jeudi 11 avril 2019

知識の効用――森博嗣『デボラ、眠っているのか?』感想

森博嗣の W シリーズ第 4 作『デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping?』(講談社、2016 年) を読了したので、前巻の感想と同じくネタバレ込みで思いついたところを書き残しておきたいと思う。前巻読了後すぐに読みはじめたのだが、いろいろあってまるまる 3 ヶ月も要してしまった。

前巻『風は青海を渡るのか?』はどうにも中だるみの感が否めなかったが、本巻は冒頭からトップスピードのアクションに始まり、終盤にはまたド派手な銃撃戦がハギリたちを巻きこんで繰り広げられる、ダイナミックで読みごたえあるガンアクション・サスペンスである。

そんな硝煙の匂い漂う――といってもこの時代の銃の弾薬や発射機構がどんなものかは定かでないが――シーンのさなかでも、しっかりとハギリに格好いい見せ場があるところが小気味いい。
「もう、そんな状況じゃない」僕は首をふった。「このシェルの物質は何だ? デボラ、これを見たか? このシェルの材質だよ」
 サリノはそれに触れた。僕はほとんど目が開けていられない。しかし、サリノの赤い瞳が輝いているのはわかった。
「ビスコ・プラスティック・レジンです。今は使われていない。百年以上まえの製品です」サリノが答える。
「厚さは?」
「不明です。弾性波が減衰するため測定できません」
「アネバネがこの上に乗って、足が沈みそうになった。降伏値がかなり小さい」
「この形状を維持するために必要な降伏値は、推定ですが、十から五十キロパスカル。このデータが何の役に立ちますか?」
「五十キロパスカル? えっと、ニュートン・パー・スクエアメートルでいうと?」
「五万」
「粘性は?」
「構造だけからは計算できませんが、弾丸を止めるためには……」(206–207 頁)
たぶん、弾性力学や材料力学のような分野の言葉なのだろうが、降伏値という術語を私はここではじめて知った。こういう見慣れぬ未知の用語が出てきて、しかもそれが解決に決定的な役割を果たす、そこが森作品の白眉だと私は思っている。

十何年もまえに、『すべてが F になる』をはじめて読んだときのあの感動が、この場面で鮮やかに胸に蘇るのだ。「違う……。インクリメントイコールのはずだ」「変数型は?」「たぶん、インティジャだ」「グローバルの……、えっと、スタティックですね。インティジャだわ」「ロング?」「いえ、ショート。アンサインド・ショート」(文庫版 413–416 頁より抜粋)。プログラミングに触れたこともなかった当時の私には――いまもたいして変わらないが――ほとんど意味のわからないやりとりだったけれども、読んでなんだか胸が熱くなったのを覚えている。そして西之園さんの暗算。いま読んだってたとえようもなく格好いい。

今回行われたビスコ・プラスティック・レジンの降伏値のくだりは、まさにこの場面の、およそ 250 年の時を超えてなされた再演なのではないか? ハギリが犀川、デボラが島田文子と西之園萌絵の兼役で、ぴたりと一致しているような気がする。計算を押しつけるところまでそっくりである (しかしパスカルは定義上ニュートン・パー・スクエアメートル N/m² と同じなので、ただ 50 k = 50 000 という、西之園さんでなくても誰でも暗算できることをわざわざやらせてしまうのが彼のとぼけたところだ)。

というわけで、この W シリーズはミステリィの枠を軽々と踏みこえていってしまったけれども、それでも森作品の永久の称号たる「理系ミステリィ」の根幹はこうしていまも失われず脈々と受けつがれていると感じるのだ。すなわち、かつてのイル・サン・ジャックらしきこの陸繋島でも 250 年まえの妃真加島でも、知識をもとにした発想が事件解決を決定づけている。もちろんその着想に至るところがハギリ/犀川の優れた能力なのだが、それは前提の知識がなければ絶対に思いつかないところだ。したがって知識は力なり、を地で行く展開であると言えよう。

もっとも森先生じしんは、理系の学問というのは知識ではない、少なくともその比重が文系よりも小さい、というようなことをいつか語っていたように記憶しているので、私のこのような理解は噴飯ものかもしれないが。

さて話は変わるが、読書メーターで人々の感想を読むかぎり、エピローグのウグイの様変わりについては何十人もの人たちが「かわいい」という意見で一致している。巻が進むごとに彼女は変化している。舌を出すというサプライズもそうだし、「見ますよぉ」という間延びした話しかた。だが私はここを読んだ瞬間、かわいいと感じるよりさきにぞっとしてしまった。だって、本巻のテーマといえるトランスファによる身体の乗っとりの事例をいくつも見せられてきた矢先のことなので、すわ大変なことになったと早合点してしまうではないか。それにウグイは 36 頁で「いいえ。あまり夢は見ません」と明言していたので、発言が矛盾しているということにもただちに思い至ったのだ。

しかし少し考えてみればこれは杞憂であると知れる。というのも、ウォーカロンと人間の識別問題の専門家であるハギリがこのウグイの挙措を見て、「これが人間というものか」と断定しているからだ。ウォーカロンならばこのように舌を出すなど思いつきもしない――それには百年かかる――と。前々巻の感想で述べた内容に関連するが、天才ハギリがそう結論する以上、ウグイの人間たることは揺るぎようがないし、読者はそれを信じてよいのである。そう思ってみれば、矛盾した発言というのも人間特有の行いだと承知される。人間より優れた人工知能であればこのようなケアレスミスはしないであろう。第 1 巻で言われたアンチ・オプティマイズ=反最適化 (第 1 巻 44 頁) がその出力を求めないかぎりは。

そういえば本巻ではアネバネも人間であることがとくに強調されたように思う。178 頁で「その情報は初耳です」という彼にしては余分なコメントを述べた件に代表されるように、これまでになかった意外な言動をいくつかとっていたし、ハギリも何度かアネバネが人間だと明言した。

しかるにハギリではなく読者の私たちがウグイやアネバネを「人間らしく」なってきたと感じるのはなにゆえだろうか。それまでしてこなかった行動をとるようになり、変わっていく、ということが人間らしさなのか? あるいは意想外の行動をとることそのものが? そんなに単純な話ではないことは、W シリーズをこれまで読んできた読者ならば誰もが了解しているはずである。

もともと最初の巻では「機械じみた」人格と思わされていた彼らがだんだん「人間らしい」と感じさせられてきている、そういう情報の出しかたをしている、そこに心理的な仕掛けやトリックが存するように思えてならない。なんのためにそうするかと言えば、もちろん本シリーズに通底する大テーマである、人間とウォーカロンの違い (のなさ) という問題を際立たせるためであろう。

最後にもうひとつ。次のくだりなどは、G シリーズで海月及介などの洞察として、何度も繰りかえし言われてきたことである。本巻ではとうとうハギリもこの気づきに至ったのだ。
 僕たちがどう考えても、もう遅いのかもしれない。
 ずっと以前に、このプロジェクトを考案し、準備をし、少しずつ実現に向かって進めてきた輝かしい知能が存在したのだ。
 誰も、彼女の意図を見通せなかった。あまりにも長いスパンを持って計画されたものだったからだ。(175 頁)
いまが佳境で、これからが最終段階という。ハギリが目撃することになる、G シリーズの行く末を見逃さないよう、注意深く次の巻へと進んでいこう。


本巻『デボラ、眠っているのか?』の表紙画にある英文の翻刻と本文におけるその対応箇所は次のとおり。なお後者は字が強くにじんだ加工をされており大部分が判読不能で、ほとんど文字数だけしかわからないが、なんとか対応するであろう本文に照らして英訳を推定した。
“Fragile,more than my expectation.”〔コンマのあとスペースなし sic〕
“What is?”
“I am.”
“Contrary to my expectation.”
「意外に繊細なんだ」
「誰がですか?」
「私が」
「意外です」(32 頁)
Because there is a life, we take it.
Because we live, we kill.
命なんてものがあるから、それを奪い合う。
生きているから、殺し合う。(183–184 頁)

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