主著『我と汝』で知られるあのマルティン・ブーバー (1878–1965) が,若いころ (1914 年) になんと中世ウェールズの物語集『マビノギオン』(Mabinogion) をドイツ語訳していたということをみなさんはご存知でしたか?
どうもこのころの彼は『マビノギオン』だけでなくいろいろと世界各地の神話・民話に興味をもっていたということで,同じ 1910 年代前半に彼はフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』から中国の民間伝承『聊斎志異』まで手広く翻訳を手がけているとの由 (この情報は小野文生「マルティン・ブーバーの聖書解釈における〈声〉の形態学」によりました).
ただしこの訳業はドイツ語版 Wikipedia ですら彼の業績や主著一覧のなかに載っていないので,そうとう忘れられた仕事なのだと思います.私は『マビノギオン』のドイツ語訳を探していてこれを知りましたが,ブーバーのほうから調べてもなかなかこの件は出てこないので,最初 Martin Buber という同姓同名の別人なのかと疑いました.
ただしこの訳業はドイツ語版 Wikipedia ですら彼の業績や主著一覧のなかに載っていないので,そうとう忘れられた仕事なのだと思います.私は『マビノギオン』のドイツ語訳を探していてこれを知りましたが,ブーバーのほうから調べてもなかなかこの件は出てこないので,最初 Martin Buber という同姓同名の別人なのかと疑いました.
さて Insel Verlag から刊行されたブーバーの 1914 年版『マビノギ四枝』(Die vier Zweige des Mabinogi) は archive.org で閲覧できますが,昔のフラクトゥールで組まれているので慣れるまではちょっと読むのが骨です.私の手もとにあるものは同じインゼル社から 1966 年に再版されたもので,現代の活字に直されています.いちおう Amazon.de のリンクを貼ってみましたがもちろん新本は絶版で,Abebooks 経由で古本を入手しました.
『マビノギオン』というのは中世のウェールズ語で書かれた物語集で,現在に伝わっているのは 14 世紀の 2 つの写本がいちばんまとまった形です.その翻訳の歴史についてはまたそのうち別途まとめてみたいつもりでおりますが,これは 19 世紀前半のうちに現在でも有名なシャーロット・ゲスト女史 (Lady Charlotte Elizabeth Guest) による全部の英訳と,先駆的にはその数十年まえにウィリアム・オーウェン・ピュー (William Owen Pughe) という研究者によるごく一部 (プイス Pwyll とマース Math の 2 話) の英訳がありまして,そのあと 1889 年にフランスのケルト語学者ジョゼフ・ロト (Joseph Loth) による仏訳が登場しその新版が 1913 年に出ます.ここまでがブーバーが入手しえた現代語訳になります.
ではブーバーは中期ウェールズ語 (Middle Welsh) を解したのかというとこれがよくわからなくて (もしヘブライ語に加えてウェールズ語・フィンランド語・中国語という,語派どころか語族レベルでばらばらの言語をぜんぶ読みこなしたとしたら恐るべきことです),先述の 1966 年版を見てみても彼がなにをもとに訳したのかどこにも書いていないっぽいんですね.序文ではシャーロット・ゲスト版とロトの仏訳 (わずか 1 年の差なのに 1913 年の新版にもきちんと言及している),それに現在でも一目置かれている 1887 年の John Rhys と John Gwenogvryn Evans による『ヘルゲストの赤い本』の翻刻版 (The Text of the Mabinogion from the Red Book of Hergest) には言及していますが,どれをもとに訳したというようなことはどうやら述べられていません.
それで私もまだ自分で詳しく検討したわけでないのではっきりしたことは言えないのですが,どうもルートヴィヒ・ミュールハウゼン (Ludwig Mühlhausen) 編の『マビノギ四枝』(Die vier Zweige des Mabinogi (Pedeir Ceinc y Mabinogi), 初版 1925) の増補改訂版 (1988) に付されたシュテファン・ツィマー (Stefan Zimmer) による序文 (S. XIII) の脚注に,ブーバーの訳は「ロト〔の仏訳〕によっていると推定される」(„vermutlich nach J. Loth“) と書かれていてびっくりしました.
これが事実なら仏訳からの重訳ということになりますが,底本を明らかにすることは現在ではあたりまえと考えられているところ (同時代の研究者の手の入った重訳ならなおさら),100 年あまり昔の当時にはそうでもなかったのでしょうか.いえ,フランス語版について述べる次回に触れるとおり,ブーバー訳のさらに 70 年まえ (1842 年) にゲスト夫人の英訳からの重訳と断らず仏訳を発表した人物が非難される事件があったので,やはりこの時代にも問題であったはずです.
さて前掲のミュールハウゼンのマビノギ四枝は校訂版であって訳はついていないので,ブーバー以後『マビノギオン』のドイツ語訳は長らく現れず,かなり最近 (1999 年) になってケルト学者ベルンハルト・マイヤー (Bernhard Maier) による翻訳 Das Sagenbuch der walisischen Kelten: Die vier Zweige des Mabinogi がようやく出ました (ケルトの神話や文化に詳しい人なら,『ケルト事典』の著者として聞き覚えのある名前でしょう).これもまたマビノギの四つの枝だけの翻訳ですが,中期ウェールズ語からの初訳 („Erstmals ... aus der Originalsprache, dem Mittelkymrischen“) とはっきり書かれています (ということはやっぱりブーバーのものはそうでないと考えられていることになります).日本の Amazon から買えて送料込 1 000 円ちょっととたいへんお買い得です.
では四枝以外の 7 つないし 8 つの物語についてはドイツ語訳がないのかというと,これは私は実物未見ですが,上記ミュールハウゼン改訂版の編者であるツィマーが,2006 年に Die keltischen Wurzeln der Artussage: Mit einer vollständigen Übersetzung der ältesten Artuserzählung Culhwch und Olwen という書籍を出しているようです.タイトルどおりなら『キルフーフとオルウェン』の物語の全訳を含んでいるということで,版元のページによる商品説明にも「初期ウェールズ語のテクスト」(„Frühe walisische Texte“) という文言が見えます.これ以外については寡聞にして存じません.
末筆になりますが,わが国日本ではなんと 2000 年に中期ウェールズ語からの完訳,中野節子訳『マビノギオン―中世ウェールズ幻想物語集』が JULA 出版局から刊行されています.たいへんな偉業なのでぜひとも買い支えてあげてください.そのほかシャーロット・ゲスト版からの翻訳が北村太郎訳 (1988 年) と井辻朱美訳 (2003 年) で知られています.より断片的あるいは間接的な紹介はほかにもあるみたいですが,まとまった形としてはこの 3 つですべてでしょうか.
『マビノギオン』というのは中世のウェールズ語で書かれた物語集で,現在に伝わっているのは 14 世紀の 2 つの写本がいちばんまとまった形です.その翻訳の歴史についてはまたそのうち別途まとめてみたいつもりでおりますが,これは 19 世紀前半のうちに現在でも有名なシャーロット・ゲスト女史 (Lady Charlotte Elizabeth Guest) による全部の英訳と,先駆的にはその数十年まえにウィリアム・オーウェン・ピュー (William Owen Pughe) という研究者によるごく一部 (プイス Pwyll とマース Math の 2 話) の英訳がありまして,そのあと 1889 年にフランスのケルト語学者ジョゼフ・ロト (Joseph Loth) による仏訳が登場しその新版が 1913 年に出ます.ここまでがブーバーが入手しえた現代語訳になります.
ではブーバーは中期ウェールズ語 (Middle Welsh) を解したのかというとこれがよくわからなくて (もしヘブライ語に加えてウェールズ語・フィンランド語・中国語という,語派どころか語族レベルでばらばらの言語をぜんぶ読みこなしたとしたら恐るべきことです),先述の 1966 年版を見てみても彼がなにをもとに訳したのかどこにも書いていないっぽいんですね.序文ではシャーロット・ゲスト版とロトの仏訳 (わずか 1 年の差なのに 1913 年の新版にもきちんと言及している),それに現在でも一目置かれている 1887 年の John Rhys と John Gwenogvryn Evans による『ヘルゲストの赤い本』の翻刻版 (The Text of the Mabinogion from the Red Book of Hergest) には言及していますが,どれをもとに訳したというようなことはどうやら述べられていません.
それで私もまだ自分で詳しく検討したわけでないのではっきりしたことは言えないのですが,どうもルートヴィヒ・ミュールハウゼン (Ludwig Mühlhausen) 編の『マビノギ四枝』(Die vier Zweige des Mabinogi (Pedeir Ceinc y Mabinogi), 初版 1925) の増補改訂版 (1988) に付されたシュテファン・ツィマー (Stefan Zimmer) による序文 (S. XIII) の脚注に,ブーバーの訳は「ロト〔の仏訳〕によっていると推定される」(„vermutlich nach J. Loth“) と書かれていてびっくりしました.
これが事実なら仏訳からの重訳ということになりますが,底本を明らかにすることは現在ではあたりまえと考えられているところ (同時代の研究者の手の入った重訳ならなおさら),100 年あまり昔の当時にはそうでもなかったのでしょうか.いえ,フランス語版について述べる次回に触れるとおり,ブーバー訳のさらに 70 年まえ (1842 年) にゲスト夫人の英訳からの重訳と断らず仏訳を発表した人物が非難される事件があったので,やはりこの時代にも問題であったはずです.
さて前掲のミュールハウゼンのマビノギ四枝は校訂版であって訳はついていないので,ブーバー以後『マビノギオン』のドイツ語訳は長らく現れず,かなり最近 (1999 年) になってケルト学者ベルンハルト・マイヤー (Bernhard Maier) による翻訳 Das Sagenbuch der walisischen Kelten: Die vier Zweige des Mabinogi がようやく出ました (ケルトの神話や文化に詳しい人なら,『ケルト事典』の著者として聞き覚えのある名前でしょう).これもまたマビノギの四つの枝だけの翻訳ですが,中期ウェールズ語からの初訳 („Erstmals ... aus der Originalsprache, dem Mittelkymrischen“) とはっきり書かれています (ということはやっぱりブーバーのものはそうでないと考えられていることになります).日本の Amazon から買えて送料込 1 000 円ちょっととたいへんお買い得です.
では四枝以外の 7 つないし 8 つの物語についてはドイツ語訳がないのかというと,これは私は実物未見ですが,上記ミュールハウゼン改訂版の編者であるツィマーが,2006 年に Die keltischen Wurzeln der Artussage: Mit einer vollständigen Übersetzung der ältesten Artuserzählung Culhwch und Olwen という書籍を出しているようです.タイトルどおりなら『キルフーフとオルウェン』の物語の全訳を含んでいるということで,版元のページによる商品説明にも「初期ウェールズ語のテクスト」(„Frühe walisische Texte“) という文言が見えます.これ以外については寡聞にして存じません.
末筆になりますが,わが国日本ではなんと 2000 年に中期ウェールズ語からの完訳,中野節子訳『マビノギオン―中世ウェールズ幻想物語集』が JULA 出版局から刊行されています.たいへんな偉業なのでぜひとも買い支えてあげてください.そのほかシャーロット・ゲスト版からの翻訳が北村太郎訳 (1988 年) と井辻朱美訳 (2003 年) で知られています.より断片的あるいは間接的な紹介はほかにもあるみたいですが,まとまった形としてはこの 3 つですべてでしょうか.
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