ムヒタル・ゴッシュ,ヴァルダン・アイゲクツィ;谷口伊兵衛訳『中世アルメニア寓話集』(渓水社,2012 年) という本がある.中世のアルメニアなどというたいへんロマンのある時代・地域についての本が日本語で読めるという非常に意欲的な訳業なのであるが,いろいろと難点があって手放しでおすすめはできない.
その難点については Amazon レビューのほうで簡単に書いたのでそちらをご覧いただくとしてなるべく繰りかえさないようにしたいが,そこで指摘した本書 19 頁「獅子と狐」の寓話の誤訳について,正しい訳文を与えるべくここで原文を詳しく検討してみよう.ただし「獅子と狐」という同名の話が本書にはもうひとつ 36 頁にもあってまぎわらしいので,本稿で詳論する 19 頁の話のほうは内容に即して「雌獅子と狐」と以降呼ぶことにする.
訳書でわずか 6 行の短い話なので,まずは問題の邦訳の全文を読んでいただこう.
ある雌獅子が子を産んだため、すべての動物たちがその雌獅子を祝福したり、その子への儀式に参加したりしようとして集まりました。儀式の間、狐がみんなの面前で獅子を大声でしかりつけ、こう言って怒らせたのです、「これがあんたの権限なんだ、これだけが。一匹の子だけで、もうこれ以上は一匹たりとも駄目だぞ。」すると獅子は平然と応えて言うのでした、「さよう。儂は一匹の子を産ませた、でも、それは獅子であって、貴様のような狐なぞではないんだぞ。」
一見して,まんなかにある狐のセリフがまったく意味不明なのである.この狐はいったいなぜ「権限」などということを言いだして,他人である雌獅子の出産の権利を制限しようとするのか? これが本当に正しい訳であったとすれば,この寓話はいかなる寓意をもっていると解釈すべきなのだろう?
この大問題に比べれば,本書全体に蔓延する「儂」という独特の一人称 (獅子や狼のみならず,スズメですら「儂」と言う.30 頁) や突然言及される「儀式」,「産ませた」という言いかた (会話相手がいつの間にか夫の獅子にすりかわったのか?),相手は平然としているのに「怒らせた」という言葉 (後掲の仏訳 injuria < injurier, 露訳 поносила < поносить のごとく「侮辱する,ののしる」や「悪口を言う」くらいが適切だろう) などはものの数ではない.
この大問題に比べれば,本書全体に蔓延する「儂」という独特の一人称 (獅子や狼のみならず,スズメですら「儂」と言う.30 頁) や突然言及される「儀式」,「産ませた」という言いかた (会話相手がいつの間にか夫の獅子にすりかわったのか?),相手は平然としているのに「怒らせた」という言葉 (後掲の仏訳 injuria < injurier, 露訳 поносила < поносить のごとく「侮辱する,ののしる」や「悪口を言う」くらいが適切だろう) などはものの数ではない.
ここでいったん立ち止まって,この支離滅裂な訳文は誰に責任があるのかということを一考しておこう.いや,ふつうに考えれば訳者の谷口氏なのである.しかしこの訳書,Amazon レビューのほうでも書いたが,なんと翻訳の底本が明示されていない.訳者あとがきに「本訳書は一九五二年にポヴセブ・オルベリにより中世アルメニア語から露訳されたもの(抄訳)の英訳からの、重々訳である」と説明があるばかりで (「ポヴセブ」には改めて突っこむまい),誰が英訳したなんという英題の本なのか不明なのである.つまり谷口氏が依拠している英語の原文を確認できないので,英語の時点ですでにまずいのかもわからないのである (もっともそれも含めて訳者の責任ではあろうが).
底本の情報もなく,また本書中でどれがムヒタル・ゴッシュ (Մխիթար Գոշ) の作でどれがヴァルダン・アイゲクツィ (Վարդան Այգեկցի) の作かすら記載されていないことから調査に手こずったが,私の調べたところによるとこの「(雌) 獅子と狐」(Առիւծն եւ Աղուէսն) はヴァルダンのほうの作で,フランスの東洋学者でアルメニア研究の先駆けだというアントワーヌ゠ジャン・サン゠マルタン (Antoine-Jean Saint-Martin) が 1825 年に出版したアルメニア語・フランス語対訳本 Choix de fables de Vartan のなかに見いだすことができたので,これによってアルメニア語の原文テクストを翻刻すると以下のとおりである (行の区切りも再現):
ԻԶ
ԱՌԻՒԾՆ ԵՒ ԱՂՈՒԷՍՆ
Առիւծ մի կորիւն ծնաւ, եւ ժողովեցան կեն-
դանիքն ’ի տես եւ յուրախութիւն։ Գայ
աղուէսն ’ի մէջ բազմամբոխին, եւ մեծա-
հանդիսիւ նախատեաց զառիւծն յատեանն
բարձր ձայնիւ եւ անարգեաց՝ թէ ա՞յդ է քո
կարողութիւնդ, զի մի կորիւն ծնանիս՝ եւ ո՛չ
բազում։ Պատասխանի ետ առիւծն հանդար-
տաբար՝ եւ ասէ• այո՛ մի կորիւն ծնանիմ,
բայց առիւծ ծնանիմ, եւ ոչ աղուէս քան ըզ-
քեզ։
Ցուցանէ առակս՝ թէ լաւ է մի որդի բարի,
քան հարիւր որդի անօրէն եւ չար։
便宜のためサン゠マルタンによる仏訳も掲載しておく:
XXVI.
la lionne et le renard.
Une Lionne ayant mis bas un lionceau, les ani-
maux se réunirent pour la voir et lui présenter
leurs félicitations. Le Renard vint dans la foule,
et, au milieu de l’assemblée, il injuria la
Lionne, avec affectation et à haute voix, en lui
disant avec mépris : Voilà donc toute ta puis-
sance ; tu n’enfantes qu’un Lionceau et pas da-
vantage. La Lionne lui répondit tranquillement :
Oui, je n’ai donné le jour qu’à un petit, mais
j’ai enfanté un Lion et non un Renard comme
toi.
Cette fable montre qu’il vaut mieux n’avoir
qu’un fils vertueux, qu’une centaine d’enfans
méchans et sans foi.
ただし以上のテクストはロシア語訳が参照しているものではない.そこでそのヨシフ・オルベリ (Иосиф Орбели) による露訳もついでに併載しておこう.谷口氏が依拠した英訳がわからない以上,確実に影響をたどれるのはその英訳が下敷きにしているというこのロシア語テクストまでである:
23. львица и лисица.
Львица родила львенка, и собра-
лись все животные, чтобы повидать его
и принять участие в празднестве. При-
ходит лиса и во время торжества, среди
всего этого собрания, громко упрекнула
львицу и поносила ее: «В этом ли твоя
мощь, что рожаешь одного детеныша,
а не многих?». Львица спокойно отве-
тила: «Да, я рожаю одного детеныша,
но рожаю льва, а не лисиц, как ты».
このオルベリの露訳の底本は,ニコライ・マル (Николай Яковлевич Марр) によるヴァルダンの校訂版 Сборники прич Вардана: материалы для истории средневѣковой армянской литературы (テクスト篇の ч. II は 1894 年) であるようだ.これも Google Books で Google によるデジタイズ版を閲覧できるが,ところどころ完全に文字がつぶれた部分がありあまり役に立たない.ただ下記の訳出作業の (9) でいちどだけ利用するので,どんなふうかいちおう画像を掲載しておく (стр. 116–7):
上掲のサン゠マルタン版と見比べてみれば,前半はところどころ単語のつづりに 1 文字加わったり減ったりしているほかは同じだが,後半の教訓部は明らかにサン゠マルタンのものより長い.ともあれこの段落はオルベリの露訳ではまるごと削られており,そのため谷口訳にもないので無理に判読することはやめておく.
上掲のサン゠マルタン版と見比べてみれば,前半はところどころ単語のつづりに 1 文字加わったり減ったりしているほかは同じだが,後半の教訓部は明らかにサン゠マルタンのものより長い.ともあれこの段落はオルベリの露訳ではまるごと削られており,そのため谷口訳にもないので無理に判読することはやめておく.
(1) Առիւծ մի կորիւն ծնաւ,
それでは本題に戻って,サン゠マルタン版のアルメニア語をもとに「雌獅子と狐」の日本語訳をしてみよう.アルメニア語の知識がまったくない人でも諸訳 (私のものを含む) の妥当性を検証できるよう,初歩から文法の解説をしていく.全体の訳出結果は本稿の末尾にあらためて載せるので,細部に関心のないかたは飛ばしてもよい.
まずアルメニア語には,印欧語としては驚くべきことに,名詞の性がないのである.したがってここまで雌獅子雌獅子と言ってきた առիւծ であるが実際には性別不明である.しかし仏訳も露訳も明示的に「雌のライオン une Lionne, Львица」と書いているのだからとりあえず従ってみよう.英語でも lioness や she-lion と言えるわけであるが,邦訳から唯一知られる英訳の情報であるところの各話の英題では ‘The Lion’ と載っているので,谷口氏の依拠した英訳では性別不明の獅子になっていたと見える (露訳からの重訳なのになぜ反抗したのか?).
次の մի は数詞の「1」,կորիւն は「動物の仔」,ծնաւ は ծնանիմ「産む」の直説法アオリスト 3 人称単数である.これは自動詞として「生まれる」にも使われる (アルメニア語ではしばしば能動と中・受動の境が曖昧である).さらにアルメニア語では名詞の単数主格と対格がつねに同形なので,このままでは獅子と仔のどちらが主語ともとれそうだが (タイトルにはある指示接尾辞 -ն もここではついていない),仔を自動詞の主語にとると առիւծ の主・対格が浮いてしまうので,順当に「獅子が一頭の子を産んだ」である.
なお単語の語義につき,中世アルメニア語の辞典などおそらく本国にしかなかろうから,ここでは手もとの千種眞一編『古典アルメニア語辞典』(大学書林,2013 年) に頼ることにする.これに見られるかぎりでは ծնանիմ の主語は男性の場合もあり,「Abraham cnaw z-Isahak アブラハムはイサクを生んだ Mt 1,2」との例が出ている.ということは文中の「獅子」が父親のほうであっても (少なくとも古典期には) 矛盾はないことになる.
եւ は接続詞「そして」.ժողովեցան 直アオ 3 複 < ժողովեմ「集める;集まる」.կենդանիքն は「生きている」の意の形容詞 կենդանի を名詞として「生きもの,動物」として用い,その複主 կենդանիք に指示接尾辞 -ն のついたもの.これは定冠詞のような働きをするので,全体で the animals の意.ここまでで「ので動物たちが集まった」.この動物たちはいきなり定冠詞つき複数で出てきているので,谷口訳の「すべての動物」というのもおかしくはない.
’ի のアポストロフは,ի- で始まる単語から前置詞の ի を区別するための記号.この前置詞はさまざまな格を支配し多様な意味をもつが,ここでは対格支配で「するために」の意か.同じく対格支配で「〜の方向へ」や「〜とともに」などの意味がある.տես は動詞 տեսանեմ「見る」から来た「見ること」という名詞.յ- は ի が母音の前でとる形.ուրախութիւն「喜び」.したがってここまでを直訳すれば「見る/会うことと喜びとのために」または「喜びをもって見ることのために」となろうか.
ここで 2 つの現代語訳を参考にしてみると,仏訳は « pour la voir et lui présenter leurs félicitations »「彼女に (la) 会い,彼女に祝福/おめでとう (félicitations) を伝えるため」,また露訳は «чтобы повидать его и принять участие в празднестве»「彼に (его, acc.) 会い,祝典 (празднество) に参加するため」となっている.
まず前半に注目すれば,原文で表されていない「見る」の目的語が補われていることに気づく.この補足じたいはそれぞれの言語の文法的制約からしかたのないことである (他動詞は目的語をとらざるをえない).ただしフランス語ではその対象が女性名詞=母ライオン la Lionne であり,ロシア語では男性名詞すなわち (最初の獅子を母親とみなしていたことを確認したので) 子ライオン львёнок と解釈されている.
より著しい違いがあるのは後半である.仏訳は「喜びをもって」の線ですなおに訳しているように見えるが,ロシア語ではなにやら祝祭が行われることになっている.これははっきり言ってどうなのかわからない.古典アルメニア語の辞典には「喜び」の一義しかないのであるが,あんがい時代が下るにつれて「祝典」の意味が加わったことを否定する根拠を私はもたないからである.
谷口訳の「儀式」もこの露訳の延長線で生じた訳語だろうか.しかし谷口訳をよくよく見ると「その雌獅子を祝福したり、その子への儀式に参加したりしようとして」となっており,獅子の親子に「会う」ことが完全に消えて,празднество「祝典」由来と思われる「祝福」と「儀式」が重複してしまっている.これはまず間違いなく誤訳とみなしていいだろう (繰りかえすがそれが谷口氏の責任なのか英訳者の責なのかは判定できない).また追加そのものを脇に置くとしても「その子への儀式」は日本語として言葉足らず.
Գայ 直現 3 単 < գամ「来る」.աղուէս「狐」(希 ἀλώπηξ).ի մէջ + [属]「〜のただなかに,のあいだで」.բազմամբոխի は բազմ- < բազում「多数の」と ամբոխի 単属 < ամբոխ「群衆,民衆」の複合語.「狐が大群衆のただなかに来る」.
մեծահանդիսիւ は մեծ「大きい」と հանդիսիւ 単具 < հանդէս「行列;見世物;祝賀祭」の複合語.(2) における露訳の「祝典」はここからきたものか? 具格はふつう「〜とともに,によって」を意味するが,ここでは様態の副詞として使われているであろう (Thomson, An Introduction to Classical Armenian, p. 56).現代アルメニア語でこの語 մեծահանդես は「壮麗な,豪奢な」という形容詞になっているようだが,中世ですでにこのような変化が進みつつあったのか? いずれにせよ副詞として「見世物的に=壮大に,盛大に」のような意味かと推測される.
նախատեաց 直アオ 3 単 < նախատեմ「侮辱する,罵る;非難する」.զ- は対格を支配し直接目的語を標示するマーカー.つまり զ-առիւծ-ն で the lion(ess) の目的格.
ատեան「集まり,評議会;訴訟,弁論;演壇」.ここでは յ- + 対格なので「〜に向かって」のようにしかとれず,「〜のなかで,において」とするには古典語では処格を要するはずだが,これも通時的変化があったとすればわからない.無難に方向の対格としてとっておこう.
բարձր「高い」(その具格は բարձու だがここでは一致していない).ձայնիւ 単具 < ձայն「声」.「大声で」は ի + 対格で ի ձայն բարձր とも言える (ի ձայն բարձր աղաղակեաց 彼女は大声を上げて叫んだ.ルカ 1,42).
անարգեաց 直アオ 3 単 < անարգեմ「侮辱する,軽蔑する;忌避する」.露訳 «поносила ее»「彼女を侮辱した」や仏訳 « en lui disant avec mépris »「彼女に軽蔑を込めて言い」はやはり目的語代名詞を補っている.
以上よりこの箇所の原意は,「そして盛大にその集まりに向かって大声で獅子を罵り,侮辱した」.
թէ は英語の that のような接続詞で,発話の内容を導く.այդ は 2 人称直示 (つまり相手のがわにあるものを指示する) の指示代名詞「それ」.この上に疑問符 ՞ がついている.アルメニア語では疑問符は文末ではなく,文中で重要な単語のアクセント母音の上に書かれる.է はコピュラ動詞 եմ の直現 3 単 (つまり英語の is).
քո は 2 人称単数の所有形容詞「おまえの,あなたの」.կարողութիւն は形容詞 կարող「可能な,力のある」から派生した抽象名詞「力,能力」で,これに 2 人称の指示接尾辞 -դ がついている (これは「その」と訳せるが,所有詞と補いあって要するに「おまえの」を意味しているのであえて訳出しなくてよい.ギリシア語で所有のとき冠詞がつくようなもの).
この「力」が英訳で power かなにかと訳され,谷口訳の「権限」につながったのだろう.仏訳の puissance も同じく「能力」と「権限」の両方の意味をもつ.しかし日本語ではこの 2 つはかなり違った言葉なので,少なくともこの文脈で「権限」と訳すわけにはゆかない.以上より「それがおまえの力なのか?」で,どんな力かの説明は次に続く.
ここで「能力」や「力」という語を不自然に感じるとすれば,「可能な」という原義に遡って「できること」くらいに訳すことも許されるだろう.文脈を重視し多少敷衍して訳すなら「全力」あるいは「限度,限界」ほどにもとれる (現に仏訳は « toute ta puissance » としている).
զի は「〜なので;〜するために,するように;〜ということ」といった広い意味あいをもつ接続詞.մի կորիւն は (1) で見たとおり「一頭の仔」.ծնանիս もすでに見た ծնանիմ「産む」の直現 2 単.ここまでで「一頭の仔を産むこと」の意.
ոչ は否定辞 (英 not).բազում「多くの,多数の」も既出.あわせて「多くではなく」,つまり意味あいとしては「たった一頭であってそれ以上ではなく」ということ.仏 « et pas davantage » や露訳 «а не многих» も完全に逐語的に移しており,英語でもすなおに訳していたとしたら ‘and not many [more]’ になる.谷口訳の「もうこれ以上は一匹たりとも駄目だぞ」はまったくの妄想であって,この話の訳文のなかでいちばんひどい部分である.
այո は肯定の返事「はい,そうだ,しかり」.ծնանիմ 直現 1 単「産む」.よって単純に「そうだ,私は一頭の仔を産む」で,露訳 «Да, я рожаю одного детеныша» も同様だが,仏訳は « Oui, je n’ai donné le jour qu’à un petit »「そうだ,私は一頭の仔しか産まなかった」と,ニュアンスを重視してか否定の表現 ne ... que を加えている.日本語では否定詞を加えないとしても語順を変えて「私が産むのは一頭だが」のようにすれば含意は通じるだろう.なお谷口訳が同じ動詞なのに「産ませた」に変えている理由は謎.
բայց は反意の接続詞「しかし,そうではなく;もっとも〜だが」.以下 առիւծ「獅子」,ծնանիմ「私は産む」,եւ「そして」,ոչ「でない」,աղուէս「狐」はすべて既出.前半の主語は動詞に含まれている 1 人称単数の「私」なので,「獅子」は対格で,それゆえ後半で対比される「狐」も対格と解するのが相当である.
քան は比較の副詞「〜よりも」(英 than).しかし ըզքեզ の最初の ը- は意味不明.以下の画像のとおりサン゠マルタンの版には間違いなくこの文字があるのだが,誤植か.上に挙げたマルの校訂版にはなく զքեզ となっている.
քան զքեզ と読むとして,քան զ- で対格を支配して「〜よりも」,քեզ は 2 人称単数代名詞 դու の与対処格である.この「おまえよりも」というのは訳しにくいが,仏訳 « et non un Renard comme toi » および露訳 «а не лисиц, как ты» は一致して「〜のような/ように comme, как」と解し「おまえのような [に] 狐ではなく」としている.つまりこの「おまえよりも」というのは「おまえと違って」(cf. other than you) くらいの意味だろう.
以上をまとめると,この箇所の直訳は「しかし [もっとも] 私は獅子を産むのであって,おまえのように狐をではない」.
最後に,オルベリの露訳以降で割愛されているこの教訓段落を訳出しよう.
Ցուցանէ 直現 3 単 < ցուցանեմ「示す,見せる;立証する」.առակս は առակ「たとえ,ことわざ,格言,寓話」の複数対格・処格とも見えるが,ここでは առակ に 1 人称指示接尾辞 -ս「この」がついたもので,単数主格である.つまり「この寓話が示している (のは թէ 以下のことである)」.
լաւ「よりよい,優れた」.է「〜である」,մի「一人の」は既出で,որդի は「息子」,բարի は「良い,善い」.հարիւր は基数詞「100」.անօրէն に見える օ という文字は中世 11 世紀末の発明で,本来は二重母音 աւ にあたる.そして անաւրէն は「無法の,不正な,邪悪な,犯罪者」の意.չար もこれと類義語で「悪い,不道徳な,悪意のある」といった意味.
以上で「この寓話が示しているのは,一人の善良な息子は百人の邪悪で非道な息子 (をもつこと) にまさるということである」.獅子が「善良」なのか,狐は逆に貶められすぎではないかという疑念もあるが,これが中世ヨーロッパの動物寓意譚における各動物の印象なのかもしれない.
これまでの分析をまとめると,サン゠マルタン版のアルメニア語原文に忠実な (余計な付け足しを極力排した) 日本語訳は以下のようになろう:
まずアルメニア語には,印欧語としては驚くべきことに,名詞の性がないのである.したがってここまで雌獅子雌獅子と言ってきた առիւծ であるが実際には性別不明である.しかし仏訳も露訳も明示的に「雌のライオン une Lionne, Львица」と書いているのだからとりあえず従ってみよう.英語でも lioness や she-lion と言えるわけであるが,邦訳から唯一知られる英訳の情報であるところの各話の英題では ‘The Lion’ と載っているので,谷口氏の依拠した英訳では性別不明の獅子になっていたと見える (露訳からの重訳なのになぜ反抗したのか?).
次の մի は数詞の「1」,կորիւն は「動物の仔」,ծնաւ は ծնանիմ「産む」の直説法アオリスト 3 人称単数である.これは自動詞として「生まれる」にも使われる (アルメニア語ではしばしば能動と中・受動の境が曖昧である).さらにアルメニア語では名詞の単数主格と対格がつねに同形なので,このままでは獅子と仔のどちらが主語ともとれそうだが (タイトルにはある指示接尾辞 -ն もここではついていない),仔を自動詞の主語にとると առիւծ の主・対格が浮いてしまうので,順当に「獅子が一頭の子を産んだ」である.
なお単語の語義につき,中世アルメニア語の辞典などおそらく本国にしかなかろうから,ここでは手もとの千種眞一編『古典アルメニア語辞典』(大学書林,2013 年) に頼ることにする.これに見られるかぎりでは ծնանիմ の主語は男性の場合もあり,「Abraham cnaw z-Isahak アブラハムはイサクを生んだ Mt 1,2」との例が出ている.ということは文中の「獅子」が父親のほうであっても (少なくとも古典期には) 矛盾はないことになる.
(2) եւ ժողովեցան կենդանիքն ’ի տես եւ յուրախութիւն։
եւ は接続詞「そして」.ժողովեցան 直アオ 3 複 < ժողովեմ「集める;集まる」.կենդանիքն は「生きている」の意の形容詞 կենդանի を名詞として「生きもの,動物」として用い,その複主 կենդանիք に指示接尾辞 -ն のついたもの.これは定冠詞のような働きをするので,全体で the animals の意.ここまでで「ので動物たちが集まった」.この動物たちはいきなり定冠詞つき複数で出てきているので,谷口訳の「すべての動物」というのもおかしくはない.
’ի のアポストロフは,ի- で始まる単語から前置詞の ի を区別するための記号.この前置詞はさまざまな格を支配し多様な意味をもつが,ここでは対格支配で「するために」の意か.同じく対格支配で「〜の方向へ」や「〜とともに」などの意味がある.տես は動詞 տեսանեմ「見る」から来た「見ること」という名詞.յ- は ի が母音の前でとる形.ուրախութիւն「喜び」.したがってここまでを直訳すれば「見る/会うことと喜びとのために」または「喜びをもって見ることのために」となろうか.
ここで 2 つの現代語訳を参考にしてみると,仏訳は « pour la voir et lui présenter leurs félicitations »「彼女に (la) 会い,彼女に祝福/おめでとう (félicitations) を伝えるため」,また露訳は «чтобы повидать его и принять участие в празднестве»「彼に (его, acc.) 会い,祝典 (празднество) に参加するため」となっている.
まず前半に注目すれば,原文で表されていない「見る」の目的語が補われていることに気づく.この補足じたいはそれぞれの言語の文法的制約からしかたのないことである (他動詞は目的語をとらざるをえない).ただしフランス語ではその対象が女性名詞=母ライオン la Lionne であり,ロシア語では男性名詞すなわち (最初の獅子を母親とみなしていたことを確認したので) 子ライオン львёнок と解釈されている.
より著しい違いがあるのは後半である.仏訳は「喜びをもって」の線ですなおに訳しているように見えるが,ロシア語ではなにやら祝祭が行われることになっている.これははっきり言ってどうなのかわからない.古典アルメニア語の辞典には「喜び」の一義しかないのであるが,あんがい時代が下るにつれて「祝典」の意味が加わったことを否定する根拠を私はもたないからである.
谷口訳の「儀式」もこの露訳の延長線で生じた訳語だろうか.しかし谷口訳をよくよく見ると「その雌獅子を祝福したり、その子への儀式に参加したりしようとして」となっており,獅子の親子に「会う」ことが完全に消えて,празднество「祝典」由来と思われる「祝福」と「儀式」が重複してしまっている.これはまず間違いなく誤訳とみなしていいだろう (繰りかえすがそれが谷口氏の責任なのか英訳者の責なのかは判定できない).また追加そのものを脇に置くとしても「その子への儀式」は日本語として言葉足らず.
(3) Գայ աղուէսն ’ի մէջ բազմամբոխին,
Գայ 直現 3 単 < գամ「来る」.աղուէս「狐」(希 ἀλώπηξ).ի մէջ + [属]「〜のただなかに,のあいだで」.բազմամբոխի は բազմ- < բազում「多数の」と ամբոխի 単属 < ամբոխ「群衆,民衆」の複合語.「狐が大群衆のただなかに来る」.
(4) եւ մեծահանդիսիւ նախատեաց զառիւծն յատեանն բարձր ձայնիւ եւ անարգեաց
մեծահանդիսիւ は մեծ「大きい」と հանդիսիւ 単具 < հանդէս「行列;見世物;祝賀祭」の複合語.(2) における露訳の「祝典」はここからきたものか? 具格はふつう「〜とともに,によって」を意味するが,ここでは様態の副詞として使われているであろう (Thomson, An Introduction to Classical Armenian, p. 56).現代アルメニア語でこの語 մեծահանդես は「壮麗な,豪奢な」という形容詞になっているようだが,中世ですでにこのような変化が進みつつあったのか? いずれにせよ副詞として「見世物的に=壮大に,盛大に」のような意味かと推測される.
նախատեաց 直アオ 3 単 < նախատեմ「侮辱する,罵る;非難する」.զ- は対格を支配し直接目的語を標示するマーカー.つまり զ-առիւծ-ն で the lion(ess) の目的格.
ատեան「集まり,評議会;訴訟,弁論;演壇」.ここでは յ- + 対格なので「〜に向かって」のようにしかとれず,「〜のなかで,において」とするには古典語では処格を要するはずだが,これも通時的変化があったとすればわからない.無難に方向の対格としてとっておこう.
բարձր「高い」(その具格は բարձու だがここでは一致していない).ձայնիւ 単具 < ձայն「声」.「大声で」は ի + 対格で ի ձայն բարձր とも言える (ի ձայն բարձր աղաղակեաց 彼女は大声を上げて叫んだ.ルカ 1,42).
անարգեաց 直アオ 3 単 < անարգեմ「侮辱する,軽蔑する;忌避する」.露訳 «поносила ее»「彼女を侮辱した」や仏訳 « en lui disant avec mépris »「彼女に軽蔑を込めて言い」はやはり目的語代名詞を補っている.
以上よりこの箇所の原意は,「そして盛大にその集まりに向かって大声で獅子を罵り,侮辱した」.
(5) թէ ա՞յդ է քո կարողութիւնդ,
թէ は英語の that のような接続詞で,発話の内容を導く.այդ は 2 人称直示 (つまり相手のがわにあるものを指示する) の指示代名詞「それ」.この上に疑問符 ՞ がついている.アルメニア語では疑問符は文末ではなく,文中で重要な単語のアクセント母音の上に書かれる.է はコピュラ動詞 եմ の直現 3 単 (つまり英語の is).
քո は 2 人称単数の所有形容詞「おまえの,あなたの」.կարողութիւն は形容詞 կարող「可能な,力のある」から派生した抽象名詞「力,能力」で,これに 2 人称の指示接尾辞 -դ がついている (これは「その」と訳せるが,所有詞と補いあって要するに「おまえの」を意味しているのであえて訳出しなくてよい.ギリシア語で所有のとき冠詞がつくようなもの).
この「力」が英訳で power かなにかと訳され,谷口訳の「権限」につながったのだろう.仏訳の puissance も同じく「能力」と「権限」の両方の意味をもつ.しかし日本語ではこの 2 つはかなり違った言葉なので,少なくともこの文脈で「権限」と訳すわけにはゆかない.以上より「それがおまえの力なのか?」で,どんな力かの説明は次に続く.
ここで「能力」や「力」という語を不自然に感じるとすれば,「可能な」という原義に遡って「できること」くらいに訳すことも許されるだろう.文脈を重視し多少敷衍して訳すなら「全力」あるいは「限度,限界」ほどにもとれる (現に仏訳は « toute ta puissance » としている).
(6) զի մի կորիւն ծնանիս՝ եւ ո՛չ բազում։
զի は「〜なので;〜するために,するように;〜ということ」といった広い意味あいをもつ接続詞.մի կորիւն は (1) で見たとおり「一頭の仔」.ծնանիս もすでに見た ծնանիմ「産む」の直現 2 単.ここまでで「一頭の仔を産むこと」の意.
ոչ は否定辞 (英 not).բազում「多くの,多数の」も既出.あわせて「多くではなく」,つまり意味あいとしては「たった一頭であってそれ以上ではなく」ということ.仏 « et pas davantage » や露訳 «а не многих» も完全に逐語的に移しており,英語でもすなおに訳していたとしたら ‘and not many [more]’ になる.谷口訳の「もうこれ以上は一匹たりとも駄目だぞ」はまったくの妄想であって,この話の訳文のなかでいちばんひどい部分である.
(7) Պատասխանի ետ առիւծն հանդարտաբար՝ եւ ասէ•
Պատասխանի「返事,弁明」.ետ 直アオ 3 単 < տամ「与える」.この 2 語の組みあわせでふつう「答える,返事をする」の意.առիւծն は既出で「その獅子」.հանդարտաբար は հանդարտ「静かな,穏やかな,穏和な」という形容詞に,「〜のように」を意味する接尾辞 -աբար がついて副詞になったもの.ասէ 直現 3 単 < ասեմ「言う」.「獅子は静かに/穏やかに答えて言った」.(8) այո՛ մի կորիւն ծնանիմ,
այո は肯定の返事「はい,そうだ,しかり」.ծնանիմ 直現 1 単「産む」.よって単純に「そうだ,私は一頭の仔を産む」で,露訳 «Да, я рожаю одного детеныша» も同様だが,仏訳は « Oui, je n’ai donné le jour qu’à un petit »「そうだ,私は一頭の仔しか産まなかった」と,ニュアンスを重視してか否定の表現 ne ... que を加えている.日本語では否定詞を加えないとしても語順を変えて「私が産むのは一頭だが」のようにすれば含意は通じるだろう.なお谷口訳が同じ動詞なのに「産ませた」に変えている理由は謎.
(9) բայց առիւծ ծնանիմ, եւ ոչ աղուէս քան ըզքեզ։
բայց は反意の接続詞「しかし,そうではなく;もっとも〜だが」.以下 առիւծ「獅子」,ծնանիմ「私は産む」,եւ「そして」,ոչ「でない」,աղուէս「狐」はすべて既出.前半の主語は動詞に含まれている 1 人称単数の「私」なので,「獅子」は対格で,それゆえ後半で対比される「狐」も対格と解するのが相当である.
քան は比較の副詞「〜よりも」(英 than).しかし ըզքեզ の最初の ը- は意味不明.以下の画像のとおりサン゠マルタンの版には間違いなくこの文字があるのだが,誤植か.上に挙げたマルの校訂版にはなく զքեզ となっている.
քան զքեզ と読むとして,քան զ- で対格を支配して「〜よりも」,քեզ は 2 人称単数代名詞 դու の与対処格である.この「おまえよりも」というのは訳しにくいが,仏訳 « et non un Renard comme toi » および露訳 «а не лисиц, как ты» は一致して「〜のような/ように comme, как」と解し「おまえのような [に] 狐ではなく」としている.つまりこの「おまえよりも」というのは「おまえと違って」(cf. other than you) くらいの意味だろう.
以上をまとめると,この箇所の直訳は「しかし [もっとも] 私は獅子を産むのであって,おまえのように狐をではない」.
(10) Ցուցանէ առակս՝ թէ լաւ է մի որդի բարի, քան հարիւր որդի անօրէն եւ չար։
最後に,オルベリの露訳以降で割愛されているこの教訓段落を訳出しよう.
Ցուցանէ 直現 3 単 < ցուցանեմ「示す,見せる;立証する」.առակս は առակ「たとえ,ことわざ,格言,寓話」の複数対格・処格とも見えるが,ここでは առակ に 1 人称指示接尾辞 -ս「この」がついたもので,単数主格である.つまり「この寓話が示している (のは թէ 以下のことである)」.
լաւ「よりよい,優れた」.է「〜である」,մի「一人の」は既出で,որդի は「息子」,բարի は「良い,善い」.հարիւր は基数詞「100」.անօրէն に見える օ という文字は中世 11 世紀末の発明で,本来は二重母音 աւ にあたる.そして անաւրէն は「無法の,不正な,邪悪な,犯罪者」の意.չար もこれと類義語で「悪い,不道徳な,悪意のある」といった意味.
以上で「この寓話が示しているのは,一人の善良な息子は百人の邪悪で非道な息子 (をもつこと) にまさるということである」.獅子が「善良」なのか,狐は逆に貶められすぎではないかという疑念もあるが,これが中世ヨーロッパの動物寓意譚における各動物の印象なのかもしれない.
最終結果
これまでの分析をまとめると,サン゠マルタン版のアルメニア語原文に忠実な (余計な付け足しを極力排した) 日本語訳は以下のようになろう:
獅子が一頭の仔を産んだので,動物たちは見て [見舞い] 喜び (を伝える) ために集まった.狐がその大群衆のなかにやってきて,盛大に獅子を罵りその集まりに向かって大声で「それがあんたのできることか,たくさんではなく (たった) 一頭の仔を産むことが?」と侮辱した.獅子は静かに答えて言った,「そのとおり,私が産むのは一頭だ,もっとも私が産むのは獅子であって,おまえのように狐ではないが」.
この寓話が示しているのは,一人の善良な息子は百人の邪悪で非道な息子 (をもつこと) にまさるということである.
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