先日、翻訳家の柴田元幸氏の編集する MONKEY 誌の既刊 12 号 (2017 年 6 月発刊) にて、アメリカの作家リディア・デイヴィスによる「ノルウェー語を学ぶ」という記事を読んだ。これはノルウェー語をほとんどなにも知らない彼女が、それを勉強することも辞書を引くこともなしにノルウェー語の分厚い小説――「テレマルク小説」と通称されるダーグ・ソールスターの近著、正式なタイトルは Det uoppløselige episke element i Telemark i perioden 1591–1896, 2013――を読みきる過程をレポートしたものであり、私も触発されて同じ挑戦をしてみようと思いたったものである。これをリディア・チャレンジと呼ぶことにしよう。
だが私とデイヴィス氏とではまったく条件が異なる。彼女は母語が英語で、小学生のときに 1 年間オーストリアに暮らしてドイツ語で小学校教育を受けたことがあり、翻訳家としてフランス語からの翻訳を何冊も手がけるというように、まず英独仏のかなり自由になる知識を有している。さらに少なくともほかにスペイン語とオランダ語も勉強して本を何冊か読んだことがあるという。周知のとおりノルウェー語はゲルマン語の仲間でドイツ語や英語と少なからず単語や文法を共有しており、実際にその記事を読めばわかるとおり、彼女はかなりの頻度で英語とドイツ語の知識に頼ってノルウェー語の意味を推定している。したがって、ほぼゼロから読みはじめるとはいっても、たとえば彼女が日本語の本を読むというのとはぜんぜん話が違うのである。もし彼女の挑戦する相手が日本語であったならば、たとえ本の終わりまで目を通してもほとんど理解は進まなかっただろうし、それどころか途中で投げだす可能性も大きかったのではないか。
だが私とデイヴィス氏とではまったく条件が異なる。彼女は母語が英語で、小学生のときに 1 年間オーストリアに暮らしてドイツ語で小学校教育を受けたことがあり、翻訳家としてフランス語からの翻訳を何冊も手がけるというように、まず英独仏のかなり自由になる知識を有している。さらに少なくともほかにスペイン語とオランダ語も勉強して本を何冊か読んだことがあるという。周知のとおりノルウェー語はゲルマン語の仲間でドイツ語や英語と少なからず単語や文法を共有しており、実際にその記事を読めばわかるとおり、彼女はかなりの頻度で英語とドイツ語の知識に頼ってノルウェー語の意味を推定している。したがって、ほぼゼロから読みはじめるとはいっても、たとえば彼女が日本語の本を読むというのとはぜんぜん話が違うのである。もし彼女の挑戦する相手が日本語であったならば、たとえ本の終わりまで目を通してもほとんど理解は進まなかっただろうし、それどころか途中で投げだす可能性も大きかったのではないか。
さてなにを読むかという段になると、ノルウェー語にも私は興味があるが読みたい本のほうをぱっと思いつかなかったので、かわりにデンマーク語でかねてより気になっていた小説、Kim Leine の Profeterne i Evighedsfjorden, 2012 (『永遠のフィヨルドの預言者たち』) を課題図書として採用しよう。あらすじについては 18 世紀末に行われたグリーンランドへのキリスト教宣教に関わる歴史小説?というくらいしか承知していない。これは翌 2013 年に北欧理事会文学賞に選ばれた世評の高い作品で、「テレマルク小説」と違ってすでに英語を含むいくつかの言語に翻訳されているが、もちろんその翻訳には頼らないことにする。
もっとも私はすでにデンマーク語を少しだけ勉強した経験があるが、アクティブに使う経験はなく単語力はといえばまったく壊滅的なので、ほとんど無知な状態といっても大差がない。私も原則は辞書や人に尋ねることなしにひたすら原文を読み、しかしどうしても困ったら多少はルールを曲げてよい、というデイヴィス氏流の緩やかな縛りを真似ることにしよう。
以下に記録するのは実際にこの本をデンマーク語で読み解読した生の過程である。私のさまざまな悪戦苦闘の部分を除き、原文の翻訳らしきものになっている箇所だけを太字にしてあるので、太字の部分のみを拾い読めば原文の筋がわかる……ようになるのはまだずいぶん先のことであろう。現時点ではわからない単語が多すぎてまったく翻訳としては機能していない。
もっとも私はすでにデンマーク語を少しだけ勉強した経験があるが、アクティブに使う経験はなく単語力はといえばまったく壊滅的なので、ほとんど無知な状態といっても大差がない。私も原則は辞書や人に尋ねることなしにひたすら原文を読み、しかしどうしても困ったら多少はルールを曲げてよい、というデイヴィス氏流の緩やかな縛りを真似ることにしよう。
以下に記録するのは実際にこの本をデンマーク語で読み解読した生の過程である。私のさまざまな悪戦苦闘の部分を除き、原文の翻訳らしきものになっている箇所だけを太字にしてあるので、太字の部分のみを拾い読めば原文の筋がわかる……ようになるのはまだずいぶん先のことであろう。現時点ではわからない単語が多すぎてまったく翻訳としては機能していない。
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どうやらプロローグらしい章の最初の行には、見出しとして Faldet という 1 語が出ているが、のっけからなんだかわからない。でも fald- なのでたぶん「落ちる」という動作と関わりがあるのではないか? -et は中性既知形語尾。次の行に日付があるのでもしかして英語の fall と同じく秋のことか? しかしその日付は 1793 年 8 月 14 日。まだ舞台がデンマークなのかグリーンランドなのかも判断できないが、いくら北の国でもまさか 8 月 14 日が秋ということはないだろう。保留。それにしても「8 月」が august なのは助かる、たとえばチェコ語 srpen のようにてんで違うつづりだったら迷宮入りになるところであった。
本文に入る。最初の語は enken、これも不明。スウェーデン語だかノルウェー語だかの enkel「単純な、簡単な;単独の、一人の」と似ている。不定代名詞っぽさもある。誰かは一人でここへ上がってきた、誰も彼女にそうするよう tvunge することなく。enken と過去分詞 tvunget 以外はだいたいわかるので大づかみに訳してみた。これはかなり幸先がいい、と気をよくする。彼女は自分のとても美しい服から lusene を banket した。lusene の -ene は複数の既知形語尾なので、lus がなにか物を表す名詞だろう。「光、明かり」かとも思ったがそれはデンマーク語だと lys だっただろうか。そして iført sig dem、ほとんどなんだかわからない。自分をそれに iført した? 次に fælleshusets urinbalje のなかで髪を洗い、それを結いあげた。fælles はデンマーク語文法でいう普通名詞 (fællesnavn) や共性 (fælleskøn) の前半部分なので、英語でいえば common だろう。では共通の家の urinbalje か。共用の風呂場? 彼女は 1 つの stille bøn を bedt した。これはだめだ、なにもわからない。彼女の hedenske な同居人から tavst iagttaget した。bofæller が同居人というのも勘でしかない。bo(r) は「住む」だし fælle はさっき見た「共通」なので、たぶん正しいのではないかと思う。そして子どもたちから sodblandede fedt を skrabet した。kinderne が「子ども」というのも嘘かも。独 Kind(er) を連想したせいだが、よく考えたら北欧語で子どもは barn のたぐいだと思う。それからおいしい måltid を食べた? ここは文構造がわからない、ひょっとすると måltid は副詞か接続詞だったりするかもしれない。とにかくなにかよいもの (det gode) を食べた (spist) らしい。それは彼女へ stillet frem されていたように見える。そのようにして彼女はここに上がってきた。lette skridt の上に båret して。なんのことやら。lette の上にというからにはなにかその上に乗れるもの、仏 lit「ベッド」を思いうかべるがたぶん関係がない。いまや彼女はここに座っている、ほとんど喜んで、forventning に満たされて。それからまた kinderne が出てくる。怪しいと思いつつ子どもと訳しておくしかない。子どもたちのなかで呼んだ、kanten の上で外に (??)、彼女の下のなかに (???) tækkeligt に benene とともに、enkemaner の上に。支離滅裂。だいたいどうしてデンマーク語 (やフェーロー語やアイスランド語など) では ude på だの ind under だの、ud af だの frem til だのと、前置詞らしきものが二重に重なるのか、この種のものはまったく意味がとれない。片方 (おそらく前者) は場所の副詞か、ドイツ語で言うところの分離前つづりのようなものだろうか? とにかく読み進めるしかない。しかしそのまえに一点、最後の enkemaner の enke は冒頭の enken と同じものではないか? そのことに留意しておく。まだ文はコンマで続いており、このようにして彼女は glamhullet の下の小さな sidebriks の上に derhjemme 座ることを plejer する。sidebriks の後半は英語の brick「レンガ」のようにも見える。片方の手に彼女は korset を knuger し、金の重い varme のなかに trygheden を mærker する。これまでの文に比べれば心なしかましになった。とにかく金製の重いなにかが手のなかにあるらしいという多少とも具体的な情景が思い描かれる。ここまでまったく五里霧中であっただけに、まさしく闇のなかに一筋の光を見たようでありがたみを痛感する。まだ第 1 段落の半分までしか来ていない。彼女のずっと下方、少なくとも数百 favne の落差の下に、彼女は brændingen を聞く。favne は間違いなく長さの単位だろう。「少なくとも」と訳したのは mindst で、それは独 zumindest から類推した。いま fald に再会し「落差」ととったが、これはこのプロローグの見出しの単語であった。やはり「秋」ではなく「落下」だろうか? だがそれでもどういうことかわからない。水がそこで rammer klippen、白い skum に knuse され、sydende が自分を trækker し戻ってくる。高い崖の下で海の波が寄せては返す感じか? なんとなくわかってきた気もするがすべてが妄想である危険性がある。だが彼女はそれを見ていない、彼女は両目を knebet i している。両目をつぶっている? それから indad 瞬きを vendt し、彼女は ængstelsen を bekæmpet した。またわからない単語が増えている。-else は名詞を作る接尾辞だから、ængst の部分が語幹で、独 Angst「不安、恐怖」によく似ているものの、前後の単語もわからないので妥当性が確かめられない。そして 1 行めに出会った動詞 tvunget が再登場する。sej なリズムで åndedrættet と心臓の lagene を tvunget した。rytme はたぶん仏 rythme, 英 rhythm だろうと想定した。それにかかる形容詞 sej とはなんだろう、短いのでかなり基本的な単語に違いないが、速いのか遅いのか。さらに彼女は læberne を bevæger し、litaniet を何度も何度も gentager する。litaniet はどう見たってデンマーク語ではない借用語だ。デンマーク語の辞書は引かないつもりだが、英語ならいいだろうということにすると、litany「連祷」というキリスト教用語が見つかるのでこれに間違いない。同じ祈りの言葉を何度も何度も繰りかえし口にしたわけだ。そういえば læberne も (単数未知形は læb か læbe か) 英 labial「唇の」に似ている。bevæger læberne は「唇を動かし」? be-væg- という字面はどうも動かしそうな感じに見える (独 bewegen)。この次の 2, 3 行はイタリックで組まれている。祈りの句だ。「おお天にいる父なる神よ、私たちに barmhjertighed をもて」? hav はまさか「海」ではないだろうから、たぶん「もつ」har の命令法かと考えた。次の 2 語 elendige syndere は不明。それから「おお神の子よ」と来てまた「barmhjertighed をもて」。-hed=独 -heit なのでなにか抽象名詞のようだがいったいなんなのか。「憐れみ、慈悲」あたりか? 「おお神、救い主よ」。この Helligånd もちょっとわからないが、ヘーリアントに似ているし大文字書きなので「救世主」かと推測。祈りの句の最後、「おお velsignede で herlige な Treenighed よ」。なにもかも不明、だが最後の大文字の名詞は「三位一体」かもしれない。その直前の形容詞は「聖なる」かも? これらを唱え終えると彼女は下から i stød に来る風を mærker し、彼女の dragt のなかの生命/人生を puster する。mærke(r) という動詞は何行かまえにも出たもので、そのときの目的語は tryghed(en) であった。bevæge : bewegen のように æ がドイツ語の e に対応するとすればこれは merken「気づく、感じとる」なのではないか? 「風を感じる」のはかなりそれらしいので有力候補だ。次に彼女は klippen の上の fugtige な tørv に自分を klamrer する。klipp(en) は独 Kliff, 英 cliff「崖、絶壁」のような気がしてきた。彼女がそうするのは utide に kanten について skubbet ud されないためにだという。このように彼女は座ったまま連祷を messer し、助けを待って/期待している。ふたたびイタリックで祈りの言葉、「汝の dødsangst と blodige sved がともに、汝の kors と lidelse がともに、私たちを frels したまえ、主よ!」 これがこの段落最後の文。dødsangst ははじめ død-sangst に見えたが (仏 sang「血」)、døds-angst と切るとすれば「死の恐怖」? kors はしばらくまえに korset という中性単数既知形で出てきたが、思えばこれもぜんぜんデンマーク語らしくない。文脈からイエスに関係する単語、もしかして「十字架」ではないか? ではあのときそれを目的語にとった定動詞 knuger は「握る」とか? 今日はここまで。
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