mercredi 1 avril 2020

星の王子さまのキツネを女性として訳す

星の王子さま』XXI 章に登場するキツネは、「大切なものは目には見えない」をはじめとして数々の重要な教えを「王子」に伝える作中屈指の重要人物だ (言うまでもなく人間ではないが「人物」という語を使うことにする、以下同様。また『星の王子さま』の訳文については、私はいまのところ稲垣訳をもっとも推奨できるものとみなしているので、以下でもこれに依拠する;とはいえキツネの章に関しては賛同しない部分も少なくないのだが)。

このキツネのモデルは——少なくともそのうち核の部分は——サン゠テグジュペリの女友達、というかはっきり言うと浮気相手であった、アメリカ人ジャーナリストのシルヴィア・ハミルトン (のちに結婚してシルヴィア・ラインハルトになる) であったことがはっきりしている。有名な話なので『星の王子さま』関連書の多くに出ていると思うが、たとえばステイシー・シフ『サン゠テグジュペリの生涯』(檜垣嗣子訳、新潮社、1997 年) の第 16 章を参考に指示しておく。詳細にして雄弁すぎるシフの伝記にはいくぶん疑義のある点もあるので、食い違うところでは『イカール』誌に寄稿されたシルヴィア自身の証言にもとづいて書かれた藤田尊潮『『星の王子さま』を読む』27–29 頁も有益である。

キツネとシルヴィアとの符合としてもっとも典型的なものはやはり次の箇所だろう:
「同じ時間にやって来たほうがよかったね」とキツネが言いました。「例えば、午後四時に君がやって来るとする。そうなれば、もう三時からぼくは幸せな気分になりはじめるのさ。そして、時間が近づくにつれて、ぼくはだんだん幸せな気持ちが強くなる。四時になろうものなら、ぼくはもうそわそわして、わくわくする。自分は幸せなんだなあ、とぼくは心底思うことだろうよ。それにひきかえ、君がでたらめな時間にやって来たら、何時に自分の心の着がえをしたらいいか、ぼくにはまるで見当がつかなくなってしまう……。ならわしというものが、どうしてもなくっちゃならないんだ」
放埒なサン゠テグジュペリはシルヴィアのマンションを訪れるのに時間の予告をせず、深夜でも構わずやってくるので、彼女は会えなくなることを恐れてやきもきしながらずっと家にいたものだった。そしてあるとき彼女はそのつらさを彼に訴え、あらかじめ時間を決めて来訪するよう願ったおり、言い逃れるサン゠テグジュペリに対し「あなたがもうすぐ来ると思うと、心がはずみだすの」と語ったそうである。この言葉の反映は明らかであろう。

それからキツネには、仲よくなるための手続きを説明するくだりで「言葉というのは、なにかと誤解を招くもとだからね」というセリフもある。サン゠テグジュペリは英語をまったく解さなかったし、シルヴィアのほうもフランス語はあまりできなかったから、2 人は身振りを交えたり、どちらも得意ではないドイツ語を介して会話したりしていたらしい。言葉がなくても——あるいはないからこそ——気もちが通じあえる関係という点で、「王子」とキツネはサン゠テグジュペリとシルヴィアの間柄と二重写しになる。

キツネ以外の部分でもシルヴィアが『星の王子さま』に影響を与えた箇所は多い。VIII 章でバラを威嚇するトラの絵はシルヴィアの飼っていた (あるいは彼女がサン゠テグジュペリにプレゼントしたとも言われる) ボクサー犬、また II 章の羊はやはり彼女が飼っていたプードルがモデルであると言うし、「王子」の容姿でさえシルヴィアの家にあった金髪の人形がモデルのひとつとなったらしい。

『星の王子さま』の執筆が行われた期間のおよそ半分はシルヴィアの居宅においてなされた。彼女は甲斐甲斐しくこの作家の世話をし、出版後まもなく彼が戦場に復帰するためアメリカを発つとき、『星の王子さま』の手書き第一稿は、別れを告げにきた作家の手ずからシルヴィアに——妻のコンスエロにではなく!——委ねられた。1943 年 4 月のことであった。

さて以上のようなあからさまな照応をもとに『星の王子さま』のキツネの言動を見かえしてみると、ここからは私の想像ではあるが、シルヴィアの姿がダブって見えてくる部分はまだほかにもあるように思われる。たとえば「王子」とキツネの出会いに際してはキツネのほうから声をかけているが、ここにもシルヴィアとサン゠テグジュペリとの最初の出会いが彷彿される。それはシルヴィアのほうからの一目惚れで、まずは 2 人の共通の知人 (サン゠テグジュペリの作品の英訳者ルイス・ガランティエール) を介してアプローチ、その意思疎通がうまくいかないと見ると直接に言葉の通じない彼に迫り電話番号を伝えたという。

また最後にはサン゠テグジュペリ/「王子」の都合でシルヴィア/キツネのもとを去らなければならなくなる点も符合する。もちろん作家がシルヴィアと別れるのは『星の王子さま』執筆時点から見れば未来に属する事柄だが、彼が祖国フランスのためにいずれ亡命先のアメリカを離れ戦線に復帰するということはだいぶ以前から心に決めていたのである。これに関して、フランスという国は妻コンスエロとともにバラの「モデル」をなしているという解釈は意義深い。

それにもまして意味深長なのはキツネのいちばん最後の発言だ。「君が自分でなじみになった〔=飼いならした〕ものに対して、君はずっと責任があるんだからね。君は君のバラに対して責任があるんだよ……」。これは『星の王子さま』を読んでいて昔からどうにも引っかかるセリフであった。

本作のキーワードのひとつに違いない「飼いならす」(apprivoiser、稲垣訳では「なじみになる」) という概念はやはりキツネが「王子」に教える言葉であって、「王子」はそれ以前に自分がバラとそういう関係になっていたことを悟るのだが、それはバラのほうが彼を飼いならしたのだし (もっともこの主客はやがて混同されるのだが)、なにより「飼いならす」ことをそれとはっきり自覚したうえで行うのはキツネに対してが最初だ。「王子」はキツネから請われてとはいえ、意図的にキツネを飼いならすのである。

そうだとすれば、いわば成りゆきで飼いならすことになったバラとの関係にもまして、キツネに対して責任があると言うべきではないか。三野博司『『星の王子さま』の謎』145–46 頁が指摘するように、飼いならすことは一生で一度きりとは限らず「人は複数の相手と絆を結ぶことができる。そのときには、絆のあいだの優先順位が問題になるだろうし、そこからいわゆる嫉妬、三角関係、憎悪などが生じる危険がある」のである*。「王子」は少なくともバラとキツネの両者に対して責任があり、これが恋愛だとすればここには三角関係が生じている。サン゠テグジュペリと妻コンスエロ、およびシルヴィアとのあいだの微妙な関係がオーバーラップする (というか現実にはこの時期サン゠テグジュペリと関係した女性はシルヴィアだけではないのだが)。

* ただし誤解を与えることを避けるため付言すると、三野の論では「王子」とキツネとの関係は恋愛ではなく友情関係だとされており、この 2 組の絆のバッティングは恋愛と友情のどちらを優先するかという問題と捉えられる。さらにキツネの秘義伝授者としての性格を考えあわせるとこれは師弟関係でもあるから、師を乗りこえた弟子は師のもとを去っていかねばならないという形で解決される。

このことを踏まえて先述のキツネの発言を聞くと、キツネは「王子」が「バラに対して責任がある」と指摘するまえに、飼いならした関係から生じる一般論に言及することで、言外に「自分に対しても責任がある」ことを糾弾、あるいはアピールしているのではないのかと思われてくる。賢いキツネは「王子」との別れは引き止められないことを了解しているので、このように遠回しに言うしかなかったのである。

それともひょっとすると、「バラに対して」と言うのさえ迷いの所産だったかもしれない。ここは原文では « Tu deviens responsable pour toujours de ce que tu as apprivoisé. Tu es responsable de ta rose... » であって、日本語と異なり目的語が出てくるのは文の最後である。「飼いならしたものに……」と口に上せたとき、「飼いならされた私」のことが思い浮かぶのは至当であろう。だがそれを相手に突きつけると「面倒くさい女」になってしまう。だから本当は « de moi »「私に対して」と結びたかったところをぐっと呑みこんで、物わかりのいい彼女は « de ta rose »「あなたのバラに」と言いなおしたのかもしれない……。

だがこのいじらしい訴えは「王子」にはまったく聞きとられない。「王子」はこの前後で三度伝えられるキツネの重要な教えを口に出して反復し心に刻もうとするのだが、この最後の場合には「ぼくはぼくのバラに対して責任がある……」と言葉の後半部を繰りかえすだけである。飼いならしたものに対して、の部分を反復してフォーカスしてしまうと、どんな読者にもキツネに対する責任があからさまになってしまうから、作者によって意識的に省かれたのであろうが、あるいは「王子」じしん気づいていてなお、別れの場面をこじらせないために無視したのだとも解釈できる。VIII 章末などに見られるとおり、地球に来てからの「王子」はもはや恋愛面に関してうぶではないからだ。

私が知るかぎりこの最終行の「王子」の応対についてこのような注意が払われたことはこれまでいちどもない。キツネに対する責任の重視も含めて、こうした読みは厳密に言えばキツネを女性とみなすことを必須の要件とするわけではないが (男性相手であろうと責任があることには違いないし、このあと「王子」は語り手の飛行士をも「飼いならす」ことになるがこちらは曖昧さなく男性どうしの関係である。そこはひょっとしてクィア批評に開かれている部分かもしれない)、そうすることによって見やすくなることは間違いないと思われる。これはキツネを女性として訳すことの実用的な価値である。

しかるに数ある『星の王子さま』の日本語訳において、キツネはふつう男性 (オス) として、それもほとんどの場合に判で押したように活発でわんぱくな少年のような人物として描かれてきた。古典的な内藤訳では「おれ、キツネだよ」、稲垣訳では「ぼくはキツネさ」のような口調である。観察されるかぎりキツネの一人称は「おれ」か「ぼく」が圧倒的である。ここに比較した全 28 種の内訳を明かすと、
なお最後の「わたし/私」だが女性らしくはなく、三田では「わたしはキツネだ」「あんたは、遠くから来たんだろ? なにをさがしているんだね?」「忘れてしまいがちのことだけどな」といった要領で、偉そうな男性という雰囲気であった (大橋も同様)。したがって公刊されている 28 種もの邦訳のすべてが、ただの 1 例の例外もなく、キツネを男性としていることになる。

それはある意味では当然のことであって、サン゠テグジュペリの原文フランス語が男性で書いているからである。しかし「キツネ」という名詞を男性名詞の le/un renard としているのは、動物名の総称であるからまだしもメスである可能性を即座に排除するものではないし、それを男性の代名詞 il で受けるのも文法上の制約にすぎないから、ここまでなら女性であってもおかしくはないのである。とはいえキツネ自身のセリフのうちで « Je ne suis pas apprivoisé. » (イタリックは引用者。以下同様) のように男性形を用いているところが痛い。女性なら過去分詞は apprivoisée でなければならないからだ。

それでもこの両者は発音はまったく同じであるから、一種のトリックのようなものとして、語り手あるいは「王子」の認識をもとに男性形の apprivoisé とつづられている……と食い下がれる可能性も私は考えた。unique のように男女同形の形容詞も支障はない。だがこの仮説に抗する致命的なセリフがただ 1 つだけあった。それはシルヴィアの困惑が透けて見える箇所として先にも引用した、君が 4 時に来るなら 3 時にはうれしくなる、というくだりである:« Si tu viens, par exemple, à quatre heures de l’après-midi, dès trois heures je commencerai d’être heureux. Plus l’heure avancera, plus je me sentirai heureux. » という部分だ。2 度現れる heureux「うれしい」という単語は、主語が女性なら heureuse でなければならず、これらははっきりと発音が違うのである。

では原文がこのとおりだとすると、キツネを女性として訳すことはまったく許されないのか。じつはそうとは限らないのである。フランス語と同様に文法上男女を区別する各種のヨーロッパ語訳、たとえばイタリア語訳やチェコ語訳、スロヴァキア語訳などでは、問題なくキツネを女性にしてしまっているのだ。

イタリア語訳を例にとって説明しよう。私は都合 13 種類の (標準) イタリア語訳 Il piccolo principe を所有しているので (この内訳は N. Bompiani Bregoli, E. Tantucci Bruzzi, B. Masini, A. Colasanti, Y. Melaouah, L. Carra, R. Piumini, C. L. Candiani, R. Gardini, M. Di Leo, G. Corà, E. Bruzone, S. Cecchini)、以下の比較はこれらにもとづく。

まずキツネ当人のセリフのうちはじめて性が表れる場面、つまり飼いならされていないからと遊ぶことを拒否するセリフを比べてみると、これはなんと 13 種類すべてが “Non sono addomesticata.” で一字一句まで符合している (最初の non に小文字の場合があることを除いて)。日本語訳が苦労に苦労を重ねている「飼いならす」の訳語を addomesticare ひとつで済ませてしまえることはうらやましいかぎりだが (もっともどれほど熟慮しているのかは怪しいものだ)、ともあれ過去分詞が女性単数形に置かれていることがわかる。つまりこのキツネは自身を女性として表現しているのである。

また「王子」が 5 千本のバラに向かって演説し、キツネを友達にしたからこの世でたった 1 匹のキツネになった、と語るシーン。これはさすがに十人十色だが、たとえば Masini 訳では “Ma io l’ho fatta diventare la mia amica, e adesso è unica al mondo.” となって、イタリックにした部分はすべて「女友達」「唯一の女性」であることを明示している。ほか 11 種も同様。Carra 訳だけは “Ma siamo diventati amici”「僕たちは友達になった」と言って「王子」自身を含めた表現のため男性複数だが、キツネが女性であることには矛盾しないし (男女混合の集団は男性複数になる)、彼の訳でも XXIV 章で飛行士にキツネの話をするときには “La mia amica” と言っており結局女性であったとわかる。

おもしろいのは「王子」がキツネの姿を認めてからの第一声、「君は、なかなかすてきだね……」というセリフだが、上述のようにキツネ自身のセリフで女性と判明するまえの段階のため男女が割れている。語尾の -o が男性で -a が女性だが、Bompiani Bregoli 訳の “sei molto carino” に対して Candiani 訳 “Sei molto carina”、また Piumini 訳 “Sei molto grazioso” に対して Tantucci Bruzzi 訳 “Sei molto graziosa” というふうである。だが全体的にはここも女性形のほうが優勢であった。

煩瑣になるのでこれ以上の比較は差し控えるけれども、ともあれイタリア語訳ではキツネ本人の発言以降一貫して女性として取り扱われており、これは 13 通りもの翻訳を確認してもひとつも例外がなかった。またチェコ語訳 7 種とスロヴァキア語訳 4 種についても事情はまったく同様であり、これも例外なくすべて女性であった (たとえばバラたちへの演説における「友達」はチェコ語 přítelkyně, スロヴァキア語 priateľka)。

むろん、この現象の背後には、「キツネ」を表す普通名詞の性の問題が決定的に影響している。フランス語では renard は男性名詞だが、イタリア語の volpe や、チェコ語 liška, スロヴァキア語 líška は女性名詞なのである。したがってこれらの言語への翻訳でキツネが女性になっている理由は、別段シルヴィアがモデルだからというような考察を踏まえての判断ではなく、むしろ反対にキツネの性別などどちらでもよいと等閑視しているからこそこれほど一致しているのではないかとも疑われる。

しかしそうだとしても、翻訳の作法において、フランス語の原文が男性のキツネだからとてこれを女性に移すことを妨げはしないのだという事実は揺るぎない。とすれば『星の王子さま』を日本語訳するにあたっても、キツネを女性にして悪いということはないはずであろう。ましてキツネのモデルとしてシルヴィア・ハミルトン゠ラインハルトの影を透かし見る読者にとってはなおさらである。既存の邦訳ではそういうことは行われてこなかったが、もし私が自家版『星の王子さま』の翻訳を手がけるとすればこれはかならず女性にすると心に決めている。この選択には十分な根拠があり、なおかつ清新な解釈を開く点で有意義でもあることは上で論証したとおりである。

最後に余談をひとつ。キツネのモデルであるシルヴィアの姓がラインハルトになるとはなんという運命のいたずらであろう。キツネを意味するフランス語 renard はラインハルト Reinhardt と同源の語である。そもそも古フランス語でキツネを表す語は goupil であったが、中世フランスに成立した『狐物語』の主人公の名ルナール Renart そのものがキツネ一般を意味するようになりこれに取って代わったのである。日本で言えば「ごんぎつね」が有名すぎるからと「ごん」がキツネを意味する普通名詞になるようなことであろうか。このルナールがラインハルトのフランス語形である。シルヴィアが未来の夫ゴットフリート・ラインハルトに見初められるのは、『星の王子さま』が出版されサン゠テグジュペリがアメリカを去って間もなくのことだった。


〔2020 年 9 月 11 日追記〕邦訳の比較例に奥本訳、永嶋訳、浅岡訳を加えて 25 種とした。論旨にはまったく変更なし。

〔2022 年 2 月 1 日追記〕邦訳の比較例に大橋訳と助川訳を加えて 27 種とした。同前。

〔2022 年 7 月 21 日追記〕邦訳の比較例に加藤訳を加えて 28 種とした。同前。

jeudi 27 février 2020

シャンバラのロシア語――「神は細部に宿る」ことの重要性について

『ファイアーエムブレム 風花雪月』にはこれまでの作品に比べてスラヴ系、とりわけチェコ語の人名が多いことが画期的である、ということを以前の記事「ファイアーエムブレム風花雪月 人名の由来と意味」において例証しました。そのとき私はそれをたんなる偶然というか、シリーズ中で欧米のありふれた人名を使いまわすにも限界がきていたために新たに毛色の違ったものを求めただけのことかと思っていましたが、事実はそれだけではなかったのかもしれません。

というのは――私の怠慢のためにいまだに同作をプレーしきっていないため詳しい背景は把握していないのですが――どうやら作中でシャンバラという SF ふうの場所にロシア語 (これはスラヴ語の代表格です) で書かれた文字が見いだされ、そこからひいてはフォドラは私たちの世界が滅びたあとの遠い未来の世界である?といった説が一部行われているようだからです。なお、前記事情から私はまだネタバレを含む考察を閲覧することを避けているため、こうした説の出所や議論の詳細については知りえておらず立ち入らないということをあらかじめ断っておきます。


さて、それでもこのような興味深い画像が偶然目に入ってしまったため、無視してばかりもいられなくなってしまいました (これは reddit のこのトピックからお借りしたもの。文明崩壊後の未来という説はそこでも触れられています)。たしかに明らかにでかでかと СВЕТИТЬСЯ СВАЯ と、そしてさらに赤い三角の下にはかすれた文字で ЗАКРЫТЫЙ ГОРОД とあるのが読みとれます。またべつの情報源によると、同じマップのどこかには Катакомбы という単語も見いだされるということです。(以下、読みやすさのためすべて小文字に直して書きます。)

ラテン文字に翻字 (参考までにカタカナも併記) するとこれらは順に、svetit’sja svaja (スヴィチーッツァ・スヴァーヤ;-t’sja はまとめてッツァ -cca と読む)、zakrytyj gorod (ザクルィーティイ・ゴーラト)、katakomby (カタコーンブィ) となります。最後のものは見てのとおり「カタコンベ」、また 2 番めのものは「閉鎖都市」または「非公開・秘密都市」といった意味です。しかし第 1 のものは問題含みです。どうやら作中に「光の杭」という超技術による兵器があるそうで、このロシア語はそれを指すことを意図しているらしいことは疑いないはずですが、文法的に正しくありません。

свая はたしかに「杭」のことです。しかし светиться というのは再帰動詞 (ся 動詞) の不定形で、動詞なので辞書にはもちろん「光る、輝く」のように出ていますが、この形で使えば英語の to 不定詞と同じく「光ること」という意味です。したがって「光る杭」のように前から「杭」を修飾することはできません。このように 2 語を並べられたとき、無理に読むとすれば可能性としては「光ることは杭です」というコピュラ文 (英語で言う be 動詞でつないだ文) がもっともらしく思われます。英語なら ‘To glow is a pile.’ というわけです。

ロシア語では現在形で be にあたる語を使わず、また冠詞もないためこういう言いかたになります (べつの再帰動詞 учиться「学ぶ」の不定形を使った例文に «Учиться — наша задача.»「学ぶことが私たちの課題だ」があります;正式にはこのようにダッシュを入れます)。ほかの可能性としては (語順は通常と違いますが) 未来形で быть を省略したものとして「杭は光るだろう」(«Свая [будет] светиться.») とも読めないこともないかもしれませんが、いずれにしても奇妙です。

結論的には、これはロシア語をまったく知らない制作者が機械翻訳かなにかを使って失敗してしまったもの、と言うことができます。ロシア語を少しでも勉強したことがある人なら、-ться という語尾を見た瞬間に再帰動詞の不定形なので変だなと感じます (イタリア語の -rsi、スペイン語の -rse と同じことと言えばピンとくる人もいるでしょうか。それくらい初歩的なミス)。参考までに、светиться という動詞を使って「光る杭」という意味にしたければ、この動詞の能動分詞現在形 (英語で言う -ing 現在分詞) の女性単数形を使って светящаяся свая (svetjaščajasja svaja) のように言うのが正解です。

〔2 月 28 日追記〕ここに提案した светящаяся свая でググってみると、reddit の書きこみ (前掲の画像とはべつのスレッド) で、発売から間もない昨年 8 月 2 日 (日本時間) に早くも私と同じように指摘している――つまり最初の語は間違っていてこのように言うべきという――発言が見つかりました。しかしこれ以後に書かれた前掲のスレッドを含め、この教えは注目されないまま現在に至っているようです。

ところで、『風花雪月』においてはこのロシア語のほかにも、魔法陣にデザインされている英語が間違っていることが知られていますが、このような初歩的な誤りが作中にあるという事実から、私たちはどのような含意を引きだせるでしょうか。

ひとつの解釈として、これらがあくまで「作中世界においては」文法的に正しいものと仮定してみましょう。じっさい作中の誰もそれに突っこんでいないのですから、そのように考えることは自然です。すると当然それらは私たちの知るロシア語や英語とは異なった言語であるということにならざるを得ません。ここから導かれる簡単な結論は、フォドラの (過去の) 世界は私たちの世界と同一ではない、言いかえると私たちの世界の延長上にフォドラがあるわけではない、というものです。なにをあたりまえのことを、と思われるかもしれませんが、これが考察としておもしろいのは作中に描かれた情報を根拠にしてフォドラが私たちの世界の未来であるという説を棄却できることになるからです。

もっとも、私たちの世界においてもピジンやクレオールといって、ある言語を母語としない人々が商売上などの必要に駆られてブロークンな文法で会話を成り立たせる、そしてそれがそのまま次の世代に受けつがれて立派にひとつの「言語」として成立していく、という場合もあります。この可能性を採用するならば、なんらかの事情があってロシア語を母語としない出自もばらばらの人たちが寄り集まり、どうにか片言のロシア語で意思疎通をするうちに светиться свая のような表現が正しくなった、といった想像もできます。

メタ的に言って、現に日本人と思われる制作者がこのような誤りを犯した実例がひとつあるわけですから、そういう使い手たちが集まってロシア語で生活を送った場合それがそのまま普及して文法の一部になるということはありうると言えます。

この場合はかならずしも私たちの世界とフォドラとのつながりが否定されるわけではなく、妄想をたくましくするとたとえば「第三次世界大戦」で東側陣営が勝ち世界的に英語が衰退してロシア語が普及した未来、などというものを考えられるでしょうか。

しかし、いま述べてきたような推測が可能になる原因というのはそもそも――私の解説を信じていただくかぎり――「現実には間違っているロシア語が作中で使われている」という事実、そして間違っているものをそのまま真面目に受けとろうとすることに起因します。実際の真実はおそらく、ただたんに制作者が無知なため意図せずして間違えてしまった、というつまらない出来事であろうとほとんどの人は確信しているでしょう。

そうだとすると私はいましょうもない無用の考察を繰り広げたことになります。ロシア語が見つかったからといって実際にはそこからフォドラが私たちの世界とどんな関係にあるかはなにも読みとれないし、もしそれを強いて読みこもうとするなら作品世界を間違って解釈してしまうというわけです。でもひょっとしたら深い意図があってわざと間違えて書いた可能性も否定はできないし……、と考えると堂々巡りになります。

まさにこの点にこそ、フィクション作品は細部までこだわりぬいて作られるべきである理由があります。あえて陳腐な格言を繰りかえせば「神は細部に宿る」と称するとおりです。作品にどっぷりはまった真摯な読者 (プレーヤー) は作中に描写された情報を隅々まで渉猟し、そこから時に語られていない余白について描写と矛盾しないよう注意しながら考察を深めて楽しむわけですが、その描写のなかに単純に誤ったもの、著者や制作者が意図しないミスがあったとすれば、それは作品世界の理解に際しては不要であるどころか有害になるわけです。

これは私たち読者の考察の土台を根本から掘り崩してしまう危険につながります。じっさい、作中に描かれた細部のうちどれが意図的でどれがそうでないかなど、いち読者には決定的に判断することができません。このような可能性があるかぎり、すべての「考察」は砂上の楼閣になってしまいます。いま述べているのは、受け手によって「解釈」の幅に違いがあるために考察の内容も人それぞれで不確かでそれが楽しいね、という論点とはまた別次元の話で、そもそも解釈すべきテクストじたいに欠陥があって作中の証拠でさえ信用ならないために考察という営みそのものが成り立たなくなるという問題です。

そのような不備のある作品は精緻な考証に堪えないと言わねばなりません。ありていに言えば「深く考えるだけ無駄」ということです。私たちが「考察」を楽しめるのは、まず作品に対する全幅の信頼があって、作中に描かれていることはすべてその世界内においては確たる事実である (時に登場人物が間違ったことを言ったとしても、そのキャラクタが記憶違いなどで間違ったことを信じているということは作中におけるひとつの事実である) ということを前提にしているからです。

『風花』でいうとたとえば『セイロスの書』をはじめとする書庫の文献や教団関係者の発言などに実際のフォドラの史実とは異なる嘘が含まれていたとしても、そう言われているということ、そしておそらく教団がそれを信奉しているとか、人々にそれを信じさせようとしているといったことは事実だと想定したうえで、私たちは考察を行うわけです。万が一文献に誤字があったとしたら作中では現にこう記されていると信じて、写本の伝承過程で誤りが起こったのかな、などと考えたくなるわけです。あるいはまた、お茶会に呼んだ相手がどの話題で盛りあがったり赤面したりするかはそのキャラクタの生い立ちや性格の理解に関連していると信じています。

こうした一連のことを、ゲーム制作者による誤字だとか設定ミスだとかみなす――そうみなすだけのやむを得ない根拠が見つかる――ようでは、もはや解釈の本義を逸脱したメタ解釈になってしまい、その時点ですでに作品世界への没入感は失われてしまっています。

もとより人間の作るものでミスをゼロにすることは不可能ですが、受け手が憂いなく作品を味読して楽しむための前提である信頼を損ねてしまうものはいただけません。今回の件ならロシア語にしてたかが 5 単語、プロの翻訳者に頼んでも何千円もかからないでしょうに、その程度の予算をケチったばかりに不安の種を埋めこんでしまうというのは、またそれ以前に見られて恥ずかしいものを作中に残してしまうというのは、これほどの世界的有名タイトルのすることではないと思います。


関連事項として、以前 Echoes における同様の怪しい点についてまとめた過去記事を紹介しておきます:「ファイアーエムブレム Echoes のギリシア語」「ファイアーエムブレム Echoes のラテン語」。

また、『風花』そのものはロシア語に対応していないものの、ハードの Switch 本体はロシア語に設定できる――すなわち少数とはいえロシア語圏に販売されることは見込まれているはずである――ことを付け加えておきます。

vendredi 8 novembre 2019

ポケモン XY (カロス地方) の道路名の意味

ポケットモンスター XY』の道路にはすべて別名がついており、大部分はフランス語から名づけられている。カナ表記にはヴァ行を使わずバ行になっているが、基本的には読みかたはあっているのでフランス語を知っていればすぐに由来がわかる。6 年まえの作品だが意外にもこれをまとめたページが見あたらなかったので解説してみた (フランス語でないものは原則として除いた)。


1 ばんどうろ=アサメのこみち

2 ばんどうろ=アバンセどおり──過去分詞アヴァンセ avancé「(文化・文明的に) 進んだ、発達した;進歩的な」ととると最序盤の道路にはそぐわないし、不定詞アヴァンセ avancer「前進する」なら通るが以下でほかに動詞を使っている例はない。たぶん名詞アヴァンス avance「前進」の読みかたを間違えたものではないか。

3 ばんどうろ=ウベールどおり──ウヴェール ouvert「開いた、開いている;公開・開放された」。

4 ばんどうろ=パルテールかいどう──パルテール parterre「花壇」。

5 ばんどうろ=ベルサンどおり──ヴェルサン versant「斜面」。

6 ばんどうろ=パレのなみきみち──パレ palais「宮殿」。パルファムきゅうでんにつながる道だから。

7 ばんどうろ=リビエールライン──リヴィエール rivière「川」。ラインは英語。バトルシャトーのある川沿いの道。

8 ばんどうろ=ミュライユかいがん──ミュライユ muraille「壁;城壁、城塞」。コウジンタウンを取り囲む切り立った断崖にちなむか。

9 ばんどうろ=トゲトゲさんどう

10 ばんどうろ=メンヒルロード──メンヒル menhir はヨーロッパ先史時代の、数メートルの細長い石を直立させた巨石記念物を指す、ブルトン語から作られた術語 (maen「石」+ hir「長い」)。ブルトン語はフランス北西部ブルターニュ地方の言語で、フランスをモデルとしたカロス地方でもちょうどセキタイタウンはブルターニュのあたりに位置している。ロードはもちろん英語。

11 ばんどうろ=ミロワールどおり──ミロワール miroir「鏡」。うつしみのどうくつにちなむ。

12 ばんどうろ=フラージュどおり──フラージュ fourrage「まぐさ、飼い葉」。メェールぼくじょうにちなむ。余談ながらメェールぼくじょうはメェークルの脱字ではなく、メール mer「海」に由来するようだが (アズールわんにつながる立地から)、わざわざ「ェ」をはさんでいるのはメェークルともかけているために相違ない。

13 ばんどうろ=ミアレのこうや

14 ばんどうろ=クノエのりんどう

15 ばんどうろ=ブランどおり──ブラン brun「褐色の、茶色の」。カタカナで見るとブラン blanc「白い」のほうがさきに思いうかびやすいが (モンブラン Mont-Blanc のブラン)、現地の色あいからして前者のほうだろう。

16 ばんどうろ=トリストどおり──トリスト triste「悲しげな;陰気な、陰鬱な」。

17 ばんどうろ=マンムーロード

18 ばんどうろ=エトロワ・バレどおり──エトロワ étroit「細い、狭い」とヴァレ vallée「谷、渓谷」からなるが、フランス語では形容詞は一部の語を除いて後置で、しかも vallée は女性名詞なのでエトロワ étroit ではなくエトロワト étroite にしてヴァレ・エトロワトが正しい。

19 ばんどうろ=ラルジュ・バレどおり──ヴァレ vallée「谷」は上と同じもの。前半ラルジュ large「幅の広い」はエトロワと対になっている。

20 ばんどうろ=まよいのもり

21 ばんどうろ=デルニエどおり──デルニエ dernier「最後の」。チャンピオンロードにつながる最後の通りだから。

22 ばんどうろ=デトルネどおり──デトゥルネ détourné「遠回りの、迂回した」。序盤のハクダンシティから来られるが、チャンピオンロードに入るには遠回りしてすべての町を回ってこなければならないから。