前々回の「雌獅子と狐」,前回の「土地測量技師の水牛」に引き続きこの連載の締めくくりとして,ムヒタル・ゴッシュ,ヴァルダン・アイゲクツィ;谷口伊兵衛訳『中世アルメニア寓話集』(渓水社,2012 年) 所収の寓話のうちもうひとつだけどうしても取り上げたいものがある.それはこの本を一読したとき私がいちばん奇妙だと感じた一編で,アルメニア語の原文を見てみたいと思わせたきっかけである,52 頁の「狼の子と手紙」という話だ.
狼の子と手紙 the wolf-cub and the letters
むかし狼の子が捕らえられて、手紙を読まされました。〝S〟と言うように命じられると、狼の子は〝シープ〟(sheep「羊」)と言うのでした。また〝C〟と言うよう命じられると、狼の子は〝チキン〟(chicken「鶏」)と言うのでした。〝G〟と言うよう教えられると、狼の子は〝ゴート〟(goat「山羊」)と言うのでした。〝I〟と言うように命じられると、狼は続けられなくなり、こう返事するのでした、「ぼく(〝I〟)が遅刻すると、羊の群れが山を通り過ぎ、もう追いつけなくなってしまいます。」
まずオチが意味不明で,なにかうまいことを言おうとして盛大に滑っているというのはオリジナルの問題なので置いておこう.また,英語の letters というのは「手紙」ではなく「文字」だということも明らかだが (「手紙」を読まされていて S と言えだの C と言えだの,おかしいと気づくだろうにこの翻訳は中学生の英文和訳か?),それさえも最大の疑問点ではない.
この話でいちばん不可解なことはなにか.それは S, C, G, I というアルファベットの並びとその選択である.この文字列にいったいなんの必然性があるのか? なにか深遠な謎でも隠されているのか,と不思議に思うはずだ.
私たちはわざわざ原文を照会する手間を割きたくなかったりその能力がなかったりするために日本語訳を読むのである.しかるにこの話の日本語訳だけを読んだとき最大限わかることはと言えば,おそらくは「狼の子は動物の名前を答える法則がある」ということだけであろう.これは彼にとっての友達を挙げているのかもしれないし,食べもののことを言っているのかもしれない (chicken は生きた鶏と鶏肉の両方でありうる.ただし食べものなら sheep は mutton でなければならない).だが根本的になんで S, C, G, I なのか,そしてこの寓話からどんな教訓を読みとったらよいのかということはてんでわからない.
ロシア語訳からわかる情報と新たな謎
合理的に推論して,こんな無軌道な配列を日本語の翻訳者である谷口氏が勝手に創案したとは考えがたいから,この S, C, G, I はまず英訳の時点ですでにあったろうことが予想される.ただ前々回指摘したように谷口氏が英訳の原典を表示してくれていないので英訳については参照できないから,その翻訳元とされるオルベリのロシア語訳をみたび参照しよう:
63. волчонок и азбука
Поймали однажды волчонка, напи-сали буквы и велели ему читать. И го-ворят: «Скажи Аз», а он: «Агнец».Говорят: «Скажи Буки», а он: «Ба-ран». Говорят: «Скажи Глаголь»,а он: «Гусь». Говорят: «СкажиДобро», а он: «Добыча». Говорят:«Скажи Есть», а он отвечает: «Еслине поспешу, пройдет стадо, и не до-гнать будет».
まずはタイトルが «волчонок и азбука»「狼の子とアルファベット」なので letters が「文字」であることが再確認できた.ここで狼の子が «Скажи»「言え,口に出せ」(сказать の命令形) と言われていることを並べてみると,Аз, Буки, Глаголь, Добро, Есть となっている.
ここからただちに,これはアルファベットの最初の 5 文字を言っているのだとわかる.Аз, Буки, ... というのはどうやらアルファベットの各文字の古い名称であったようだ.もっともロシア語をご存知のかたなら В が抜けていることに気づくだろうが,これはキリル文字が少々特殊なのであって,「アルファベット」の名の祖であるギリシア文字に遡れば Α, Β, Γ, Δ, Ε であるし,アルメニア語でも Ա (A), Բ (B), Գ (G), Դ (D), Ե (E) なので,おかしなところはない.つまり原文ではアルファベットを順番に数えていたということだ.そうすると露訳でひとつひとつの単語にたいした意味はあるまい,というのは異なる言語から翻訳してなお順番を保つためにはどうしても多少の無理が生じるからである.
しかしそうすると新たな謎が浮上する,というのはロシア語では ABCDE と 5 個言っているのに英訳では 4 つに減っていることである.ただこの疑問は英訳者を捕まえて直接尋ねでもしないかぎり解決不可能なので無視しよう.
では狼の子の回答を見てみると,агнец は古語で「子羊」または「羊」一般,баран は「雄羊」,гусь は「ガチョウ」,добыча は「獲物,餌食」なのでやはり狼にとっての食べものを答えていたようだ.最後の Е はだいたい邦訳のとおりで,「もし僕が急がないと群れが行ってしまい追いつけなくなる」だが,Е にあたる語は «если»「もし」であって「僕」ではない.だから英訳の I も,谷口氏は勘違いしているが「僕 I」ではなく「もし if」のほうがイニシャル I を代表しているに違いない.そもそも狼の子はしりとりのようなことをしているのに,文頭の if でなく次の I がそれというのでは法則が台なしになるのである.また「群れ стадо」について「羊の」とは一言も言われていないので,すなおに考えたら狼の子じしんの属する群れのことではないのだろうか (ただし後述のアルメニア語原文も参照).
さて,英訳は S, C, G, I という奇妙な並びを持ちだしてきたわけだから,私はおそらく「羊・鶏・山羊という単語の意味のほうを忠実に訳したために頭文字は妥協せざるをえなかったのだ」と想像していたのであるが (誰でもそう考えたと思うが),オルベリのロシア語訳と比べると答えすら一致していないことがわかる.露訳にあるガチョウは消え,鶏と山羊が混入しているし,そもそも数があっていない.こうなるともうお手上げである.英訳者はなにを考えてこんなことをしたのか? それとも名前すら示されていない「英訳者」などというのは架空の存在なのか?
アルメニア語原典
ともあれ気をとりなおして,満を持して大本のアルメニア語原文にあたってみよう.これはふたたびヴァルダン・アイゲクツィの作であって,ニコライ・マルの校訂版では ՅԽԵ すなわち 345 番の番号が振られている:
ご覧のとおりまた判読困難な文字も少なくなく,とくに前回「土地測量技師の水牛」のさい «շամբ» で悩まされた բ と ր の文字,գ, դ や զ, ղ の文字,それから ա, տ, ո, ս などつぶれるとまったく区別不可能なのだが,ここまでの考察で「最初の話し手はアルファベットの最初の 5 文字 ա, բ, գ, դ, ե を順番に言っている」ということと,その相手である「狼の子は動物の名前を言う傾向にある」ことがわかっているのでそれが手がかりとなる.
(ちなみに残念ながら前々回頼りにしたサン゠マルタンによるアルメニア語・フランス語対訳版のヴァルダン寓話集は全 45 話の小冊であってこの話が含まれていない.)
まず導入部,冒頭から 2 行めの最初の単語まではこうだろう:Ասի առակաց, թէ գալին (?) ձագն բռնեցին ու գրեցին գիր, թէ կարգայ։
Ասի は ասեմ「言う」の直・現・中受・3 単,առակաց は առակ「たとえ,寓話」の複属与奪 (ここでは奪格か),թէ は英 that で,ここまでで「(この) たとえ話によって թէ 以下のことが言われている」.従来であればこれは教訓段落の導入句に見えるが,今回はここから寓話の本体が始まっている.また露訳以降,英訳,谷口訳まで含めてこの一文は失われており,かわりに「むかし однажды」という語が加わっている.
次の գալին は不明,ձագ-ն は「動物の赤ん坊,幼獣」,բռնեցին 直アオ 3 複 < բռնեմ「捕まえる」,ու「そして」,գրեցին 直アオ 3 複 < գրեմ「書く」,գիր「文字」,թէ は今度は「〜するように」(英 so that) で,կարգայ 直現 3 単 < կարգամ「呼ぶ,唱える;叫ぶ」.こうすると「狼の」という情報が出てきていないので,不明だった գալին galin は գայլ gayl「狼」に関係するであろう (というかそこから逆算して判読不能の գ と ա を決定した).「彼らは狼の (?) 幼獣を捕まえ,彼 (=幼獣) が唱えるように文字を書いた」.なお「彼ら」についても正体不明である.
以降,ասեմ「言う」の活用形である ասեն, ասայ, ասէ が順繰りに繰りかえされる.ասեն は直現 3 複「彼らは言う」,ասէ は直現 3 単「彼は言う」だが,ասայ はわからない.露訳を参考にすれば命令法の 2 単「言え」のはずだが,古典語ではそれは ասա՛ である.中世のヴァリアントだろうか?
「彼ら」が言っている単語は単純で,ա՛յբ, բե՛ն, գի՛մ, դա՛յ, ե՛չ, これらはアルメニア語最初の 5 文字 ա, բ, գ, դ, ե の名前である (アルメニア文字にはギリシア文字アルファ・ベータ・ガンマ等々と同じく固有の名前がある) が,դ はふつう դա であるのに余計な յ が付け足されている.この傾向は前述の ասայ とも符合しているから,さきのものはやはり「言え」と解してよかろう.
それに対して幼獣の応答は,այծ「山羊」,բուծ「子羊」,գառն はまた「子羊」で,դմակ は「羊の脂身」か.確実に「ガチョウ」が見あたらないので,露訳も答えを忠実に訳していたわけでないことがわかった.アルファベット順のほうを尊重していたのである (しかしそれなら А, Б, В, Г, Д に変えてもよさそうなものだが,オチの ‘if’ が Е であることに引っ張られたか).
幼獣の最後のセリフは ես կու (?) երթամ. դիհ (?) անցաւ. այլ չեմ ի հասնիլ։ か.ちなみにこの手前,最後の応酬のときも「彼らは言う,彼は言う」の同じ繰りかえしであり,谷口訳に見られる「狼は続けられなくなり、こう返事する」という補足はアルメニア語文にはない.ロシア語訳でも «отвечает»「答える」の 1 語が加わっているだけである.
ここには古典語の辞書では調べのつかない単語が多く,意味ははっきりしない.わかるところを訳せば「僕は〔……〕行く.〔……〕が通り過ぎてしまう.そうでないと (?) 到達する [獲得する] ことができなくなる」という感じか.とりわけ最後の単語 հասնիլ hasnil に見える動詞の不定詞 -իլ という形は明瞭に古典期以後 (post-classical) の形態であるから (Thomson, Introduction, p. 37),古典語 hasanel から中間の -a- が落ちて現代語の hasnel に至る途中の揺れと解した (この動詞の目的語は訳語によって羊の群れと自分の群れいずれの可能性もあろう).また անցաւ anc‘aw も古典語では anc‘ または加音をした ēanc‘ であるが (-aw は直アオ 3 単の規則的な語尾),現代語では anc‘av となるのでこれも過渡的な形か.解読できる部分はロシア語訳に一致しているようだが,これ以上のことは中世語の文献がなければわからない.
さて原典から訳せば日本語訳で不明な恒例の教訓の部分がわかるかと思いきや,マルのエディションで見てもこの寓話には教訓段落が欠けているようである.結局のところこの話はなにが言いたいのかオリジナルからしてわかりづらいということが判明した.しかし原文に遡ることで「この狼の子は (動物の友達を挙げているのではなく) 食べもののことしか頭にない」ということが蓋然性を高めたので,たぶん言わんとする教訓は「幼い子に勉強をさせようとしても身を入れさせるのは難しい」くらいのことかと想像は可能である.
翻訳に際した「狼の子」の答えの変遷に着目してみると,アルメニア語からロシア語,ロシア語から英語 (あったとして) のいずれの翻訳でも,なんらかの理由から内容を自由に変更していることに気づく.しかしそのことじたいは悪いとは言えないばかりか,少なくとも露訳のそれはむしろ翻訳としてしかるべきありかたであろう.というのもこの話においてもっとも優先されるべきことは,幼獣に文字を教えようという筋書きであるから (これを壊すと登場人物がなにをしているのかわからなくなる),アルファベットの順番のほうを尊重するため答えを変更することは正当化されるからである.原著者の意図した効果を出すためなら翻訳においてそうした操作が現に認められていることは,『不思議の国のアリス』から『フィネガンズ・ウェイク』に至るまで言葉遊びで知られる作品の翻訳を想起してみれば納得されるはずだ.
しかるに英訳の S, C, G, I にはなにか意味があるのか不明瞭であるし (これがたとえば W, O, L, F だったらまだよかったのだが),それを機械的に踏襲していると見られる日本語訳も,翻訳としては輪をかけて不出来と評するのが相当であると思われる.ここは上述の理由からたとえばイロハニホかアイウエオに変更して日本語で適切な答えをあてはめることのほうが「正しい」訳しかたであったろう.中世アルメニアにとってなんの意味もない英単語のまま S, C, G, I を見せられても日本語を母語とする読者にはなにも伝わらないのである.
これまで 3 回にわたって『中世アルメニア寓話集』の和訳の難点を指摘してきた.これら 3 つはそれぞれ性質を異にする問題であって,(1) 最初の「雌獅子と狐」は (おそらくは) 英訳から和訳するさいに生じた誤訳,(2) 次の「土地測量技師の水牛」は英訳ないしそのまえの露訳の時点で生じていた誤訳が影響した,重々訳であることの欠陥であったところ,(3) 今回の「狼の子と手紙」はそれらの「集大成」として単純な誤訳も英訳時点の不備も含みつつ,そもそも原典じたいが翻訳に向いていないテクストであったことに端を発する迷訳であったと要約できる.こうしてわれわれが翻訳に携わるさいのさまざまな教訓を暗に教えてくれている,この邦訳寓話集の存在そのものが新たな寓話であると言えば皮肉が利きすぎであろうか.
(ちなみに残念ながら前々回頼りにしたサン゠マルタンによるアルメニア語・フランス語対訳版のヴァルダン寓話集は全 45 話の小冊であってこの話が含まれていない.)
まず導入部,冒頭から 2 行めの最初の単語まではこうだろう:Ասի առակաց, թէ գալին (?) ձագն բռնեցին ու գրեցին գիր, թէ կարգայ։
Ասի は ասեմ「言う」の直・現・中受・3 単,առակաց は առակ「たとえ,寓話」の複属与奪 (ここでは奪格か),թէ は英 that で,ここまでで「(この) たとえ話によって թէ 以下のことが言われている」.従来であればこれは教訓段落の導入句に見えるが,今回はここから寓話の本体が始まっている.また露訳以降,英訳,谷口訳まで含めてこの一文は失われており,かわりに「むかし однажды」という語が加わっている.
次の գալին は不明,ձագ-ն は「動物の赤ん坊,幼獣」,բռնեցին 直アオ 3 複 < բռնեմ「捕まえる」,ու「そして」,գրեցին 直アオ 3 複 < գրեմ「書く」,գիր「文字」,թէ は今度は「〜するように」(英 so that) で,կարգայ 直現 3 単 < կարգամ「呼ぶ,唱える;叫ぶ」.こうすると「狼の」という情報が出てきていないので,不明だった գալին galin は գայլ gayl「狼」に関係するであろう (というかそこから逆算して判読不能の գ と ա を決定した).「彼らは狼の (?) 幼獣を捕まえ,彼 (=幼獣) が唱えるように文字を書いた」.なお「彼ら」についても正体不明である.
以降,ասեմ「言う」の活用形である ասեն, ասայ, ասէ が順繰りに繰りかえされる.ասեն は直現 3 複「彼らは言う」,ասէ は直現 3 単「彼は言う」だが,ասայ はわからない.露訳を参考にすれば命令法の 2 単「言え」のはずだが,古典語ではそれは ասա՛ である.中世のヴァリアントだろうか?
「彼ら」が言っている単語は単純で,ա՛յբ, բե՛ն, գի՛մ, դա՛յ, ե՛չ, これらはアルメニア語最初の 5 文字 ա, բ, գ, դ, ե の名前である (アルメニア文字にはギリシア文字アルファ・ベータ・ガンマ等々と同じく固有の名前がある) が,դ はふつう դա であるのに余計な յ が付け足されている.この傾向は前述の ասայ とも符合しているから,さきのものはやはり「言え」と解してよかろう.
それに対して幼獣の応答は,այծ「山羊」,բուծ「子羊」,գառն はまた「子羊」で,դմակ は「羊の脂身」か.確実に「ガチョウ」が見あたらないので,露訳も答えを忠実に訳していたわけでないことがわかった.アルファベット順のほうを尊重していたのである (しかしそれなら А, Б, В, Г, Д に変えてもよさそうなものだが,オチの ‘if’ が Е であることに引っ張られたか).
幼獣の最後のセリフは ես կու (?) երթամ. դիհ (?) անցաւ. այլ չեմ ի հասնիլ։ か.ちなみにこの手前,最後の応酬のときも「彼らは言う,彼は言う」の同じ繰りかえしであり,谷口訳に見られる「狼は続けられなくなり、こう返事する」という補足はアルメニア語文にはない.ロシア語訳でも «отвечает»「答える」の 1 語が加わっているだけである.
ここには古典語の辞書では調べのつかない単語が多く,意味ははっきりしない.わかるところを訳せば「僕は〔……〕行く.〔……〕が通り過ぎてしまう.そうでないと (?) 到達する [獲得する] ことができなくなる」という感じか.とりわけ最後の単語 հասնիլ hasnil に見える動詞の不定詞 -իլ という形は明瞭に古典期以後 (post-classical) の形態であるから (Thomson, Introduction, p. 37),古典語 hasanel から中間の -a- が落ちて現代語の hasnel に至る途中の揺れと解した (この動詞の目的語は訳語によって羊の群れと自分の群れいずれの可能性もあろう).また անցաւ anc‘aw も古典語では anc‘ または加音をした ēanc‘ であるが (-aw は直アオ 3 単の規則的な語尾),現代語では anc‘av となるのでこれも過渡的な形か.解読できる部分はロシア語訳に一致しているようだが,これ以上のことは中世語の文献がなければわからない.
結論
さて原典から訳せば日本語訳で不明な恒例の教訓の部分がわかるかと思いきや,マルのエディションで見てもこの寓話には教訓段落が欠けているようである.結局のところこの話はなにが言いたいのかオリジナルからしてわかりづらいということが判明した.しかし原文に遡ることで「この狼の子は (動物の友達を挙げているのではなく) 食べもののことしか頭にない」ということが蓋然性を高めたので,たぶん言わんとする教訓は「幼い子に勉強をさせようとしても身を入れさせるのは難しい」くらいのことかと想像は可能である.
翻訳に際した「狼の子」の答えの変遷に着目してみると,アルメニア語からロシア語,ロシア語から英語 (あったとして) のいずれの翻訳でも,なんらかの理由から内容を自由に変更していることに気づく.しかしそのことじたいは悪いとは言えないばかりか,少なくとも露訳のそれはむしろ翻訳としてしかるべきありかたであろう.というのもこの話においてもっとも優先されるべきことは,幼獣に文字を教えようという筋書きであるから (これを壊すと登場人物がなにをしているのかわからなくなる),アルファベットの順番のほうを尊重するため答えを変更することは正当化されるからである.原著者の意図した効果を出すためなら翻訳においてそうした操作が現に認められていることは,『不思議の国のアリス』から『フィネガンズ・ウェイク』に至るまで言葉遊びで知られる作品の翻訳を想起してみれば納得されるはずだ.
しかるに英訳の S, C, G, I にはなにか意味があるのか不明瞭であるし (これがたとえば W, O, L, F だったらまだよかったのだが),それを機械的に踏襲していると見られる日本語訳も,翻訳としては輪をかけて不出来と評するのが相当であると思われる.ここは上述の理由からたとえばイロハニホかアイウエオに変更して日本語で適切な答えをあてはめることのほうが「正しい」訳しかたであったろう.中世アルメニアにとってなんの意味もない英単語のまま S, C, G, I を見せられても日本語を母語とする読者にはなにも伝わらないのである.
これまで 3 回にわたって『中世アルメニア寓話集』の和訳の難点を指摘してきた.これら 3 つはそれぞれ性質を異にする問題であって,(1) 最初の「雌獅子と狐」は (おそらくは) 英訳から和訳するさいに生じた誤訳,(2) 次の「土地測量技師の水牛」は英訳ないしそのまえの露訳の時点で生じていた誤訳が影響した,重々訳であることの欠陥であったところ,(3) 今回の「狼の子と手紙」はそれらの「集大成」として単純な誤訳も英訳時点の不備も含みつつ,そもそも原典じたいが翻訳に向いていないテクストであったことに端を発する迷訳であったと要約できる.こうしてわれわれが翻訳に携わるさいのさまざまな教訓を暗に教えてくれている,この邦訳寓話集の存在そのものが新たな寓話であると言えば皮肉が利きすぎであろうか.
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