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mercredi 12 décembre 2018

18 世紀のフェーロー語瞥見

このあいだ「フェーロー語研究 (前) 史 1650–1900」というエントリで紹介したように、1800 年にデンマーク人の牧師・植物学者であった Jørgen Landt という人に『フェーロー諸島に関する記述の試み』(Forsøg til en Beskrivelse over Færøerne) という著作があり、この第 4 章 3 節 (s. 436–440) が「その言語について」(Om Sproget) と題しフェーロー語 (フェロー語) の解説を行っているのであった。

本稿ではこの部分の訳出紹介を試みようと思う。これは 1800 年という年代に照らして知られるとおり、まだ正書法すなわちフェーロー語の単語をどのようにつづったらよいかの指針すら定まっていなかった時期のこと (この間の消息は前エントリで詳述した)、解説の内容じたいもさることながら、フェーロー語をどのように書き表わそうとしたかその努力にも興味がある。もっともラントはラスクのような専門の言語学者ではなく、かつ当時はほかに頼れる文献もなかったゆえであろう、表記の不徹底・不注意さやフェーロー語そのものの理解に難がある部分も散見される (日本人になじみのある例で言うと 16 世紀ころのポルトガル人やスペイン人による日本語の説明や日本地図の表記で起こったのと同じことである)。

訳では現代フェーロー語のつづりに修正したものも逐一併記し、デンマーク語も 200 年以上昔のものなので現代語と異なる場合にはこれも付記した (違いが名詞の大文字書きのみの場合は特記せず)。ラントの誤解によるものか、フェーロー語がふつう見出し語形とする単数主格未知形ではなく斜格や既知形 (定形) になっている場合があり、あるいはデンマーク語と定不定が一致していない場合があるので、そのさいはすべて注記した (特記なき場合は単数主格未知形)。また原文では区別していないが、ここではわかりやすいようフェーロー語をイタリック、デンマーク語をローマンで区別した。補足説明が必要な場合、亀甲括弧〔・〕に入れて示すか、長いものは * などの印を付して字下げした段落に述べた。

ここで試みられているフェーロー語表記を見れば、この言語の発音は 18 世紀の時点ですでにほぼ現在のとおりであったことが知られる。ラントのつづりから現行の正書法によるつづりを導きだすのはなかなか困難な作業であったが、デンマーク語訳が付されていることに助けを得て、また同時代の仕事であるスヴェアボの辞書 Dictionarium Færoense とも照らしあわせつつ誤りのなきを期した。しかし調査が及ばない部分も一部に残ってしまった。




§. 3.
言語について

フェーロー語 (det færøeske Sprog) は余所の者には最初のうちきわめて理解不能のように思われるが、〔われわれデンマーク人にとっては〕待つこともなく理解できるようになる;というのは単語の大部分が古いデンマーク語、あるいはむしろノルウェー語であって、歪められた発音が奇妙な見せかけを与えている〔だけ〕だからである。それは以下のようである〔次の単語の列挙は原文では左右 2 段組。上の画像のとおり〕:
  • a spujsa at spiise.〔現 at spisa*, at spise。食べる、食事する〕
  • a triqve at troe.〔現 at trúgva, at tro。思う〕
  • a smuja at smedde.〔現 at smíða, at smede。(鉄などを) 打つ、鍛える〕
  • a sejma at sye.〔現 at seyma, at sy。縫う〕
  • a gænga at gaae〔現 at ganga, at gå。行く、歩く〕
  • a standa at staae.〔現 at standa, at stå。立っている、立つ〕
  • a regva at roe.〔現 at rógva, at ro。漕ぐ〕
  • a sujgja at see.〔現 at síggja, at se。見る〕
  • Fræ, Frøe, Sædekorn.〔現 fræ。穀物の種〕
  • Sjegverin, Søen.〔現 sjógvurin。湖、海 (既知形)〕
  • ojn Skegv, en Skoe.〔現 ein skógv [ein skógvur の対格], en sko。靴 (の片方)〕
  • Løret, Lærred.〔現 lørift。亜麻布〕
  • ojn Baug, en Bog.〔現 ein bók。本〕
  • Ditnar, Dør.〔現 dyrnar [dyr (複数のみ) の主・対格既知形]。扉 (デンマーク語訳は単数未知形)〕
  • Pujpa, Pibe.〔現 pípa。パイプ〕
  • Høddet, Hovedet.〔現 høvdið [høvd または høvur の既知形]。頭 (既知形)〕
  • Skortin, Fjæs (Ansigt)〔現同 [skortur の対格既知形]。顔 (デンマーク語訳は未知形)〕
  • Ejen, Øjnene.〔現 eygum** [eyga の複数与格]。目 (デンマーク語訳は複数既知形)〕
  • Nøsin, Næsen.〔現同 [nøs の既知形]。鼻 (既知形)〕
  • Muveren, Munden.〔現 muðurin [muður の既知形]。口 (既知形)〕
  • Høkan, Hagen.〔現同 [høka の既知形]。顎 (既知形)〕
  • Øjrene, Ørerne.〔現 oyruni [oyra の複数主・対格既知形]。耳 (複数既知形)〕
  • Mæjin, Maven.〔現 magin [magi の既知形]。腹 (既知形)〕
  • Bojnene, Beenene.〔現 beinini [bein の複数主・対格既知形], benene。脚 (複数既知形)〕
  • Brej, Brød.〔現 breyð。パン〕
  • Bødn, Børn.〔現 børn [barn の複数主・対格]。子ども (複数形)〕
  • Talve, Tavle.〔現 talvu*** [talva の対・与・属格]。平らな板、黒板〕
  • Knujv, Kniv.〔現 knív [knívur の対格]。ナイフ〕
  • Song, Seng.〔現同。ベッド〕
  • Gjadn, Jern.〔現 jarn。鉄〕
* 現代フェーロー語では使わず、Jacobsen og Matras のフェーロー語・デンマーク語辞典 Føroysk-donsk orðabók (2. útg., 1963) や Jóhan Hendrik W. Poulsen ほか編 (1998) のフェーロー語国語辞典 Føroysk orðabók には立項されていない。デンマーク語からの借用語であったと思われ、Jógvan við Ánna, Føroysk málspilla og málrøkt IV (1977) に見いだされた。スヴェアボには spujssa として出ている。

** eyga「目」の複数は、未知形で主・対格 eygu(r), 与格 eygum, 属格 eygna, また既知形で主・対格 eyguni, 与格 eygunum, 属格 eygnanna である。このうちラントの記す Ejen にいずれが近いかという問題だが、既知形は音節数があわないので除外し、未知形のうち [n] の音で終わるのは eygum しかないのでこれをあてはめた (フェーロー語の名詞類複数与格の -um は [-ʊn] と発音される)。

*** talve の -e をどう受けとるかには異論の余地もあろうが、ラントのほかの記法を見るかぎり、彼は原則として a は正しく a と聞きとっているに対して、アクセントのない i および u を一律に e としがちな傾向がある (muðurinMuverenoyruniØjrene とするなど)。さらに斜格を見出し語に取り違えてしまう例のあることも見てのとおりである (ojn Skegv, Skortin, Knujv)。それゆえこの語も主格 talva ではなく talvu のつもりと解した。

だがフェーロー語には多くの特異な点もあり、それらについて若干を列挙したいと思う。たとえば次のようである〔前と同じく原文 2 段組。また、形容詞で性による違いがある場合、ラントはローマン体 (本文のブラックレターに対して) で hic, hæc, hoc; hi, hæ というラテン語の指示代名詞を用いて性を明示している。なおコンマやピリオドの有無が不統一なのはすべて原文どおり〕:
  • a qvuja at frygte.〔現 at kvíða。恐れる、不安に思う〕
  • a atla, tænke, slutte.〔現 at ætla。〜するつもりである〕
  • a kujla, dræbe.〔現 kíla。殺す。フェーロー語 kíla は Jacobsen og Matras によれば現在ではまれ〕
  • a fjoltra, skjelve.〔現 at fjøltra (?)*, at skælve。震える〕
  • a tarna, forsinke.〔現 at tarna。邪魔する、阻止する、遅らせる〕
  • a hikja, see.〔現 at hyggja, se。じっと見る、見まわす、観察する。ラントのデンマーク語訳 se はたんに「見る」だが、詳細別記**〕
  • Ogn, Ejendom.〔現同。財産、とくに土地・不動産。〕
  • Huur, Dør.〔現 hurð。扉〕
  • Got, Dørstolpe.〔不明。dørstolpe は戸枠、扉を据えつけるところの枠や柱のことだが、それをそのままフェーロー語に直すと durastavur となる。got という音に対応しそうなつづり (たとえば gott) で似た意味の語は見つからず〕
  • Likel, Nøgel.〔現 lykil, nøgle。鍵〕
  • Munere, Forskjel.〔現 munur。差、違い〕
  • Tkjæk, Disputeren.〔現 kjak。口論、論争〕
  • Tkjolk, Kind.〔現 kjálki。頬〕
  • Vørren, Læben.〔現 vørrin [vørr の既知形]。唇 (既知形)〕
  • Ylverin, Drøvelen.〔現 úlvurin [úlvur の既知形]。口蓋垂 (既知形)。úlvur は同音同綴で「狼」の意もあるが、デンマーク語訳 drøvelen (= drøbelen) に従った。〕
  • Spjarar, Pjalter.〔現 spjarrar [spjørr の複数主格]。ぼろきれ、くず〕
  • qviik, hurtig.〔現 kvik, hurtigt [-ig の形容詞の副詞的用法が様態を表す場合、現代では -t]。速く、急いで〕
  • erqvisin, ømskindet.〔現 erkvisin。敏感な、脆弱な、傷つきやすい〕
  • fit, flink, ferm.〔現 fitt [fittur の中性]。器用に、巧みに〕
  • prud, pyntet.〔現 prútt [prúður の中性]。堂々として、華美に、派手に〕
  • hunalir, tækkelig.〔現 hugnaligur。楽しい、心地よい〕
  • hic vækur.
  • hæc vøkur.  } vakker.〔現 vakur, vøkur, vakurt。きれいな、美しい〕
  • hoc vækurt
  • reak, maver.〔現 rak。痩せこけた、貧相な。デンマーク語 maver は mager の古い異綴〕
  • bujt, halvtosset.〔現 býtt [býttur の中性]。愚かに、間抜けに〕
  • raaka, topmaalt.〔現 rokað [rokaður の中性], topmålt。まったく、徹底的に〕
  • hic lofnavur
  • hæc lofnad  } kold〔現 lofnaður, lofnað。かじかんだ。ラントのデンマーク語訳 kold はたんに「寒い」だが、Jacobsen og Matras の説明では „stiv af kulde om hænderne (fingerne)“「手や指が寒さでこわばっている」さまを言う〕
  • hic gæmalor
  • hæc gomal   } gammel.〔現 gamalur***, gomul, gamalt。古い、年老いた〕
  • hoc gæmalt
  • hi trytjir
  • trytjar } tre.〔現 tríggir, tríggjar (中性 trý)。(基数詞の) 3〕
  • imist, forskjellig.〔現 ymiskt または ymist [発音は同じ。ymiskur または ymissur の中性形], forskelligt [前掲 hurtigt の注を参照]。さまざまに〕
  • ivarlest, uden Tvivl.〔現 ivaleyst。疑いなく、確かに〕
  • korteldin, alligevel.〔現 kortildini [= kortini, korti]。それにもかかわらず、〜であるけれども〕
* 現代のフェーロー語辞典には見いだされないが、スヴェアボに中性名詞 Fjøltur が立項されており、それに対応していた動詞形ではないか。

** スヴェアボの語釈 (higgja の項) では « circumspicere »「見まわす」、« oculis perlustrare »「目を通す」、« oculos advertere »「目を向ける」、« collustrare oculis »「目で精査する」などとされている。しかし Jacobsen og Matras による現代語では betragte「観察する」より先に se, kigge「ちらっと見る、のぞき見る」、se (kaste et blik) på「一瞥する」が出る。

*** ラントの gæmalor という表記から推して男性単数主格語尾に音節を加えたが、規範的には現在 gamal である。語尾をもつ gamalur という形は現代でも話し言葉においてしばしば見られる (Thráinsson et al. 2012: p. 103, n. 3)。

フェーロー語の見本として、2 人の農夫のあいだの会話を、その翻訳を加えつつ書き写してみよう〔文番号は原文にない。またこれより下はほぼすべてフェーロー語なのであえてイタリックにはしない〕:
  1. Geûan Morgun! Gud signe tee! Qveât eru Ørindi tujni so tujlja aa Modni?
  2. E atli meâr tiil Utireurar.
  3. Qvussu eer Vegri? qvussu eer Atta?
  4. Teâ eer got enn, men E vajt ikkji, qvussu teâ viil teâka se up mouti Dei.
  5. Viil tu ikkji feâra vi?
  6. Naj!
  7. Qvuj taa?
  8. Tuj E vanti mêar ajnkji aa Sjeunun, o tea eer betri a feâra eât Seji.
〔現代フェーロー語の正書法に改めると次のとおり:
  1. Góðan morgun! Gud signi teg! Hvat eru ørindi tíni so tíðliga á morgni?
  2. Eg ætli mær til útiróðrar.
  3. Hvussu er veðrið? Hvussu er ættað?
  4. Tað er gott enn, men eg veit ikki, hvussu tað vil taka seg upp móti degi.
  5. Viltú [= Vilt tú] ikki fara við?
  6. Nei!
  7. Hví tá?
  8. Tí eg vænti mær einki á sjónum, og tað er betri at fara at seyði.〕
デンマーク語では〔ここでは日本語にする〕:
  1. おはよう。神の祝福が君にあるように。こんな朝早くになんの用だ?
  2. 釣りに出ようと思ってな。
  3. 天気はどうだ? 風向きは?
  4. まだ良好だよ、だが明け方にはどうなるかわからん。
  5. 一緒に行かないか?
  6. いいや。
  7. なんで?
  8. なんか釣れるとは思えないし、羊たちの世話をするほうがいいからだよ。
〔文法の解説はないので、ここでは私が独自に付す:
  1. signi は signa「祝福する」の接続法。フェーロー語の接続法はきわめて衰退しており、現在形しかなくまた人称および数の別なく同形で、このように決まった言いまわしにのみ用いる。ørindi「用事、使い」は単複同形の中性名詞。ここでは複数であることが tíni「君の (tín の中性複数主・対格)」と eru「〜である (vera の現在複数)」との一致から知られる。
  2. ætla「〜するつもりである」のあとの再帰代名詞 sær (ここでは mær) はあってもなくてもよい (少なくとも現代語では)。する内容には at 不定詞をとるが、ここでは動詞なしに使われている。útiróðrar は útiróður「漁、船釣り」の単数属格。úti- は út- とも。このように前置詞 til「〜へ」は本来属格を支配したが (アイスランド語では現在もそう)、いまのフェーロー語では属格はかなり廃れて決まり文句か文語にのみ用い、til のあとには対格がふつう。
  3. ættaður はこの言いまわしにしか使わない形容詞で、ættað は中性形。男性形で Hvussu er hann ættaður? とも言える (これは 3 人称単数男性の人称代名詞 hann を天候を表す仮主語にした表現)。名詞 ætt「向き、方角」を使って言う Hvaðan er ættin? も同じ意味。
  4. 天候を表す仮主語 tað。veit は vita「知っている」の直説法現在 1 人称単数、これはいわゆる過去現在動詞で特殊な活用をする。taka seg upp は「上昇・増加・発展する」で、天気について言う場合「発達する、なる、変わる」ということ。ここでは文脈から悪くなることが想定されているが、よくなる場合にも言える。
    「朝早く」に来てまだ「明け方」まで時間があるとは不思議に思われるが、北緯 60 度を越えるフェーロー諸島の日の出の時間は季節によって大きく変わり、試しに本日 12 月 12 日のそれを調べてみたら現地時間で朝 9 時 41 分であった (ちなみに日の入りは 14 時 59 分、たった 5 時間あまりしか日が出ていない!)。電灯のない 18 世紀の農民はいまの私たちよりよほど早寝早起きであっただろうし、これなら彼らの言う「朝早く」から「明け方」まで時間の開きがあってもおかしくはない。
  5. tá は「そのとき、それから」という副詞で、アイスランド語 þá やデンマーク語 da に対応する。この hví tá はこのまとまりとして Jacobsen og Matras で „hvorfor det?“, Timmermann で „warum/wieso das?“ と出ているので、深く考えないほうがよいかもしれない。もしかするといまで言うところの心態詞的用法か?
  6. tí は「〜だから」という理由を表す接続詞として使われており、これはもともと人称代名詞の中性単数与格形である。アイスランド語 því と平行。単独でもこのように使えるが、av tí at (アイスランド語 af því að) という組みあわせでも言う。
    ついでにデンマーク語 thi も同じく代名詞 den の古い格変化形に由来し同じ意味である。これは現代デンマーク語では古めかしく格式張った語だが、この時代にはまだ一般的でたとえばアンデルセンの童話にもふつうに使われている (fordi のほうが口語的であったが)。
    vænta「待つ、期待する」。einki は eingin「なにも」の中性単数対格。sjónum は sjógvur「海」の単数与格既知形 (sjógvinum という形もある)。この前半を直訳すれば「海でなにも〔得られると〕期待できない」ということ。seyði は seyður「羊」の単数与格。この単語はしばしば集合名詞的に用いられ、単数だが実際には多くの羊が意図されている。ラントはこの箇所のデンマーク語訳で脚注に „Svabos Efterretning“「スヴェアボの修正」と記し、本文で正しく „Faarene“ と複数既知形にしている。
この一連の文章を見てもラントの表記法が不注意であることが知られる。たとえば語頭の子音以外はまったく同じ音韻的環境にある代名詞 eg, teg, seg の e が E, tee, se とばらばらにつづられている。また彼は (同時期のほかの著者と同様に) eâ や eû のようにサーカムフレックスを用いて一部の二重母音を記すが、同じ mær「私に」が 2 文めでは meâr、8 文めでは mêar と別様に書かれているし、同じく 8 文めでは Sjeunun, tea とサーカムフレックスなしの二重母音が見えるがこれはほかの箇所の teâ や Geûan と不整合である。〕


ことわざ

Sjoldan kemur Du-Ungje eâf Rafes Æg.〔Sjáldan kemur dúvungi úr ravnseggi.〕カラスの卵からハトの雛が孵ることはめったにない。その心は:悪い親からよい子どもが生まれることはめったにない。〔ラントの eâf を見るかぎりここの前置詞は av のつもりに見えるが、現在通用しているものは前掲括弧内の úr の形。〕

Ommaala døjr ikkje.〔Ámæli doyr ikki.〕中傷は死なない。その心は:他人を中傷する者は、ついには翻って中傷される運命に違いないのである。

Got eer oufotun a beâsa.〔Gott er óføddum at bæsa.〕生まれていない者に勝つことは容易い。その心は:相手が誰もいないところで勝利を得ることは容易い。〔óføddum は複数与格。この節ほかの例文も似たり寄ったりだが、格言のためにかかなり変則的な語順である。〕

Ofta teâka Trodl gaua Manna Bødn.〔Ofta taka Trøll góða manna børn.〕邪霊 (トロル) はしばしば優れた者の子をさらっていく。こう言われるのは、尊重・崇敬さるべき人物の娘が惨めでその身分より下の男と結婚するときである。

〔副詞 ofta が文頭に出て倒置。単複同形の trøll はここでは複数で taka が 3 人称複数形。góða manna は複数属格 (未知形のため強変化) で børn の所有者を示している。現在であれば属格ではなく対格として所有者を後置か (しかしこれも 20 世紀後半のあいだに後退しつつある表現という)、あるいはもっと普及しているのは〈til + 対格〉か〈hjá + 与格〉の前置詞句である。さらに詳しくは Barnes and Weyhe 1994, pp. 207f. を見よ。〕

Tunt eer thæ Blau, ikkje eer tjukkare end Vatn.〔Tunt er tað blóð, [ið] ikki er tjúkkari enn vatn.〕水よりも濃くない血は薄い。

〔「血は水よりも濃い」の意、つまり他人より血縁者のほうが信頼できるという謂い。tunt は tunnur「薄い」の中性単数主格。コンマのあとには関係小辞 ið または sum を補うのが現代のふつうの言いかたで、これは関係節内で主語の役割であるから現代語では省略できない。tjúkkari は tjúkkur「濃い、厚い」の比較級。なお、これまでラントは teâ や tea と書いてきた現 tað をここだけ thæ というかなり異色な (まるで古デンマーク語に見える?) 表記をしている。〕

Betri eer a oja end Braur a bija.〔Betri er [sjálvur] at eiga enn bróður at biðja.〕兄弟に乞うよりも〔自分で〕所有するのがよい。

〔現在一般的な形は sjálvur「自分自身」を含んでおり、これを欠くと意味も通りづらいので脱字でないかと思うが、昔はそれでも通用したのかもしれない。enn「〜より」の前後でパラレルな文になっているように見えるがじつはそうではなくて、sjálvur は男性単数主格で、ここでは動詞 eiga の意味上の主語と同格として働いているに対し、bróður は bróðir「兄弟」の単数対格で、biðja「乞う、頼む」の目的語である。〕

Ojngjin vojt aa Modni a sia, qvær han aa Qvøldi gistir.〔Eingin veit á morgni at siga, hvar hann á kvøldi gistir.〕誰も朝のうちに自分が晩には誰の客となるか言うことはできない。その心は:誰も朝のうちには自分になにが起こるかわからない。

Ojngjin stingur anna Mans Badn so uj Barman, a Føterne hængje ikkje êut.〔Eingin stingur anna[rs] mans barn so í barmin, at føturni[r] hangi ikki út.〕誰もほかの人の子どもをその足が外にぶら下がらないように胸に突っこむことはない。〔stinga「(e-t í e-t …を〜に) 突き刺す」。barman はデンマーク語訳 Barmen に照らして barmur「胸」の単数対格既知形 barmin と解した。føturnir は fótur「足」の複数主格既知形。〕

Sjoldan kemur Flua uj Fojamannas Feâd.〔Sjáldan kemur fluga í feiga manna fat.〕Fojaman とは、運命の定めに従ってその年の終わりまでに死すべき者のことである。そのような者の皿からハエが出ることはめったにない〔と訳される〕。それゆえもしハエが料理に入るようなことが起これば、このことわざによると、人はその年のうちに死ぬはずではないというよい予兆であることになる。

依然として使われている古い人名のうちに以下のものが見られる:男性名。John. Haldan. Harald. Gulak. Gutte. Djone. Anfind. Ejdan. Guttorm. Kolbejn. Hejne. Likjir. Jeser. Øjstan. 女性名。Sunneva. Zigga. Ragnil. Femja. Armgaard.

そのほか注意に値することとして、フェーロー諸島人はいつも彼ら自身の言語を話すにもかかわらず、そのアクセントはノルウェー語におけるものといくぶん近いもので、彼らはしかしまたほとんど完全によくデンマーク語を理解するのであり、この言語でキリスト教が教えられ礼拝が執り行われ、じっさい彼らのうち多くは正確で上等なデンマーク語を話しさえするし、彼らの口から聞くこの言語こそはその他のデンマークの属領 (Provintser) に住む農村民衆のそれと比べてもはるかに明瞭できれいなのである。

dimanche 9 décembre 2018

ラスクによるアイスランド語動詞の活用分類

強変化・弱変化という名づけこそヤーコプ・グリムにちなむものの、アイスランド語の動詞活用の形式にこの二大分類を認めたのはやはりラスムス・ラスクが最初の人であった。彼はあの 1811 年のアイスランド語文法 Vejledning til det islandske eller gamle nordiske Sprog において、なるほど無味乾燥な名ではあるがそれを第 1 活用・第 2 活用 (弱のほうが第 1) と呼んだのであった (s. 111):
Den første af disse Konjugatsioner endes i 3. Person Imperf. paa -di eller -ti, og i Partis. Pass. paa -dr eller -tr, f. Eks. baka bage, bakadi, bakadr; brenna brænde, brenndi, brenndr; den anden gjør Imperf. til Enstavelsesord, som almindelig endes paa den Medlyd, der stod foran a i Infinitivet, og som tillige gjerne forandrer Selvlyden i den første Stavelse; i det passive Partisip endes den paa -inn, f. Eks. taka tage, tók, tekinn; renna rinde, rann, runninn.〔強調原文、ただしボールドとイタリックの区別は引用者による。〕
「これらの活用のうち第 1 のものは、未完了〔=過去〕3 人称が -di または -ti で、受動分詞が -dr [= -ðr] または -tr で終わる。例として baka「(パンなどを) 焼く」〔英 bake〕, bakadi, bakadr;brenna「燃やす」, brenndi, brenndr。第 2〔の活用〕は未完了〔=過去〕を単音節語で作り、それはふつう不定法〔語尾〕の a の前に立つ子音で終わるもので、かつまた概して第 1 音節における母音を変化させるものである。その受動分詞は -inn で終わる。例として taka「とる」〔英 take〕, tók, tekinn;renna「流れる、漏れる」〔英 run〕, rann, runninn。
ところがラスクが間違えたと言ってよいものか、今日の目から見て不可解に思われるのは、彼が第 1 活用 (=弱変化) 動詞の最後のグループ「第 4 類」として次のような特徴をもつ動詞を含めていることである (s. 125):
45. §. Den fjerde Klasse bestaar af nogle faa Ord, der alle følge en og samme Lighedsregel, og med Imperf. høre til den første Forandringsmaade, med Partisippet derimod til den anden.〔強調は原文のゲシュペルト体。〕
「第 4 類は若干の少数の語からなる。それらはすべてひとつの同じ類似の規則に従っており、未完了では第 1 の変化様式に属し、〔過去〕分詞では反対に第 2 のものに属する。」
この次にラスクは「そのうちもっとも重要なものは」(De vigtigste af dem ere) として snúa, núa, gróa, róa の 4 語の 4 基本形を表にして並べている。この例を見てわかるとおり、これは現在の分類で言うところの強変化 VII 類、別名を畳音動詞 (または重複動詞、ドイツ語で [というかほとんどラテン語だが] Reduplikationsverb) というものである (しかし VII 類のすべてではない、後述)。

強と弱の区別は過去時制形をアプラウトによって形成するか歯音接尾辞を付して作るかによるのであり、上に見たとおりラスク自身の定義もそうなっているように見える。またラスクはここで snúa–snýr–sneri–snúinn, róa–rœr–reri–róinn といった正しい変化形を把握している。にもかかわらず「未完了は第 1 変化に属する」と判断したのはなぜだろう。ラスクの定義に従えば過去単数が -di, -ti で終わるものがそれにあたるのであるから、ラスクは sneri, neri, greri, reri の -ri を -di の音韻変化したものと推測したのであろうか。

そこでちょうど第 1 変化の節は終わり、次のページから第 2 変化の分類が始まる (s. 126ff.)。ラスクの分類で第 2 変化第 1 類とされているのがほぼ現在普通の分類で言う強変化 III, IV, V 類を合併したものにあたる。ただし IV 類動詞の例は表のあとに続く説明の最後に出てくる bera しか見あたらないが。

ラスクの第 2 類は現在の VII 類の一部に相当するが、その基準は「〔過去〕分詞が不定法と同じ母音を保持している、ただし á が ng の前で現在形と同様に ei に変わることを除く」(Partisippet beholder i denne Klasse samme Selvlyd som Infin., undtagen at á foran ng forandres til ei, ligesom i Præsens) というもので、もともと VII 類はアプラウトのパターンが多様であることを思えばこれはかなり狭いグループになる。VII 類のうち snúa などが第 1 活用第 4 類とされて除外されることは上で見たとおりだが、さらにまたべつの若干の動詞は彼の言う第 2 活用第 4 類に入っている (後述)。

第 3 類はラスクが「もっとも単純なもののひとつ」(Denne Klasse er en af de allersimpleste) と呼ぶクラスで、現在の I 類と完全に一致しているようだ。彼の説明によれば「ここに属するすべての語は母音 i をもち、それは過去単数においてのみ変化する」(Alle dertil hørende Ord have Selvlyden i, som blot i Enkelt. af Imperf. forandres) と言うが、正しくは stíga–stígr–steig–stigu–stiginn のように í–í–ei–i–i という系列で i には長短の違いがある。

第 4 類は fara, standa, taka, draga, slá, vaxa などおおむね VI 類に見えるが、koma (IV 類) や búa, høggva など (VII 類) も含まれ混沌としている。そのことについてラスク自身「この類はこの変化様式〔=強変化〕のうちでもっとも多種多様で困難な語を含んでいる」(Denne Klasse indbefatter de forskjelligste og vanskeligste Ord af denne Forandringsmaade) と言うとおりである。

そして第 5 類はアプラウトの系列につき不定法では「アクセントつき母音または二重母音」(en aksentueret Selvlyd eller Tvelyd)、現在 ý、過去単数 au、過去複数 u、分詞 o と明快に説明しているように、ほぼ現在の II 類に一致しているも、ウムラウトを見抜けなかったためか søckva [= søkkva] (III 類) が混入している。

その後、ラスクは §54 (s. 133f.) において不規則性について言及し、sveria [= sverja], hiálpa [= hjálpa] など若干の動詞が強弱いずれもの活用形を呈することを説明している。

vendredi 24 août 2018

フェーロー諸島人のサガ (3 章)

昨日公開した 1–2 章の続き。底本は C. C. Rafn (1832), s. 7–13. なおコメントで私が「原語」というとき、翻訳元であるデンマーク語と、そのさらなる原文である古アイスランド語のいずれを指す場合もあるが、つづりから明らかなので混乱はないだろう。


3. そのすぐあとにシグルズルは天幕にいる彼の弟のところに〔戻って〕きて、言った:「銀をもってこい、いまや売買はまとまった」。「一瞬まえに* 俺は兄さんに渡したじゃないか」と彼は答えた。「いいや」とシグルズルは言った、「俺はそれを受けとっていない」。

* なんだか誇張めいているがれっきとした直訳 (D. for et Öieblik siden = E. lit. an eye-blink ago)。より自然に訳すなら「(ほんの) ついさっき」とでもするか。

そこで彼らはこの件をめぐって喧嘩になり、そののちにそのことを王に言った。するとほかの者たちはもちろん彼も悟った、〔銀入りの〕袋は盗み去られたのだと。そこで王は、この件が解明されるまえにはいかなる船も出航してはならないように、出発に対する禁止を行った。そのことを多く〔の人々〕が大きな不便であると考えた、それは長引くと市が終わったあとになってもそうであったので。

ノルド人たちはそこで審議のために彼らのあいだで集会をもった。そこにスラーンドゥルが出席しており、こう話した:「ここにいる人々はたいそう解決に困っているようだ」と彼は言った。「ではおまえはなにか解決策を知っているのか」と彼らは彼に尋ねた。「俺はたしかに知っている」と彼は答えた。「ではおまえの解決策を持って前に出てくれ」と彼らは続けた。「俺は無駄にそれをしたくない」と彼は答えた。

彼らは尋ねた、なにを彼は要求しているのかと。彼は答えた:「あなたがたのうちおのおのが俺に 1 オーレ* の銀をくれるべきだ」。彼らはそれは多いと言った。だがしかしながら妥協が成り、おのおのが彼に即座に半オーレを手渡し、さらにもし彼の提案が望ましい成果を生んだならばもう半オーレを約束した。

* デンマーク語 Øre (クローネの 100 分の 1 の補助通貨) をそのまま訳したが、古アイスランド語原文では eyrir で銀 1 オンスのことという (E. V. Gordon, A. R. Taylor (rev.), An Introduction to Old Norse)。それは貴金属の計量に用いられる金衡オンス (トロイオンス) のことだとすれば約 31.1 グラム。一方 Faulkes の英訳の脚注によれば eyrir は 10 世紀には約 25 グラム半であった。

その翌日、王は会議を催し、そのさい彼の決定を表明した。それはこの窃盗についての確かな情報がもたらされないうちは、何人も決してそこから離れ去ることはまかりならないということであった。

そのとき若い男が歩み出た。頭の毛はだらりと長く伸びて赤毛で、顔にはそばかすがありたいそう荒々しかった;彼は話しはじめ、こう話した:「ここにいる人々はたいそう解決に困っているようだ」と彼は言った。王の相談役は尋ねた、それではどんな解決策を彼は見いだしたのかと。

「これが俺の解決策だ」と彼は答えた、「ここに来ているめいめいが、王が要求するだけ多くの銀を前に置く。そしてその金がひとつところに集められたとき、人が被った〔ぶんの〕損害が補償されるが、王は残りのものを名誉の贈り物* として保有する。俺は知っている、彼〔=王〕はご自分の取り分をうまく用いられるであろうと。そうすると民衆はあたかも固く築かれた** かのようにここにいつづけ、ここに集まってきているこれほど多数の人々の大きな損害になる必要はない〔」〕。

* 原語 Hædersskjenk (現代語では -skænk になる)、Mohnike の独訳では Ehrengeschenk。次の段落の同じ語句は原語 Æresskjenk だが、これは Ehrengeschenk によりよく対応し同義であろう。

** デンマーク語 fastmurede、しかし G. festgebannt「(呪文や魔法で) 呪縛された」、OIcel. veðrfastir「(悪) 天候に妨げられた」(Powell の英訳で ‘weather-bound’)。

〔このセリフはどうも全体的に意味不明だし、後述する莫大な報酬に値するほどのたいした解決案にも思われないのでまったくの誤訳かも。機会があれば再検討したい。〕

この提案はただちに全体の賛成を勝ちとった。そして船長たちは言った、ここでぐずぐずして大きな損害になるよりは、喜んで金を出し王に名誉の贈り物とすると。そこで決定がなされ、金が集められ、それは相当な額になった。

すぐあとに彼らは船の大部分を海に出して去った。それから王はふたたび会議を催し、相当の多額の金が観察された。同じ〔金〕によっていまや最初の兄弟の損害は償われた;その次に王は彼の〔伴の〕男たちと話した、この大きな富によってなにがなされるべきであるかと。

そこで 1 人の男が話しはじめて、言った:「陛下* はこの解決策を与えた者になにが値すると思われますか」。それで彼らは気づいた、いま王のまえに立っている同じ若者が、その解決策を与えた者であったと。

* 原文はただ「あなたに eder」、しかし OIcel. は「わが主人よ」„herra minn!“ との呼びかけで始めており、私訳はこれに近い。

そこでハラルドゥル王は言った〔:*〕「このすべての財が 2 つの等しい部分に分けられ〔=2 等分され〕、一方の半分はわが〔伴の〕男たちがとり、もう半分はその後いまいちど 2 つの部分に分けられ、この若者がこれらの半分のうち一方の部分をとり、しかしてもう一方の部分は私が求めたい〔」〕。

* 底本デンマーク語の箇所ではセミコロンだがこれは誤植で、古アイスランド語・フェーロー語の対応箇所ではコロン。

スラーンドゥルはこのために美しく丁重な言葉を用いて王に感謝した、そしてスラーンドゥルに割りあてられた富は並外れて大きかったので、はっきりした数字を算出するのが困難なほどであった。

ハラルドゥル王は出航し、そしてそこにいた多くの民衆もみな同じように〔出航〕した。スラーンドゥルは彼が伴ってきていたノルウェー人の商人たちとともにノルウェーへ向かった。彼らは彼に留保していたところの金を支払った。

彼はそこで大きくてよい貨物船を買い、彼がこの旅で得たところの相当額の財をそれに積んだ。この船によっていまや彼はフェーロー諸島へと舵をとった、そして彼の全財産をもって無事にたどりついたのである;春には住居をガータに用意し、そしてなお富に不足はしていなかった*。

* 最近の Faulkes の英訳ではこの文までで第 3 章が終わる。また最新のフェーロー語訳 (Bjarni Niclasen, 1995) も同様。おそらくより最近の編集になる刊本の古アイスランド語テクストがそうなっているのだろう。次の文はたしかに部分的にはすでに書かれたことの繰りかえしに見えるし、あとはひどい悪口雑言である。

スラーンドゥルは体の大きな男で、髪は赤く、赤いひげで、顔にはそばかすがあり荒々しく、心は陰気で、悪賢くすべての陰謀の第一人者であり、ひねくれていて人々に対し邪悪、自分より立場が上の者に対しては甘い言葉を話したが、いつも心のなかでは不実であった。

jeudi 23 août 2018

フェーロー諸島人のサガ (1–2 章)

Carl Christian Rafn による 1832 年の版 Færeyínga saga eller Færöboernes historie i den islandske grundtekst med færöisk og dansk oversættelse をもとにした『フェーロー諸島人のサガ (フェロー人のサガ)』の試訳 (今回の 1–2 章は同書 s. 1–7)。この底本は表題のとおりフェーロー語訳・デンマーク語訳との対訳になっている。また翌 1833 年にはこれにさらに G. C. F. Mohnike のドイツ語訳を付した版が刊行されている。

アイスランドのサガは先達の努力によってかなりの程度まで日本語訳されているが、このサガはアイスランドが舞台でなく周辺的であるせいか、私の知るかぎり邦訳はまだないはずである (とりわけ日本アイスランド学会のサイト「中世北欧文学日本語翻訳リスト」を参照)。

ここに行う私の翻訳は Rafn のデンマーク語からの重訳である。ただし固有名詞は古アイスランド語の表記・発音に則っている (主格語尾の -r はわずらわしく略すこともふつうに行われているが、ここでは一貫してつけたままにした)。固有名詞は初出のさいに古アイスランド語の原語表記を付したが、それが原文で斜格の場合は私が主格に直しているので不測の誤りなしとしない。

そのほかデンマーク語の文意がよくわからないときもアイスランド語その他を参照することがあるが、これは逐一断っている。亀甲括弧〔……〕は訳者による敷衍ないし補足説明。また、段落については原文よりもかなり細かく短めに分けている。


1. グリームル・カンバン (Grímr Kamban) という名の男がいた。彼はフェーロー諸島に定住した最初の者で、それはハラルドゥル美髪王 (Haraldr hinn hárfagri)〔=ハーラル 1 世、在位 c. 871–c. 932〕の時代のことだった。そのころ王の支配の強さのゆえに逃亡する者が多く、そのうちのいくばくかがフェーロー諸島に落ちついて居を構えたが、またいくばくかはほかの未開の地を求めた。

大金持ちのアウズル (Auðr hin djúpauðga) はアイスランドへ赴き、その途上でフェーロー諸島まで来たところ、そこで彼女は赤毛のソルステイン (Þorsteinn rauði) の娘オーロヴ (Ólof) を結婚させた。その女からフェーロー諸島人のもっとも家格の高い家柄は源を発するのであり、〔その一族は〕ゴートゥスケッグ (Götuskegg=ガータ Gata の髭男) と呼ばれており、東島 (Austrey)* に住んでいた。

* 「東島 Austrey」は Rafn のデンマーク語訳では Østerø、併記されたフェーロー語訳 (Johan Henrik Schrøter による) では Estroj となっており、この後者は現代の正書法に直せば Eysturoy である。これはそのまま現在 Eysturoy = Østerø と呼ばれている、フェーロー諸島で 2 番めに大きい島のことであって、言及されている Gøta (あるいは Norðragøta) の村はいまもこの島に現存する。

2. ソルビョルン (Þorbjörn) という名の男がいて、ゴートゥスケッグと呼ばれていた;彼はフェーロー諸島の東島に住んでいた。彼の妻はグズルーン (Guðrún) という名であった。

彼らには 2 人の息子がいて、そのうち兄のほうがソルラークル (Þorlákr)、弟のほうがスラーンドゥル (Þrándr) という名だった;彼らは将来を嘱望された男たちだった。ソルラークルは体が大きく強かったし、スラーンドゥルも成長すると同じ性質をもった;しかしほかの点では大きな違いがこれらの兄弟にはあった。スラーンドゥルは髪が赤く、顔にはそばかすがあり、外見が荒々しかった。ソルビョルンは富裕であり、このことが起こったときすでに年がいっていた。

ソルラークルは〔フェーロー〕諸島で結婚して、それでもなおガータ (Gata)〔その斜格が前出のゴートゥ Götu〕にある彼の父の家にとどまっていた;しかしソルラークルが結婚したすぐあとにソルビョルン・ゴートゥスケッグは死に、彼は古い慣習に従って運びだされ* 埋葬された、というのはそのころまだフェーロー諸島人はみな異教〔を信仰して〕いたからである。

* D. udbaaren (= udbåren) の調べがつかず、OIcel. útborinn の直訳とみられるがこれも不明で、bære ud, bera út に戻しても特別に語義が載っていないので、やむをえず「外に-運ぶ=運びだす」と直訳した。しかし Mohnike の独訳は「埋葬され盛り土 (または丘) の下に横たえられた wurde bestattet und in einen Hügel gelegt」で、F. Y. Powell による古い英訳 (1896 年) も同様 (was laid in the barrow and buried)。最近の英訳 (Faulkes, 2016) は「葬儀が執り行われた his funeral was carried」と訳している。

彼の息子たちは自分たちのあいだで遺産を分けあった;双方ともガータの荘園を得たがった、というのはそれが最大の財産だったからである;そこで彼らはそれをめぐってくじを引いた、するとそれはスラーンドゥルに帰した。遺産分割のあとでソルラークルはスラーンドゥルに頼んだ、動産のより多くの部分をスラーンドゥルに得させるかわりに荘園は彼がもらえないかと;しかしこれをスラーンドゥルは望まなかった。そこでソルラークルは去り、諸島内にべつの住居を構えた。

スラーンドゥルはガータの土地をさまざまの男たちに貸しだし、そうしてそこから彼の得られる〔かぎりの〕多額の賃料を得た。その次に彼は夏に航海に出たが、少数の貿易品だけを持っていた。彼はノルウェーへ行き、そこで冬のあいだ屋敷に滞在したが、たえず暗い心持ちのようであった。この時代には灰外套のハラルドゥル (Haraldr gráfeldr)〔=ハーラル 2 世灰衣王、在位 c. 959–970〕がノルウェーを統治していた。

その次の夏、スラーンドゥルは海運業の者たちとともにデンマークへと下り、その夏のあいだハル浜 (OIcel. Haleyrr, D. Haløre) に来ていた。当時そこには多数の人々が集まっており、この場所には市の時期に、ここノルドの地で出会う最大の人々が集合したと伝えられている。

デンマークをこのころ統治していたのは青歯 (D. Blaatand, OIcel. blátönn) の通称をもつハラルドゥル・ゴルムソン王 (Haraldr konúngr Gormsson)〔=ハーラル青歯王、在位 958–987〕であった。ハラルドゥル王は夏のあいだハル浜にいて、多くの従者に伴われていた。王の廷臣のうち 2 人、シグルズル (Sigurðr) とハーレクル (Hárekr) 兄弟の名をあげられる。この者たちは途切れなく市をめぐった、得られる〔かぎり〕最良にして最大の金の指輪を買うことが目的であった。

彼らはとうとう、たいそうよい作りの店へとたどりついた。そこには 1 人の男がいて、彼らをよく応対し、彼らがなにを買いたいのか尋ねた。彼らは答えた、大きくて良質な金の指輪がほしいと。すると彼は言った、そのなかから選ぶべきいいものがいくつかあると。そこで彼らが彼に名前を尋ねると、彼は金持ちのホールムゲイル (Hólmgeir auðgi) と名乗った。

さて彼は彼の宝石類をとりだし、彼らに重厚な金の指輪を見せた。それは大変な値打ちものであった;しかし彼はそれにとても高い値段をつけており、彼が請求するとても多額の銀を即座に準備してのけることは、どんな方策でも達せられないと思われるほどであった。それゆえそこで〔彼らは〕彼に翌日まで未払いのままそれを取り置いてくれることを頼み、彼もまたそのことを約束した。

そうして要件が果たされると彼らはそこを離れ、その〔日の〕夜が過ぎた。〔次の〕朝にシグルズルは天幕を出たが、ハーレクルは居残った。すぐあとにシグルズルは天幕の布張りの外まで来て、こう話した:「わが弟* ハーレクルよ」、〔続けて〕言った、「急いで俺に渡してくれ、指輪を買うためにと決めていた銀の〔入った〕袋を。いまや売買はまとまったからだ。だがおまえはそのあいだここで待ち、幕屋を見張っていろ」。そこで彼〔=ハーレクル〕は彼〔=シグルズル〕に天幕の布を通して銀を手渡した。

* 原文は「親族、親戚」(D. Frænde, OIcel. frændi)、しかし日本語での呼びかけには適さないので、Mohnike の独訳 („Bruder Harek“) を参考に「弟」とした。

lundi 13 août 2018

アンデルセン「人魚姫」冒頭の翻訳比較

あまたあるアンデルセン童話のなかでも「人魚姫」はもっとも人気のある作品のひとつであり、日本語にも多数の翻訳がある。本稿ではアンデルセンのデンマーク語原文冒頭の数段落を読み、それに逐語的な直訳を付すことで、既存の代表的な邦訳 7 種と比較してお目にかける。

そのさい邦訳が直訳した場合と明らかに食い違っている箇所 (たいていは原文にない敷衍) を赤字で指し示す。ただし日本語が代名詞の過剰使用を避けて名前を繰りかえしたり省いたりすることなど、日本文としてやむをえないと思われる点はいちいち指摘していない (が、その基準を厳格に定式化することは難しく、読者には不統一に感じられる箇所があるかもしれない)。

もとより翻訳の良し悪しを評価する尺度というのは、語学的な厳密な正確さばかりではなく、日本語として読んで自然で美しい文かどうか、あるいはこういうジャンルだとさらに子どもにとって言いまわしが難しすぎないかとか、読み聞かせるため朗読したときの調子とかも基準に加わってくる、きわめて複合的な問題であるから、原文との違い (赤字) が多いからといって短絡的にそれだけ悪いというものでもないことは念のため述べておく。さらに翻訳の底本の違いによって訳文に異同が生じている可能性もあるが、これは確かめていない。

本稿では原文テクストはデンマーク語版 Wikisource によった。ただしいくぶん長い段落については、見比べやすくするためそれぞれ半分に分割した (邦訳でも山室訳・高橋訳・大塚訳・天沼訳はだいたい同じような段落分けをしている)。また「人魚姫」は 1837 年に書かれた古いデンマーク語であるから、随所で現代の正書法と異なっているが、これはあえて改めていない。この点につき知りたい向きは、過去の記事「アリスの最初のデンマーク語訳 (1)」にて概略を述べてあるのでそちらをご覧いただきたい。

ここに私が付す直訳では、日本語としての自然さは犠牲にして一語一句過不足なく移すようにし、句読点の切りかたもなるべく原文と順番が前後しないことに意を用いた。原文を直接読めない人にも違いが見わけられるためにである。原文に対応しない敷衍を行う場合は亀甲括弧〔……〕に入れて示す。一方、引用される各種邦訳に見られる赤字の亀甲括弧と打消線は、実際の訳文には欠けているが原文にあるはずだった語句、すなわちなにが訳し落とされているかを示している (もちろんこれも多いほどただちに悪いというものではない、すべて訳出すると日本語では冗長になる場合も多いので)。

比較対象の邦訳の所収著作一覧は以下のとおり (刊行年順):
訳文の表記は句読点や漢字/かなの変換に至るまで一字一句すべて引用元のとおりとするが、振りがなと傍点は再現せず省略した。上で注意した亀甲括弧以外の括弧は訳書にあるとおりである。


第 1 段落


Langt ude i Havet er Vandet saa blaat, som Bladene paa den deiligste Kornblomst og saa klart, som det reneste Glas, men det er meget dybt, dybere end noget Ankertoug naaer, mange Kirketaarne maatte stilles ovenpaa hinanden, for at række fra Bunden op over Vandet. Dernede boe Havfolkene.

直訳 海のずっと外では水はあまりに青いこと、もっとも美しいヤグルマギク* の花びらのごとく、またあまりに澄んでいることもっとも透明なるガラスのごとくであるが、そこはとても深く、どんな錨綱が達するよりさらに深く、多くの教会塔がたがいの上に積まれねばならない、〔水〕底から水〔面〕の上まで届くためには。その下には海の人々が住んでいる。

* 以下の邦訳ではヤグルマギク・ヤグルマソウが 4 対 3 でほぼ拮抗しているが、デンマーク語版 Wikipedia に „Kornblomst“ として立項されている学名 Centaurea cyanus の植物は日本語版で「ヤグルマギク」、その項目によるとかつて「ヤグルマソウ」とも呼ばれたがべつの植物と混同のおそれがあるのでヤグルマギクのほうが望ましいということである。

大畑訳 海をはるか沖へ出ますと、水は一番美しいヤグルマソウの花びらのように青く、このうえなくすんだガラスのようにすんでいます。ところが、その深いことといったら、どんなに長い、いかりづなでもとどかないくらい深くて、教会の塔をいくつも、いくつも積み重ねて、ようやく〔底から水の上までとどくほどです。このような深い海の底に、人魚たちは住んでいるのです。

山室訳 海をはるか沖へでますと、水はいちばん美しいヤグルマソウの花びらのように青く、またこのうえなくすんだガラスのようにすんでいます。けれども、そのふかいことといったら、どんなに長いいかりづなでもとどかないほどふかくて、その底から水のおもてまでとどかせるには、教会の塔をいくつもいくつもつみかさねなくてはならないことでしょう。人魚たちがすんでいるのは、そういう海の底なのです。

高橋訳 海のずっと沖では、水の色は、いちばん美しいやぐるまぎくの花びらのように青く、きれいにすきとおったガラスのようにすみきっています。そして、たいそう深く、どんな長いいかりづな(いかりと船を結ぶつな)でも、とどかないほど深いのです。海の底から水の上までとどくためには、教会の塔をたくさんつみ重ねなければならないでしょう。そういう深い底に人魚は住んでいます。

大塚訳 海の沖のほうへ、はるか遠くまでいくと、そこの水は、いちばん美しいヤグルマギクの花びらのように青くて、いちばんすきとおったガラスのように、澄みきっています。それでも、そこはとても深いのです。どんなに長いいかり綱をおろしても、底までつかないくらいに深いのです。その海の底から水のおもてまでとどかせるためには、教会の塔をとてもたくさん、上へ上へと積みかさねなければならないでしょう。そういう深い海の底に、海の民である人魚たちは住んでいるのです。

長島訳 ずっと沖の海は、もっともすばらしいヤグルマソウの花びらのように青くて、もっともきれいなグラスのように澄んでいますが、そこはとっても深いのです。どんな錨の綱がとどかないほどで、底から海面まで、教会の塔をいくつも重ねないととどかないような深さです。そんな海の底に人魚たちが住んでいまし

金原訳 海のはるか沖では、水はもっとも美しい矢車菊の花びらのように青く美しくもっとも透明な〕水晶のように澄んでいる。そしてどんな錨のロープをおろして計りきれないほど深い。教会の塔をいくつ積み重ねても水面に届かない* ほどの海の底に、海の王さまと臣下たちが住んでい

* 原文ではたくさん積み重ねれば届くことになっているので、いくつ重ねても届かないというのはこの訳独自の誇張。それはもちろんレトリックの範疇ではあるが、少なくともほかの訳はどれもそこまで言っていない。

天沼訳 はるか海の沖では、水はもっとも美しいヤグルマギクの花さながらに青く、また、もっともすきとおったガラスのように澄んでいる。そのあたりはとても深くて、どれほど長い錨綱だって、底まで届かぬほどなのだ。海の底から水のおもてまで届かせるには、教会の高い塔をいくつも積みかさねなくてはならないだろう。そんな深い海の底に人魚たちは暮らしてい


第 2 段落前半


Nu maa man slet ikke troe, at der kun er den nøgne hvide Sandbund; nei, der voxe de forunderligste Træer og Planter, som ere saa smidige i Stilk og Blade, at de ved den mindste Bevægelse af Vandet røre sig, ligesom om de vare levende. Alle Fiskene, smaae og store, smutte imellem Grenene, ligesom heroppe Fuglene i Luften.

直訳 さて〔次のように〕考えてはぜんぜんいけない、そこにはただむきだしの白い砂地があるだけであると;いいえ、そこではもっとも不思議なる木々や植物が育っており、それらは茎や葉がとてもしなやかなこと、水のもっとも小さな動きでも揺れるほどであり、あたかもそれらは生きている* かのようだ。すべての魚たちは、小さいのも大きいのも、枝々のあいだをすいすいと動く、この〔地〕上で空の鳥たち〔が飛ぶ〕ように。

* この var は反事実的仮定を表す過去時制であり、時間的に過去のことを表すのではないから、逐語訳にもかかわらず非過去 (現在) で訳した。

大畑訳 さて、海の底は、なにも生えていないで、ただ白い砂地だけだろう、などと思ってはいけませんよ。いいえ、そこには、それは珍しい木や草が生えているのです。その茎や葉のなよなよしていることは、水がほんのすこし動いても、まるで生きもののように、ゆらゆら動くのです。そして、小さいのや大きいのや、ありとあらゆる魚がその枝のあいだをすいすいとすべって行きます。それはちょうど、この地上で、鳥が空を飛びまわっているのと同じです。

山室訳 ところでみなさん、海の底はただ白い砂地になっているだけだろう、なぞと思ってはいけません! いいえ、そこには、世にもめずらしい木や草がはえていて、その茎や葉のしなやかなことは、水がほんのちょっとでもゆれると、まるで生きもののようにうごくのです。小さいのや大きいのや、ありとあらゆるお魚が、その枝のあいだをすいすいとすべっていくところは、まるきりこの地上で、鳥が空をとびまわっているのと同じことです。

高橋訳 さて、海の底はがらんとしていて、白い砂地があるばかりだと思ってはなりません。いいえ、そこには、ほんとにふしぎな木や草が生えています。その茎や葉はなよなよしているので、水がちょっと動いても、まるで生き物のようにゆらゆらと動くのです。大小の魚はみんなそのえだの間を地上でをとぶ鳥のようにすいすいと泳ぎ回ります。

大塚訳 さて、そういう海の底には、はだかの白い砂地があるだけだろう、などと思ってはいけません。いいえ、そこには、とてもめずらしい木々や草が生えているのです。そして、それらの茎や葉は、ほんとにしなやかなので、ほんのすこし水が動いても、それにつれて、まるで生きもののように、ゆらゆら動きます。そして、魚たちは、小さいのも大きいのもみんな、それらの枝のあいだをすいすいと泳ぎまわりますが、そのようすは、この地上で鳥が空を飛びまわるのとそっくりです。

長島訳 さて海の底が何もないただの白い砂浜だと思ったりしたら大まちがいです。いいえ、そこには世にもふしぎな木々や草花が生えています。茎も葉もしなやかで、ちょっとした水の動きにもゆらゆら揺れて、まるで生き物のよう。大きな魚も小さな魚もみんなその枝の間を通り抜けていきます。地上で鳥たちが大気の中を飛びまわるようにです。

金原訳 さて海の底の白い砂にはなにもないと思ってはまったくいけない。いや、そこには地上ではとてもみられないような草花が生えている。葉や茎はやわらかで、少しでも水が揺れると、まるで生き物のように体をくねらせ、大きな魚やちいさな魚がすべて、その枝のあいだをすばやく泳いでいくところは、まるで地上で空の鳥が木々のあいだを飛んでいるようだった。

天沼訳 さて、海の底といえば、ガランとしてなんにもなくて、白ちゃけた砂があるだけだと想像しているとしたら、それはずいぶんちがっている。まったくちがうのだ。海の底には、ほんとうに不思議このうえない植物が生えている。その茎や葉はしなやかそのもので、水がすこしばかり動くだけで、生き物のようにユラリユラリと動くのだ。大小の魚たちは、みんなその枝をくぐるようにして、地上でを飛ぶ鳥よろしく、かろやかに泳ぎ回っている。


第 2 段落後半


Paa det allerdybeste Sted ligger Havkongens Slot, Murene ere af Coraller og de lange spidse Vinduer af det allerklareste Rav, men Taget er Muslingskaller, der aabne og lukke sig, eftersom Vandet gaaer; det seer deiligt ud; thi i hver ligge straalende Perler, een eneste vilde være stor Stads i en Dronnings Krone.

直訳 そのもっともいちばん* 深いところには海王の宮殿があり、その壁は珊瑚で、長く先のとがった窓はもっともいちばん* 澄んだ琥珀で〔できて〕いるが、屋根は二枚貝であり**、それらは開いたり閉じたりしている、水の行くのに従って;それは美しく見える;というのもどの〔貝〕のなかにも輝く真珠があり、たったひとつでも女王の王冠のなかで大きな飾りになるであろうから。

* 最上級に接頭辞 aller- がついてさらに強めている。このような訳しかたが適切かどうかは別として、ただの最上級と違うことを訳文だけからも判明にするために便宜上こう書いておく。

** 先行する「壁は珊瑚、窓は琥珀」には、英語の of にあたる素材を表す前置詞 af があるので「〜でできている」と訳せるが、この「屋根は二枚貝」はそうではなく直接 be 動詞で結ばれている。しかし以下に見る邦訳では長島訳「屋根は貝殻でした」以外すべて、ここも素材のように「葺いて」「できて」と訳されている。

大畑訳 この海の底の、そのまた一番深いところに、人魚の王様のお城が建っています。お城の壁はさんごで築いてあり、上のとがった高い窓は、このうえもなくすきとおったこはくでできています。屋根は、貝殻でふいてありましたが、それが水の動くにつれて、開いたり閉じたりする様子は、まったくみごとなものでした。なぜなら、その貝殻の一つ一つには、きらきら光る真珠がはいっているのですから。それ一つだけでも、女王様の冠の、りっぱな飾りになるくらいでした。

山室訳 そして、その海の底の、そのまたいちばんふかいところに、人魚の王さまのお城はあるのでした。お城のかべはサンゴでできていて、上のとがった長い窓には、このうえもなくすきとおったコハクがはめこんであります。屋根は貝がらでふいてありましたが、それが水のながれるにつれて、ひらいたりとじたりするようすは、まったくみごとなものでした。なぜといって、その貝がらの一つ一つには、それ一つだけでも女王さまのかんむりのりっぱなかざりになるくらいの、きらきら光る真珠がはいっているのですもの。

高橋訳 この海のいちばん深い所に、人魚の王様のお城があります。かべは、さんごでできており、先のとがった高いまどは、もっともすきとおったこはくでできていますが、屋根は水の流れにつれて、開いたりとじたりする貝がらばかりできています。どの貝がらの中にも、かがやく真珠が入っているので、何とも言えずきれいに見えます。そのひとつだけでも、女王様の冠の大きなかざりになったでしょう。

大塚訳 その海の底でも、いちばん深いところに、海の王である、人魚の王さまのお城があります。お城の壁はサンゴでできているし、上のとがった高い窓々は、このうえなくすきとおった琥珀でつくってあります。でも、屋根になっているのはたくさんの貝がらで、それらは水が流れるのにつれて、開いたり、閉じたりします。そのようすは、ほんとにきれいです。というのも、その貝がらのどの一つにも、きらきら光る真珠がはいっているからです。それに、その真珠は、そのうちのたった一つだけでも、女王さまの冠の、すばらしい飾りになろうというものなのです。

長島訳 海の底のいちばん深いところに人魚王のお城がありまし。壁は珊瑚、高くて先のとがった窓はこのうえなく澄んだ琥珀でできていましたが、屋根は貝殻でした。それが水の動きにあわせてあいたり閉じたりしていたのです。すばらしい屋根でしたが、それもそのはず、貝殻のひとつひとつに真珠が入っていました。その真珠ひとつだけでも、女王さまの冠のすばらしいかざりになったことでしょう。

金原訳 のいちばん深いところに、海/人魚の王さまの城がたってい。壁は珊瑚で、細長いゴシック風の窓はもっとも透きとおった琥珀、屋根は貝殻で葺いてあり、上を潮が流れるたび、それが開いたり閉じたりするところをみたら誰でも目をみはるだろう。というのは、貝殻すべてにきらめく真珠がはめこんで* あって、その真珠は、ひとつあれば、女王のかんむりを飾るのに十分なほど美しかった。

* 直訳のところで付した注とやや関連するが、ここはおそらく生きた貝たちがそのまま屋根をなしているのであって、だからこそみずから殻を開いたり閉じたりしているのだろう。それを「真珠がはめこんである」と言うと死んで加工された貝殻のようである。

天沼訳 のもっとも深いところに、人魚の王様の宮殿がある。宮殿の壁は珊瑚で、先のとがった高窓には、もっともすきとおった琥珀がはめこまれていた。その屋根はというと、水の流れのままに開いてはまた閉じる貝殻で葺かれていた。貝殻のなかには輝く真珠がはいっていたから、その美しさといったらたとえようもなかった。その一粒だけでも、女王様の冠の大きな装飾にじゅうぶんなくらいだった。


第 3 段落前半


Havkongen dernede havde i mange Aar været Enkemand, men hans gamle Moder holdt Huus for ham, hun var en klog Kone, men stolt af sin Adel, derfor gik hun med tolv Østers paa Halen, de andre Fornemme maatte kun bære seks. — Ellers fortjente hun megen Roes, især fordi hun holdt saa meget af de smaa Havprindsesser, hendes Sønnedøttre.

直訳 その〔海の〕下の海王は多年のあいだ男やもめであったが、彼の老いた母が彼のために家を世話していた、彼女は賢い女性だったが、自分の高貴さを誇っており、それゆえに 12 個の牡蠣を尻尾につけて歩いたものだった、そのほかの高貴な〔者たち〕は 6 個だけを持たねばならなかった〔のに〕。――ほかの点では彼女は多くの称賛に値した、とりわけ彼女は小さな海姫たち、〔つまり〕彼女の孫娘たちをたいそう多く愛したから。

大畑訳 このお城に住まっている人魚の王様は、もう何年も前から、やもめ暮らしをしておいででした。それで、お年寄りのお母様が、いっさい、おうちの世話をしていました。お母様は賢いかたでしたが、家柄のよいのが、ご自慢で、尻尾にはいつも、かきを十二もつけていました。ほかの者は、どんなに身分が高くても、たった六つしかつけられないのです。――けれども、そのほかのことでは、ほんとうに、ほめてあげてよいかたでした。とりわけ、お孫さんの小さい海/人魚姫たちを、だいじにすることは、たいしたものでした。

山室訳 このお城にすまっている人魚の王さまは、もう何年もまえから、やもめぐらしをしておいででした。それで、おうちのことはばんじ、年とったおかあさまが、とりしきっていらっしゃいます。おかあさまはかしこいおかたでしたが、家がらのよいのがごじまんで、しっぽにはカキを十二もつけていらっしゃるのでした。ほかのものは、どんなに身分が高くても、たった六つしかつけることはゆるされませんでしたのに。――けれども、そのほかの点では、ほんとに、ほめてあげてよいかたでした。とりわけ、おまごさんの小さい海/人魚の姫ぎみたちを、それはかわいがってくださったのですから。

高橋訳 海の底の人魚の王様は、何年も前におきさき様をなくされて、おひとりでした。年を取ったお母様が、うちの中のめんどうを見ておりました。お母様は、かしこい方でしたが、身分の高いことを鼻にかけ、しっぽにかきを十二もつけていました。ほかの貴族たちは、六つしかつけることをゆるされませんでした。――そのほかのことでは、このお母様は本当にほめられてよい方でした。とりわけ、孫むすめに当たる小さい人魚ひめたちを、たいそうかわいがっていたからです。

大塚訳 この海の底のお城にいる人魚の王さまは、もう何年もまえにお妃をなくして、ひとり身でした。けれど、王さまの年とったお母さまが、うちの中の世話を、ちゃんとしてくれていました。このお母さまは、かしこいかたでしたが、身分が高いというのがご自慢で、だから、自分の尻尾には、カキを十二もつけていました。ほかのものなら、位が高くても、せいぜい六つしかつけてはいけなかったのです。……けれど、そのほかのことでは、このお母さまは、たいそうほめてもらってもいいかたでした。というのも、とりわけ、このかたが、孫娘にあたる、小さい人魚姫たちを、とてもよくかわいがっていたからです。

長島訳 海の下の人魚王は、妻亡きあと、もう何年も独身でしたので、年老いた母親がかわりに家の世話をやいてくれていました。かしこいおばあさんでしたが、自分の身分の高いことが何よりも自慢で、尻尾に十二のカキをつけていました。ほかの高貴な人たちは六つしかつけてはいけないのでした。――それはともかく、孫にあたる小さな人魚姫たちをとってもかわいがっていましたので、ほめられて当然の人でした。

金原訳 海の下の王さまがお妃をなくしてから何年もたち、王さまの年老いたお母さんが家の〕色んなことを取り仕切っていた。そのかたはとても賢く、しかし〕王さまの母親だということがとても自慢で尻尾には牡蠣を十二個つけていた。どんなに位の高い人魚でも六個しかつけてはならない決まりがあったのに、それを破っていた*。しかしそれさえ目をつぶれば、誰からも尊敬される立派なかただったし、それというのもなにより、孫にあたる幼い海/人魚の姫たちをとてもかわいがっていた。

* さすがに言いすぎ。そもそもこの件、もともとあった規則なのかどうかも不詳である。私は最初に読んだときから、この王母が自分を高い位置に置くために「自分は 12、ほかは 6 まで」と勝手に新しく決めたものだとばかり思っていたので、今回この翻訳を見て既成の有職故実のように捉える解釈がありうることにまず驚いた (「ほかの貴人たち de andre Fornemme」と言っているのだからなおさらそう。はじめから王母も含む一般の規則ならこうは言わなかろう)。

天沼訳 海の底をおさめる人魚の王様は、お妃をなくし、長いこと独身をとおしていたけれど、お年をめされた王様の母上が、宮中のきりもりをしていた。この母上は、ご聡明な方だったけれど、御自分の身分ならそうあるべきだと思いこんで、その尾ひれに牡蠣を十二も飾りつけていた。ほかのやんごとない身分のかたでさえ六つしかつけることをゆるされていなかったのに――けれども、そのほかについては、なかなかご立派なかただった。とりわけ、孫娘の、小さい人魚姫たちのことを、とてもかわいがっていたからである


第 3 段落後半


De vare 6 deilige Børn, men den yngste var den smukkeste af dem allesammen, hendes Hud var saa klar og skjær som et Rosenblad, hendes Øine saa blaa, som den dybeste Sø, men ligesom alle de andre havde hun ingen Fødder, Kroppen endte i en Fiskehale.

直訳 彼女らは 6 人の美しい子どもたちだったが、最年少の〔子〕が彼女ら全員のうちでもっとも美しかった、彼女の肌はとても透きとおって柔らかなること薔薇の花びらのごとく、彼女の目はとても青いこと、もっとも深い湖〔または海〕のごとくであった、しかしちょうどほかの全員と同じように彼女には足がなかった、その体は魚の尾で終わっていた。

大畑訳 姫はみなで六人で、どれもきれいなかたばかりでしたが、わけても末の姫は、一番きれいでした。膚は、バラの花びらのように、すきとおるほどきめがこまかく、目は深い深い海のような青い色をしていました。けれども、おねえさんたちと同じく、足というものがなくて、胴の下は魚の尻尾になっているのでした。

山室訳 姫ぎみはみんなで六人で、みんなたいそうきりょうよしでしたが、わけてもすえのむすめが、いちばんきれいでした。はだは、バラの花びらのようにすきとおって、きめがこまかく、目はふかいふかい海のように青い色をしていました。けれども、やっぱりおねえさまの姫たちと同じく、足というものがなくて、胴のおわりはお魚のしっぽになっていたのです。

高橋訳 六人いた人魚ひめは、そろってきれいでしたが、なかでも、いちばん下の人魚ひめがいちばんきれいでした。はだは、ばらの花びらのようにすきとおっていて、きめが細かく、目は、もっとも深いのように青くすんでいました。でも、ほかの人魚ひめと同じように足がなく、体のすそは、魚のしっぽになっていました。

大塚訳 このお姫さまはみんなで六人で、そろってきれいでしたが、なかでも、いちばん下のお姫さまは、いちばんきれいでした。このお姫さまの肌は、バラの花びらのように、とても清らかで、きめが細かく、その目は、深い深い海のように青いのでした。けれど、このお姫さまも、ほかのお姉さんたちとおなじように、足はなくて、胴の下のほうは、魚の尻尾のようになっているのでした。

長島訳 いい子ばかり六人のお姫さまがいましたが、中でもいちばん年下の子が、飛び抜けてきれいでした。その子の肌はバラの花びらのように透きとおって輝き、目ももっとも深い湖のように青かったのですが、ほかの人魚* たち同様、足がなくて** から下が魚の尻尾になっていました。

* これは間違いと言うと細かすぎるようであるが、純粋に語学的なことを言うとこの alle de andre「ほかの全員」は文脈から 5 人の姉姫たちであって (ほかの既存訳 6 つがすべてそうしているとおり)、いきなり全人魚を指せはしないであろうから、いちおう相違点のひとつに数えた。

** 原語 krop は胴体もしくは体全体の意なので、その端というなら腿からということも不可能ではないだろうが、他訳には見られない独自意見。しかもそのわりにこの本の表紙画は腰からすべて魚の鱗に覆われている。

金原訳 王さまには* 六人の美しいがいたが、とくに末娘は信じられないほど愛らしく、肌はバラの花びらのようにつややかでなめらかで、目はもっとも深い深海のように青かった。しかし、お姉さんたちと同じで足はなく、腰から下は魚の尾だった。

* ここでふたたび王をもちだす理由がわからない。いま話の流れとして、寡夫の王がいて彼には老母がいて、老母にはかわいがっている孫娘たちがいる、という順番にフォーカスが移っている。この祖母は孫たちに人間の世界の話をして彼女らが海上に出かけるきっかけを作り、さらに後には末姫に人間と人魚の寿命について教える重要な登場人物であるのに対し、父王はその存在だけが言及されるのみの背景にすぎないので、原文を曲げてまでここに名前を出すことはいたずらに焦点をぼやかし流れを悪くするばかりである。

天沼訳 六人いる人魚姫は、みな美しい娘さんだった。なかでも、いちばん末の人魚姫がとくべつ美しかった。バラの花びらを思わせる、すきとおってきめの細かい肌をして、もっとも深い海のように青くすんだ瞳をしていた。けれども、ほかの人魚の姫様たちと同じで足がなく、からだの腰から下は魚の尻尾だった。


第 4 段落


Hele den lange Dag kunde de lege nede i Slottet, i de store Sale, hvor levende Blomster voxte ud af Væggene. De store Rav-Vinduer bleve lukkede op, og saa svømmede Fiskene ind til dem, ligesom hos os Svalerne flyve ind, naar vi lukke op, men Fiskene svømmede lige hen til de smaae Prindsesser, spiste af deres Haand og lode sig klappe.

直訳 一日中ずっと彼女らは遊んでいられた、〔海の〕下の宮殿のなか、その大きな広間* のなかで、そこでは生きている花々が壁から生えていた。大きな琥珀の窓が開け放たれた、そうすると魚たちがそのなかへ泳ぎ入ってきた、ちょうど私たちのところで**、私たちが〔窓を〕開け放つとツバメたちが飛んで入ってくるように、しかし魚たちはまっすぐに小さな姫たちのほうへと泳いでいった、〔そして〕彼女らの手から〔餌を〕食べ、自分たちを軽く触れさせた。

* 原文 de store Sale は複数。わざわざ区別させるのも冗長だが、さりとてたんに「大きな広間」とか、また長島訳・天沼訳のようにとりわけ「大広間」と言ってしまうと、特別大きいひとつのホールに全員が雁首そろえて遊んでいるようなイメージになる (というか、私は小さいときからずっとそうだと思っていた)。これをあえて明示的に区別しているのは「いくつもの」を付す大塚訳だけ。

** 文字どおりに「私たちの家」、もしくはより一般的に「地上」ないしは「人間の世界」を指すと解しうるか。

大畑訳 一日じゅうずっと、みんなは海の底宮殿の広々した部屋で遊び暮らしました。部屋の壁には、生きている花が咲いていました。大きなこはくの窓を開きますと、魚が泳いではいってきます。ちょうど私たちのところで、わたくしたちが窓をあけると、ツバメが飛んではいってくるように。魚は小さい姫たちの方へ泳いできて、みんなの手から、たべものをたべたり、また、なでてもらったりしました。

山室訳 一日じゅうずっと姫たちは、海の底のお城の、広びろしたおへやで遊びくらしました。おへやのかべには、生きている花が咲いていますし、大きなコハクの窓をひらくと、ちょうど私たちのところでわたしたちが窓をあけるとツバメがとびこんでくるように、いろんなお魚がおよいではいってきました。そしてお魚たちは、小さい姫たちのそばへおよいでくると、その手からえさを食べたり、せなかをなでてもらったりするのでした。

高橋訳 おひめ様たちは、一日中ずっとのんびり海の底のお城の、大きい広間で遊ぶことができました。広間のかべからは、生きた花が生えていました。大きなこはくのまどが開かれると、魚たちが泳いで入ってきました。ちょうど、わたしたちの所で、まどを開けるとつばめがとびこんでくるのと同じようです。魚たちは、小さいおひめ様たちのすぐそばに泳ぎよってきて、その手から食べ物をもらったり、さすってもらったりしました。

大塚訳 お姫さまたちは、一日じゅう、海の底のお城の、いくつもの大きい広間で遊んでいられました。広間の壁には、生きている花たちが咲いていました。大きい琥珀の窓々をあけると、魚たちが泳いで、はいってきました。それはちょうど、わたしたちのところで、窓をあけると、ツバメが飛びこんでくるのとそっくりです。けれど、その魚たちは泳いで、まっすぐに小さいお姫さまたちのところにやってくると、みんなの手から食べものをたべたり、その手でなでてもらったりするのでした。

長島訳 お姫さまたちは一日中ずっとお城の大広間で遊んでいました。広間の壁からは生きた花が咲き出ていました。大きな琥珀の窓をあけると魚たちが泳ぎ寄ってきま。わたしたちのところで、窓をあけるとツバメが飛んで入ってくるような具合にです。けれども魚たちは、小さいお姫さまたちのほうに泳ぎ寄って、その手のひらにのせられたエサを食べたり、やさしくたたいてもらったりしていたのでした。

金原訳 六人の娘たちは毎日遅くまで、お城の大広間や、壁から生えている揺れうごくのあいだで遊んだりした。大きな琥珀窓は開け放たれていたからよく魚が飛びこんできた。私たちのところで、私たちが窓を開けるとつばめが開け放した窓から飛びこんでくるのにそっくり。ただ魚はつばめとちがって小さい女の子たちのまわりに泳ぎやってきては、手から餌をもらったり、なでてもらったりした。

天沼訳 姫様たちは、海の底にある宮殿の大広間で、一日中のんびりと遊んでいた。広間の壁からは、生きた花がはえていて、大きな琥珀でできた窓を開くと、魚たちが泳ぎはいってきた。ちょうど、私たちのところで家の窓をあけるとツバメが飛びこんでくるのと同じようだった。魚たちは、小さい姫様たちのそばに泳ぎきて、手から餌をもらったり、なでてもらったりした。


第 5 段落前半


Udenfor Slottet var en stor Have med ildrøde og mørkeblaae Træer, Frugterne straalede som Guld, og Blomsterne som en brændende Ild, i det de altid bevægede Stilk og Blade. Jorden selv var det fineste Sand, men blaat, som Svovl-Lue.

直訳 宮殿の外には火のように赤い〔木々〕と暗い青の木々をもつ大きな庭があった、その果実は黄金のように輝き、その花は燃える火のよう〔であった/に輝いた〕、それらはつねに幹や葉を動かしていたので。地面そのものはもっとも細かな砂であったが、硫黄の閃光のように青〔かった〕。

大畑訳 お城のそとには、大きな庭があって、火のようにまっかな木や、まっさおな木が生えていて、木の実は金色に光り、花は燃える火のように輝き、たえず茎や葉をそよがせていました。地面そのものはごくこまかい砂地で、それがゆおうの炎のような青い光をはなっていました。

山室訳 お城の外には、大きな庭があって、火のようにまっかな木やまっさおな木がはえ、金色に光っている実や、もえる火のような花をつけて、たえず茎や葉をそよがせていました。地面そのものはごくこまかい砂でしたが、それがいおう* のような青い光をはなっていました。

* ただの「いおうのような青い光」では、硫黄という化学物質そのものが青いかのように聞こえてしまうが、硫黄はまさに黄の字が示すように鮮やかな黄色である。ついでながら、いま大畑訳と山室訳で「光をはなって」を赤字にしたが、物理的には色が見えることはとりもなおさず光を反射しているにほかならないので、こんなことをうるさく言うのはある意味ナンセンスではある。

高橋訳 お城の外には、広い庭があって、もえるように赤い木や、青あおとしげった* 木がありました。その茎や葉がたえず動き、実は金のように、花はもえる火のようにかがやきました。底のそのものもっとも細かい砂でしたが、いおうの炎のように青い色をしていました。

* これでは通常の植物らしい緑色に見えるが、いま「火のように真っ赤な木」と並んで海の底の不思議な植物の情景を描いているので、正しくは文字どおりの青色を指しているであろう。

大塚訳 お城の外には、大きい庭があって、火のように赤い木や、濃い青色の木が生えていました。それらの茎や葉がたえずゆれ動くのにつれて、木の実は金のようにかがやき、花々は、燃える火のようにかがやきました。そこの地面はとても細かい砂でしたが、それは硫黄の炎のように、青く光っていました。

長島訳 お城の外に、火のように赤い木や濃い青色をした木々が生えている広い庭園がありました。果物は金のように輝き、花々は茎と葉をたえず動かしていたために、燃え上がる炎のようでした。地面そのものはこの上なくすばらしい砂地でしたが、硫黄の炎のような青色でした。

金原訳 お城の外にはきれいな〔広い庭がひろがり、そこには火のようにまっ赤な木やまっ青な木が生えていて、その実は金色に輝き、花は燃えるような赤で、葉や茎はいつも揺れていた。そのものもっともこまかい砂でできていたが、色は硫黄の火のような青。

天沼訳 宮殿の外は広い庭園になっていて、炎のように赤い木や藍色の木々が立っていた。その茎や葉が水の動きでゆれるたびに、その果実は黄金のように、花は燃える炎さながらに輝いたものだ。海の底の土というのはもっとも細かい砂なのだけれど、硫黄が燃えるときの炎のように青い色をはなっていた。


第 5 段落後半


Over det Hele dernede laae et forunderligt blaat Skjær, man skulde snarere troe, at man stod høit oppe i Luften og kun saae Himmel over og under sig, end at man var paa Havets Bund. I Blikstille kunde man øine Solen, den syntes en Purpur-Blomst, fra hvis Bæger det hele Lys udstrømmede.

直訳 その〔海の〕下すべての上には不思議な青い光が横たわっていて、人はむしろ思ったでしょう、自分は空の上高くに立っていて、自分の上にも下にも天を見る* ばかりであると、海の底にいる* と〔思う〕よりも。大凪〔のとき〕には太陽を目にすることができた、それは紫の花のように見えた、その萼からすべての光が流れでてきたような。

* 原文は時制の一致により過去だが、意味は同時性なので非過去で訳してある。

大畑訳 こうして、全体に、不思議な青い光が漂っているので、海の底にいるというよりは、上を見ても下を見ても青々とした大空に、高く浮かんでいるような感じでした。風のないでいる時には、お日様を仰ぐこともできました。そういう時、お日様は紫いろの花のように見え、そのうてなから、あたり一面の光がさしてくるようでした。

山室訳 こうして、ぜんたいの上にふしぎな青い光がただよっていましたので、まるで海の底にいるというよりは、どちらをむいても青あおとした空高くにうかんでいるような感じでした。風がないでいる日には、お日さまをあおぐことさえできましたが、そんなときには、お日さまはちょうど大きなむらさき色の花のようで、そのうてなから、あたりいちめんに光がながれでてくるかのように思われるのでした。

高橋訳 そのあたり全体に、何とも言えない青い光がきらきらとただよっていました。それで、海の底にいるというより、高い空中にうかんでいて、上にも下にも空があるのだという気がしたでしょう。風のない時は、お日様が見えました。お日様は、まっ赤な花で、そのうてな(花のがく)からすべての光が流れ出ているかのように見えました。

大塚訳 こうして、そのあたり一面には、ふしぎな青い光がほのかにかがやきわたっていました。ですから、そこにいると、自分が海の底にいるというより、むしろ、ずっと高くの大気の中にいて、上にも下にも見えるのは空ばかりだ、と思いこんだことでしょう。風がなくて海が静かなときには、上のお日さまも目で見られました。そのお日さまは、深い赤色をした花のようで、その花のがくから、まわりじゅうに光があふれでているように見えました。

長島訳 海の底はどこもかしこもなんとも言えない美しい青に輝いていたのです。それは海の底というよりは、空中高く飛び上がり、上も下も青空ばかりのところに浮かんでいるような感じでした。凪の時には太陽を目にすることができました。まるで緋色の花の萼からすべての光が流れ出ているかのように見えました。

金原訳 あたり一面に不思議な青い光がかがやき、まるで上にも下にも空しか見えない空の高みに浮かんでいるようで、暗い海の底にいるとはとても思えない。凪の日には太陽もみえて、それはその萼からすべての光が流れ出る光のに包まれた紫の花のようだった。

天沼訳 あたり一面は、この世のものと思われぬ青い光につつまれていた。もしも、人間がここに来たとしたら、海の底にいるというより、高い空にうかんでいて、上にも下にも空があるような気がしてしまうかもしれない。風がないでいるようなときは太陽が見えた。太陽は、ほんとうに深紅の花とでもいうべきで、その花びらからあらゆる光が流れでているようだった。


総評


大畑訳と山室訳は、まるでどちらか一方が他方の訳文をそのまま日本語で読んで一部自分の言葉づかいと表記法に直しただけのように似通っている。たんに原文を独立に訳しただけでは決してこれほどの一致はしないであろう。ところで出典一覧では大畑訳を改訳 1963 年、山室訳を 1978 年と記したが、どちらもさらにこれ以前の訳があるようであるから、本当のところ先後関係ははっきりしない。しかもこの 2 人にはアンデルセン童話の共訳もあるらしいから、この「人魚姫」の訳もがんらい両者の共同作業ゆえにこのような類似を呈しているのかもしれない。

金原訳は総じて無意味に思われる敷衍・改変が多すぎるし、そのなかには上で詳しく注記したように有害とすら思われる部分もある。本には訳者のことばがなくデンマーク語から直接訳したのかどうかもよくわからず、本稿で比較した 7 つの訳のなかではいちばんおすすめできないものだが、この訳書の価値は訳文だけではなくアートワークにもあるのであろうから本全体としての評価は保留とする。

それ以外の邦訳はこの範囲ではさほどの欠点なくいずれも甲乙つけがたいが (とりわけ大畑訳はその古さに鑑みれば驚くべき正確さである)、原文にもっとも忠実で過不足がないということでいえば大塚訳がいちばんで、次点が長島訳であろうか。ただ大塚訳はレーベルの制約からかひらがなと読点が多くいささか子ども向きにすぎるきらいはあり、文体が大人の読書に適した落ちついた筆致で読みごたえのあることでは長島訳に軍配が上がるかと感じた。

lundi 30 avril 2018

デンマーク語の受動態に関する覚書

デンマーク語の文法書から受動態に関する箇所を抜粋翻訳した。それぞれ異なる本なので、過去分詞 (præteritum participium) と完了分詞 (perfectum participium) のように同じものを別様に呼んでいる部分もあるが、大きな混乱はないであろうからそれぞれの用語法を尊重して訳してある。


次のものは Ane Børup, Ulrik Hvilshøj, og Bolette Rud. Pallesen, Dansk Basisgrammatik, 2. reviderede udgave, 2000, s. 46f. より。

§45. 能動態/受動態

能動態/受動態 (aktiv/passiv, handleform/lideform) は、状況を記述する 2 つの異なった方法と関わっている。動詞の能動形を用いるとその行為を遂行する人に強調が置かれるのに対し、受動形を用いるとその行為にさらされる人または物に焦点があてられる:

能動態 Lægerne opererer den lille dreng på torsdag
    (医師たちは木曜にその小さな少年を手術する)
受動態 Den lille dreng bliver opereret af lægerne på torsdag
    (その小さな少年は医師たちによって木曜に手術される)
    Den lille dreng bliver opereret på torsdag
    (その小さな少年は木曜に手術される)

したがって受動形を用いるとその行為を受ける者 (「その小さな少年」) が強調され、またそれによって、その行為を遂行するのが誰であるのか (「医師たち」) についての情報は背景に押しやられるか、あるいは最後の文におけるように完全に省略される。

能動文を受動文に転換させるときには 4 つのことが起こる:
  1. 能動文の目的語 (「その小さな少年」) が主語になる
  2. 助動詞 blive が中に置かれる
  3. 主動詞は過去分詞に変えられる (operereropereret に変えられる)
  4. 本来の主語 (「医師たち」) は前置詞 af とともに現れるか、または完全に省略される

§46. Blive-受動態と s-受動態。上述の例における受動態は、助動詞 blive によって作られるために blive-受動態 (blive-passiv) と呼ばれる。デンマーク語にはもうひとつのタイプの受動態、すなわち s-受動態 (s-passiv) があり、これは動詞の不定詞形に -s を加えることによって作られる。例:Den lille dreng opereres på torsdag. S-受動態はたいてい書き言葉において見られる。たとえば新聞の見出し (例:Fiolteatret lukkes「フィオル劇場閉館」)、料理のレシピ (例:Kartoflerne halveres på langs「じゃがいもを縦に半分にします」)、使用説明書 (例:De forreste skruer afmonteres「最初のねじを取り外す」)。

ある種の動詞は受動形をもたないか、もしくはめったに受動態におかれない。これにあてはまるのはたとえばいくつかの自動詞、dø「死ぬ」や sejre「勝利する」がある (§49 を見よ)。いくつかの動詞は受動形でのみ見られ、それにもかかわらず能動の意味をもつ。例:De kan ikke enes「彼らは合意・和解しえない」、Vi trives godt「私たちは十分に幸せである、繁盛する、成長する」、Han væmmes ved tanken「彼はその考えに気分を悪くする」。


次のものは Erik Hvid og Flemming Olsen, Kursus i dansk grammatik: Grundbog, 2002, s. 22f. より。

受動態

A. Min far sælger bilen「私の父は車を売る」という文は能動文 (aktiv sætning) と呼ばれる。私の父の行動は彼がその自動車を売ることにある。彼はその行為を行っているので「私の父」は主語である。

私たちがその自動車を出発点にとるならば、この文は Bilen bliver solgt af min far あるいは Bilen sælges af min far「その車は私の父によって売られる」となる。ここでは「その車」は主語になっている。しかしだからといってその行為を行う者になったのではない。それはある行為もしくは過程にとっての対象とされている。

文法的主語が行為をするのでなく「される」ところの文は受動文 (passiv sætning) と呼ばれる。この文では「その車」は受身になっている。この受動文における行為者はやはり「私の父」である。

B. 前述の 2 つの文、すなわち能動文と受動文は、どちらも同じ出来事を述べている:両方の場合において、ある車を売るある人について語られている。出発点が私の父か車かで違っているが、結果は同じである。

能動文を受動に転換するとき、能動文における目的語は受動文における主語になる。動詞の時制は変化しない:
能動 Min far sælger bilen.
受動 Bilen sælges af min far.
したがって、受動態に転換されるためには能動文中に目的語がなければならない。すなわち、動詞が他動詞として用いられている文だけが、受動文に転換されうるのである。

能動文における主語 min far が、受動文では前置詞句 af min far になっていることに注意せよ。この前置詞句 af min far は文中で副詞句として働いているので、A のマークをつけてある〔訳注。ここでは省略している〕。

C. 動詞が自動詞として用いられている文は、受動文に転換できない:
Cecilie stank af tobak da hun kom hjem fra mødet.
(セシリエは会議から帰ってきたときタバコで悪臭を放っていた)
Christoffer havde ligget og sovet på sofaen det meste af dagen.
(クリストファーはその日の大半をソファに横になって眠っていた)
Inflationen er steget med 1%.
(インフレが 1 % 進行した)
D. デンマーク語では多くの場合、2 通りのしかたで受動態を作ることができる:

S-受動態 (s-passiv):動詞が -s で終わる形。とくに現在形において見られる。
Varerne bringes ud til kunderne.
(その商品は客たちのところへ運びだされる)
Lygterne tændes en halv time efter solnedgang.
(ライトは日没の半時間後に灯される)
Dørene lukkes kl. 7.
(扉は 7 時に施錠される)
Blive-受動態 (blive-passiv):blive と完了分詞からなる形。多くの動詞は過去形で blive-受動態を用いる。現在と過去以外の時制では、blive-受動態のみが用いられうる。
Passagererne bliver ramt hårdt af busstrejken.
(乗客たちはバス・ストライキによって著しく影響を受ける。現在)
Mødet blev holdt i skolens aula.
(集会は学校の講堂で行われた。過去)
Det mord er aldrig blevet opklaret.
(その殺人事件は決して解決されていない。現在完了)
E. S-受動態はいつでも有効である事柄に関して用いられるのに対し、blive-受動態は個別の出来事に関して用いられる、という傾向がある。次の 2 段の文〔訳注。原文では左右に 3 文ずつだが、ここでは段組にせず並べている〕を比較せよ:
Gamle møbler købes og sælges.
(古い家具が売り買いされている)
Den teknik kendtes ikke i Middelalderen.
(その技術は中世には知られていなかった)
Tv? Det fandtes ikke dengang.
(テレビ? そんなものそのころにはなかった)
Maden bliver serveret af lejede tjenere.
(料理は雇われた給仕たちによって供される)
Firmaet blev grundlagt i 1924.
(その会社は 1924 年に設立された)
Pengene blev fundet i tyvens hjem.
(その金は泥棒の家で見つかった)
F. -s に終わるいくつかの動詞は、受動の形にもかかわらず能動的な内容をもっていることに注意せよ。それらは他動詞・自動詞いずれでもありうる:
Der findes mange dyrearter.
(たくさんの動物の種が存在する)
Hun mindedes sin ungdom.
(彼女は自分の若いころを回想した)
Forsøget lykkedes.
(実験は成功した)
Det kunne vanskeligt undgås.
(それを避けることは難しいだろう)
Jeg længes efter sommeren.
(私は夏を待ち焦がれている)


次のものは Lisa Holm Christensen og Robert Zola Christensen, Dansk grammatik, 3. reviderede udgave, 2007, s. 106f. より。

受動形

多くの動詞は能動形または基本形 (aktiv form, grundform eller handleform) と受動形 (passiv form, lideform) とに活用しうる。能動と受動とのあいだの区別は、高度な用語では (diatese) と呼ばれる。受動の活用は不定詞、現在および過去に適用されうる。受動形態素 (passivmorfeme) はどの形でも -s である。不定詞の受動形は -s の付加によって作られる:hentehente-s。現在の受動形は不定詞の受動形と同一である。不定詞受動形と現在受動形はそれゆえ同音異義語である。言語史的な説明では、現在受動形は現在 + s から作られるが現在形は -r で終わり、-rs の組みあわせが強勢のない位置では調音が難しいので、[rs] が [s] に融合したのである。過去受動形は能動の過去形に -s を付加することで作られる:hentedehentede-s。しかしながら受動に活用しうる過去形の動詞のすべてがそうなのではない。意味論的な理由から、だいたいにおいて命令法の受動形は見られない。というのは命令法、とくに要求のために用いられるそれは、何事かをするよう駆り立てられるところの人じしんが能動的に行為を行わねばならないことを前提するからである。〔込み入った文なので「意味論的……」からの原文を載せておく:Af semantiske grunde forekommer der stort set ikke verber i imperativ passiv, da imperativ, der især bruges til at opfordre med, forudsætter, at den, som anspores til noget, selv skal udføre handlingen aktivt.〕

動詞の形態論的受動形 (morfologiske passiv) の概観
不定詞受動形現在受動形過去受動形
henteshenteshentedes「連れてこられる」
læseslæseslæstes「読まれる」
sessessås「見られる」
〔訳注。ここで「形態論的 morfologisk」とは「迂言的 perifrastisk」に対置される用語で、同書 s. 54 によればそれらは「屈折 bøjning によって作られる」ものと「書きかえ omskrivning によって作られる」ものを指す。それぞれ「総合的」(英 synthetic) と「分析的」(英 analytic) に言いかえても大過ないであろう。〕

しばしば強変化動詞は s-受動態を作れない:*hjalp-s, *åd-s。このため blev + 完了分詞による迂言的受動態 (perifrastisk passiv) が必要とされる。

現在能動形現在受動形過去能動形過去受動形
stikkerstikkesstakblev stukket
flyverflyvesfløjblev fløjet
finderfindesfandtblev fundet
hjælpehjælpeshjalpblev hjulpet

完了分詞は受動形の s-形態素を伴って変化することがまったくできないので、受動の意味を表すためにはつねに迂言的な形が必要とされる:Hun er blevet hentet af sin far「彼女は父から呼ばれてきた」〔現在完了〕;Han var blevet udskrevet fra sygehuset「彼は〔すでに〕病院から退院していた」〔過去完了〕;Bilen var blevet undersøgt af politiet「その車は警察によって調査されていた」〔過去完了〕。(Jf. s. 122f.)


次のものは Christensen og Christensen, op.cit., s. 113 より。

〔S. 107 以下「諸活用形のはたらき」の節中の〕受動形

受動形の動詞は 3 つのはたらきとそれに結びついた意味とをもちうる。それらは受動構文 (passiv konstruktion) を作るために用いられうる。形態論的受動形を用いた文は迂言的受動形に変換しうる (大なり小なり意味の変化を伴う)。
Stakittet skal males hvidt. ≈ Stakittet skal blive malet hvidt.
(柵は白く塗られる予定だ)
Lønnen betales af staten. ≈ Lønnen bliver betalt af staten.
(給与は国によって支払われる)
動詞の s-形の第 2 のはたらきは、中間構文 (medial konstruktion) にある。これは典型的には複数形の名詞 + s-形の動詞から構成され、主語の指示対象が (相互的に) お互いに対してとりおこなうところの動詞の行為を媒介する。これらの構文は迂言的受動態に置きかえることはできない。
Per og Line sloges. ≠ Per og Line blev slået.
(ペールとリーネは喧嘩した ≠ ペールとリーネは殴られた)
Vi ses i morgen. ≠ Vi bliver set i morgen.
(私たちは明日会う ≠ 私たちは明日会われる)
Vi samles hos mig klokken 9. ≠ Vi bliver samlet hos mig klokken 9.
(私たちは 9 時に私のもとに集まる ≠ 私たちは 9 時に私のもとに集められる)
Børnene fulgtes til skolen. ≠ Børnene blev fulgt til skolen.
(子どもたちは学校までいっしょに行った ≠ 子どもたちは学校までついてこられた)
Skal I deles om opvasken?
(あなたたちは皿洗いを分けあうか)
De skændtes hele tiden.
(彼らは一日じゅう口論していた)
デポネント動詞 (deponent verb, jf. s. 102) は能動の動詞と同じように使われるが偶然に s-形を獲得したものである。能動形の動詞のなかにこれらとの類義語がしばしば見つかる。
Jeg længes efter dig. (jf. Jeg savner dig.)
(私は君を待ち焦がれている)
Der findes ingen som dig. (jf. Der er ingen som dig.)
(君のような人は誰もいない)
Det lykkedes mig at vinde. (jf. Jeg formåede at vinde.)
(私はうまく勝つことができた)
Hun væmmes, når hun ser ham. (jf. Hun føler sig utilpas, når hun ser ham.)
(彼女は彼に会うと気分が悪くなる)
Bo synes ikke om hende. (jf. Bo elsker hende ikke.)
(ボーは彼女のことを好きではない)
形態論的および迂言的受動構文は 122 頁以下でも扱っている。動詞の s-形のもつその他のはたらきについてはこれ以上扱われない。