ドイツに早々に占領されており日本とは交戦していないため、戦時加算はない。

6a. それゆえ 2018 年現在、1967 年までに死亡したデンマーク人著者の本はすでに日本国内において著作権が消滅しており、翻訳も自由である? またそうでない著者の場合も、1970 年までの本で未訳のものは自由に訳出できる?

7. しかしまったく意味不明なのは、洋書の著作権表示部分にはよく ‘copyright renewed’ などと書かれていて著作権の発生年次が更新されていたり (遺族などによって? 遺族にそんな権利があるのだろうか?)、内容の変更されていないリプリントなのに新しい出版年の表示で出版社が権利をもっているかのようにコピーライトマークが書かれている場合があることだ。まえがきや解説が追加されていてその部分にだけ新しい著作権があるという話ならわかるが、どうもそうではない場合も多い。こういうものはいったいなんなのだろう。

8. そもそも著作権や翻訳権が切れているというのはどういう事態を意味するのか? 切れているとされる場合に、私たちにはなにがどこまで許されているのだろうか。i) 翻訳をして無償で公開すること。ii) 翻訳をして有償で販売すること。iii) 翻訳をして対訳の形で原文とあわせて掲載したものを販売すること。iv) 原文をそっくりそのまま打ちなおしてそれを販売または無償公開すること。

8a. 以上 i) から iv) は、原著作者の権利 (というものが生きていたとして) を侵害する程度または二次利用者の利益が大きくなる順に並べてみた。i, ii) に比べて iii, iv) では、すでに原著を購入する意義が失われることになるという点で原著作者の利益を損なっている。また i) に比べた ii) と、iii) に比べた iv) とでは純粋に二次利用者の利益が拡大している。直観的に、原作者の利益に対して悪いことをすることになる順ということだが、そういうことがどれくらい法律問題と関係するかもわからない。もちろん倫理的な善悪とイコールではなかろう。

8b. さらに言えば、著作物に関して著作者以外に出版者の権利というものがどの程度なのかも不明である。前世紀初頭までのごく古い本に関して Google Books などは、大学図書館所蔵の本の紙面をまるまるスキャンしたものを公開しているが、その紙面・版面にはなんらかの権利はないのか? もしないとすれば、上記 iv) をさらに一歩進めて、v) 原著をそっくりそのままスキャンしてそれを販売または無償公開すること、という行為を想定できる。じっさい Internet Archive などで公開されている大学図書館の戦前の洋書のスキャンが、Nabu Press やら Forgotten Books やら相当数の出版社によってそれぞれ使いまわしの表紙をつけて印刷されそのまま Amazon で売られているので問題ないのだろう。6. とあわせて考えれば、1967 年までに死亡したデンマーク人著者の出版物はまるまるコピーして日本で販売することができるのだろうか?

8c. こうしたことはいちおう義理や礼儀といった側面とは別個に考えるべきなのだろう。たとえば日本では翻訳権が切れているからといって自由に翻訳出版をするとして、原著者の遺族がいれば連絡をするのが筋だ、ということはあるかもしれない。そういえばこのさい、日本特有の 10 年留保は海外でなかなか理解されずトラブルになりやすい、と聞いたことがある気がする。

9. 著作権と翻訳権とはどういう関係にあるのか? 前述した翻訳権の 10 年留保を考えれば、著作権は生きているのに翻訳権だけが消滅するという事態があることが察せられる。その逆はありうるのか? それとも著作権が切れたならば自動的に翻訳権もなくなるのか?

10. そもそも著作権が切れるとか消滅するとかいう言いかたは正しいのか、それとも著作権じたいはずっと理念的に存在していて正確には保護期間が切れたとか満了したとか言うべきなのか。ぜんぜんわからない、俺たちは雰囲気で著作権をやっている。