この 2010 年代に入ってアイスランドの大衆文学というのか、要するにふつうの娯楽小説がいくつか日本語にも翻訳されるようになっているが、どうにもアイスランド語から直接翻訳したものというのはまったくないようである。
続々と出ているアーナルデュル・インドリダソン (Arnaldur Indriðason) のエーレンデュル警部シリーズ『湿地』『緑衣の女』『声』『湖の男』(柳沢由実子訳、2012 年〜) はスウェーデン語からの重訳だし、ヴィクトル・アルナル・インゴウルフソン (Viktor Arnar Ingólfsson)『フラテイの暗号』(北川和代訳、2013 年) はドイツ語から、イルサ・シグルザルドッティル (Yrsa Sigurðardóttir) の『魔女遊戯』(戸田裕之訳、2011 年) とラグナル・ヨナソン (Ragnar Jónasson) の警官アリ゠ソウルシリーズ『雪盲』『極夜の警官』(吉田薫訳、2017 年〜)、それに唯一推理小説ではないがアンドリ・スナイル・マグナソン (Andri Snær Magnason) による SF『ラブスター博士の最後の発見』(佐田千織訳、2014 年) と児童文学『タイムボックス』(野沢佳織訳、2016 年) は、すべて英語からの重訳である。(以上、著者名のカナ表記はすべて既訳書の記載に従ったため不統一のところがある。)
いま計 5 名の作家による 10 点の作品の名前をあげたが、アイスランド語の原典から訳したものはひとつもない。にもかかわらず大部分のカバーデザインにはアイスランド語の原題を配しているのだから奇妙な話である (上記のうち例外は小学館文庫から出ているラグナル・ヨナソンの 2 作のみ。『ラブスター博士』は原題から英語の LoveStar である)。やはり、一般の読者には読めないアイスランド語が書かれているほうが、いかにも珍しい感じがして箔がつくのだろう。
もちろん重訳だからといってただちに不正確だというものではないし、これらのうち大部分では訳者あとがきにて、「原著者はその訳本をチェックしているので信頼に値する訳だから問題はない」というような主旨のことが書かれている。それにアイスランド語の人名・地名の固有名詞はみなさんよくお調べになっていて、なるべく原語の発音に忠実なようにカタカナ表記されている。
もちろん重訳だからといってただちに不正確だというものではないし、これらのうち大部分では訳者あとがきにて、「原著者はその訳本をチェックしているので信頼に値する訳だから問題はない」というような主旨のことが書かれている。それにアイスランド語の人名・地名の固有名詞はみなさんよくお調べになっていて、なるべく原語の発音に忠実なようにカタカナ表記されている。
そういうわけで、重訳であっても日本のふつうの読者にとって問題視するような欠点はあまりないと思ってよさそうだ。それでもある国の文学が紹介されるとき、原語からではなくべつの媒介言語をさしはさんでいるということ、直接に橋渡しのできる人材が足りていないということは惜しいことであるし、まだまだ日本とアイスランドには遠い距離が隔たっているという証左であり寂しく感じる。
もう半世紀以上もまえに、アイスランド人のノーベル文学賞受賞者 (1955 年) ハルドウル・ラフスネス (Halldór Laxness) の作品が、エッダやサガなどのアイスランド古典文学の専門家でもあった山室静らによって邦訳されたことがあったが (『独立の民』邦訳 1957 年、その他数点)、これはもしかして原典訳だっただろうか (現物未見)。山室に限らず古典文学については (東海大学北欧学科などの先生がたによって) 早くから比較的に充実した原典訳の蓄積があるわけであるから、いずれは現代の作品も扱える翻訳家が育ってくれればよいと願う。
〔同日追記。重訳であることで実際にどれほどの変化が生じるか、『フラテイの暗号』冒頭の部分で検証したエントリがこちら。〕
〔同日追記。重訳であることで実際にどれほどの変化が生じるか、『フラテイの暗号』冒頭の部分で検証したエントリがこちら。〕
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