mercredi 16 mai 2018

獣の数字 666 解釈のパターン数

ヨハネの黙示録 13 章末尾に登場する謎めいた数字 666 のことを聞いたこともないという人はほとんどいないだろう。まさにそれが謎と言われるとおり、これがなにを表しているかにはさまざまの説がある。しかしもっとも有名でなおかつ有力視されているのが、皇帝ネロを表すという見かたであることもまた周知の事実であろう。まず本稿の議論の前提として、どのようにして 666 が皇帝ネロを意味するのかを簡単に説明することから始めよう。

旧約聖書の言語であるヘブライ語にせよ、新約のギリシア語にせよ、古代の文字は数価というものをもっていて、単語を書き表すのと同じ通常の「アルファベット」(ここでは広義の意味) でもって数字を表していた。いやヘブライ文字とギリシア文字どころではない、シリア文字、コプト文字、ゲエズ文字、アルメニア文字、グルジア文字、ゴート文字……、聖書学に関係して思い浮かぶ古代の文字はほぼすべてがそうであったといっても誇張にはなるまい (いわゆるローマ数字をもっていたラテン文字はきわめて特殊な部類)。

だからいま名を挙げたどの文字体系でもいいが、どれもあまり一般の人にはなじみがなかろうから、どれでもいいということはべつに日本語のカナを使って解説しても問題はなかろう。イロハニホヘト……のようにこれらの文字には固有の順番が決まっている。そこでイを数字の 1、ロを 2、ハを 3、……ということに決めるとして、ヌ=10 までいったら次の文字ルは 11 ではなく 20、ヲは 30、等々でツ=100 まで進む、その次は 200、300、……という要領である。そうすると 11 は 10 + 1 でヌイ、123 は 100 + 20 + 3 でツルハ、という感じに、2 桁 3 桁の数字を同じ文字数で表すことができる。現代の私たちはアラビア数字の位取り記数法を知っているので、こんなことをしなくても 1 も 10 も 100 も同じ 1 (=イ) という文字を適切な位に据えるだけでよいではないかと思うが、当時はその発想がなかったのである。

さてヘブライ文字でもギリシア文字でもこんなふうにして数字を表していた。ここで各文字が一定の数価をもっているということを逆手にとると、ふつうの単語をもそれを構成する数字に読みかえるという一種の暗号が作れることになる。たとえばさきほど説明したカタカナの数字表記法にのっとると、「ヨハネ」という文字列はヨ=60、ハ=3、ネ=200 であるから、263 と言ってヨハネを意味するというようなものである。もっともこれはいま私が創案した「カタカナの数価」にもとづいた話なので、当時のギリシア語の読者がヨハネ=263 と考えていたわけでないことはわざわざ注意するまでもあるまい。

とにかくこのようにして、数字から逆にもとの言葉を解読するという暗号が可能になる。この暗号というか文字を数と結びつけるヘブライ語の数秘術のことをゲマトリアという。そしてヘブライ文字で נרון קסר‎ (NRŌN QSR [ネローン・ケサル]、皇帝ネロ) と書くと 50 + 200 + 6 + 50 + 100 + 60 + 200 で 666 となるわけだ。ここまでが予備知識である。

しかし少しでも数学的な思考力のある人ならたちどころに気がつくだろう、このような分解が一意ではなく、したがって 666 だからネロという結論が演繹的に出てくるわけではないということに。もとより 666 の解釈には複数の説があり、このようなヘブライ文字のほかにたとえばギリシア文字で読めばとか、ローマ数字で考えればとか、そもそも数秘術とはみなさないとかいろいろ解きかたがあるのであるが、よしんばヘブライ文字のゲマトリアに限定して解釈したとしても皇帝ネロしかないということにはならないわけだ。

もっと簡単な話、かりに争点が 6 という数字だったとしよう。6 は 1 + 5 とも 2 + 4 とも 3 + 3 とも分けられるし、1 + 2 + 3 にも 2 + 2 + 2 にも、さらに細かく分割することもできる。分けずに 6 のままということも可能である。しかもこれらは単語を表す文字列なのであるから、たとえば dog と god が英語でべつの単語であるように、数字の加法とは違って並びもまた役割をもつ。こういうことを考えれば、たったの 6 でもいくつもの解釈可能性 (後述するが 32 通り) があるのであって、666 ほど大きな値となればいったいどれほどの膨大な組みあわせになるだろうか。それを求めてみようというのが本稿の目的である。

といっても、その文字列が意味をなす単語になるためにはどんな並びでもいいということにはならない。たとえば英語で dog と god は可能でも、それ以外の順列 odg, ogd, dgo, gdo は英語においては単語にも句にもなっていない。だから想定される膨大な場合の数のうち実際に許容されるのは比較的わずかであろう。だが一方で英語などのアルファベットがこのように正しい単語になりづらいのは、母音と子音が適切に交互に並んでいなければならないこと、さらに許される子音連続の種類も限られていることが大きな理由だが、ヘブライ文字 (アブジャド) では基本的に母音を書き表さず、母音は読み手が子音間に補って読むので (上の NRŌN QSR = NeRŌN QeSaR を思いおこされたい。この Ō は mater lectionis というもので、最悪これもなくてもネローンと読みうる)、アルファベット言語ほどには減らないという可能性もある。とはいえこのことを正しく考慮するためにはヘブライ語のネイティブなみの知識が必要になってしまうから、いま私たちはこの事情をすっかり捨象して、単純にパターンの数を算出することだけを目指そう。

このときいくつかの点に注意する必要がある。まず第 1 にはすでに説明したとおり、並びが意味をもつということ。それから、分割の項として認められるのは 1, 2, ..., 9, 10, 20, ..., 90, 100, 200, ..., 900 の 27 個の正整数だけで、たとえば 11 や 12 はさらに分割されなければならないということ。この理由は前述した「カタカナの数価」の解説から理解されるだろう。なお目標が 666 の分割であるから実際には 700, 800, 900 が必要になることはないが。

このような意味の「n の分割」のパターン数を Γ(n) とおく。最終目標は Γ(666) である。まず 1 の分割は 1 そのものしかないので、Γ(1) = 1 である。次に 2 の分割は 2 そのものと 1 + 1 の 2 通りなので、Γ(2) = 2。3 の分割は 3 そのものと、1 + 2 および 2 + 1、そして 1 + 1 + 1 の合計 4 通りだから、Γ(3) = 4。

ここまででパターンが見えてくる。このようなものを求めるさい、場合分けの方針としては「何個の項に分割するか」を考えるのがひとつの常套手段であり、じっさいいま 3 の分割についてそのような順で提示をしたが、今回はあまり賢明でない。ここでは「初項が何であるかに応じて場合分けをするほうが、うまいこと漸化式を立てられるようである。並びが違えば異なる文字列になるという特徴のおかげで、このような場合分けが MECE な (=重複がなく漏れもない) 分けかたになるのである。

すなわち、3 の分割の場合には、初項が 1 であれば 1 + 2 と 1 + 1 + 1 の 2 通りがあったわけであるが、このとき初項 1 を除いた後ろの部分は 2 の分割そのものであるから、すでに求めていた 2 の分割の場合の数がそのまま利用できたのである。

この方法で 4 の分割を求めてみると、初項 1 のとき残りは 3 の分割で 4 通り (4 = 1 + 3, 1 + 1 + 2, 1 + 2 + 1, 1 + 1 + 1 + 1)、初項 2 のとき残りは 2 の分割で 2 通り (4 = 2 + 2, 2 + 1 + 1)、初項 3 のとき残りは 1 の分割で 1 通り (4 = 3 + 1)、そして初項 4 のとき残りの文字列はないので 4 そのものの 1 文字という 1 通り (4 = 4) で、合計して Γ(4) = 4 + 2 + 1 + 1 = 8。わかりやすく先述のイロハニで例示してみれば、いま足し算で示した順にイハ・イイロ・イロイ・イイイイ・ロロ・ロイイ・ハイ・ニに対応し、この 8 通りの「語」ないし「文」がすべて同じ 4 を表すのである。

そこで、いま分割の項として使える数の集合を H = {1, 2, ..., 9, 10, 20, ..., 90, 100, 200, ..., 900} とおき、さらに Γ(0) = 1 と約束することにすれば、一般に Γ(n) = ∑k ∈ Hk ≤ n Γ(nk) と書くことができる (あるいは、形式的に負の数に対しても Γ(−m) = 0 (m ≥ 1) と定めておけば、シグマの範囲のうち第 2 の条件 kn は不要になる)。

すると n = 10 までは単純にそれより小さい 0 ≤ k < n による Γ(k) の和で、たとえば Γ(5) = Γ(4) + Γ(3) + Γ(2) + Γ(1) + Γ(0) = 16、もっといえばこれは作りかたからただの 2 のべき乗になるので Γ(6) = 32, Γ(7) = 64, Γ(8) = 128, Γ(9) = 256, Γ(10) = 512 である。

しかし 11 以降はそうではない。11 の場合には初項 11 というのがありえないからである。そこで Γ(11) = 1 023, Γ(12) = 2 045, Γ(13) = 4 088, Γ(14) = 8 172, Γ(15) = 16 336, Γ(16) = 32 656, Γ(17) = 65 280, Γ(18) = 130 496, Γ(19) = 260 864 というように 2 のべき乗から少しずつ離れていく。なお計算法からわかるようにここまでの値は、フィボナッチ数列の一般化の一種で直近 10 項の和をとるデカナッチ数 (decanacci numbers; デカボナッチとも) に一致することになる。

だが 20 でまた事情が変わることになる。20 では新たに初項 20 という場合が付け加わるためである。こうして Γ(20) = 521 473, Γ(21) = 1 042 434, ..., Γ(29) = 265 818 368 である。この段階に至って、(管見のかぎり) 既存のいかなる名前つきの数列からも逸脱することになる。たぶん、このような数列を定義し求めた人は過去いないのであろう。

さらにいくつか続きを求めてみれば、Γ(30) = 531 376 129, Γ(40) = 541 467 712 002, Γ(50) = 551 750 949 002 947, Γ(60) = 562 229 479 206 711 000 (この最後の桁の 000 は正確ではなく、私が表計算ソフトで求めているため下の位が省略されてしまっている) といった要領で爆発的に増えていく。Γ(100) はおよそ 606 171 774 527 530 000 000 000 000 000 (≈ 6.062 × 1029)、Γ(200) はおよそ 731 645 916 580 603 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 (≈ 7.316 × 1059) である。

それゆえ概算ではあるが、求めるべき Γ(666) は約 1.109 × 10200 となろう。恐るべき数である。もちろんすでに注意したとおり、この 201 桁にも上る莫大な数のうちかなりの部分は意味をなさない文字列になるはずだが、それらをすべて排除してもなお相当の数になるであろうことは疑いない。そのなかのわずかにたった 1 つの可能性が皇帝ネロ נרון קסר だというわけだ。

このようなことを見落として「666 をヘブライ文字で解釈すると皇帝ネロになる」などと安易に「解説」すると大恥になるので気をつけていただきたい。נרון קסר ならば 666 になるというのは正しくとも、逆に 666 ならば נרון קסר になるというのは正しくないのである。

ちなみにこれはまったく余談であるが、נרון קסר のうちヌン・ソフィート (語末形) ן は通常のヌン נ と違って 50 でなく 700 になるらしいのに、一般的な 666 の解釈では同じ 50 として扱われているのはなぜなのだろう。

mercredi 9 mai 2018

比較的古い洋書の著作権・翻訳権についての疑問

だいぶ以前から海外の古い本の翻訳公開について考えているのだが、著作権関係の法律の理解に関して心もとないのでなかなか作業に身が入らない。いちおう手前で調べたところでは事実は次のようかと信じている。下記 6. まで (枝番号を除く) が調べた事実らしきことの記述で、枝番号のついたものと 7. 以降は私の考えや疑問点である。尋ねる相手もいないので、とりあえずメモとして残しておく。

1. まず、他国の著作物の権利はベルヌ条約 (文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約) というもので守られていて、日本もこれに加盟しているので他国の著作物については自国の著作権者と同等以上の保護をせねばならない (以上とあるが事実上はイコールということだろう)。

2. そして著作権が死後何年間保護されるかは国によって異なっており、日本は 50 年、ヨーロッパのほとんどの国では 70 年だが、ベルヌ条約では短いほうの期間を適用すればよいので、70 年と定めている国が相手でも日本国内では 50 年しか保護されない。そのかわりに日本の著作物も向こうの国では 50 年しか保護されない。

3. 著作権の保護期間を算出するさい、著作権者の死亡日にかかわらず 12 月 31 日まで保護される。したがって 1967 年の何月に死亡した人物であっても、その当日ではなく (日本国内では) 2017 年 12 月 31 日までが保護期間で、2018 年 1 月 1 日から使用自由になる。

4. ただし、(ほぼ日本のみの特殊事情として) 著作権の戦時加算というものがあって、第二次大戦の行われていた期間は著作権が保護されていなかったものとみなしてそのぶんの年数を加算する必要がある。たとえばイギリス・フランス・アメリカが相手の場合には 3 794 日 (10 年と 5 ヶ月弱) が加算される。

4a. このことは『星の王子さま』がらみで有名になったように思うので知っていた。まずサン゠テグジュペリの遺体が確認されず正確な死亡日が不明という事情もあるのだが、それは別としても 3 794 日が足されるため、1944 年に亡くなった人物なのに日本国内で著作権が切れたのは 2005 年 1 月 22 日であり、この年に大量の新訳が現れた。ところでなぜ 1 月なのだろう。5 ヶ月弱を足して 1 月 22 日ということは、年末でもなくサン゠テグジュペリの公式の死亡日である 7 月 31 日でもなく、9 月 3 日あたりから起算しているように見える。上記 3. の記述は嘘かもしれない。

5. ところで昔の日本にはまたべつに翻訳権の 10 年留保なるものがあった。これは 1970 年まで通用していた旧著作権法にもとづく制度で、1970 年までに発行された著作物は、もし 10 年以内に翻訳されなかった場合翻訳自由になるというのである。このことは次の文化庁の web ページでも確認される:「著作権なるほど質問箱――著作権制度の概要」。

5a. これはかなり驚きの制度である。額面どおり受けとるなら、1970 年までに出版された本で訳書が出ていないものは、たとえ現在も原著者が存命していたとしても翻訳権は消滅しており自由に翻訳出版できるということになる。いやそれどころか訳書が出ていたとしてもそれが 10 年以上経ってからのものならばやはり翻訳自由ということになる。本当なのだろうか?

5b. ちなみにこの文化庁のページには上記 3. のこともはっきり書かれている。いったいサン゠テグジュペリの件はどういうことなのかさっぱりわからない。

6. 以上のことにもとづいて具体例を考えてみる。話を簡単にするため戦時加算を考えなくていい国を例にとろう。いまデンマークの本を翻訳する場合、デンマークは第二次大戦時ドイツに早々に占領されており日本とは交戦していないため、戦時加算はない。

6a. それゆえ 2018 年現在、1967 年までに死亡したデンマーク人著者の本はすでに日本国内において著作権が消滅しており、翻訳も自由である? またそうでない著者の場合も、1970 年までの本で未訳のものは自由に訳出できる?

7. しかしまったく意味不明なのは、洋書の著作権表示部分にはよく ‘copyright renewed’ などと書かれていて著作権の発生年次が更新されていたり (遺族などによって? 遺族にそんな権利があるのだろうか?)、内容の変更されていないリプリントなのに新しい出版年の表示で出版社が権利をもっているかのようにコピーライトマークが書かれている場合があることだ。まえがきや解説が追加されていてその部分にだけ新しい著作権があるという話ならわかるが、どうもそうではない場合も多い。こういうものはいったいなんなのだろう。

8. そもそも著作権や翻訳権が切れているというのはどういう事態を意味するのか? 切れているとされる場合に、私たちにはなにがどこまで許されているのだろうか。i) 翻訳をして無償で公開すること。ii) 翻訳をして有償で販売すること。iii) 翻訳をして対訳の形で原文とあわせて掲載したものを販売すること。iv) 原文をそっくりそのまま打ちなおしてそれを販売または無償公開すること。

8a. 以上 i) から iv) は、原著作者の権利 (というものが生きていたとして) を侵害する程度または二次利用者の利益が大きくなる順に並べてみた。i, ii) に比べて iii, iv) では、すでに原著を購入する意義が失われることになるという点で原著作者の利益を損なっている。また i) に比べた ii) と、iii) に比べた iv) とでは純粋に二次利用者の利益が拡大している。直観的に、原作者の利益に対して悪いことをすることになる順ということだが、そういうことがどれくらい法律問題と関係するかもわからない。もちろん倫理的な善悪とイコールではなかろう。

8b. さらに言えば、著作物に関して著作者以外に出版者の権利というものがどの程度なのかも不明である。前世紀初頭までのごく古い本に関して Google Books などは、大学図書館所蔵の本の紙面をまるまるスキャンしたものを公開しているが、その紙面・版面にはなんらかの権利はないのか? もしないとすれば、上記 iv) をさらに一歩進めて、v) 原著をそっくりそのままスキャンしてそれを販売または無償公開すること、という行為を想定できる。じっさい Internet Archive などで公開されている大学図書館の戦前の洋書のスキャンが、Nabu Press やら Forgotten Books やら相当数の出版社によってそれぞれ使いまわしの表紙をつけて印刷されそのまま Amazon で売られているので問題ないのだろう。6. とあわせて考えれば、1967 年までに死亡したデンマーク人著者の出版物はまるまるコピーして日本で販売することができるのだろうか?

8c. こうしたことはいちおう義理や礼儀といった側面とは別個に考えるべきなのだろう。たとえば日本では翻訳権が切れているからといって自由に翻訳出版をするとして、原著者の遺族がいれば連絡をするのが筋だ、ということはあるかもしれない。そういえばこのさい、日本特有の 10 年留保は海外でなかなか理解されずトラブルになりやすい、と聞いたことがある気がする。

9. 著作権と翻訳権とはどういう関係にあるのか? 前述した翻訳権の 10 年留保を考えれば、著作権は生きているのに翻訳権だけが消滅するという事態があることが察せられる。その逆はありうるのか? それとも著作権が切れたならば自動的に翻訳権もなくなるのか?

10. そもそも著作権が切れるとか消滅するとかいう言いかたは正しいのか、それとも著作権じたいはずっと理念的に存在していて正確には保護期間が切れたとか満了したとか言うべきなのか。ぜんぜんわからない、俺たちは雰囲気で著作権をやっている。

lundi 30 avril 2018

デンマーク語の受動態に関する覚書

デンマーク語の文法書から受動態に関する箇所を抜粋翻訳した。それぞれ異なる本なので、過去分詞 (præteritum participium) と完了分詞 (perfectum participium) のように同じものを別様に呼んでいる部分もあるが、大きな混乱はないであろうからそれぞれの用語法を尊重して訳してある。


次のものは Ane Børup, Ulrik Hvilshøj, og Bolette Rud. Pallesen, Dansk Basisgrammatik, 2. reviderede udgave, 2000, s. 46f. より。

§45. 能動態/受動態

能動態/受動態 (aktiv/passiv, handleform/lideform) は、状況を記述する 2 つの異なった方法と関わっている。動詞の能動形を用いるとその行為を遂行する人に強調が置かれるのに対し、受動形を用いるとその行為にさらされる人または物に焦点があてられる:

能動態 Lægerne opererer den lille dreng på torsdag
    (医師たちは木曜にその小さな少年を手術する)
受動態 Den lille dreng bliver opereret af lægerne på torsdag
    (その小さな少年は医師たちによって木曜に手術される)
    Den lille dreng bliver opereret på torsdag
    (その小さな少年は木曜に手術される)

したがって受動形を用いるとその行為を受ける者 (「その小さな少年」) が強調され、またそれによって、その行為を遂行するのが誰であるのか (「医師たち」) についての情報は背景に押しやられるか、あるいは最後の文におけるように完全に省略される。

能動文を受動文に転換させるときには 4 つのことが起こる:
  1. 能動文の目的語 (「その小さな少年」) が主語になる
  2. 助動詞 blive が中に置かれる
  3. 主動詞は過去分詞に変えられる (operereropereret に変えられる)
  4. 本来の主語 (「医師たち」) は前置詞 af とともに現れるか、または完全に省略される

§46. Blive-受動態と s-受動態。上述の例における受動態は、助動詞 blive によって作られるために blive-受動態 (blive-passiv) と呼ばれる。デンマーク語にはもうひとつのタイプの受動態、すなわち s-受動態 (s-passiv) があり、これは動詞の不定詞形に -s を加えることによって作られる。例:Den lille dreng opereres på torsdag. S-受動態はたいてい書き言葉において見られる。たとえば新聞の見出し (例:Fiolteatret lukkes「フィオル劇場閉館」)、料理のレシピ (例:Kartoflerne halveres på langs「じゃがいもを縦に半分にします」)、使用説明書 (例:De forreste skruer afmonteres「最初のねじを取り外す」)。

ある種の動詞は受動形をもたないか、もしくはめったに受動態におかれない。これにあてはまるのはたとえばいくつかの自動詞、dø「死ぬ」や sejre「勝利する」がある (§49 を見よ)。いくつかの動詞は受動形でのみ見られ、それにもかかわらず能動の意味をもつ。例:De kan ikke enes「彼らは合意・和解しえない」、Vi trives godt「私たちは十分に幸せである、繁盛する、成長する」、Han væmmes ved tanken「彼はその考えに気分を悪くする」。


次のものは Erik Hvid og Flemming Olsen, Kursus i dansk grammatik: Grundbog, 2002, s. 22f. より。

受動態

A. Min far sælger bilen「私の父は車を売る」という文は能動文 (aktiv sætning) と呼ばれる。私の父の行動は彼がその自動車を売ることにある。彼はその行為を行っているので「私の父」は主語である。

私たちがその自動車を出発点にとるならば、この文は Bilen bliver solgt af min far あるいは Bilen sælges af min far「その車は私の父によって売られる」となる。ここでは「その車」は主語になっている。しかしだからといってその行為を行う者になったのではない。それはある行為もしくは過程にとっての対象とされている。

文法的主語が行為をするのでなく「される」ところの文は受動文 (passiv sætning) と呼ばれる。この文では「その車」は受身になっている。この受動文における行為者はやはり「私の父」である。

B. 前述の 2 つの文、すなわち能動文と受動文は、どちらも同じ出来事を述べている:両方の場合において、ある車を売るある人について語られている。出発点が私の父か車かで違っているが、結果は同じである。

能動文を受動に転換するとき、能動文における目的語は受動文における主語になる。動詞の時制は変化しない:
能動 Min far sælger bilen.
受動 Bilen sælges af min far.
したがって、受動態に転換されるためには能動文中に目的語がなければならない。すなわち、動詞が他動詞として用いられている文だけが、受動文に転換されうるのである。

能動文における主語 min far が、受動文では前置詞句 af min far になっていることに注意せよ。この前置詞句 af min far は文中で副詞句として働いているので、A のマークをつけてある〔訳注。ここでは省略している〕。

C. 動詞が自動詞として用いられている文は、受動文に転換できない:
Cecilie stank af tobak da hun kom hjem fra mødet.
(セシリエは会議から帰ってきたときタバコで悪臭を放っていた)
Christoffer havde ligget og sovet på sofaen det meste af dagen.
(クリストファーはその日の大半をソファに横になって眠っていた)
Inflationen er steget med 1%.
(インフレが 1 % 進行した)
D. デンマーク語では多くの場合、2 通りのしかたで受動態を作ることができる:

S-受動態 (s-passiv):動詞が -s で終わる形。とくに現在形において見られる。
Varerne bringes ud til kunderne.
(その商品は客たちのところへ運びだされる)
Lygterne tændes en halv time efter solnedgang.
(ライトは日没の半時間後に灯される)
Dørene lukkes kl. 7.
(扉は 7 時に施錠される)
Blive-受動態 (blive-passiv):blive と完了分詞からなる形。多くの動詞は過去形で blive-受動態を用いる。現在と過去以外の時制では、blive-受動態のみが用いられうる。
Passagererne bliver ramt hårdt af busstrejken.
(乗客たちはバス・ストライキによって著しく影響を受ける。現在)
Mødet blev holdt i skolens aula.
(集会は学校の講堂で行われた。過去)
Det mord er aldrig blevet opklaret.
(その殺人事件は決して解決されていない。現在完了)
E. S-受動態はいつでも有効である事柄に関して用いられるのに対し、blive-受動態は個別の出来事に関して用いられる、という傾向がある。次の 2 段の文〔訳注。原文では左右に 3 文ずつだが、ここでは段組にせず並べている〕を比較せよ:
Gamle møbler købes og sælges.
(古い家具が売り買いされている)
Den teknik kendtes ikke i Middelalderen.
(その技術は中世には知られていなかった)
Tv? Det fandtes ikke dengang.
(テレビ? そんなものそのころにはなかった)
Maden bliver serveret af lejede tjenere.
(料理は雇われた給仕たちによって供される)
Firmaet blev grundlagt i 1924.
(その会社は 1924 年に設立された)
Pengene blev fundet i tyvens hjem.
(その金は泥棒の家で見つかった)
F. -s に終わるいくつかの動詞は、受動の形にもかかわらず能動的な内容をもっていることに注意せよ。それらは他動詞・自動詞いずれでもありうる:
Der findes mange dyrearter.
(たくさんの動物の種が存在する)
Hun mindedes sin ungdom.
(彼女は自分の若いころを回想した)
Forsøget lykkedes.
(実験は成功した)
Det kunne vanskeligt undgås.
(それを避けることは難しいだろう)
Jeg længes efter sommeren.
(私は夏を待ち焦がれている)


次のものは Lisa Holm Christensen og Robert Zola Christensen, Dansk grammatik, 3. reviderede udgave, 2007, s. 106f. より。

受動形

多くの動詞は能動形または基本形 (aktiv form, grundform eller handleform) と受動形 (passiv form, lideform) とに活用しうる。能動と受動とのあいだの区別は、高度な用語では (diatese) と呼ばれる。受動の活用は不定詞、現在および過去に適用されうる。受動形態素 (passivmorfeme) はどの形でも -s である。不定詞の受動形は -s の付加によって作られる:hentehente-s。現在の受動形は不定詞の受動形と同一である。不定詞受動形と現在受動形はそれゆえ同音異義語である。言語史的な説明では、現在受動形は現在 + s から作られるが現在形は -r で終わり、-rs の組みあわせが強勢のない位置では調音が難しいので、[rs] が [s] に融合したのである。過去受動形は能動の過去形に -s を付加することで作られる:hentedehentede-s。しかしながら受動に活用しうる過去形の動詞のすべてがそうなのではない。意味論的な理由から、だいたいにおいて命令法の受動形は見られない。というのは命令法、とくに要求のために用いられるそれは、何事かをするよう駆り立てられるところの人じしんが能動的に行為を行わねばならないことを前提するからである。〔込み入った文なので「意味論的……」からの原文を載せておく:Af semantiske grunde forekommer der stort set ikke verber i imperativ passiv, da imperativ, der især bruges til at opfordre med, forudsætter, at den, som anspores til noget, selv skal udføre handlingen aktivt.〕

動詞の形態論的受動形 (morfologiske passiv) の概観
不定詞受動形現在受動形過去受動形
henteshenteshentedes「連れてこられる」
læseslæseslæstes「読まれる」
sessessås「見られる」
〔訳注。ここで「形態論的 morfologisk」とは「迂言的 perifrastisk」に対置される用語で、同書 s. 54 によればそれらは「屈折 bøjning によって作られる」ものと「書きかえ omskrivning によって作られる」ものを指す。それぞれ「総合的」(英 synthetic) と「分析的」(英 analytic) に言いかえても大過ないであろう。〕

しばしば強変化動詞は s-受動態を作れない:*hjalp-s, *åd-s。このため blev + 完了分詞による迂言的受動態 (perifrastisk passiv) が必要とされる。

現在能動形現在受動形過去能動形過去受動形
stikkerstikkesstakblev stukket
flyverflyvesfløjblev fløjet
finderfindesfandtblev fundet
hjælpehjælpeshjalpblev hjulpet

完了分詞は受動形の s-形態素を伴って変化することがまったくできないので、受動の意味を表すためにはつねに迂言的な形が必要とされる:Hun er blevet hentet af sin far「彼女は父から呼ばれてきた」〔現在完了〕;Han var blevet udskrevet fra sygehuset「彼は〔すでに〕病院から退院していた」〔過去完了〕;Bilen var blevet undersøgt af politiet「その車は警察によって調査されていた」〔過去完了〕。(Jf. s. 122f.)


次のものは Christensen og Christensen, op.cit., s. 113 より。

〔S. 107 以下「諸活用形のはたらき」の節中の〕受動形

受動形の動詞は 3 つのはたらきとそれに結びついた意味とをもちうる。それらは受動構文 (passiv konstruktion) を作るために用いられうる。形態論的受動形を用いた文は迂言的受動形に変換しうる (大なり小なり意味の変化を伴う)。
Stakittet skal males hvidt. ≈ Stakittet skal blive malet hvidt.
(柵は白く塗られる予定だ)
Lønnen betales af staten. ≈ Lønnen bliver betalt af staten.
(給与は国によって支払われる)
動詞の s-形の第 2 のはたらきは、中間構文 (medial konstruktion) にある。これは典型的には複数形の名詞 + s-形の動詞から構成され、主語の指示対象が (相互的に) お互いに対してとりおこなうところの動詞の行為を媒介する。これらの構文は迂言的受動態に置きかえることはできない。
Per og Line sloges. ≠ Per og Line blev slået.
(ペールとリーネは喧嘩した ≠ ペールとリーネは殴られた)
Vi ses i morgen. ≠ Vi bliver set i morgen.
(私たちは明日会う ≠ 私たちは明日会われる)
Vi samles hos mig klokken 9. ≠ Vi bliver samlet hos mig klokken 9.
(私たちは 9 時に私のもとに集まる ≠ 私たちは 9 時に私のもとに集められる)
Børnene fulgtes til skolen. ≠ Børnene blev fulgt til skolen.
(子どもたちは学校までいっしょに行った ≠ 子どもたちは学校までついてこられた)
Skal I deles om opvasken?
(あなたたちは皿洗いを分けあうか)
De skændtes hele tiden.
(彼らは一日じゅう口論していた)
デポネント動詞 (deponent verb, jf. s. 102) は能動の動詞と同じように使われるが偶然に s-形を獲得したものである。能動形の動詞のなかにこれらとの類義語がしばしば見つかる。
Jeg længes efter dig. (jf. Jeg savner dig.)
(私は君を待ち焦がれている)
Der findes ingen som dig. (jf. Der er ingen som dig.)
(君のような人は誰もいない)
Det lykkedes mig at vinde. (jf. Jeg formåede at vinde.)
(私はうまく勝つことができた)
Hun væmmes, når hun ser ham. (jf. Hun føler sig utilpas, når hun ser ham.)
(彼女は彼に会うと気分が悪くなる)
Bo synes ikke om hende. (jf. Bo elsker hende ikke.)
(ボーは彼女のことを好きではない)
形態論的および迂言的受動構文は 122 頁以下でも扱っている。動詞の s-形のもつその他のはたらきについてはこれ以上扱われない。