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vendredi 26 juin 2020

印欧語の格の日本語名

格の名称はヨーロッパの言語ではギリシア語・ラテン語文法以来それぞれ一貫しているところ、日本語の文献におけるそれらの訳語には相当の不統一がある。ここではインド゠ヨーロッパ語の伝統的な格の名前についてそれらを一覧にして並べてみる。見出し語としては英語の用語を用いる。なお、ドイツ語を代表としていくつかの言語では 1 格、2 格といった要領で番号で呼ぶこともあるが、これはわざわざ掲げなかった。

  • Nominative — 主格。これについては原則としてゆらぎがない。
  • Vocative — 呼格。これも唯一の定訳だと思われる。
  • Accusative — 対格または目的格。後者はより広義で曖昧な印象もあるが、かならずしも英語ばかりでなく、サンスクリットのような複雑な言語でも accusative を目的格と呼んでいる例がある (辻後掲書)。そのほか Wikipedia によれば業格という呼び名もあるそうだが、私は本のなかで実例を見たことがない。〔記事末尾に追記あり〕
  • Genitive — 属格、しかしスラヴ語の業界では生格と称するならわし。所有格ともいえるが、これは英語やデンマーク語のごとく格変化の衰退した言語でこの格の用法が所有に限定されている場合。
  • Dative — 与格、古い本では為格とも。英語では間接目的格。為格および次の従格という名がいまも現役なのはサンスクリット語の業界だけかと思われる。
  • Ablative — 奪格、古い本では従格とも。同じものを離格というのは場所・方向の格の体系が豊かな (接格などと組になることを意識する必要がある) フィンランド語のような別語族の用語ではないか。
  • Locative — 地格、位格、処格、所格、依格、於格、位置格と、いちばん一定しないが意味あいは大同小異。スラヴ語では前置格にあたる。
  • Instrumental — 具格、ときに助格、スラヴ語では一般的に造格。具格の字は「道具」のそれと並んで倶の代用として「ともに」の意味をもあわせもっており、手段と随伴というこの格の主要な 2 つの用法を適切に言い表していてたいへん優れている。

以上の 8 つが基本だが、さらに第 9 の格として印欧祖語には allative あるいは directive があった可能性がある。これは向格または方向格が定訳 (大城・吉田『印欧アナトリア諸語概説』は後者)。また隣接言語からの影響で新たな格を生ぜしめた場合もあるが、それをここに述べつくすのは難しい。(印欧祖語についての事実は Fortson, Indo-European Language and Culture, ²2009, p. 113 によった。)

ときにこれらを大別するために direct case「直格、直立格、正格」と oblique case(s)「斜格」という用語が使われることがある。直格はふつう主格および呼格、斜格はそれ以外の残りの格の総称 (あるいはそれらがすべて合流してしまった場合のその格の名) として使われる。呼格がない言語であっても斜格に対する意味で主格の別名として直格と言う場合がある。また特定の言語と論述の文脈・用途によっては対格をも直格のなかに含めることがある (ギロー『ギリシア文法』がその例である:邦訳 34 頁注 3 を見よ)。

格の順番は、ギリシア語およびラテン語では伝統的に主格・属格・与格・対格・(奪格)・呼格と並べている。これはすでにディオニュシオス・トラクスのような古代の文法家から行われている由緒正しい配列である。後述するサンスクリットにおいてもそうだが、呼格は正式な格として認められなかったこともあり、その位置は一定せず主格の直後に置かれる場合もある。奪格はギリシア語にないためこれに倣ったラテン語の文法が主属与対の後ろに付け加えたものである。またたとえば現代のドイツ語の格が主属与対の順番に番号を振っているのもこのラテン・ギリシアの両古典語の伝統による影響と思われる。

ところで他方、サンスクリット語においてはパーニニ以来、主格・(呼格)・対格・具格・与格・奪格・属格・処格という順に並べる決まりとなっている。じつはこちらのほうがラテン・ギリシア語の伝統よりも理にかなっている、というのは名詞の格変化において、すべてあるいは大部分の場合に同形となるものが隣接して並ぶようになっているからである。

まず印欧語では歴史的理由から、中性名詞の主格と対格はつねに同形である (中性=無性は無生物のモノを表す名詞であり、したがって能動的になにかをする主体ではないから主格を本来もたない。主格はのちに対格から転用されたため同形なのである。高津前掲書、54 頁を参照)。また性にかかわらず呼格は主格と同形であることが多い (中性ではかならず、また男性・女性でも双数・複数では同様)。ここから主・呼・対をこの順に並べるのが便利であることが従う。

それからラテン語ならびにサンスクリット語において、複数の与格と奪格はどんな名詞でも同形である。サンスクリット語の双数ではさらに具格もこれと同じであるから、具・与・奪は変化表において隣りあっているのが望ましいことになる。サンスクリット語の双数ではまた属格と処格もつねに同形である。こうしたことからサンスクリットの 8 格の順番が確定するのであるが、これに対してラテン語の記述で主と対、与と奪が互いに離れていることは変化表を整理し暗記するうえで無用の障害を生じることになる。

一方ギリシア語の双数では属格と与格がつねに一致するので、サンスクリット語と違ってこの 2 つが隣りあっているには一定の理由がある。しかるに主格と対格がかけ離れていることはやはり無意味であって、実際これがために伝統的な配列を廃して異なる順番を工夫する文法書が現れるゆえんとなったのである。早くも 200 年まえにラスムス・ラスク (1787–1832) がその反伝統派の嚆矢となったことが次の引用文に看取される:
〔1811 年のアイスランド語文法において〕彼は,対格が主格の直後に置かれなければならないということを,未だ悟っておらず,主格,属格,与格,対格という伝来の順序を保持しているが,後には熱心にそして首尾よくその順序を排除する.(イェスペルセン、新谷訳注『ラスムス・ラスク』大学書林、1988 年、71 頁)
さて周知のようにドイツ語では近年まで主・属・与・対の順番が根強く行われているが (現代語のみならず、古高ドイツ語や中高ドイツ語の文法書を見てもそうである)、これと並んでゲルマン語全体としては (すなわちアイスランド語・フェーロー語および古語であるゴート語や古英語など) ラスクの影響もあってか主・対・属・与あるいは主・対・与・属も有力となっているように見受けられる。ドイツ語においてさえも、つい最近の鷲巣『これならわかるドイツ語文法』(NHK 出版、2016 年) では 1 格・4 格・3 格・2 格という配列で表が作られている (ただしこれは形態の一致ではなく使用頻度に従った順番らしいが。58 頁)。

〔2020 年 9 月 13 日追記〕対格の古い別名「業格」の実例を、榊『解説梵語学』という明治期の本のなかに見いだした。

jeudi 27 février 2020

シャンバラのロシア語――「神は細部に宿る」ことの重要性について

『ファイアーエムブレム 風花雪月』にはこれまでの作品に比べてスラヴ系、とりわけチェコ語の人名が多いことが画期的である、ということを以前の記事「ファイアーエムブレム風花雪月 人名の由来と意味」において例証しました。そのとき私はそれをたんなる偶然というか、シリーズ中で欧米のありふれた人名を使いまわすにも限界がきていたために新たに毛色の違ったものを求めただけのことかと思っていましたが、事実はそれだけではなかったのかもしれません。

というのは――私の怠慢のためにいまだに同作をプレーしきっていないため詳しい背景は把握していないのですが――どうやら作中でシャンバラという SF ふうの場所にロシア語 (これはスラヴ語の代表格です) で書かれた文字が見いだされ、そこからひいてはフォドラは私たちの世界が滅びたあとの遠い未来の世界である?といった説が一部行われているようだからです。なお、前記事情から私はまだネタバレを含む考察を閲覧することを避けているため、こうした説の出所や議論の詳細については知りえておらず立ち入らないということをあらかじめ断っておきます。


さて、それでもこのような興味深い画像が偶然目に入ってしまったため、無視してばかりもいられなくなってしまいました (これは reddit のこのトピックからお借りしたもの。文明崩壊後の未来という説はそこでも触れられています)。たしかに明らかにでかでかと СВЕТИТЬСЯ СВАЯ と、そしてさらに赤い三角の下にはかすれた文字で ЗАКРЫТЫЙ ГОРОД とあるのが読みとれます。またべつの情報源によると、同じマップのどこかには Катакомбы という単語も見いだされるということです。(以下、読みやすさのためすべて小文字に直して書きます。)

ラテン文字に翻字 (参考までにカタカナも併記) するとこれらは順に、svetit’sja svaja (スヴィチーッツァ・スヴァーヤ;-t’sja はまとめてッツァ -cca と読む)、zakrytyj gorod (ザクルィーティイ・ゴーラト)、katakomby (カタコーンブィ) となります。最後のものは見てのとおり「カタコンベ」、また 2 番めのものは「閉鎖都市」または「非公開・秘密都市」といった意味です。しかし第 1 のものは問題含みです。どうやら作中に「光の杭」という超技術による兵器があるそうで、このロシア語はそれを指すことを意図しているらしいことは疑いないはずですが、文法的に正しくありません。

свая はたしかに「杭」のことです。しかし светиться というのは再帰動詞 (ся 動詞) の不定形で、動詞なので辞書にはもちろん「光る、輝く」のように出ていますが、この形で使えば英語の to 不定詞と同じく「光ること」という意味です。したがって「光る杭」のように前から「杭」を修飾することはできません。このように 2 語を並べられたとき、無理に読むとすれば可能性としては「光ることは杭です」というコピュラ文 (英語で言う be 動詞でつないだ文) がもっともらしく思われます。英語なら ‘To glow is a pile.’ というわけです。

ロシア語では現在形で be にあたる語を使わず、また冠詞もないためこういう言いかたになります (べつの再帰動詞 учиться「学ぶ」の不定形を使った例文に «Учиться — наша задача.»「学ぶことが私たちの課題だ」があります;正式にはこのようにダッシュを入れます)。ほかの可能性としては (語順は通常と違いますが) 未来形で быть を省略したものとして「杭は光るだろう」(«Свая [будет] светиться.») とも読めないこともないかもしれませんが、いずれにしても奇妙です。

結論的には、これはロシア語をまったく知らない制作者が機械翻訳かなにかを使って失敗してしまったもの、と言うことができます。ロシア語を少しでも勉強したことがある人なら、-ться という語尾を見た瞬間に再帰動詞の不定形なので変だなと感じます (イタリア語の -rsi、スペイン語の -rse と同じことと言えばピンとくる人もいるでしょうか。それくらい初歩的なミス)。参考までに、светиться という動詞を使って「光る杭」という意味にしたければ、この動詞の能動分詞現在形 (英語で言う -ing 現在分詞) の女性単数形を使って светящаяся свая (svetjaščajasja svaja) のように言うのが正解です。

〔2 月 28 日追記〕ここに提案した светящаяся свая でググってみると、reddit の書きこみ (前掲の画像とはべつのスレッド) で、発売から間もない昨年 8 月 2 日 (日本時間) に早くも私と同じように指摘している――つまり最初の語は間違っていてこのように言うべきという――発言が見つかりました。しかしこれ以後に書かれた前掲のスレッドを含め、この教えは注目されないまま現在に至っているようです。

ところで、『風花雪月』においてはこのロシア語のほかにも、魔法陣にデザインされている英語が間違っていることが知られていますが、このような初歩的な誤りが作中にあるという事実から、私たちはどのような含意を引きだせるでしょうか。

ひとつの解釈として、これらがあくまで「作中世界においては」文法的に正しいものと仮定してみましょう。じっさい作中の誰もそれに突っこんでいないのですから、そのように考えることは自然です。すると当然それらは私たちの知るロシア語や英語とは異なった言語であるということにならざるを得ません。ここから導かれる簡単な結論は、フォドラの (過去の) 世界は私たちの世界と同一ではない、言いかえると私たちの世界の延長上にフォドラがあるわけではない、というものです。なにをあたりまえのことを、と思われるかもしれませんが、これが考察としておもしろいのは作中に描かれた情報を根拠にしてフォドラが私たちの世界の未来であるという説を棄却できることになるからです。

もっとも、私たちの世界においてもピジンやクレオールといって、ある言語を母語としない人々が商売上などの必要に駆られてブロークンな文法で会話を成り立たせる、そしてそれがそのまま次の世代に受けつがれて立派にひとつの「言語」として成立していく、という場合もあります。この可能性を採用するならば、なんらかの事情があってロシア語を母語としない出自もばらばらの人たちが寄り集まり、どうにか片言のロシア語で意思疎通をするうちに светиться свая のような表現が正しくなった、といった想像もできます。

メタ的に言って、現に日本人と思われる制作者がこのような誤りを犯した実例がひとつあるわけですから、そういう使い手たちが集まってロシア語で生活を送った場合それがそのまま普及して文法の一部になるということはありうると言えます。

この場合はかならずしも私たちの世界とフォドラとのつながりが否定されるわけではなく、妄想をたくましくするとたとえば「第三次世界大戦」で東側陣営が勝ち世界的に英語が衰退してロシア語が普及した未来、などというものを考えられるでしょうか。

しかし、いま述べてきたような推測が可能になる原因というのはそもそも――私の解説を信じていただくかぎり――「現実には間違っているロシア語が作中で使われている」という事実、そして間違っているものをそのまま真面目に受けとろうとすることに起因します。実際の真実はおそらく、ただたんに制作者が無知なため意図せずして間違えてしまった、というつまらない出来事であろうとほとんどの人は確信しているでしょう。

そうだとすると私はいましょうもない無用の考察を繰り広げたことになります。ロシア語が見つかったからといって実際にはそこからフォドラが私たちの世界とどんな関係にあるかはなにも読みとれないし、もしそれを強いて読みこもうとするなら作品世界を間違って解釈してしまうというわけです。でもひょっとしたら深い意図があってわざと間違えて書いた可能性も否定はできないし……、と考えると堂々巡りになります。

まさにこの点にこそ、フィクション作品は細部までこだわりぬいて作られるべきである理由があります。あえて陳腐な格言を繰りかえせば「神は細部に宿る」と称するとおりです。作品にどっぷりはまった真摯な読者 (プレーヤー) は作中に描写された情報を隅々まで渉猟し、そこから時に語られていない余白について描写と矛盾しないよう注意しながら考察を深めて楽しむわけですが、その描写のなかに単純に誤ったもの、著者や制作者が意図しないミスがあったとすれば、それは作品世界の理解に際しては不要であるどころか有害になるわけです。

これは私たち読者の考察の土台を根本から掘り崩してしまう危険につながります。じっさい、作中に描かれた細部のうちどれが意図的でどれがそうでないかなど、いち読者には決定的に判断することができません。このような可能性があるかぎり、すべての「考察」は砂上の楼閣になってしまいます。いま述べているのは、受け手によって「解釈」の幅に違いがあるために考察の内容も人それぞれで不確かでそれが楽しいね、という論点とはまた別次元の話で、そもそも解釈すべきテクストじたいに欠陥があって作中の証拠でさえ信用ならないために考察という営みそのものが成り立たなくなるという問題です。

そのような不備のある作品は精緻な考証に堪えないと言わねばなりません。ありていに言えば「深く考えるだけ無駄」ということです。私たちが「考察」を楽しめるのは、まず作品に対する全幅の信頼があって、作中に描かれていることはすべてその世界内においては確たる事実である (時に登場人物が間違ったことを言ったとしても、そのキャラクタが記憶違いなどで間違ったことを信じているということは作中におけるひとつの事実である) ということを前提にしているからです。

『風花』でいうとたとえば『セイロスの書』をはじめとする書庫の文献や教団関係者の発言などに実際のフォドラの史実とは異なる嘘が含まれていたとしても、そう言われているということ、そしておそらく教団がそれを信奉しているとか、人々にそれを信じさせようとしているといったことは事実だと想定したうえで、私たちは考察を行うわけです。万が一文献に誤字があったとしたら作中では現にこう記されていると信じて、写本の伝承過程で誤りが起こったのかな、などと考えたくなるわけです。あるいはまた、お茶会に呼んだ相手がどの話題で盛りあがったり赤面したりするかはそのキャラクタの生い立ちや性格の理解に関連していると信じています。

こうした一連のことを、ゲーム制作者による誤字だとか設定ミスだとかみなす――そうみなすだけのやむを得ない根拠が見つかる――ようでは、もはや解釈の本義を逸脱したメタ解釈になってしまい、その時点ですでに作品世界への没入感は失われてしまっています。

もとより人間の作るものでミスをゼロにすることは不可能ですが、受け手が憂いなく作品を味読して楽しむための前提である信頼を損ねてしまうものはいただけません。今回の件ならロシア語にしてたかが 5 単語、プロの翻訳者に頼んでも何千円もかからないでしょうに、その程度の予算をケチったばかりに不安の種を埋めこんでしまうというのは、またそれ以前に見られて恥ずかしいものを作中に残してしまうというのは、これほどの世界的有名タイトルのすることではないと思います。


関連事項として、以前 Echoes における同様の怪しい点についてまとめた過去記事を紹介しておきます:「ファイアーエムブレム Echoes のギリシア語」「ファイアーエムブレム Echoes のラテン語」。

また、『風花』そのものはロシア語に対応していないものの、ハードの Switch 本体はロシア語に設定できる――すなわち少数とはいえロシア語圏に販売されることは見込まれているはずである――ことを付け加えておきます。

vendredi 3 novembre 2017

谷口訳『中世アルメニア寓話集』「狼の子と手紙」の迷訳

前々回の「雌獅子と狐」前回の「土地測量技師の水牛」に引き続きこの連載の締めくくりとして,ムヒタル・ゴッシュ,ヴァルダン・アイゲクツィ;谷口伊兵衛訳『中世アルメニア寓話集』(渓水社,2012 年) 所収の寓話のうちもうひとつだけどうしても取り上げたいものがある.それはこの本を一読したとき私がいちばん奇妙だと感じた一編で,アルメニア語の原文を見てみたいと思わせたきっかけである,52 頁の「狼の子と手紙」という話だ.
狼の子と手紙 the wolf-cub and the letters
むかし狼の子が捕らえられて、手紙を読まされました。〝S〟と言うように命じられると、狼の子は〝シープ〟(sheep「羊」)と言うのでした。また〝C〟と言うよう命じられると、狼の子は〝チキン〟(chicken「鶏」)と言うのでした。〝G〟と言うよう教えられると、狼の子は〝ゴート〟(goat「山羊」)と言うのでした。〝I〟と言うように命じられると、狼は続けられなくなり、こう返事するのでした、「ぼく(〝I〟)が遅刻すると、羊の群れが山を通り過ぎ、もう追いつけなくなってしまいます。」
まずオチが意味不明で,なにかうまいことを言おうとして盛大に滑っているというのはオリジナルの問題なので置いておこう.また,英語の letters というのは手紙ではなく文字」だということも明らかだが (「手紙」を読まされていて S と言えだの C と言えだの,おかしいと気づくだろうにこの翻訳は中学生の英文和訳か?),それさえも最大の疑問点ではない.

この話でいちばん不可解なことはなにか.それは S, C, G, I というアルファベットの並びとその選択である.この文字列にいったいなんの必然性があるのか? なにか深遠な謎でも隠されているのか,と不思議に思うはずだ.

私たちはわざわざ原文を照会する手間を割きたくなかったりその能力がなかったりするために日本語訳を読むのである.しかるにこの話の日本語訳だけを読んだとき最大限わかることはと言えば,おそらくは「狼の子は動物の名前を答える法則がある」ということだけであろう.これは彼にとっての友達を挙げているのかもしれないし,食べもののことを言っているのかもしれない (chicken は生きた鶏と鶏肉の両方でありうる.ただし食べものなら sheep は mutton でなければならない).だが根本的になんで S, C, G, I なのか,そしてこの寓話からどんな教訓を読みとったらよいのかということはてんでわからない.


ロシア語訳からわかる情報と新たな謎


合理的に推論して,こんな無軌道な配列を日本語の翻訳者である谷口氏が勝手に創案したとは考えがたいから,この S, C, G, I はまず英訳の時点ですでにあったろうことが予想される.ただ前々回指摘したように谷口氏が英訳の原典を表示してくれていないので英訳については参照できないから,その翻訳元とされるオルベリのロシア語訳をみたび参照しよう:
63. волчонок и азбука
Поймали однажды волчонка, напи-
сали буквы и велели ему читать. И го-
ворят: «Скажи Аз», а он: «Агнец».
Говорят: «Скажи Буки», а он: «Ба-
ран». Говорят: «Скажи Глаголь»,
а он: «Гусь». Говорят: «Скажи
Добро», а он: «Добыча». Говорят:
«Скажи Есть», а он отвечает: «Если
не поспешу, пройдет стадо, и не до-
гнать будет».
まずはタイトルが «волчонок и азбука»「狼の子とアルファベット」なので letters が「文字」であることが再確認できた.ここで狼の子が «Скажи»「言え,口に出せ」(сказать の命令形) と言われていることを並べてみると,Аз, Буки, Глаголь, Добро, Есть となっている.

ここからただちに,これはアルファベットの最初の 5 文字を言っているのだとわかる.Аз, Буки, ... というのはどうやらアルファベットの各文字の古い名称であったようだ.もっともロシア語をご存知のかたなら В が抜けていることに気づくだろうが,これはキリル文字が少々特殊なのであって,「アルファベット」の名の祖であるギリシア文字に遡れば Α, Β, Γ, Δ, Ε であるし,アルメニア語でも Ա (A), Բ (B), Գ (G), Դ (D), Ե (E) なので,おかしなところはない.つまり原文ではアルファベットを順番に数えていたということだ.そうすると露訳でひとつひとつの単語にたいした意味はあるまい,というのは異なる言語から翻訳してなお順番を保つためにはどうしても多少の無理が生じるからである.

しかしそうすると新たな謎が浮上する,というのはロシア語では ABCDE と 5 個言っているのに英訳では 4 つに減っていることである.ただこの疑問は英訳者を捕まえて直接尋ねでもしないかぎり解決不可能なので無視しよう.

では狼の子の回答を見てみると,агнец は古語で「子羊」または「羊」一般,баран は「雄羊」,гусь は「ガチョウ」,добыча は「獲物,餌食」なのでやはり狼にとっての食べものを答えていたようだ.最後の Е はだいたい邦訳のとおりで,「もし僕が急がないと群れが行ってしまい追いつけなくなる」だが,Е にあたる語は «если»「もし」であって「僕」ではない.だから英訳の I も,谷口氏は勘違いしているが僕 Iではなくもし ifのほうがイニシャル I を代表しているに違いない.そもそも狼の子はしりとりのようなことをしているのに,文頭の if でなく次の I がそれというのでは法則が台なしになるのである.また「群れ стадо」について「羊の」とは一言も言われていないので,すなおに考えたら狼の子じしんの属する群れのことではないのだろうか (ただし後述のアルメニア語原文も参照).

さて,英訳は S, C, G, I という奇妙な並びを持ちだしてきたわけだから,私はおそらく「羊・鶏・山羊という単語の意味のほうを忠実に訳したために頭文字は妥協せざるをえなかったのだと想像していたのであるが (誰でもそう考えたと思うが),オルベリのロシア語訳と比べると答えすら一致していないことがわかる.露訳にあるガチョウは消え,鶏と山羊が混入しているし,そもそも数があっていない.こうなるともうお手上げである.英訳者はなにを考えてこんなことをしたのか? それとも名前すら示されていない「英訳者」などというのは架空の存在なのか?


アルメニア語原典


ともあれ気をとりなおして,満を持して大本のアルメニア語原文にあたってみよう.これはふたたびヴァルダン・アイゲクツィの作であって,ニコライ・マルの校訂版では ՅԽԵ すなわち 345 番の番号が振られている:


ご覧のとおりまた判読困難な文字も少なくなく,とくに前回「土地測量技師の水牛」のさい «շամբ» で悩まされた բ と ր の文字,գ, դ や զ, ղ の文字,それから ա, տ, ո, ս などつぶれるとまったく区別不可能なのだが,ここまでの考察で「最初の話し手はアルファベットの最初の 5 文字 ա, բ, գ, դ, ե を順番に言っている」ということと,その相手である「狼の子は動物の名前を言う傾向にある」ことがわかっているのでそれが手がかりとなる.

(ちなみに残念ながら前々回頼りにしたサン゠マルタンによるアルメニア語・フランス語対訳版のヴァルダン寓話集は全 45 話の小冊であってこの話が含まれていない.)

まず導入部,冒頭から 2 行めの最初の単語まではこうだろう:Ասի առակաց, թէ գալին (?) ձագն բռնեցին ու գրեցին գիր, թէ կարգայ։

Ասի は ասեմ「言う」の直・現・中受・3 単,առակաց は առակ「たとえ,寓話」の複属与奪 (ここでは奪格か),թէ は英 that で,ここまでで「(この) たとえ話によって թէ 以下のことが言われている」.従来であればこれは教訓段落の導入句に見えるが,今回はここから寓話の本体が始まっている.また露訳以降,英訳,谷口訳まで含めてこの一文は失われており,かわりに「むかし однажды」という語が加わっている.

次の գալին は不明,ձագ-ն は「動物の赤ん坊,幼獣」,բռնեցին 直アオ 3 複 < բռնեմ「捕まえる」,ու「そして」,գրեցին 直アオ 3 複 < գրեմ「書く」,գիր「文字」,թէ は今度は「〜するように」(英 so that) で,կարգայ 直現 3 単 < կարգամ「呼ぶ,唱える;叫ぶ」.こうすると「狼の」という情報が出てきていないので,不明だった գալին galin は գայլ gayl「狼」に関係するであろう (というかそこから逆算して判読不能の գ と ա を決定した).「彼らは狼の (?) 幼獣を捕まえ,彼 (=幼獣) が唱えるように文字を書いた」.なお「彼ら」についても正体不明である.

以降,ասեմ「言う」の活用形である ասեն, ասայ, ասէ が順繰りに繰りかえされる.ասեն は直現 3 複「彼らは言う」,ասէ は直現 3 単「彼は言う」だが,ասայ はわからない.露訳を参考にすれば命令法の 2 単「言え」のはずだが,古典語ではそれは ասա՛ である.中世のヴァリアントだろうか?

「彼ら」が言っている単語は単純で,ա՛յբ, բե՛ն, գի՛մ, դա՛յ, ե՛չ, これらはアルメニア語最初の 5 文字 ա, բ, գ, դ, ե の名前である (アルメニア文字にはギリシア文字アルファ・ベータ・ガンマ等々と同じく固有の名前がある) が,դ はふつう դա であるのに余計な յ が付け足されている.この傾向は前述の ասայ とも符合しているから,さきのものはやはり「言え」と解してよかろう.

それに対して幼獣の応答は,այծ「山羊」,բուծ「子羊」,գառն はまた「子羊」で,դմակ は「羊の脂身」か.確実に「ガチョウ」が見あたらないので,露訳も答えを忠実に訳していたわけでないことがわかった.アルファベット順のほうを尊重していたのである (しかしそれなら А, Б, В, Г, Д に変えてもよさそうなものだが,オチの ‘if’ が Е であることに引っ張られたか).

幼獣の最後のセリフは ես կու (?) երթամ. դիհ (?) անցաւ. այլ չեմ ի հասնիլ։ か.ちなみにこの手前,最後の応酬のときも「彼らは言う,彼は言う」の同じ繰りかえしであり,谷口訳に見られる「狼は続けられなくなり、こう返事する」という補足はアルメニア語文にはない.ロシア語訳でも «отвечает»「答える」の 1 語が加わっているだけである.

ここには古典語の辞書では調べのつかない単語が多く,意味ははっきりしない.わかるところを訳せば「僕は〔……〕行く.〔……〕が通り過ぎてしまう.そうでないと (?) 到達する [獲得する] ことができなくなる」という感じか.とりわけ最後の単語 հասնիլ hasnil に見える動詞の不定詞 -իլ という形は明瞭に古典期以後 (post-classical) の形態であるから (Thomson, Introduction, p. 37),古典語 hasanel から中間の -a- が落ちて現代語の hasnel に至る途中の揺れと解した (この動詞の目的語は訳語によって羊の群れと自分の群れいずれの可能性もあろう).また անցաւ anc‘aw も古典語では anc‘ または加音をした ēanc‘ であるが (-aw は直アオ 3 単の規則的な語尾),現代語では anc‘av となるのでこれも過渡的な形か.解読できる部分はロシア語訳に一致しているようだが,これ以上のことは中世語の文献がなければわからない.


結論


さて原典から訳せば日本語訳で不明な恒例の教訓の部分がわかるかと思いきや,マルのエディションで見てもこの寓話には教訓段落が欠けているようである.結局のところこの話はなにが言いたいのかオリジナルからしてわかりづらいということが判明した.しかし原文に遡ることで「この狼の子は (動物の友達を挙げているのではなく) 食べもののことしか頭にない」ということが蓋然性を高めたので,たぶん言わんとする教訓は「幼い子に勉強をさせようとしても身を入れさせるのは難しい」くらいのことかと想像は可能である.

翻訳に際した「狼の子」の答えの変遷に着目してみると,アルメニア語からロシア語,ロシア語から英語 (あったとして) のいずれの翻訳でも,なんらかの理由から内容を自由に変更していることに気づく.しかしそのことじたいは悪いとは言えないばかりか,少なくとも露訳のそれはむしろ翻訳としてしかるべきありかたであろう.というのもこの話においてもっとも優先されるべきことは,幼獣に文字を教えようという筋書きであるから (これを壊すと登場人物がなにをしているのかわからなくなる),アルファベットの順番のほうを尊重するため答えを変更することは正当化されるからである.原著者の意図した効果を出すためなら翻訳においてそうした操作が現に認められていることは,『不思議の国のアリス』から『フィネガンズ・ウェイク』に至るまで言葉遊びで知られる作品の翻訳を想起してみれば納得されるはずだ.

しかるに英訳の S, C, G, I にはなにか意味があるのか不明瞭であるし (これがたとえば W, O, L, F だったらまだよかったのだが),それを機械的に踏襲していると見られる日本語訳も,翻訳としては輪をかけて不出来と評するのが相当であると思われる.ここは上述の理由からたとえばイロハニホかアイウエオに変更して日本語で適切な答えをあてはめることのほうが「正しい」訳しかたであったろう.中世アルメニアにとってなんの意味もない英単語のまま S, C, G, I を見せられても日本語を母語とする読者にはなにも伝わらないのである.

これまで 3 回にわたって『中世アルメニア寓話集』の和訳の難点を指摘してきた.これら 3 つはそれぞれ性質を異にする問題であって,(1) 最初の「雌獅子と狐」は (おそらくは) 英訳から和訳するさいに生じた誤訳,(2) 次の「土地測量技師の水牛」は英訳ないしそのまえの露訳の時点で生じていた誤訳が影響した,重々訳であることの欠陥であったところ,(3) 今回の「狼の子と手紙」はそれらの「集大成」として単純な誤訳も英訳時点の不備も含みつつ,そもそも原典じたいが翻訳に向いていないテクストであったことに端を発する迷訳であったと要約できる.こうしてわれわれが翻訳に携わるさいのさまざまな教訓を暗に教えてくれている,この邦訳寓話集の存在そのものが新たな寓話であると言えば皮肉が利きすぎであろうか.

谷口訳『中世アルメニア寓話集』「土地測量技師の水牛」の誤訳

前回に引き続き,ムヒタル・ゴッシュ,ヴァルダン・アイゲクツィ;谷口伊兵衛訳『中世アルメニア寓話集』(渓水社,2012 年) 所収の寓話のうち,今度は 32 頁の「土地測量技師の水牛」という話をとりあげてみる.これもまた大誤訳によって脈絡のわからない話になってしまっているのであって,まずは訳文をご覧いただこう:
水牛が土地測量技師になりたがりました。ところが、間もなく土地の測量に飽きてしまい、砂糖きび畑にやって来て、そこで寝そべりました。水牛の親方は彼が怠惰なのを叱りつけました。すると、水牛は応えて言うのでした、「陸地だけが測量されなくちゃならないの? 僕は今度は水も測量するつもりです。」
やはり日本語だけを読んでもなにかがおかしいということが明白だろう.見たかぎり,この水牛くんが自分の怠け癖を言い訳しようと試みていることだけはわかるが,なぜ砂糖きび畑で寝そべることが水も測量につながるのだろうか?


割愛された教訓段落


オルベリのロシア語訳から調べてみると,この話はムヒタルの作である.ムヒタルの寓話集が印刷されたのは 1790 年にヴェニスで出版されたのが最初で,それから 1842 年と 1854 年に再版 (改訂?) されたらしい.さらに百年近くが経って,1951 年にアルメニア (当時はソ連邦) の首都イェレヴァンでエマヌエル・ピヴァズヤン (Էմանուէլ Ա. Պիվազյան) という人によるテクストが出ているようで (HathiTrust 検索結果),ヨシフ・オルベリによるロシア語訳はこれを参考文献に挙げている.

私はその新しいほうの版を参照できないため,1790 年版のテクストの該当箇所を見てみると次のようである:


ここで邦訳およびオルベリの露訳に反映されているのは前半だけであって,後半の段落 (1 枚めの最終行から 2 枚め全体) はすべて割愛されている.前回の記事「雌獅子と狐」で紹介したものと同じく,この段落はその寓話の寓意を説明したいわば教訓部であり,簡単に訳すとこんなふうだろう:
泥沼 (տղմուտ) を離れたのにそこに舞い戻る者は,責められるとこう言うものである:「(世のなかには) お上品な人間 (պարկեշտ) ばかりでなく,罪が好きな人間たち (մեղսասէրք) もいるもんだ,俺たちのように」.
ここで「泥沼」という語は辞書的には文字どおりの意味しかないが,ここでは日本語のそれと同様「なかなか抜けだせない悪習」のようなもののメタファーとして使われているであろう.沼をそのように解すことで,泥のなかを転げまわる水牛を悪癖の常習者に見立てているわけである.これもまたヨーロッパの動物寓意譚ではありふれたイメージなのだろうか?

このように教訓段落を訳出してみると,前半の本来の姿についても想像がついてくるはずだ.「土地測量」に飽きた水牛が赴いたさきは砂糖きび畑ではなく」なのだろう.


「砂糖きび畑」の出どころ


しかしなぜはっきりしないのか? それはこの単語がよくわからないからである.問題の単語は上の画像 1 枚めの 3 行め末尾にある.これは շամ? という 4 文字に見えるが,最後の文字がかすれて判然としない.なにか μ のようにも見えるが,アルメニア語には「左下が基準線より下に出て,なおかつ上は開いている」という文字はないのである (左下がまっすぐ飛び出るのは բ, թ, ի, խ, ր ですべてで,ը と լ はそこから右に延びるので候補から外れる).しかしおそらく շամբ であろうか.

文脈を確定するべく,2 行めのピリオドのあとから翻刻してみると次のとおり:
――.  եւ ՚ի չափելն անդ տաղտ-
կացաւ, եւ երթեալ անկաւ ՚ի շամբ (?)
ինչ,  ――
չափելն は չափեմ「測る」の不定詞に指示接尾辞 -ն がついたもので,անդ は「野,畑,耕地」.次の տաղտկացաւ は տաղտկամ「うんざりする,嫌悪する,怒りを抱く」の直説法アオリスト 3 人称単数で,嫌う対象は ի + 奪格で示すので,ここまでで「(彼は) 野を測るのにうんざりして」となる.

続いて երթեալ は երթամ「行く,去りゆく;向かう」のアオリスト分詞,անկաւ アオ 3 単 < անկանիմ「落ちる;陥る;倒れる;滅びる;飛びこむ」など多義.そのどこへ անկանիմ するかというのが次の ի + 対格で示されている問題の շամբ (?) である.行を超えて最後の ինչ は「なにか,あるもの」という不定代名詞で,これは名詞の後について「なにか〜のようなもの」という意味に使えるらしい (akn ownēr nšan inč‘ leal tesanel i nmanē 彼は彼 (イエス) によって生じた徴のようなものを見たいと願っていた Lk 23,8).これで,測量に飽きた水牛は「去って շամբ かなにかへ飛びこんだ」となる.

とりあえず շամբ だとみなすとして,この語は手もとの『古典アルメニア語辞典』には載っていないので,1875 年の Պետրոսեան の古いアルメニア語・英語辞典によってみると ‘Շամբ, ից s. cane-brake, —-field, fen’ と出ている.Cane は竹や籐やサトウキビなど,あの手の細長い植物の茎のことであるから,canebrake は「竹やぶ,籐の茂み」と訳される.-field はその畑である.一方 fen は「沼地,湿地帯」のことだ.つまりこれが砂糖きび畑とを分けた原因である.

われわれの訳語としては「沼」をとるべきことは明らかだろう.竹やぶやサトウキビ畑でも泥だらけにはなれるかもしれないが,「測量」できるほど水が豊富とは思われないからである.水を測量できなければ最後のオチ (եղիցիմ ես ջրաչափ「僕は ‘水測量士’ になる」;եղիցիմ は未来を表す接続法アオリスト) にはつながらない.

ではなぜこのような取り違えが生じたのか? われわれは後半の教訓段落をちゃんと読んだのでこのようにわかったわけだが,先述したようにオルベリのロシア語訳以降この部分は省略されているのである.谷口訳はオルベリの露訳から英訳されたものをもとにした重々訳なので,当然この部分は知らなかったであろう.この話のオルベリの露訳全文は以下のとおり:
38. буйвол-землемер
Буйвол пожелал стать землемером.
И наскучило ему измерять, отпра-
вился он и улегся в камышах, а учи-
тель упрекал его в лености. А он от-
ветил: «Разве только землю нужно
измерять? Буду я водомером».
ご覧のように,問題の部分は камышах と訳されている.これは камыш の複数前置格で,камыш には「葦」および複数で「葦の茂み」という意味しかない.オルベリは後半の教訓部を読まなかったか,あるいは彼の依拠したテクストになかったのだろう.なるほど葦が生えるところは水の豊富な湿地帯であるが,いまの文脈で重要なのは生えている植物ではなく水そのもののほうである.

そうするとこれをもとにした英訳も当然 reeds かなにかとしか訳せなかったはずであり,すなわち今回谷口訳が間違っているのはオルベリの露訳に責任があったわけである.それにしてもなぜ谷口訳が葦をサトウキビにしなければならなかったのかは謎で,地面の上に生えるサトウキビでは完全に話の流れが理解不能になってしまっている.ついでに言えば「寝そべる」という語も原文にはないが,これも露訳の улегся (улечься「横になる,横臥する」の過去男性単数) が原因だろう.ともあれこれらは重訳 (重々訳) から生じた欠陥ということだ.


「土地測量技師」という訳語


ついでなので,「土地測量技師」という訳語についてもひとつ思いついたことを述べておく.これもオルベリの訳語 землемер を見れば,露訳の時点で「土地測量士」としか訳せなくなったことがはっきりしている.

ところで原語は երկրաչափութի՟ と書いてある.երկրա- = երկիր は「地」で,չափ は「測ること,測定」であるから,まあ「土地測量」でもよさそうな気はする.しかしこれは要するに geo- + metr であるから,もっと抽象的な学問である「幾何学 geometry」の可能性はないだろうか.少なくとも現代アルメニア語で երկրաչափութիւն は数学の「幾何学」である.

私がこのように疑問に思った理由は,現代語の意味もさることながら,きっかけは谷口訳で「水牛の親方」と訳されているところの վարդապետ という単語であった.これは古典アルメニア語 (西暦 5 世紀にキリスト教の聖書がアルメニア語に訳されたときの言語) では「先生,師,ラビ」(希 διδάσκαλος, ἐπιστάτης) の意味でとくに律法の教師のことであり,ロバート・ベドロシアン (Robert Bedrosian) によれば中世では「教会博士 Doctor of the Church」の意味として,彼の訳では固有名詞的にヴァルダペト (vardapet) とそのまま音写されている.そのような肩書の人物が現場の「親方」として実学である「土地測量」を教えるものだろうか?

これは当時のアルメニアの教育の実情を調べないとなんとも言えない.ただし上で見たとおり,この「幾何学」を習ったあと水牛くんはたしかに「野を測定 չափել անդ」していることに鑑みて,この ‘geometry’ は原義である「土地測量」と「幾何学」が現代の抽象的な数学のようにかけ離れていなかった時代のものであることは疑いないか.

いずれであるにせよ,日本語では「幾何学」と訳してしまうと最後のオチにつなげるのが難しいという欠点がある.アルメニア語の երկրաչափ 対 ջրաչափ (この後者は ջուր「水」と չափ「測定」の複合語である),ロシア語の землемер 対 водомер (やはり「地-測」と「水-測」) のように,単語の成りたちからつながりが見てとれないと,お話としてはうまくないのである.「測地学」ではやや別の学問になってしまうし,こればかりは geo- も metry もまったく活かせていない「幾何学」という中国語の訳語が悪かったとあきらめるほかはないかもしれない.

谷口訳『中世アルメニア寓話集』「雌獅子と狐」の誤訳

ムヒタル・ゴッシュ,ヴァルダン・アイゲクツィ;谷口伊兵衛訳『中世アルメニア寓話集』(渓水社,2012 年) という本がある.中世のアルメニアなどというたいへんロマンのある時代・地域についての本が日本語で読めるという非常に意欲的な訳業なのであるが,いろいろと難点があって手放しでおすすめはできない.

その難点については Amazon レビューのほうで簡単に書いたのでそちらをご覧いただくとしてなるべく繰りかえさないようにしたいが,そこで指摘した本書 19 頁「獅子と狐」の寓話の誤訳について,正しい訳文を与えるべくここで原文を詳しく検討してみよう.ただし「獅子と狐」という同名の話が本書にはもうひとつ 36 頁にもあってまぎわらしいので,本稿で詳論する 19 頁の話のほうは内容に即して「雌獅子と狐」と以降呼ぶことにする.

訳書でわずか 6 行の短い話なので,まずは問題の邦訳の全文を読んでいただこう.
ある雌獅子が子を産んだため、すべての動物たちがその雌獅子を祝福したり、その子への儀式に参加したりしようとして集まりました。儀式の間、狐がみんなの面前で獅子を大声でしかりつけ、こう言って怒らせたのです、「これがあんたの権限なんだ、これだけが。一匹の子だけで、もうこれ以上は一匹たりとも駄目だぞ。」すると獅子は平然と応えて言うのでした、「さよう。儂は一匹の子を産ませた、でも、それは獅子であって、貴様のような狐なぞではないんだぞ。」
一見して,まんなかにある狐のセリフがまったく意味不明なのである.この狐はいったいなぜ「権限」などということを言いだして,他人である雌獅子の出産の権利を制限しようとするのか? これが本当に正しい訳であったとすれば,この寓話はいかなる寓意をもっていると解釈すべきなのだろう?

この大問題に比べれば,本書全体に蔓延する「儂」という独特の一人称 (獅子や狼のみならず,スズメですら「儂」と言う.30 頁) や突然言及される「儀式」,「産ませた」という言いかた (会話相手がいつの間にか夫の獅子にすりかわったのか?),相手は平然としているのに「怒らせた」という言葉 (後掲の仏訳 injuria < injurier, 露訳 поносила < поносить のごとく「侮辱する,ののしる」や「悪口を言う」くらいが適切だろう) などはものの数ではない.

ここでいったん立ち止まって,この支離滅裂な訳文は誰に責任があるのかということを一考しておこう.いや,ふつうに考えれば訳者の谷口氏なのである.しかしこの訳書,Amazon レビューのほうでも書いたが,なんと翻訳の底本が明示されていない.訳者あとがきに「本訳書は一九五二年にポヴセブ・オルベリにより中世アルメニア語から露訳されたもの(抄訳)の英訳からの、重々訳である」と説明があるばかりで (「ポヴセブ」には改めて突っこむまい),誰が英訳したなんという英題の本なのか不明なのである.つまり谷口氏が依拠している英語の原文を確認できないので,英語の時点ですでにまずいのかもわからないのである (もっともそれも含めて訳者の責任ではあろうが).

底本の情報もなく,また本書中でどれがムヒタル・ゴッシュ (Մխիթար Գոշ) の作でどれがヴァルダン・アイゲクツィ (Վարդան Այգեկցի) の作かすら記載されていないことから調査に手こずったが,私の調べたところによるとこの「(雌) 獅子と狐」(Առիւծն եւ Աղուէսն) はヴァルダンのほうの作で,フランスの東洋学者でアルメニア研究の先駆けだというアントワーヌ゠ジャン・サン゠マルタン (Antoine-Jean Saint-Martin) が 1825 年に出版したアルメニア語・フランス語対訳本 Choix de fables de Vartan のなかに見いだすことができたので,これによってアルメニア語の原文テクストを翻刻すると以下のとおりである (行の区切りも再現):
ԻԶ
ԱՌԻՒԾՆ ԵՒ ԱՂՈՒԷՍՆ
Առիւծ մի կորիւն ծնաւ, եւ ժողովեցան կեն-
դանիքն ’ի տես եւ յուրախութիւն։ Գայ
աղուէսն ’ի մէջ բազմամբոխին, եւ մեծա-
հանդիսիւ նախատեաց զառիւծն յատեանն
բարձր ձայնիւ եւ անարգեաց՝ թէ ա՞յդ է քո
կարողութիւնդ, զի մի կորիւն ծնանիս՝ եւ ո՛չ
բազում։ Պատասխանի ետ առիւծն հանդար-
տաբար՝ եւ ասէ• այո՛ մի կորիւն ծնանիմ,
բայց առիւծ ծնանիմ, եւ ոչ աղուէս քան ըզ-
քեզ։
Ցուցանէ առակս՝ թէ լաւ է մի որդի բարի,
քան հարիւր որդի անօրէն եւ չար։
便宜のためサン゠マルタンによる仏訳も掲載しておく:
XXVI.
la lionne et le renard.
Une Lionne ayant mis bas un lionceau, les ani-
maux se réunirent pour la voir et lui présenter
leurs félicitations. Le Renard vint dans la foule,
et, au milieu de l’assemblée, il injuria la
Lionne, avec affectation et à haute voix, en lui
disant avec mépris : Voilà donc toute ta puis-
sance ; tu n’enfantes qu’un Lionceau et pas da-
vantage. La Lionne lui répondit tranquillement :
Oui, je n’ai donné le jour qu’à un petit, mais
j’ai enfanté un Lion et non un Renard comme
toi.
Cette fable montre qu’il vaut mieux n’avoir
qu’un fils vertueux, qu’une centaine d’enfans
méchans et sans foi.
ただし以上のテクストはロシア語訳が参照しているものではない.そこでそのヨシフ・オルベリ (Иосиф Орбели) による露訳もついでに併載しておこう.谷口氏が依拠した英訳がわからない以上,確実に影響をたどれるのはその英訳が下敷きにしているというこのロシア語テクストまでである:
23. львица и лисица.
Львица родила львенка, и собра-
лись все животные, чтобы повидать его
и принять участие в празднестве. При-
ходит лиса и во время торжества, среди
всего этого собрания, громко упрекнула
львицу и поносила ее: «В этом ли твоя
мощь, что рожаешь одного детеныша,
а не многих?». Львица спокойно отве-
тила: «Да, я рожаю одного детеныша,
но рожаю льва, а не лисиц, как ты».
このオルベリの露訳の底本は,ニコライ・マル (Николай Яковлевич Марр) によるヴァルダンの校訂版 Сборники прич Вардана: материалы для истории средневѣковой армянской литературы (テクスト篇の ч. II は 1894 年) であるようだ.これも Google Books で Google によるデジタイズ版を閲覧できるが,ところどころ完全に文字がつぶれた部分がありあまり役に立たない.ただ下記の訳出作業の (9) でいちどだけ利用するので,どんなふうかいちおう画像を掲載しておく (стр. 116–7):



上掲のサン゠マルタン版と見比べてみれば,前半はところどころ単語のつづりに 1 文字加わったり減ったりしているほかは同じだが,後半の教訓部は明らかにサン゠マルタンのものより長い.ともあれこの段落はオルベリの露訳ではまるごと削られており,そのため谷口訳にもないので無理に判読することはやめておく.


(1) Առիւծ մի կորիւն ծնաւ,


それでは本題に戻って,サン゠マルタン版のアルメニア語をもとに「雌獅子と狐」の日本語訳をしてみよう.アルメニア語の知識がまったくない人でも諸訳 (私のものを含む) の妥当性を検証できるよう,初歩から文法の解説をしていく.全体の訳出結果は本稿の末尾にあらためて載せるので,細部に関心のないかたは飛ばしてもよい.

まずアルメニア語には,印欧語としては驚くべきことに,名詞の性がないのである.したがってここまで雌獅子雌獅子と言ってきた առիւծ であるが実際には性別不明である.しかし仏訳も露訳も明示的に「雌のライオン une Lionne, Львица」と書いているのだからとりあえず従ってみよう.英語でも lioness や she-lion と言えるわけであるが,邦訳から唯一知られる英訳の情報であるところの各話の英題では ‘The Lion’ と載っているので,谷口氏の依拠した英訳では性別不明の獅子になっていたと見える (露訳からの重訳なのになぜ反抗したのか?).

次の մի は数詞の「1」,կորիւն は「動物の仔」,ծնաւ は ծնանիմ「産む」の直説法アオリスト 3 人称単数である.これは自動詞として「生まれる」にも使われる (アルメニア語ではしばしば能動と中・受動の境が曖昧である).さらにアルメニア語では名詞の単数主格と対格がつねに同形なので,このままでは獅子と仔のどちらが主語ともとれそうだが (タイトルにはある指示接尾辞 -ն もここではついていない),仔を自動詞の主語にとると առիւծ の主・対格が浮いてしまうので,順当に「獅子が一頭の子を産んだ」である.

なお単語の語義につき,中世アルメニア語の辞典などおそらく本国にしかなかろうから,ここでは手もとの千種眞一編『古典アルメニア語辞典』(大学書林,2013 年) に頼ることにする.これに見られるかぎりでは ծնանիմ の主語は男性の場合もあり,「Abraham cnaw z-Isahak アブラハムはイサクを生んだ Mt 1,2」との例が出ている.ということは文中の「獅子」が父親のほうであっても (少なくとも古典期には) 矛盾はないことになる.


(2) եւ ժողովեցան կենդանիքն ’ի տես եւ յուրախութիւն։


եւ は接続詞「そして」.ժողովեցան 直アオ 3 複 < ժողովեմ「集める;集まる」.կենդանիքն は「生きている」の意の形容詞 կենդանի を名詞として「生きもの,動物」として用い,その複主 կենդանիք に指示接尾辞 -ն のついたもの.これは定冠詞のような働きをするので,全体で the animals の意.ここまでで「ので動物たちが集まった」.この動物たちはいきなり定冠詞つき複数で出てきているので,谷口訳の「すべての動物」というのもおかしくはない.

’ի のアポストロフは,ի- で始まる単語から前置詞の ի を区別するための記号.この前置詞はさまざまな格を支配し多様な意味をもつが,ここでは対格支配で「するために」の意か.同じく対格支配で「〜の方向へ」や「〜とともに」などの意味がある.տես は動詞 տեսանեմ「見る」から来た「見ること」という名詞.յ- は ի が母音の前でとる形.ուրախութիւն「喜び」.したがってここまでを直訳すれば「見る/会うことと喜びとのために」または「喜びをもって見ることのために」となろうか.

ここで 2 つの現代語訳を参考にしてみると,仏訳は « pour la voir et lui présenter leurs félicitations »「彼女に (la) 会い,彼女に祝福/おめでとう (félicitations) を伝えるため」,また露訳は «чтобы повидать его и принять участие в празднестве»「彼に (его, acc.) 会い,祝典 (празднество) に参加するため」となっている.

まず前半に注目すれば,原文で表されていない「見る」の目的語が補われていることに気づく.この補足じたいはそれぞれの言語の文法的制約からしかたのないことである (他動詞は目的語をとらざるをえない).ただしフランス語ではその対象が女性名詞=母ライオン la Lionne であり,ロシア語では男性名詞すなわち (最初の獅子を母親とみなしていたことを確認したので) 子ライオン львёнок と解釈されている.

より著しい違いがあるのは後半である.仏訳は「喜びをもって」の線ですなおに訳しているように見えるが,ロシア語ではなにやら祝祭が行われることになっている.これははっきり言ってどうなのかわからない.古典アルメニア語の辞典には「喜び」の一義しかないのであるが,あんがい時代が下るにつれて「祝典」の意味が加わったことを否定する根拠を私はもたないからである.

谷口訳の「儀式」もこの露訳の延長線で生じた訳語だろうか.しかし谷口訳をよくよく見ると「その雌獅子を祝福したり、その子への儀式に参加したりしようとして」となっており,獅子の親子に会うことが完全に消えて,празднество「祝典」由来と思われる「祝福」と「儀式」が重複してしまっている.これはまず間違いなく誤訳とみなしていいだろう (繰りかえすがそれが谷口氏の責任なのか英訳者の責なのかは判定できない).また追加そのものを脇に置くとしても「その子への儀式」は日本語として言葉足らず.


(3) Գայ աղուէսն ’ի մէջ բազմամբոխին,


Գայ 直現 3 単 < գամ「来る」.աղուէս「狐」(希 ἀλώπηξ).ի մէջ + [属]「〜のただなかに,のあいだで」.բազմամբոխի は բազմ- < բազում「多数の」と ամբոխի 単属 < ամբոխ「群衆,民衆」の複合語.「狐が大群衆のただなかに来る」.


(4) եւ մեծահանդիսիւ նախատեաց զառիւծն յատեանն բարձր ձայնիւ եւ անարգեաց


մեծահանդիսիւ は մեծ「大きい」と հանդիսիւ 単具 < հանդէս「行列;見世物;祝賀祭」の複合語.(2) における露訳の「祝典」はここからきたものか? 具格はふつう「〜とともに,によって」を意味するが,ここでは様態の副詞として使われているであろう (Thomson, An Introduction to Classical Armenian, p. 56).現代アルメニア語でこの語 մեծահանդես は「壮麗な,豪奢な」という形容詞になっているようだが,中世ですでにこのような変化が進みつつあったのか? いずれにせよ副詞として「見世物的に=壮大に,盛大に」のような意味かと推測される.

նախատեաց 直アオ 3 単 < նախատեմ「侮辱する,罵る;非難する」.զ- は対格を支配し直接目的語を標示するマーカー.つまり զ-առիւծ-ն で the lion(ess) の目的格.

ատեան「集まり,評議会;訴訟,弁論;演壇」.ここでは յ- + 対格なので「〜に向かって」のようにしかとれず,「〜のなかで,において」とするには古典語では処格を要するはずだが,これも通時的変化があったとすればわからない.無難に方向の対格としてとっておこう.

բարձր「高い」(その具格は բարձու だがここでは一致していない).ձայնիւ 単具 < ձայն「声」.「大声で」は ի + 対格で ի ձայն բարձր とも言える (ի ձայն բարձր աղաղակեաց 彼女は大声を上げて叫んだ.ルカ 1,42).

անարգեաց 直アオ 3 単 < անարգեմ「侮辱する,軽蔑する;忌避する」.露訳 «поносила ее»「彼女を侮辱した」や仏訳 « en lui disant avec mépris »「彼女に軽蔑を込めて言い」はやはり目的語代名詞を補っている.

以上よりこの箇所の原意は,「そして盛大にその集まりに向かって大声で獅子を罵り,侮辱した」.


(5) թէ ա՞յդ է քո կարողութիւնդ,


թէ は英語の that のような接続詞で,発話の内容を導く.այդ は 2 人称直示 (つまり相手のがわにあるものを指示する) の指示代名詞「それ」.この上に疑問符  ՞ がついている.アルメニア語では疑問符は文末ではなく,文中で重要な単語のアクセント母音の上に書かれる.է はコピュラ動詞 եմ の直現 3 単 (つまり英語の is).

քո は 2 人称単数の所有形容詞「おまえの,あなたの」.կարողութիւն は形容詞 կարող「可能な,力のある」から派生した抽象名詞「力,能力」で,これに 2 人称の指示接尾辞 -դ がついている (これは「その」と訳せるが,所有詞と補いあって要するに「おまえの」を意味しているのであえて訳出しなくてよい.ギリシア語で所有のとき冠詞がつくようなもの).

この「力」が英訳で power かなにかと訳され,谷口訳の「権限」につながったのだろう.仏訳の puissance も同じく「能力」と「権限」の両方の意味をもつ.しかし日本語ではこの 2 つはかなり違った言葉なので,少なくともこの文脈で権限と訳すわけにはゆかない.以上より「それがおまえの力なのか?」で,どんな力かの説明は次に続く.

ここで「能力」や「力」という語を不自然に感じるとすれば,「可能な」という原義に遡って「できること」くらいに訳すことも許されるだろう.文脈を重視し多少敷衍して訳すなら「全力」あるいは「限度,限界」ほどにもとれる (現に仏訳は « toute ta puissance » としている).


(6) զի մի կորիւն ծնանիս՝ եւ ո՛չ բազում։


զի は「〜なので;〜するために,するように;〜ということ」といった広い意味あいをもつ接続詞.մի կորիւն は (1) で見たとおり「一頭の仔」.ծնանիս もすでに見た ծնանիմ「産む」の直現 2 単.ここまでで「一頭の仔を産むこと」の意.

ոչ は否定辞 (英 not).բազում「多くの,多数の」も既出.あわせて「多くではなく」,つまり意味あいとしては「たった一頭であってそれ以上ではなく」ということ.仏 « et pas davantage » や露訳 «а не многих» も完全に逐語的に移しており,英語でもすなおに訳していたとしたら ‘and not many [more]’ になる.谷口訳の「もうこれ以上は一匹たりとも駄目だぞはまったくの妄想であって,この話の訳文のなかでいちばんひどい部分である.


(7) Պատասխանի ետ առիւծն հանդարտաբար՝ եւ ասէ•

Պատասխանի「返事,弁明」.ետ 直アオ 3 単 < տամ「与える」.この 2 語の組みあわせでふつう「答える,返事をする」の意.առիւծն は既出で「その獅子」.հանդարտաբար は հանդարտ「静かな,穏やかな,穏和な」という形容詞に,「〜のように」を意味する接尾辞 -աբար がついて副詞になったもの.ասէ 直現 3 単 < ասեմ「言う」.「獅子は静かに/穏やかに答えて言った」.


(8) այո՛ մի կորիւն ծնանիմ,


այո は肯定の返事「はい,そうだ,しかり」.ծնանիմ 直現 1 単「産む」.よって単純に「そうだ,私は一頭の仔を産む」で,露訳 «Да, я рожаю одного детеныша» も同様だが,仏訳は « Oui, je n’ai donné le jour qu’à un petit »「そうだ,私は一頭の仔しか産まなかった」と,ニュアンスを重視してか否定の表現 ne ... que を加えている.日本語では否定詞を加えないとしても語順を変えて「私が産むのは一頭だが」のようにすれば含意は通じるだろう.なお谷口訳が同じ動詞なのに「産ませた」に変えている理由は謎.


(9) բայց առիւծ ծնանիմ, եւ ոչ աղուէս քան ըզքեզ։


բայց は反意の接続詞「しかし,そうではなく;もっとも〜だが」.以下 առիւծ「獅子」,ծնանիմ「私は産む」,եւ「そして」,ոչ「でない」,աղուէս「狐」はすべて既出.前半の主語は動詞に含まれている 1 人称単数の「私」なので,「獅子」は対格で,それゆえ後半で対比される「狐」も対格と解するのが相当である.

քան は比較の副詞「〜よりも」(英 than).しかし ըզքեզ の最初の ը- は意味不明.以下の画像のとおりサン゠マルタンの版には間違いなくこの文字があるのだが,誤植か.上に挙げたマルの校訂版にはなく զքեզ となっている.


քան զքեզ と読むとして,քան զ- で対格を支配して「〜よりも」,քեզ は 2 人称単数代名詞 դու の与対処格である.この「おまえよりも」というのは訳しにくいが,仏訳 « et non un Renard comme toi » および露訳 «а не лисиц, как ты» は一致して「〜のような/ように comme, как」と解し「おまえのような [に] 狐ではなく」としている.つまりこの「おまえよりも」というのは「おまえと違って」(cf. other than you) くらいの意味だろう.

以上をまとめると,この箇所の直訳は「しかし [もっとも] 私は獅子を産むのであって,おまえのように狐をではない」.


(10) Ցուցանէ առակս՝ թէ լաւ է մի որդի բարի, քան հարիւր որդի անօրէն եւ չար։


最後に,オルベリの露訳以降で割愛されているこの教訓段落を訳出しよう.

Ցուցանէ 直現 3 単 < ցուցանեմ「示す,見せる;立証する」.առակս は առակ「たとえ,ことわざ,格言,寓話」の複数対格・処格とも見えるが,ここでは առակ に 1 人称指示接尾辞 -ս「この」がついたもので,単数主格である.つまり「この寓話が示している (のは թէ 以下のことである)」.

լաւ「よりよい,優れた」.է「〜である」,մի「一人の」は既出で,որդի は「息子」,բարի は「良い,善い」.հարիւր は基数詞「100」.անօրէն に見える օ という文字は中世 11 世紀末の発明で,本来は二重母音 աւ にあたる.そして անաւրէն は「無法の,不正な,邪悪な,犯罪者」の意.չար もこれと類義語で「悪い,不道徳な,悪意のある」といった意味.

以上で「この寓話が示しているのは,一人の善良な息子は百人の邪悪で非道な息子 (をもつこと) にまさるということである」.獅子が「善良」なのか,狐は逆に貶められすぎではないかという疑念もあるが,これが中世ヨーロッパの動物寓意譚における各動物の印象なのかもしれない.


最終結果


これまでの分析をまとめると,サン゠マルタン版のアルメニア語原文に忠実な (余計な付け足しを極力排した) 日本語訳は以下のようになろう:
獅子が一頭の仔を産んだので,動物たちは見て [見舞い] 喜び (を伝える) ために集まった.狐がその大群衆のなかにやってきて,盛大に獅子を罵りその集まりに向かって大声で「それがあんたのできることか,たくさんではなく (たった) 一頭の仔を産むことが?」と侮辱した.獅子は静かに答えて言った,「そのとおり,私が産むのは一頭だ,もっとも私が産むのは獅子であって,おまえのように狐ではないが」.
この寓話が示しているのは,一人の善良な息子は百人の邪悪で非道な息子 (をもつこと) にまさるということである.

mardi 30 mai 2017

『星の王子さま』で学びたい世界の言語

私は『星の王子さま』(Le Petit Prince) に関してはちょっとしたオタクで,多数ある日本語訳と関連書籍,それに各国語訳をも含めると計 100 冊くらいの蔵書を有しています〔追記。2020 年 9 月には 200 冊になりました〕.もっとも『星の王子さま』には世界中に熱心な愛好家たちがいて,世界のオタクのなかには 1 000 冊を軽く超えていく蒐集家が何人もいるので,この程度ではあまり自慢にならないのですが.

その翻訳先言語の数は,三野博司『「星の王子さま」事典』(大修館書店,2010 年) によると「二〇〇九年九月までに〔……〕二〇八となっている」(198 頁) と言い,その後も増えつづけていることが示唆されています.これは一説には聖書に次いでもっとも多く翻訳された作品だとも聞いたことがありますが,三野によれば「毛沢東とレーニンの著作に次いで、四位を占める」(同書,200 頁) ということです.いずれにせよ,文学作品のなかではもっとも多くの言語に訳されているようです.

ここ 10 年ほどはとりわけドイツのティンテンファス出版 (Edition Tintenfaß, 「インク壺」の意) から,同じ版型の白い表紙で統一感のある装丁で,次々に世界中の言語・方言で『星の王子さま』の翻訳が刊行されています.一般に各国でばらばらに出版されている各国語訳は,Amazon も進出していない国や地方となると入手に相応の手間がかかる (もしくは根本的に入手不可) のですが,このシリーズだけは日本の Amazon からも購入しやすいためおすすめで,驚くべきことに古英語中英語古高ドイツ語中高ドイツ語版なんてものも出ています.もちろん私はぜんぶ買っています (読んだとは言っていない).

『星の王子さま』に限らず,同じ文章,意味の判明している文章 (翻訳の等価 equivalence についての難しい問題は脇に置くとして) がいくつもの言語に訳されているということは,それを用いて語学の学習に役立てられるのでないかという期待を抱かせます.しかも日本語訳が最たる例ですが,ひとつの言語のなかでも何通り (ときには何十通り) もの翻訳があるとなれば,表現の言いかえを知るにも好個の材料を提供してくれそうです.

むろんあくまで翻訳表現である危険性がある,少なくとも翻訳元のフランス語の影響がありうるという難点がありますから (じっさい日本語でも「いかにも翻訳調の文」というのはありますね),その言語を学びたいなら最初からその言語のオリジナルで書かれた文学作品のほうがよいという意見は可能ですが,そうなると前述した複数通りの表現比較はありえないということ,そしてマイナーな言語の作品となると日本語訳はおろか英訳なども存在しないか入手困難ということも多いので,「答え」がないのでは学習用には使いづらいのが実情です.

星の王子さま』にはそれらをクリアする利点があるわけですが,ここでもうひとつ懸念となる (というか偏見がありそうな) のは,『星の王子さま』は子ども向けの作品なので大人の言語学習には向かないという疑いです.なるほど幼児向けの絵本のように平易な言葉で何度も同じパターンの文章を繰りかえし,たとえば時制も現在形しか出てこないというようなことであれば役には立ちませんが,『星の王子さま』はまったくそうではありません.

三野博司『「星の王子さま」で学ぶフランス語文法』(大修館書店,2007 年) という本があります.フランス語は緻密に体系立った文法,とりわけ複雑な時制組織をもつ言語です.この本は文法の解説に際して極力実際に作中にある例をとっているのですが,これを見ると『星の王子さま』の作中にはほとんどありとあらゆる文法事項の実例が見いだされること,とくに時制について言えば大過去や前未来,単純過去,そのうえ条件法過去に接続法半過去・大過去すらも確認されることがわかります!(惜しくも直説法前過去だけは見られないようです)

こうした豊かな時制,それからフランス語学習のもうひとつの難所である中性代名詞 en, y, le などといったさまざまな文法事項が,各国語訳でどのように反映されているのかを見るのは楽しいことです.言うまでもなくフランスにはフランス人が他国語を学ぶための語学書があり,また逆に世界各国にはその国の言葉でフランス語の文法を教える語学書があります.私はそうした世界中の語学書も好んで集めていますが,『星の王子さま』を各国語で読むことは,そういう各国語とフランス語との文法知識のインタラクションを思い起こさせます.

直近の体験では 1 年ほどまえに,リトアニア語を勉強してリトアニア語版の『星の王子さま』(Mažasis princas; ヴィータウタス・カウネツカス Vytautas Kauneckas 訳とプラナス・ビエリャウスカス Pranas Bieliauskas 訳の 2 通り存在します) に取り組んだことがあります (通読とはいきませんでしたが).リトアニア語は豊富な分詞の体系をもち,それでもって微妙な時間的関係を表現する言語で,現在・過去・未来それから習慣過去という耳慣れない時制それぞれの能動分詞,現在・過去・未来の受動分詞に「必要分詞」と「半分詞」,そして現在・過去・未来の「副分詞」という恐るべきバリエーションがあります.

ということはこれらを縦横無尽に駆使することで,フランス語の複雑な時制を翻訳文に表現することができるわけで,実際にリトアニア語訳にはありとあらゆる分詞が見られました.前述のようなフランス語の複合時制をさまざまな時制と法のコピュラ + 能動/受動分詞に移すことはもちろん,付帯状況のジェロンディフ « tout en regardant mon avion »「僕の飛行機を見ながら」(第 3 章) は半分詞 „žiūrėdamas į mano lėktuvą“ に,また « J’étais bien plus isolé qu’un naufragé sur un radeau au milieu de l’océan »「(直訳) 海のただなかで筏の上の難船した人よりもずっと孤独だった」(第 2 章) は,que 以下を „negu žmogus, laivui sudužus, klaidžiojantis plaustu vidury vandenyno“「船が難破してしまい,海のただなかで筏によって漂っている人より」というふうに,原文では名詞的な過去分詞のなかに含意されている「船が難破した」という主節と異なる主語の過去の動作を過去副分詞の独立分詞構文に変え,そして彼が現在漂流していることを現在能動分詞で表しています.またフランス語の半過去はしばしば習慣過去に移っていました.

こういう調子でまんべんなく文法事項がちりばめられているわけですから,おそらく『「星の王子さま」で学ぶリトアニア語文法』もやろうと思えば有意義なものになるはずで (望むらくは自分で作りたいのですが),これはどんな言語にも敷衍できる話だということは想像に難くありません.それだけ『星の王子さま』は教育的にも優れた作品なのです.

星の王子さま』でフランス語を学ぼうという趣旨の本は,前出の三野のフランス語文法のほかに,
などがあります.また変わったところでは,1958 年のノーラ・ガリ (Нора Галь) によるロシア語訳『星の王子さま』(Маленький принц) をもとに対訳と語注をつけた,
という本もあります.看板どおり訳と注はロシア語訳にもとづいてつけられているので,フランス語原文とは内容が異なっている部分があります (たとえば第 2 章冒頭に « à mille milles de toute terre habitée »「人の住むあらゆる地から千マイル……」とありますが,ノーラ・ガリ訳では «на тысячи миль вокруг» と複数対格なので「何千マイル」となっています).この本は私の知るかぎり,フランス語以外の言語についての唯一の試みです.

さきのリトアニア語の話ではありませんが,もっとこうしたものがどんどん増えてくれればよいのですが,今度は翻訳後の作品についての著作権も問題になりますから,なかなか実現が難しいのでしょうか.