vendredi 17 septembre 2021

シンオウ神話翻訳集成 (2) シンオウちほうの しんわ

旧作『ダイヤモンド/パール』における「シンオウ神話」の読みなおしを期して、ここに日本語版と欧米 5 言語版との翻訳比較を試みる。この記事では「シンオウちほうの しんわ」を扱う。


ちなみに前回これらの表題について、もし本のタイトルのつもりなのであれば二重カギで『シンオウ地方の神話』と表記すべきと述べた。しかしこの「〜地方の神話」というのはどうも書名にしては間延びしている。『シンオウ神話』や『シンオウの神話』とも呼べるのだからなおさらである。ここでかりに、カントー・ジョウト・ホウエン・シンオウなどをあわせた地域名 (国名) をニッポンと呼べるとして、『ニッポンの神話』という本のなかに——あるいはもっと広く『世界の神話』や『世界神話事典』といった本のなかに——「ジョウト地方の神話」や「シンオウ地方の神話」といった章や項目が含まれているのだとすると、これは単括弧でくくるのが日本語のルールである (この場合二重括弧は使ってはならない)。作中で読めるごくわずかな断片だけではいずれなのか決定できない。

各言語版のテクストは以下の各国語版ポケモン wiki より引用した (閲覧した版はこの記事時点における最新版)。ただし改行位置などについて細かな改変をとくに断らずに加えた場合がある。


日本語版:シンオウちほうの しんわ

むかし シンオウが できたとき
ポケモンと ひとは
おたがいに ものを おくり
ものを おくられ ささえあっていた
そこで ある ポケモンは
いつも ひとを たすけてやるため
ひとの まえに あらわれるよう
ほかの ポケモンに はなした
それからだ
ひとが くさむらに はいると
ポケモンが とびだすようになったのは
草むらからポケモンが飛びだすという自然現象の由来を擬人的に説明した、これはまぎれもない神話的テクストである。時代としてもシンオウの大地が誕生した創世のころに設定されており疑義を容れない。

ここでイニシアチブをとった「あるポケモン」の正体については確かなことはわからない。アルセウスであるという説については、「はじまりの はなし」によると世界が作りだされたあと「眠りについた」とされているので支持しがたいように思う (もっとも神話のことだから、たがいに矛盾したからといって即ありえないということにはならないが)。

『DP』の物語には大きなモチーフのひとつとしてアイヌの文化や神話があり、〈アイヌ=人間〉に対する〈カムイ=ポケモン〉という対応関係があることはつとに指摘されている (この点には「(7) シンオウ むかしばなし」のその2でもういちど触れる)。この物語に見られる贈与交換に関してたとえば次の記述を参考に引いておこう:「獣や道具など人間に有用なものは、すべて神があたえてくれるお土産であり、人間はその返礼として神にお土産をもたせ、神の威信を高めなければならない——これがアイヌの神観念です」(瀬川拓郎『アイヌ学入門』8 頁)。


英語版:Sinnoh Region’s Mythology

Long ago, when Sinnoh had just been made, Pokémon and humans led separate lives.
That is not to say they did not help each other. No, indeed they did.
They supplied each other with goods, and supported each other.
A Pokémon proposed to the others to always be ready to help humans.
It asked that Pokémon be ready to appear before humans always.
Thus, to this day, Pokémon appear to us if we venture into tall grass.
はるか昔、シンオウができて間もなかったころ、ポケモンと人間は別々の暮らしを送っていた。
彼らがたがいに助けあっていなかったというのではない。いやそれどころか、事実は助けあっていたのだ。
彼らはたがいに品物を与えあい、たがいに援助しあっていた。
あるポケモンがほかのポケモンたちに、いつでも人間たちを助ける用意をしておこうと提案した。
ポケモンたちがいつでも人間たちのまえに現れる用意をしておくよう求めたのだ。
こうして今日でもなお、草むらに分け入るとポケモンが私たちに向かって現れるのである。
1 行め後半から 2 行め末までは、日本語版に対応する原文がない独自の追加になっている (そしてこれは重訳によって残り 4 言語に波及する)。ここではまず始まりの時代においてはポケモンと人間が別々に暮らしていたことが確言されている。しかしたとえこれがなくとも、「あるポケモン」が提案を行うまでは草むらでかならず会えるわけではなかったのだから、分かれて暮らしていたはずだというのは論理的な帰結であって日本語版からも読みとれないことはない。

これによってより明瞭に示唆されるのは、人とポケモンが物を贈りあい助けあっていたというとき、彼らは原則的にはたがいの姿を見ることなくこの関係を続けていたようだということである。それはたとえば森のなかの空き地のような、両者のコミュニティの境界上にある決まった場所で、そっと獲物や採集物を横たえておくというような形で行われたのだろう (これがもう少し発展すると、アイヌにおいても行われていた沈黙交易を連想させる。瀬川前掲書 106 頁以下を参照)。ただし「あるポケモン」がそれでは「いつも」人を助けることはできないと悟って提議を行ったのだから、それまでの顔をあわせない交換は不定期で不確実なものであったこともわかる。


ドイツ語版:Die Mythologie der Region Sinnoh

Vor langer Zeit, als Sinnoh entstand, lebten Pokémon und Menschen unabhängig voneinander.
Das heißt aber nicht, dass sie sich nicht gegenseitig geholfen haben. Dies haben sie in der Tat getan.
Sie versorgten sich gegenseitig mit Waren und unterstützten einander.
Ein Pokémon schlug den anderen vor, stets den Menschen zu helfen.
Und es bat die anderen Pokémon, stets vor den Menschen zu erscheinen.
Und so erscheinen, bis zum heutigen Tag, Pokémon vor den Menschen, wenn diese durch hohes Gras laufen.
はるか昔シンオウが起こったころ、ポケモンと人間はたがいに依存せずに暮らしていた。
とはいえ彼らが相互に助けあわなかったというのではない。実際にはそれを彼らはしていたのだ。
彼らは相互に品物を与えあい、たがいを援助しあっていた。
あるポケモンがほかのポケモンたちに、いつでも人間を助けることを提案した。
そしてほかのポケモンたちに、いつでも人間のまえに姿を現すことを求めた。
こうして今日に至るまで、ポケモンたちは人間たちが草むらに飛びこむとそのまえに現れるのである。
1 行めではほかの言語が「分かれて、離れて」と言っているところを unabhängig「依存せず、独立して」としている。続きにあるとおり相互援助は行われていたわけだが、かりに相手が存在しなくてもポケモンはポケモンだけ、人間は人間だけで生活や社会が成り立っていたことになる。

あとは 4–5 行めで「助ける」「現れる」について「用意しておく」が消えたこと——これによってかえって日本語版に近づいた——以外は英語版と選ぶところがないため、新しく説明することはない。


フランス語版:Mythologie de la région de Sinnoh

Il y a fort longtemps, peu après la création de Sinnoh, les gens et les Pokémon vivaient séparément.
Ce qui ne veut pas dire qu’il n’y avait aucune entraide, loin de là.
Ils échangeaient de la nourriture et se soutenaient mutuellement.
Un Pokémon proposa aux siens d’être toujours prêts à aider les humains.
Il leur demanda d’aller au devant des humains pour leur proposer leur aide.
Depuis, les Pokémon se montrent à ceux qui s’aventurent dans les hautes herbes.
久しき昔、まだシンオウが作られてほどないころ、人とポケモンは分かれて暮らしていた。
助けあいがなかったというのではない。それとは程遠い。
彼らは食べものを交換し、たがいに支えあっていた。
あるポケモンが仲間たちに、いつでも人間たちを助ける用意をしておこうと提案した。
彼ら〔=人間たち〕に対し助けを申し出るために、人間たちのまえに先回りすることを求めたのだ。
それ以来、ポケモンは草むらに突っこむ人々のまえに姿を現す。
興味深い差異は第 3 行で、取引するものが nourriture「食品」に限定されていることで、フランス語版独自の点である。これは日本語の「もの」や英 goods、独 Waren などが——食べものを含みつつも——より広い一般の品物を思わせることと対照的である。これはポケモンが人工的な道具を使わないという理解から出た翻訳であろうか。あるいはこの原始の時代には人間もまだ道具をもっていなかったと考えたのかもしれない。

もう 1 点、第 5 行ではポケモンが人間のまえに登場することにつき、leur proposer leur aide「彼らに自分たちの援助を持ちかける」という目的が補われている。aller au devant de「先回りする」という述語ともあいまって、ポケモン側の主体的な意志、人間を助けることへの積極性が強調されているように見受けられる。そして相対的に、人間がまだ弱く無力であるという印象が強まっている。


イタリア語版:Mitologia della regione di Sinnoh

Tanto tempo fa, agli albori della regione di Sinnoh, Pokémon ed esseri umani vivevano vite separate.
Questo non significa che non si aiutassero vicendevolmente.
Al contrario, si procuravano prodotti e si sostenevano a vicenda.
Un Pokémon avanzò agli altri la proposta di essere disponibili con gli uomini.
Chiese che i Pokémon fossero pronti a comparire sempre di fronte agli umani.
Per questo al giorno d’oggi i Pokémon ci compaiono davanti nell’erba alta.
ずっと昔、シンオウ地方の黎明期には、ポケモンと人間は別々の暮らしを送っていた。
これは彼らが相互に助けあっていなかったという意味ではない。
その反対に、彼らは品物を世話しあい、たがいを支えあっていたのだ。
あるポケモンがほかのポケモンたちに、人間たちに協力する準備をしておこうという提案を出した。
いつでも人間たちのまえに現れる用意をしておくよう求めたのだ。
このために今日ポケモンたちは草むらのなかで私たちのまえに現れるのである。
ドイツ語版と同様、英語版との違いがまったくと言っていいほどなく、したがって新たにわかることもない。


スペイン語版:Mitología de la región de Sinnoh

Hace mucho tiempo, cuando se creó Sinnoh, Pokémon y humanos tenían vidas separadas.
Esto no quiere decir que no se ayudaran mutuamente, todo lo contrario.
Se intercambiaban bienes y se apoyaban unos a otros.
Un Pokémon propuso a los demás estar siempre dispuestos a ayudar a la gente.
Pidió que los Pokémon acudieran siempre a la llamada de los humanos.
Y, desde entonces, los Pokémon se aparecen al caminar por la hierba alta.
ずっと昔、シンオウが作られたころ、ポケモンと人間は別々の暮らしをしていた。
これは彼らがたがいに助けあっていなかったと言いたいのではなく、まったくその反対である。
彼らは財産を交換し、たがいにたがいを支えあった。
あるポケモンがほかのポケモンたちに、いつでも人間たちを助ける準備をしておこうと提案した。
ポケモンたちがいつでも人間たちの呼びかけに駆けつけられるよう求めたのだ。
そうしてそのとき以来、ポケモンたちは草むらを歩いているときに現れるのである。
このスペイン語版で唯一にして最大の特色として、第 5 行では人間たちの llamada「呼びかけ、呼び声」に対してポケモンたちが馳せ参じることになっている。ポケモンのほうがさきに準備万端整えている点ではほかと変わりないが、人間側の能動性が必要とされている点で興味を引く。ポケモンが常時主導権を握っているフランス語版のテクストとは逆を行っていることになる。

しかしこれもまったく根拠なく言いだしたというよりは、どの版でも人間は草むらに思いきって飛びこむことが最後のひと押しとして要求されていることでは共通しているので、草むらへの冒険=ポケモンへの呼びかけという点を鮮明にした表現であると解しうる。このように多言語を通じて書きなおし/読みなおすことで、同じ事柄でも多角的に見なおして新たな光をあてられるということの好個の証左と言えよう。


総括とあとがき

  • ポケモンが飛びだす現象を古代人なりに説明したこの物語は純然たる神話と呼べる。
  • シンオウ地方が誕生して間もない最初の時代、ポケモンと人間は分かれて暮らしていた。
  • 両者はおそらくたがいの顔を見ることなく間接的にものを融通しあっていた。
  • その取引するものはとくに食べものに限定されていたかもしれない。
  • ポケモンには人間を助けようという積極的な意志がある。
  • 人間が危険を冒して草むらに飛びこむことがポケモンへの意思表示となる。

改めて確認すると、このように英語版のみならずフランス語版やスペイン語版から、それらの独自な点を抜きだして新たな発見とみなすことには一定の危うさもある。日本語から英語、英語からフランス語へと翻訳を重ねるにつれて、不可避的に生じるわずかな言いまわしの違いを針小棒大に取りあげているのではないかといううらみはある。さらに、時としてそれぞれのバージョンがたがいに矛盾し不整合をきたすことさえありうる件を重く見れば、これらを平等かつ統合的に扱うことには原理的に方法論的な困難があると言わざるをえない。

しかるに、すべての版はそのそれぞれの言語のプレーヤーにとっての真実であるということもまた否定しえないであろう。そしておよそ作品というものは——小説・映画・ゲームなどなんであれ——いったん作者の手を離れて公の世に問われたらば、あとは作者であれ変えることのできない自律・独立した存在となる (変えたとすればそれは新旧 2 つの異なるバージョンでしかない)。よしんば翻訳が理想的に遂行されていないとしても、英語のシンオウの世界、フランス語のシンオウの世界、等々はすでに存在してしまっている。

それらは日本語のシンオウの世界とどのような関係を取り結ぶのだろうか。関係がないということはありえない。まったく同じ自然環境があり、まったく同じ姿形の人間たちとポケモンたちがいて、さらに彼らはまったく同じ行動をとる。日本語でシンオウ神話を読んでも、フランス語で読んでも、それぞれの世界のアカギやシロナやその他すべての人々は完全に同じ歴史をたどるのである。各言語版の世界におけるシンオウ神話の偏差は、誰の行動にも寸毫の変化をももたらさないほど小さいことの証拠であろう。

このように考えてくるとき、じつは日本語のシンオウの世界でさえひとつのバージョンにすぎないのではないか、という相対化の契機にわれわれは逢着する。これまでの 3 回の——そして今後も続く——ケーススタディから判明するように、われわれの目に見えている各言語版のシンオウ神話にはそれなりの相違点があり、とくに日本語版とそれ以外との違いは大きい。もし内容の違うものを読んでいるなら理解も異なり、そこから受ける影響もなにかしら違ってくるはずではないか。そのことはミオ図書館の蔵書のみならず、作中のありとあらゆる文書や発言のすべてについて言えるため、なんらの変化も生じないということはとうてい考えがたいのだが、現に世界にそういうことは起こっていない。

このことをもっとも合理的に説明する仮説は、本当はシンオウの世界で話されているのは「シンオウ語」とでも名づくべき、日本語とはまた異なるひとつの言語であって、日本語版とてもその翻訳に過ぎないという考えかたである。実際にはシンオウ語で動いている世界ただひとつだけが存在して、その唯一の世界の歴史をわれわれは日本語や英語などへの翻訳を通して目撃している、だから何語で読んでも起こるできごとが一定なのだというわけだ。

シンオウ語の存在が決して突飛な推測などでないことは、作中の固有名詞からも裏づけられる。ディアルガ (Dialga)、パルキア (Palkia)、アルセウス (Arceus) といった名称はどう考えても日本語ではないが、そういう名前の存在が神話の昔からこの土地には伝わってきているのである。これらのポケモンは日本語を含むどの言語でも共通する名前で呼ばれており、日本語も英語その他もシンオウ語本来の音の転写をしているものと考えられる。これに対して、主人公や博士やジムリーダーらの人名や町々の地名は各国語版で異なっているため、シンオウ語における名前——それらの原音は知りえない——を訳してわかりやすくしているものと理解しうる。

したがって、われわれはふつう、日本語版の世界がオリジナルであって日本語のテクストが唯一の正文であると考えがちだが、それはこのゲームが日本で制作されたと知っていることから来る、まったくメタ的な視点からもたらされる先入見であった。自律した作品世界内の人々にとってはそんなことは知ったことではないのである。現実には日本語版のテクストがまず書かれ、それが英語その他に翻訳されていることは言うまでもないが、そのような論理はゲーム作品の制作史の研究、制作過程の社会学ではありえても、シンオウ世界そのものの理解に際しては力をもたない。レイヤーが異なるのだ。

どの言語のプレーヤーも、実際にはシンオウ語を話す作中の人々の言葉を翻訳で読んでいるにすぎないのだとすれば、どうして日本語版テクストが特権的位置を占めると言えるか。むしろ日本語版も英語版もフランス語版もすべて平等な立ち位置にあることにはならないか。これが翻訳比較によるシンオウ神話研究を正当化する論理である。どの言語版も「シンオウ語の原文」の意味をいくらかずつ伝えているのであって、だからこそ日本語版だけではなくすべての翻訳を参照するべきなのである。……以上はいわば形而上学的な理由づけであったが、これに加えて翻訳比較には、上にスペイン語版の項で言及したようなプラグマティックな効用もあることを確認しておく。

そうはいっても、最初に触れた方法論上の問題点が解消されたわけではない。内容の整合しない複数のテクストがあったときどのように取り扱うべきか、それをたとえば単純な多数決に依拠することはあまり実りある結果を生むとは思われない。「現実には」独・仏・伊・西語版は英語版からの重訳によっていることがその原因であるが、そのことを形而上学的な議論とどう接続するべきかは未解決である。

さらに、私はさきに「シンオウむかしばなし その3」を扱ったおりに、人とポケモンとの結婚という日本語版 (と中国語版) に特有の記述を強く擁護すべき立場を表明したけれども、これは今回到達したような各言語版を平等に遇するべきという視座からすれば再考を余儀なくされるであろう。だがすでに抽象的な議論が長くなりすぎたゆえ、以上の問題点の検討についてはまた他日を期したい。

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