mardi 14 septembre 2021

ひとと けっこんした ポケモンがいた——ローカライゼーションの悲劇

『ダイヤモンド/パール』のリメイク作、『ブリリアントダイヤモンドシャイニングパール』の発売までいよいよ残すところ 2 ヶ月あまりとなった。そのさらに 2 ヶ月後には同じ地方の過去の時代を描く『Pokémon LEGENDS アルセウス』も出ることが予定されており、そのホームページの告知には「ダイヤモンド/パールとのつながり」が言及されているからには、おそらく『BD/SP』にもすでにいくらかは過去の出来事、すなわちナナカマド博士の祖先についてやポケモン図鑑の原型を作った先達について、そして本来はこのように立派な目的に邁進していた草創期のギンガ団の活動についてなどの話が盛りこまれているに違いないと期待される。

過去の時代のシンオウ地方といえばわれわれがまっさきに思い起こすのはやはり、『DP』のミオとしょかんで読むことのできたシンオウ神話や昔話のことである。前作までに比べて圧倒的にスケールアップしたポケモン世界の創世神話、そしてなによりポケモンと人間との境界を曖昧にした「シンオウむかしばなし」のグロテスクな内容は、当時のプレーヤーに決して忘れられない絶大な印象ないし爪痕を残した。ポケモンを食べていた話、ポケモンが皮を脱ぐと人間であるという話、最後に極めつけが、ポケモンと人間が結婚するのが普通のことだったという話である。

リメイク作でもこれらはそのまま再掲されるのだろうか。もちろんすでに描かれたことについては覆してほしくないが、たんなるコピー & ペーストでは芸がない。爾来 15 年、世界の設定について考えを深め、練りなおす時間はいくらでもあったはずだ。アニメや映画などで同じ舞台や伝説のポケモンなどを扱うたび、それはそのまま設定を熟考するまたとない機会となったはずである。ぜひとも当時よりも深く掘り下げられ肉づけされた世界の物語に出会いたいものである。

そういった願望を抱きつつミオとしょかんのテクストを読みなおしていたおり、ふとこれは翻訳版ではどうなっているのかという疑問に立ち至った。当時の私にはできなかった各国語版の翻訳比較をこの機会にしてみてはどうか。そう思って目を通してみたところ、「シンオウむかしばなし その3」の内容に奇妙に大きな違いがあることに気がついた。それが今回の記事のテーマである。

まずは日本語版の原文を確認しておくと、次のとおりである。(なおテクストについては、他言語版も含めて各国語版のポケモン wiki に依拠した。)
日本語版
ひとと けっこんした ポケモンがいた
ポケモンと けっこんした ひとがいた
むかしは ひとも ポケモンも
おなじだったから ふつうのことだった
これに対し英語版では次のようになっている:
英語版
There once were Pokémon that became very close to humans.
There once were humans and Pokémon that ate together at the same table.
It was a time when there existed no differences to distinguish the two.
〔拙訳:
かつて人ととても親しくなったポケモンがいた
かつて同じ食卓につき食事をともにした人とポケモンがいた
両者を区別するなんらの違いも存在しない時代であった〕
驚くべきことに、人とポケモンとの結婚についてただの一言も触れられていないのである。ここで「親しい」という形容詞の原語は close である。これは余人を交えない親密な関係を意味するが、intimate のように性的な含みはない。続く 2 行めではその関係の具体的な描写がされており、気のおけない対等な仲であることはわかるが、やはり「結婚」を読みとるにはまだ距離があるように思われる。そもそもこの文章には性別がいっさい出ていないのだから、これだけ読んで男女の仲だと思うのは飛躍だろう。

❀ ここで同性婚とかのややこしい問題にはかかずらわない。このテクストが「むかしばなし」と銘打たれていること、つまり伝統的な価値観で読みとくべきことをお忘れなきよう。それに性指向にかかわらずこの文章から「結婚」と解釈するのが飛躍であるという論旨にも変更はない。

ただし、同じ食卓で食事をともにするということを聞いたとき、この英語版の読者がキリスト教徒であれば連想するであろう事柄がある。イエスが罪人や徴税人とも分け隔てなくいっしょに食事していたという福音書のエピソード、それからユダヤ人の律法と、パウロがペテロを非難したアンティオキア事件である。ユダヤ人には罪人や異邦人といった「穢れた人」とは食卓をともにしてはならないという掟があったのだが、すべての民に福音を宣べ伝えるという使命から彼らは、もともとユダヤ教徒でありながらあえて会食していた。だがエルサレムの権威におもねったペテロのほうが保守的な態度に戻ってしまい会食を取りやめたとき、パウロは断固としてそれを叱責したのである。このことは後でもういちど触れる。

話を戻して、ほかの諸訳も参照してみると以下のとおり:
ドイツ語版
Einst lebten Pokémon, die den Menschen sehr nahestanden.
Einst gab es Menschen und Pokémon, die am selben Tisch speisten.
Einst gab es eine Zeit, als es keine Unterschiede zwischen diesen gab.
〔拙訳:
かつて人ととても親密なポケモンが暮らしていた
かつて同じ食卓で食事をする人とポケモンがいた
かつてこれらの間に区別がない時代があった〕
フランス語版
Il fut un temps où certains Pokémon étaient très proches des humains.
Un temps où humains et Pokémon mangeaient à la même table.
Un temps où aucune différence ne permettait de les distinguer.
〔拙訳:
人ととても親しいポケモンがいた時代があった
人とポケモンが同じ食卓で食事した時代
それらの区別を許すなんらの違いもなかった時代が〕
ドイツ語版はほぼ英語版と同じ、フランス語版も「時代」が最初から出て 3 度繰りかえされていることのほかはたいした相違点がない。
イタリア語版
Un tempo esistevano Pokémon molto legati agli esseri umani.
Un tempo Pokémon ed esseri umani mangiavano alla stessa tavola.
A quel tempo non c’erano differenze tra Pokémon e uomini.
スペイン語版
Érase una vez un Pokémon muy cercano a los humanos.
Éranse una vez humanos y Pokémon que comían en la misma mesa.
Érase una vez un tiempo en el que no había diferencias entre los dos.
これらもほぼ同文なので改めて訳文は繰りかえすまい。強いて言えばスペイン語版のみ 1 行めで「ポケモン」が単数になっていることが引っかかるが (英・独・仏・伊はすべて複数)、目につく違いはそれくらいである。ほかのゲームでもたいていそうであるように、英語以外の欧米語版のローカライゼーションというのは英語からの重訳なのであろう。そうでなく別々に日本語から直接訳しているのであればこれほど一致することはありえまい。

❀ なお、中国語版は私が読めないのでここでは扱わないが (機械翻訳にかけることは「読む」とは言わない。念のため)、どうも「结婚」という字が見えるので日本語版に忠実らしいようには思える。これもまたローカライゼーションではありがちなことである。

こうして見てくると結局、欧米語訳ではどの翻訳も「結婚」を思わせるところはまったくないことがわかる。そしてこれが重訳なのであれば、その理由と責任は全面的に英語版の翻訳に帰されるだろう。

なぜこのような変更がなされたか。それは想像の域を出ないが、もっともらしい理由はいくつか考えられよう。日本人でもただちに考えたであろうように、この文章は獣姦のタブーを思わせる。またキリスト教原理主義者のうるさいアメリカで提供するにあたって、人間とポケモンがかつて同じであったという記述は人間進化の問題に抵触するし、結婚の聖性をおびやかすところもある。こうした難点から誰かが日和った、あるいはそうしなければレーティングの審査に引っかかったというようなよんどころない事情があったのだろう。

だがだからといってこのような歪曲・捏造を許容できるかとなると別問題である。人とポケモンが結婚していた……この強烈なインパクトを与え、15 年たっても鮮烈な印象を残している記述抜きに、『ダイヤモンド/パール』の世界を語ることはできまい。ここが違うのでは日本のプレーヤーと欧米のプレーヤーは同じゲーム体験をしていないと言ってもいいくらいである。

日本語でこの「むかしばなし その3」を読んだ当時のプレーヤーは、ある者はその衝撃的な発想に嫌悪感を覚えトラウマ化したかもしれないし、ある者は興奮し悶々と妄想をたくましくしたかもしれない。よかれ悪しかれ、この刺激的なテクストはわれわれの脳裏に深く刻まれ、そうしてポケモンと人間の関係、ポケモンの起こりと存在様態、そしてポケモン世界の歴史などに関するさまざまな想像・考察・議論を惹起した。あのころリアルタイムに Twitter はなかったが、それから何年たったあとでもこうした根源に関わるテーマの考察では食傷ぎみなほど頻繁に引かれる一節となっている。このような喚起力を欧米語版のプレーヤーは体感できなかったことになる。

テクストの解釈に戻ろう。「結婚」はこのテクストを、ひいてはシンオウ地方の文化・風土を理解するための必須のキーワードである。最後の 1 文、「ひともポケモンもおなじだった」という部分は、翻訳でも「区別する違いはなかった」とやや後退しつつもおおむね同じ内容を伝えている。しかし「結婚」というキーワードを抜きにしてはこの「おなじだった」「違いはなかった」というのがどういう意味なのか、正しい把握に近づくことができない。

結婚ができて、生殖が可能であるから「おなじ」というのであれば、これはただちに生物学的種が同じであると解釈できよう。もちろんそれだけには尽きない。このような雑婚が「ふつうのことだった」のだから、人とポケモンの生活圏は緊密に混じりあっており、地理的・歴史的・文化的などさまざまな側面でも「おなじ」になっていたと考えるのが自然だ。というのは 2 国間の国際結婚に置きかえて考えてみると、自由にかつ頻繁にそれが行われるのであれば、まず前提として日常的に交流があり、かつ言語や習慣の違いといった障壁が低いことが要請されるし、これが長く続いて血縁が入り交じるにつれて融和が進み、国が分かれている必要さえ薄れてくるのではないか。

❀ であれば、最終的に人とポケモンの結婚の習慣が廃絶されるまえには、それほど密に混交していた両集団が引き離されるようななんらかの重大事件があったはずで、それこそがトバリ神話の描いているできごとなのではないかとも想像が膨らむが……これ以上は脱線が過ぎるので控えよう。ともあれ、こういったことを読者に想像させ、世界についておのずと深みを感じさせることに成功している点で、じゅうぶんこのテクストには大きな価値があるといえる。

❀ もう 1 点念のため注記しておくが、この話は作中においても昔話として語られているのであり、(前述の推論も含めて) 作中世界における歴史的事実であるとは限らない。しかしたとえ事実でないとしても、作中の「昔」の人たちによってそう信じられていたということはべつの事実であり、そういったことからこのテクストじたいに解釈・研究する価値が生じるのである。

翻って欧米語版では、同じ食卓を囲むほど親しかったら「おなじ」というのだが、これではなんのことだか意味がわかるまい。同じ食卓だから「違いはない」……まさか小泉構文ではなかろう。最大限好意的に解釈してみると、人とポケモンのあいだに「差別」がない、ということを言いたいのかもしれないと考えうる。あるいは前述したように、分け隔てなく食卓をともにするということは聖書の教えにもかなっているからか。たしかにこれなら——オリジナルとかけ離れた勝手な主張ではあれ——子どもたちに伝えるぶんにも立派なテーマに違いない。ただその時代が「かつて」のことだというのでは現在のシンオウには差別があることになってしまうが。

考えてもみれば、食事をともにするほど親密だった「時代があった」などということじたい話がおかしいではないか。人とポケモンが並んで席につくくらいに仲がいいシーンなど、アニポケでもいくらでも見られる現代のありふれた光景だろう。その程度のことを聞かされても「ああそうだね」としか思わないし、それを民話・昔話として「かつてそういう時代があった」というのは意味不明である。いまの時代ではポケモンとの関係はそうでないとでも言うのだろうか? 「結婚」という現在とは隔絶した習慣だからこそ意味をなしていた文献を下手に改変したせいで話そのものが成り立たなくなってしまっている。

以上論じきたったように、この英語版における「結婚」の削除と翻訳の捏造は、もし忠実に訳していたらば欧米のプレーヤーも楽しめたであろう作品のインパクトを完全に消し去り、本来の日本版の世界観を見失わせたうえに、ポケモン世界の考察に資する重大なヒントをひとつ奪った。かてて加えて、訳文を単独で読んだとしてもよくて無意味、悪ければ意味不明で混乱させるものになっているとあっては、この「むかしばなし その3」は欧米語版ではむしろ訳さずまるごと削除したほうがまだしもましだったのではないかと思いたくなる。これを悲劇と言わずしてなんと呼ぼうか。

そしてこの悲劇は、重訳をしていなければ英語版だけで食い止められたかもしれないものである。一口に英語と言ってもアメリカ・イギリス・オーストラリアその他多くの地域に、またフランス語もフランスとカナダ、スペイン語はイベリアとラテンアメリカの諸国に買い手をもっている。前述のとおりこの歪曲が行われた理由の「タブー」については憶測の域を出ないが、国も言語も違えば文化も異なり、なかにはアメリカほどタブー視されず直訳が可能であったところもあるのではなかろうか (中国語版のように)。そういった細やかな対応ができないせいで、アメリカ英語版の事情だけによって全ヨーロッパと南北アメリカのすべてが一蓮托生、同じ不利益を被ってしまうというのも遺憾にたえないところである。コスト面で難しいというのであれば、せめて日本語を読めている英訳者が自身の捏造した点について重訳者たちへ申し送りを残すことを願いたい。近年の作品でも状況は変わっていないとおり、重訳のベースとなる英訳の責任の重大さはなお十分には認識されていないように思われてならない。


〔2021 年 10 月 29 日追記〕「シンオウ昔話その1」および「その2」の翻訳比較は別記事「シンオウ神話翻訳集成 (7) シンオウ むかしばなし」に与えてある。さらにその記事を含む連載においては、ミオ図書館のすべてのテクストを含む、作中の神話資料の翻訳作業を進めているのであわせてご覧いただきたい。

〔2021 年 11 月 29 日追記〕幸運にも当初予想していたより多くのかたの目に止まり読んでいただく機会に恵まれ、いろいろな反響を頂いているのだが、そのなかにひとつ誤解と言いたくなるものがあった。「これを『悲劇』と言いきってしまうのもエスノセントリズムじゃないのか」というご批判であるが、誤解ではあってもそこにはなお重要な論点が含まれていると思われるので、本論の補足も兼ねて返答をここに追記することは無駄ではあるまい。

原典をそのまま忠実に他言語に移すのではなく、異質な文化を背景にもつ海外の受け手に配慮して、その人たちに受容されやすいように翻訳するというのはたしかにひとつの戦略であり、それには翻訳理論で同化 (domestication) というれっきとした名前がついている。そこで問題はこの「シンオウ昔話その3」の翻訳にあたって同化的翻訳を行ってよいか、あるいは行うべきか、というのが焦点になるわけで、上で論じたように私はそれはすべきでないというか、少なくとも『DP』で実際に行われたやりかたは不適切であったという立場に立っているのだが、それをエスノセントリズム (自民族中心主義) と評されたことになる。

ただ、この同じかたが続けておっしゃることには、「現実の土着の神話について言及するならまだしも、『シンオウ神話』は 21 世紀の人間がつくったフィクション」だから改変も禁忌ではないという。これは裏を返すと、たとえば「日本神話」を海外に翻訳して紹介するときには内容の改変などは許されない、そんなことをすれば本末転倒だということは誰にも同意いただけるはずである。結局そこにこそ温度差があるのであって、私は「日本神話」と同様に「シンオウ神話」を考え、日本があると同様にシンオウ世界も存在——「実在」とは違う——しているとみなしているので、それを改変されるのはうれしくない、シンオウ世界のあるがままを尊重すべきだと感じている、ただそれだけの違いであってイデオロギーの問題ではないと思う (むろんイデオロギーとまったく無縁な議論などありえないにしても)。

❀ それにそもそもシンオウ世界は日本ともイコールではない。たびたび強調したとおりポケモンとの「結婚」という発想が私を含む多くの日本人に衝撃を与えたことからしても、シンオウの文化が日本の文化とは異質であるということこそ本稿の前提であり、したがってその点でもシンオウ文化の尊重がエスノセントリズムだというレッテルはあたっていない。

❀ シンオウ世界の「存在」ということについてもう少し付け加えるなら、フィクションの存在物というのは制作者が描くことを通してのみ存在が成りたつのであるから、改変の影響はむしろ実在の対象よりもはるかにセンシティブゆえに重大であって、現実に存在の基盤をもつものに対する以上に改変に関し慎重であらねばならないとさえいえる。実在のものについてなにを語っても物そのものが変化するわけではないが、虚構の存在物についていわば「公式の力」をもって語ることは存在そのものを書きかえてしまう効力を有するからである。ちなみに、フィクションの存在という観念になじみのない人には三浦俊彦『虚構世界の存在論』(勁草書房、1995 年) や倉田剛『現代存在論講義 II』(新曜社、2017 年) などをさしあたりおすすめする。

もうひとつつまらないことを確認するが、私が本稿で「悲劇」と申しているのはたんに同化的翻訳が悪いという話ではなくて、それを中途半端に試みたことによって翻訳後の結果が矛盾した理解困難な文章になってしまったことも含めて言っている。さらに英訳だけに影響がとどまらなかったことまで含めてもいいかもしれない。私としてはこのように難の多い仕事ぶりの遺憾であることを主張した表現である。

最後に、正直なところを言うと私の立場じたいこの記事以降に揺らいでおり、そのあたりのことは「シンオウ神話翻訳集成 (2) シンオウちほうの しんわ」のあとがきで論じた内容と関連するのだが、そもそも翻訳の差異や多様性ということを積極的に認めないと翻訳比較ということの意義が薄れてしまうので、現在の私の考えはかならずしも本稿のままではない。ただし以上の追記はあくまで本稿への批判に応える目的であるから執筆当時の立場を考えながら書いた。

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