前回は『マビノギオン』のドイツ語訳の状況について,幻の (?) マルティン・ブーバー訳を中心に紹介しましたが,今日はそれに引きつづいてフランス語訳 Les Mabinogion の来歴について概観しましょう.
前回すでに触れましたが,まずはジョゼフ・ロト (Joseph Loth, 1847–1934) による 1889 年および 1913 年の訳業が挙げられます.彼の訳は現在「マビノギオン」と呼ぶときにいちばん一般的なくくりである 11 話 (シャーロット・ゲスト版の 12 話からタリエシンの物語を除いたもの) すべての完訳であり,フランス語では 1993 年に後述する新訳が登場するまでは唯一の選択肢でありつづけました.
その仏訳は先駆的な仕事としては驚くほどに正確かつ充実したものであったようで,中期ウェールズ語から日本語への直接訳という大業を達成された中野節子氏も「ゲスト夫人訳よりも原典に忠実な訳で、注も豊富である」(p. *32) と評するほか,ゲスト夫人訳の省略にはもちろん第 2 の英訳 Ellis and Lloyd (1929) にも若干の不満を漏らす Jones and Jones (1949) がロトには ‘brilliant French translation’ との一言です (Everyman Library 1993 年版,p. xxviii.これは言語の違いのためもあるかもしれませんが).ブーバーが翻訳の種本にするのも納得というものです.
フランス語版 Wikipedia によればこのジョゼフ・ロトは,1847 年,現在のブルターニュ地域圏の中央やや西寄りにあるゲムネ゠スュル゠スコルフ (Guémené-sur-Scorff) に生まれていますから,おそらく幼いころからブルトン語には親しむ機会があったのでしょう.1870–71 年の普仏戦争が終わったあと,彼より 20 歳年上のケルト学者アンリ・ダルボワ・ド・ジュバンヴィル (Henri d’Arbois de Jubainville ; また稿を改めて述べるつもりですが,こちらは『クアルンゲの牛捕り』の最初の仏訳者です) と知りあったことがきっかけでケルト諸語の研究に入ります.
彼の初期の研究業績としては 1883 年の『5–7 世紀におけるアルモリカへのブルトン〔ブリトン〕人の移住』(L’Émigration bretonne en Armorique du Ve au VIIe siècle de notre ère),そして翌 1884 年の『古ブルトン語の語彙』(Vocabulaire vieux-breton) があり,この後者はウェールズ語・コーンウォール語・ブルトン語・アイルランド語はもとよりラテン語・ギリシア語・サンスクリット語などとも対照した比較言語学の労作です.こうした積み重ねが基礎となって 1889 年の『マビノギオン』完訳 (de Jubainville et Loth (éds.), Cours de littérature celtique, tt. III et IV) に結実したのでしょう.
その仏訳は先駆的な仕事としては驚くほどに正確かつ充実したものであったようで,中期ウェールズ語から日本語への直接訳という大業を達成された中野節子氏も「ゲスト夫人訳よりも原典に忠実な訳で、注も豊富である」(p. *32) と評するほか,ゲスト夫人訳の省略にはもちろん第 2 の英訳 Ellis and Lloyd (1929) にも若干の不満を漏らす Jones and Jones (1949) がロトには ‘brilliant French translation’ との一言です (Everyman Library 1993 年版,p. xxviii.これは言語の違いのためもあるかもしれませんが).ブーバーが翻訳の種本にするのも納得というものです.
フランス語版 Wikipedia によればこのジョゼフ・ロトは,1847 年,現在のブルターニュ地域圏の中央やや西寄りにあるゲムネ゠スュル゠スコルフ (Guémené-sur-Scorff) に生まれていますから,おそらく幼いころからブルトン語には親しむ機会があったのでしょう.1870–71 年の普仏戦争が終わったあと,彼より 20 歳年上のケルト学者アンリ・ダルボワ・ド・ジュバンヴィル (Henri d’Arbois de Jubainville ; また稿を改めて述べるつもりですが,こちらは『クアルンゲの牛捕り』の最初の仏訳者です) と知りあったことがきっかけでケルト諸語の研究に入ります.
彼の初期の研究業績としては 1883 年の『5–7 世紀におけるアルモリカへのブルトン〔ブリトン〕人の移住』(L’Émigration bretonne en Armorique du Ve au VIIe siècle de notre ère),そして翌 1884 年の『古ブルトン語の語彙』(Vocabulaire vieux-breton) があり,この後者はウェールズ語・コーンウォール語・ブルトン語・アイルランド語はもとよりラテン語・ギリシア語・サンスクリット語などとも対照した比較言語学の労作です.こうした積み重ねが基礎となって 1889 年の『マビノギオン』完訳 (de Jubainville et Loth (éds.), Cours de littérature celtique, tt. III et IV) に結実したのでしょう.
ロト訳の『マビノギオン』は 1979 年に Les Mabinogion : Contes bardiques gallois として Les Presses d’Aujourd’hui 社から,当時までの最新の情報を付した新しい紹介文つきで再版されています.この序文は 22 ページにわたるしっかりした分量のものですが,署名がなく本にも編者の名前がないので誰が書いたものかはわかりません.専門家によるものではなく出版社の編集部と考えるのが妥当でしょうか.当時のフランスの一般読者向けに概要を解説したものとして一定の役割があったでしょうが,そう思うと内容もどこか胡散臭いものです.
というのも,この解説文は冒頭で『レゼルフの白い本』の年代を「13 世紀」,『ヘルゲストの赤い本』を「14 世紀初頭」と称していますが (« le Livre blanc de Rhydderch datant du XIIIe siècle et le Livre rouge de Hergest rédigé au début du XIVe »),1970 年代末の研究状況に鑑みてもこれは根拠がなく,それぞれ 14 世紀前半から中葉,14 世紀末から 15 世紀初頭とする当時のコンセンサス (現在もほぼ同様) から 100 年ほどもずれています.じっさい,この序文は先行する英訳である Jones and Jones (1949) や Gantz (1976) に言及しているにもかかわらず,当の Gantz のイントロダクションでは『白本』を ‘c. 1325’, 『赤本』を ‘c. 1400’,Jones and Jones は順に ‘1300–1325’ と ‘1375–1425’ (これは Ford 1977 も同様), また R. L. Thomson の Pwyll Pendeuic Dyuet (1957) と D. S. Thomson の Branwen Uerch Lyr (1961) それぞれのイントロダクションは一致して ‘mid-fourteenth’ と ‘late fourteenth/early fifteenth’ に比定しています.さらに次のページではシャーロット・ゲスト夫人が「1833 年に」これら 11 の物語をひとつに集成したと書かれていますが (« le regroupement qu’effectua, en 1833, Lady Charlotte Guest de ces onze contes à première vue un peu disparates, pour leur première traduction en langue anglaise. »),これもなにかの勘違いではないかと疑ってしまいます.ゲスト夫人は 1838 年から 45 年 (49 年) にかけてタリエシンを含む 12 の物語を順次英訳・出版しますが,1833 年と言えば 21 歳の彼女がはじめてウェールズ語を学びはじめた年ですから.
ともあれそんな謎の解説文はさておいてロト本人による訳文そのものは評判がよかった仏訳ですが,1993 年にやはりケルト語学者であるピエール゠イヴ・ランベール (Pierre-Yves Lambert) がガリマール社から刊行した新訳 Les Quatre Branches du Mabinogi et autres contes gallois du Moyen Âge によって役目を終えてしまったのかもしれません.ランベールはさすがに新訳をあえて世に問うだけのことはあって,その序文は「ジョゼフ・ロトは 19 世紀ウェールズの文献学の伝統に依拠しすぎていた」(« Joseph Loth était trop dépendant de la tradition philologique du XIXe siècle gallois ») 云々と辛口です.
この新訳はシャーロット・ゲスト夫人と同じくタリエシンの話を含む 12 話構成という点でどちらかといえば例外的なつくりです.各話の冒頭には 1992 年までの学界の最新の研究動向を踏まえたおのおの数ページの解説が付されており,巻末には小さい活字で全 50 ページにも及ぶ注がつけられています.数ある英訳と比べてももっとも充実した決定版と呼ぶべき現代語訳のひとつと言え,2000 年の中野訳がまったく触れていないのはかえって不思議なほどです.
以上の 2 種が,フランス語でマビノギオン (マビノジョン) を読もうと思ったとき候補になる選択肢です.最後に余談として,時系列では逆順になってしまいますが,テオドール・エルサール・ド・ラ・ヴィルマルケ (Théodore Hersart de La Villemarqué) の発表した,ロト以前の「最初のフランス語訳」について一言触れておきましょう.
「ヴィルマルケ」をブルトン語に逐語訳したという「ケルヴァルケル」(Kervarker) の名でも知られる,ブルターニュ民族運動の英雄の一人であった彼は,1842 年に『古代ブルトン〔ブリトン〕人の民話』(Contes populaires des anciens bretons) という 2 巻本のなかで,マビノギオンを構成する 11 話のうちアーサー王ロマンスに属する 3 話,すなわちオワイン (Owain),ゲライント (Geraint),ペレディル (Peredur) の物語をフランス語訳しました (彼によるつづりでは Owenn, Ghéraint, Pérédur).
ところがこの仏訳をめぐってはひとつの醜聞があります.梁川英俊 (2004)「ラヴィルマルケとリューゼル (二) ―いわゆる『バルザズ・ブレイス論争』について」(『鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集』59: 53–80 頁) はそれを「シャーロット・ゲスト夫人との確執」とまとめており,この論文はオープンアクセスで閲覧できるのでその 60 頁以下を見ていただければいいのですが,要するにヴィルマルケは実際にはウェールズ語の知識に乏しく,ほとんどゲスト夫人の英訳からの重訳であったにもかかわらずそのことを明らかにしておらず,重訳と注の剽窃につき夫人から訴えられたという話です.
さきにも述べたとおり,シャーロット・ゲスト夫人は 1838 年から 49 年にかけて彼女の英訳を順次発表していくのですが,その手始めが『オワインあるいは泉の貴婦人』の物語で,ヴィルマルケが 1842 年に仏訳した 3 話はその時点までにゲスト夫人が英訳していたものに限られていたとのことです.前述した最新訳のランベールもそのイントロダクションで,ヴィルマルケの仏訳につき「1842 年に発表された彼の翻訳は,ゲスト夫人のそれに大きく依存していたにもかかわらず,そのことは言及されなかった」(« sa traduction, publiée en 1842, dépendait largement de celle de Lady Guest, bien que cela ne fût pas mentioné. ») と述べています (脚注によればこの指摘はもともとレイチェル・ブロミッチ R. Bromwich 1986 の見解であったようです).
というのも,この解説文は冒頭で『レゼルフの白い本』の年代を「13 世紀」,『ヘルゲストの赤い本』を「14 世紀初頭」と称していますが (« le Livre blanc de Rhydderch datant du XIIIe siècle et le Livre rouge de Hergest rédigé au début du XIVe »),1970 年代末の研究状況に鑑みてもこれは根拠がなく,それぞれ 14 世紀前半から中葉,14 世紀末から 15 世紀初頭とする当時のコンセンサス (現在もほぼ同様) から 100 年ほどもずれています.じっさい,この序文は先行する英訳である Jones and Jones (1949) や Gantz (1976) に言及しているにもかかわらず,当の Gantz のイントロダクションでは『白本』を ‘c. 1325’, 『赤本』を ‘c. 1400’,Jones and Jones は順に ‘1300–1325’ と ‘1375–1425’ (これは Ford 1977 も同様), また R. L. Thomson の Pwyll Pendeuic Dyuet (1957) と D. S. Thomson の Branwen Uerch Lyr (1961) それぞれのイントロダクションは一致して ‘mid-fourteenth’ と ‘late fourteenth/early fifteenth’ に比定しています.さらに次のページではシャーロット・ゲスト夫人が「1833 年に」これら 11 の物語をひとつに集成したと書かれていますが (« le regroupement qu’effectua, en 1833, Lady Charlotte Guest de ces onze contes à première vue un peu disparates, pour leur première traduction en langue anglaise. »),これもなにかの勘違いではないかと疑ってしまいます.ゲスト夫人は 1838 年から 45 年 (49 年) にかけてタリエシンを含む 12 の物語を順次英訳・出版しますが,1833 年と言えば 21 歳の彼女がはじめてウェールズ語を学びはじめた年ですから.
ともあれそんな謎の解説文はさておいてロト本人による訳文そのものは評判がよかった仏訳ですが,1993 年にやはりケルト語学者であるピエール゠イヴ・ランベール (Pierre-Yves Lambert) がガリマール社から刊行した新訳 Les Quatre Branches du Mabinogi et autres contes gallois du Moyen Âge によって役目を終えてしまったのかもしれません.ランベールはさすがに新訳をあえて世に問うだけのことはあって,その序文は「ジョゼフ・ロトは 19 世紀ウェールズの文献学の伝統に依拠しすぎていた」(« Joseph Loth était trop dépendant de la tradition philologique du XIXe siècle gallois ») 云々と辛口です.
この新訳はシャーロット・ゲスト夫人と同じくタリエシンの話を含む 12 話構成という点でどちらかといえば例外的なつくりです.各話の冒頭には 1992 年までの学界の最新の研究動向を踏まえたおのおの数ページの解説が付されており,巻末には小さい活字で全 50 ページにも及ぶ注がつけられています.数ある英訳と比べてももっとも充実した決定版と呼ぶべき現代語訳のひとつと言え,2000 年の中野訳がまったく触れていないのはかえって不思議なほどです.
以上の 2 種が,フランス語でマビノギオン (マビノジョン) を読もうと思ったとき候補になる選択肢です.最後に余談として,時系列では逆順になってしまいますが,テオドール・エルサール・ド・ラ・ヴィルマルケ (Théodore Hersart de La Villemarqué) の発表した,ロト以前の「最初のフランス語訳」について一言触れておきましょう.
「ヴィルマルケ」をブルトン語に逐語訳したという「ケルヴァルケル」(Kervarker) の名でも知られる,ブルターニュ民族運動の英雄の一人であった彼は,1842 年に『古代ブルトン〔ブリトン〕人の民話』(Contes populaires des anciens bretons) という 2 巻本のなかで,マビノギオンを構成する 11 話のうちアーサー王ロマンスに属する 3 話,すなわちオワイン (Owain),ゲライント (Geraint),ペレディル (Peredur) の物語をフランス語訳しました (彼によるつづりでは Owenn, Ghéraint, Pérédur).
ところがこの仏訳をめぐってはひとつの醜聞があります.梁川英俊 (2004)「ラヴィルマルケとリューゼル (二) ―いわゆる『バルザズ・ブレイス論争』について」(『鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集』59: 53–80 頁) はそれを「シャーロット・ゲスト夫人との確執」とまとめており,この論文はオープンアクセスで閲覧できるのでその 60 頁以下を見ていただければいいのですが,要するにヴィルマルケは実際にはウェールズ語の知識に乏しく,ほとんどゲスト夫人の英訳からの重訳であったにもかかわらずそのことを明らかにしておらず,重訳と注の剽窃につき夫人から訴えられたという話です.
さきにも述べたとおり,シャーロット・ゲスト夫人は 1838 年から 49 年にかけて彼女の英訳を順次発表していくのですが,その手始めが『オワインあるいは泉の貴婦人』の物語で,ヴィルマルケが 1842 年に仏訳した 3 話はその時点までにゲスト夫人が英訳していたものに限られていたとのことです.前述した最新訳のランベールもそのイントロダクションで,ヴィルマルケの仏訳につき「1842 年に発表された彼の翻訳は,ゲスト夫人のそれに大きく依存していたにもかかわらず,そのことは言及されなかった」(« sa traduction, publiée en 1842, dépendait largement de celle de Lady Guest, bien que cela ne fût pas mentioné. ») と述べています (脚注によればこの指摘はもともとレイチェル・ブロミッチ R. Bromwich 1986 の見解であったようです).
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