Carl Christian Rafn による 1832 年の版 Færeyínga saga eller Færöboernes historie i den islandske grundtekst med færöisk og dansk oversættelse をもとにした『フェーロー諸島人のサガ (フェロー人のサガ)』の試訳 (今回の 1–2 章は同書 s. 1–7)。この底本は表題のとおりフェーロー語訳・デンマーク語訳との対訳になっている。また翌 1833 年にはこれにさらに G. C. F. Mohnike のドイツ語訳を付した版が刊行されている。
アイスランドのサガは先達の努力によってかなりの程度まで日本語訳されているが、このサガはアイスランドが舞台でなく周辺的であるせいか、私の知るかぎり邦訳はまだないはずである (とりわけ日本アイスランド学会のサイト「中世北欧文学日本語翻訳リスト」を参照)。
ここに行う私の翻訳は Rafn のデンマーク語からの重訳である。ただし固有名詞は古アイスランド語の表記・発音に則っている (主格語尾の -r はわずらわしく略すこともふつうに行われているが、ここでは一貫してつけたままにした)。固有名詞は初出のさいに古アイスランド語の原語表記を付したが、それが原文で斜格の場合は私が主格に直しているので不測の誤りなしとしない。
そのほかデンマーク語の文意がよくわからないときもアイスランド語その他を参照することがあるが、これは逐一断っている。亀甲括弧〔……〕は訳者による敷衍ないし補足説明。また、段落については原文よりもかなり細かく短めに分けている。
1. グリームル・カンバン (Grímr Kamban) という名の男がいた。彼はフェーロー諸島に定住した最初の者で、それはハラルドゥル美髪王 (Haraldr hinn hárfagri)〔=ハーラル 1 世、在位 c. 871–c. 932〕の時代のことだった。そのころ王の支配の強さのゆえに逃亡する者が多く、そのうちのいくばくかがフェーロー諸島に落ちついて居を構えたが、またいくばくかはほかの未開の地を求めた。
アイスランドのサガは先達の努力によってかなりの程度まで日本語訳されているが、このサガはアイスランドが舞台でなく周辺的であるせいか、私の知るかぎり邦訳はまだないはずである (とりわけ日本アイスランド学会のサイト「中世北欧文学日本語翻訳リスト」を参照)。
ここに行う私の翻訳は Rafn のデンマーク語からの重訳である。ただし固有名詞は古アイスランド語の表記・発音に則っている (主格語尾の -r はわずらわしく略すこともふつうに行われているが、ここでは一貫してつけたままにした)。固有名詞は初出のさいに古アイスランド語の原語表記を付したが、それが原文で斜格の場合は私が主格に直しているので不測の誤りなしとしない。
そのほかデンマーク語の文意がよくわからないときもアイスランド語その他を参照することがあるが、これは逐一断っている。亀甲括弧〔……〕は訳者による敷衍ないし補足説明。また、段落については原文よりもかなり細かく短めに分けている。
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1. グリームル・カンバン (Grímr Kamban) という名の男がいた。彼はフェーロー諸島に定住した最初の者で、それはハラルドゥル美髪王 (Haraldr hinn hárfagri)〔=ハーラル 1 世、在位 c. 871–c. 932〕の時代のことだった。そのころ王の支配の強さのゆえに逃亡する者が多く、そのうちのいくばくかがフェーロー諸島に落ちついて居を構えたが、またいくばくかはほかの未開の地を求めた。
大金持ちのアウズル (Auðr hin djúpauðga) はアイスランドへ赴き、その途上でフェーロー諸島まで来たところ、そこで彼女は赤毛のソルステイン (Þorsteinn rauði) の娘オーロヴ (Ólof) を結婚させた。その女からフェーロー諸島人のもっとも家格の高い家柄は源を発するのであり、〔その一族は〕ゴートゥスケッグ (Götuskegg=ガータ Gata の髭男) と呼ばれており、東島 (Austrey)* に住んでいた。
* 「東島 Austrey」は Rafn のデンマーク語訳では Østerø、併記されたフェーロー語訳 (Johan Henrik Schrøter による) では Estroj となっており、この後者は現代の正書法に直せば Eysturoy である。これはそのまま現在 Eysturoy = Østerø と呼ばれている、フェーロー諸島で 2 番めに大きい島のことであって、言及されている Gøta (あるいは Norðragøta) の村はいまもこの島に現存する。
2. ソルビョルン (Þorbjörn) という名の男がいて、ゴートゥスケッグと呼ばれていた;彼はフェーロー諸島の東島に住んでいた。彼の妻はグズルーン (Guðrún) という名であった。
彼らには 2 人の息子がいて、そのうち兄のほうがソルラークル (Þorlákr)、弟のほうがスラーンドゥル (Þrándr) という名だった;彼らは将来を嘱望された男たちだった。ソルラークルは体が大きく強かったし、スラーンドゥルも成長すると同じ性質をもった;しかしほかの点では大きな違いがこれらの兄弟にはあった。スラーンドゥルは髪が赤く、顔にはそばかすがあり、外見が荒々しかった。ソルビョルンは富裕であり、このことが起こったときすでに年がいっていた。
ソルラークルは〔フェーロー〕諸島で結婚して、それでもなおガータ (Gata)〔その斜格が前出のゴートゥ Götu〕にある彼の父の家にとどまっていた;しかしソルラークルが結婚したすぐあとにソルビョルン・ゴートゥスケッグは死に、彼は古い慣習に従って運びだされ* 埋葬された、というのはそのころまだフェーロー諸島人はみな異教〔を信仰して〕いたからである。
* D. udbaaren (= udbåren) の調べがつかず、OIcel. útborinn の直訳とみられるがこれも不明で、bære ud, bera út に戻しても特別に語義が載っていないので、やむをえず「外に-運ぶ=運びだす」と直訳した。しかし Mohnike の独訳は「埋葬され盛り土 (または丘) の下に横たえられた wurde bestattet und in einen Hügel gelegt」で、F. Y. Powell による古い英訳 (1896 年) も同様 (was laid in the barrow and buried)。最近の英訳 (Faulkes, 2016) は「葬儀が執り行われた his funeral was carried」と訳している。
彼の息子たちは自分たちのあいだで遺産を分けあった;双方ともガータの荘園を得たがった、というのはそれが最大の財産だったからである;そこで彼らはそれをめぐってくじを引いた、するとそれはスラーンドゥルに帰した。遺産分割のあとでソルラークルはスラーンドゥルに頼んだ、動産のより多くの部分をスラーンドゥルに得させるかわりに荘園は彼がもらえないかと;しかしこれをスラーンドゥルは望まなかった。そこでソルラークルは去り、諸島内にべつの住居を構えた。
スラーンドゥルはガータの土地をさまざまの男たちに貸しだし、そうしてそこから彼の得られる〔かぎりの〕多額の賃料を得た。その次に彼は夏に航海に出たが、少数の貿易品だけを持っていた。彼はノルウェーへ行き、そこで冬のあいだ屋敷に滞在したが、たえず暗い心持ちのようであった。この時代には灰外套のハラルドゥル (Haraldr gráfeldr)〔=ハーラル 2 世灰衣王、在位 c. 959–970〕がノルウェーを統治していた。
その次の夏、スラーンドゥルは海運業の者たちとともにデンマークへと下り、その夏のあいだハル浜 (OIcel. Haleyrr, D. Haløre) に来ていた。当時そこには多数の人々が集まっており、この場所には市の時期に、ここノルドの地で出会う最大の人々が集合したと伝えられている。
デンマークをこのころ統治していたのは青歯 (D. Blaatand, OIcel. blátönn) の通称をもつハラルドゥル・ゴルムソン王 (Haraldr konúngr Gormsson)〔=ハーラル青歯王、在位 958–987〕であった。ハラルドゥル王は夏のあいだハル浜にいて、多くの従者に伴われていた。王の廷臣のうち 2 人、シグルズル (Sigurðr) とハーレクル (Hárekr) 兄弟の名をあげられる。この者たちは途切れなく市をめぐった、得られる〔かぎり〕最良にして最大の金の指輪を買うことが目的であった。
彼らはとうとう、たいそうよい作りの店へとたどりついた。そこには 1 人の男がいて、彼らをよく応対し、彼らがなにを買いたいのか尋ねた。彼らは答えた、大きくて良質な金の指輪がほしいと。すると彼は言った、そのなかから選ぶべきいいものがいくつかあると。そこで彼らが彼に名前を尋ねると、彼は金持ちのホールムゲイル (Hólmgeir auðgi) と名乗った。
さて彼は彼の宝石類をとりだし、彼らに重厚な金の指輪を見せた。それは大変な値打ちものであった;しかし彼はそれにとても高い値段をつけており、彼が請求するとても多額の銀を即座に準備してのけることは、どんな方策でも達せられないと思われるほどであった。それゆえそこで〔彼らは〕彼に翌日まで未払いのままそれを取り置いてくれることを頼み、彼もまたそのことを約束した。
そうして要件が果たされると彼らはそこを離れ、その〔日の〕夜が過ぎた。〔次の〕朝にシグルズルは天幕を出たが、ハーレクルは居残った。すぐあとにシグルズルは天幕の布張りの外まで来て、こう話した:「わが弟* ハーレクルよ」、〔続けて〕言った、「急いで俺に渡してくれ、指輪を買うためにと決めていた銀の〔入った〕袋を。いまや売買はまとまったからだ。だがおまえはそのあいだここで待ち、幕屋を見張っていろ」。そこで彼〔=ハーレクル〕は彼〔=シグルズル〕に天幕の布を通して銀を手渡した。
スラーンドゥルはガータの土地をさまざまの男たちに貸しだし、そうしてそこから彼の得られる〔かぎりの〕多額の賃料を得た。その次に彼は夏に航海に出たが、少数の貿易品だけを持っていた。彼はノルウェーへ行き、そこで冬のあいだ屋敷に滞在したが、たえず暗い心持ちのようであった。この時代には灰外套のハラルドゥル (Haraldr gráfeldr)〔=ハーラル 2 世灰衣王、在位 c. 959–970〕がノルウェーを統治していた。
その次の夏、スラーンドゥルは海運業の者たちとともにデンマークへと下り、その夏のあいだハル浜 (OIcel. Haleyrr, D. Haløre) に来ていた。当時そこには多数の人々が集まっており、この場所には市の時期に、ここノルドの地で出会う最大の人々が集合したと伝えられている。
デンマークをこのころ統治していたのは青歯 (D. Blaatand, OIcel. blátönn) の通称をもつハラルドゥル・ゴルムソン王 (Haraldr konúngr Gormsson)〔=ハーラル青歯王、在位 958–987〕であった。ハラルドゥル王は夏のあいだハル浜にいて、多くの従者に伴われていた。王の廷臣のうち 2 人、シグルズル (Sigurðr) とハーレクル (Hárekr) 兄弟の名をあげられる。この者たちは途切れなく市をめぐった、得られる〔かぎり〕最良にして最大の金の指輪を買うことが目的であった。
彼らはとうとう、たいそうよい作りの店へとたどりついた。そこには 1 人の男がいて、彼らをよく応対し、彼らがなにを買いたいのか尋ねた。彼らは答えた、大きくて良質な金の指輪がほしいと。すると彼は言った、そのなかから選ぶべきいいものがいくつかあると。そこで彼らが彼に名前を尋ねると、彼は金持ちのホールムゲイル (Hólmgeir auðgi) と名乗った。
さて彼は彼の宝石類をとりだし、彼らに重厚な金の指輪を見せた。それは大変な値打ちものであった;しかし彼はそれにとても高い値段をつけており、彼が請求するとても多額の銀を即座に準備してのけることは、どんな方策でも達せられないと思われるほどであった。それゆえそこで〔彼らは〕彼に翌日まで未払いのままそれを取り置いてくれることを頼み、彼もまたそのことを約束した。
そうして要件が果たされると彼らはそこを離れ、その〔日の〕夜が過ぎた。〔次の〕朝にシグルズルは天幕を出たが、ハーレクルは居残った。すぐあとにシグルズルは天幕の布張りの外まで来て、こう話した:「わが弟* ハーレクルよ」、〔続けて〕言った、「急いで俺に渡してくれ、指輪を買うためにと決めていた銀の〔入った〕袋を。いまや売買はまとまったからだ。だがおまえはそのあいだここで待ち、幕屋を見張っていろ」。そこで彼〔=ハーレクル〕は彼〔=シグルズル〕に天幕の布を通して銀を手渡した。
* 原文は「親族、親戚」(D. Frænde, OIcel. frændi)、しかし日本語での呼びかけには適さないので、Mohnike の独訳 („Bruder Harek“) を参考に「弟」とした。
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