vendredi 3 novembre 2017

谷口訳『中世アルメニア寓話集』「土地測量技師の水牛」の誤訳

前回に引き続き,ムヒタル・ゴッシュ,ヴァルダン・アイゲクツィ;谷口伊兵衛訳『中世アルメニア寓話集』(渓水社,2012 年) 所収の寓話のうち,今度は 32 頁の「土地測量技師の水牛」という話をとりあげてみる.これもまた大誤訳によって脈絡のわからない話になってしまっているのであって,まずは訳文をご覧いただこう:
水牛が土地測量技師になりたがりました。ところが、間もなく土地の測量に飽きてしまい、砂糖きび畑にやって来て、そこで寝そべりました。水牛の親方は彼が怠惰なのを叱りつけました。すると、水牛は応えて言うのでした、「陸地だけが測量されなくちゃならないの? 僕は今度は水も測量するつもりです。」
やはり日本語だけを読んでもなにかがおかしいということが明白だろう.見たかぎり,この水牛くんが自分の怠け癖を言い訳しようと試みていることだけはわかるが,なぜ砂糖きび畑で寝そべることが水も測量につながるのだろうか?


割愛された教訓段落


オルベリのロシア語訳から調べてみると,この話はムヒタルの作である.ムヒタルの寓話集が印刷されたのは 1790 年にヴェニスで出版されたのが最初で,それから 1842 年と 1854 年に再版 (改訂?) されたらしい.さらに百年近くが経って,1951 年にアルメニア (当時はソ連邦) の首都イェレヴァンでエマヌエル・ピヴァズヤン (Էմանուէլ Ա. Պիվազյան) という人によるテクストが出ているようで (HathiTrust 検索結果),ヨシフ・オルベリによるロシア語訳はこれを参考文献に挙げている.

私はその新しいほうの版を参照できないため,1790 年版のテクストの該当箇所を見てみると次のようである:


ここで邦訳およびオルベリの露訳に反映されているのは前半だけであって,後半の段落 (1 枚めの最終行から 2 枚め全体) はすべて割愛されている.前回の記事「雌獅子と狐」で紹介したものと同じく,この段落はその寓話の寓意を説明したいわば教訓部であり,簡単に訳すとこんなふうだろう:
泥沼 (տղմուտ) を離れたのにそこに舞い戻る者は,責められるとこう言うものである:「(世のなかには) お上品な人間 (պարկեշտ) ばかりでなく,罪が好きな人間たち (մեղսասէրք) もいるもんだ,俺たちのように」.
ここで「泥沼」という語は辞書的には文字どおりの意味しかないが,ここでは日本語のそれと同様「なかなか抜けだせない悪習」のようなもののメタファーとして使われているであろう.沼をそのように解すことで,泥のなかを転げまわる水牛を悪癖の常習者に見立てているわけである.これもまたヨーロッパの動物寓意譚ではありふれたイメージなのだろうか?

このように教訓段落を訳出してみると,前半の本来の姿についても想像がついてくるはずだ.「土地測量」に飽きた水牛が赴いたさきは砂糖きび畑ではなく」なのだろう.


「砂糖きび畑」の出どころ


しかしなぜはっきりしないのか? それはこの単語がよくわからないからである.問題の単語は上の画像 1 枚めの 3 行め末尾にある.これは շամ? という 4 文字に見えるが,最後の文字がかすれて判然としない.なにか μ のようにも見えるが,アルメニア語には「左下が基準線より下に出て,なおかつ上は開いている」という文字はないのである (左下がまっすぐ飛び出るのは բ, թ, ի, խ, ր ですべてで,ը と լ はそこから右に延びるので候補から外れる).しかしおそらく շամբ であろうか.

文脈を確定するべく,2 行めのピリオドのあとから翻刻してみると次のとおり:
――.  եւ ՚ի չափելն անդ տաղտ-
կացաւ, եւ երթեալ անկաւ ՚ի շամբ (?)
ինչ,  ――
չափելն は չափեմ「測る」の不定詞に指示接尾辞 -ն がついたもので,անդ は「野,畑,耕地」.次の տաղտկացաւ は տաղտկամ「うんざりする,嫌悪する,怒りを抱く」の直説法アオリスト 3 人称単数で,嫌う対象は ի + 奪格で示すので,ここまでで「(彼は) 野を測るのにうんざりして」となる.

続いて երթեալ は երթամ「行く,去りゆく;向かう」のアオリスト分詞,անկաւ アオ 3 単 < անկանիմ「落ちる;陥る;倒れる;滅びる;飛びこむ」など多義.そのどこへ անկանիմ するかというのが次の ի + 対格で示されている問題の շամբ (?) である.行を超えて最後の ինչ は「なにか,あるもの」という不定代名詞で,これは名詞の後について「なにか〜のようなもの」という意味に使えるらしい (akn ownēr nšan inč‘ leal tesanel i nmanē 彼は彼 (イエス) によって生じた徴のようなものを見たいと願っていた Lk 23,8).これで,測量に飽きた水牛は「去って շամբ かなにかへ飛びこんだ」となる.

とりあえず շամբ だとみなすとして,この語は手もとの『古典アルメニア語辞典』には載っていないので,1875 年の Պետրոսեան の古いアルメニア語・英語辞典によってみると ‘Շամբ, ից s. cane-brake, —-field, fen’ と出ている.Cane は竹や籐やサトウキビなど,あの手の細長い植物の茎のことであるから,canebrake は「竹やぶ,籐の茂み」と訳される.-field はその畑である.一方 fen は「沼地,湿地帯」のことだ.つまりこれが砂糖きび畑とを分けた原因である.

われわれの訳語としては「沼」をとるべきことは明らかだろう.竹やぶやサトウキビ畑でも泥だらけにはなれるかもしれないが,「測量」できるほど水が豊富とは思われないからである.水を測量できなければ最後のオチ (եղիցիմ ես ջրաչափ「僕は ‘水測量士’ になる」;եղիցիմ は未来を表す接続法アオリスト) にはつながらない.

ではなぜこのような取り違えが生じたのか? われわれは後半の教訓段落をちゃんと読んだのでこのようにわかったわけだが,先述したようにオルベリのロシア語訳以降この部分は省略されているのである.谷口訳はオルベリの露訳から英訳されたものをもとにした重々訳なので,当然この部分は知らなかったであろう.この話のオルベリの露訳全文は以下のとおり:
38. буйвол-землемер
Буйвол пожелал стать землемером.
И наскучило ему измерять, отпра-
вился он и улегся в камышах, а учи-
тель упрекал его в лености. А он от-
ветил: «Разве только землю нужно
измерять? Буду я водомером».
ご覧のように,問題の部分は камышах と訳されている.これは камыш の複数前置格で,камыш には「葦」および複数で「葦の茂み」という意味しかない.オルベリは後半の教訓部を読まなかったか,あるいは彼の依拠したテクストになかったのだろう.なるほど葦が生えるところは水の豊富な湿地帯であるが,いまの文脈で重要なのは生えている植物ではなく水そのもののほうである.

そうするとこれをもとにした英訳も当然 reeds かなにかとしか訳せなかったはずであり,すなわち今回谷口訳が間違っているのはオルベリの露訳に責任があったわけである.それにしてもなぜ谷口訳が葦をサトウキビにしなければならなかったのかは謎で,地面の上に生えるサトウキビでは完全に話の流れが理解不能になってしまっている.ついでに言えば「寝そべる」という語も原文にはないが,これも露訳の улегся (улечься「横になる,横臥する」の過去男性単数) が原因だろう.ともあれこれらは重訳 (重々訳) から生じた欠陥ということだ.


「土地測量技師」という訳語


ついでなので,「土地測量技師」という訳語についてもひとつ思いついたことを述べておく.これもオルベリの訳語 землемер を見れば,露訳の時点で「土地測量士」としか訳せなくなったことがはっきりしている.

ところで原語は երկրաչափութի՟ と書いてある.երկրա- = երկիր は「地」で,չափ は「測ること,測定」であるから,まあ「土地測量」でもよさそうな気はする.しかしこれは要するに geo- + metr であるから,もっと抽象的な学問である「幾何学 geometry」の可能性はないだろうか.少なくとも現代アルメニア語で երկրաչափութիւն は数学の「幾何学」である.

私がこのように疑問に思った理由は,現代語の意味もさることながら,きっかけは谷口訳で「水牛の親方」と訳されているところの վարդապետ という単語であった.これは古典アルメニア語 (西暦 5 世紀にキリスト教の聖書がアルメニア語に訳されたときの言語) では「先生,師,ラビ」(希 διδάσκαλος, ἐπιστάτης) の意味でとくに律法の教師のことであり,ロバート・ベドロシアン (Robert Bedrosian) によれば中世では「教会博士 Doctor of the Church」の意味として,彼の訳では固有名詞的にヴァルダペト (vardapet) とそのまま音写されている.そのような肩書の人物が現場の「親方」として実学である「土地測量」を教えるものだろうか?

これは当時のアルメニアの教育の実情を調べないとなんとも言えない.ただし上で見たとおり,この「幾何学」を習ったあと水牛くんはたしかに「野を測定 չափել անդ」していることに鑑みて,この ‘geometry’ は原義である「土地測量」と「幾何学」が現代の抽象的な数学のようにかけ離れていなかった時代のものであることは疑いないか.

いずれであるにせよ,日本語では「幾何学」と訳してしまうと最後のオチにつなげるのが難しいという欠点がある.アルメニア語の երկրաչափ 対 ջրաչափ (この後者は ջուր「水」と չափ「測定」の複合語である),ロシア語の землемер 対 водомер (やはり「地-測」と「水-測」) のように,単語の成りたちからつながりが見てとれないと,お話としてはうまくないのである.「測地学」ではやや別の学問になってしまうし,こればかりは geo- も metry もまったく活かせていない「幾何学」という中国語の訳語が悪かったとあきらめるほかはないかもしれない.

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