jeudi 2 août 2018

『フラテイの暗号』冒頭による重訳の影響の検証

前回のエントリでは、ここ数年のアイスランドの小説の邦訳を目につくかぎり列挙し、それらが例外なくほかの言語を介した重訳である事実に触れた。そのとき重訳であることは残念とはいえ、実際上にたいした問題が起こっていることはなかろうというようなコメントを述べた。

しかしもちろんそのような結論を責任をもって出すためには、ちゃんとアイスランド語原文とドイツ語なりスウェーデン語なりの訳文、それから最終的な日本語訳の訳文とを比較検討したうえでというのが正道である。原文を読みもしないでこういうことを言うのは無責任だ。

そこで今回はヴィクトル・アルナル・インゴウルフソン、北川和代訳『フラテイの暗号』(創元推理文庫、2013 年) を題材にとって、アイスランド語原文・ドイツ語訳・日本語訳の 3 者がどれくらい一致しているものか、あるいはどれくらい乖離しているか説明してみることにする。

対象の選択は、私が原典と一次訳 (ドイツ語訳) と邦訳との 3 点をセットで所有しているのがこの作品だけだからであって、とくに他意はない。この作品の重訳についてなんらかの結論が引きだせたとして、それはあくまでこのドイツ語訳と日本語訳の質の問題であって、ほかの 4 人の著者の作品について同じことが言えるともかぎらないのであるが、とりあえずは具体的な比較をお目にかけよう。

引用は第 1 章の最初の 3 段落である。当初は第 1 章全体 (原文で 4 ページ、日本語訳の文庫本で 6 ページ) を対象にしようと思っていたが、3 段落 (1 ページ少々) の時点ですでにけっこうな違いがあることが判明したので、これで十分おもしろい比較になるかと判断した。

読者が比べやすいよう、アイスランド語とドイツ語にはできるだけ過不足のない直訳を付した。なるべく直訳から離れないようにしたかったので、原文にないが日本語にするための最低限の敷衍は亀甲括弧〔……〕に入れて示してある。そのうえでドイツ語訳における変更点は赤字、日本語訳で新たに生じた変更点は青字にして見やすくした。変更点のうち前のものと比べて消えてしまっている箇所 (対応しうる語が明らかに足りない場合のみ) を示すさいはアンダースコア__によった。アイスランド語中の赤字はドイツ語訳で変更または消えることになる部分を表す。

なお、邦訳と関係がないので全文は掲げないが、アイスランド語原文の理解のため英訳 (Brian FitzGibbon 訳、2012 年) を一部参考にし、そのたびに注釈で言及する。


アイスランド語原文 (2002 年)

Vindátt var að austan á Breiðafirði í morgunsárið og svalur vornæðingur ýfði upp hvítfyssandi báru á sundunum milli Vestureyja. Einbeittur lundi var á hröðu lágflugi yfir öldutoppum og forvitinn skarfur teygði úr sér á lágu skeri. Nokkrar teistur köfuðu í hafdjúpið en í háloftunum svifu íbyggnir mávar og skimuðu eftir mögulegu æti. Allt sköpunarverkið í firðinum var í senn kvikt og vakandi í glampandi morgunsólinni.

Lítill en traustbyggður mótorbátur steytti stömpum á kröppum bárum og fjarlægðist Flateyjarlönd í suðurátt. Fleytan var með gömlu árabátalagi, svartbikuð, en á kinnungunum stóð bátsnafnið KRUMMI með stórum hvítum upphafsstöfum. Skipverjar voru þrír, ungur drengur, fulltíða maður og annar talsvert eldri. Þrír ættliðir og heimilismenn í Ystakoti, lítilli hjáleigu á vesturhorni Flateyjar.

Sá elsti, Jón Ferdinand, sat í skut og stýrði bátnum. Hvítir skeggbroddar í teknu andliti og svartur neftóbakstaumur rann úr víðri nös. Nokkrar gráar hárlufsur löfðu undan gamalli derhúfu og leituðu fyrir andlitið undan vindi. Stór og beinaber hönd hélt um stýrisskaftið og gömul augu undir loðnum brúnum leituðu að lítilli eyju í suðri. Siglingaleiðin var ekki augljós þrátt fyrir að skyggnið væri gott. Hólma og sker bar við meginlandið en Dalafjöllin sátu í bláu húmi þar fyrir handan.

明け方、風向きは東からブレイザフィヨルズルへ〔向けて〕で、冷涼な春風が西の島々のあいだの海峡で泡立つ波をかきまわした。決然としたニシツノメドリが、波頭の上を高速で低空飛行していて、物見高い鵜が低い岩礁の上で〔=羽または首。注 1〕を伸ばしていた。数羽のハジロウミバトが海の深みへ潜る一方、その高空では賢しらなカモメたちが浮かび〔注 2〕、獲物たりうるものを求めて見張っていた。フィヨルドにいるすべての被造物が、きらきら光る朝日のなかで同時に生き生きとしてかつ活発であった。

小さいが頑丈に作られたモーターボートが狭い波間で樽にぶつかり〔注 3〕、フラテイの陸地から南に遠ざかっていった。その小舟は古い手漕ぎ舟の形〔?。注 4〕を備えており、黒くタールで塗られていたが、船首には大きく白い大文字で „KRUMMI“ (大ガラス) という船の名前があった。乗組員は三人、年若い少年と、成人した男性、そしてもうひとりずっと年長の〔男〕であった。三世代の、フラテイの西端にある小さな貸家「最果て小屋」に〔住む〕一家の男たち〔である〕。

その最年長〔の男〕ヨウン・フェルディナンドは、船尾に座って船を操っていた。とられた〔??。注 5〕顔には白いひげでざらざら、黒い嗅ぎタバコの taumur〔注 6〕が広がった鼻の穴から流れでていた。数房の灰色の髪束が古い帽子からだらりと垂れ下がり、風のもとで顔のまえを探っていた〔注 7〕。大きくて骨と皮ばかりの手が舵の取っ手をつかみ、毛深い眉の下の老いた両目は南にある小さな島を探していた。路は明らかではなかった、たとえ視程がよかったとしても。小島や岩礁を本土のそばに抱えた一方、ダーリルの山々がその向こうがわで青い薄明のなかに鎮座していた。

〔注 1〕原文では再帰代名詞なので体のどの部分とは言っていない。現実の生態としてウミウは休むとき羽を広げることがあるそうだが、forvitinn「物見高い、好奇心の強い」という形容詞からすればここは首を伸ばしていると考えるほうがそれらしいのではないか (あるいは少なくとも首をも含めた体全体)。しかし下記のとおりドイツ語訳ではその形容詞が失われ、伸ばす箇所が「翼」と限定されている。

〔注 2〕svifu 過 3 複 < svífa「漂い [ふわふわ] 動く、浮かぶ」という動詞が、独訳では kreisen「旋回する」というはっきりした軌跡をもった動きに変わることになる。

〔注 3〕この箇所、独訳はおろか英訳 (‘tackled the choppy waves’) にもまるで対応しないので私の誤訳の可能性大。steytti は steyta「衝突する」の過去 3 単、stömpum は stampur「桶、たらい;樽」の複数与格だと思うのだが……。

〔注 4〕árabátalagi の語義は調べがつかなかった。どうやら árabátur という種類の小舟があって (アイスランド語版 Wikipedia に写真もある)、その lag がどうたらということだが (lagi はその与格)、これが「層;形;順番」などなど多義語でよくわからない。下に見るとおりドイツ語訳ではこの前後をかなり敷衍して訳している。英訳もこの箇所は比較的自由に訳しており、‘a converted old rowboat’ と古い漕船を改装してモーターボートにしたものと解されている。

〔注 5〕teknu は強変化ならば tekinn の中性単数与格でしかありえず、それは動詞 taka「とる、つかむ、得る」の過去分詞である。独訳では「皺の刻まれた zerfurchten」となるが、tekinn にそのような意味があるのか当方では根拠が得られなかった。「つかまれた=くちゃくちゃになった」? 参考までに英訳 ‘his hollow face’ =「落ちくぼんだ、うつろな」。

〔注 6〕taumur は「馬勒、手綱」の意だが、それではどうも話が通らない。もしかして嗅ぎタバコの粉で色が染みついて鼻輪かなにかのようになっている様子かとも想像するが飛躍しすぎか。後述するようにドイツ語訳では Striemen「ミミズ腫れ」、日本語訳では「ヤニが混じる鼻汁」になる。なお英訳ではこの複合語の第 2 要素にあたる部分が消え、単純に嗅ぎタバコ (の粉末) が鼻から漏れていることになっている。

〔注 7〕これもどうやら怪しいが、次の文にも出る leituðu は leita の過 3 複で、アイスランド語のアイスランド語辞典で確認してもこの動詞には「探す」とそれに類する意味しか見あたらない。英訳 ‘groping for his face’「手探りする、まさぐる」はこれに味方している。他方「顔のまえを」というのもあやふやで、これだけでは髪束が顔面をまさぐっているのか、それとも背中からの風で目のまえの空中を暴れているのか 2 通りに読める。しかし第 1 段落に東からの風とあり、フラテイから目的地ケーティルセイへは南東方向なので、向かい風で顔にあたる前者のほうが蓋然性が高いであろう。そのためもあってか独訳・邦訳の描写ではそちらに固定される。


ドイツ語訳 (Coletta Bürling 訳、2005 年)

Ein scharfer Ostwind blies in der Morgenfrühe über die weite Bucht des Breiðafjörður und wühlte das Meer zwischen den westlichsten Inseln zu weiß schäumenden Kämmen auf. Ein Papageitaucher flog konzentriert in schnellem Tiefflug dicht über der Wasseroberfläche dahin, und ein Kormoran breitete auf einer flachen Klippe die Flügel aus. Einige Gryllteisten tauchten in die Tiefen des Meeres ab, während hoch oben Möwen kreisten und nach möglicher Beute Ausschau hielten. Die gesamte Tierwelt des Fjords tummelte sich in der strahlenden Morgensonne.

Ein kleines, aber stabiles Motorboot hatte von der Insel Flatey abgelegt, Kurs in südliche Richtung aufgenommen und schlingerte jetzt auf den eiligen Wellen. Es war gebaut wie die alten Ruderboote, mit denen man in früheren Zeiten zum Fang ausgefahren war. Am Bug des schwarz geteerten Fahrzeugs stand der Name RABE mit einem großen weißen Anfangsbuchstaben. Drei Menschen befanden sich in dem Boot, ein kleiner Junge, ein Mann mittleren Alters und einer, der sichtlich älter war. Drei Generationen, die alle in Endenkate zu Hause waren, einem kleinen Hof am westlichen Ende von Flatey.

Der Älteste hieß Jón Ferdinand. Er saß im Heck und steuerte das Boot. Weiße Bartstoppeln standen in einem zerfurchten Antlitz, und aus den weiten Nasenlöchern rannen schwarze Schnupftabaksstriemen. Die grauen Haarbüschel, die unter der alten Schiffermütze hervorguckten, wehten ihm ins Gesicht. Seine große knochige Hand hielt die Ruderpinne mit festem Griff, und die alten Augen hielten unter buschigen Brauen Ausschau nach einer kleinen Insel im Süden. Es war nicht einfach, den richtigen Kurs zu halten, auch wenn die Sicht gut war. Die vielen Inseln und Schären hoben sich gegen das Festland ab, und jenseits von ihnen lagen die Berge von Dalir in blauem Dunst.

早朝、激しい東風がブレイザフィヨルズルの広い湾の上を吹き渡り、西の島々のあいだのを泡立つ波頭を立ててかきまわした。ニシツノメドリが集中して水面のすぐ上を高速で低空飛行していて、____鵜が低い岩礁の上でを広げていた。数羽のハジロウミバトが海の深みへ潜るかたわら、上空では____カモメたちが旋回し、獲物たりうるものを求めて見張っていた。フィヨルドのすべての動物界が、輝く朝日のなかではしゃぎまわっていた。

小さいが頑丈なモーターボートがフラテイ〔注 1〕から離れて針路を南の方角にとり、いまや速い波の上で横揺れしていた。それは以前の時代に漁に使われていた古い漕船のような作りだった。黒くタールで塗られた船体の舳先には、大きく白い大文字で RABE という__名前があった。三人の男が小舟には乗っていた、小さな男の子、中年の男〔注 2〕、そして見るからに年配の者であった。みなフラテイの西端の小さな農家、「最果て小屋」に住んでいる三世代〔である〕。

最年長〔の男〕はヨウン・フェルディナンドという名前だった。彼は船尾に座りボートを操っていた。白い無精髭が皺の刻まれた顔にあり、広い鼻の穴〔注 3〕からは黒い嗅ぎタバコの Striemen〔注 4〕が流れでていた。古い船乗り帽の下から覗いた___灰色の髪束が彼の顔に吹きつけていた。彼の〔注 5〕大きくて骨ばった手はしっかりした握りで舵柄をつかみ、老いた両目は毛深い眉の下で、南にある小さな島を求めて見張っていた。__正しい針路を保つこと容易ではなかった、視界がよかったとしても。本土の向かいには多数の島々と岩礁〔注 6〕が浮かびあがっており、それらの向こうがわにはダーリルの山々が青い〔注 7〕のなかに横たわっていた。

〔注 1〕Flatey の ey がアイスランド語で「島」の意味なので、「フラテイ島 Insel Flatey」はちょうど「サハラ砂漠」にも似た重言である。もっともサハラもそうだがなじみのない言語の固有名詞ではこういう配慮はよくあるので、べつだん誤訳とは言えないだろう。なぜか次の Flatey では「島 Insel」を付していないが、日本語訳ではそちらも「フラテイ島」になる。

〔注 2〕「成人、大人」(fulltíða, ドイツ語で言えば erwachsen) と「中年」とでは言葉の与える印象がだいぶ変わってくる。べつに事実として彼は中年であるのかもしれないが。英訳では ‘a grown man’ で直訳。

〔注 3〕原文 víðri nös は単数与格であるのに、独訳では den weiten Nasenlöchern と複数 3 格になっている。この結果次に見る日本語訳でも「鼻の穴の両方」と変わる。

〔注 4〕この語、どう調べても「ミミズ腫れ」という語義しか見あたらないのだが、どうして日本語訳は「ヤニが混じる鼻汁」にできるのだろうか。たしかにそう考えると前後が自然に流れるとは思うが……。私は嗅ぎタバコの実物を見たこともないので、鼻水が黒くなるものなのかどうか知らない。

〔注 5〕一般論として、ドイツ語や英語・フランス語などが所有形容詞 (所有代名詞) を使って言うところを、北欧語では文脈から明らかならばわざわざ所有詞を添えずに名詞の既知形 (定形) だけでもって代えることが多いが、この箇所ではアイスランド語原文は未知形であるにもかかわらず独訳が所有形容詞を独自に補ったところが指摘される。

〔注 6〕アイスランド語原文で「小島と岩礁 hólma og sker」は、対格でいずれも単数と複数とが同形であり、対格目的語のため文の動詞の形でも区別がつかない。もちろん文脈から言えば複数だろう。ドイツ語訳ではこれを主語に据えかえたうえ、原文にない「多数の vielen」の語を補っている。日本語訳ではこれがさらに「無数の」と誇張される。

〔注 7〕原文では「薄明、薄暗がり húm」だったのが独訳で「靄、霞 Dunst」に変わり、これが邦訳に受けつがれる。なお英訳では ‘dusk’。原語の húm は夜明けと日暮れ両方の意味がある薄明るさのようだが、いまは早朝とはっきりしているので dusk は変ではないか?


日本語訳 (北川和代訳、2013 年)

早朝、西に大きく開けたブレイザフィヨルズル強烈な東風が吹き渡り、無数に点在する___島々のあいだの海に白い波を立たせていた。パフィンという愛称で知られる、ピエロのように滑稽な顔をした〔注 1〕ニシツノメドリが____、水面ぎりぎりを猛烈な速さで飛び去り、____ウミウが低い岩壁で漆黒のを広げている。ハジロウミバトが数羽、海中深くをめざして潜水するその上空では、____カモメが一羽〔注 2〕、旋回して獲物____に目を光らせている。フィヨルドに棲むありとあらゆる種類の生き物は、輝く朝日を浴びて大はしゃぎしていた。

一艘の頑丈そうな〔注 3〕小型モーターボートがフラテイを離れ、波にもまれて南に進路をとっていたその昔、人々が漁に使った旧式のゴムボート〔注 4〕に似た小型艇だ。タールを塗った黒いボートの舳先には、大きな白い_文字で〝カラス号〟と船名〔注 5〕が書かれている。ボートには男が三人乗っていた。少年と中年男性、そして見るからに年老いた男の三人だ。フラテイの西端の、〝最果て小屋〟と呼ばれるみすぼらしい家に暮らす三世代の男たちだった。

祖父の名をヨウン・フェルティナントという。そのヨウン老人艫に座ってボートを操縦していた。皺が刻まれた顔に白い無精髭を生やし、大きな鼻の穴の両方から、嗅ぎ煙草のヤニが混じる黒い鼻汁が流れだしている。__船乗り帽からはみだした灰色の髪束が風に吹かれ、顔を打っていた。ごつい〔注 6〕手で舵をしかと摑み、濃い眉の下の老いた瞳で南に浮かぶ小島を見すえている〔注 7〕。たとえ視界が良好でも、__針路真っ直ぐに保つこと容易ではなかった。陸地を背景にして無数の〔注 8〕島々や岩礁が際立っている。その遙か向こうには、立ちこめる青白いの中にダーリル地方の山々が横たわっていた。

〔注 1〕ニシツノメドリに関する長い追加説明はすべて日本語訳者の挿入。私じしんもそうだがニシツノメドリと聞いてピンとこない人のための補足であって、これじたいは目くじらを立てるには及ばない。次のウミウに関する「漆黒の」と、冒頭の「西に大きく開けた」も同様。そもそも本稿では重訳に伴うトラブルを検証しているので、ドイツ語文になく日本語訳がまったく新たに導入している変更はかならずしも問題視するものではない。それは日本語の翻訳作品としての翻訳家ひとりひとりの方針の問題である。

〔注 2〕アイスランド語・ドイツ語ともに「カモメ mávar, Möwen」は複数 (もちろん英訳 seagulls も)。日本語でどうしても 1 羽に変えたい理由は考えられないし、ケアレスミスではないか。

〔注 3〕なぜか主観的な推測のように言われているが、大元のアイスランド語 traustbyggður は英語に直訳すれば trustfully-built、そのような造りであることは事実として描写されていると思われる。そこからドイツ語の stabil というあっさりした形容を経て「頑丈そう」に変わることはまさに伝言ゲームの弊害といえる。

〔注 4〕原文にもドイツ語にもゴム製とは書いていないし、アイスランド語原文の注 4 にリンクを載せた árabátur の写真を見ても、「ゴムボート」という言葉から想像されるものとはだいぶ違っている。ただしもし前時代 (本文の時代設定が 1960 年なので、それよりさらに数十年まえか) に当地の漁でゴムボートを使っていたという事実があってこう訳されたのだとしたらすみません (もっとも「前時代 in früheren Zeiten」前後の語句がまるっきりドイツ語訳の挿入なので、こういう難しさが生じることじたい重訳のせいである)。

〔注 5〕アイスランド語にあったのにドイツ語訳では消え、日本語訳では偶然にも復活している「船」の字。

〔注 6〕「ごつい」という俗語はたしかに「大きい」と「骨ばった」の両方を一言で表現できているように見える。しかしここの原文は „stór og beinaber“ で、beinaber という語は Boots, Íslenzk-Frönsk orðabók だと « étique, qui n’a que la peau et les os »「皮と骨しかない、がりがりにやせた」と説明されている。この老人の手は大きいが年相応にやせ衰えた感じなのだろう。それがドイツ語訳の „große knochige“ になった時点でいくぶんか変容し、「ごつい」になるに及んで力強く頑健な印象に変わっている。

〔注 7〕アイスランド語では明らかにまだあっさりと「探していた leituðu」だったのに (なお英訳も ‘searched for’)、ドイツ語訳で「〜の出現を (期待して) 見張っていた hielten [...] Ausschau nach ...」と若干前のめりになった。それが日本語訳では「見すえている」と、すでに視野に捉えている感じである。フラテイからケーティルセイまでは直線で 20 km くらいのようだが、この時点で見えているものかどうか私にはわからない。しかし次の文で richtig「正しく」を即「真っ直ぐに」と言うのはこの間近に見えていることを前提とした訳かもしれない。

〔注 8〕すでに独訳のところで述べたように、アイスランド語になくドイツ語で追加された「多数」が「無数」へと強調される。次の文の「遙か」とあわせ、いずれも日本語訳で加わった誇張。

さて注 5 のようなまれな例外を除けば、2 度の訳のたびにいくつもの変更点が加わり蓄積することで、重訳では赤字青字をあわせれば原文と比べて少なからぬ割合の変化を被っていることがわかる。これを重大と考えるかどうかは人によるだろう。

本作の場合、意味に関わる変化では独 → 日よりも、そのまえの氷 → 独における削除のほうがとくにひっかかるように私個人としては感じる。なんのことはない情景描写とはいえ、このように細部の性格が省略されてしまうのでは今後どうなるかわかったものではない。重訳を行う場合、どの翻訳をもとにするかは最終的な出来にとって一大決定になるということである。

人間の業である以上どんな翻訳にも不行き届きはいくつもあるはずであり、訳を重ねるほどその数も質の重大さも累積していくことは当然のことである (たとえば単数・複数の取り違えというつまらないミスをとっても、この短い範囲に氷 → 独と独 → 日で 1 度ずつ生じ、結果として間違いは 2 つになっている。それ以外の質的な違いについては上記の注を細かく読まれたい)。そうである以上、もしアイスランド語に十分に習熟した翻訳者がいるのであれば直接訳が望ましいことは言うまでもない。

最近のアイスランド文学の翻訳一覧

この 2010 年代に入ってアイスランドの大衆文学というのか、要するにふつうの娯楽小説がいくつか日本語にも翻訳されるようになっているが、どうにもアイスランド語から直接翻訳したものというのはまったくないようである。

続々と出ているアーナルデュル・インドリダソン (Arnaldur Indriðason) のエーレンデュル警部シリーズ『湿地』『緑衣の女』『』『湖の男』(柳沢由実子訳、2012 年〜) はスウェーデン語からの重訳だし、ヴィクトル・アルナル・インゴウルフソン (Viktor Arnar Ingólfsson)『フラテイの暗号』(北川和代訳、2013 年) はドイツ語から、イルサ・シグルザルドッティル (Yrsa Sigurðardóttir) の『魔女遊戯』(戸田裕之訳、2011 年) とラグナル・ヨナソン (Ragnar Jónasson) の警官アリ゠ソウルシリーズ『雪盲』『極夜の警官』(吉田薫訳、2017 年〜)、それに唯一推理小説ではないがアンドリ・スナイル・マグナソン (Andri Snær Magnason) による SF『ラブスター博士の最後の発見』(佐田千織訳、2014 年) と児童文学『タイムボックス』(野沢佳織訳、2016 年) は、すべて英語からの重訳である。(以上、著者名のカナ表記はすべて既訳書の記載に従ったため不統一のところがある。)

いま計 5 名の作家による 10 点の作品の名前をあげたが、アイスランド語の原典から訳したものはひとつもない。にもかかわらず大部分のカバーデザインにはアイスランド語の原題を配しているのだから奇妙な話である (上記のうち例外は小学館文庫から出ているラグナル・ヨナソンの 2 作のみ。『ラブスター博士』は原題から英語の LoveStar である)。やはり、一般の読者には読めないアイスランド語が書かれているほうが、いかにも珍しい感じがして箔がつくのだろう。

もちろん重訳だからといってただちに不正確だというものではないし、これらのうち大部分では訳者あとがきにて、「原著者はその訳本をチェックしているので信頼に値する訳だから問題はない」というような主旨のことが書かれている。それにアイスランド語の人名・地名の固有名詞はみなさんよくお調べになっていて、なるべく原語の発音に忠実なようにカタカナ表記されている。

そういうわけで、重訳であっても日本のふつうの読者にとって問題視するような欠点はあまりないと思ってよさそうだ。それでもある国の文学が紹介されるとき、原語からではなくべつの媒介言語をさしはさんでいるということ、直接に橋渡しのできる人材が足りていないということは惜しいことであるし、まだまだ日本とアイスランドには遠い距離が隔たっているという証左であり寂しく感じる。

もう半世紀以上もまえに、アイスランド人のノーベル文学賞受賞者 (1955 年) ハルドウル・ラフスネス (Halldór Laxness) の作品が、エッダやサガなどのアイスランド古典文学の専門家でもあった山室静らによって邦訳されたことがあったが (『独立の民』邦訳 1957 年、その他数点)、これはもしかして原典訳だっただろうか (現物未見)。山室に限らず古典文学については (東海大学北欧学科などの先生がたによって) 早くから比較的に充実した原典訳の蓄積があるわけであるから、いずれは現代の作品も扱える翻訳家が育ってくれればよいと願う。

〔同日追記。重訳であることで実際にどれほどの変化が生じるか、『フラテイの暗号』冒頭の部分で検証したエントリがこちら。〕

dimanche 1 juillet 2018

ファイアーエムブレム Echoes のラテン語

ただいま『ファイアーエムブレムヒーローズ』で行われている大制圧戦では『外伝/Echoes』のバレンシア大陸が舞台ということで、『Echoes』の作中でも見られた「古代文字」の書きこまれた地図が 3DS の画面よりも鮮明に拡大されて読むことができる。

この「古代文字」については過去の関連記事「ファイアーエムブレム Echoes のギリシア語」にていわゆるドーマの魔法陣を解読したときにも触れた。そのときこの「古代文字」を使って書かれていたのは現代ギリシア語であったが、この地図中では同じ文字がラテン語を書き表すのに使われている。

異なる言語に同じ文字体系が使われているということじたいある程度不思議なことであって、まじめに受けとるならば『Echoes』中の 2 言語の関わりあい、文字の伝播のしかたについて考察する材料になる事柄ではあるが (たとえば日本語が漢字を使っているのは中国からの影響であるように)、とりあえずいまは脇に置いておくこととする。

本稿ではこの地図中のラテン語がいかに間違っていて、本当ならどのように書くべきであったかということの検討・解説を行う。各語句が文法的にどのような点で間違っているかに応じて類型化し、簡単な説明を付してラテン語を勉強したことのない人にも論点が理解できるよう書いたつもりである。

最初に「古代文字」の解読結果、すなわちラテン文字に書きなおしたものをまとめて以下の図に示す。全体を 1 枚に収めた無修正の画像が見あたらないため、ここでは大制圧戦の画面で見られるかぎりの範囲、すなわちソフィア領の全域だけを対象とすることとし、この画面であいにく隠れてしまっている部分はほかの画像や設定資料集を参照して適宜補った。補った部分は図中で角括弧 [...] に入れて明示してある (煩雑なので解説中では省略)。



修飾語の不一致


Meridianus mare「南の海」。ラテン語の名詞類には、現代の多くのヨーロッパ語と同じく文法性がある。ラテン語では男性・女性・中性の 3 性。ここで mare「海」は中性名詞なので、これを修飾する形容詞は meridianum という形でなければならない。この地図のラテン語を書いた人はラテン語の初歩の初歩すら知らないことがわかる。

ついでに言えば、修飾する形容詞は後置するほうがふつうなので、mare meridianum がより望ましい。古典ラテン語は語順がわりあい自由なので、前に出しても絶対に間違いというわけではないけれども、少し強調の感じが出ることがある。


主格を並べただけの稚拙な修飾


この地図中の問題点のうちもっとも頻繁なパターンだが、ラテン語として扱いづらい固有名詞の関与するものを除けば、fur silva「盗賊は森」と mare fanum「海は聖域」(=海のほこら) の 2 例。さらにこの図では見切れているが、べつの画像を参照すれば西の端には silva fanum「森は聖域」(=森のほこら) という文字もあることがわかる。

ラテン語には格のシステムがあり、日本語だと助詞の違いによって表す「盗賊が」「盗賊の」「盗賊に」「盗賊を」のような文中での役割を、名詞の語尾の変化で言い表す。この格変化は英語では I, my, me のように人称代名詞にのみ残っているが、ラテン語ではありとあらゆる名詞がこのように変化する。Fur「盗賊」の語形変化は単数ならば主格 fur, 属格 furis, 与格 furi, 対格 furem, 奪格 fure, 呼格 fur である。

辞書の見出し語として載っているのは単数主格の形なので、文法を知らない人ががんばって辞書を引いても主格を並べることしかできない。しかし主格は「〜が」という役割の形であるから、主格を並べただけの fur silva では「盗賊の森」という意味にはならないのだ。英語で例えれば my house のつもりで I house と言うような間違いである。ここは「の」なので用いるべきは属格、それに盗賊は 1 人ではなかろうから複数属格を用いて silva furum と言うべきだろう。Mare fanum, silva fanum も同様で、「海/森の聖域」ならば fanum maris と fanum silvae,あるいは前置詞 in + 奪格を使って fanum in mari, fanum in silva のようにも書ける。

作中の固有名詞を含むこのパターンの事例は、Ram silva「ラム森」、Sofia silva「ソフィア森」、Sofia castrum「ソフィア城」、Sofia litus「ソフィア海岸」、Mira valles「ミラ谷」、Mira templum「ミラ神殿」、Geeth imperium「ギース指揮官」(=ギースの砦) と多岐にわたり、さらに見切れているが西の端には Dossey imperium「ドゼー指揮官」(=ドゼーの砦) と Ram vella「ラム荘園」(=ラムの村) があるはずである。

これを書いた人は、英語的な (あるいは日本語的?) 発想からこのように並べただけで地名になると思ったのだろうが、残念ながら固有名詞でもそうはいかない。こういうものを調べるときのアドバイスとして、辞書でだめならラテン語版 Wikipedia の項目名を参考にするという手段がある。

たとえば森 silva の例であれば、ラテン語版 Wikipedia の検索ボックスにこの語を入れてみると、イタリアのコムーネのひとつセルヴァ・ディ・カドーレがラテン語式には Silva Catubrii もしくは Silva Catubrina と呼ばれていることが知られる。この地名は「Catubrius の森」という意味で、名詞の主格 -us が修飾するときには属格 -i になるか、もしくは対応する形容詞形 Catubri-n-us が女性名詞 silva にあわせて女性単数主格形 -a になっているのである (形容詞ならば性数格が一致するから主格)。Castrum「城砦」の場合も、前方一致するものを見れば Castrum Lastrae, Castrum Minervae, Castrum Timiniani などのように、やはりあからさまに固有名詞の属格で修飾されている。

このような例にならうと、たとえば「ソフィアの森/城」は Silva Sofiae と Castrum Sofiae,「ミラの谷/神殿」は Valles/Templum Mirae のように書くべきことがわかる。しかし Ram, Geeth, Dossey のように一般的なラテン語からはかけ離れた語形の固有名詞である場合、どのように属格形を作ればいいかは容易ではない。私見では Rami か Ramis, Geethis くらいがしっくりくるように感じるが、Dossey はちょっといかんともしがたい。無変化名詞とみなし単純に後置するだけで妥協するか、あるいは前置詞を使うほうがよい。

ところで Geeth imperium と Dossey imperium,それから次項で見る meridiem imperium の例からして、Echoes 式ラテン語は imperium という単語で「砦」を意味しているようである (ギースとドゼーだけなら誰々の「支配領域」とも解せたが、南の砦が反例になる)。しかし研究社の羅和辞典でこの単語を引いてみると、「命令,指令」「権力,支配権,命令権」「支配,統治」「官職,職権;軍隊指揮権」「命令権者,指揮官,官吏」「領土,帝国」ですべてで、「砦」の意味はまったく見あたらない。「砦、要塞」はふつう castrum または castellum である。

また、Ram vella に見られる vella とは villa の別形だが、同じ辞典によればこの語では「別荘、田舎屋敷」「荘園、農場」のあとでいちばん最後に「村」の語義があがっており、「村」を意味するもっとも一般的な単語ではないことがわかる。ラムの村のような鄙びた小村の場合、vicus もしくは pagus を使うべきではないかと思われる。


突然の対格


Nova insulam「ノーヴァは島を」、Nova portum「ノーヴァは港を」、Sofia solitudinem「ソフィアは荒野を」、meridiem imperium「南を命令」(=南の砦)、harenam via「砂を街道」、montem fanum「山を聖域」(=山のほこら)。さらにこの大制圧戦の地図ではなぜか消えているが、作中ではアトラスの山の村のところに montem vella「山を荘園」という字があったはずである。

上でも少し触れたとおり、対格というのは「〜を」というときの語尾変化をした形である。ここでは実際のところ上記の例のうち大部分が、前項で指摘した主格 (同格) を並べただけという誤りと複合したパターンを呈している。つまり、主格を並べて作ったうえで一部を対格にしてしまっているというのがこれらの誤りかたである。

たとえば insulam「島を」は insula「島」の対格、portum「港を」は portus「港」の対格、solitudinem「荒野を」は solitudo「荒野」の対格である。本当なら Insula Novae や Solitudo Sofiae のように主格+属格で書くべきだったところ、ただ主格を並べただけの形を作ったうえ、さらに片方をなぜか対格にしてしまっているのである。

もっとも Nova はそのままでもラテン語らしさを感じさせるので (というかラテン語の nova「新しい」がノーヴァ島の語源そのものなのだろうが)、わざわざ固有名詞と見なして属格 Novae にするより Insula Nova (Nova Insula) のほうがラテン語っぽくは見える。このへんは好き好きでよい。いずれにしても対格 insulam や portum にはならない。

Meridiem imperium について、imperium の問題点は前項で述べたが、meridiem (meridies「正午;南」の対格) もわざわざ名詞の対格を使う理由はない。すでに「南の海」で meridianus という形容詞を知っているのだから、「南の砦」なら castrum (castellum) meridianum と言えばすむことであろう。

Harenam via「砂を街道」は意図が不明瞭だが、harena は arena の別形で「砂」という意味なので、「砂漠の (を通る) 街道」と言いたかったものか。「砂漠」の意味では複数形 (h)arenae が使われるようなので、per + 対格で via per (h)arenas と言えばよいかと思う。

Montem「山を」の主格形は mons、属格形は montis なので、「山の聖域」は fanum montis (あるいは in + 奪格で fanum in monte)、「山の村」は前述のこともあわせれば vicus montis (または vicus in monte) がよい。

それにしてもいったいどうしたらこんなことが突然起こるのか。この地図の「ラテン語」を書いた人は格の意味を知らないにもかかわらず、mons「山」を montem にするなど正しい対格形を作ることはできている。これはなにも知らない人が辞書を引いただけでできることではない (辞書には対格形は載っていないため。それなら前項のように主格を並べたものばかりになるはずである)。このようなちぐはぐさは、機械翻訳を不適切に用いていることを強く示唆しているように思われる。機械翻訳を使うなら使うで、正しい結果を出力しやすい使いかたがあるものである。


自由すぎる ut


Ut Rigel via「リゲルとして街道」、ut urbe via「都でように街道」。街道 via と共起しているところを見れば、おそらく「リゲル/都への」か「リゲル/都からの」のどちらかを意図したものだろう。Rigel は固有名詞でラテン語の屈折を受けていないため判断材料にならないが、urbe が奪格「都で/から」であって対格 urbem「都を/へ」でないことに鑑みれば、「からの」のほうが本来の意図だろうか。

といってもそれは書いた人が格の用法を知っていることを前提としての話であって事実はそうではなさそうだが、あくまでテクストを所与のものとしていちばんもっともらしく解釈すればそう読めるということ。

しかし接続詞 ut にそんな用法はない。「へ」であれば via ad urbem、「から」であれば via ab urbe または ex urbe と言うべきところである。Rigel のほうはラテン語にとっては外来語である固有名詞なので、Ram その他と同様に適切な変化形を作るのが難しい。ただしこの場合 ad や ab のような前置詞とともに使えば無変化でも混乱の心配はない。


突然の文


Sofia patet「ソフィアは開いている/通行可能である」、aqua repono asreas「私は水によって敷地をとっておく」、ただしここで asreas という単語は存在しないので areas と読んだ。いずれも名詞句ではなく、主語+動詞 (+目的語と手段) の完結した文になっている。地図に「私は〜」などと言われても困る。

この後者 aqua repono a[s]reas は、各語のばらばらの意味と水門の上に書いてあるところから推して、たぶん「貯水用地」などと言いたかったものか。しかるに repono「戻す、とっておく」という動詞の 1 人称単数の活用形を置いてしまい意味不明になっている (ラテン語では英語の I や you のような代名詞主語をふつう言わず、動詞の形だけで判断される)。主語は動詞のなかに含まれた「私」、対格 a[s]reas が目的語なので、残った aqua は主格「水が」でなく奪格「水で、水によって」ととらざるをえない。

正しくは「貯水池」なら羅和辞典の和羅の部にも aquae receptaculum と出ているので、これでよかろう。機械翻訳にかけるまえに紙の辞書くらい引いたほうがいい。とはいえ辞書だけあっても文法を知らなければ、属格にできず主格を羅列してしまったり形容詞を正しい形にできなかったりすることはここまで口を酸っぱくして述べてきたとおりであるが。

前者 Sofia patet も動詞 pateo の 3 人称単数を使った文でまったく意味不明だが、位置的にはたぶん「ソフィア平野/平原」と言いたかったものかと推測される。その場合、planities Sofiae もしくは campus Sofiae が適切。


脱字


Monaste < monasterium「修道院」、cemeterium < coemeterium「墓地」の 2 例。説明不要のたわいもないものである。Coe- を ce- にしてしまったのは英語の影響だろうから同情のしようもあるが、monaste で突如途切れて終わるのは自分で書いていてなにかおかしいと思わなかったのか? 英語でも monastery なのに。


突然の外国語


Cataconb < catacumba(e)「地下墓地」、cargo via「貨物街道?」、fur Gorat「盗賊ゴラト?」の 3 例。最初のものは、カタコンベ catacumba(e) を英語式の catacomb にしてしまったうえで、さらに日本人らしく「ン」の m を n と書き間違えている二重の誤り。

Cargo「貨物、積荷」は一見そのままでもラテン語っぽく見えなくもないが、これは後期ラテン語 carricare にさかのぼるスペイン語、あるいはそれを借用した英語。ゲーム内にもこのような地名は現れず、これが日本語でどういう意味のつもりで書かれたのか判然としない以上、ラテン語でなんと言うべきか考えようがない。Sarcina の派生語を使って via sarcinaria「荷物の道」もしくは via sarcinariorum「運搬人の道」とか?

Fur Gorat はいったいなんなのか輪をかけてわからない。ラテン語には go- で始まる単語はなく、辞書に載っているのはすべて固有名詞かギリシア語からの借用語 (ほぼすべて医学・生物学用語) であるから、Gorat もラテン語ではなく Echoes に出てくるなにかの固有名詞だろうか? 位置的にはこの場所はダッハと戦う海賊の砦であるから、ダッハかその英語名 Barth の開発段階における仮称かもしれない (ギース Geeth やドゼー Dossey も、実際の海外版の名前 Grieth および Desaix とは異なるつづりが使われていたことを思いおこされたい)。

前述のように Echoes 式ラテン語が砦を imperium と訳していることにならえば、お決まりの主格を並べた fur imperium「盗賊は命令」か、お得意の突然の対格を使って furem imperium「盗賊を命令」とでも言いそうなものなのに、ここだけ予測不能の名称になっていて解釈のしようがない。それにしても「盗賊を命令」のほうがよく言いたいことが伝わるとはなんたる皮肉か。念のため「海賊の砦」を正しく言えば castrum praedonum または piratarum のようになる。


唯一正しいもの


Terminus「境界」。ソフィアとリゲルの国境を表しており、ちゃんと主格を用いているし誤字脱字もない! すばらしい。文句なし!