mardi 30 mai 2017

『星の王子さま』で学びたい世界の言語

私は『星の王子さま』(Le Petit Prince) に関してはちょっとしたオタクで,多数ある日本語訳と関連書籍,それに各国語訳をも含めると計 100 冊くらいの蔵書を有しています〔追記。2020 年 9 月には 200 冊になりました〕.もっとも『星の王子さま』には世界中に熱心な愛好家たちがいて,世界のオタクのなかには 1 000 冊を軽く超えていく蒐集家が何人もいるので,この程度ではあまり自慢にならないのですが.

その翻訳先言語の数は,三野博司『「星の王子さま」事典』(大修館書店,2010 年) によると「二〇〇九年九月までに〔……〕二〇八となっている」(198 頁) と言い,その後も増えつづけていることが示唆されています.これは一説には聖書に次いでもっとも多く翻訳された作品だとも聞いたことがありますが,三野によれば「毛沢東とレーニンの著作に次いで、四位を占める」(同書,200 頁) ということです.いずれにせよ,文学作品のなかではもっとも多くの言語に訳されているようです.

ここ 10 年ほどはとりわけドイツのティンテンファス出版 (Edition Tintenfaß, 「インク壺」の意) から,同じ版型の白い表紙で統一感のある装丁で,次々に世界中の言語・方言で『星の王子さま』の翻訳が刊行されています.一般に各国でばらばらに出版されている各国語訳は,Amazon も進出していない国や地方となると入手に相応の手間がかかる (もしくは根本的に入手不可) のですが,このシリーズだけは日本の Amazon からも購入しやすいためおすすめで,驚くべきことに古英語中英語古高ドイツ語中高ドイツ語版なんてものも出ています.もちろん私はぜんぶ買っています (読んだとは言っていない).

『星の王子さま』に限らず,同じ文章,意味の判明している文章 (翻訳の等価 equivalence についての難しい問題は脇に置くとして) がいくつもの言語に訳されているということは,それを用いて語学の学習に役立てられるのでないかという期待を抱かせます.しかも日本語訳が最たる例ですが,ひとつの言語のなかでも何通り (ときには何十通り) もの翻訳があるとなれば,表現の言いかえを知るにも好個の材料を提供してくれそうです.

むろんあくまで翻訳表現である危険性がある,少なくとも翻訳元のフランス語の影響がありうるという難点がありますから (じっさい日本語でも「いかにも翻訳調の文」というのはありますね),その言語を学びたいなら最初からその言語のオリジナルで書かれた文学作品のほうがよいという意見は可能ですが,そうなると前述した複数通りの表現比較はありえないということ,そしてマイナーな言語の作品となると日本語訳はおろか英訳なども存在しないか入手困難ということも多いので,「答え」がないのでは学習用には使いづらいのが実情です.

星の王子さま』にはそれらをクリアする利点があるわけですが,ここでもうひとつ懸念となる (というか偏見がありそうな) のは,『星の王子さま』は子ども向けの作品なので大人の言語学習には向かないという疑いです.なるほど幼児向けの絵本のように平易な言葉で何度も同じパターンの文章を繰りかえし,たとえば時制も現在形しか出てこないというようなことであれば役には立ちませんが,『星の王子さま』はまったくそうではありません.

三野博司『「星の王子さま」で学ぶフランス語文法』(大修館書店,2007 年) という本があります.フランス語は緻密に体系立った文法,とりわけ複雑な時制組織をもつ言語です.この本は文法の解説に際して極力実際に作中にある例をとっているのですが,これを見ると『星の王子さま』の作中にはほとんどありとあらゆる文法事項の実例が見いだされること,とくに時制について言えば大過去や前未来,単純過去,そのうえ条件法過去に接続法半過去・大過去すらも確認されることがわかります!(惜しくも直説法前過去だけは見られないようです)

こうした豊かな時制,それからフランス語学習のもうひとつの難所である中性代名詞 en, y, le などといったさまざまな文法事項が,各国語訳でどのように反映されているのかを見るのは楽しいことです.言うまでもなくフランスにはフランス人が他国語を学ぶための語学書があり,また逆に世界各国にはその国の言葉でフランス語の文法を教える語学書があります.私はそうした世界中の語学書も好んで集めていますが,『星の王子さま』を各国語で読むことは,そういう各国語とフランス語との文法知識のインタラクションを思い起こさせます.

直近の体験では 1 年ほどまえに,リトアニア語を勉強してリトアニア語版の『星の王子さま』(Mažasis princas; ヴィータウタス・カウネツカス Vytautas Kauneckas 訳とプラナス・ビエリャウスカス Pranas Bieliauskas 訳の 2 通り存在します) に取り組んだことがあります (通読とはいきませんでしたが).リトアニア語は豊富な分詞の体系をもち,それでもって微妙な時間的関係を表現する言語で,現在・過去・未来それから習慣過去という耳慣れない時制それぞれの能動分詞,現在・過去・未来の受動分詞に「必要分詞」と「半分詞」,そして現在・過去・未来の「副分詞」という恐るべきバリエーションがあります.

ということはこれらを縦横無尽に駆使することで,フランス語の複雑な時制を翻訳文に表現することができるわけで,実際にリトアニア語訳にはありとあらゆる分詞が見られました.前述のようなフランス語の複合時制をさまざまな時制と法のコピュラ + 能動/受動分詞に移すことはもちろん,付帯状況のジェロンディフ « tout en regardant mon avion »「僕の飛行機を見ながら」(第 3 章) は半分詞 „žiūrėdamas į mano lėktuvą“ に,また « J’étais bien plus isolé qu’un naufragé sur un radeau au milieu de l’océan »「(直訳) 海のただなかで筏の上の難船した人よりもずっと孤独だった」(第 2 章) は,que 以下を „negu žmogus, laivui sudužus, klaidžiojantis plaustu vidury vandenyno“「船が難破してしまい,海のただなかで筏によって漂っている人より」というふうに,原文では名詞的な過去分詞のなかに含意されている「船が難破した」という主節と異なる主語の過去の動作を過去副分詞の独立分詞構文に変え,そして彼が現在漂流していることを現在能動分詞で表しています.またフランス語の半過去はしばしば習慣過去に移っていました.

こういう調子でまんべんなく文法事項がちりばめられているわけですから,おそらく『「星の王子さま」で学ぶリトアニア語文法』もやろうと思えば有意義なものになるはずで (望むらくは自分で作りたいのですが),これはどんな言語にも敷衍できる話だということは想像に難くありません.それだけ『星の王子さま』は教育的にも優れた作品なのです.

星の王子さま』でフランス語を学ぼうという趣旨の本は,前出の三野のフランス語文法のほかに,
などがあります.また変わったところでは,1958 年のノーラ・ガリ (Нора Галь) によるロシア語訳『星の王子さま』(Маленький принц) をもとに対訳と語注をつけた,
という本もあります.看板どおり訳と注はロシア語訳にもとづいてつけられているので,フランス語原文とは内容が異なっている部分があります (たとえば第 2 章冒頭に « à mille milles de toute terre habitée »「人の住むあらゆる地から千マイル……」とありますが,ノーラ・ガリ訳では «на тысячи миль вокруг» と複数対格なので「何千マイル」となっています).この本は私の知るかぎり,フランス語以外の言語についての唯一の試みです.

さきのリトアニア語の話ではありませんが,もっとこうしたものがどんどん増えてくれればよいのですが,今度は翻訳後の作品についての著作権も問題になりますから,なかなか実現が難しいのでしょうか.

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