dimanche 12 novembre 2017

アリスの 20 にならないかけ算:4 × 5 = 12

『不思議の国のアリス』II 章には,頭がおかしくなりまともにものを思いだせなくなったアリスが次のような計算をする場面がある:
Let me see: four times five is twelve, and four times six is thirteen, and four times seven is ― oh, dear! I shall never get to twenty at that rate!
「4 × 5 は 12,4 × 6 は 13,4 × 7 は……」まで唱えたあと,この調子では永久に 20 にたどりつけない,と彼女は言っている.『アリス』の作中に数限りなく詰めこまれた,謎かけともナンセンスジョークともとれる一節の例である.‘At that rate’ という句も,ふつう「このぶんでは,こんな調子では」などと訳されるイディオムだが,‘rate’ は文字どおりには「割合,率」という意味なので「こんな増えかた (増加率) では」ととってもいいだろう.

従来,この不思議な計算には 2 通りの解決」が与えられてきた.『アリス』の注釈書として名高い Martin Gardner の The Annotated Alice で紹介されたのが普及のきっかけだと認識している.とりあえずそれを説明してみよう.

ひとつは簡単で,日本の「九九」にあたる表 (multiplication table) がこの時代のイギリスでは 9 × 9 でなく 12 × 12 まで覚えることになっていたところ,この要領で 12 まで「計算」してみれば「4 × 12 = 19」で打ち止めなので 20 にはなれないということだ.この解答を「乗算表説」と呼ぶことにしよう.この場合,幼いアリスには九九表の範囲を超えたかけ算は不可能,つまり彼女の認識には「4 × 13」などという計算は存在しないのだ,という解釈になるだろう.

もうひとつは込み入ったもので,4 × 5 = 12, 4 × 6 = 13, ... という等式をこの形のまま真にする方法である.これは Alexander L. Taylor なる人物の発案らしい.いわく,「18 進法」によれば最初の計算は正しく,次は「21 進法」では正しく,その次の 4 × 7 = 14 は「24 進法」ならば成りたつ,……というふうに記数法の底 (base) を変更するというのである.こうすると 4 × 13 (この 13 は 10 進表記) のときには「42 進法」を使うことになるから,その計算結果は 20 ではなく,(10 進法の 10 を表す文字を A とすれば) 1A である.こちらは「底の変換説」と暫定的に呼称する.

Annotated の旧版を訳した石川澄子訳 (東京図書,1980 年) では,この説明を理解できなかったためにとんでもない誤訳になっている:「4 の 13 倍は(42 進法を用いると)1 の次にどんな数字が来ても 10 を採り、20 にはならない」.これでは意味不明である.「1 の次に,なんであれ 10 を表すところの文字〔たとえば A〕が来て」というのが本当.

さて,どうも『アリス』のファンのあいだではおおむね,この後者の説明は数学的にみごとで鮮やかなすっきりした解法であるように受けとめられているらしい.著者ルイス・キャロル,その実名はチャールズ・ラトウィッジ・ドッドソンであるが,彼が数学者であり,また『アリス』の作中にも見られるとおりこのような手の込んだ理屈を好んだという事実が傍証になっているようだ.

たとえば楠本君恵 (2017)「『不思議の国のアリス』―150 年色褪せない本 その現状と魅力―」は Gardner の注釈書のこの箇所を引いた直後に,(この計算ばかりについてではないだろうが) こう結んでいる:
以前から数学者が何かありそうだと研究をしていたが,まとまって提示されたこの本の言葉遊びの解説,数学的,論理学的な考察を通しての解説は,世の大人たちを納得させ,あっと言わせた。
また稲木昭子・沖田知子『謎解き「アリス物語」―不思議の国と鏡の国へ』(PHP 新書,2010 年) の最初の章でこの問題を解説した箇所にはこうある:
52 は、42 で位が上がる 42 進法では〈1 × 42 + A〉で 1A と表記され、20 にはなりません。
だからこそ、アリスはいつまでやっても 20 にはならないと、早くも 4 × 7 の段階で予測しているといえるのです。たんなる言い間違いと見せかけて、そこに見事な仕掛けが隠されていたわけです。
ところで私はこの説明にまったく納得していないのだが,そのことは後に回すとしてまず彼女ら彼らの解説の不足点を指摘しておこう.『アリス』の解説者はたいてい児童文学や英文学が専門であって,算数が苦手なためにかどうにも理解不足でピント外れな解説になりがちである.

これは Gardner の Annotated からしてそうなのだが,底の変換説の解説にあたってなぜ彼らは4 × 12 = 19の次で止めるのだろうか?(ここで左辺が 10 進で右辺が 39 進という不注意な記法にはいちいち突っこむまい).Gardner の注を説明しなおした楠本前掲論文は,「4 × 12 = 19」の直後で「しかし,ここまでで破綻し,決して 20 になることはない,という説明である」としている.また稲木・沖田も上でご覧のとおり,1A であって 20 にはならない,「だからこそ」といきなり締めくくっている.

言っておくが,いちばん重要なのは 1A ではない.4 × 13₁₀ = 1A₄₂ では ‘20’ になれなかったというだけなら,4 × 14, 4 × 15 とずっと続けていけばひょっとしてなるかもしれないではないか? アリスはここで ‘I shall never get to twenty’ と言っているのである.それに彼女は 7 で計算をすっぱりやめたので 4 × 13 なんていちども口にしておらず,問題が発生するのが 13 のときだというのは解説者の思いこみである.それゆえ 13 のときたまたまならないのではなくて,どこまでいっても決してならない neverということを証明しなければ解答になっていない,この核心を示せていないかぎり答案として 0 点である.

このことのちゃんとした証明は簡単である.面倒な計算などいらず,3 と 1 のどちらが大きいかを知っていれば足りる.まず,規則どおりにいけば「42 進数」に引きつづき,4 × 14₁₀ = 1B の右辺では「45 進数」,4 × 15₁₀ = 1C の右辺では「48 進数」と,底が 3 ずつ増えつづける.ところで「n 進数」というのは数字を表すのに n 種類の文字があって,1 桁で n 種類の数を表現できるという記数法だ (ご存知 10 進数では 0, 1, 2, ..., 9 と 10 種類ある.「42 進数」などとなると 0, ..., 9 に加えて A, B, C, ..., Z でも足りないが,それでもとにかく 40 や 41 を 1 文字で表せる文字をどこかから用意するということ).

そして 19₃₉, 1A₄₂, 1B₄₅, 1C₄₈, ... と 1 の位が 1 つずつ増えていくあいだ (ちなみにこの間なにも「破綻」などしておらず,この列は際限なく続けられる.さきほども言ったとおり Z で終わるわけでもない),「何進数」の底のほうは 3 つずつ増える,つまり 1 の位のいわばキャパシティが 3 増えるのだから,1 ずつ増加したところで 10 の位が 2 になる「繰り上がりが起こることは永久にないのである.これで証明終了.

さて話を戻すが,この底の変換説という理屈は本当に「見事な」ものなのだろうか? 私じしん数学科を出た人間としてどうにもそうは思えないのである.本当にこんなことを数学者であるルイス・キャロルが考えたのだろうか.

「18 進」「21 進」「24 進」…….いずれもきわめて「汚い」中途半端な合成数であって,実用上の役に立たないことはもちろん数学的にも美しくはない.人間の指を根拠とする 10 進はともかくとして,2 進,3 進,16 進など,現実に使いでのある記数法の底というのはそれぞれに理由があるものである.そこをいくと「18 進」や「21 進」など,いかにも計算の帳尻あわせのためだけに作られた理屈としか思われない.

ちなみに何進法などというと慣れていない人には難しげに見えるのかもしれないが,これは結局のところ,「左辺が 4 × 5, 4 × 6, 4 × 7 と 4 ずつ増えていくあいだ,右辺の 12, 13, 14 が見かけ上 1 ずつしか増えていないことを帳尻あわせするため,足りない 3 を『十の位』の中身でひそかに増えるよう押しつけた」ということを一言で言っているだけである.

4 と 5 から 12,4 と 6 から 13,4 と 7 から 14 (?) を作る規則はもとより無限にある.そのなかでいちばん素直なものは,言うまでもなく「ただ 1 ずつ増えている」という規則だろう.それは結局のところ最初の 12 × 12 乗算表説が採用していた規則である.これと引き比べて,「最初は『18 進』とみなす,次は『21 進』とみなす,その次は……」という底の変換説のいかに不自然なことか.

これは世間的な数学者のイメージ (偏見) からすると意外かもしれないが,数学の人間はことのほかシンプルであることを好むものである.数学者はむやみに難しいことは言いださないものなのだ.たとえば大学で数学の教育を受けた人なら聞き覚えがあるかもしれないが,数学者はよく「牛刀」ということを言う.論語に由来する「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」というあれで,「おおげさな道具」というほどの意味だ.簡単な問題を解くのにやたらと高級で強力な定理や概念などを持ちだすと「それは牛刀だ」と言われる.そういうことをすると,もちろん「間違いではない」としても「美しくない」と思われてしまうのである.数学者は状況に見あった必要十分な道具立てとシンプルさを重んじる生きものである.

ここでも似たようなことで,「18 進数」などというただでさえそう一般的でも必然的でもない道具立てを唐突に持ちだすこと,それからじつは底が増えていくのだなどと言いだすことは,たとえ辻褄があっていても美しくない.そうするくらいなら,「1 ずつ増える」というこのうえなく自然な規則と当時の算数教育という歴史的文脈から示されている乗算表説のほうが,よほどすっきりしていて説得力があるのである.単純な話,これがクイズや謎解きの答えだったとしてどちらが納得しやすいのかと問うてもいい.こんなこじつけに「見事」と感じるようではちょっと謎解きのセンスは乏しいと言われねばならない.

念のため断っておくと,Gardner はあくまで紹介のため両論併記をしただけであって,2 説のどちらが優れていると判断を下しているわけではない.後者をルイス・キャロルの隠された真意であるかのようにみなし称揚しているのはべつの解説者たちである.

底の変換説にはもうひとつ重大な難点がある.それは,10 進以外の記数法において,12 を「ジュウニ」や ‘twelve’,13 を「ジュウサン」や ‘thirteen’ などとは決して読まないということである.日本語ではこれを「イチ・ニ」「イチ・サン」,英語では ‘one two’, ‘one three’ と読む.しかるにアリスのテクストは ‘twelve’, ‘thirteen’, そして ‘twenty’ とはっきり書いている.これはアリスの考えている体系が 10 進であるきわめて強力な証拠である.

もちろんこれにも底の変換説のがわから反論が不可能なわけではない.たとえば次のような弁護が可能だろう:
  1. アリスは「18 進」等々で思考していながら,その読みかただけは偶然知らなかった;
  2. アリスが「18 進」等々で計算しているという主張は,あくまでキャロルおよびそれを解釈する読者のものであって,作中人物としてのアリスはとくに根拠なく 12, 13, 20 と言って (言わされて) いる;
  3. アリスもキャロルも「18 進」等々における正しい読みかたを知っていたが,謎かけのミスリードのためにこう言わざるをえなかった.2. と 3. はある程度重複している.
最後に,私の議論にも不完全な点があることを反省しておくのがフェアだろう.まずは 150 年という時間的隔たりである.私は正直に知らないと告白するが,もしかするとルイス・キャロルの時代には「18 進」だろうがなんだろうが ‘twelve’ や ‘twenty’ と読んだかもしれない.これはなんとも調べるのが難しい.また,同じく昔の人物であるということが原因で,「18 進」や「21 進」が「汚い」という感覚を共有していないか,もっと一般に論理パズルとしてどのような答えが「美しい」かという直観に現代人との食い違いがあるかもしれない.そうだとすると底の変換説にも説得力が出てくることになる.この点に決着をつけるには,彼の時代の文脈において彼の数学的・論理的感覚を適切に評価することが必要になると思われる.

それに,底の変換説は言うまでもなく乗算表説に対して不十分さを感じたところから考案されたものだろう.この説の賛同者に対して,いや,乗算表説のほうが素直だ,といってもあまり納得はされないに違いなく,反対するならむしろ第 3 の法則を見つけだすことが正道かもしれないところ,私はそれを提示できていない.私が本稿で示しえたことはせいぜい,底の変換説の不十分な証明の補足と,乗算表説がシンプルであることには見かけ以上の価値があるという点の確認のみである.

samedi 11 novembre 2017

コーンウォール語入門 (10) 間接話法

John Page, Cornish Grammar Intermediate. Kesva an Taves Kernewek, ⁵2008 を大雑把に訳したもの.凡例は初回を参照.


IX. 間接的陳述


〔間接話法 indirect speech と言ったほうがわかりよいかもしれないが,原語の indirect statement をそのままにした.〕

1) 代名詞主語を伴う肯定的陳述で,bos の現在または未完了を含むもの.所有代名詞と不定詞を用いる:
ev a leveris y vos klav 彼は病気である/だった,と彼は言った
my a vynn agas bos omma 君がここにいたら,と私は願う
ny vynnyn ni aga bos ledhys 私たちは彼らに死んでほしくはない
2) 名詞主語を伴う肯定的陳述で,bos の現在または未完了を含むもの.名詞および任意の形容詞は,不定詞におかれた bos に後続する:
ev a lever bos Yowann omma ジョンはここにいる,と彼は言う
hi a vynna bos lowen hy mab 彼女は彼女の息子に幸せであってほしかった
my a dyb bos Tamsin pur deg タムシンはとてもきれいだと私は思う
3) 任意の主語を伴う肯定的陳述で,bos のその他の時制もしくはその他の任意の動詞.〈主語 + dhe + 不定詞〉構文を用いる:
hi a lever ev dhe dhos 彼は来る/来るだろう,と彼女は言う〔軟音化 dhos < dos〕
ev a dyb ni dhe vos ena 私たちはそこにいた/いる/いるだろう,と彼は思う〔軟音化 vos < bos〕
4) 肯定の間接的陳述につき,小辞 y⁵ を用いるもうひとつの方法がある:
ev a grys y fydhav ena 私はそこにいるだろう,と彼は信じる〔混合変化 fydhav < bydhav〕
ev a wayt y teu Yowann ジョンは来るだろう,と彼は望む〔混合変化 teu < deu〕
5) 陳述が否定であるとき,べつの規則が適用される.否定の間接的陳述においては,小辞 na² を用いる〔母音の前では nag:前著 XI 課〕.主語が名詞であるならば,動詞は 3 人称単数におかれるが,代名詞であるならば,動詞はその主語に一致しなければならない:
an den a leveris nag esa avalow y’n varghas その男は言った,市場にはリンゴがなかったと〔この esa と下の esens はそれぞれ bos の未完了 3 単および 3 複の長形.場所なので長形:前著 XV 課
ow thas a leveris nag esens i ena 私の父は言った,彼らはそこにいなかったと〔気息音化 thas < tas〕
ev a grys na vynn an fleghes dos 彼は信じている,子どもたちは来たくないだろうと〔軟音化 vynn < mynn〕
ev a leveris na yllyn y wul 彼は言った,私はそれをできなかったと〔軟音化 yllyn < gyllyn, wul < gul ; この gyllyn は galloes「できる」の未完了 1 単または 1 複で,y は不定詞 gul の代名詞目的語である所有形.〕
1), 2), 3) において,〔できごとの〕生起の相対的時間は文脈によって与えられる.

次の 2 例を考えよう:
My a grys aga bos da 彼らはよいと私は信じている〔lit. I believe their being good.〕
My a grys nag yns i da 彼らはよくないと私は信じている〔lit. I believe [that] not are they good.〕
第 1 のものは肯定なので,規則 1 をあてはめる.第 2 のものは否定なので,規則 5 をあてはめる.

注意として:
Ny grysav aga bos da 彼らがよいと私は信じない〔lit. [I do] not believe their being good.〕
〔間接話法を〕導入している動詞 (「私は〜とは信じない」) は否定形だが,〔間接話法の〕陳述は肯定なので,規則 1 があてはまる.

これらの 5 つの規則はとても重要であり,あらゆるコーンウォール語のよい構文にとって根本的である.完璧に習得されねばならない.

コーンウォール語入門 (9) 接中代名詞・未来・再帰動詞・反復数詞

John Page, Cornish Grammar Intermediate. Kesva an Taves Kernewek, ⁵2008 を大雑把に訳したもの.凡例は初回を参照.


V. 接中代名詞


代名詞が動詞の単純時制 (助動詞との複合でないもの) の目的語であるとき,目的語は小辞と動詞とのあいだに接中 (infix) される.これらの接中代名詞 (infixed pronoun) を示すのにアポストロフィが使われる:
私を   ’m
君を   ’th⁵
彼を   ’n
彼女を  ’s
私たちを ’gan
君たちを ’gas
彼らを  ’s
接中代名詞は先行する小辞によって動詞が変異することを妨げる.これらのうちそれじしんが変異をひきおこすのは ’th だけで,これは第 5 形を要求する.
ev a’th kara meur 彼は君をとても愛していた〔原文は「た」すなわち過去形 loved だが,kara は現在形で過去は karas のはずである:前著 XVII 課
my a’n gorras y’n amari 私はそれ (男) を戸棚に置いた
以下の例は詩的とみなされる:
A’s gwelsys ? Na’s gwelis 君は彼女を見たか.いいえ.
Ny’s gwelis 私は彼女を見ていない
助動詞を伴う複合時制においては,代名詞の所有形が用いられることに注意:
my a’n gorras y’n amari だが my a wrug y worra y’n amari
Yowann a’s gwelas だが Yowann a wrug hy gweles


VI. bos の未来時制

bydhav, bydhydh, bydh, bydhyn, bydhowgh, bydhons
起こりうる変異は第 2 形 B > V と第 5 形 B > F.

主語が動詞に先行するとき,小辞は a² である.補語が動詞に先行するとき,小辞はないが,第 2 形変異は残る.動詞が主語と補語よりも前に来るとき,小辞は y⁵ である.疑問では小辞は a²:
an fleghes a vydh lowen hedhyw 子どもたちは今日幸せだろう
lowen vydh an fleghes hedhyw〔同上〕
hedhyw y fydhons i lowen 今日彼らは幸せだろう
a vydhons i lowen ? 彼らは幸せになるだろうか
a ny vydh an fleghes lowen ? 子どもたちは幸せにならないだろうか


VII. 再帰動詞


動詞は om-² を接頭することで再帰形 (reflexive) になる:
golghi 洗う,omwolghi 自分を洗う
res yw dhymm golghi an dillas 私は服を洗わねばならない
res yw dhymm omwolghi 私は自分〔の体や手など〕を洗わねばならない
動詞が再帰になるとき意味に小さな変化があることがある:
gul 作る,omwul ふりをする
kemmeres とる,omgemmeres 引き受ける


VIII. 副詞的数詞


副詞的数詞 (adverbial number) は gweyth という語から作られ,これは数詞の女性形をとり,必要なら変異をする:
unnweyth 1 回,diwweyth 2 回,teyrgweyth 3 回,pedergweyth 4 回,kankweyth 100 回,milweyth 1000 回
my a wrug y elwel teyrgweyth 私は彼を 3 回呼んだ
ny allav vy y wul diwweyth 私はそれを 2 回できない

vendredi 10 novembre 2017

コーンウォール語入門 (8) 副詞・不定詞と現在分詞に関する補足・比較級

前回まで,John Page, Cornish Grammar for Beginners. Kesva an Taves Kernewek, ⁶2002 によってコーンウォール語の最初歩を学んできた.ここからはその続編である同著者の Cornish Grammar Intermediate, ⁵2008 によって残りの文法事項を見ていく.これは ‘intermediate’ (中級) と銘打ってはいるが,副詞・比較級・過去分詞・再帰動詞など,実際にはまだまだ最低限の学習事項であって前著で取りこぼされたものを扱っているという部分が大きい.

ところで前著 (for Beginners) の巻末では,続編として Grammar Beyond the First Grade なる同著者のタイトルが挙げられている.これは前著の ‘follow up’ であって 48 頁の並製本という情報も合致しているので,おそらく本書 Intermediate のことだと思われる.しかるに本書のタイトルとは異なるし,はしがきによれば本書の旧題は Grammar for the Second and Third Grades だったのだという.しかも本書の目次は ‘Grammar for the Third Grade’ と ‘Fourth Grade’ となって second が飛ばされているが,これはおそらく現地のコーンウォール語検定の級位の見なおしで 1989 年より fourth grade が追加されたことと関連しているであろう.

このようにたいへん事情が錯綜しており,いったいなにが正しいのか,本当に本書 Intermediate が前著の直接の続編なのかすらもはっきりしないが,とにかく続きだとみなすことにして本書を読んでいこう.なお凡例については初回を参照いただきたいが,亀甲括弧〔……〕が私の補足であるのに対して丸括弧 (……) はすべて原文であることを改めて明確にしておく.


I. 副詞


副詞はふつう yn⁵ を前につけることで形容詞から作られる:
da よい,yn ta よく
lowen 幸せな,yn lowen 幸せに
gwir 本当の,yn hwir 本当に
men 強い,yn fen 強く
言いかえれば,yn は英語の -ly と対応する.


II. 不定詞と yn unn


すでに見たように,現在分詞は動詞の不定詞の前に ow⁴ または owth をつけることで作られる〔前著 VI 課〕.しかしながら,分詞が〔それに〕先行する動詞を修飾するときには,小辞 yn unn² を用いる:
ev a wrug dos yn unn boenya 彼は走りながら来た (すなわち「走ることのなかで」)〔wrug は gwrug の軟音化で,これは助動詞 gul「〜する」の過去 3 単.gul はこのように使うことで,ほかの動詞の複雑な活用を覚えなくともこれだけで法や時制の変化が代用できる.〕
ここで「走ること running」はどのようにして彼が来たかを叙述している.これは動詞「来た」を修飾しているのであり,このために yn unn の形が用いられている.
ev a grias ughel y lev yn unn leverel ... 彼は……と言いながら大声で泣いた〔「泣きながら言った」のほうが訳としては自然だが,現在分詞になっているのが「言う」であることを明示した.grias は krias の軟音化で,これは英 cry にあたる語なので「泣く」か「叫ぶ」かは曖昧.〕
ev a dheuth yn unn waytya ow gweles 彼は私に会うことを望みながら来た


III. 現在分詞と orth


現在分詞が代名詞目的語をもつとき,ow または owth は orth になり,その代名詞は所有形である〔このことは不定詞につき前著 XIV 課で見た〕.不定詞の変異はその所有形が要請する変異による:
orth ow hommendya 私を紹介すること〔気息音化 hommendya < kommendya ; この ow は動詞小辞 ow⁴ でなく所有代名詞 ow³〕
orth y weles 彼を見ること〔軟音化 weles < gweles〕
orth agan klywes 私たち〔の話〕を聞くこと
orth hy threghi それ (女) を切ること〔気息音化 threghi < treghi〕


IV. 形容詞と副詞の比較


形容詞は a をつけることで比較級を作る;語末子音は二重化し,(適切なら) 硬音化し (hardened),それに先行する母音は短である:
bras [´bra:s] 大きい,brassa [´brassa] より大きい,an brassa もっとも大きい
teg [´tE:g] きれいな,tekka [´tekka] よりきれいな,an tekka もっともきれいな
koth [´ko:θ] 古い,kottha [´koθθa] より古い,an kottha もっとも古い
上で th が二重化するとき tth とつづられることに注意.

よく使われる 4 つの形容詞は不規則な比較級をもつ:
byghan 小さい,le, an lyha
meur 多量の,moy, an moyha
da よい,gwell, an gwella
drog 悪い,gweth, an gwettha または lakka, an lakka
多音節語はときに,また過去分詞はつねに,moy によって比較級を作る:
konnyk 賢い,moy konnyk, an moyha konnyk
比較級と最上級の形容詞はその〔修飾する〕名詞に後続することができ,この場合変異の通常の規則があてはまる:
benyn deg きれいな女性,benyn dekka〔teg, tekka の軟音化,女性単数名詞なので〕
しかしたいていは名詞の前にきて,この場合変異は起こらない:
tekka benyn, an tekka benyn
最上級は名詞の前にも後にもくることができる;女性単数名詞 (または人を意味する男性複数名詞) の後に来るならば,第 2 形変異をしがちである:
an gwella fordh または an fordh wella 最良の道
比較級が moy によって作られるとき,それは名詞に後続するが,変異は起こらない,というのも形容詞が名詞から離れているからである:
an venyn gonnyk 賢い女性
an venyn moy konnyk より賢い女性
比較における「〜より」は ages である (es と短縮されることもある):
Yowann yw kottha ages Peder ジョンはピーターよりも年上である
Yowann yw moy konnyk ages y vroder ジョンは彼の兄よりも賢い
Ages は人称代名詞と組みあわさる〔前著 XIX 課,代名詞的前置詞〕:
agesov vy, agesos jy, agesso ev, agessi hi, ageson ni, agesowgh hwi, agessa i
gwell yw ev agesos jy. 彼は君よりもいい
等位比較 (as ... as ...) には mar² ... avel ... または maga⁵ ... avel ... を用いる:
mar verr avel Yowann ジョンと同じくらい背が低い〔軟音化 verr < berr〕
maga ta avel owr 金と同じくらいよい〔混合変化 ta < da〕
Avel も代名詞と結合する:
avelov vy, avelos jy, avello ev, avelli hi, avelon ni, avelowgh hwi, avella i
mar vras avelli hi 彼女と同じくらい大きい〔軟音化 vras < bras〕
maga koth avella i 彼らと同じくらい年をとっている
しかし,比較が名詞または代名詞とではなく動詞とであるとき,avel は dell になり,第 2 形変異が起こる:
mar dha dell allav 私ができるのと同じくらい上手に〔軟音化 dha < da, allav < gallav〕
maga teg dell welydh 君が見えるのと同じくらいきれいな〔軟音化 welydh < gwelydh〕
副詞の比較はふつう,形容詞の比較級を用いて表される:
ev a vyw lowenna lemmyn 彼はいまやより幸せに暮らしている
ev a skrif gwell es dell wrav 彼は私がするよりも上手に書く〔軟音化 wrav < gwrav〕

jeudi 9 novembre 2017

コーンウォール語入門 (7) 代名詞的前置詞・指示詞・否定文

John Page, Cornish Grammar for Beginners. Kesva an Taves Kernewek, ⁶2002 を大雑把に訳したもの.凡例は初回を参照.


XIX. 代名詞的前置詞


〔Pronomial [sic] prepositions の訳語.そもそもケルト語学の用語の訳語はさほどよく定まっていない気はするが,日本語ではどちらかと言えば「前置詞的代名詞」または短く「前置代名詞」(prepositional pronoun にあたる) のほうが普通だと思うところ,ここは原語の pronominal preposition を尊重してこう訳しておく.英語では「活用 (屈折) した前置詞」(conjugated preposition, inflected preposition) という言いかたもよくする.〕

〔私,君,彼,彼女,私たち,君たち,彼ら,の順に並べる.やはり整然と並んだ表が見たければ本を買ってください.〕

gans「と with」:genev, genes, ganso, gensi, genen, genowgh, gansa.

dhe「へ,に to」:dhymm, dhis, dhodho, dhedhi, dhyn, dhywgh, dhedha.

war「の上に on」:warnav, warnas, warnodho, warnedhi, warnan, warnowgh, warnedha.

heb「なしで without」:hebov, hebos, hebdho, hebdhi, hebon, hebowgh, hebdha.

rag「のために for」:ragov, ragos, ragdho, rygdhi, ragon, ragowgh, ragdha.

yn「の中に,で in」:ynnov, ynnos, ynno, ynni, ynnon, ynnowgh, ynna.

orth「で at」:orthiv, orthis, orto, orti, orthyn, orthowgh, orta.

a「から from」:ahanav, ahanas, anodho, anedhi, ahanan, ahanowgh, anedha.

後倚辞形がしばしば強調のために付け加えられる:
chi ha den ynno ev 家とそのなかにいる男
ev eth hebdhi hi 彼は彼女なしで〔=彼女を伴わずに〕行った
後倚辞を伴う場合,dhymm は dhymmo vy に,dhis は dhiso jy になる:
ev a dheuth dhymmo vy 彼は私〔のところ〕へ来た
hi eth dhiso jy 彼女は君〔のところ〕へ行った


XX. gans と dhe を含む成句


yma gans〔lit. be with〕は「自分とともにある」という意味で「持っている」を,yma dhe〔lit. be to〕は所有の意味で「持っている」を意味する.
yma genev ki 私は犬を持っている (ここに私とともにいる)
yma ki dhymm 私は犬を所有している〔いずれもふつうの日本語なら「飼っている」だが,ここではポイントをぼかさないよう直訳している〕
eus pluvenn genes ? あなたはペンを〔いまここに〕持っていますか
nyns eus gwreg dhymm 私は妻を持っていない〔これも「私には妻がいない」が自然だが,上記と同じ理由.日本語が下手だとか動物や女性の軽視だとかの誤解なきよう.〕
〔しかし英語を経由して have 動詞をもとに説明しているからこういうことになるのであって,コーンウォール語から直接訳せば「私には〜がいる/ある」とするほうが素直かもしれない.なにしろ主語は被所有物「犬が,妻が,ペンが」のほうで所有者が前置詞的代名詞「私に」,そして動詞は yma < bos「いる,ある」なので.〕

過去時制では,yth esa, esa, nyns esa が用いられる:
yth esa ki dhymm 私は犬を持っていた〔=私には犬がいた〕
esa ki dhodho ? 彼は犬を持っていたか〔=彼には犬がいたか〕
nyns esa pluvenn ganso 彼はペンを〔いま〕持っていなかった〔=彼にはペンがなかった〕
これは感情・必要・欲求とともにも用いられる:
yma nown dhymm 私は空腹だ
eus syghes dhis ? 君は喉が渇いているか
yma edhomm dhyn a vara 私たちにはパンが必要だ
yth esa own dhedhi 彼女は怖がっている
ただし「うれしい」と「申し訳ない sorry」は bos の短形を要する:
da yw genev dha weles 私はあなたに会えてうれしい
drog o gensi 彼女は悔やんでいた


XXI. 指示代名詞・形容詞

hemma, ma これ (男)
henna, na あれ (男)
homma, ma これ (女)
honna, na あれ (女)
yw および o の前では,縮約して hemm, henn, homm, honn になる.
henn yw an gwiryonedh あれ〔それ〕は真理だ
henn o teg あれはよい
piw yw homma ? これ〔=この女性〕は誰か
pyth yw henna ? あれは何か
形容小辞 (adjectival particle) として用いられるとき,ma と na の形は後倚辞的に名詞に後続する.
an chi ma この家
an gath na あの猫
名詞が形容詞によって修飾されるとき,指示詞は形容詞に後続する (III 課も参照):
an chi bras na あの大きな家
an gath wynn ma この白い猫
代名詞としての「これら」「あれら」は an re ma, an re na:
an re ma yw da これらはよい
an re na yw drog あれらは悪い
「あるものは…で,またあるものは〜だ」は re ... re erell:
re yw da, re erell yw drog あるものはよく,またあるものは悪い


XXII. 否定文


否定小辞で始まり,それは bos と mos の母音〔で始まる変化形〕の前では nyns, それ以外の場合は ny² である:
ny gar an den ma korev この男性はビールが好きでない
nyns yw mamm lowen 母は幸せでない
nyns ov vy lowen 私は幸せでない
nyns eth ev tre 彼は家に行かなかった〔eth は mos の過去 3 単:XVII 課
ny welsons i an chi 彼らはその家を見なかった〔welsons は gwelsons の軟音化で,gweles の過去 3 複:XVI 課
注意として,主語で〔否定文を〕始めることは可能ではあるがさほど一般的ではない,ただしもし〔そのとき〕それが複数名詞ならば動詞も複数でなければならない:
mebyon vras ny wrons oela 大きな少年たちは泣かない
否定の答えとして,つまり単純な「いいえ」として,ny は bos と mos の母音の前では nag に,それ以外では na² になる:
os ta lowen ? ― nag ov 君は幸せか.いいえ.
esons i omma ? ― nag esons 彼らはここにいるか.いいえ.〔esons は疑問文における ymons の別形:VII 課 (1)〕
以下は bos 以外の動詞を用いた例:
ny wel an vowes an mor 少女は海を見ない
ny welav an mor 私は海を見ない
a welowgh hwi an mor 君たちは海を見るか
na welyn いいえ
ny welyn an mor 私たちは海を見ない


XXIII. 季節・日・月・時刻


〔ほぼ単語の列挙のため省略.〕


以上で本編はすべて終了である.助動詞の活用および語頭子音変異に関する付録もこれを割愛する.

コーンウォール語入門 (6) 未完了・過去・完了

John Page, Cornish Grammar for Beginners. Kesva an Taves Kernewek, ⁶2002 を大雑把に訳したもの.凡例は初回を参照.


XV. bos の未完了時制


この時制の 3 人称単数は,短形 o, 長形 esa である.

すでに見たように,小辞 a はこれら bos の母音で始まる時制とともには用いられない〔このことは X 課で言われた〕.小辞 y は yth に置きかえられ,動詞が句の先頭にくるとき用いられる.短形は叙述的補語のとき用いられ,長形は場所もしくは動作について用いられる:
an den o hir その男は背が高かった
hir o an den
yth esa ev y’n dre 彼はその町にいた
yth esa hi ow kana 彼女は歌っていた
疑問文は単純に動詞を最初に置くことによる,というのも小辞 a がないので:
o hir dha das jy ? 君の父は背が高かったか
esa hi y’n eglos ? 彼女はその教会にいたか
否定小辞は nyns で,否定疑問は a nyns によって作られる:
nyns o toemm an dowr その水は温かくなかった
a nyns o toemm an dowr ? その水は温かくなかったのか


XVI. gweles の過去時制


過去時制は過去において完結した行為を扱う.

コーンウォール語では,過去時制は以下の語尾を動詞の語幹につけることで作られる:
-is, -sys, -as (または -is), -syn, -sowgh, -sons
gwelis 私は見た
gwelsys 君は見た
gwelas 彼/彼女/それは見た
gwelsyn 私たちは見た
gwelsowgh 君たちは見た
gwelsons 彼らは見た
3 単の語尾に -is をもつような動詞には以下のものがある:
  • -el に終わるすべての動詞 (kewsel, ev a gewsis)
  • -i に終わる多くの (しかしすべてではない) 動詞,たとえば dybri「食べる」,gorthybi「答える」,krysi「信じる」,pysi「祈る」,prederi「考える」,synsi「持つ」,tevi「育つ」,tybi「考える」.
ev a welas an ki 彼はその犬を見た
ni a dhybris an bara 私たちはパンを食べた


XVII. kara, mos, dos の過去時制


最初はこれらの動詞の 3 単だけを知っておけばよい.

1) kara は gweles の「規則的な」法則に従い,その過去 3 単は karas である:
ev a garas y das 彼は彼の父を好きだった
prest y karas hi hy hath いつでも彼女は彼女の猫を好きだった
2) mos はきわめて不規則で,その 3 単は eth.これは小辞 a を受けず,小辞 y は yth になる:
an tiek eth tre その農夫は家へ行った〔=帰った〕
yn skon yth eth an den その男はすぐに行った
3) dos も不規則で,3 単は deuth.これは小辞 a を受け,第 2 形に変異する:
ev a dheuth de 彼は昨日来た
myttin y teuth dew dhen 朝に 2 人の男が来た
否定形は:
nyns eth ev 彼は行かなかった
ny dheuth ev 彼は来なかった
疑問形は:
eth ev ? 彼は行ったか
a dheuth ev ? 彼は来たか
そして最後に否定疑問形は:
a nyns eth ev ? 彼は行かなかったか
a ny dheuth ev ? 彼は来なかったか


XVIII. 完了小辞 re


小辞 re² は「完了」(‘perfect’) の意味を過去時制に与える,すなわち I saw のかわりに I have seen にする:
ev a welas y vroder he saw his brother
ev re welas y vroder he has seen his brother〔これらは無理やり日本語で訳しわけようとしてもわかりにくく無益なのでそのままにする〕
mos〔の変化形〕における母音の前ではこの小辞は res になる:
an medhyk eth その医者は行った
an medhyk res eth その医者は行ってしまった
re は bos の b-時制〔語頭が b である変化形のことで,通常なら軟音化で b > v となるところ〕を変異させない.

re は疑問や否定で用いることはできず,そのような場合には正確な意味は文脈から引き出されねばならない:
eth an medhyk ? 医者は行ってしまったか
nag eth, yma ev y’n chi いや,彼は家にいる

コーンウォール語入門 (5) 命令法・数詞・不定詞

John Page, Cornish Grammar for Beginners. Kesva an Taves Kernewek, ⁶2002 を大雑把に訳したもの.凡例は初回を参照.


XII. 2 人称命令法


単数形はほとんどつねに動詞の裸の語幹である:
red dha lyver ! 君の本を読め
mir orth henna ! あれを見ろ
複数では,大部分の動詞は語幹に -ewgh をつける;-ya の動詞では -yewgh をつける:
redyewgh agas lyver ! 君たちの本を読め
mirewgh orth henna ! あれを見ろ
否定では na² を前に置く:
na red an lyver na ! その本を読むな
na vir orth Yowann ! ジョンを見るな
重要な不規則形がいくつかある:
ke !「行け」,deus !「来い」,ro !「くれ」,bydh !「〜であれ」
複数ではこれら 4 つは:
kewgh !  dewgh !  rewgh !  bedhewgh !
助動詞 gul を用いることで命令法を作ることはつねに可能である:
gwra igeri an daras ! 扉を開けろ
na wrewgh poenya ! 走るな
なじみのない動詞について,この方法は難しさを避ける最良の方法かもしれない.「直接」形〔すなわち本来の活用における命令法〕では上記 2 例は次のとおり:
igor an daras !  na boenyewgh !
命令を柔らかにするには,たいてい命令法に mar pleg「よければ if you please」を後続させる:
deus omma, mar pleg ここに来てください


XIII. 基数と序数


基数詞 0–20: mann, onan (unn), dew (diw), tri (teyr), peswar (peder), pymp, hwegh, seyth, eth, naw, deg, unnek, dewdhek, trydhek, peswardhek, pymthek, hwetek, seytek, etek, nownsek, ugens.〔11–19 はだいたい〈1 の位 + dek の変異形〉になっているようだが,その 1 の位が軟 (原則は d > dh),硬 (d > t),混 (d > t) のどの変化をひきおこすかは覚えるしかない.〕

序数詞 1–20: kynsa, nessa, tressa, peswara, pympes, hweghves, seythves, ethves, nawves, degves, unnegves, dewdhegves, trydhegves, peswardhegves, pymthegves, hwetegves, seytegves, etegves, nownsegves, ugensves.〔6 以降はすべて -ves をつけ,そのさい 11–19 ではすべてもとの -k が g になっているだけ.〕

20 以降では hanter-kans「50」,kans (男)「100」,mil (男)「1000」を除いて新しい単語はない.

1 は単独で使うときと数えるときには onan だが,形容詞として使うときは unn である.女性単数名詞を第 2 形に変異させる:
unn den 1 人の男
unn venyn 1 人の女
2 は男性形 dew と女性形 diw をもつ.これらは両方とも名詞を第 2 形に変異させ,これらじしんも定冠詞によって変異させられる〔このことは II 課で見た〕:
dew dhen 2 人の男,an dhew dhen その 2 人の男
diw venyn 2 人の女,an dhiw venyn その 2 人の女
3 は男性形 tri と女性形 teyr をもつ.これらは両方とも名詞を第 3 形〔気息音化:p > f, t > th, k > h〕に変異させるが,定冠詞によって変異させられない:
(an) tri hi 3 匹の犬
(an) teyr hath 3 匹の猫
trysa という形が序数「第 3 の」の,より本来に近い形とみなされるべきである;tressa は nessa から類推によってできた形.

4 は男性形 peswar と女性形 peder をもつ.いずれも変異をきたさない:
peswar ki 4 匹の犬
peder kath 4 匹の猫
5 からは女性形がない (teyr bugh warn ugens「23 頭の牛」のような表現を除く).数えあげられるものが単数でありつづけることに注意せよ.

20 以降はまた同じように始める:21 onan war ugens, 22 dew warn ugens, ..., 29 naw warn ugens.

30 は独立した語でなく,30 deg warn ugens, 31 unnek warn ugens のように表される.

40 は dew-ugens「2 × 20」と表される.つなぎの言葉 ha「と」を用い,41 onan ha dew-ugens, 42 dew ha dew-ugens, ..., 49 naw ha dew-ugens.

そして 50 になると,〔規則的に〕deg ha dew-ugens またはもっと普通には hanter-kans「100 の半分」である.

60 は triugens「3 × 20」,70 は deg ha triugens, 80 は peswar ugens「4 × 20」(cf. 仏 quatre-vingts),90 は deg ha peswar ugens である.100 は kans で,199 まではこれを用いて表せる:
168 kans eth ha triugens
しかしより伝統的には,20 進で 200 まで数えあげる:
168 eth hag eth ugens〔8 + 8 × 20〕
複合数詞では,数えられている物は単数のままであり,数詞の 2 つの部分のあいだに置かれる:
pymp den warn ugens 25 人の男
deg lyver warn ugens 30 冊の本
これは序数詞にもあてはまる:
hy fympes penn-bloedh ha dew-ugens 彼女の 45 回めの誕生日〔hy「彼女の」は気息音化なので p > f〕
数詞の第 2 部分は基数形のままであることに注意.nessa「第 2 の」はまた「次の」の意味をももつ:
ev a drig y’n nessa chi 彼は次の〔=隣の〕家に住んでいる
最後に,形容詞として用いられる基数詞は名詞に先行することに注意:
an tressa dydh 3 日め
an degves den 10 人めの男


XIV. 不定詞


不定詞は助動詞 gul〔「する」〕,galloes〔「できる」〕,mynnes〔「したい」〕とともに用いられる動詞の形である.
my a wra mos 私は行くだろう (shall)〔gul の 3 単現 gwra の軟音化.VII 課で学んだとおり,my「私」だが主語先行なので 3 単になっている.〕
ev a yll gweles 彼は見ることができる〔galloes の 3 単現 gyll の軟音化〕
ni a vynn dybri 私たちは食べたい〔mynnes の 3 単現 mynn の軟音化.注意点は同上.〕
これは動名詞としても用いられる:
ev a gar redya 彼は読書が好きだ
y gana yw teg 彼の歌は上手だ〔kana の軟音化〕
gweles yw krysi 見ることは信じることだ〔「百聞は一見にしかず」の英語表現〕
kales yw dyski 学ぶことは難しい
不定詞の大事な用法は,代名詞が文の目的語であるとき所有詞を伴うものである:
my a vynn y weles 私は彼に会いたい (私は彼の会うこと his seeing を欲する)
ev a yll hy klywes 彼は彼女〔の言葉〕を聞くことができる〔「彼女の聞くこと」〕
強調のために後倚辞形を用いることができる:
my a vynn y weles ev
ev a yll hy klywes hi
不定詞は所有詞の要求に沿って変異することに注意;V 課を見よ.

コーンウォール語入門 (4) 直接話法・疑問文

John Page, Cornish Grammar for Beginners. Kesva an Taves Kernewek, ⁶2002 を大雑把に訳したもの.凡例は初回を参照.


IX. 会話における medhes


この動詞は直接話法を伝えるために用いられる:
yn-medhav 私は言った
yn-medhydh 君は言った
yn-medh ev 彼は言った
yn-medh hi 彼女は言った
yn-medhyn 私たちは言った
yn-medhowgh 君たちは言った
yn-medhons 彼らは言った
注意として,以前の教科書〔具体的に何を指しているのかは不明〕は 1 単と複数形のみしか与えていなかった.伝統的な文章で記録されているのはそれらだけだったからである.〔現在のコーンウォール語はいちど話者が完全に絶えて死語になった (人によっては「なりかけた」) ものを復興させているのでこのようなことが論点になる.このさいとくに参考にされているのが 16 世紀末から 18 世紀にあたる後期コーンウォール語 Late Cornish である.〕
‘Teg yw Morwenna,’ yn-medh ev 「モルウェナはかわいい」と彼は言った
‘Ny allav,’ yn-medh Yowann 「僕はできない」とジョンは言った
‘Da yw henna,’ yn-medhons i 「それはいい」と彼らは言った
動詞 medhes は間接話法を伝えるのに使うことはできない;つまり「彼は〜ということを言った」は ev a leveris ... と訳される.


X. 疑問文


疑問の小辞は a², 否定疑問のは a ny² である:
a gar an tiek y gi ? その農夫は彼の犬を愛しているか〔gi は ki の軟音化〕
a yll Yowann dos ? ジョンは来られるか
a ny vynn ev dybri ? 彼は食べたくないのか〔vynn は mynn の軟音化〕
しかし,この小辞は母音で始まる bos, mos の時制とともには用いられない:
yw henna gwir ? それは本当か
a y das ev ? 彼の父は行くところか
これらの時制を伴う否定疑問では ny は nyns になる:
a nyns yw henna gwir ? それは本当ではないのか
a nyns a Yowann ? ジョンは行くところではないのか
その他の疑問詞:

(1) py ?「何の」「どの」は名詞とともに形容詞的に使われる:
py lyver yw henna ? それはどの本か
py den a dheu hedhyw ? どの人が今日来るのか
(2) pyth ?「何」は名詞がないとき代名詞的に使われる:
pyth yw hemma ? これは何か
以下のように場所が問題であるとき,bos の長形を用いねばならない;そして yma および ymons はそれぞれ eus か usi および esons になる:
py den eus y’n chi ? どの人がその家にいるのか
pyth eus war an voes ? 何がそのテーブルの上にあるのか
このことは疑問が動作についてであるときにもあてはまる:
pyth usi hi ow kana ? 何を彼女は歌っているのか

(3) pandra ?「何」は動詞とともに使われる:
pandr’a gar ev ? 彼は何を好きか
pandr’a vynnons ? 彼らは何をしたいのか

(4) piw ?「誰」は,場所または動作が関係しているかどうかに応じて,bos の長形または短形を要求する:
piw yw henna ? あれは誰か〔短形〕
piw eus y’n chi ? その家にいるのは誰か〔場所にもとづく長形〕

(5) ple ? (母音の前では ple’th ?)「どこ」はかならず場所に関係するので,bos の長形をとる.これは py le ?「どの場所」の縮約であって,yma と組みあわさって ple’ma ?「彼/彼女/それはどこか」,ymons とともに ple’mons ?「彼らはどこか」を作る:
ple’ma dha gi ? 君の犬はどこか
ple’mons i hedhyw ? 彼らは今日どこにいるか
ple ? は bos の b- で始まる時制形を第 5 形に変異させる:B > F:
ple fydh hi hedhyw ? 彼女は今日どこにいる予定か
ple fydhons i ? 彼らはどこにいる予定か


XI. 疑問文への答え


肯定の答えは,鍵となる動詞を適切な人称・時制・数における基本形もしくは非変異形で繰りかえすことで作られる,ただし後倚辞はなし:
yw Morwenna lowen ? ― yw モルウェナは幸せか.はい.
usi Yowann y’n chi ? ― usi ジョンは家にいるか.はい.
a vynnons i dos ? ― mynnons 彼らは来たがっているか.はい.
否定の答えは na², または bos と mos の母音〔で始まる変化形〕の前では nag を前に置く:
yw Morwenna lowen ? ― nag yw
usi Yowann y’n chi ? ― nag usi
a vynnons i dos ? ― na vynnons
この用法は動詞を活用させるとき面倒になりがちなので,会話においては助動詞 gul の適当な形を代用する傾向にある:
a garas ev an vowes ? ― gwrug 彼はその女の子を好きだったか.はい.
すばやい口語的会話においては「はい」と「いいえ」のための単語を導入したい傾向に抗うことは難しい;後期コーンウォール語 (Late Cornish) の慣用はこれらについて ya [´I.a] と na [´na:] を示唆している.

コーンウォール語入門 (3) 動詞の現在時制

John Page, Cornish Grammar for Beginners. Kesva an Taves Kernewek, ⁶2002 を大雑把に訳したもの.凡例は初回を参照.


VII. bos, gweles, mynnes, galloes の現在時制


(1) bos「〜である」

短形と長形〔がある〕.
私   ov (vy), esov (vy)
君   os (jy), esos (jy)
彼   yw (ev), yma* (ev)
彼女  yw (hi), yma* (hi)
私たち on (ni), eson (ni)
君たち owgh (hwi), esowgh (hwi)
彼ら  yns (i), ymons* (i)
* 疑問文と否定文では,yma は eus または usi, ymons は esons に置きかわる.

短形を用いるのは,動詞の補語が主語の説明,すなわち名詞または形容詞であるとき:
den koth ov vy 私は老人だ
skwith yns i 彼らは疲れている
長形を用いるのは,補語が主語の場所を言う,または何をしているかを言うとき:
yma Yowann y’n chi ジョンは家にいる
ymons i ow koska 彼らは眠っている

(2) gweles「見る」

これは母音が変化することのないかなり規則的な動詞の例.不定詞は 2 つの部分,語幹 gwel- と語尾 es とからなる.ほかの語尾は時制と人称を示す.現在時制は:
gwelav 私は見る
gwelydh あなたは見る
gwel 彼/彼女/それは見る〔性による違いがない〕
gwelyn 私たちは見る
gwelowgh あなたたちは見る
gwelons 彼らは見る
gweles に生じる変異は:
第 2 形:小辞 a, na, ny, re〔のあとで〕GW > W
第 4 形:小辞 ow〔のあとで〕GW > KW
第 5 形:小辞 y〔のあとで〕GW > HW
単純な肯定文において,主語が動詞に先行するときは 3 人称単数形のままで,小辞は a² になる:
my a wel an chi 私はその家を見る
i a wel an mor 彼らは海を見る〔いずれも wel が定動詞で,gwel の軟音化したもの〕
目的語が動詞に先行するとき,主語に一致しなければならない:
an chi a welav vy 私はその家を見る
an mor a welons i 彼らは海を見る
副詞 (あるいは主語〔と目的語?〕以外のなんでも) が文頭に置かれるとき,小辞は y⁵ になり動詞はその主語に一致せねばならない:
omma y hwelav an chi ここで私はその家を見る
ena y hwelons i an mor そこで彼らは海を見る
これらの形のどれが使われるかは伝えたい強調点しだいであり,原則として文頭に来るものはなんであれ強調を受ける.このため my a wel an chi は「私が家を見る」であるのに対し,an chi a welav vy は「私が見るのはである」ことを含意する.第 3 の形は先行する副詞または副詞句とともに使われる.

(3) gul「する」,mynnes「したい」,galloes「できる」

これらの完全な活用と用法の手引きについては助動詞の節を見よ.


VIII. kara, mos, dos の現在時制


初級者は 3 人称単数だけを知っていればよい.

(1) kara「好きである」

たいていのコーンウォール語の規則動詞と同様,3 単現は動詞の裸の語幹である (上記 gweles からの gwel-).
したがって kara のその形は kar「彼/彼女/それは好きである」
これに起こる唯一の変異は第 2 形 K > G, というのも第 4 形と第 5 形は K に影響しないので.〔以下,日本語として不自然だが目的格をわかりやすくするため「を」を使う.〕
Yowann a gar y vroder ジョンは彼の兄を好きである
または (副詞) + y kar Yowann y vroder〔所有代名詞「彼の」の y は軟音化で,もとの形は broder.一方 1 つめの y は動詞小辞で混合変化なので gar にはなっていない.〕
目的語を最初に置く形は両義的である,というのも:
y vroder a gar Yowann
は「彼の兄はジョンを好きである」とも読めるから.

もう 2 例:
hi a gar hy hath 彼女は彼女の猫を好きである
an fleghes a gar aga mamm その子たちは彼らの母を好きである
名詞「子どもたち」は複数なのに動詞が単数のままであることに注意.これは主語が動詞に先行するときつねにそうである〔上の VII 課で見たとおり〕.

(2) mos「行く」

mos はきわめて不規則な動詞.3 単現はただの a.

これは小辞の a を受けつけず,母音の前では小辞の y は yth になる:
an tren ma a dhe Bennsans この電車はペンザンス〔英 Penzance〕へ行く
dhe Loundres yth a an tren na あの電車はロンドンへ行く

(3) dos「来る」

dos も不規則動詞で,3 単〔現〕は deu.

mos と違い,これは小辞 a をとりえて,変異は以下のとおり:
第 2 形:小辞 a〔のあとで〕D > DH
第 4 形:小辞 ow〔のあとで〕D > T
第 5 形:小辞 y〔のあとで〕D > T
それゆえ:
mamm a dheu hedhyw 母は今日来る
hedhyw y teu mamm
gwav a dheu 冬が来る
yma gwav ow tos 冬が来るところだ〔VI 課で見た bos + 現在分詞〕

(4) gul「する」,mynnes「したい」,galloes「できる」〔について助動詞の節を見よということがなぜか繰りかえされている〕

コーンウォール語入門 (2) 代名詞・現在分詞

John Page, Cornish Grammar for Beginners. Kesva an Taves Kernewek, ⁶2002 を大雑把に訳したもの.凡例は前回を参照.


V. 代名詞:人称,所有,接尾形


人称代名詞,所有代名詞,接尾形〔の順に書く.上 3 つにつき接尾形は 2 通りある.ちゃんと並んだ表は上記リンクにある本を買ってください.〕
私   my, ow³, vy, ma
君   ty, dha², jy, ta
彼   ev, y², ev, va
彼女  hi, hy³, hi
私たち ni, agan, ni
君たち hwi, agas, hwi
彼ら  i, aga³, i
〔所有形についた上つき数字は後続する語を変異させることを表す.第 2 形は軟音化,第 3 形は気息音化であった.〕

agan「私たちの」と agas「あなたたちの」だけは変異をひきおこさない:
ow thas 私の父
dha das 君の父
y das 彼の父
hy thas 彼女の父
agan tas 私たちの父
agas tas 君たちの父
aga thas 彼らの父
接尾 (suffixed) もしくは「後倚辞」(‘enclitic’) 代名詞は,強調のためもしくは混乱を避けるために使われるが,それ以外の場合は任意である:
ow thas vy yw hir 私の父は背が高い
mes dha das jy yw berr しかし君の父は背が低い〔「私の ow ... vy」と「君の dha ... jy」を対比させるため強調している〕
最初の列にある接尾形はしばしば強勢が置かれ独立した語として書かれるが,第 2 列のそれ (すなわち ma, ta, va) は強勢がなく先行する語にあわさる.hi「彼女は」と hy「彼女の」にはつづりと発音の違いがあるので注意:
hi a wel hy hath hi 彼女は彼女の猫を見る
肯定文で (だけ) は,人称代名詞はすべて動詞の 3 人称単数とともに使われる:
my yw skwith 私は疲れている
i a vynn gweles an chi nowydh 彼らはその新しい家を見たがっている
しかしこのことは代名詞が動詞に先行するときのみあてはまる.


VI. 現在分詞


現在分詞は動詞の不定詞の前に小辞を置くことで作られる.子音の前では ow⁴〔4 は硬音化〕を,母音または h の前では owth を置く:
kana, ow kana 歌う
gwari, ow kwari 遊ぶ
eva, owth eva 飲む
真の分詞と動名詞 (verbal noun) とを区別するよう注意せねばならない:
yma tas ow redya  父は読書している (分詞)
tas a gar redya 父は読書が好きである (動名詞)
be 動詞 bos の「長形」は現在分詞とともに用いられる:
yma an tiek ow konis y has 農夫は彼の種をまいている
yth esov vy ow tos 私は来ている
nyns usi Yowann owth eva y gorev ジョンは彼のビールを飲んでいない
ha(g)「そして」が現在分詞とともに使われるとき,「〜するとき,〜するあいだ」の意味をもつ:
hag ev ow redya 彼が読書していたとき (あいだ)
ha my ow mos dhe Borthia 私がセント・アイヴス〔英 St. Ives = Porth Ia〕に行っていたとき
この使いかたは bos の現在分詞を要求するそれ以外の文において便利で,このとき〔bos の現在分詞〕は省略しうる:
ev a brenas lyver hag ev yn Truru 彼はトゥルーロ (Truro) にいたとき本を買った
ha hi yn Truru, hi a welas Yowann トゥルーロにいたとき彼女はジョンに会った

コーンウォール語入門 (1) 名詞・定冠詞・形容詞・所有

John Page, Cornish Grammar for Beginners. Kesva an Taves Kernewek, ⁶2002 を大雑把に訳したもの.

例によって勝手に言葉を補う場合は亀甲括弧〔……〕で書く.ケルト諸語で一般的に使う軟音化・気息音化・硬音化・混合変化を本書では順に State 2, 3, 4, 5 と言っているが,番号ではわかりづらいので補足文中では通常の用語を使う.

本書において単語のつづりかた (正書法) はいわゆる Kernewek Kemmyn が用いられているようであるが,これはだいたいにおいて Standard Written Form と一致していると思う.また,残念ながら発音に関する説明は本書にいっさいない.


I. 名詞


名詞は男性または女性で,中性はない.生物の場合は自然の性に従うが,無生物の場合はほとんど法則なし.多音節語で -enn に終わる名詞はすべて女性.性は暗記するしかない.

複数形の作りかたにもほとんど法則はないが,多くは -ow か -yow で終わる.英語からの借用語は -s または -ys で複数を作るが,最近ではむしろ -ow に置きかわる傾向がある.
dowr, dowrow 水
chi, chiow 家
gorhel, gorholyon 船
klas, klasys または klasow クラス
いくつかの単語は内的変化する〔内的変化 internal change というのは変な言葉だが,母音交替のようなことか〕.
yar, yer 鶏
margh, mergh 馬
lowarn, lewern 狐
edhen, ydhyn 鳥
tiek, tiogyon 農夫
性と複数形は暗記すること.


II. 定冠詞


定冠詞は an.これは女性単数名詞と,人を表す男性複数名詞を第 2 形 (State 2) に変異 (mutate) させる〔軟音化 lenition, soft mutation のこと〕.女性複数と,物事を表す男性複数は変異しない.
mamm, an vamm 母
krows, an grows 十字架
gwydhenn, an wydhenn 木
an tiek, an diogyon 農夫
an pons, an ponsow 橋〔男性複数だが物なので変異しない〕
少数の例外と奇妙な変異があり注意に値する:
mergh, an vergh 馬
meyn, an veyn 石〔以上 2 つは人間でないのに軟音化する例〕
dydh, an jydh 日 (day)〔やばい〕
dew, an dhew 2 (男)〔「男 2 人」なら規則どおり.物でもということか〕
diw, an dhiw 2 (女)
dor, an nor 地,世界〔やばい 2〕


III. 形容詞


コーンウォール語では形容詞はふつう名詞に後続するが,少数の例外もあり,とくに hen「古い,年老いた」と tebel「悪い」である.形容詞が名詞に先行するとき,名詞を第 2 形に変異させる:
chi bras 大きな家
an den koth 年老いた男
an hen borth 古い湾
an debel venyn 邪悪な女
女性単数名詞と人の男性複数はそれら〔を修飾する後続〕の形容詞を変異させる.これはそれらじしんが変異しない場合でもそうである:
benyn deg かわいい女性
an venyn deg そのかわいい女性
tiogyon dha よい農夫たち
an diogyon dha そのよい農夫たち
形容詞は名詞から指示詞を引き継ぐ〔引き継ぐあるいは乗っとる take over という言いかたはピンとこないが,要するにいちばん外側に置かれるということか〕:
an chi ma この家
an chi koth ma この古い家
複数の形容詞がある場合,最後のものが指示詞を受ける:
an chi koth bras ma この大きな古い家
複数の形容詞があるとき,最初のものだけが変異する:
an wydhenn goth bras ma この大きな古い木
形容詞は複数形を作らない:
an chi koth その古い家
an chiow koth その古い家々
-s と -th に終わる名詞は,女性である場合も,それらを修飾する形容詞が k-, p-, t- で始まるときこれを変異させない:
an eglos teg きれいな教会
an gath plos 汚い猫〔gath は cath の軟音化〕


IV. 所有


コーンウォール語で所有は,所有されるものを最初に置き所有者を後続させる:
ki an tiek その農夫の犬
chi ow mamm 私の母の家〔ow「私の」は次の V 課で〕 
定冠詞および所有詞が現れるのは所有者の前であり被所有物のではないことに注意.

所有者が不定のとき,冠詞はない:
ki tiek ある農夫の犬
keun tiogyon 農夫たちの犬たち
同じ規則はより遠い〔=間接的な〕所有状況にもあてはまる:
chi mab an tiek その農夫の息子の家
見てのとおり語順は英語の逆であり定冠詞は 1 度だけ現れている.〔-’s のような語尾変化や of のような前置詞もいらず,ただ後ろに並べるだけ.あたりまえと言えばあたりまえだがウェールズ語と同じである.〕

lundi 6 novembre 2017

Lomb『わたしの外国語学習法』,あるいは過ぎ去った時代の「実用書」

Lomb, C’est ainsi que j’apprends les langues, ou un « manuel pratique » dans les jours passés


10 年まえに購入し冒頭数十頁で読みさしのままほこりをかぶっていた,Lomb Kató, 米原万里訳『わたしの外国語学習法』(ちくま学芸文庫,2000 年) を今般読み終えた……と言いたいところだったが,10 年越しにまた続きをしばらく読み進めたところで本棚に戻した.これは私のような語学オタクのあいだではきわめて有名な本で,いずれ最後まで読まねばとずっと忸怩たる思いを抱きつづけて現在に至るのだが,あるいはもう残りのページを繰ることはないのかもしれない.読み終わったという体で感想を書くことにした.

著者はハンガリー人の女性で,すなわちその名前は日本人と同じく姓+名の順番であるからロンブが姓である.カトー (Kató) という名はカタリン (Katalin) の縮小形で,この後者は英語のキャサリンやフランス語のカトリーヌ (Catherine), ロシア語のエカチェリーナ (Екатерина) などに対応するから,さしずめ英語のケイト (Kate) やロシア語のカーチャ (Катя) くらいにあたる名前だろう.1909 年生 2003 年没 (享年 94),16 ヶ国語を習得した翻訳家・通訳者であるといい,そのなかにはなんと中国語と日本語も含まれている.

本訳書はもともとは創樹社なる印税を支払わない胡散臭い出版社から 1981 年に出たもので (この間の消息は文庫版訳者あとがきを参照),その原書は 1970 年に出て 72 年に第 2 版となった Így tanulok nyelveket: Egy tizenhat nyelvű tolmács feljegyzései (『こうして私は言語を学ぶ――ある 16 ヶ国語通訳者の覚え書き』),言語はハンガリー語である.以下,引用文およびそのページ表記はちくま学芸文庫版に依拠する.

ちなみに本国では 1990 年に第 3 版,95 年に第 4 版に改訂されており,現在は著者の没後 2008 年に別の出版社から「第 5 版」が出ているがこれは第 4 版のリプリントらしい.日本語以外には,私の知るかぎり刊行順にロシア語訳 Как я изучаю языки (1978 年),中国語訳『我是怎样学外语的』(1982 年) および『我是如何学习外语的』(1983 年),リトアニア語訳 Kaip aš mokausi kalbų (1984 年),ラトヴィア語訳 Par valodām man nāk prātā (1990 年),英語訳 Polyglot: How I Learn Languages (2008 年),エストニア語訳 Kuidas ma keeli õpin (2016 年),朝鮮語訳『언어 공부』(2017 年) が現れている.

さて『わたしの外国語学習法』というタイトルからは,いかにも語学の天才がその優れた習得法を開陳してくれている実用書を期待されるかもしれないが,これはむしろ著者の自伝的要素を含む語学エッセイとして読まれるべき本である.私のようにはじめから語学に強い関心と愛をもっている者ならともかく,これを読んで語学への苦手意識をなくそうとか手っとり早く語学を身につける方法を知ろうとかいった考えから手にとってはいけない.

これはいくぶんタイトルが誤解させている部分もあって同情するのだが,Amazon レビューや読書メーターなどで低評価の書評を書かれている人の多くは後者のような語学嫌いの人物なのだろう.もっとも,なかにはたいへん素直で善良なかたで,語学の学習に慣れていないがためにかえって著者の教えるあたりまえのことを新鮮に受けとめて感心している人もおり,そういう向きには純粋さを忘れないでいてほしいので私の感想のごときは読んでいただかないほうがいいだろう.

ともあれ初版 1970 年,すなわち半世紀も昔に出た本であるから実用書としてはさすがに賞味期限切れで,もともと具体的な学習法についての言及が少なくいまどきのハウツー本のようなレイアウトや軽薄な言葉づかいをとっていないということもさることながら,その少ない言及内容もいまや目新しいところはなく (それは半世紀のあいだにまさにこの本の影響で常識と化した部分もあろう),論証のため援用される「科学的」知識もさすがに時代遅れでその「科学」にはどこか 50–60 年代冷戦期の東側の国の香りがそこはかとなく漂うものであり,前世紀後半以降に誕生し台頭してきた第二言語習得論や認知心理学・認知言語学などの最新の知見はもとより望むべくもない.それこそそうした現代の「科学的」知見からすれば嘘となった事柄も含まれているであろう.

じつのところ,いみじくも著者じしんが明言しているのである,「そもそも教育法というものは、その時代の要求に応えるべきもの」であり,「それぞれの時代に注目を集め、評判となった学習法があったが、どれもその時代の社会の需要に応えたものであった」と (47–48 頁).このような本に対して,50 年後の時代のしかも違う国の社会の現状に即応した「学習法」を求めるのは酷であろう.言ってみれば本書はすでに,古きよき時代のヨーロッパの語学愛好者はどのような熱意を抱いて学習に邁進していたかということを知るための古典になった,つまりシュリーマンの古代への情熱と同列に叙せられる栄誉に浴するとともに過去の遺物ともなったのである.

そうして私のように多くの言語を勉強している語学オタクにとっては共感できる部分も多い名エッセイではあるのだが,そういった人はいちいちおすすめされなくても自然とこの本に出会って自分から進んでひもとき,学習法の説明では自分の実践してきたそれが間違っていなかったことに確信を深めたり,あるいは著者の熱心さに胸を打たれ自分もがんばらねばと勇気をもらったりするだろうし,具体的な個別言語に関する蘊蓄には感心してうなずきながら読むだろうから,こういう特殊な人向けの賛辞を書き連ねてもあまり意味はあるまい.そのためここではむしろ大きな難点をひとつ指摘しておこう.

外国語学習では羞恥心はなければないほどよいということを主張している著者であるから (とくに 230 頁の公式),私がこのように非難することもむしろよくぞ申したと笑って許してくれると考えて言うのだが,この著者が外国語に取り組む姿勢はまさに恥知らず」「厚顔無恥」という言葉がふさわしかろう.これはかなり辛辣な形容であるが,いまからその具体例を挙げていく.

まず,まだしもかわいらしいエピソードとして,25–26 頁では彼女が中国語の学習を始めたときの成りゆきを語っている.このとき著者は,年齢制限の規則にひっかかったために中国語クラスの受講の申込を受理されなかったのだが,数週間後それに気づいた彼女は大学構内をさまよい歩き,すでに始まっていたその授業の教室を探しだして無理やり飛び入り参加したという.立派な規則違反だし授業妨害だ.まえもって授業担当者に直談判でもしていればきっと通してくれただろうに.

こんなのは文化の違いとして理解できなくもないが,もっととんでもない話はこうだ.著者は無謀にも自分が勉強したこともない言語に関する翻訳や教授の仕事をたびたび請け負い,たびたび失敗している.たとえば 29 頁には次のような話がある:
それからは、スロバキア語とウクライナ語の文献の読解、翻訳とも無理なくこなせるようになりましたが、ブルガリア語には、ちょっと手こずりました。もしかしたら、とっつき方をしくじったのかもしれません。ある出版社の依頼で、非常に長い論文の翻訳に取り組む羽目になりました。それは政治文献で、わたしのスラブ諸語の素養を持ってすれば、楽に処理できるものと高を括っていたのです。ところが、結果は惨めなもので、わたしの翻訳したほとんど全三〇頁、編集者の手で書き替えられるということになりました。
彼女はこのとき,すでにロシア語・ポーランド語・チェコ語・スロヴァキア語・ウクライナ語を習得していたということをもって,向こう見ずにもブルガリア語の翻訳の依頼を受諾し,このような大失敗を喫したということである (せめてセルビア語あたりを学んでいればいくらか結果はましだったかもしれない).

その次の段落ではイタリア語でも同じことをしているが,このときの「曖昧模糊とした個所が多々あった」翻訳では「その文体の神秘めいたところが効〔ママ〕を奏したのか」,怪我の功名でうまくいったようだ (同頁).さらに重ねて,われらが日本語についても「ある化学薬品購入許可書」のことで,学習開始まえに「勇敢にも(そして軽率にも)その翻訳にとりかかってしまった」という (71 頁.ただしこの件のみ「仕事」とは明言されていない).

また 19–20 頁によれば,英語を学生たちに教えるという仕事をするにあたって,教科書のわずか 2 課さきを読んでおくという見切り発車なしかたで挑戦し,「今思えば、知識のあやふやな点は、わたしの意気込みと熱意で補われたのでしょう」とのたまっている.かく言う彼女は 81 頁で,終戦直後のハンガリーに現れ「急遽身に余る任務に据えられた」「即席アマチュア・ロシア語教師」の男性の教えかたにつき,ある単語の語形変化の理由を「慣用にすぎません」と答えた彼の不十分な「説明の仕方は、支持するわけにはいきません」と指弾しているのだが,準備不足な自身の英語教育では同じようなことをしなかったと誓えるのだろうか.ちなみにこの英語についてもやはり著者は例によって (というか時系列的にはこちらが最初だが)「薬学研究所の嘱託の仕事」で翻訳にも手を出し,「どうやら規準に沿わなかった」がために「当翻訳の主は、勇敢なり」とのコメントをつけて突き返されたとの由である (20 頁).

こんなありさまで語学の教師や翻訳家として仕事を受領でき,なおかつ何度同じような失敗をしてもその名前に傷がつくことがなく職が失われないというのだから,まったくうらやましいというほかはない.いまこんな無責任なことをすればあっという間に悪名は広がりまともな翻訳者として認められなくなるし,なにより「化学薬品」に関する資料や国際情勢に関わる「政治文献」など,専門的知識がないと危険である仕事が素人に任せられる余地はどこにもない.ちなみに彼女は終戦直後にソ連軍とのあいだの通訳としても働いているが,これも現在なら学習歴わずか 3, 4 年でしかも独学の人間に戦後処理の通訳を任せるなど無謀もいいところだろう.

こうして考えてみると,現代の視点から見ればこの著者が置かれていた環境はむしろ特異で恵まれていたとさえ言えると思うのである.そう,問題は環境であって,彼女じしんの語学的才能のことではない.要するに胆力さえあれば職業翻訳者・通訳者として出発でき,語学力はあとからついてくるということを実践できた最後の時代の証言者が彼女なのである.彼女の成功談がただに個人的才能や性格によるというだけなら心がけしだいで私たちにも活かせる話であるが,このように環境のほうが変化しているとなると私たちにはもはや真似できる可能性のない手法なのである.

一般的に言って,私たちの享受している条件は彼女の生きた場所と時代に比べればほとんどの点で「恵まれている」と考えられている.私たちは空爆に怯えながら防空壕のなかで辞書を引く必要などない.こと語学の学習環境ということに絞っても,私たちはいまや 100 を超える言語の入門書を日本語で読めるし,範囲を英語に広げれば文法書の手に入る言語の数は 1 桁上がる (そしてその英語の本も注文すればいつでも手に入る).各種の辞書に加えて,実地の生きた音声教材であるニュースやラジオのリソースもオンラインで瞬時に見つかるし,生身の社会においても外国人はそのへんをふつうに歩いており多くの言語において日本にいながらネイティブの語学教師に出会うことも困難ではない.

しかし社会の発展とともに職業の専門性はますます深化し,「○○語ができる・使える」と公称するためのハードルはロンブの時代とは比べものにならないほど高くなってしまったように見える.そうした翻訳家の職業意識もさることながら,電子的なデータベースの蓄積と機械翻訳の技術向上によって,人が自分の頭で「ちょっと単語や文法を記憶している」とか「適切な文献を選び自分で調べるとっかかりをもっている」とか程度のにわか知識は掛け値なしにまったくの無価値になった

いや,私じしんが勉強してきた数十の言語のどれをとってもその程度の能力しかもたない人間だからルサンチマンを含めて言うのだが,社会的には百パーセント無価値である.もしロンブのエピソード程度の水準でよいなら,私は少なくとも 20 の言語でいますぐ翻訳家として名乗りを上げ文法の教師として教壇に立つことができるが (ただし通訳は無理だと白状するが),それを実践しようものならたちまち笑いものにされことによれば訴えられるか,もっと可能性の大きいのは単純に黙殺されることだろう.また私は,断片的知識をあわせればおそらく 100 ほどの言語について,文字とつづりを見た瞬間にこれは何語だと判定することができる.この特技は数十年まえであればそこからなにをどうやって調べればよいかを方向づける決定的に重要な情報であったのだが,いまでは機械翻訳が自動判別してくれるのでなんらの意味もない.これは電卓の登場によって暗算の技能の価値が,またワープロの普及によって漢字の書きとり能力と字の達筆さの価値が下落したことに似ているであろう.

ロンブは言う,「わたしたちが外国語を学習するのは、外国語こそが、たとえ下手に身につけても決して無駄に終らぬ唯一のものだからです」(34 頁) と.バイオリンがちょっとしか弾けない演奏者は喜びよりも聴衆に苦痛を与えるし,医学をちょっとかじったアマチュアが医療行為を行おうとすると犯罪になるのに対し,彼女の考えるところ外国語だけは唯一そうではない分野だというのである.

そのとおりでありつづけたらどんなによかったか知れない.たしかに現在でも,海外旅行先で「ちょっと」現地の言葉を話して人々に喜ばれ自分もうれしくなる,という次元の話としては依然成りたっている.しかし彼女のように翻訳家や通訳者や語学教師として仕事になるか,つまり「アマチュアが社会的利益をもたらし得る」(35 頁) かという観点で言えばほとんど嘘になってしまった.こういう意味で私たちにわか語学愛好者は疎外されている社会に生きているのであり,この傾向は今後強まりこそすれ弱まることはありえず,いまやこの本の慰めと激励を文字どおりに受けとれる時代は永久に過ぎ去ってしまったのである.

古きよき時代は過去になり,いままさにその残響さえ消えてゆかんとしている.翻訳家や通訳者という職業は,完全になくならないとすれば一種の芸術家として生きつづけていくだろう.私たちアマチュアの語学愛好者は語学が「嗜好品」としての性格を強めていく来るべき時代に,いかにしてみずからの価値を擁護していくべきか,「古典」の教えを昇華して新たな生存戦略を模索していかねばならない.そのヒントはそれこそ「バイオリンがちょっとしか弾けない人」にありそうだが,道行きは明るくなさそうだ.もっともロンブの言うとおりなら外国語以外のすべての趣味はとっくにそのような境遇に置かれていたのであり,いまさら私たちが最後の聖域を取り上げられたとてふてくされている権利などないのだろう.

samedi 4 novembre 2017

Thomson『古典アルメニア語入門』抄訳

中世のアルメニア語の話題を取り扱ったことで思いだしたのだが,今年の 1 月に個人的に古典アルメニア語の入門書の翻訳と解答作成を途中まで行っていた.Robert W. Thomson, An Introduction to Classical Armenian. Caravan Books, ²1989 という本である.

原著の本編 17 課のうち第 1 課から第 8 課まで (pp. 22–70) を全訳し,練習問題にあるアルメニア語聖書訳読 (第 4 課以降) のすべての文に品詞分解と和訳をつけてあるので,これはこれでそれなりに役に立つと思う (もっとも文字の発音および音節と母音交替の説明のあるイントロ部分の訳出を割愛しているので,これだけでは勉強できないだろうが).

作りかけのままだが自分では原著の続きにざっと目を通しており,趣味としてはもう満足できるレベルでアルメニア語を読めるようになってしまったので,残念ながら和訳の続きを作ることはないだろう.死蔵するのもなんなのでここに一般の用に供することとする:Thomson『古典アルメニア語入門』訳と解答 (PDF).

vendredi 3 novembre 2017

谷口訳『中世アルメニア寓話集』「狼の子と手紙」の迷訳

前々回の「雌獅子と狐」前回の「土地測量技師の水牛」に引き続きこの連載の締めくくりとして,ムヒタル・ゴッシュ,ヴァルダン・アイゲクツィ;谷口伊兵衛訳『中世アルメニア寓話集』(渓水社,2012 年) 所収の寓話のうちもうひとつだけどうしても取り上げたいものがある.それはこの本を一読したとき私がいちばん奇妙だと感じた一編で,アルメニア語の原文を見てみたいと思わせたきっかけである,52 頁の「狼の子と手紙」という話だ.
狼の子と手紙 the wolf-cub and the letters
むかし狼の子が捕らえられて、手紙を読まされました。〝S〟と言うように命じられると、狼の子は〝シープ〟(sheep「羊」)と言うのでした。また〝C〟と言うよう命じられると、狼の子は〝チキン〟(chicken「鶏」)と言うのでした。〝G〟と言うよう教えられると、狼の子は〝ゴート〟(goat「山羊」)と言うのでした。〝I〟と言うように命じられると、狼は続けられなくなり、こう返事するのでした、「ぼく(〝I〟)が遅刻すると、羊の群れが山を通り過ぎ、もう追いつけなくなってしまいます。」
まずオチが意味不明で,なにかうまいことを言おうとして盛大に滑っているというのはオリジナルの問題なので置いておこう.また,英語の letters というのは手紙ではなく文字」だということも明らかだが (「手紙」を読まされていて S と言えだの C と言えだの,おかしいと気づくだろうにこの翻訳は中学生の英文和訳か?),それさえも最大の疑問点ではない.

この話でいちばん不可解なことはなにか.それは S, C, G, I というアルファベットの並びとその選択である.この文字列にいったいなんの必然性があるのか? なにか深遠な謎でも隠されているのか,と不思議に思うはずだ.

私たちはわざわざ原文を照会する手間を割きたくなかったりその能力がなかったりするために日本語訳を読むのである.しかるにこの話の日本語訳だけを読んだとき最大限わかることはと言えば,おそらくは「狼の子は動物の名前を答える法則がある」ということだけであろう.これは彼にとっての友達を挙げているのかもしれないし,食べもののことを言っているのかもしれない (chicken は生きた鶏と鶏肉の両方でありうる.ただし食べものなら sheep は mutton でなければならない).だが根本的になんで S, C, G, I なのか,そしてこの寓話からどんな教訓を読みとったらよいのかということはてんでわからない.


ロシア語訳からわかる情報と新たな謎


合理的に推論して,こんな無軌道な配列を日本語の翻訳者である谷口氏が勝手に創案したとは考えがたいから,この S, C, G, I はまず英訳の時点ですでにあったろうことが予想される.ただ前々回指摘したように谷口氏が英訳の原典を表示してくれていないので英訳については参照できないから,その翻訳元とされるオルベリのロシア語訳をみたび参照しよう:
63. волчонок и азбука
Поймали однажды волчонка, напи-
сали буквы и велели ему читать. И го-
ворят: «Скажи Аз», а он: «Агнец».
Говорят: «Скажи Буки», а он: «Ба-
ран». Говорят: «Скажи Глаголь»,
а он: «Гусь». Говорят: «Скажи
Добро», а он: «Добыча». Говорят:
«Скажи Есть», а он отвечает: «Если
не поспешу, пройдет стадо, и не до-
гнать будет».
まずはタイトルが «волчонок и азбука»「狼の子とアルファベット」なので letters が「文字」であることが再確認できた.ここで狼の子が «Скажи»「言え,口に出せ」(сказать の命令形) と言われていることを並べてみると,Аз, Буки, Глаголь, Добро, Есть となっている.

ここからただちに,これはアルファベットの最初の 5 文字を言っているのだとわかる.Аз, Буки, ... というのはどうやらアルファベットの各文字の古い名称であったようだ.もっともロシア語をご存知のかたなら В が抜けていることに気づくだろうが,これはキリル文字が少々特殊なのであって,「アルファベット」の名の祖であるギリシア文字に遡れば Α, Β, Γ, Δ, Ε であるし,アルメニア語でも Ա (A), Բ (B), Գ (G), Դ (D), Ե (E) なので,おかしなところはない.つまり原文ではアルファベットを順番に数えていたということだ.そうすると露訳でひとつひとつの単語にたいした意味はあるまい,というのは異なる言語から翻訳してなお順番を保つためにはどうしても多少の無理が生じるからである.

しかしそうすると新たな謎が浮上する,というのはロシア語では ABCDE と 5 個言っているのに英訳では 4 つに減っていることである.ただこの疑問は英訳者を捕まえて直接尋ねでもしないかぎり解決不可能なので無視しよう.

では狼の子の回答を見てみると,агнец は古語で「子羊」または「羊」一般,баран は「雄羊」,гусь は「ガチョウ」,добыча は「獲物,餌食」なのでやはり狼にとっての食べものを答えていたようだ.最後の Е はだいたい邦訳のとおりで,「もし僕が急がないと群れが行ってしまい追いつけなくなる」だが,Е にあたる語は «если»「もし」であって「僕」ではない.だから英訳の I も,谷口氏は勘違いしているが僕 Iではなくもし ifのほうがイニシャル I を代表しているに違いない.そもそも狼の子はしりとりのようなことをしているのに,文頭の if でなく次の I がそれというのでは法則が台なしになるのである.また「群れ стадо」について「羊の」とは一言も言われていないので,すなおに考えたら狼の子じしんの属する群れのことではないのだろうか (ただし後述のアルメニア語原文も参照).

さて,英訳は S, C, G, I という奇妙な並びを持ちだしてきたわけだから,私はおそらく「羊・鶏・山羊という単語の意味のほうを忠実に訳したために頭文字は妥協せざるをえなかったのだと想像していたのであるが (誰でもそう考えたと思うが),オルベリのロシア語訳と比べると答えすら一致していないことがわかる.露訳にあるガチョウは消え,鶏と山羊が混入しているし,そもそも数があっていない.こうなるともうお手上げである.英訳者はなにを考えてこんなことをしたのか? それとも名前すら示されていない「英訳者」などというのは架空の存在なのか?


アルメニア語原典


ともあれ気をとりなおして,満を持して大本のアルメニア語原文にあたってみよう.これはふたたびヴァルダン・アイゲクツィの作であって,ニコライ・マルの校訂版では ՅԽԵ すなわち 345 番の番号が振られている:


ご覧のとおりまた判読困難な文字も少なくなく,とくに前回「土地測量技師の水牛」のさい «շամբ» で悩まされた բ と ր の文字,գ, դ や զ, ղ の文字,それから ա, տ, ո, ս などつぶれるとまったく区別不可能なのだが,ここまでの考察で「最初の話し手はアルファベットの最初の 5 文字 ա, բ, գ, դ, ե を順番に言っている」ということと,その相手である「狼の子は動物の名前を言う傾向にある」ことがわかっているのでそれが手がかりとなる.

(ちなみに残念ながら前々回頼りにしたサン゠マルタンによるアルメニア語・フランス語対訳版のヴァルダン寓話集は全 45 話の小冊であってこの話が含まれていない.)

まず導入部,冒頭から 2 行めの最初の単語まではこうだろう:Ասի առակաց, թէ գալին (?) ձագն բռնեցին ու գրեցին գիր, թէ կարգայ։

Ասի は ասեմ「言う」の直・現・中受・3 単,առակաց は առակ「たとえ,寓話」の複属与奪 (ここでは奪格か),թէ は英 that で,ここまでで「(この) たとえ話によって թէ 以下のことが言われている」.従来であればこれは教訓段落の導入句に見えるが,今回はここから寓話の本体が始まっている.また露訳以降,英訳,谷口訳まで含めてこの一文は失われており,かわりに「むかし однажды」という語が加わっている.

次の գալին は不明,ձագ-ն は「動物の赤ん坊,幼獣」,բռնեցին 直アオ 3 複 < բռնեմ「捕まえる」,ու「そして」,գրեցին 直アオ 3 複 < գրեմ「書く」,գիր「文字」,թէ は今度は「〜するように」(英 so that) で,կարգայ 直現 3 単 < կարգամ「呼ぶ,唱える;叫ぶ」.こうすると「狼の」という情報が出てきていないので,不明だった գալին galin は գայլ gayl「狼」に関係するであろう (というかそこから逆算して判読不能の գ と ա を決定した).「彼らは狼の (?) 幼獣を捕まえ,彼 (=幼獣) が唱えるように文字を書いた」.なお「彼ら」についても正体不明である.

以降,ասեմ「言う」の活用形である ասեն, ասայ, ասէ が順繰りに繰りかえされる.ասեն は直現 3 複「彼らは言う」,ասէ は直現 3 単「彼は言う」だが,ասայ はわからない.露訳を参考にすれば命令法の 2 単「言え」のはずだが,古典語ではそれは ասա՛ である.中世のヴァリアントだろうか?

「彼ら」が言っている単語は単純で,ա՛յբ, բե՛ն, գի՛մ, դա՛յ, ե՛չ, これらはアルメニア語最初の 5 文字 ա, բ, գ, դ, ե の名前である (アルメニア文字にはギリシア文字アルファ・ベータ・ガンマ等々と同じく固有の名前がある) が,դ はふつう դա であるのに余計な յ が付け足されている.この傾向は前述の ասայ とも符合しているから,さきのものはやはり「言え」と解してよかろう.

それに対して幼獣の応答は,այծ「山羊」,բուծ「子羊」,գառն はまた「子羊」で,դմակ は「羊の脂身」か.確実に「ガチョウ」が見あたらないので,露訳も答えを忠実に訳していたわけでないことがわかった.アルファベット順のほうを尊重していたのである (しかしそれなら А, Б, В, Г, Д に変えてもよさそうなものだが,オチの ‘if’ が Е であることに引っ張られたか).

幼獣の最後のセリフは ես կու (?) երթամ. դիհ (?) անցաւ. այլ չեմ ի հասնիլ։ か.ちなみにこの手前,最後の応酬のときも「彼らは言う,彼は言う」の同じ繰りかえしであり,谷口訳に見られる「狼は続けられなくなり、こう返事する」という補足はアルメニア語文にはない.ロシア語訳でも «отвечает»「答える」の 1 語が加わっているだけである.

ここには古典語の辞書では調べのつかない単語が多く,意味ははっきりしない.わかるところを訳せば「僕は〔……〕行く.〔……〕が通り過ぎてしまう.そうでないと (?) 到達する [獲得する] ことができなくなる」という感じか.とりわけ最後の単語 հասնիլ hasnil に見える動詞の不定詞 -իլ という形は明瞭に古典期以後 (post-classical) の形態であるから (Thomson, Introduction, p. 37),古典語 hasanel から中間の -a- が落ちて現代語の hasnel に至る途中の揺れと解した (この動詞の目的語は訳語によって羊の群れと自分の群れいずれの可能性もあろう).また անցաւ anc‘aw も古典語では anc‘ または加音をした ēanc‘ であるが (-aw は直アオ 3 単の規則的な語尾),現代語では anc‘av となるのでこれも過渡的な形か.解読できる部分はロシア語訳に一致しているようだが,これ以上のことは中世語の文献がなければわからない.


結論


さて原典から訳せば日本語訳で不明な恒例の教訓の部分がわかるかと思いきや,マルのエディションで見てもこの寓話には教訓段落が欠けているようである.結局のところこの話はなにが言いたいのかオリジナルからしてわかりづらいということが判明した.しかし原文に遡ることで「この狼の子は (動物の友達を挙げているのではなく) 食べもののことしか頭にない」ということが蓋然性を高めたので,たぶん言わんとする教訓は「幼い子に勉強をさせようとしても身を入れさせるのは難しい」くらいのことかと想像は可能である.

翻訳に際した「狼の子」の答えの変遷に着目してみると,アルメニア語からロシア語,ロシア語から英語 (あったとして) のいずれの翻訳でも,なんらかの理由から内容を自由に変更していることに気づく.しかしそのことじたいは悪いとは言えないばかりか,少なくとも露訳のそれはむしろ翻訳としてしかるべきありかたであろう.というのもこの話においてもっとも優先されるべきことは,幼獣に文字を教えようという筋書きであるから (これを壊すと登場人物がなにをしているのかわからなくなる),アルファベットの順番のほうを尊重するため答えを変更することは正当化されるからである.原著者の意図した効果を出すためなら翻訳においてそうした操作が現に認められていることは,『不思議の国のアリス』から『フィネガンズ・ウェイク』に至るまで言葉遊びで知られる作品の翻訳を想起してみれば納得されるはずだ.

しかるに英訳の S, C, G, I にはなにか意味があるのか不明瞭であるし (これがたとえば W, O, L, F だったらまだよかったのだが),それを機械的に踏襲していると見られる日本語訳も,翻訳としては輪をかけて不出来と評するのが相当であると思われる.ここは上述の理由からたとえばイロハニホかアイウエオに変更して日本語で適切な答えをあてはめることのほうが「正しい」訳しかたであったろう.中世アルメニアにとってなんの意味もない英単語のまま S, C, G, I を見せられても日本語を母語とする読者にはなにも伝わらないのである.

これまで 3 回にわたって『中世アルメニア寓話集』の和訳の難点を指摘してきた.これら 3 つはそれぞれ性質を異にする問題であって,(1) 最初の「雌獅子と狐」は (おそらくは) 英訳から和訳するさいに生じた誤訳,(2) 次の「土地測量技師の水牛」は英訳ないしそのまえの露訳の時点で生じていた誤訳が影響した,重々訳であることの欠陥であったところ,(3) 今回の「狼の子と手紙」はそれらの「集大成」として単純な誤訳も英訳時点の不備も含みつつ,そもそも原典じたいが翻訳に向いていないテクストであったことに端を発する迷訳であったと要約できる.こうしてわれわれが翻訳に携わるさいのさまざまな教訓を暗に教えてくれている,この邦訳寓話集の存在そのものが新たな寓話であると言えば皮肉が利きすぎであろうか.

谷口訳『中世アルメニア寓話集』「土地測量技師の水牛」の誤訳

前回に引き続き,ムヒタル・ゴッシュ,ヴァルダン・アイゲクツィ;谷口伊兵衛訳『中世アルメニア寓話集』(渓水社,2012 年) 所収の寓話のうち,今度は 32 頁の「土地測量技師の水牛」という話をとりあげてみる.これもまた大誤訳によって脈絡のわからない話になってしまっているのであって,まずは訳文をご覧いただこう:
水牛が土地測量技師になりたがりました。ところが、間もなく土地の測量に飽きてしまい、砂糖きび畑にやって来て、そこで寝そべりました。水牛の親方は彼が怠惰なのを叱りつけました。すると、水牛は応えて言うのでした、「陸地だけが測量されなくちゃならないの? 僕は今度は水も測量するつもりです。」
やはり日本語だけを読んでもなにかがおかしいということが明白だろう.見たかぎり,この水牛くんが自分の怠け癖を言い訳しようと試みていることだけはわかるが,なぜ砂糖きび畑で寝そべることが水も測量につながるのだろうか?


割愛された教訓段落


オルベリのロシア語訳から調べてみると,この話はムヒタルの作である.ムヒタルの寓話集が印刷されたのは 1790 年にヴェニスで出版されたのが最初で,それから 1842 年と 1854 年に再版 (改訂?) されたらしい.さらに百年近くが経って,1951 年にアルメニア (当時はソ連邦) の首都イェレヴァンでエマヌエル・ピヴァズヤン (Էմանուէլ Ա. Պիվազյան) という人によるテクストが出ているようで (HathiTrust 検索結果),ヨシフ・オルベリによるロシア語訳はこれを参考文献に挙げている.

私はその新しいほうの版を参照できないため,1790 年版のテクストの該当箇所を見てみると次のようである:


ここで邦訳およびオルベリの露訳に反映されているのは前半だけであって,後半の段落 (1 枚めの最終行から 2 枚め全体) はすべて割愛されている.前回の記事「雌獅子と狐」で紹介したものと同じく,この段落はその寓話の寓意を説明したいわば教訓部であり,簡単に訳すとこんなふうだろう:
泥沼 (տղմուտ) を離れたのにそこに舞い戻る者は,責められるとこう言うものである:「(世のなかには) お上品な人間 (պարկեշտ) ばかりでなく,罪が好きな人間たち (մեղսասէրք) もいるもんだ,俺たちのように」.
ここで「泥沼」という語は辞書的には文字どおりの意味しかないが,ここでは日本語のそれと同様「なかなか抜けだせない悪習」のようなもののメタファーとして使われているであろう.沼をそのように解すことで,泥のなかを転げまわる水牛を悪癖の常習者に見立てているわけである.これもまたヨーロッパの動物寓意譚ではありふれたイメージなのだろうか?

このように教訓段落を訳出してみると,前半の本来の姿についても想像がついてくるはずだ.「土地測量」に飽きた水牛が赴いたさきは砂糖きび畑ではなく」なのだろう.


「砂糖きび畑」の出どころ


しかしなぜはっきりしないのか? それはこの単語がよくわからないからである.問題の単語は上の画像 1 枚めの 3 行め末尾にある.これは շամ? という 4 文字に見えるが,最後の文字がかすれて判然としない.なにか μ のようにも見えるが,アルメニア語には「左下が基準線より下に出て,なおかつ上は開いている」という文字はないのである (左下がまっすぐ飛び出るのは բ, թ, ի, խ, ր ですべてで,ը と լ はそこから右に延びるので候補から外れる).しかしおそらく շամբ であろうか.

文脈を確定するべく,2 行めのピリオドのあとから翻刻してみると次のとおり:
――.  եւ ՚ի չափելն անդ տաղտ-
կացաւ, եւ երթեալ անկաւ ՚ի շամբ (?)
ինչ,  ――
չափելն は չափեմ「測る」の不定詞に指示接尾辞 -ն がついたもので,անդ は「野,畑,耕地」.次の տաղտկացաւ は տաղտկամ「うんざりする,嫌悪する,怒りを抱く」の直説法アオリスト 3 人称単数で,嫌う対象は ի + 奪格で示すので,ここまでで「(彼は) 野を測るのにうんざりして」となる.

続いて երթեալ は երթամ「行く,去りゆく;向かう」のアオリスト分詞,անկաւ アオ 3 単 < անկանիմ「落ちる;陥る;倒れる;滅びる;飛びこむ」など多義.そのどこへ անկանիմ するかというのが次の ի + 対格で示されている問題の շամբ (?) である.行を超えて最後の ինչ は「なにか,あるもの」という不定代名詞で,これは名詞の後について「なにか〜のようなもの」という意味に使えるらしい (akn ownēr nšan inč‘ leal tesanel i nmanē 彼は彼 (イエス) によって生じた徴のようなものを見たいと願っていた Lk 23,8).これで,測量に飽きた水牛は「去って շամբ かなにかへ飛びこんだ」となる.

とりあえず շամբ だとみなすとして,この語は手もとの『古典アルメニア語辞典』には載っていないので,1875 年の Պետրոսեան の古いアルメニア語・英語辞典によってみると ‘Շամբ, ից s. cane-brake, —-field, fen’ と出ている.Cane は竹や籐やサトウキビなど,あの手の細長い植物の茎のことであるから,canebrake は「竹やぶ,籐の茂み」と訳される.-field はその畑である.一方 fen は「沼地,湿地帯」のことだ.つまりこれが砂糖きび畑とを分けた原因である.

われわれの訳語としては「沼」をとるべきことは明らかだろう.竹やぶやサトウキビ畑でも泥だらけにはなれるかもしれないが,「測量」できるほど水が豊富とは思われないからである.水を測量できなければ最後のオチ (եղիցիմ ես ջրաչափ「僕は ‘水測量士’ になる」;եղիցիմ は未来を表す接続法アオリスト) にはつながらない.

ではなぜこのような取り違えが生じたのか? われわれは後半の教訓段落をちゃんと読んだのでこのようにわかったわけだが,先述したようにオルベリのロシア語訳以降この部分は省略されているのである.谷口訳はオルベリの露訳から英訳されたものをもとにした重々訳なので,当然この部分は知らなかったであろう.この話のオルベリの露訳全文は以下のとおり:
38. буйвол-землемер
Буйвол пожелал стать землемером.
И наскучило ему измерять, отпра-
вился он и улегся в камышах, а учи-
тель упрекал его в лености. А он от-
ветил: «Разве только землю нужно
измерять? Буду я водомером».
ご覧のように,問題の部分は камышах と訳されている.これは камыш の複数前置格で,камыш には「葦」および複数で「葦の茂み」という意味しかない.オルベリは後半の教訓部を読まなかったか,あるいは彼の依拠したテクストになかったのだろう.なるほど葦が生えるところは水の豊富な湿地帯であるが,いまの文脈で重要なのは生えている植物ではなく水そのもののほうである.

そうするとこれをもとにした英訳も当然 reeds かなにかとしか訳せなかったはずであり,すなわち今回谷口訳が間違っているのはオルベリの露訳に責任があったわけである.それにしてもなぜ谷口訳が葦をサトウキビにしなければならなかったのかは謎で,地面の上に生えるサトウキビでは完全に話の流れが理解不能になってしまっている.ついでに言えば「寝そべる」という語も原文にはないが,これも露訳の улегся (улечься「横になる,横臥する」の過去男性単数) が原因だろう.ともあれこれらは重訳 (重々訳) から生じた欠陥ということだ.


「土地測量技師」という訳語


ついでなので,「土地測量技師」という訳語についてもひとつ思いついたことを述べておく.これもオルベリの訳語 землемер を見れば,露訳の時点で「土地測量士」としか訳せなくなったことがはっきりしている.

ところで原語は երկրաչափութի՟ と書いてある.երկրա- = երկիր は「地」で,չափ は「測ること,測定」であるから,まあ「土地測量」でもよさそうな気はする.しかしこれは要するに geo- + metr であるから,もっと抽象的な学問である「幾何学 geometry」の可能性はないだろうか.少なくとも現代アルメニア語で երկրաչափութիւն は数学の「幾何学」である.

私がこのように疑問に思った理由は,現代語の意味もさることながら,きっかけは谷口訳で「水牛の親方」と訳されているところの վարդապետ という単語であった.これは古典アルメニア語 (西暦 5 世紀にキリスト教の聖書がアルメニア語に訳されたときの言語) では「先生,師,ラビ」(希 διδάσκαλος, ἐπιστάτης) の意味でとくに律法の教師のことであり,ロバート・ベドロシアン (Robert Bedrosian) によれば中世では「教会博士 Doctor of the Church」の意味として,彼の訳では固有名詞的にヴァルダペト (vardapet) とそのまま音写されている.そのような肩書の人物が現場の「親方」として実学である「土地測量」を教えるものだろうか?

これは当時のアルメニアの教育の実情を調べないとなんとも言えない.ただし上で見たとおり,この「幾何学」を習ったあと水牛くんはたしかに「野を測定 չափել անդ」していることに鑑みて,この ‘geometry’ は原義である「土地測量」と「幾何学」が現代の抽象的な数学のようにかけ離れていなかった時代のものであることは疑いないか.

いずれであるにせよ,日本語では「幾何学」と訳してしまうと最後のオチにつなげるのが難しいという欠点がある.アルメニア語の երկրաչափ 対 ջրաչափ (この後者は ջուր「水」と չափ「測定」の複合語である),ロシア語の землемер 対 водомер (やはり「地-測」と「水-測」) のように,単語の成りたちからつながりが見てとれないと,お話としてはうまくないのである.「測地学」ではやや別の学問になってしまうし,こればかりは geo- も metry もまったく活かせていない「幾何学」という中国語の訳語が悪かったとあきらめるほかはないかもしれない.

谷口訳『中世アルメニア寓話集』「雌獅子と狐」の誤訳

ムヒタル・ゴッシュ,ヴァルダン・アイゲクツィ;谷口伊兵衛訳『中世アルメニア寓話集』(渓水社,2012 年) という本がある.中世のアルメニアなどというたいへんロマンのある時代・地域についての本が日本語で読めるという非常に意欲的な訳業なのであるが,いろいろと難点があって手放しでおすすめはできない.

その難点については Amazon レビューのほうで簡単に書いたのでそちらをご覧いただくとしてなるべく繰りかえさないようにしたいが,そこで指摘した本書 19 頁「獅子と狐」の寓話の誤訳について,正しい訳文を与えるべくここで原文を詳しく検討してみよう.ただし「獅子と狐」という同名の話が本書にはもうひとつ 36 頁にもあってまぎわらしいので,本稿で詳論する 19 頁の話のほうは内容に即して「雌獅子と狐」と以降呼ぶことにする.

訳書でわずか 6 行の短い話なので,まずは問題の邦訳の全文を読んでいただこう.
ある雌獅子が子を産んだため、すべての動物たちがその雌獅子を祝福したり、その子への儀式に参加したりしようとして集まりました。儀式の間、狐がみんなの面前で獅子を大声でしかりつけ、こう言って怒らせたのです、「これがあんたの権限なんだ、これだけが。一匹の子だけで、もうこれ以上は一匹たりとも駄目だぞ。」すると獅子は平然と応えて言うのでした、「さよう。儂は一匹の子を産ませた、でも、それは獅子であって、貴様のような狐なぞではないんだぞ。」
一見して,まんなかにある狐のセリフがまったく意味不明なのである.この狐はいったいなぜ「権限」などということを言いだして,他人である雌獅子の出産の権利を制限しようとするのか? これが本当に正しい訳であったとすれば,この寓話はいかなる寓意をもっていると解釈すべきなのだろう?

この大問題に比べれば,本書全体に蔓延する「儂」という独特の一人称 (獅子や狼のみならず,スズメですら「儂」と言う.30 頁) や突然言及される「儀式」,「産ませた」という言いかた (会話相手がいつの間にか夫の獅子にすりかわったのか?),相手は平然としているのに「怒らせた」という言葉 (後掲の仏訳 injuria < injurier, 露訳 поносила < поносить のごとく「侮辱する,ののしる」や「悪口を言う」くらいが適切だろう) などはものの数ではない.

ここでいったん立ち止まって,この支離滅裂な訳文は誰に責任があるのかということを一考しておこう.いや,ふつうに考えれば訳者の谷口氏なのである.しかしこの訳書,Amazon レビューのほうでも書いたが,なんと翻訳の底本が明示されていない.訳者あとがきに「本訳書は一九五二年にポヴセブ・オルベリにより中世アルメニア語から露訳されたもの(抄訳)の英訳からの、重々訳である」と説明があるばかりで (「ポヴセブ」には改めて突っこむまい),誰が英訳したなんという英題の本なのか不明なのである.つまり谷口氏が依拠している英語の原文を確認できないので,英語の時点ですでにまずいのかもわからないのである (もっともそれも含めて訳者の責任ではあろうが).

底本の情報もなく,また本書中でどれがムヒタル・ゴッシュ (Մխիթար Գոշ) の作でどれがヴァルダン・アイゲクツィ (Վարդան Այգեկցի) の作かすら記載されていないことから調査に手こずったが,私の調べたところによるとこの「(雌) 獅子と狐」(Առիւծն եւ Աղուէսն) はヴァルダンのほうの作で,フランスの東洋学者でアルメニア研究の先駆けだというアントワーヌ゠ジャン・サン゠マルタン (Antoine-Jean Saint-Martin) が 1825 年に出版したアルメニア語・フランス語対訳本 Choix de fables de Vartan のなかに見いだすことができたので,これによってアルメニア語の原文テクストを翻刻すると以下のとおりである (行の区切りも再現):
ԻԶ
ԱՌԻՒԾՆ ԵՒ ԱՂՈՒԷՍՆ
Առիւծ մի կորիւն ծնաւ, եւ ժողովեցան կեն-
դանիքն ’ի տես եւ յուրախութիւն։ Գայ
աղուէսն ’ի մէջ բազմամբոխին, եւ մեծա-
հանդիսիւ նախատեաց զառիւծն յատեանն
բարձր ձայնիւ եւ անարգեաց՝ թէ ա՞յդ է քո
կարողութիւնդ, զի մի կորիւն ծնանիս՝ եւ ո՛չ
բազում։ Պատասխանի ետ առիւծն հանդար-
տաբար՝ եւ ասէ• այո՛ մի կորիւն ծնանիմ,
բայց առիւծ ծնանիմ, եւ ոչ աղուէս քան ըզ-
քեզ։
Ցուցանէ առակս՝ թէ լաւ է մի որդի բարի,
քան հարիւր որդի անօրէն եւ չար։
便宜のためサン゠マルタンによる仏訳も掲載しておく:
XXVI.
la lionne et le renard.
Une Lionne ayant mis bas un lionceau, les ani-
maux se réunirent pour la voir et lui présenter
leurs félicitations. Le Renard vint dans la foule,
et, au milieu de l’assemblée, il injuria la
Lionne, avec affectation et à haute voix, en lui
disant avec mépris : Voilà donc toute ta puis-
sance ; tu n’enfantes qu’un Lionceau et pas da-
vantage. La Lionne lui répondit tranquillement :
Oui, je n’ai donné le jour qu’à un petit, mais
j’ai enfanté un Lion et non un Renard comme
toi.
Cette fable montre qu’il vaut mieux n’avoir
qu’un fils vertueux, qu’une centaine d’enfans
méchans et sans foi.
ただし以上のテクストはロシア語訳が参照しているものではない.そこでそのヨシフ・オルベリ (Иосиф Орбели) による露訳もついでに併載しておこう.谷口氏が依拠した英訳がわからない以上,確実に影響をたどれるのはその英訳が下敷きにしているというこのロシア語テクストまでである:
23. львица и лисица.
Львица родила львенка, и собра-
лись все животные, чтобы повидать его
и принять участие в празднестве. При-
ходит лиса и во время торжества, среди
всего этого собрания, громко упрекнула
львицу и поносила ее: «В этом ли твоя
мощь, что рожаешь одного детеныша,
а не многих?». Львица спокойно отве-
тила: «Да, я рожаю одного детеныша,
но рожаю льва, а не лисиц, как ты».
このオルベリの露訳の底本は,ニコライ・マル (Николай Яковлевич Марр) によるヴァルダンの校訂版 Сборники прич Вардана: материалы для истории средневѣковой армянской литературы (テクスト篇の ч. II は 1894 年) であるようだ.これも Google Books で Google によるデジタイズ版を閲覧できるが,ところどころ完全に文字がつぶれた部分がありあまり役に立たない.ただ下記の訳出作業の (9) でいちどだけ利用するので,どんなふうかいちおう画像を掲載しておく (стр. 116–7):



上掲のサン゠マルタン版と見比べてみれば,前半はところどころ単語のつづりに 1 文字加わったり減ったりしているほかは同じだが,後半の教訓部は明らかにサン゠マルタンのものより長い.ともあれこの段落はオルベリの露訳ではまるごと削られており,そのため谷口訳にもないので無理に判読することはやめておく.


(1) Առիւծ մի կորիւն ծնաւ,


それでは本題に戻って,サン゠マルタン版のアルメニア語をもとに「雌獅子と狐」の日本語訳をしてみよう.アルメニア語の知識がまったくない人でも諸訳 (私のものを含む) の妥当性を検証できるよう,初歩から文法の解説をしていく.全体の訳出結果は本稿の末尾にあらためて載せるので,細部に関心のないかたは飛ばしてもよい.

まずアルメニア語には,印欧語としては驚くべきことに,名詞の性がないのである.したがってここまで雌獅子雌獅子と言ってきた առիւծ であるが実際には性別不明である.しかし仏訳も露訳も明示的に「雌のライオン une Lionne, Львица」と書いているのだからとりあえず従ってみよう.英語でも lioness や she-lion と言えるわけであるが,邦訳から唯一知られる英訳の情報であるところの各話の英題では ‘The Lion’ と載っているので,谷口氏の依拠した英訳では性別不明の獅子になっていたと見える (露訳からの重訳なのになぜ反抗したのか?).

次の մի は数詞の「1」,կորիւն は「動物の仔」,ծնաւ は ծնանիմ「産む」の直説法アオリスト 3 人称単数である.これは自動詞として「生まれる」にも使われる (アルメニア語ではしばしば能動と中・受動の境が曖昧である).さらにアルメニア語では名詞の単数主格と対格がつねに同形なので,このままでは獅子と仔のどちらが主語ともとれそうだが (タイトルにはある指示接尾辞 -ն もここではついていない),仔を自動詞の主語にとると առիւծ の主・対格が浮いてしまうので,順当に「獅子が一頭の子を産んだ」である.

なお単語の語義につき,中世アルメニア語の辞典などおそらく本国にしかなかろうから,ここでは手もとの千種眞一編『古典アルメニア語辞典』(大学書林,2013 年) に頼ることにする.これに見られるかぎりでは ծնանիմ の主語は男性の場合もあり,「Abraham cnaw z-Isahak アブラハムはイサクを生んだ Mt 1,2」との例が出ている.ということは文中の「獅子」が父親のほうであっても (少なくとも古典期には) 矛盾はないことになる.


(2) եւ ժողովեցան կենդանիքն ’ի տես եւ յուրախութիւն։


եւ は接続詞「そして」.ժողովեցան 直アオ 3 複 < ժողովեմ「集める;集まる」.կենդանիքն は「生きている」の意の形容詞 կենդանի を名詞として「生きもの,動物」として用い,その複主 կենդանիք に指示接尾辞 -ն のついたもの.これは定冠詞のような働きをするので,全体で the animals の意.ここまでで「ので動物たちが集まった」.この動物たちはいきなり定冠詞つき複数で出てきているので,谷口訳の「すべての動物」というのもおかしくはない.

’ի のアポストロフは,ի- で始まる単語から前置詞の ի を区別するための記号.この前置詞はさまざまな格を支配し多様な意味をもつが,ここでは対格支配で「するために」の意か.同じく対格支配で「〜の方向へ」や「〜とともに」などの意味がある.տես は動詞 տեսանեմ「見る」から来た「見ること」という名詞.յ- は ի が母音の前でとる形.ուրախութիւն「喜び」.したがってここまでを直訳すれば「見る/会うことと喜びとのために」または「喜びをもって見ることのために」となろうか.

ここで 2 つの現代語訳を参考にしてみると,仏訳は « pour la voir et lui présenter leurs félicitations »「彼女に (la) 会い,彼女に祝福/おめでとう (félicitations) を伝えるため」,また露訳は «чтобы повидать его и принять участие в празднестве»「彼に (его, acc.) 会い,祝典 (празднество) に参加するため」となっている.

まず前半に注目すれば,原文で表されていない「見る」の目的語が補われていることに気づく.この補足じたいはそれぞれの言語の文法的制約からしかたのないことである (他動詞は目的語をとらざるをえない).ただしフランス語ではその対象が女性名詞=母ライオン la Lionne であり,ロシア語では男性名詞すなわち (最初の獅子を母親とみなしていたことを確認したので) 子ライオン львёнок と解釈されている.

より著しい違いがあるのは後半である.仏訳は「喜びをもって」の線ですなおに訳しているように見えるが,ロシア語ではなにやら祝祭が行われることになっている.これははっきり言ってどうなのかわからない.古典アルメニア語の辞典には「喜び」の一義しかないのであるが,あんがい時代が下るにつれて「祝典」の意味が加わったことを否定する根拠を私はもたないからである.

谷口訳の「儀式」もこの露訳の延長線で生じた訳語だろうか.しかし谷口訳をよくよく見ると「その雌獅子を祝福したり、その子への儀式に参加したりしようとして」となっており,獅子の親子に会うことが完全に消えて,празднество「祝典」由来と思われる「祝福」と「儀式」が重複してしまっている.これはまず間違いなく誤訳とみなしていいだろう (繰りかえすがそれが谷口氏の責任なのか英訳者の責なのかは判定できない).また追加そのものを脇に置くとしても「その子への儀式」は日本語として言葉足らず.


(3) Գայ աղուէսն ’ի մէջ բազմամբոխին,


Գայ 直現 3 単 < գամ「来る」.աղուէս「狐」(希 ἀλώπηξ).ի մէջ + [属]「〜のただなかに,のあいだで」.բազմամբոխի は բազմ- < բազում「多数の」と ամբոխի 単属 < ամբոխ「群衆,民衆」の複合語.「狐が大群衆のただなかに来る」.


(4) եւ մեծահանդիսիւ նախատեաց զառիւծն յատեանն բարձր ձայնիւ եւ անարգեաց


մեծահանդիսիւ は մեծ「大きい」と հանդիսիւ 単具 < հանդէս「行列;見世物;祝賀祭」の複合語.(2) における露訳の「祝典」はここからきたものか? 具格はふつう「〜とともに,によって」を意味するが,ここでは様態の副詞として使われているであろう (Thomson, An Introduction to Classical Armenian, p. 56).現代アルメニア語でこの語 մեծահանդես は「壮麗な,豪奢な」という形容詞になっているようだが,中世ですでにこのような変化が進みつつあったのか? いずれにせよ副詞として「見世物的に=壮大に,盛大に」のような意味かと推測される.

նախատեաց 直アオ 3 単 < նախատեմ「侮辱する,罵る;非難する」.զ- は対格を支配し直接目的語を標示するマーカー.つまり զ-առիւծ-ն で the lion(ess) の目的格.

ատեան「集まり,評議会;訴訟,弁論;演壇」.ここでは յ- + 対格なので「〜に向かって」のようにしかとれず,「〜のなかで,において」とするには古典語では処格を要するはずだが,これも通時的変化があったとすればわからない.無難に方向の対格としてとっておこう.

բարձր「高い」(その具格は բարձու だがここでは一致していない).ձայնիւ 単具 < ձայն「声」.「大声で」は ի + 対格で ի ձայն բարձր とも言える (ի ձայն բարձր աղաղակեաց 彼女は大声を上げて叫んだ.ルカ 1,42).

անարգեաց 直アオ 3 単 < անարգեմ「侮辱する,軽蔑する;忌避する」.露訳 «поносила ее»「彼女を侮辱した」や仏訳 « en lui disant avec mépris »「彼女に軽蔑を込めて言い」はやはり目的語代名詞を補っている.

以上よりこの箇所の原意は,「そして盛大にその集まりに向かって大声で獅子を罵り,侮辱した」.


(5) թէ ա՞յդ է քո կարողութիւնդ,


թէ は英語の that のような接続詞で,発話の内容を導く.այդ は 2 人称直示 (つまり相手のがわにあるものを指示する) の指示代名詞「それ」.この上に疑問符  ՞ がついている.アルメニア語では疑問符は文末ではなく,文中で重要な単語のアクセント母音の上に書かれる.է はコピュラ動詞 եմ の直現 3 単 (つまり英語の is).

քո は 2 人称単数の所有形容詞「おまえの,あなたの」.կարողութիւն は形容詞 կարող「可能な,力のある」から派生した抽象名詞「力,能力」で,これに 2 人称の指示接尾辞 -դ がついている (これは「その」と訳せるが,所有詞と補いあって要するに「おまえの」を意味しているのであえて訳出しなくてよい.ギリシア語で所有のとき冠詞がつくようなもの).

この「力」が英訳で power かなにかと訳され,谷口訳の「権限」につながったのだろう.仏訳の puissance も同じく「能力」と「権限」の両方の意味をもつ.しかし日本語ではこの 2 つはかなり違った言葉なので,少なくともこの文脈で権限と訳すわけにはゆかない.以上より「それがおまえの力なのか?」で,どんな力かの説明は次に続く.

ここで「能力」や「力」という語を不自然に感じるとすれば,「可能な」という原義に遡って「できること」くらいに訳すことも許されるだろう.文脈を重視し多少敷衍して訳すなら「全力」あるいは「限度,限界」ほどにもとれる (現に仏訳は « toute ta puissance » としている).


(6) զի մի կորիւն ծնանիս՝ եւ ո՛չ բազում։


զի は「〜なので;〜するために,するように;〜ということ」といった広い意味あいをもつ接続詞.մի կորիւն は (1) で見たとおり「一頭の仔」.ծնանիս もすでに見た ծնանիմ「産む」の直現 2 単.ここまでで「一頭の仔を産むこと」の意.

ոչ は否定辞 (英 not).բազում「多くの,多数の」も既出.あわせて「多くではなく」,つまり意味あいとしては「たった一頭であってそれ以上ではなく」ということ.仏 « et pas davantage » や露訳 «а не многих» も完全に逐語的に移しており,英語でもすなおに訳していたとしたら ‘and not many [more]’ になる.谷口訳の「もうこれ以上は一匹たりとも駄目だぞはまったくの妄想であって,この話の訳文のなかでいちばんひどい部分である.


(7) Պատասխանի ետ առիւծն հանդարտաբար՝ եւ ասէ•

Պատասխանի「返事,弁明」.ետ 直アオ 3 単 < տամ「与える」.この 2 語の組みあわせでふつう「答える,返事をする」の意.առիւծն は既出で「その獅子」.հանդարտաբար は հանդարտ「静かな,穏やかな,穏和な」という形容詞に,「〜のように」を意味する接尾辞 -աբար がついて副詞になったもの.ասէ 直現 3 単 < ասեմ「言う」.「獅子は静かに/穏やかに答えて言った」.


(8) այո՛ մի կորիւն ծնանիմ,


այո は肯定の返事「はい,そうだ,しかり」.ծնանիմ 直現 1 単「産む」.よって単純に「そうだ,私は一頭の仔を産む」で,露訳 «Да, я рожаю одного детеныша» も同様だが,仏訳は « Oui, je n’ai donné le jour qu’à un petit »「そうだ,私は一頭の仔しか産まなかった」と,ニュアンスを重視してか否定の表現 ne ... que を加えている.日本語では否定詞を加えないとしても語順を変えて「私が産むのは一頭だが」のようにすれば含意は通じるだろう.なお谷口訳が同じ動詞なのに「産ませた」に変えている理由は謎.


(9) բայց առիւծ ծնանիմ, եւ ոչ աղուէս քան ըզքեզ։


բայց は反意の接続詞「しかし,そうではなく;もっとも〜だが」.以下 առիւծ「獅子」,ծնանիմ「私は産む」,եւ「そして」,ոչ「でない」,աղուէս「狐」はすべて既出.前半の主語は動詞に含まれている 1 人称単数の「私」なので,「獅子」は対格で,それゆえ後半で対比される「狐」も対格と解するのが相当である.

քան は比較の副詞「〜よりも」(英 than).しかし ըզքեզ の最初の ը- は意味不明.以下の画像のとおりサン゠マルタンの版には間違いなくこの文字があるのだが,誤植か.上に挙げたマルの校訂版にはなく զքեզ となっている.


քան զքեզ と読むとして,քան զ- で対格を支配して「〜よりも」,քեզ は 2 人称単数代名詞 դու の与対処格である.この「おまえよりも」というのは訳しにくいが,仏訳 « et non un Renard comme toi » および露訳 «а не лисиц, как ты» は一致して「〜のような/ように comme, как」と解し「おまえのような [に] 狐ではなく」としている.つまりこの「おまえよりも」というのは「おまえと違って」(cf. other than you) くらいの意味だろう.

以上をまとめると,この箇所の直訳は「しかし [もっとも] 私は獅子を産むのであって,おまえのように狐をではない」.


(10) Ցուցանէ առակս՝ թէ լաւ է մի որդի բարի, քան հարիւր որդի անօրէն եւ չար։


最後に,オルベリの露訳以降で割愛されているこの教訓段落を訳出しよう.

Ցուցանէ 直現 3 単 < ցուցանեմ「示す,見せる;立証する」.առակս は առակ「たとえ,ことわざ,格言,寓話」の複数対格・処格とも見えるが,ここでは առակ に 1 人称指示接尾辞 -ս「この」がついたもので,単数主格である.つまり「この寓話が示している (のは թէ 以下のことである)」.

լաւ「よりよい,優れた」.է「〜である」,մի「一人の」は既出で,որդի は「息子」,բարի は「良い,善い」.հարիւր は基数詞「100」.անօրէն に見える օ という文字は中世 11 世紀末の発明で,本来は二重母音 աւ にあたる.そして անաւրէն は「無法の,不正な,邪悪な,犯罪者」の意.չար もこれと類義語で「悪い,不道徳な,悪意のある」といった意味.

以上で「この寓話が示しているのは,一人の善良な息子は百人の邪悪で非道な息子 (をもつこと) にまさるということである」.獅子が「善良」なのか,狐は逆に貶められすぎではないかという疑念もあるが,これが中世ヨーロッパの動物寓意譚における各動物の印象なのかもしれない.


最終結果


これまでの分析をまとめると,サン゠マルタン版のアルメニア語原文に忠実な (余計な付け足しを極力排した) 日本語訳は以下のようになろう:
獅子が一頭の仔を産んだので,動物たちは見て [見舞い] 喜び (を伝える) ために集まった.狐がその大群衆のなかにやってきて,盛大に獅子を罵りその集まりに向かって大声で「それがあんたのできることか,たくさんではなく (たった) 一頭の仔を産むことが?」と侮辱した.獅子は静かに答えて言った,「そのとおり,私が産むのは一頭だ,もっとも私が産むのは獅子であって,おまえのように狐ではないが」.
この寓話が示しているのは,一人の善良な息子は百人の邪悪で非道な息子 (をもつこと) にまさるということである.