mardi 8 janvier 2019

森博嗣 W シリーズ・WW シリーズ引用書目一覧

最近完結した森博嗣「W シリーズ」全 10 作の各作品では、扉と各章冒頭の引用文 (エピグラフ) に古典的な SF 作品の数々が用いられている。私のように森ミステリィから入って SF に興味を持ちつつある人の便宜のために、たわいもない作業だが既存のまとめが存在しないようなのでここに一覧にして掲げる。いずれ劣らぬ有名作品であるから邦訳が複数存在する場合もあるが、ここでは森先生が依拠した訳者・版のものを示した。

原著者名・訳者名・邦訳タイトル・文庫レーベルは W シリーズ各巻末に明記されている。しかし文庫のカバーデザインなど細かな変更は生じる場合があるので、森先生の蔵書のそれと完全に一致するとは保証できない、あしからず。また訳書の出版年および原著の情報は私が補ったものであり、前者は当該文庫版の出版年であって本邦初訳年とは限らない。

〔2022 年 12 月 13 日追記〕同様に WW シリーズの引用書目もこのページにまとめることにした。現在既刊 6 巻。

W シリーズ

  1. 彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone?
    ——フィリップ・K・ディック、浅倉久志訳『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ハヤカワ文庫、1977 年〔1994 年改訳〕。[Philip K. Dick, Do Androids Dream of Electric Sheep?, 1968]
  2. 魔法の色を知っているか? What Color is the Magic?
    ——ウィリアム・ギブスン、黒丸尚訳『ニューロマンサー』ハヤカワ文庫、1986 年。[William Gibson, Neuromancer, 1984]
  3. 風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake?
    ——アルフレッド・ベスター、中田耕治訳『虎よ、虎よ!』ハヤカワ文庫、2008 年。[Alfred Bester, Tiger! Tiger!, 1956]
  4. デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping?
    ——J・G・バラード、峰岸久訳『沈んだ世界』創元 SF 文庫、1968 年。[J. G. Ballard, The Drowned World, 1962]
  5. 私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback?
    ——エドモンド・ハミルトン、中村融訳『フェッセンデンの宇宙』河出文庫、2012 年 (2019 年 1 月現在版元品切)。[Edmond Hamilton, “Fessenden’s Worlds” (短編), 1937, 1950]
  6. 青白く輝く月を見たか? Did the Moon Shed a Pale Light?
    ——アーサー・C・クラーク、福島正実訳『幼年期の終り』ハヤカワ文庫、1979 年。[Arthur C. Clarke, Childhood’s End, 1953]
  7. ペガサスの解は虚栄か? Did Pegasus Answer the Vanity?
    ——マイクル・コーニイ、山岸真訳『ハローサマー、グッドバイ』河出文庫、2008 年。[Michael Coney, Hello Summer, Goodbye, 1975]
  8. 血か、死か、無か? Is It Blood, Death or Null?
    ——ジョージ・オーウェル、高橋和久訳『[新訳版] 一九八四年』ハヤカワ文庫、2009 年。[George Orwell, Nineteen Eighty-Four, 1949]
  9. 天空の矢はどこへ? Where is the Sky Arrow?
    ——レイ・ブラッドベリ、大久保康雄訳『何かが道をやってくる』創元 SF 文庫、1964 年。[Ray Bradbury, Something Wicked This Way Comes, 1962]
  10. 人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?
    ——アーシュラ・K・ル・グィン、小尾芙佐訳『闇の左手』ハヤカワ文庫、1978 年。[Ursula K. Le Guin, The Left Hand of Darkness, 1969]

WW シリーズ

  1. それでもデミアンは一人なのか? Still Does Demian Have Only One Brain?
    ——アイザック・アシモフ、岡部宏之訳『ファウンデーション』ハヤカワ文庫、1984 年。[Isaac Asimov, Foundation, 1951]
  2. 神はいつ問われるのか? When Will God be Questioned?
    ——カート・ヴォネガット・ジュニア、伊藤典夫訳『スローターハウス 5』ハヤカワ文庫、1978 年。[Kurt Vonnegut Jr., Slaughterhouse-Five, 1969]
  3. キャサリンはどのように子供を産んだのか? How Did Catherine Cooper Have a Child?
    ——グレッグ・イーガン、山岸真訳『ディアスポラ』ハヤカワ文庫、2005 年。[Greg Egan, Diaspora, 1997]
  4. 幽霊を創出したのは誰か? Who Created the Ghost?
    ——コーマック・マッカーシー、黒原敏行訳『ザ・ロード』ハヤカワ epi 文庫、2010 年。[Coramac McCarthy, The Road, 2006]
  5. 君たちは絶滅危惧種なのか? Are You Endangered Species?
    ——アーサー・コナン・ドイル、中原尚哉訳『失われた世界』創元 SF 文庫、2020 年。[Sir Arthur Conan Doyle, The Lost World, 1912]
  6. リアルの私はどこにいる? Where Am I on the Real Side?
    ——ダン・ブラウン、越前敏弥訳『ロスト・シンボル』角川文庫 (全 3 巻)、2012 年。[Dan Brown, The Lost Symbol, 2009]

vendredi 4 janvier 2019

天才の証明――森博嗣『魔法の色を知っているか?』感想

本の感想のたぐいはふだん読書メータに手短に書く習慣にしているので、こうしてブログにまとまったものをという試みは今回がはじめてである。その最初の挑戦が森博嗣『魔法の色を知っているか? What Color is the Magic?』(講談社、2016 年)、すなわち W シリーズの「第 2 巻」というのはなんとも中途半端な話だが、適宜第 1 巻『彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone?』およびその他の森作品にも論及することをもってエクスキューズとしたい。

なお、各作品の事件そのものや重大な核心には触れないが、会話の引用を行う以上少しはネタバレとなる可能性があるので注意されたい。また、特定の作品に真賀田四季が登場するという言及じたいネタバレであるとも言える。


さて W シリーズといえばついこのあいだ (2018 年 10 月) 最終巻が出て完結したもので、これまでに出ている、少なくとも S&M や V シリーズから連なる世界設定を共有する森作品のなかでは、もっとも未来の時間に属するシリーズである (ただし、今年 6 月から同じ講談社タイガで刊行の始まるという新シリーズは、W の続きのさらなる未来かもしれない)。

あらためて指摘するまでもないことだが、これら一連の作品は真賀田四季という人類史上の大天才のサガとでも呼んでよいものだろう。あるいは「真賀田神話」と言ってもいいかもしれない。なにせ彼女はしばしば作中人物たちから神として崇められているのだから、言葉の本来の意味で神話と称して間違いではない。そして G シリーズでは直接姿を現すことをほとんどしてこなかった彼女だが、この W シリーズでは 2 作連続で主人公ハギリと面と向かって会い話をしている。

本作で真賀田四季は、科学史上の大人物たちとともに「ガリレィ、ニュートン、アインシュタイン、そしてマガタ」と並び称される箇所がある (156 頁)。もっとも余談ながら注文をつけるとすれば、私じしんはこの人選にはぜんぜん納得がいっていない。たしかにここに名前の挙げられている 3 人は、余人には発想できない斬新で時代を画する新説を唱え、大きく学問 (なかんずく物理学) を前進させた。しかし森作品における真賀田博士はそれどころの人物ではないのだ。彼女という「神」に比べれば、これらの歴史上の偉人たちでさえ何ほどのものであろうか。

真賀田四季の「覇業」の特徴は、ただに時代に先駆ける革新性ばかりでなく、むしろ手がける領域の広大さにこそある。それこそニュートンくらいまでの時代ならいざ知らず、学問の専門化が極まる 20 世紀後半以降の時代に、数々の領域を横断してどの分野でも大きな業績を挙げるなど人間業ではない。だがどうしても 3 人の名前を並べるとしたら、私であれば「アリストテレス、ライプニッツ、フォン・ノイマン、そしてマガタ」と言いたい。あまりにも多くの学問に関与し貢献したその影響力の広さと、そのなかでもとりわけ論理学から計算機の歴史に至る一定の分野 (真賀田四季の出発点は計算機科学であった) への寄与とによって、彼女と特徴を共有していると思われるからである。

いずれにせよ、森ワールドのなかで大文字定冠詞つきの天才 the Genius がいるとしたら真賀田四季をおいてほかにない。だが彼女の存在があまりに大きいがために霞んでしまうものの、小文字で複数形の天才 geniuses はたくさんいる。一連の作品の探偵役たちは全員そうであったろうし、なんならそれ以外にも森ミステリィの作品にはかならずなんらかの優れた頭脳がいると言っても過言ではない。とりわけ、真賀田四季その人の口からはっきり「天才」との称号を頂戴した犀川創平 (『有限と微小のパン』文庫版 825 頁) と島田文子 (『χ の悲劇』ノベルス版 282 頁) に関しては疑うべくもない。

W シリーズの主人公ハギリ・ソーイもとくに顕著な天才の 1 人である。たんに主人公で事件の解決役だからというばかりではなく、また真賀田博士に手ずから認められているからというのでもなく、はっきりと彼が天才であることを証明する描写があるのである。私ははじめ第 1 巻を読んでいたときにはこのことに気づかなかった。

もちろんハギリはウォーカロンの識別問題に関して最先端を行く研究者であるから、その意味では最初から世界一の学者だとはっきりしていたのであるが、どうも間の抜けたところがあるというか、飄々としたどこかコミカルな人物で、彼の頭脳に関してことさらに手放しで称揚されることがなかったので意識できなかったのである。私が最初に明確にそうと理解したのは、第 2 巻の次のようなヴォッシュのセリフが契機であった:
〔前半略〕新仮説は、あまりにも複雑で、直観的に正しさを感じられるのは、我々のようなマニアックな科学者だけだ。一般人には、まだ証明されていない得体の知れないただの新説にすぎない。普通の頭脳というものは、なかなか新しい発想を受け入れないものだ」(『魔法の色を知っているか?』193 頁)
ヴォッシュ博士は「マニアックな科学者」と謙遜しているが、これをそのまま「天才」と読みかえることができる。既存の常識にかかわらず、ある正しい説を聞いたり自分で思いついたりした瞬間に、これは正しいと直観してしまう、つまり腑に落ちたと認識し、答えが正答であると悟ってしまう、これが天才の能力なのである。凡庸な頭脳にとってはちゃんと筋道立てて証明してからでないと正しいか正しくないかわからない、そういう思いつきを一足飛びに正しいと判断できてしまい、かつ実際その判断が正しい……。それはまるで、どこか人間の認識を超えた場所にある真理のデータベースにアクセスし照合する権限を有しているかのようである。プラトン的なアナムネーシスを連想しないでもない。

この「洞察」を意識しつつ振りかえってみれば、じっさいハギリはそれを幾度か行っている。本巻においては 139 頁のヴォッシュとの会話にある次のごとき反応がそうである:
「どうしてですか?」僕は促した。是非とも理由が聞きたかった。
「何故なら……、私なら、それをするからだ」ヴォッシュは言った。
 その言葉に、僕は背筋が寒くなった。
 圧倒的な説得力を感じ、受け止めるのが精一杯だった。〔以下略〕
また、第 1 巻『彼女は一人で歩くのか?』56–57 頁において、アリチから例の話を聞かされたときの次の反応もそうであった。まず正しいということが完全に理解されてしまい、それから後づけで根拠を確認しようとしている:
「被害者? え、えっと……、それは、どういうことですか……」しかし、そこで思考が巡った。湯の中に躰が沈みそうだった。「あ……、あの、え?」
 熱い湯の中に躰があるのに、一瞬寒気がするほど震え上がった。
「え、まさか……」そう言って、アリチの顔を見る。
「今の説明だけでわかったようだね?」
「いや、まさか……」
〔核心のため省略〕
「本当ですか?」
「どう思うね?」
「いえ、絶対に、そうだと思いました。心当たりがあります。えっと……、そうだ、そういうデータが幾つかあった。えっと……、ああ……」
「まあまあ、慌てることはない」
「駄目だ。ちょっと、頭がくらくらする」
「宇宙の物質が解明されたときも、物理学者たちは溜息をついた。それだけだ。絶対にそうだと思ったって、みんなが頷いたんだ。〔以下略〕
これはむしろ最近の森博嗣の描く天才の特徴とみなしてもよいのかもしれない。多少ぼかして言及すると、『χ の悲劇』の終盤 (ノベルス版 267 頁) で島田が「切る」に気づいたとき「全身が痺れる」体験をしたのも、これとまったく同類の現象であると言える。

たしかに真理に到達したときそのことを直観するような経験は、より卑小な問題に関してなら天才ならぬ私じしんにもある。それはせいぜい教科書の練習問題のなかの難問という程度で、きっちり証明を書ききったり計算の最終結果を得たりするまえに、「この方針でいける」ということをなぜか確信し実際そのとおりになるというような場合である。その正答に続く道の着想を得た瞬間にはすでに謎の自信がみなぎっているし、それが難しい問題であれば身震いし感動することさえある。思いついたとたん、答案を完成させるまえにわかるのである。みなさんもそういう体験をしたことがあるのではないか。

しかし、プロセスをすっ飛ばしたこのような正解の洞察を、もっとはるかに複雑で困難な問題、それも人類で誰もまだ答えを知らないような未解決の難題に対して、遂行してしまうのが天才の天才たるゆえんなのである。この記事の表題に掲げた「天才の証明」とはそういうダブルミーニングである。それは天才が実践する証明とも呼べない証明 (主語的属格) であると同時に、それじたい翻ってその人が天才であることを示す証明 (目的語的属格) なのである。

うがった見方をすれば、これは一面においてはいわゆる後期クイーン的問題に対する森博嗣の (もとより解決ではないにせよ) 対策と捉えることもできる。このように作中の天才たちが身震いとともに得る発想は、そうすることによってそれが疑いない正解の答えであることを暗示している。そのような形で獲得された答えは、彼ら天才たちの認識している情報の多寡によらず、距離を飛びこえて真理を直接に指し示しているのである。彼らがそれを真だと察知した以上、「まだ考慮されていないほかの可能性」などない。

この洞察の能力に関して、『彼女は一人で歩くのか?』のほうからもうひとつ、関連しそうな発言を引用しておく。38–39 頁にあるハギリとウグイの会話である:
「では、根拠はないということになります」
「根拠はない。そうなんだ、そこが、論理的思考の限界だ。そこが、私の研究の一つの到達点なんだ。人間は根拠によって理解や判断をするのではない。そうではなく、変化のパターンなんだ」
「意味がわかりませんが」
「わからないと思う。でも、この判断は、今のところ確かだという自信がある。〔以下略〕
つまり、ハギリは人間として、確たる根拠によらず (少なくともそうと自覚せず) 論理を超えた思考をふだんから行っているということである (じっさい、さきに引用したヴォッシュとの会話でも、根拠とすら言えない理由を聞いて確信してしまっている)。そしてそれがウォーカロンとの違いである。言うまでもなく、論理から外れていればよいというものではなく、むしろ凡人による論理的根拠のない思考は大方が間違っているだろう。正しいことを正しいと直観する能力は、天才だけに許された特権である。そうすると、ここまで述べきたった意味での天才は人間のなかからしか生まれないということになる。

さらに、同書 189 頁前後では、研究者という職業を全面的にウォーカロンに任せうるかという問題に関して、人間だけがもつとされる「インスピレーション」について議論されていることも注目に値する。もしひらめきの能力が幻想でなく人間にしか存在しないものであり、なおかつその部位が将来的にも特定できない (それゆえウォーカロンで再現できない) とすると、人間の子どもが生まれない社会は学問的に完全に停滞してしまうであろう。

その障害を真賀田四季はなんとするのか? 自分以外の小文字の天才たちを興味深く観察し、その思考をトレースして吸収してきた彼女にとってそれは由々しき事態ではないだろうか。2060 年代なかば〜70 年代とみられる『ψ の悲劇』ではまだ、四季は八田洋久の人格を必要としていた。その約 100 年後にあたる本シリーズにおける彼女はそうではなく、すでに完全な存在になってしまったのか? そんなはずはない。だからこそ彼女はハギリという若き天才と対話しているのに違いない。

最後に。S&M や四季シリーズ以来、森博嗣の示唆する人類の到達点、叡智のたどりつく最後の答えは、「神様、わかりません」「私には、わかりません」であった。四季と犀川 (『有限と微小のパン』文庫版 826–7 頁) 以来何人もの天才たちが、「わからない」という結論にひとつの終着点を求めてきた。『χ の悲劇』では島田文子が (ノベルス版 282 頁)、『ψ の悲劇』では八田洋久が (同 275 頁)、この同じ答えに至って思考を終えている。その展開が何度も繰りかえされるので私は正直食傷気味であった。

しかしどうだろう、本稿で述べてきた「天才の洞察」がそれを正しいと教えているのだとしたら? 天才は偽なる命題を誤って真と思いこむことはない。彼らがその能力でもって真と直観したことは、本当に真なのだ。そう思って顧みてみれば、この簡潔で一種浅薄にも見えていた言葉がまったくべつの相貌をもって立ち現れてくる。ただ偶然わからない、現時点では答えが見いだせない、と言っているのではない。見せかけは「私にはわからない」という 1 人称であるが、事実では 3 人称の、時間を超越した客観的真理なのである。「わからない」がイデア的な真理であるということの意味は、一見そう見えるよりもはるかに深遠であるのかもしれない。

mercredi 12 décembre 2018

18 世紀のフェーロー語瞥見

このあいだ「フェーロー語研究 (前) 史 1650–1900」というエントリで紹介したように、1800 年にデンマーク人の牧師・植物学者であった Jørgen Landt という人に『フェーロー諸島に関する記述の試み』(Forsøg til en Beskrivelse over Færøerne) という著作があり、この第 4 章 3 節 (s. 436–440) が「その言語について」(Om Sproget) と題しフェーロー語 (フェロー語) の解説を行っているのであった。

本稿ではこの部分の訳出紹介を試みようと思う。これは 1800 年という年代に照らして知られるとおり、まだ正書法すなわちフェーロー語の単語をどのようにつづったらよいかの指針すら定まっていなかった時期のこと (この間の消息は前エントリで詳述した)、解説の内容じたいもさることながら、フェーロー語をどのように書き表わそうとしたかその努力にも興味がある。もっともラントはラスクのような専門の言語学者ではなく、かつ当時はほかに頼れる文献もなかったゆえであろう、表記の不徹底・不注意さやフェーロー語そのものの理解に難がある部分も散見される (日本人になじみのある例で言うと 16 世紀ころのポルトガル人やスペイン人による日本語の説明や日本地図の表記で起こったのと同じことである)。

訳では現代フェーロー語のつづりに修正したものも逐一併記し、デンマーク語も 200 年以上昔のものなので現代語と異なる場合にはこれも付記した (違いが名詞の大文字書きのみの場合は特記せず)。ラントの誤解によるものか、フェーロー語がふつう見出し語形とする単数主格未知形ではなく斜格や既知形 (定形) になっている場合があり、あるいはデンマーク語と定不定が一致していない場合があるので、そのさいはすべて注記した (特記なき場合は単数主格未知形)。また原文では区別していないが、ここではわかりやすいようフェーロー語をイタリック、デンマーク語をローマンで区別した。補足説明が必要な場合、亀甲括弧〔・〕に入れて示すか、長いものは * などの印を付して字下げした段落に述べた。

ここで試みられているフェーロー語表記を見れば、この言語の発音は 18 世紀の時点ですでにほぼ現在のとおりであったことが知られる。ラントのつづりから現行の正書法によるつづりを導きだすのはなかなか困難な作業であったが、デンマーク語訳が付されていることに助けを得て、また同時代の仕事であるスヴェアボの辞書 Dictionarium Færoense とも照らしあわせつつ誤りのなきを期した。しかし調査が及ばない部分も一部に残ってしまった。




§. 3.
言語について

フェーロー語 (det færøeske Sprog) は余所の者には最初のうちきわめて理解不能のように思われるが、〔われわれデンマーク人にとっては〕待つこともなく理解できるようになる;というのは単語の大部分が古いデンマーク語、あるいはむしろノルウェー語であって、歪められた発音が奇妙な見せかけを与えている〔だけ〕だからである。それは以下のようである〔次の単語の列挙は原文では左右 2 段組。上の画像のとおり〕:
  • a spujsa at spiise.〔現 at spisa*, at spise。食べる、食事する〕
  • a triqve at troe.〔現 at trúgva, at tro。思う〕
  • a smuja at smedde.〔現 at smíða, at smede。(鉄などを) 打つ、鍛える〕
  • a sejma at sye.〔現 at seyma, at sy。縫う〕
  • a gænga at gaae〔現 at ganga, at gå。行く、歩く〕
  • a standa at staae.〔現 at standa, at stå。立っている、立つ〕
  • a regva at roe.〔現 at rógva, at ro。漕ぐ〕
  • a sujgja at see.〔現 at síggja, at se。見る〕
  • Fræ, Frøe, Sædekorn.〔現 fræ。穀物の種〕
  • Sjegverin, Søen.〔現 sjógvurin。湖、海 (既知形)〕
  • ojn Skegv, en Skoe.〔現 ein skógv [ein skógvur の対格], en sko。靴 (の片方)〕
  • Løret, Lærred.〔現 lørift。亜麻布〕
  • ojn Baug, en Bog.〔現 ein bók。本〕
  • Ditnar, Dør.〔現 dyrnar [dyr (複数のみ) の主・対格既知形]。扉 (デンマーク語訳は単数未知形)〕
  • Pujpa, Pibe.〔現 pípa。パイプ〕
  • Høddet, Hovedet.〔現 høvdið [høvd または høvur の既知形]。頭 (既知形)〕
  • Skortin, Fjæs (Ansigt)〔現同 [skortur の対格既知形]。顔 (デンマーク語訳は未知形)〕
  • Ejen, Øjnene.〔現 eygum** [eyga の複数与格]。目 (デンマーク語訳は複数既知形)〕
  • Nøsin, Næsen.〔現同 [nøs の既知形]。鼻 (既知形)〕
  • Muveren, Munden.〔現 muðurin [muður の既知形]。口 (既知形)〕
  • Høkan, Hagen.〔現同 [høka の既知形]。顎 (既知形)〕
  • Øjrene, Ørerne.〔現 oyruni [oyra の複数主・対格既知形]。耳 (複数既知形)〕
  • Mæjin, Maven.〔現 magin [magi の既知形]。腹 (既知形)〕
  • Bojnene, Beenene.〔現 beinini [bein の複数主・対格既知形], benene。脚 (複数既知形)〕
  • Brej, Brød.〔現 breyð。パン〕
  • Bødn, Børn.〔現 børn [barn の複数主・対格]。子ども (複数形)〕
  • Talve, Tavle.〔現 talvu*** [talva の対・与・属格]。平らな板、黒板〕
  • Knujv, Kniv.〔現 knív [knívur の対格]。ナイフ〕
  • Song, Seng.〔現同。ベッド〕
  • Gjadn, Jern.〔現 jarn。鉄〕
* 現代フェーロー語では使わず、Jacobsen og Matras のフェーロー語・デンマーク語辞典 Føroysk-donsk orðabók (2. útg., 1963) や Jóhan Hendrik W. Poulsen ほか編 (1998) のフェーロー語国語辞典 Føroysk orðabók には立項されていない。デンマーク語からの借用語であったと思われ、Jógvan við Ánna, Føroysk málspilla og málrøkt IV (1977) に見いだされた。スヴェアボには spujssa として出ている。

** eyga「目」の複数は、未知形で主・対格 eygu(r), 与格 eygum, 属格 eygna, また既知形で主・対格 eyguni, 与格 eygunum, 属格 eygnanna である。このうちラントの記す Ejen にいずれが近いかという問題だが、既知形は音節数があわないので除外し、未知形のうち [n] の音で終わるのは eygum しかないのでこれをあてはめた (フェーロー語の名詞類複数与格の -um は [-ʊn] と発音される)。

*** talve の -e をどう受けとるかには異論の余地もあろうが、ラントのほかの記法を見るかぎり、彼は原則として a は正しく a と聞きとっているに対して、アクセントのない i および u を一律に e としがちな傾向がある (muðurinMuverenoyruniØjrene とするなど)。さらに斜格を見出し語に取り違えてしまう例のあることも見てのとおりである (ojn Skegv, Skortin, Knujv)。それゆえこの語も主格 talva ではなく talvu のつもりと解した。

だがフェーロー語には多くの特異な点もあり、それらについて若干を列挙したいと思う。たとえば次のようである〔前と同じく原文 2 段組。また、形容詞で性による違いがある場合、ラントはローマン体 (本文のブラックレターに対して) で hic, hæc, hoc; hi, hæ というラテン語の指示代名詞を用いて性を明示している。なおコンマやピリオドの有無が不統一なのはすべて原文どおり〕:
  • a qvuja at frygte.〔現 at kvíða。恐れる、不安に思う〕
  • a atla, tænke, slutte.〔現 at ætla。〜するつもりである〕
  • a kujla, dræbe.〔現 kíla。殺す。フェーロー語 kíla は Jacobsen og Matras によれば現在ではまれ〕
  • a fjoltra, skjelve.〔現 at fjøltra (?)*, at skælve。震える〕
  • a tarna, forsinke.〔現 at tarna。邪魔する、阻止する、遅らせる〕
  • a hikja, see.〔現 at hyggja, se。じっと見る、見まわす、観察する。ラントのデンマーク語訳 se はたんに「見る」だが、詳細別記**〕
  • Ogn, Ejendom.〔現同。財産、とくに土地・不動産。〕
  • Huur, Dør.〔現 hurð。扉〕
  • Got, Dørstolpe.〔不明。dørstolpe は戸枠、扉を据えつけるところの枠や柱のことだが、それをそのままフェーロー語に直すと durastavur となる。got という音に対応しそうなつづり (たとえば gott) で似た意味の語は見つからず〕
  • Likel, Nøgel.〔現 lykil, nøgle。鍵〕
  • Munere, Forskjel.〔現 munur。差、違い〕
  • Tkjæk, Disputeren.〔現 kjak。口論、論争〕
  • Tkjolk, Kind.〔現 kjálki。頬〕
  • Vørren, Læben.〔現 vørrin [vørr の既知形]。唇 (既知形)〕
  • Ylverin, Drøvelen.〔現 úlvurin [úlvur の既知形]。口蓋垂 (既知形)。úlvur は同音同綴で「狼」の意もあるが、デンマーク語訳 drøvelen (= drøbelen) に従った。〕
  • Spjarar, Pjalter.〔現 spjarrar [spjørr の複数主格]。ぼろきれ、くず〕
  • qviik, hurtig.〔現 kvik, hurtigt [-ig の形容詞の副詞的用法が様態を表す場合、現代では -t]。速く、急いで〕
  • erqvisin, ømskindet.〔現 erkvisin。敏感な、脆弱な、傷つきやすい〕
  • fit, flink, ferm.〔現 fitt [fittur の中性]。器用に、巧みに〕
  • prud, pyntet.〔現 prútt [prúður の中性]。堂々として、華美に、派手に〕
  • hunalir, tækkelig.〔現 hugnaligur。楽しい、心地よい〕
  • hic vækur.
  • hæc vøkur.  } vakker.〔現 vakur, vøkur, vakurt。きれいな、美しい〕
  • hoc vækurt
  • reak, maver.〔現 rak。痩せこけた、貧相な。デンマーク語 maver は mager の古い異綴〕
  • bujt, halvtosset.〔現 býtt [býttur の中性]。愚かに、間抜けに〕
  • raaka, topmaalt.〔現 rokað [rokaður の中性], topmålt。まったく、徹底的に〕
  • hic lofnavur
  • hæc lofnad  } kold〔現 lofnaður, lofnað。かじかんだ。ラントのデンマーク語訳 kold はたんに「寒い」だが、Jacobsen og Matras の説明では „stiv af kulde om hænderne (fingerne)“「手や指が寒さでこわばっている」さまを言う〕
  • hic gæmalor
  • hæc gomal   } gammel.〔現 gamalur***, gomul, gamalt。古い、年老いた〕
  • hoc gæmalt
  • hi trytjir
  • trytjar } tre.〔現 tríggir, tríggjar (中性 trý)。(基数詞の) 3〕
  • imist, forskjellig.〔現 ymiskt または ymist [発音は同じ。ymiskur または ymissur の中性形], forskelligt [前掲 hurtigt の注を参照]。さまざまに〕
  • ivarlest, uden Tvivl.〔現 ivaleyst。疑いなく、確かに〕
  • korteldin, alligevel.〔現 kortildini [= kortini, korti]。それにもかかわらず、〜であるけれども〕
* 現代のフェーロー語辞典には見いだされないが、スヴェアボに中性名詞 Fjøltur が立項されており、それに対応していた動詞形ではないか。

** スヴェアボの語釈 (higgja の項) では « circumspicere »「見まわす」、« oculis perlustrare »「目を通す」、« oculos advertere »「目を向ける」、« collustrare oculis »「目で精査する」などとされている。しかし Jacobsen og Matras による現代語では betragte「観察する」より先に se, kigge「ちらっと見る、のぞき見る」、se (kaste et blik) på「一瞥する」が出る。

*** ラントの gæmalor という表記から推して男性単数主格語尾に音節を加えたが、規範的には現在 gamal である。語尾をもつ gamalur という形は現代でも話し言葉においてしばしば見られる (Thráinsson et al. 2012: p. 103, n. 3)。

フェーロー語の見本として、2 人の農夫のあいだの会話を、その翻訳を加えつつ書き写してみよう〔文番号は原文にない。またこれより下はほぼすべてフェーロー語なのであえてイタリックにはしない〕:
  1. Geûan Morgun! Gud signe tee! Qveât eru Ørindi tujni so tujlja aa Modni?
  2. E atli meâr tiil Utireurar.
  3. Qvussu eer Vegri? qvussu eer Atta?
  4. Teâ eer got enn, men E vajt ikkji, qvussu teâ viil teâka se up mouti Dei.
  5. Viil tu ikkji feâra vi?
  6. Naj!
  7. Qvuj taa?
  8. Tuj E vanti mêar ajnkji aa Sjeunun, o tea eer betri a feâra eât Seji.
〔現代フェーロー語の正書法に改めると次のとおり:
  1. Góðan morgun! Gud signi teg! Hvat eru ørindi tíni so tíðliga á morgni?
  2. Eg ætli mær til útiróðrar.
  3. Hvussu er veðrið? Hvussu er ættað?
  4. Tað er gott enn, men eg veit ikki, hvussu tað vil taka seg upp móti degi.
  5. Viltú [= Vilt tú] ikki fara við?
  6. Nei!
  7. Hví tá?
  8. Tí eg vænti mær einki á sjónum, og tað er betri at fara at seyði.〕
デンマーク語では〔ここでは日本語にする〕:
  1. おはよう。神の祝福が君にあるように。こんな朝早くになんの用だ?
  2. 釣りに出ようと思ってな。
  3. 天気はどうだ? 風向きは?
  4. まだ良好だよ、だが明け方にはどうなるかわからん。
  5. 一緒に行かないか?
  6. いいや。
  7. なんで?
  8. なんか釣れるとは思えないし、羊たちの世話をするほうがいいからだよ。
〔文法の解説はないので、ここでは私が独自に付す:
  1. signi は signa「祝福する」の接続法。フェーロー語の接続法はきわめて衰退しており、現在形しかなくまた人称および数の別なく同形で、このように決まった言いまわしにのみ用いる。ørindi「用事、使い」は単複同形の中性名詞。ここでは複数であることが tíni「君の (tín の中性複数主・対格)」と eru「〜である (vera の現在複数)」との一致から知られる。
  2. ætla「〜するつもりである」のあとの再帰代名詞 sær (ここでは mær) はあってもなくてもよい (少なくとも現代語では)。する内容には at 不定詞をとるが、ここでは動詞なしに使われている。útiróðrar は útiróður「漁、船釣り」の単数属格。úti- は út- とも。このように前置詞 til「〜へ」は本来属格を支配したが (アイスランド語では現在もそう)、いまのフェーロー語では属格はかなり廃れて決まり文句か文語にのみ用い、til のあとには対格がふつう。
  3. ættaður はこの言いまわしにしか使わない形容詞で、ættað は中性形。男性形で Hvussu er hann ættaður? とも言える (これは 3 人称単数男性の人称代名詞 hann を天候を表す仮主語にした表現)。名詞 ætt「向き、方角」を使って言う Hvaðan er ættin? も同じ意味。
  4. 天候を表す仮主語 tað。veit は vita「知っている」の直説法現在 1 人称単数、これはいわゆる過去現在動詞で特殊な活用をする。taka seg upp は「上昇・増加・発展する」で、天気について言う場合「発達する、なる、変わる」ということ。ここでは文脈から悪くなることが想定されているが、よくなる場合にも言える。
    「朝早く」に来てまだ「明け方」まで時間があるとは不思議に思われるが、北緯 60 度を越えるフェーロー諸島の日の出の時間は季節によって大きく変わり、試しに本日 12 月 12 日のそれを調べてみたら現地時間で朝 9 時 41 分であった (ちなみに日の入りは 14 時 59 分、たった 5 時間あまりしか日が出ていない!)。電灯のない 18 世紀の農民はいまの私たちよりよほど早寝早起きであっただろうし、これなら彼らの言う「朝早く」から「明け方」まで時間の開きがあってもおかしくはない。
  5. tá は「そのとき、それから」という副詞で、アイスランド語 þá やデンマーク語 da に対応する。この hví tá はこのまとまりとして Jacobsen og Matras で „hvorfor det?“, Timmermann で „warum/wieso das?“ と出ているので、深く考えないほうがよいかもしれない。もしかするといまで言うところの心態詞的用法か?
  6. tí は「〜だから」という理由を表す接続詞として使われており、これはもともと人称代名詞の中性単数与格形である。アイスランド語 því と平行。単独でもこのように使えるが、av tí at (アイスランド語 af því að) という組みあわせでも言う。
    ついでにデンマーク語 thi も同じく代名詞 den の古い格変化形に由来し同じ意味である。これは現代デンマーク語では古めかしく格式張った語だが、この時代にはまだ一般的でたとえばアンデルセンの童話にもふつうに使われている (fordi のほうが口語的であったが)。
    vænta「待つ、期待する」。einki は eingin「なにも」の中性単数対格。sjónum は sjógvur「海」の単数与格既知形 (sjógvinum という形もある)。この前半を直訳すれば「海でなにも〔得られると〕期待できない」ということ。seyði は seyður「羊」の単数与格。この単語はしばしば集合名詞的に用いられ、単数だが実際には多くの羊が意図されている。ラントはこの箇所のデンマーク語訳で脚注に „Svabos Efterretning“「スヴェアボの修正」と記し、本文で正しく „Faarene“ と複数既知形にしている。
この一連の文章を見てもラントの表記法が不注意であることが知られる。たとえば語頭の子音以外はまったく同じ音韻的環境にある代名詞 eg, teg, seg の e が E, tee, se とばらばらにつづられている。また彼は (同時期のほかの著者と同様に) eâ や eû のようにサーカムフレックスを用いて一部の二重母音を記すが、同じ mær「私に」が 2 文めでは meâr、8 文めでは mêar と別様に書かれているし、同じく 8 文めでは Sjeunun, tea とサーカムフレックスなしの二重母音が見えるがこれはほかの箇所の teâ や Geûan と不整合である。〕


ことわざ

Sjoldan kemur Du-Ungje eâf Rafes Æg.〔Sjáldan kemur dúvungi úr ravnseggi.〕カラスの卵からハトの雛が孵ることはめったにない。その心は:悪い親からよい子どもが生まれることはめったにない。〔ラントの eâf を見るかぎりここの前置詞は av のつもりに見えるが、現在通用しているものは前掲括弧内の úr の形。〕

Ommaala døjr ikkje.〔Ámæli doyr ikki.〕中傷は死なない。その心は:他人を中傷する者は、ついには翻って中傷される運命に違いないのである。

Got eer oufotun a beâsa.〔Gott er óføddum at bæsa.〕生まれていない者に勝つことは容易い。その心は:相手が誰もいないところで勝利を得ることは容易い。〔óføddum は複数与格。この節ほかの例文も似たり寄ったりだが、格言のためにかかなり変則的な語順である。〕

Ofta teâka Trodl gaua Manna Bødn.〔Ofta taka Trøll góða manna børn.〕邪霊 (トロル) はしばしば優れた者の子をさらっていく。こう言われるのは、尊重・崇敬さるべき人物の娘が惨めでその身分より下の男と結婚するときである。

〔副詞 ofta が文頭に出て倒置。単複同形の trøll はここでは複数で taka が 3 人称複数形。góða manna は複数属格 (未知形のため強変化) で børn の所有者を示している。現在であれば属格ではなく対格として所有者を後置か (しかしこれも 20 世紀後半のあいだに後退しつつある表現という)、あるいはもっと普及しているのは〈til + 対格〉か〈hjá + 与格〉の前置詞句である。さらに詳しくは Barnes and Weyhe 1994, pp. 207f. を見よ。〕

Tunt eer thæ Blau, ikkje eer tjukkare end Vatn.〔Tunt er tað blóð, [ið] ikki er tjúkkari enn vatn.〕水よりも濃くない血は薄い。

〔「血は水よりも濃い」の意、つまり他人より血縁者のほうが信頼できるという謂い。tunt は tunnur「薄い」の中性単数主格。コンマのあとには関係小辞 ið または sum を補うのが現代のふつうの言いかたで、これは関係節内で主語の役割であるから現代語では省略できない。tjúkkari は tjúkkur「濃い、厚い」の比較級。なお、これまでラントは teâ や tea と書いてきた現 tað をここだけ thæ というかなり異色な (まるで古デンマーク語に見える?) 表記をしている。〕

Betri eer a oja end Braur a bija.〔Betri er [sjálvur] at eiga enn bróður at biðja.〕兄弟に乞うよりも〔自分で〕所有するのがよい。

〔現在一般的な形は sjálvur「自分自身」を含んでおり、これを欠くと意味も通りづらいので脱字でないかと思うが、昔はそれでも通用したのかもしれない。enn「〜より」の前後でパラレルな文になっているように見えるがじつはそうではなくて、sjálvur は男性単数主格で、ここでは動詞 eiga の意味上の主語と同格として働いているに対し、bróður は bróðir「兄弟」の単数対格で、biðja「乞う、頼む」の目的語である。〕

Ojngjin vojt aa Modni a sia, qvær han aa Qvøldi gistir.〔Eingin veit á morgni at siga, hvar hann á kvøldi gistir.〕誰も朝のうちに自分が晩には誰の客となるか言うことはできない。その心は:誰も朝のうちには自分になにが起こるかわからない。

Ojngjin stingur anna Mans Badn so uj Barman, a Føterne hængje ikkje êut.〔Eingin stingur anna[rs] mans barn so í barmin, at føturni[r] hangi ikki út.〕誰もほかの人の子どもをその足が外にぶら下がらないように胸に突っこむことはない。〔stinga「(e-t í e-t …を〜に) 突き刺す」。barman はデンマーク語訳 Barmen に照らして barmur「胸」の単数対格既知形 barmin と解した。føturnir は fótur「足」の複数主格既知形。〕

Sjoldan kemur Flua uj Fojamannas Feâd.〔Sjáldan kemur fluga í feiga manna fat.〕Fojaman とは、運命の定めに従ってその年の終わりまでに死すべき者のことである。そのような者の皿からハエが出ることはめったにない〔と訳される〕。それゆえもしハエが料理に入るようなことが起これば、このことわざによると、人はその年のうちに死ぬはずではないというよい予兆であることになる。

依然として使われている古い人名のうちに以下のものが見られる:男性名。John. Haldan. Harald. Gulak. Gutte. Djone. Anfind. Ejdan. Guttorm. Kolbejn. Hejne. Likjir. Jeser. Øjstan. 女性名。Sunneva. Zigga. Ragnil. Femja. Armgaard.

そのほか注意に値することとして、フェーロー諸島人はいつも彼ら自身の言語を話すにもかかわらず、そのアクセントはノルウェー語におけるものといくぶん近いもので、彼らはしかしまたほとんど完全によくデンマーク語を理解するのであり、この言語でキリスト教が教えられ礼拝が執り行われ、じっさい彼らのうち多くは正確で上等なデンマーク語を話しさえするし、彼らの口から聞くこの言語こそはその他のデンマークの属領 (Provintser) に住む農村民衆のそれと比べてもはるかに明瞭できれいなのである。