dimanche 18 juin 2023

ハーヴェステラ資料翻訳集成 (2) 楽園の終わり 四十一篇『遡行』

本稿では「楽園の終わり 四十一篇『遡行』」を対象とする。順番からいけば「十二篇」を扱うべきところだが、それについては前回簡単に触れてしまったのと、その意味するところは『楽園の遺書の断片』で種明かしがなされてしまっているので、新しく語りうることが少ないと思われたからである。

全体の目次リンクは「序論」冒頭部をご参照いただきたい。


日本語版:楽園の終わり 四十一篇『遡行』

楽園の終わりと呼ばれる説話集のひとつ。

『その楽園では 遡行を求めた……。

 赤き蛇が やってきた頃
 その楽園には 赤子の骸しかなかった。

 「時の遡行は 偽りだ。」
 「この場所にはなにもない。
  こんなものでは 私のイヴは……」

 罪人が赤き蛇を見ていた。
 罪人は 自らの罪を告白する。
 蛇は つまらなさそうに嘆息すると
 罪人に 銀の林檎を渡した。

 かくして罪人もまた楽園を後にした……』

日本語版の分析 (1):遡行の真実


「赤子の骸」と言われると非常にショッキングな絵面ではあるが、これは文字どおりの嬰児殺しではない。『遡行』と題されているこのエピソードの真実は、一言でいえば『ベンジャミン・バトン』(The Curious Case of Benjamin Button) であろう。この映画ないし短編小説をご存知ないかたのために簡単に説明すると、生まれたときに 80 歳の老人の姿であった表題の人物が、年を経るごとにだんだん若返っていって、最後には赤子の姿となって老衰で死ぬという設定である。

したがって、ここに言われている赤ん坊の遺体というのは、実際には寿命で死んだ老人たちということになるはずで、それほどおぞましい話ではない。あるいはベンジャミンよりももっと急速に若返ってしまったのかもしれないが、ともかく赤子殺しはなかったという結論じたいは動かないであろう。

体が若返っていくことを「遡行」と呼んだとして、これは世界の時間そのものを巻き戻せたわけではない。「赤き蛇」とあだ名される赤髪の青年が落胆しているのもそれが理由である。彼はおそらく、イヴが病気になるまえの時点にまで戻ってその原因を排除する、といったことを夢見ていたのだと思われる。「こんなものでは私のイヴは……」のあとには、「助けられない」といった主旨の言葉が予期される。


日本語版の分析 (2):楽園を滅ぼさぬ蛇


この第 41 篇の描く楽園は、青年が訪れた時点ですでに破滅していたという点が特徴といえるかもしれない。といっても私たちの知りうるのはたった 5 篇ではあるのだが、枠物語の外枠にも似た最初の第 1 篇と最後の第 118 篇を除けば、各篇は青年がひとつの楽園を訪れてはそこがなんらかの原因で滅びていく、という構成になっているはずであると、『プロジェクト凍結のお知らせ』の記す「寓話製造プロジェクト」の趣旨に従えばそのように想定されるのである。

ところでイヴ・楽園・蛇といったキーワードは明らかに旧約聖書の失楽園の物語にもとづいている。いま私は、現実世界においてシナリオライターはそれを元ネタにしたのだ、というメタ的な話をしているのではない。『ハーヴェステラ』の作中の地球=ロストガイアはフィクションではあるが現実の地球をモデルにしており、その世界には旧約聖書もあった (現にアリアが言及している)。したがって作中の『楽園の終わり』の書き手や読み手がもつであろう蛇に対するイメージもその影響を引きずっており、私たちの思うそれといささかの違いもなく、基本的には「楽園の暮らしを終わらせる元凶」たる悪者として観念されていると思われる。そのように考えると、第 41 篇の顛末が特異だと推定したくなるのも道理であろう。

だがこの寓話集の裏面には現実の楽園群に起こった史実があることを忘れてはならない。プロジェクトの趣旨から見て、楽園滅亡の原因については虚構はないはずであることを再確認しよう。したがってソフィアがこの寓話集を書いたとき、蛇というものは楽園を擾乱するものだという固定観念がいかに強力でも、事実を曲げてまで蛇を元凶に仕立てることは許容されなかったわけである。青年以外の原因によって滅びた楽園については、そのとおり記さなければならないという制約があった。そうすると案外、『楽園の終わり』には赤き蛇が原因で滅びるエピソードは多くないのかもしれない。

滅亡原因を偽ることができない以上、滅亡に彼が加担していないような楽園においてまで銀の林檎を原因かのように物語ることは寓話集制作の趣旨に真っ向から反してしまう。そのように考えてみると、じつはこの第 41 篇の結末の情報不足も理解できるように思われるのである。


日本語版の分析 (3):罪人は林檎を食べたか


赤髪の青年はすべてが終わったあとの楽園に到来して、ただひとり残っていた「罪人」に林檎を渡す。だが罪人ははたしてこの林檎を食べたのか、食べたならこの人になにが起こったのか。このエピソードで銀の林檎の作用についていっさい触れられていないことは、第 12 篇や第 75 篇と鋭い対照をなしており、大きな問題である。最終行では例に漏れず「罪人もまた楽園を後にした」からには、おそらく死なずに「棺の国」に参加したのかもしれないが、その決断が林檎と関係があるのかどうかもわからない。それに第 118 篇の表現と比較すればここで「罪人」は死んだという解釈も成り立ちうる。本当のところ生死さえ定かでないのである。

このあやふやさの原因こそ、以下の点に求められるのではないか。この楽園において、青年と林檎は滅亡になんら関与していない。それは史実である。それでも連続する全 118 篇の寓話集という体裁をとる以上、全体を引っぱる役割を担うシンボルである赤髪の青年と銀の林檎が不在では物語の結びつきが損なわれてしまう。そこで実際には役割を果たさなかったものを無理やり登場させたために、具体的なことをなにも語れなかったということは考えられないだろうか。

すなわち、本当は銀の林檎は渡されなかった、あるいはそもそも赤髪の青年は 41 番楽園を訪れなかった、という可能性さえ浮かんでくる。ただ、第 1 篇で論じたように私の理解ではソフィアにそこまで自由な物語の改変はできなかったと考えるので、後者は少々行きすぎである。この第 41 篇には失望した青年のセリフが 3 行用意されているが、これは本当に青年が語った言葉であるとみなしたい (供述資料説)。

これに対して林檎が渡されなかった可能性は十分あるとみている。理由は 2 つで、林檎が本当に使われたなら口にした結果まで記すほうが自然であるというのがひとつ。もうひとつは、「蛇は楽園の住人に林檎を食べることをそそのかすもの」との聖書的常識を知悉しているソフィアが、この定式を全編にわたり墨守することに凝り固まっていた、ということはいかにもありそうだからである。あるいはソフィアがそのように頭が固いのでないとしても、寓話集としての統一性を保つために意図的にそうしたのだと考えてもよい。そしてこのように考えてこそ、この第 41 篇における林檎の役割の空疎さに説明がつくというのが私の見解である。


英語版:End of Eden XLI: Time Travel

A story from The End of Eden:
“The Eden that sought time travel...
By the time the red serpent arrives,
there was naught but the corpses of
babies. ‘Time travel is a lie.’
‘There is nothing here. My Eve would not
be in such a place...’ The sinner looks
to the snake and confesses their sins.
The snake yawns, disinterested, and
hands them a silver apple. And so, the
sinner, too, left paradise behind...”

フランス語版:Fin d’Eden : Rétrospective

Une histoire tirée de la Fin d’Eden :
« L’Eden qui convoitait le voyage dans
le temps... Lorsque le serpent rouge
arrive, l’Eden est jonché de cadavres de
nourrissons. “Le voyage dans le temps
est un mensonge.” “Il n’y a rien ici.
Jamais mon Ève ne viendrait dans ce lieu
maudit...” Le pécheur se tourne vers le
serpent et confesse ses péchés. Le
serpent, indifférent, bâille et lui tend
une pomme argentée. Et c’est ainsi que
le pécheur quitta également le
paradis... »

ドイツ語版:Edens Ende XLI: Zeitreise

Eine Geschichte vom Ende Edens: „Das
Eden, das Zeitreisen suchte ... Als die
rote Schlange eintraf, gab es nichts
mehr als die Leichen der Babys.
‚Zeitreisen sind eine Lüge.‘ ‚Hier ist
nichts. An so einem Ort würde sich meine
Eva nicht aufhalten ...‘ Der Sünder sah
zur Schlange und beichtete seine Sünden.
Die Schlange gähnte gelangweilt und
reichte ihm einen silbernen Apfel.
So verließ der Sünder das Paradies ...“

スペイン語版:Fin de Eden XLI: Viaje temp.

Historia del fin de Eden:
El Eden que buscó viajar en el tiempo...
«Cuando la serpiente roja llegó, no había
más que cadáveres de bebés. “Los viajes
en el tiempo son mentira”, “No hay
nada aquí, mi Eva no se quedaría en un
lugar así...”. El pecador mira a la
serpiente y confiesa sus pecados. La
serpiente bosteza y le da una manzana
plateada. Y así, el pecador también
abandonó el paraíso...».

欧米語版の分析:行方知れずになったイヴ


まずはタイトルについて一言。英語版の Time Travel およびそれを訳した独 Zeitreise, 西 Viaje temp[oral] は文字どおり「時間旅行」であって、あまり適切ではないように思われる。どうやら英語では「遡行」を名詞 1 語で表すことが難しいようだ。フランス語の Rétrospective は文字どおり「後ろを (rétro-) 見る (spect-)」というわけで「回顧」の意味だが、ただ振りかえって見るだけではこれも「遡行」とはズレがある (また本文第 1 行では仏訳も「時間旅行」le voyage dans le temps と言っている)。同じ retro- を使うのであれば、私としては英訳に retrogression「後戻り、逆行」を提案したい。

「罪人」の性別は英語版では単数の they を使うことで明示を回避している。しかしこの努力にもかかわらず仏・独・西訳は男性の罪人にしている。なおこの「罪人」を表す語、英 sinner, 独 Sünder, 仏 pécheur, 西 pecador は法的な「犯罪者」ではなくて、道徳的・宗教的な「つみびとを表す語であることは注目に値する。とはいえこれをもって楽園時代に国家の法が機能していなかったとまでは言えまい。わかるのは、刑法上も罪になったかもしれないがそれ以上に道義上の罪咎をここでは問題にした、ということだけである。

「赤子の骸」のくだりについて、英・独・西は日本語版と同じく「〜しかなかった」を直訳しているが、フランス語版だけはそのショッキングさを引き立てるように「その楽園は乳飲み子の骸で埋めつくされていた」と言っており、これと関連して青年の発言中「この場所」にあたる部分に「呪わしき」という形容詞が付け足されている。次に述べる相違点ともあわせて、フランス語訳には強く感情が出ているといえる。

翻訳中もっとも大きな違いは青年のセリフの最終行である。日本語では「こんなものでは私のイヴは……」という部分が、英語では ‘My Eve would not be in such a place...’「私のイヴならこんな場所にいはしないだろう」となっている。またドイツ語とスペイン語もおおよそ同義だが、独 sich aufhalten, 西 quedarse という、つまり「とどまる、居残る」という再帰動詞を使っていて、いくぶん長い時間の滞在 (をしないこと) を考えている。そしてフランス語訳は上述したとおり maudit「呪われた」という形容詞と jamais「決して」という語を、それも文頭に出してきわめて強調しているほか、動詞に venir「来る」を用いているという違いがある:「私のイヴならこんな呪わしき地に来ることは絶対にありえないだろう」。

ちなみに動詞は英語では仮定法 would になっており、それを反映してドイツ語訳は接続法 II 式 würde、スペイン語は直説法過去未来 se quedaría、フランス語は条件法現在 viendrait である。いずれも仮定の感じが隠されていて、「私のイヴだったら」こんな場所にいたり来たりとどまったりはしないという表現である。イヴはいま青年とともにいないということがこの活用形だけで読みとれるわけだが、それに関連してもっと根本的な問題がある。

このように動詞からしてさまざまに食い違うのは、そもそも日本語が「イヴは……」というふうに述語をぼかしていたことが原因である。そしてそのせいで英訳者は文意を正しく汲みとれなかったと見える。いないもなにも、べつに青年はイヴを探しているのではなかったはずだ。イヴの居場所は最初からわかっており、彼はイヴの治療法を探して旅に出たのである。日本語版の原文は「こんなものでは」であり、つまりこの楽園の研究成果である「遡行」によっては「イヴは助けられない」という話だったはずだが、欧米語版ではイヴが行方不明になってしまったようだ。

改めて考えてみれば、日本語の「もの」と「こと」の区別は母語話者にとっても難しい。まして英語話者から見ればどちらも thing である。かりにここを「こんなことでは私のイヴは……」と思ってみると、「見つけようがない」と続いたとしても不自然ではない。それでも「……」の続きが具体的であれば困難はなかっただろうが、この言葉足らずのために解釈が難しくなり、誤訳が生じてしまったのかもしれない。

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