Affichage des articles dont le libellé est フェーロー語. Afficher tous les articles
Affichage des articles dont le libellé est フェーロー語. Afficher tous les articles

vendredi 20 août 2021

ノルン語訳『星の王子さま』を読む:第 1 章

ノルン語版『星の王子さま』Litli prinsen 第 1 章の読解メモ。本編に入っても、いきなりそんなに難しい文がたくさんあるわけではない。Tutorial と Grammar に目を通していれば、あとはほとんど単語の問題である。

まずは朗報をひとつ。前回注意した esi「この」という指示代名詞の変化表が、新たに 1 マス埋まった。ボアの中身のゾウが描かれている絵のすぐ下に、tekna esar mynter (女性複数対格) という例がある。通常の名詞や形容詞と同じく、女性複数対格は主格と同形である。

この章で現れる最大の難問は、sojna「見せる;見える」という動詞に関わっている。古ノルド語・アイスランド語・フェーロー語の sýna と対応することは明白で、意味そのものに不可解なところはない。まず本章における用例を一挙に並べてみよう:
  1. Hun sojnaði kvalaraslangu, [...] (p. 9)
  2. Mynten sojndi sikkt ut. (p. 9)
  3. Hun sojndi sikkt ut: (p. 9)
  4. Eg sojnaði dem vaksnu mesterverkið [...] (p. 9)
  5. Nesta mynten min sojndi sikkt ut: (p. 10)
  6. [...], sojndi eg honon altið fyrstu tekning mina, [...] (p. 11)
すべて直説法過去形単数で現れている (1 人称と 3 人称があるが、過去ではつねに同形なのでそこは問題にしない)。いずれも弱変化の活用で、歯音接尾辞 ð または d によって過去を作っているが、なぜか 2 通りの形がある。しかしこれらは原形 (不定詞) に戻せばどちらも sojna という同じ形にならざるをえない。もし sojna が弱変化 I 類なら語幹 sojn- に続けて歯音、ここでは幹末が n だから d を使って sojndi となる。他方、弱変化 II 類ならつなぎ母音 a があって sojna- の後ろに過去接尾辞だから sojnaði となる。

ひょっとしてこれらは 2 種類の異なる動詞なのだろうか? 用例を詳しく検討してみよう。6 つの文のうち、2. と 3. と 5. は主語がそれぞれ「絵は」「それは」「私の次の絵は」と異なっているだけで、残りはまったく同じだ。sikkt は sikk「このような」の中性単数主・対格形で、ここでは副詞的に「このように」という意味で使われていると思われる。つまり「絵はこんなふうに見えた・こんな見た目だった」という文である。副詞 ut とあわさって、ここでは「見える」という自動詞的に使われている。フェーロー語で言えば sá soleiðis út、デンマーク語なら så sådan ud というところだ。

これらに対して 1. と 4. と 6. は他動詞である。1. では「それ=原始林についての本」が主語で、それが獲物を呑みこむボアの絵を「示して」いる。4. と 6. は「私」が主語で、誰々に自分の絵を「見せた」という文である。

困難を引き起こしているのは 6. だ。もし 6. がなかったら、sojndi (ut)「見えた」という自動詞と sojnaði「見せた」という他動詞があるということで話は片づく。だが 6. の文は存在し、しかもそれは 4. と平行な用法でありながら、動詞の形がそれとは異なっているのだ。4. と 6. は明らかに同じ動詞の同じ活用形であると思われるのに、形が揺らいでいる。

フランス語原文に拠ってみると、4. のほうは J’ai montré mon chef-d’œuvre「私は私の傑作を見せた」という単純な表現だが、6. はじつは素直に訳されてはいない。6. に対応する箇所の原文は、je faisais l’expérience sur elle de mon dessin numéro 1「私はその人に対して私の絵 1 号を実験した」である。だがノルン語がこのような言いかたをしているとは思えない。具体的に行った行為は絵を見せたということだから、ノルン語はやはり「見せた」と訳したのだろう。

6. だけが仲間はずれなら 6. は sojnaði の間違いだ、と結論づけたくなる誘惑に駆られるが、いったん臆断は避けて次章以降に先送りすることにしよう。活用のタイプが異なるので、もし弱変化 I 類 sojndi なら過去分詞は男・女性 sojnd, 中性 sojnt、弱変化 II 類 sojnaði なら全性で sojnað となる。また現在形は複数では同じ sojna だが、単数では語尾が -i, -er と -a, -ar というように異なってくるはずである。こうしたことに気をつけつつ、さらに用例を積み重ねていく必要がある。

sojna の話はこれくらいにして、あとは『星の王子さま』の話がわかっていれば解釈に悩む部分はほとんどない。ほんの 2, 3 文ほどそういうものがあるので検討してみよう。

2 番めの絵を描く直前の文、De skulu altið hava alt rett ut fyri dem. とある。フランス語原文では Elles ont toujours besoin d’explications.「大人たちはいつも説明が必要なのだ」。同じように主語 de は中性複数の「大人たち」であることは疑いない。続く hava alt rett ut は「すべてのことをはっきりさせる」といったところだろう。それはフェーロー語訳 Tey skulu altíð hava alt inn við skeið. やデンマーク語訳 De skal altid have alting forklaret. と見比べればわかる。どうも「説明が必要」という簡潔な仏文を北欧語では逐語訳するわけにいかず、「すべてを説明された状態にする」のような構文に訳したがるようだ。

だが末尾の fyri dem「それら・彼らのために」とはどういうことか。「自分たちのために」であれば再帰代名詞で fyri sjer でないといけないから、そうではない。この dem が指すのは主語とはべつの物や人でなければならない。かといって説明される「すべてのこと」alt は文法的には中性単数なので、これもまた候補から外れる。fyri dem、この 2 語がなければ意味は明解なのだが……。いまいちしっくり来ないが、ボアとゾウの関係のことだろうか? それ以外にこの近辺で指示できそうなものはない。

絵描きへの道をあきらめたという理由については、こう言っている:Eg havdi mist manndyrd veð tabi mynta minna numer ett og tvø, di båðar tekningarne fingu so illt veðtak. 仏語では J’avais été découragé par l’insuccès de mon dessin numéro 1 et de mon dessin numéro 2. というだけの文なので、もしコンマまでの前半がこれにぴったり対応するとすれば、di 以降はノルン語訳の補足ということになる。di はたぶん því にあたる理由の接続詞で、「2 つの絵が悪い反応 (=不評) を受けたから」といったところと思われるが、だとすればどうも前半の繰りかえしになって冗長だ。「私の絵 1 号と 2 号の tabi」(主格は tab?) というのが、かりに insuccès「不首尾、失敗」と同じでないのだとしたら正確なところどういう意味かわからない。やはり辞書がないということが大きなネックになっているのだが、Litli prinsen の訳者まえがきで予告されていた語彙集はいつ発表になるのだろうか。

最後の疑問点はいくぶんスキャンダラスだ。画家の道をあきらめたあと語り手は、フランス語原文では J’ai donc dû choisir un autre métier et j’ai appris à piloter des avions.「そこで私はべつの職業を選ばねばならず、飛行機の操縦を習得した」と言っている。2 つの文が結ばれた重文だ。ここがノルン語訳では、Eg varg di strunken at velja mjer annað atdriv, eg havdi ofta drømt um at vara fljogmann og eg lerdi di at fljuga fljogfar. という 3 文の連結になる。いささか不格好に見えるのは、最初のコンマのあとが接続詞もなしに続いていることで、この真ん中の部分、意味は「私は飛行士になることをしばしば夢見ていた」となろうが、フランス語原文にはない。

ここで注意を惹かれるのがフェーロー語訳 Eg noyddist tí at velja mær annað starv; eg hevði ofta droymt um at verið flogskipari, og eg lærdi tí at flúgva. である。第 1 文のあとはセミコロンで区切られており、単語を順番に 1 対 1 に対応づけられそうなほど酷似した 3 つの文で訳されている (verið という完了分詞になるのはフェーロー語特有の牽引だが、ここでは説明しない)。この「しばしば夢見ていた」という過去完了で語られる設定は、原作にないどころかデンマーク語やアイスランド語訳にも Woods の英訳にもなく、フェーロー語に固有の付け足しと判断される。なぜそれが一語一句同じ形でノルン語に登場するのだろうか。

このことはノルン語版がフェーロー語版からの重訳であるという疑いを提起する。そうでもなければ説明は難しいだろう。しかしこの直後、J’ai volé un peu partout dans le monde.「私はほとんど世界中を飛びまわった」という文が続くのだが、これはフェーロー語版では消えている* のにノルン語訳には復活するのだ。その点を重視するならやはり重訳ではないという方向に傾く。次の章でさらなる例を見るように、またべつのフェーロー語独自の点についてはノルン語は従っていない場合もあるのだ。ともかくいまのところはいずれとも即断しかねる。

* ちなみにこの箇所はデンマーク語版 (Asta Hoff-Jørgensen 訳、1950 年) にも欠けている。また違う機会に論じたいが、このほかにもフェーロー語版は原文からの逸脱においてデンマーク語版と奇妙な符合を示す箇所がいくつもあり、デンマーク語からの重訳であろうと私は判断している。

jeudi 19 août 2021

ノルン語訳『星の王子さま』を読む:序文

「現代ノルン語」Nynorn もしくは Hjetmål (シェトランド方言) で全編書かれた最初の成書として、『星の王子さま』の翻訳 Litli prinsen が昨 2020 年 2 月に現れた。この言語は、シェトランド諸島を中心に話されていたが 19 世紀までに消滅した西ノルド語のひとつ (フェーロー語やアイスランド語の仲間) であるノルン語 Norn を再興しようとして構想された一種の人工言語であり、それが現代に話されていたらどのように発達したであろうかということを、古ノルド語やフェーロー語などとの音韻対応を考慮し、かつ近隣のスコッツ語や英語などからの借用語を適宜取り入れつつ作りあげられたものである。より詳しいことはそのプロジェクトのホームページをご覧いただきたい。

ホームページには Tutorial として学びやすい順に文法事項を解説したものが現在 12 課まで掲載されており、また別立てで Grammar のページには同じ文法が品詞別で体系的に紹介されている。しかしながら、Tutorial はそのディスカッションにあてられた掲示板のスレッドを見るかぎりは少なくとも 17 課まで予定されていたようだが長らく更新が停止してしまっているし、Grammar のほうも後の改訂に委ねるとして記述の足りていない箇所が散見される。

とくに両者に共通する問題点として、正書法が完全に固まるまえに見切り発車で書かれたものか、つづりが一定していない箇所がかなり多く見られ学習者を混乱させる。たとえば gott「よい (中性単数主・対格)」や åttendi「第 8 の」のように、tt のまえにある o, å はオではなくオイと読むという規則 (Tutorial, Lesson 3) があるのだが、べつの場所ではそれを発音どおり goitt や åittendi とつづるような表音的な正書法を模索していた様子がある。同じく、gamel「古い」のような語の変化形で弱音節の e が落ちて gamlan, gamler のように ml が接触するときは、文字には現れない b を gamblan, gambler のように挿入して読む (Lesson 9) と決まっているのが、つづりにも書いてしまっているところがある。ll と nn のような重なりのときはたいてい [ʎ, ɲ] という湿音の長子音として読むのを、文字でも表すべく lj, nj のようにつづったりつづらなかったりしている、など。

単語のつづりそのものに迷いが見られる例もある。Lesson 10 末尾の Reading には、ひとつの文章のなかに「(彼は) 買った」という動詞が købdi と kjobdi という 2 つの形で現れる。つまり原形不定詞は køba と kjoba である。そのすぐ下の単語欄には kjoba とあげられているのだが、それ以前の Lesson 5 では køba として紹介されていたもので、揺らぎがある。また Lesson 7 に出てくる soina「見せる」という動詞は Litli prinsen 中では sojna という形でつづられている、などなど。さらに悪いことに、Dictionary と称された単語集のページは古い Jakobsen の辞書にもとづいており、そこに掲載されている単語のつづりはほかの箇所の説明と食い違うことが多くててんであてにならないのである。

このように、おそらく 10 年近くまえに書かれたホームページの文法は粗削りで未完成との印象が否めないが、2020 年に出て 1 冊のまとまった本という形になっている Litli prinsen のなかではともかくも一貫しているはずだ、と期待して読んでみることを決心した。なにしろホームページが更新されないことには、この訳書のなかに現れている単語のつづりと文法規則こそが現代ノルン語の最新版、現在における一応の決定版だということにならざるをえないのだ。Grammar や Tutorial で解説されていない事項についても、この本と Le Petit Prince のフランス語原文を突きあわせながら推測するほかない。外国語で書かれた本を読むことはいつだって文法や単語の勉強を伴う営みだが、通常あてはまる以上にノルン語の場合はそうである。いまのところこの言語の文法・語彙の模範はこれに勝るものがないのだから。


それではさっそく読みはじめることにしよう。「レオン・ヴェルトに捧ぐ」というおなじみの献辞からであるが、上の前置きで触れたようにノルン語の Grammar および Tutorial のページは不完全であると言ったことの意味をさっそく痛感させられる。

献辞はこうなっている:Esi buk er jenkað til Leons Werth (原文はすべて大文字)。ここにはすでに、ごく基本的で必須であるにもかかわらず Grammar, Tutorial から抜けている事項が 2 つ現れている。ひとつは er jenkað「捧げられる」という、おそらく受動を表す表現。状態受動だとすれば「捧げられた」とも訳せそうだ。過去分詞じたいは説明されているので、これは女性単数主格の形であるとわかる (男性も同形だが、buk なので女性だろう)。

そして esi という語だ。文脈から見て「この」にあたる指示代名詞 (形容詞) であることはまず間違いないのだが、なんとこれほど基本的なものも Grammar に載っていないため、私たちはこれからこの語の変化表を独力で作る必要がある (2 数 3 性 4 格で 24 マス、ただし複数属格と複数与格はそれぞれ 3 性同形と予想できるので実質 20 マス)。ここは主語であるから女性単数主格とわかる。この献辞だけでもほかに、女性単数対格 isa buk、男性単数主格 esi vaksni mann、女性複数主格 allar esar hviflikationer と、あわせて 4 例が見つかるので幸先はよさそうだ。今後もこれほど容易に esi の変化形であることがわかればいいのだが。

フランス語の原文——日本語訳でもいいが——を念頭に置いて読めば、ほかにはさして突っかかるところは多くない。Tutorial を読みこなしていれば、あとは Grammar で名詞の既知形と形容詞の弱変化の知識を補ってだいたいぜんぶ読める。読めないところ、つまり指示代名詞に関わる部分だけ取りあげておこう。

先述の esi「これ、この」とは別の、もうひとつの重要な指示代名詞らしきものがある。これはおそらく古ノルド語の sá「それ、その」に連なるもののはずだ。古ノルド語ではそれは、3 人称代名詞の中性単数と全性の複数に転用された。そのことは現代のフェーロー語でもそのままだし、ノルン語も同様と信じていいと思う。すると逆に、Grammar に載っている人称代名詞のその部分を見れば、男性・女性単数以外は指示代名詞と共通であることが期待される。中性単数ではそれは主 dað, 対 dað, 与 di, 属 dess; 男性複数 der, då, dem, derra; 女性複数 der, der, dem, derra; 中性複数 de, de, dem, derra である (以後、格の順番はこれと同様)。

以上を念頭に読んでみると、(献辞を除いて) 2 行めの dem vaksnu と、下から 3–2 行めの All de vaksnu が指示代名詞の例であるように見える。これらがなんという変化形なのか、どちらも慎重な検討を要する重要な点だ。

まず後者から。意味は「すべての大人たち」で、現在完了の定動詞 hava varið を従えているとおり、これは複数主格である必要がある。de という形から見れば一致するのは中性複数だけだ。そのことは all という形からも裏づけられる。さきほど allar esar hviflikationer が女性複数主格だと見たとおり、all は形容詞の変化をするので、男性複数なら aller でないといけない。ではなぜ「大人」が中性複数か。それは男女混合の集団を考えられているからである。古ノルド語やフェーロー語でもそうだが、その場合は中性複数になるのだ。ほかの多くの印欧語のように男性になるのではないから要注意。

さて後回しにした dem vaksnu はこの序文最大の疑問点である。さきほどの人称代名詞からすると、dem は複数与格ということになる。理由はほかにもある。まず形がわかっていない男性単数与格については、フェーロー語では中性単数与格と同形なので、ノルン語では di と推定されること。しかし古ノルド語ではそうではなかったので (中性 því, 男性 þeim)、これは確実な推定ではない。もっと明確な理由は vaksnu の語尾だ。vaksen「大人」はもともと過去分詞から発した名詞で、形容詞の変化に従う。いまこれは指示代名詞がついて弱変化になっているのだが、-u という語尾は単数にはどこにも現れない。他方複数ではすべての性と格で -u である。したがって結論としてはこれは性が不明の複数与格ということになる。前段で説明したことと同じならこれも中性と解するのが相当だろう。(そして実際、続く第 1 章を先取りすると、Eg sojnaði dem vaksnu mesterverkið「私は大人たちに (私の絵の) 傑作を見せた」という文で同じ形が現れる。)

だが原文と比べるとそれはおかしなことだ。このまま訳すと「私はこの本を大人たち (男女問わず) に捧げることについて子どもたちに許しを乞う」となってしまうが、言うまでもなく本当はレオン・ヴェルトという 1 人の大人の男性に捧げられたのだ。もっと言えば原文は不定冠詞の une grande personne なので、厳密に訳すなら (enon) vaksnon ではないのかと思われるし、「捧げる」の時制も正しくは複合時制で「捧げたこと」なので at hava jenkað とするのが本当だろう。ここまでいろいろ変だとこれは「大人」の数も含めてノルン語訳が間違っているのではないかと考えざるをえない。

最後に関係小辞について (これも載っていなかったので) 一言補足を。sen と eð がそれで、フェーロー語の sum と ið にあたるだろう。古ノルド語では前者は sem に対応するが、後者がもうひとつの関係小辞 er にあたるわけではないようだ。ともかくこれらは格変化しない小辞なので、そういう単語があるとだけ知っておけば読解に悩むことはないだろう。

mercredi 12 décembre 2018

18 世紀のフェーロー語瞥見

このあいだ「フェーロー語研究 (前) 史 1650–1900」というエントリで紹介したように、1800 年にデンマーク人の牧師・植物学者であった Jørgen Landt という人に『フェーロー諸島に関する記述の試み』(Forsøg til en Beskrivelse over Færøerne) という著作があり、この第 4 章 3 節 (s. 436–440) が「その言語について」(Om Sproget) と題しフェーロー語 (フェロー語) の解説を行っているのであった。

本稿ではこの部分の訳出紹介を試みようと思う。これは 1800 年という年代に照らして知られるとおり、まだ正書法すなわちフェーロー語の単語をどのようにつづったらよいかの指針すら定まっていなかった時期のこと (この間の消息は前エントリで詳述した)、解説の内容じたいもさることながら、フェーロー語をどのように書き表わそうとしたかその努力にも興味がある。もっともラントはラスクのような専門の言語学者ではなく、かつ当時はほかに頼れる文献もなかったゆえであろう、表記の不徹底・不注意さやフェーロー語そのものの理解に難がある部分も散見される (日本人になじみのある例で言うと 16 世紀ころのポルトガル人やスペイン人による日本語の説明や日本地図の表記で起こったのと同じことである)。

訳では現代フェーロー語のつづりに修正したものも逐一併記し、デンマーク語も 200 年以上昔のものなので現代語と異なる場合にはこれも付記した (違いが名詞の大文字書きのみの場合は特記せず)。ラントの誤解によるものか、フェーロー語がふつう見出し語形とする単数主格未知形ではなく斜格や既知形 (定形) になっている場合があり、あるいはデンマーク語と定不定が一致していない場合があるので、そのさいはすべて注記した (特記なき場合は単数主格未知形)。また原文では区別していないが、ここではわかりやすいようフェーロー語をイタリック、デンマーク語をローマンで区別した。補足説明が必要な場合、亀甲括弧〔・〕に入れて示すか、長いものは * などの印を付して字下げした段落に述べた。

ここで試みられているフェーロー語表記を見れば、この言語の発音は 18 世紀の時点ですでにほぼ現在のとおりであったことが知られる。ラントのつづりから現行の正書法によるつづりを導きだすのはなかなか困難な作業であったが、デンマーク語訳が付されていることに助けを得て、また同時代の仕事であるスヴェアボの辞書 Dictionarium Færoense とも照らしあわせつつ誤りのなきを期した。しかし調査が及ばない部分も一部に残ってしまった。




§. 3.
言語について

フェーロー語 (det færøeske Sprog) は余所の者には最初のうちきわめて理解不能のように思われるが、〔われわれデンマーク人にとっては〕待つこともなく理解できるようになる;というのは単語の大部分が古いデンマーク語、あるいはむしろノルウェー語であって、歪められた発音が奇妙な見せかけを与えている〔だけ〕だからである。それは以下のようである〔次の単語の列挙は原文では左右 2 段組。上の画像のとおり〕:
  • a spujsa at spiise.〔現 at spisa*, at spise。食べる、食事する〕
  • a triqve at troe.〔現 at trúgva, at tro。思う〕
  • a smuja at smedde.〔現 at smíða, at smede。(鉄などを) 打つ、鍛える〕
  • a sejma at sye.〔現 at seyma, at sy。縫う〕
  • a gænga at gaae〔現 at ganga, at gå。行く、歩く〕
  • a standa at staae.〔現 at standa, at stå。立っている、立つ〕
  • a regva at roe.〔現 at rógva, at ro。漕ぐ〕
  • a sujgja at see.〔現 at síggja, at se。見る〕
  • Fræ, Frøe, Sædekorn.〔現 fræ。穀物の種〕
  • Sjegverin, Søen.〔現 sjógvurin。湖、海 (既知形)〕
  • ojn Skegv, en Skoe.〔現 ein skógv [ein skógvur の対格], en sko。靴 (の片方)〕
  • Løret, Lærred.〔現 lørift。亜麻布〕
  • ojn Baug, en Bog.〔現 ein bók。本〕
  • Ditnar, Dør.〔現 dyrnar [dyr (複数のみ) の主・対格既知形]。扉 (デンマーク語訳は単数未知形)〕
  • Pujpa, Pibe.〔現 pípa。パイプ〕
  • Høddet, Hovedet.〔現 høvdið [høvd または høvur の既知形]。頭 (既知形)〕
  • Skortin, Fjæs (Ansigt)〔現同 [skortur の対格既知形]。顔 (デンマーク語訳は未知形)〕
  • Ejen, Øjnene.〔現 eygum** [eyga の複数与格]。目 (デンマーク語訳は複数既知形)〕
  • Nøsin, Næsen.〔現同 [nøs の既知形]。鼻 (既知形)〕
  • Muveren, Munden.〔現 muðurin [muður の既知形]。口 (既知形)〕
  • Høkan, Hagen.〔現同 [høka の既知形]。顎 (既知形)〕
  • Øjrene, Ørerne.〔現 oyruni [oyra の複数主・対格既知形]。耳 (複数既知形)〕
  • Mæjin, Maven.〔現 magin [magi の既知形]。腹 (既知形)〕
  • Bojnene, Beenene.〔現 beinini [bein の複数主・対格既知形], benene。脚 (複数既知形)〕
  • Brej, Brød.〔現 breyð。パン〕
  • Bødn, Børn.〔現 børn [barn の複数主・対格]。子ども (複数形)〕
  • Talve, Tavle.〔現 talvu*** [talva の対・与・属格]。平らな板、黒板〕
  • Knujv, Kniv.〔現 knív [knívur の対格]。ナイフ〕
  • Song, Seng.〔現同。ベッド〕
  • Gjadn, Jern.〔現 jarn。鉄〕
* 現代フェーロー語では使わず、Jacobsen og Matras のフェーロー語・デンマーク語辞典 Føroysk-donsk orðabók (2. útg., 1963) や Jóhan Hendrik W. Poulsen ほか編 (1998) のフェーロー語国語辞典 Føroysk orðabók には立項されていない。デンマーク語からの借用語であったと思われ、Jógvan við Ánna, Føroysk málspilla og málrøkt IV (1977) に見いだされた。スヴェアボには spujssa として出ている。

** eyga「目」の複数は、未知形で主・対格 eygu(r), 与格 eygum, 属格 eygna, また既知形で主・対格 eyguni, 与格 eygunum, 属格 eygnanna である。このうちラントの記す Ejen にいずれが近いかという問題だが、既知形は音節数があわないので除外し、未知形のうち [n] の音で終わるのは eygum しかないのでこれをあてはめた (フェーロー語の名詞類複数与格の -um は [-ʊn] と発音される)。

*** talve の -e をどう受けとるかには異論の余地もあろうが、ラントのほかの記法を見るかぎり、彼は原則として a は正しく a と聞きとっているに対して、アクセントのない i および u を一律に e としがちな傾向がある (muðurinMuverenoyruniØjrene とするなど)。さらに斜格を見出し語に取り違えてしまう例のあることも見てのとおりである (ojn Skegv, Skortin, Knujv)。それゆえこの語も主格 talva ではなく talvu のつもりと解した。

だがフェーロー語には多くの特異な点もあり、それらについて若干を列挙したいと思う。たとえば次のようである〔前と同じく原文 2 段組。また、形容詞で性による違いがある場合、ラントはローマン体 (本文のブラックレターに対して) で hic, hæc, hoc; hi, hæ というラテン語の指示代名詞を用いて性を明示している。なおコンマやピリオドの有無が不統一なのはすべて原文どおり〕:
  • a qvuja at frygte.〔現 at kvíða。恐れる、不安に思う〕
  • a atla, tænke, slutte.〔現 at ætla。〜するつもりである〕
  • a kujla, dræbe.〔現 kíla。殺す。フェーロー語 kíla は Jacobsen og Matras によれば現在ではまれ〕
  • a fjoltra, skjelve.〔現 at fjøltra (?)*, at skælve。震える〕
  • a tarna, forsinke.〔現 at tarna。邪魔する、阻止する、遅らせる〕
  • a hikja, see.〔現 at hyggja, se。じっと見る、見まわす、観察する。ラントのデンマーク語訳 se はたんに「見る」だが、詳細別記**〕
  • Ogn, Ejendom.〔現同。財産、とくに土地・不動産。〕
  • Huur, Dør.〔現 hurð。扉〕
  • Got, Dørstolpe.〔不明。dørstolpe は戸枠、扉を据えつけるところの枠や柱のことだが、それをそのままフェーロー語に直すと durastavur となる。got という音に対応しそうなつづり (たとえば gott) で似た意味の語は見つからず〕
  • Likel, Nøgel.〔現 lykil, nøgle。鍵〕
  • Munere, Forskjel.〔現 munur。差、違い〕
  • Tkjæk, Disputeren.〔現 kjak。口論、論争〕
  • Tkjolk, Kind.〔現 kjálki。頬〕
  • Vørren, Læben.〔現 vørrin [vørr の既知形]。唇 (既知形)〕
  • Ylverin, Drøvelen.〔現 úlvurin [úlvur の既知形]。口蓋垂 (既知形)。úlvur は同音同綴で「狼」の意もあるが、デンマーク語訳 drøvelen (= drøbelen) に従った。〕
  • Spjarar, Pjalter.〔現 spjarrar [spjørr の複数主格]。ぼろきれ、くず〕
  • qviik, hurtig.〔現 kvik, hurtigt [-ig の形容詞の副詞的用法が様態を表す場合、現代では -t]。速く、急いで〕
  • erqvisin, ømskindet.〔現 erkvisin。敏感な、脆弱な、傷つきやすい〕
  • fit, flink, ferm.〔現 fitt [fittur の中性]。器用に、巧みに〕
  • prud, pyntet.〔現 prútt [prúður の中性]。堂々として、華美に、派手に〕
  • hunalir, tækkelig.〔現 hugnaligur。楽しい、心地よい〕
  • hic vækur.
  • hæc vøkur.  } vakker.〔現 vakur, vøkur, vakurt。きれいな、美しい〕
  • hoc vækurt
  • reak, maver.〔現 rak。痩せこけた、貧相な。デンマーク語 maver は mager の古い異綴〕
  • bujt, halvtosset.〔現 býtt [býttur の中性]。愚かに、間抜けに〕
  • raaka, topmaalt.〔現 rokað [rokaður の中性], topmålt。まったく、徹底的に〕
  • hic lofnavur
  • hæc lofnad  } kold〔現 lofnaður, lofnað。かじかんだ。ラントのデンマーク語訳 kold はたんに「寒い」だが、Jacobsen og Matras の説明では „stiv af kulde om hænderne (fingerne)“「手や指が寒さでこわばっている」さまを言う〕
  • hic gæmalor
  • hæc gomal   } gammel.〔現 gamalur***, gomul, gamalt。古い、年老いた〕
  • hoc gæmalt
  • hi trytjir
  • trytjar } tre.〔現 tríggir, tríggjar (中性 trý)。(基数詞の) 3〕
  • imist, forskjellig.〔現 ymiskt または ymist [発音は同じ。ymiskur または ymissur の中性形], forskelligt [前掲 hurtigt の注を参照]。さまざまに〕
  • ivarlest, uden Tvivl.〔現 ivaleyst。疑いなく、確かに〕
  • korteldin, alligevel.〔現 kortildini [= kortini, korti]。それにもかかわらず、〜であるけれども〕
* 現代のフェーロー語辞典には見いだされないが、スヴェアボに中性名詞 Fjøltur が立項されており、それに対応していた動詞形ではないか。

** スヴェアボの語釈 (higgja の項) では « circumspicere »「見まわす」、« oculis perlustrare »「目を通す」、« oculos advertere »「目を向ける」、« collustrare oculis »「目で精査する」などとされている。しかし Jacobsen og Matras による現代語では betragte「観察する」より先に se, kigge「ちらっと見る、のぞき見る」、se (kaste et blik) på「一瞥する」が出る。

*** ラントの gæmalor という表記から推して男性単数主格語尾に音節を加えたが、規範的には現在 gamal である。語尾をもつ gamalur という形は現代でも話し言葉においてしばしば見られる (Thráinsson et al. 2012: p. 103, n. 3)。

フェーロー語の見本として、2 人の農夫のあいだの会話を、その翻訳を加えつつ書き写してみよう〔文番号は原文にない。またこれより下はほぼすべてフェーロー語なのであえてイタリックにはしない〕:
  1. Geûan Morgun! Gud signe tee! Qveât eru Ørindi tujni so tujlja aa Modni?
  2. E atli meâr tiil Utireurar.
  3. Qvussu eer Vegri? qvussu eer Atta?
  4. Teâ eer got enn, men E vajt ikkji, qvussu teâ viil teâka se up mouti Dei.
  5. Viil tu ikkji feâra vi?
  6. Naj!
  7. Qvuj taa?
  8. Tuj E vanti mêar ajnkji aa Sjeunun, o tea eer betri a feâra eât Seji.
〔現代フェーロー語の正書法に改めると次のとおり:
  1. Góðan morgun! Gud signi teg! Hvat eru ørindi tíni so tíðliga á morgni?
  2. Eg ætli mær til útiróðrar.
  3. Hvussu er veðrið? Hvussu er ættað?
  4. Tað er gott enn, men eg veit ikki, hvussu tað vil taka seg upp móti degi.
  5. Viltú [= Vilt tú] ikki fara við?
  6. Nei!
  7. Hví tá?
  8. Tí eg vænti mær einki á sjónum, og tað er betri at fara at seyði.〕
デンマーク語では〔ここでは日本語にする〕:
  1. おはよう。神の祝福が君にあるように。こんな朝早くになんの用だ?
  2. 釣りに出ようと思ってな。
  3. 天気はどうだ? 風向きは?
  4. まだ良好だよ、だが明け方にはどうなるかわからん。
  5. 一緒に行かないか?
  6. いいや。
  7. なんで?
  8. なんか釣れるとは思えないし、羊たちの世話をするほうがいいからだよ。
〔文法の解説はないので、ここでは私が独自に付す:
  1. signi は signa「祝福する」の接続法。フェーロー語の接続法はきわめて衰退しており、現在形しかなくまた人称および数の別なく同形で、このように決まった言いまわしにのみ用いる。ørindi「用事、使い」は単複同形の中性名詞。ここでは複数であることが tíni「君の (tín の中性複数主・対格)」と eru「〜である (vera の現在複数)」との一致から知られる。
  2. ætla「〜するつもりである」のあとの再帰代名詞 sær (ここでは mær) はあってもなくてもよい (少なくとも現代語では)。する内容には at 不定詞をとるが、ここでは動詞なしに使われている。útiróðrar は útiróður「漁、船釣り」の単数属格。úti- は út- とも。このように前置詞 til「〜へ」は本来属格を支配したが (アイスランド語では現在もそう)、いまのフェーロー語では属格はかなり廃れて決まり文句か文語にのみ用い、til のあとには対格がふつう。
  3. ættaður はこの言いまわしにしか使わない形容詞で、ættað は中性形。男性形で Hvussu er hann ættaður? とも言える (これは 3 人称単数男性の人称代名詞 hann を天候を表す仮主語にした表現)。名詞 ætt「向き、方角」を使って言う Hvaðan er ættin? も同じ意味。
  4. 天候を表す仮主語 tað。veit は vita「知っている」の直説法現在 1 人称単数、これはいわゆる過去現在動詞で特殊な活用をする。taka seg upp は「上昇・増加・発展する」で、天気について言う場合「発達する、なる、変わる」ということ。ここでは文脈から悪くなることが想定されているが、よくなる場合にも言える。
    「朝早く」に来てまだ「明け方」まで時間があるとは不思議に思われるが、北緯 60 度を越えるフェーロー諸島の日の出の時間は季節によって大きく変わり、試しに本日 12 月 12 日のそれを調べてみたら現地時間で朝 9 時 41 分であった (ちなみに日の入りは 14 時 59 分、たった 5 時間あまりしか日が出ていない!)。電灯のない 18 世紀の農民はいまの私たちよりよほど早寝早起きであっただろうし、これなら彼らの言う「朝早く」から「明け方」まで時間の開きがあってもおかしくはない。
  5. tá は「そのとき、それから」という副詞で、アイスランド語 þá やデンマーク語 da に対応する。この hví tá はこのまとまりとして Jacobsen og Matras で „hvorfor det?“, Timmermann で „warum/wieso das?“ と出ているので、深く考えないほうがよいかもしれない。もしかするといまで言うところの心態詞的用法か?
  6. tí は「〜だから」という理由を表す接続詞として使われており、これはもともと人称代名詞の中性単数与格形である。アイスランド語 því と平行。単独でもこのように使えるが、av tí at (アイスランド語 af því að) という組みあわせでも言う。
    ついでにデンマーク語 thi も同じく代名詞 den の古い格変化形に由来し同じ意味である。これは現代デンマーク語では古めかしく格式張った語だが、この時代にはまだ一般的でたとえばアンデルセンの童話にもふつうに使われている (fordi のほうが口語的であったが)。
    vænta「待つ、期待する」。einki は eingin「なにも」の中性単数対格。sjónum は sjógvur「海」の単数与格既知形 (sjógvinum という形もある)。この前半を直訳すれば「海でなにも〔得られると〕期待できない」ということ。seyði は seyður「羊」の単数与格。この単語はしばしば集合名詞的に用いられ、単数だが実際には多くの羊が意図されている。ラントはこの箇所のデンマーク語訳で脚注に „Svabos Efterretning“「スヴェアボの修正」と記し、本文で正しく „Faarene“ と複数既知形にしている。
この一連の文章を見てもラントの表記法が不注意であることが知られる。たとえば語頭の子音以外はまったく同じ音韻的環境にある代名詞 eg, teg, seg の e が E, tee, se とばらばらにつづられている。また彼は (同時期のほかの著者と同様に) eâ や eû のようにサーカムフレックスを用いて一部の二重母音を記すが、同じ mær「私に」が 2 文めでは meâr、8 文めでは mêar と別様に書かれているし、同じく 8 文めでは Sjeunun, tea とサーカムフレックスなしの二重母音が見えるがこれはほかの箇所の teâ や Geûan と不整合である。〕


ことわざ

Sjoldan kemur Du-Ungje eâf Rafes Æg.〔Sjáldan kemur dúvungi úr ravnseggi.〕カラスの卵からハトの雛が孵ることはめったにない。その心は:悪い親からよい子どもが生まれることはめったにない。〔ラントの eâf を見るかぎりここの前置詞は av のつもりに見えるが、現在通用しているものは前掲括弧内の úr の形。〕

Ommaala døjr ikkje.〔Ámæli doyr ikki.〕中傷は死なない。その心は:他人を中傷する者は、ついには翻って中傷される運命に違いないのである。

Got eer oufotun a beâsa.〔Gott er óføddum at bæsa.〕生まれていない者に勝つことは容易い。その心は:相手が誰もいないところで勝利を得ることは容易い。〔óføddum は複数与格。この節ほかの例文も似たり寄ったりだが、格言のためにかかなり変則的な語順である。〕

Ofta teâka Trodl gaua Manna Bødn.〔Ofta taka Trøll góða manna børn.〕邪霊 (トロル) はしばしば優れた者の子をさらっていく。こう言われるのは、尊重・崇敬さるべき人物の娘が惨めでその身分より下の男と結婚するときである。

〔副詞 ofta が文頭に出て倒置。単複同形の trøll はここでは複数で taka が 3 人称複数形。góða manna は複数属格 (未知形のため強変化) で børn の所有者を示している。現在であれば属格ではなく対格として所有者を後置か (しかしこれも 20 世紀後半のあいだに後退しつつある表現という)、あるいはもっと普及しているのは〈til + 対格〉か〈hjá + 与格〉の前置詞句である。さらに詳しくは Barnes and Weyhe 1994, pp. 207f. を見よ。〕

Tunt eer thæ Blau, ikkje eer tjukkare end Vatn.〔Tunt er tað blóð, [ið] ikki er tjúkkari enn vatn.〕水よりも濃くない血は薄い。

〔「血は水よりも濃い」の意、つまり他人より血縁者のほうが信頼できるという謂い。tunt は tunnur「薄い」の中性単数主格。コンマのあとには関係小辞 ið または sum を補うのが現代のふつうの言いかたで、これは関係節内で主語の役割であるから現代語では省略できない。tjúkkari は tjúkkur「濃い、厚い」の比較級。なお、これまでラントは teâ や tea と書いてきた現 tað をここだけ thæ というかなり異色な (まるで古デンマーク語に見える?) 表記をしている。〕

Betri eer a oja end Braur a bija.〔Betri er [sjálvur] at eiga enn bróður at biðja.〕兄弟に乞うよりも〔自分で〕所有するのがよい。

〔現在一般的な形は sjálvur「自分自身」を含んでおり、これを欠くと意味も通りづらいので脱字でないかと思うが、昔はそれでも通用したのかもしれない。enn「〜より」の前後でパラレルな文になっているように見えるがじつはそうではなくて、sjálvur は男性単数主格で、ここでは動詞 eiga の意味上の主語と同格として働いているに対し、bróður は bróðir「兄弟」の単数対格で、biðja「乞う、頼む」の目的語である。〕

Ojngjin vojt aa Modni a sia, qvær han aa Qvøldi gistir.〔Eingin veit á morgni at siga, hvar hann á kvøldi gistir.〕誰も朝のうちに自分が晩には誰の客となるか言うことはできない。その心は:誰も朝のうちには自分になにが起こるかわからない。

Ojngjin stingur anna Mans Badn so uj Barman, a Føterne hængje ikkje êut.〔Eingin stingur anna[rs] mans barn so í barmin, at føturni[r] hangi ikki út.〕誰もほかの人の子どもをその足が外にぶら下がらないように胸に突っこむことはない。〔stinga「(e-t í e-t …を〜に) 突き刺す」。barman はデンマーク語訳 Barmen に照らして barmur「胸」の単数対格既知形 barmin と解した。føturnir は fótur「足」の複数主格既知形。〕

Sjoldan kemur Flua uj Fojamannas Feâd.〔Sjáldan kemur fluga í feiga manna fat.〕Fojaman とは、運命の定めに従ってその年の終わりまでに死すべき者のことである。そのような者の皿からハエが出ることはめったにない〔と訳される〕。それゆえもしハエが料理に入るようなことが起これば、このことわざによると、人はその年のうちに死ぬはずではないというよい予兆であることになる。

依然として使われている古い人名のうちに以下のものが見られる:男性名。John. Haldan. Harald. Gulak. Gutte. Djone. Anfind. Ejdan. Guttorm. Kolbejn. Hejne. Likjir. Jeser. Øjstan. 女性名。Sunneva. Zigga. Ragnil. Femja. Armgaard.

そのほか注意に値することとして、フェーロー諸島人はいつも彼ら自身の言語を話すにもかかわらず、そのアクセントはノルウェー語におけるものといくぶん近いもので、彼らはしかしまたほとんど完全によくデンマーク語を理解するのであり、この言語でキリスト教が教えられ礼拝が執り行われ、じっさい彼らのうち多くは正確で上等なデンマーク語を話しさえするし、彼らの口から聞くこの言語こそはその他のデンマークの属領 (Provintser) に住む農村民衆のそれと比べてもはるかに明瞭できれいなのである。

dimanche 9 décembre 2018

フェーロー語強変化動詞の分類

フェーロー語 (フェロー語) はアイスランド語に比べれば変化が進んでいるとはいえ、ゲルマン祖語にあった強変化動詞の 7 分類をアイスランド語と同じくそれと明瞭に見てとれる形で現在も残している古風な言語である。

私はゲルマン語一般の研究および研究史についてはとんと暗いほうなので、前記事で紹介したラスクによる 1811 年のアイスランド語文法以来どのようにして動詞の活用分類が現行の形と順番に落ちついたのか知るよしもないが、わかっているのは遅くとも Prokosch による 1938 年の定評あるゲルマン語比較文法の時点ではすでにそのとおり完成されているということである。

現代のフェーロー語文法を手当たりしだいに見比べてみると、少なくとも強変化動詞については、Prokosch や Gordon and Taylor に見るようなゲルマン祖語・古ノルド語文法におけるアプラウト系列の分類・番号づけをそのまま継承した呼び名になっているように見える。

フェーロー語文法として以下のもの (並びは刊行年の新しい順) を参照し、略号として著者名の頭文字を用いる:
  • [TPJH] Höskuldur Thráinsson, Hjalmar P. Petersen, Jógvan í Lon Jacobsen, and Zakaris Svabo Hansen (2012). Faroese: An Overview and Reference Grammar.
  • [DM] Kári Davidsen og Jonhard Mikkelsen (2011). Ein ferð inn í føroyskt. 2. útg.
  • [PA] Hjalmar P. Petersen and Jonathan Adams (2009). Faroese: A Language Course for Beginners. Grammar.
  • [AD] Paulivar Andreasen og Árni Dahl (1997). Mállæra.
  • [H] Jeffrei Henriksen (1983). Kursus i færøsk II.
  • [L] William B. Lockwood (1955). An Introduction to Modern Faroese.
  • [K] Ernst Krenn (1940). Föroyische Sprachlehre.
これらのうち、古いほうに属する K および L を除いて、すべての文法で強変化動詞はゲルマン祖語・アイスランド語のそれと一致する 7 分類が行われている。すなわち、強変化 I 類とは (2 番めに現在単数を入れる 5 項の書きかたもあるがここでは除いて) 不定法・過去単数・過去複数・完了分詞の順に í–ei–i–i というアプラウトのパターンを呈するもの、II 類とは ú/ó–ey–u–o、III 類とは代表的には e–a–u–u/o、といった要領で、番号づけも同じものを使っているのである。

(注 1) ここでゲルマン語・古ノルド語の知識がある人には II 類過去単数の ey がひっかかったかもしれないが、古ノルド語の二重母音 au は規則的にフェーロー語の ey に対応するのでこれでよいのである (たとえば中性複数代名詞 ON. þau 対 Før. tey「それら」や、基数詞の「7」ON. sjau 対 Før. sjey、名詞 ON. auga 対 Før. eyga「目」といった基本的な例が挙げられる)。

(注 2) 非常に古い K (これは実質的には 1908 年の Jákup Dahl のフェーロー語文法の翻訳だとも言われる) はしかたないとして、L がかなり大雑把な分類をしていることは少し不思議である。彼の分類では I 類から III 類までは現在主流のものに一致し、そのうち III 類は 3-1 と 3-2 に細かく分けているのだが、その次に来るのが ‘Miscellaneous vowel changes’ として現行の IV 類から VII 類までをすべてごちゃまぜにした ‘Class 4’ なのである。

なお K はどうかというと、これは意外にも番号が違うだけでほぼ現在の分類と平行している。すなわち K の言う強変化第 1 類は現在の III 類、第 2 類が IV 類と V 類の合併、第 3 類は VI 類、第 4 類が I 類、第 5 類が II 類、そして第 6 類 (これは 6A と 6B に細分されているが) は VII 類にあたっている。

ただし分類がそのとおり祖語や古語のアプラウトの 7 系列に沿って行われているとしても、現代フェーロー語の個別の動詞がどの類に属することになるかは共時的な記述の問題である。たとえば古ノルド語で IV 類とされていたある動詞に対応する同じ語が現代語でもかならず IV 類にあたるとは限らない。実際には類間の移動どころか強変化だったものが弱変化になることさえままあるのである。

また、7 分類そのものの大枠の特徴づけは一致しているとしても、フェーロー語の経た発達の結果として、パターンの記述が複雑になりがちなきらいはある。たとえば TPJH と PA は一致して強変化 V 類の「主な母音交替」(main vowel alternations) のパターンとして、1. e–a–ó–i, 2. i–á–ó–i, 3. e–á–ó–e, 4. ø–a–ó–ø, 5. i–á–ó–æ, 6. e–a–ó–e という 6 通りを掲げているが、これらに間違いなく共通しているのは過去複数の ó だけで、あとは過去単数でアクセント記号があったりなかったりする a/á、残りの不定法と完了分詞の母音では共通点を探すことも難しい (なおフェーロー語の ø は前舌ではない)。

このように、不定法 (や現在) ならびに完了分詞では母音のバリエーションが多様なため、H のように各類の特徴づけをただ過去単数と過去複数のみによって説明している本もある。以下の解説では AD (bls. 34) をベースにして各類のうちもっとも主要なるアプラウトパターンを最初に示し、細かな差異は都度補っていくこととする。

フェーロー語の強変化動詞 I 類は、í–ei–i–i という系列で特徴づけられる。これはラスクが対応するアイスランド語文法の「第 2 活用第 3 類」についてもっとも単純と評したとおり (前記事参照)、種々のバリエーションの例外というものに煩わされることのない簡単なパターンである。代表例は bíta「噛む」で、過去単数 beit, 過去複数 bitu, 完了分詞 bitið と活用する。ほか、blíva「〜になる」、grípa「つかむ」、skína「輝く」、svíkja「だます」などを全員が一致してここに挙げている。ドイツ語の ei–i–i (beißen–biß–gebissen, greifen–griff–gegriffen) あるいは ei–ie–ie (bleiben–blieb–geblieben, scheinen–schien–geschienen) と並行していることが見てとれる。

II 類は ú/ó–ey–u–o で、代表例は bróta「壊す」(現在 3 単 brýtur)、過単 breyt, 過複 brutu, 完分 brotið である。このように現在形で母音変異 (これはウムラウト) が起こる場合もあるので、親切な本 (DM や AD) は系列を ó–ý–ey–u–o のように 5 項で記している。またこの類に属する特殊な活用として、leypa–loypur–leyp–lupu–lopið「跳ぶ」が特別に言及されている場合がある (DA および L)。しかし現在で ó が ý に、ey が oy になるのは i-ウムラウトの規則的な適用であるから、それを知っていればじつは新しく覚えることはない (ただし VII 類に分類する人もいる。後述)。

III 類は e/i–a–u–u/o で、その 4 通りをすべて列挙すると brenna–brann–brunnu–brunnið「燃やす」、sleppa–slapp–sluppu–sloppið「逃げる」、binda–bant–bundu–bundið「縛る」、svimja–svam–svumu–svomið「泳ぐ」が見いだされる。brenna 型として drekka「飲む」や renna「流れる」、binda 型として finna「見つける」を代わりに用いてもよいであろう。

驚くことに、H はこの類に verða「なる、起こる」を含めている。これの時制変化は彼じしん書いているように varð–vórðu–vorðið であって過去複数が ó であるから、本当のところはすぐ下の IV 類に入れられるべきものである (DM と AD ではそうなっている)。なぜ H がそうしたのかは判然としないが、古ノルド語では verða は III 類に属していた (varð–urðu–orðinn) こととひょっとして関係があるのかもしれない。

IV 類は e–a–ó–o がもっとも典型的なパターンで、次の V 類との違いはもっぱら過去分詞の母音だけである (それゆえ前述のように K がこの 2 つの類を区別しなかったのは理由のないことではない)。代表に挙げられることの多い動詞は bera–bar–bóru–borið「運ぶ」または nema–nam–nómu/numu–nomið「とる」(独 nehmen)。また不定法の母音が o のパターンもあり、そこには sova–svav–svóvu–sovið「眠る」や koma–kom–komu–komið「来る」が属している。

最後の koma は過去単数が a でなく o になっているがこれは古ノルド語の時点からそうで、もと *kwam の wa が w の影響で wo に変わりのちに w が消失したのである (Gordon and Taylor, §§51, 63)。いま挙げた 4 つの動詞はすべて ON. でも IV 類であったが、しかし ON. sofa はさらに元来は V 類に属していたという (Ibid., §130)。

奇妙なこととして、AD は vera–var–vóru–verið (英語の be 動詞にあたる語) をこの IV 類に含めているのだが、これは他書 TPJH, PA, H では V 類である。すでに注意したとおり IV 類と V 類の違いは主に過去 (完了) 分詞の母音であるから、verið の e は IV 類の o よりは V 類の i に近いのではなかろうか?

V 類を特徴づけるアプラウトパターンはとりあえず e–a–ó–i と言っておく。しかし前述したとおり TPJH と PA はこの「主な母音交替」を 6 通り掲げるなど、一言で説明するのが難しい一筋縄でいかないグループである。e–a–ó–i 型の代表例は geva–gav–góvu–givið「与える」あるいは drepa–drap–drópu/drupu–dripið「殺す」が挙げられることが多い。

そのほか、分詞が e になる e–a–ó–e 型 (すぐ上で注記した vera が属する)、さらに過去単数が á になる e–á–ó–e 型 (eta–át–ótu–etið「食べる」)、最初と最後が i になる i–a–ó–i 型 (sita–sat–sótu–sitið「座る」や biðja–bað–bóðu–biðið「請う」) と、同じく最初と最後が ø である ø–a–ó–ø 型の kvøða–kvað–kvóðu–kvøðið「歌う、詠唱する」、そしてこれらと比べればかなり特異に見える í–á–ó–æ の交替を示す síggja–sá–sóu–sæð/sætt「見る」がある。

ただしこの最後のものについては困難があること、TPJH, p. 146 が「síggja『見る』の母音交替はまったく不規則であり、この動詞がそもそもここに挙げられたほかの動詞といっしょに分類されるべきかどうかすら議論の余地がある」(The vowel alternations of síggja ‘see’ are quite irregular, so it is debatable whether the verb should at all be classified with the other verbs listed here.) と評価するとおりである。

私見では、ø–a–ó–ø の kvøða とてかならずしも納得しやすいわけではない。共時態を見るとき、フェーロー語において e や i がなんらかの作用によって ø に変わることはありえないのであるから、これはむしろ IV 類の o–a–ó–o の特殊例とみなしたほうが理解しやすい気がする。しかし事実を言うとこれは古ノルド語の kveða (e–a–ó–e, すなわち V 類) から変化して生じた語形であるからここに属せしめることが正当なのである。この動詞を V 類とすることでは TPJH, PA, H が一致しており異論はない (DM および AD には見いだされない。また K では第 2 類 [= IV+V 類]、L では第 4 類 [= IV+V+VI+VII 類] の粗い分類だが少なくとも反対的ではない)。

VI 類は a–ó–ó–a のほか、細かく言えば a–ó–ó–i, á–ó–ó–i, ø–ó–ó–o というパターンが主にあるが、いずれにせよ過去単数・複数がともに ó であるという特異な性質を共有している。代表例は fara–fór–fóru–farið「(乗り物で) 行く」、standa–stóð–stóðu–staðið「立つ」、taka–tók–tóku–tikið「とる」など重要で基本的な単語が多い。不定法が á の例は sláa–sló–slógu–sligið「殴る」、ø の例は svørja–svór–svóru–svorið「誓う」がある。

VII 類にアプラウト系列の規範を立てようとすることはほとんど不可能に見える。TPJH, PA は 8 種類の下位分類を設けているが、これはほとんど無秩序に観察事実を並べただけのように見える。ともあれその 8 つのうち最初に置かれているのが a–e–i–i という系列で、これは AD も bls. 34 では VII 類の代表のように言っているが、同書は実際に活用を論じる bls. 126 に至ってはパターンを挙げることを断念している。DM および H はこの類に母音交替の型を示さず、ただこのグループを畳音動詞 (重複動詞、tvífaldanarsagnorð, reduplikationsverb) と呼んでいる。

例としては halda–helt–hildu–hildið「保つ;考える」、ganga–gekk–gingu–gingið「行く、歩く」、falla–fall–fullu–fallið「落ちる」、fáa–fekk–fingu–fingið「得る」、eita–æt–itu–itið「〜という名である」、lata–læt–lótu–látið「させる」などがある。古ノルド語の対応語を示すと、順に halda, ganga, falla, fá, heita, láta/lata である。TPJH, PA および H はなぜかここに leypa を含めているが、これはすでに検討したように II 類として説明可能である。おそらく古ノルド語の hlaupa(–hljóp–hljópu–hlaupinn, VII 類) を意識しての分類ではないか。

samedi 8 décembre 2018

フェーロー語文法研究 (前) 史 1650–1900

フェーロー語 (フェーロー語:Føroyskt, デンマーク語:Færøsk, ドイツ語:Färöisch, フランス語:Féroïen, 英語:Faroese;フェロー語とも) に関する記述として、もっとも古いものは 17 世紀に遡る。フェーロー諸島の気候・風土や政治・文化・宗教などに関する著述のなかに見いだされる断片的な記載がそれで、この種の著作として、
  • Wolff, Jens Lauritzsøn (1651). Norrigia Illustrata, eller Norriges med sine underliggende Lande oc Øer, kort oc sandfærdige Beskriffvelse [...].
  • Tarnovius, Thomas (1669). Ferøers beskrifvelser. [現物未見、完全なタイトル不明。]
  • Debes, Lucas Jacobsøn (1673). Færoæ et Færoa reserata: Det er Færøernis oc færøeske Indbyggeris beskrifvelse [...].
を挙げることができる。たとえば Wolff の s. 201 に次のような描写がある:
Dette Lands underliggende Øer, er hen ved sytten, oc lige som at Øerne ere store til, saa haffve de oc der paa mange Kircker, oc Prædicker deris Præster, Danske Maal for deris Tjlhører, huilcket de vel forstaar, oc kunde Lands Folcket lige som de Norske, læse udi Danske Bøger, oc den ene den anden, der udi lærer oc underviser; Men ellers tale de oc naar de ville, saaledis imellem sig sielff, at huo som er icke vant med dem at omgaas, da kand mand dem icke forstaa.
古いデンマーク語でどうも理解しづらいが、だいたいのところを解釈してみる:フェーロー諸島の 17 の島々にはおのおのの面積に応じて大小の教会があり、そこで牧師たちはデンマーク語で聴衆に説教をする。島民たちはそれを「ノルウェー語」と同様によく理解できており、デンマーク語の本を読み教えあっている。しかし彼ら島民どうしのあいだでは、彼らとつきあいなれていない者には理解ができないしかたで話したがるという。

もうひとつ関連箇所、すなわち Debes, s. 253 から引用してみよう:
Deris Spraack er Norsk, dog udi disse Tjder meest Dansk, dog hafve de endnu beholdne mange gamle Norske Ord, oc er der ellers stoer Forskiel mellem deris Tale hos det Folck som boer Norden i Landet, oc hos dem som boe udi Suderøerne.
これは上のものに比べればずいぶんと読みやすいが、しかしその意味するところがはっきりしているとは言いがたい:彼ら〔フェーロー諸島人〕の言語はノルウェー語であるが、この時代においては主としてデンマーク語である。しかるに彼らはいまだ多数の古いノルウェー語の単語を保持している。また島の北部に住む人々の言葉と南部に住む人々のそれとのあいだには大きな違いがある。

Mitchinson (2012, p. 92) もこの „meest Dansk“ (‘mostly Danish’) という箇所を ‘hard to interpret’ としているが、彼が引いているように Debes の復刻版を刊行した Rischel (1963) の序説の示唆するところでは、この当時に諸島の教会・教育・行政の言語がデンマーク語であったという意味だとすれば前掲 Wolff と軌を一にするであろうということである。

もっともそういった詳細はいまは脇においてよい。われわれがまず注目すべきところはひとつで、このとおり 17 世紀にはフェーロー諸島人の話している言語はノルウェー語、あるいはそれが理解しがたいほどに訛ったもの、とみなされていたという事実である。フェーロー語という独立の言語として扱う意識はまだ存在しなかった。

この見かたは次の 18 世紀後半から 19 世紀はじめにかけて変わっていく。デンマーク人の牧師 Jørgen Landt は世紀末の 1800 年に、上掲のテーマと同じようにフェーロー諸島の風土や文化を取り扱った書籍 Forsøg til en Beskrivelse over Færøerne を刊行しているが、その「言語について」(Om Sproget) と題する節 (s. 436–440) は次のように書きだされている:
Det færøeske Sprog forekommer en Fremmed i Begyndelsen meget uforstaaeligt, men man lærer at forstaae det, førend man ventede det; thi en stor Deel af Ordene er gamle danske eller rettere norske, hvilke ved en fordrejet Udtale have faaet et fremmed Udseende;
ここにはまず「フェーロー語」(det færøeske Sprog) という名前が現れている。そして (デンマーク語母語話者にとっては)「〔長く〕待つこともなく理解できるようになる」と述べる点ではあまり言語間の違いを認めていないようにも見えるが、このような事態が出来するのはもともと北欧語間に大きな差異がない事情にもよる。じっさい、ラントがフェーロー語習得の容易さの理由を「大部分の単語が古いデンマーク語、あるいはむしろノルウェー語であるから」と言っているとき、1800 年にはまだデンマーク゠ノルウェー同君連合が生きていたことを思いおこせば、デンマーク語とノルウェー語を別物とみなすのと同程度にはフェーロー語もまた別個の言語であると考えていたことになろう。

そしてこの段落の下にラントはデンマーク語とフェーロー語で発音が少し違うだけの単語の対を数十組並べたあと、「しかしフェーロー語には多くの独自の点があり、それについて若干の列挙をしたいと思う」(Dog ere mange egne for det færøeske Sprog, af hvilke jeg vil anføre nogle) として、デンマーク語話者には一見してわからないと思われるフェーロー語の単語と、日常のシーンの会話見本にことわざ (デンマーク語の対訳あり)、フェーロー人の男女の人名例を紹介している。

〔12 月 12 日追記。ラントのこの部分を訳出し、現代フェーロー語のための訳注を施した記事を書いたのであわせてご覧いただきたい:「18 世紀のフェーロー語瞥見」〕

ところで順番は前後するが、この間にフェーロー諸島生まれのイェンス・クリスティアン・スヴェアボ (Jens Christian Svabo, 1746–1824) という人が出て 1770 年代ころから仕事を始め、フェーロー語・デンマーク語・ラテン語辞書 Dictionarium Færoense やフェーロー諸島のバラッド (民謡、デンマーク語で言うフォルケヴィーサ) を書きとめて編纂したのだが、いずれも手稿のままに終わり出版されることがなかったためこの時点で影響を及ぼすことがなかった。彼のこれらの著作はメアトラス (Christian Matras) の編集によって 20 世紀のなかばになってからようやく刊行されている (民謡集は 1939 年、辞書は 1966–70 年)。

フェーロー語の学問的な取り扱いに先鞭をつけたのはなんといってもラスクに始まると言っていいだろう。ラスクは 1811 年に世界初の体系的な (そしてすでにかなりの程度完成されていた) アイスランド語文法として名高いあの『アイスランド語あるいは古ノルド語への手引』(Vejledning til det islandske eller gamle nordiske sprog) を出版したが、このなかに若干のフェーロー語文法が描かれている (第 7 部 §§16–24: s. 262–282)。その前置きとして §3 (s. 240) に
[...] Paa Færøerne derimod har det gamle Sprog endnu vedligeholdt sig i en egen fra Islandsken noget afvigende Sprogart. Imidlertid er det dog gaaet med Islandsken paa Færøerne, som med Dansken i Slesvig;
と言うように、この本で彼はまだフェーロー語をアイスランド語の多少異なった方言として扱っているのであるが、実際のところ彼はフェーロー語の位置づけに迷っていたのであって、総じてこの『手引』以外の著作では、アイスランド語に非常に近いが独立したノルド語のひとつとして扱っているという、Skårup (1964, s. 5) の次の証言を引いておく:
Den placering af færøsk i forhold til de andre nordiske sprog, som Rask foretog allerede i sin skoletid alene på grundlag af eksemplerne hos Landt, ændrede han således ikke siden. Han vaklede mellem at regne færøsk som en sprogart inden for det islandske sprog og som en selvstændig nordisk sprogart, som dog lå islandsk meget nær. Den sidste opfattelse var den almindeligste hos ham, den første findes kun i Vejl.
さてその『手引』はラスク自身の手によってスウェーデン語訳された増補版 Anvisning till isländskan eller nordiska fornspråket が 1818 年に出ている。これは章や節の番号づけが通し番号に変えられているほか随所に差異があり一見すると同じ著作とは思われない見かけだが、じつはフェーロー語に関しても大きな違いがある、というのは 1811 年版にあった文法の一切が削除されてしまっているのである。唯一残っているのは先の引用部分 (Rask 1811, s. 240) に対応する第 7 部第 24 章 §519 (s. 278f.) の次の記述である:
På Färöarne talas ännu en folkdialekt, som nårmar sig Isländskan betydligt, men som dock har litet intresse, emedan den har ingen Litteratur, utom några folkvisor, hvilka likvål hittills icke genom trycket blifvit utgifna.
つまるところ、フェーロー語には (未刊の) 若干のバラッドを除いて文学というものがないため関心がないというのである。もっともこの書物が古アイスランド語文学のための文法であることを思えば当然の判断と言えよう。

ところでその「若干のバラッド」(några folkvisor) というのが前出スヴェアボの未公刊の著作を指していたのかどうかは定かでない。というのは、ラスクはたしかにスヴェアボの仕事を知っていたようなのであるが、このすぐ 4 年後の 1822 年には別の人 H. C. Lyngbye がフェーロー語版ジークフリート伝説とも言うべきバラッドをまとめた著作 Færøiske Qvæder om Sigurd Fofnersbane og hans Æt を出版するからである。ラスクのスウェーデン語版『手引』の英訳 (George Webbe Dasent による。1843 年) を見るとこの箇所の脚注で ‘These ballads were published with a Dansk translation by Lyngbye, Randers 1822.’ と言われているのである。ただし 1843 年といえばすでにラスク死後 (1832 年没) のことであるから英訳者は著者に確かめてこう記したはずはなく、いまだ発表されていないスヴェアボの仕事を彼が知らなかっただけかもしれない。

このほかにもフェーロー語を本文とする出版物がだんだんと現れてくる。まずは 1823 年の J. H. Schrøter によるマタイ福音書のフェーロー語訳。それから 1832 年にはこのブログでもすでに取りあげた『フェーロー諸島人のサガ』のフェーロー語訳を含む C. C. Rafn の Færeyínga saga eller Færöboernes historie i den islandske grundtekst med færöisk og dansk oversættelse が登場する (フェーロー語の訳者は Schrøter)。1822 年のリュングビューから始まるこれら 3 冊こそ、フェーロー語による最初の印刷出版物として永久に記念されているのである。

この間に注目されるのは、1829 年ころ Jacob Nolsøe (1775–1869) なる人物がフェーロー語文法 Mállæra を書きあげていたらしいという事実である。しかしながらこの作品は現在に至るまで公刊されておらず、ただアウルトニ・マグヌソン写本コレクション (Den Arnamagnæanske Samling) のうちの写本番号 AM 973 として保存されているとの由である。彼は晩年のラスクとも交際があり、そのフェーロー語文法や正書法に関して書簡のやりとりが知られている (Skårup, s. 6)。またフェーロー諸島に移住したアイスランド人 Jón Guðmundsson Effersøe という人も同様にフェーロー語の正書法に関して同じころラスクと文通していたそうだ。

すなわち、ラスクはこの最晩年の時期 (彼は若死であったため、晩年といっても 40 代前半である) にもフェーロー語に関心を抱いていた。既述のとおりこのころフェーロー語の出版物はようやく出はじめたばかりであったので、まだフェーロー語の正書法というものは固まっておらず、18 世紀のスヴェアボの辞書やラスクの文法、シュレーターのフェーロー語訳マタイ伝やフェーロー人のサガ等々は、現代の正書法とはまったく異なる、むしろ実際の音声に即したつづりを試みていた。

現在のフェーロー語のような、実際の発音とはかなりかけ離れて語源的配慮にもとづいた、かつアイスランド語に強く影響を受けた正書法を確立させたのは、V. U. Hammershaimb の尽力によるところが大きい。この人は早くも 1854 年にデンマーク語でフェーロー語文法の小冊子 Færøisk sproglære を書いているが、彼のものはその後の半世紀以上にわたって唯一のフェーロー語の手引でありつづけた (Jákup Dahl による 1908 年の学校教育用文法が登場するまでのこと)。

ところでこの間にあまり知られていないスウェーデン語の論文、Nore Ambrosius による Undersökningar om ordfogningen i färöiskan (1876 年) という本文 30 ページほどの小冊子がある。これはどうやらフェーロー語の統語論を取り扱った時代に先駆けた研究であるようだが、私じしんスウェーデン語がよく読めないことと、諸研究もこの著作を名前だけ挙げているばかりで詳細な書評が見あたらないのでどの程度のものか判断がつかない。

19 世紀最後のそしてもっとも重要な仕事として挙げられるのが、Hammershaimb と Jacobsen の編になる Færøsk anthologi 全 2 巻 (1886–91) である。第 1 巻選文篇の巻頭には、ハンマシュハイムによる先の文法を増補改訂した 100 ページを超える「歴史的・文法的序説」(historisk og grammatisk indledning) が収められている。また第 2 巻はほとんどフェーロー語・デンマーク語辞典とも称すべき大きな語彙集になっている。この本に見られるフェーロー語正書法は、まだ ö と ø が入りまじっている (当時のデンマーク語では開音と閉音で使いわけていた) ことなど些細な相違を除けばすでに現代のそれと見分けがつかないものである。

歴史的・語源的な意識に導かれた現行のフェーロー語正書法にはいまも異論がなきにしもあらずのようだが、ハンマシュハイムの当時からすでに反対派は存在していた。考えてもみれば、先駆者たるスヴェアボやラスク、リュングビューやシュレーターたちがみな発音に忠実なつづりかたを試行錯誤していたのだから (あれだけ古アイスランド語を偏愛したラスクからしてそうだったのだから!)、むしろハンマシュハイムのほうが異色で急進的だったはずである。じつはハンマシュハイム自身ももともとは前者に近い立場だったが、N. M. ピーターセン (この人はラスクの学生時代からの友人でもあった言語学者) の説得の影響があったらしい (Hovdhaugen et al., §4.5.2.2 参照)。デンマークが誇る言語学者イェスペルセンは自叙伝のなかで次のように述べるところがある (前島訳、20 頁):
私が王立学生寮にいたころ、フェーロー語学者 V. U. Hammershaimb の二人の令息達もそこに住んでいた。私は多数のフェーロー語の音韻関係を調べ、Hammershaimb とその若い助手 Jacob Jacobsen を助けて「フェーロー詩華集」の中の音標文字を執筆した。私はまた 1884 年の五旬節に南ゼーランドの Hammershaimb の牧師館の客となった。彼はフェーロー文語を創ったが、それは彼の若いころの見地に基づいて(古代)アイスランド語の綴字法に似せたきわめて擬古的なものであった。私は彼に対してスウィートの語を引用した:語原が興味があり有益であるとの理由で、現代語を歴史的・語原的見地から綴ることは、すべて綴字の固定化をはかる者が分別くさく首にマコーレーの『英国史』をぶら下げて歩くようなものだ。」古代やアイスランドに拘泥せずに、もっぱらこの言語の現在の語形に基づいてフェーロー文語を創造する方が正しいというのが私の考えであった。しかし彼は自己流を固執した。
結局イェスペルセンのこの諫言は容れられず、ハンマシュハイムとヤコブセンによる大部な Anthologi の採用した歴史的つづり字が影響力をもつようになった。

とはいえ学習者にとってこれはかならずしも悪いことばかりではない。学習者はつづり字から発音を導きだす規則を大量に覚えねばならなくなったが、それとひきかえに文字上の語形変化には混乱する点が少なくなっていると言える。

例として英語の to have にあたる動詞 at hava は、過去単数 hevði、過去複数 høvðu のように変化するが、これらを発音に忠実に、たとえばラスクの 1811 年文法に従ってつづると、順に heava, heji, höddu となる。歴史的綴字法では h_v- という語幹の子音字のおかげで同じ動詞の活用形であることが明瞭、また共通する弱変化過去接尾辞の -ð- のおかげで hevði, høvðu はその過去形であることがわかりやすく見てとれるのに対し、heava, heji, höddu では同じ動詞なのかどうかすら見かけには明らかでない。名詞でも同様で、たとえば dagur (英 day) の格変化をどうつづることになるか考えてみるとよろしい。

フェーロー語の母語話者ではない私たちにとって、このために読み書きはむしろ容易になっている。この正書法の弊害を被っているのはむしろ母語話者のほうなのではないか。ネイティヴはいちいち意識しなくとも自然に格変化を体得している。そうすると dagur の変化形を文字で書かねばならないとき、主格 dagur [dεavʊr] では [v] なのに g を、与格 degi [deːjɪ] では [j] なのにまた g を、対格 dag [dεa] ではなにもないのにやはり g を書かねばならない。上述の hava の活用形も同様だし、そこで見た ð の文字 (フェーロー語ではいっさい発音しない!) が動詞の過去形に限らずフェーロー語全体にいかに溢れているかに思いを致せば、彼らの苦労は日本語の四つ仮名などの比ではなさそうだ。ハンマシュハイム以来の正書法がいつまで存続するか、百年を経ても安心してよいかはまだわからない。


参考文献 (刊行年順。上記で紹介した 19 世紀までの文献は除く)
  • Jespersen, Otto (1938). En Sprogmands Levned.〔前島儀一郎訳『イェスペルセン自叙伝』1962 年。〕
  • Skårup, Povl (1964). Rasmus Rask og færøsk.
  • Hovdhaugen, Even, Fred Karlsson, Carol Henriksen, and Bengt Sigurd (2000). The History of Linguistics in the Nordic Countries.
  • Petersen, Hjalmar P. (2010), The Dynamics of Faroese-Danish Language Contact.
  • Mitchison, John (2012). ‘Danish in the Faroe Islands: A Post-Colonial Perspective’.

mardi 24 avril 2018

デンマークの書籍の購入方法

かつて「諸外国の書籍の購入方法」という記事を書いてから早くも 3 年近くになります。これは私がおもにヨーロッパの各国から本を買い集めていた経験をもとに、便利なサイトリンクと短い所感をまとめておいたものですが、いまでもたまにアクセスをいただいていて、変化した情報につきアップデートの必要を重々感じておりながら、それが果たせていないことには忸怩たる思いがあります。

当時との状況の変化もさることながら、あの時点でまだ扱っていなかった (すなわち私が取引をしたことのなかった) 言語がこの間にいくつか増えており、それはいま思いだせるかぎりでアイルランド語とブルトン語、アルメニア語、それからデンマーク語・スウェーデン語・アイスランド語・フェーロー語の北欧 4 言語に加えてグリーンランド語が挙げられます。

このなかでデンマーク語・フェーロー語 (フェーロー諸島)・グリーンランド語 (グリーンランド) の 3 つは、国としてはデンマーク王国の 1 国であって (今後どうなるかはわかりませんが)、いずれもデンマーク・クローネ (DKK) で買いものができます。といってもクレジットカードで決済するぶんにはあまり意識するところではないかもしれません。とにかく今回これらをまとめて紹介することにしましょう。

デンマーク語の本を買おうと思ったらまず訪れるべきサイトは、デンマークで最初のかつ最大のオンライン書店、Saxo (https://www.saxo.com/dk)  です。紙の本のほか、PDF/ePub 形式の電子書籍、およびオーディオブックを取り扱っていて、紙の本の送料が比較的高めなので私は最近電子書籍のほうにシフトしています。注文を確定するとメールでダウンロードリンクが送られてくるほか、いつでもサイト上から自分の本棚を確認できて端末にダウンロードができることは Amazon などと同じです。

つい最近知ったのですが、Saxo は Android および iOS 用のアプリをリリースしており、これは日本からも入手・利用が可能です。このアプリをインストールして Saxo のユーザアカウントでログインすれば、購入していた電子書籍・オーディオブックが携帯端末からもダウンロードでき、そのまま電子書籍リーダとして読書・音声再生が可能です。もっとも、その用途のものとしては完成度は低いと言わざるをえません (私は iPad と iPhone で利用しているので、以下は iOS 版の評価であって Android 版はわかりませんが)。

まずリーダとしてですが、ePub 形式のものはまだしも、PDF のものをこのアプリで閲覧しようとするとまともに表示ができません。両形式とも表紙などの大きい画像 1 枚のページは上下にぶった切られた形で表示されてしまいますし、PDF ではなぜか文字だけの本文でもそうなってしまいます。そして操作は左右スワイプがページ送りで、指 2, 3 本のジェスチャには反応せずメニューからも拡大・縮小はできないようなので、ページ右側を確認するすべがまったくありません (つまり実質 PDF は読めません)。有料の PDF リーダはもとより、Adobe Reader や iBooks などと比べてさえ非常に不便です。

またオーディオブックの再生機能のほうですが、パソコンからダウンロードするとちゃんと章などの区切りにもとづいたトラック別の MP3 ファイルになっているようなのに (これは商品にもよるかもしれませんが)、アプリ上で聞こうとするとなぜかトラックごとの選択ができず、15 秒または 2 分刻みでの早送り・巻き戻ししか選べないので、これもたいへん使い勝手が悪いです。結局 iTunes などに入れて聞くことになると思います。

というわけで、アプリの出来はまだまだ発展途上ではありますが、すでに言及したように汎用性の高いファイル形式のおかげでべつだん専用アプリでないと読めないわけではないので利用の妨げにはなりません (この点 Amazon Kindle は見習ってほしいものです)。私は最近『星の王子さま』(Den lille prins) の電子書籍版その朗読とセットで購入して少しずつ聞いています。これは以前から紙の本で持っていた古典的な Asta Hoff-Jørgensen 訳 (初版 1950 年) でなく、最近出た Henrik Ægidius による新訳で、吹きこみは元スタントマンのアナウンサー・朗読者だという Paul Becker が行っています。

Saxo 以外だと imusic.dk というサイトを利用したことがあります。名前に反して本もメインに取り扱っていて、1 冊だけ買うならこちらのほうが日本への送料が安いということがありました。Saxo にはない本が置いてある場合もあるので、あきらめずにいろいろ比較してみるとよいでしょう。

勉強が進むと、参考文献リストのなかからすでに新本では手に入らないものが古本でほしくなるという場合があります。こういう場合、英仏独くらいならたいてい Abebooks で事足りるのですが、デンマーク語の古本は少数しか出品されていません。もちろんある場合もあるのでまずは検索をしてみることは無駄ではないでしょう。

じつは上記 Saxo では古本も販売しているようなのですが、この場合カートに 1 点ずつしか入れられない (古本 2 点以上や、新本と古本を混ぜようとすると弾かれる) という制約があります。そうするとただでさえ割高な送料が 1 冊ごとにかかることになり、あまり気が進みません。

デンマーク語の古本を探すときには Antikvariat.net というサイトがたいへん頼りになります。これはデンマーク・ノルウェー・スウェーデン・フィンランドのスカンジナヴィア 4 ヵ国から多くの古本屋の出品が集約されたサイトで、私の経験上送料も (書店ごとに違いますが) 10 ユーロ前後とたいへん良心的です。私にとっては必要な本が見つかる率が高く、とても重宝しています。

グリーンランド語の本は、最初に紹介した 2 つのサイトでデンマーク本土から手に入る場合もありますが、以前紹介したようにグリーンランドのヌーク (Nuuk) にある書店 Atuagkat Boghandel からも注文が可能です。このサイトはデンマーク語および英語でも閲覧が可能です。ただし取り扱っている本の種類はまだかなり少ないようなので (というより、グリーンランド語の出版物そのものが少ないという事情も)、今後に期待しましょう。

フェーロー語の書籍はデンマークのサイトでは基本的に手に入らず、フェーロー諸島の首都トシュハウン (Tórshavn) にある書店 H. N. Jacobsens Bókahandil がオンライン販売を手がけています。ここは (現在も存続しているうちでは) フェーロー諸島で最古の書店だということです (1865 年創業)。

サイトにはドイツ語・英語・デンマーク語を表す国旗がありますが、それらの言語に訳されている部分はあまり多くなく、またショッピングカートからはどうやら 1 点だけ削除する方法がなくて数量を変更しようと思うとぜんぶ消すしかないなど、サイトの使いやすさにはだいぶ難があります。ウィッシュリストのような便利機能はもとより、そもそもユーザアカウントというものが作れないので注文のたびに住所などを入力する必要があるほか、カートの中身も定期的に消えてしまいます。

とはいえもちろん商品の発送は迅速で間違いなく到着しています。梱包のほうはというと、私の注文したとき外箱のダンボールは側面や中身に隙間が多く、さらに折悪しくこちらで雨も降っていてあわやと思われましたが、肝心の本は丁寧に 1, 2 冊ずつプチプチでくるまれており、多少濡れたり揺らされたりしても無事なようになっていました。

もうひとつ、Sprotin.fo という書店もありまして、こちらは紙の本のほか電子書籍・オーディオブックも取り扱っています。販売というか出版が本業なのか、フェーロー語書き下ろしおよび翻訳ものの文芸作品を主体として多くの本・電子書籍を出しています。ウェブページの英語化もたいへん行き届いていてユーザフレンドリーな印象があります。私はこちらからはまだ電子書籍しか買ったことがないのですが、少なくともその部門では不満を感じたことはありません。このサイトはフェーロー語のオンライン辞典も公開しています。

そのほか Rit & Rák というサイトでも紙の本・電子書籍・オーディオブックが取り扱われていますが、これはまだ利用したことがないのでよくわかりません。以前に紙の本を注文しようとしたときには上記の H. N. J. より送料が割高で見送ったのですが、電子版を買うぶんには有用な場合もあるかもしれないのでいちおう挙げておきます。