Charles Perrot, 支倉崇晴・堤安紀訳『イエス』白水社,2015 (文庫クセジュ 1000) の typo などのメモです (底本は 2015 年 6 月 10 日第 2 刷).
- p. 22, l. 3; p. 152, l. ↑5: 「ヘレニスム世界」.フランス語では濁らない「イスム」は正しいが,その場合語頭 h 音も消えてしまう.なお p. 53, l. ↑1 や p. 76, l. 1 などほかの多数の箇所では「ヘレニズム」.
- p. 26, l. 2: 「タルピオット で一九八〇年に」.半角スペースの混入?
- p. 31, l. 3: 「かからわず」
- p. 40, l. ↑1: 「ゴットローブ」→「ゴットロープ」
- p. 43, l. ↑4: 「ポンシオ・ピラト」.ほかの箇所ではすべて「ポンティオ/ポンティウス」.
- p. 54, l. 6: 「フラティウス・ヨセフス」
- p. 55, l. 8; p. 70, l. ↑6: 「エリシヤ」.なお p. 87, ll. 5–6 (3 回) や p. 88, l. 10 では「エリシャ」.
- p. 60, l. ↑3: 「預言者エレミア」,および p. 131, l. ↑3: 「エレミア」.巻末の聖書索引の項目名および p. 68, l. 5 では「エレミヤ」.
- p. 66, l. ↑1; p. 121, l. ↑4: 「諸共同体」.おそらくこの 2 ヶ所のみ旧字体 (ほかの箇所は p. 53, l. ↑4: 「諸共同体」や p. 64, l. 2: 「諸行為」など).
- p. 69, l. 3: 「ゼカリア」.巻末索引および p. 126, l. ↑1 では「ゼカリヤ書」.
- p. 69, l. 6: 「ある -『天は今や閉じられている』」.ダッシュ?
- p. 71, l. 5: 「アラム語の malkoutha」.原語は מַלְכוּתָא で,これはフランス語式の転写と思われるが,k や th の是非はまだしも,ou はフランス語を知らない読者に誤解を与えそうである (アラム語に二重母音 [ou] はなく,これは ū の音).
- p. 78, l. ↑4: 「( 創二の一〜三)」.半角スペースの混入?
- p. 78, l. ↑2; p. 101, ll. ↑6, 1: 「カイファ」→「カイアファ」.なお p. 117 および pp. 127ff. ではすべて「カイアファ」.
- p. 78, l. ↑2: 「アンナ」→「アンナス」
- p. 81, l. ↑2: 「語っている、」.句点?
- p. 82, ll. 8–9: 「エピタウロス」→「エピダウロス」
- p. 82, l. ↑2: 「トゥキディデス、ポリュビオス」→「トゥキュディデス、……」.前者でも誤りとは断定しがたいが,同じ υ である「ポリュビオス」と並ぶと違和感がある.
- p. 83, l. ↑3: 「ギリシア語の sôtéria」.これもフランス語式の習慣かもわからないが,原語は σωτηρία であり é は重大な誤解を招く.ついでに言えば,これ以前の箇所で外国語の表記はすべてイタリックでなくローマンであり (p. 27, l. ↑3: ‘chrestianoi’ および上掲 p. 71, l. 5: 「ギリシア語の basileia、あるいはアラム語の malkoutha」.これ以後の箇所ではなお混在しており,全体の統一が望ましい),さらにギリシア語の転写に長音符 ô やアクセント記号 é がついている箇所は全編通してほかにない (といってもこのアクサンがギリシア語の意味のアクセント記号といえるかはべつの話である:これは上で指摘した -ou- と同じで,たんに母音 [e] をフランス語式に明示しているにすぎない).
- p. 85, l. 6: 「彼を遺して」→「彼を遣わして」
- p. 102, l. 3: 「『お前がユダヤ人の王なのか』イエスは」.「王なのか。』」と句点を追加.原文は未確認のため不明だが,あるいは新共同訳に従えば「『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは」と補う (マルコ 15:2).
- p. 111, l. 7: 「呼格(キリエ Kyrie 主よ)」.誤りとは言いがたく,ミサ曲をはじめとして日本語では一般にも「キリエ」の形がカタカナ語で定着しているので判断が難しいところだが,上掲「トゥキュディデス、ポリュビオス」の件に加え,この同じページの直前直後の行で l. 5: 「ギリシア語のキュリオス Kyrios」と l. 10: 「キュリオス・ディオニュソス」にはさまれているという理由もあり,ちょうど「キュリオスの呼格がキリエ」という流れでは違和感がある.
- p. 112, l. 7: 「マラナタ Marana Tha」.p. 149 では「マラナ・タ」.
- p. 112, ll. 7–8: 「来て下さい! という」.感嘆符のあとのスペースがちょうど行頭にきてしまっており,改段落に見える.
- p. 113, l. 2: 「出三の一四 - ヨハネ八の五八」,および p. 151, l. ↑1: 「ルカ二四の五、二三 - ヨハネ一の四」.読点?(この例は下記 pp. 122–124 の事例とは異なり,作中ほかの類似の箇所を参照するとすべて読点になっている)
- p. 114, l. 2: 「ゴルゴダ」→「ゴルゴタ」.日本語ではどちらも通用しているが,p. 133 や pp. 139f. では「ゴルゴタ」.
- p. 115, l. 2: 「(本書二八頁 )」.半角スペースの混入?
- p. 116, l. 7: 「アレキサンドロス」.別人への言及だが,ほかの箇所ではすべて「アレクサンドロス(・ヤンナイオス)/(シモンの息子)アレクサンドロ/アレクサンドリア(のフィロン)」.
- p. 117, l. ↑4: 「アレナス」→「アンナス」
- p. 120, l. ↑6: 「大あわてで持っていた」→「……持っていった」
- p. 122, l. ↑6: 「マルコ一四の四三、五三 - 一五の一」,p. 123, l. 1: 「二の一六、一八、二四 - 三の六 - 七の一〜五 - 一〇の二」,および p. 124, l. 1: 「〔使二の〕二三、三六 - 三の一三〜一五 - 五の三〇、三二」.ここではどうやら章を超える場合に読点に代えてハイフンで区切っているようだが,連続する節を意味するものとまぎらわしい.作中この 3 ページ以外の箇所ではこの場合も読点を用いている (たとえば p. 48, p. 60, pp. 72f., p. 145, p. 152).
- p. 125, l. ↑2: 「である。(ヨハネ一八の三、一二)これは」.句点の位置を修正.
- p. 129, ll. 8–9; p. 139, l. ↑5: 「ユダヤの王」→「ユダヤ人の王」.p. 129 のほうは原文しだいだが,p. 139 の箇所はヨハネの引用である.
- p. 135, l. 3: 「『ユダヤ古代誌五』XVII」と p. 137, l. 3: 「『ユダヤ戦記』二、V」で統一.なお p. 28, l. 7 ではまたべつの記法になっている.
- p. 138, ll. 8–9: 「並びました」.この文のみ丁寧語.
- p. 141, l. ↑1: 「ジヴァト・ハーミヴタル Giv’at ha-Mirtar」→「ギヴアト・ハ・ミヴタル Giv‘at ha-Mivtar」.p. 144, l. 2: 「ジヴァト・ハーミヴタル」も同様.訳書のこの「ジヴァト」という表記はフランス語につられたものであろう.原語は גִּבְעַת で,ベート ב の下のシェヴァが示すとおりここで音節が Giv-‘at と切れるので,「ヴァ」ということはありえない (後ろの「アト」のほうがアクセント音節である).訳書のラテン文字表記のうち Mirtar はご愛敬で,またアイン ע を表す Giv’at のアポストロフはアレフ א と区別されるべく正しくは右開きの ‘ の形でなければならないが,これをも修正するかどうかは訳者と出版社の判断に委ねる.
- p. 143, ll. 10–11: 「普通であった。(スエトニウス〔……〕)。」.括弧のまえの句点を削除.
- 聖書索引 p. i: 「列王紀上」.間違いではないかもしれないが,このすぐ下では「列王記下」とされている.
そのほか,「殆ど/ほとんど」,「関連付ける,位置付ける,特徴付ける/づける」,「扇動者/煽動者」といった変換ゆらぎが多数ある.もちろんこれには,新共同訳をはじめとした他書からの引用文とのあいだのゆらぎは数えていない.
また,これは訳書のミスではなく原文のとおりであると思われるが,
また,これは訳書のミスではなく原文のとおりであると思われるが,
- p. 9, ll. ↑2–1: 「少なくとも五〇年前から〔……〕イエス史料がとりわけ補強された」
- p. 16, ll. 3–4: 「研究者が自由に使えるようになっている――一〇年ばかり前はそうなっていなかった」
といった記載は,原著初版の刊行された 1998 年を基準にしていると思われ (前者は 1940 年代後半のクムランとナグ・ハマディの発見,後者は 90 年代はじめに死海写本が急速に公開されるようになったことを受けているのであろう),2014 年の最新版をもとに訳出したというわりにはいくぶん時代錯誤に響く (p. 26, l. 7: 「二〇〇二年に東エルサレムの……」のように本文中に新しい情報が混じってもいるのでなおさらである).
最後に,訳者あとがきは巻末の参考文献につき「この中に邦訳されているものは存在しないと思われる」(p. 159) としているが,Theissen, G., Le mouvement de Jésus. Histoire sociale d’une révolution des valeurs, 2006 には邦訳『イエス運動 ある価値革命の社会史』(新教出版社,2010) がすでに存在していた (原著はドイツ語 Die Jesusbewegung: Sozialgeschichte einer Revolution der Werte, 2004).
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