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vendredi 11 août 2023

藤田『星の王子さまの教科書』訳例・解答 (1)

解答のついていない語学教科書に勝手に解答を作るシリーズ第 n 弾、藤田尊潮『星の王子さまの教科書——中級フランス語文法読本』(武蔵野美術大学出版局、2007 年)。各課冒頭の『星の王子さま』訳読 (なるべく直訳調で) と終わりの練習問題を解きますが、ディクテは残念ながら CD の再生環境がないため省略します。もとよりフランス語のプロでもない私が勝手に解いただけのものなので je ne suis pas responsable s’il y a des erreurs.


LEÇON 1


À Léon Werth

Je demande pardon aux enfants d’avoir dédié ce livre à une grande personne. J’ai une excuse sérieuse : cette grande personne est le meilleur ami que j’ai au monde. J’ai une autre excuse : cette grande personne peut tout comprendre, même les livres pour enfants. J’ai une troisième excuse : cette grande personne habite la France où elle a faim et froid. Elle a bien besoin d’être consolée. Si toutes ces excuses ne suffisent pas, je veux bien dédier ce livre à l’enfant qu’a été autrefois cette grande personne. Toutes les grandes personnes ont d’abord été des enfants. (Mais peu d’entre elles s’en souviennent.) Je corrige donc ma dédicace :

À Léon Werth
quand il était petit garçon.


レオン・ウェルトへ

私はこの本をある大人の人に捧げたことについて子どもたちに許しを乞う。私にはれっきとした言い訳がある:この大人の人は私の世界で最良の友人なのだ。もうひとつ言い訳がある:この大人の人はなんでも理解できるのだ、子どものための本でさえも。3 つめの言い訳がある:この大人の人はフランスに住んでいて、そこでひもじくて凍えているのだ。この人は慰められる必要があるのだ。もし以上すべての言い訳で十分でないならば、私はこの本を、この大人の人がかつてそれであったところの子どもに捧げたい。すべての大人はまずは子どもだったのだ。(だが彼らのうちほとんどはそのことを覚えていない。)それゆえ私は献辞をこう書きなおす:

小さな少年だったときの
レオン・ウェルトへ


練習問題


1.

1) J’ai demandé pardon aux enfants.

2) Cette grande personne a pu tout comprendre.

3) Elle a bien eu besoin d’être consolée.

4) J’ai bien voulu dédier ce livre à l’enfant.

5) Le petit prince a été sur sa planète.

2.

1) Toutes les grandes personnes sont d’abord des enfants.

2) Il y a beaucoup de roses dans le jardin.

3) Je réfléchis beaucoup sur les aventures de la jungle.

4) Il devient pilote.

5) Il réussit à tracer son premier dessin.

3.

1) Saint-Exupéry est le meilleur écrivain du monde.

2) Le vin français est bien meilleur que le vin japonais.〔比較級に合うように副詞 très も bien に変更した:「日本のワインよりはるかに良い」。〕

3) Sylvie chante mieux que Marie.

4) Paul joue au tennis le mieux de l’école.

5) Le Petit Prince est le roman le plus connu du monde.

4.

1) うわっ寒い、すぐ暖房をつけないと。

2) まっすぐ行ってください。それから 3 番めの通りを左に行ってください。

3) この子は病気だ。本当に治療が必要だ。

4) 私があなたに言ったことがぜんぶ理解できましたか。

5) 私は子どもだった昔の日々をよく覚えている。

5.

1) Hier je suis allé au cinéma avec ma petite amie.〔恋人のほうの「彼女」のつもりで訳した。〕

2) Le(s) TGV français roule(nt) le plus vite du monde.

3) Est-elle là ? — Non, elle est partie [sortie] depuis peu.

4) Saint-Exupéry est né le 29 juin 1900 dans une ville française appelée Lyon.

5) Il est devenu le meilleur ami de Léon Werth.


LEÇON 2


[ボアと野獣の絵]

Lorsque j’avais six ans j’ai vu, une fois, une magnifique image, dans un livre sur la forêt vierge qui s’appelait Histoires vécues. Ça représentait un serpent boa qui avalait un fauve. Voilà la copie du dessin.

On disait dans le livre : « Les serpents boas avalent leur proie tout entière, sans la mâcher. Ensuite ils ne peuvent plus bouger et ils dorment pendant les six mois de leur digestion. »

J’ai alors beaucoup réfléchi sur les aventures de la jungle et, à mon tour, j’ai réussi, avec un crayon de couleur, à tracer mon premier dessin. Mon dessin numéro 1. Il était comme ça :

[傑作 1 号]

J’ai montré mon chef-d’œuvre aux grandes personnes et je leur ai demandé si mon dessin leur faisait peur.

Elles m’ont répondu : « Pourquoi un chapeau ferait-il peur ? »

Mon dessin ne représentait pas un chapeau. Il représentait un serpent boa qui digérait un éléphant. J’ai alors dessiné l’intérieur du serpent boa, afin que les grandes personnes puissent comprendre. Elles ont toujours besoin d’explications. Mon dessin numéro 2 était comme ça :

[傑作 2 号]

Les grandes personnes m’ont conseillé de laisser de côté les dessins de serpents boas ouverts ou fermés, et de m’intéresser plutôt à la géographie, à l’histoire, au calcul et à la grammaire. C’est ainsi que j’ai abandonné, à l’âge de six ans, une magnifique carrière de peintre.


私は 6 歳だったときに、いちどすばらしい絵を、『本当の話』と題する処女林に関する本のなかで見たことがある。それは野獣を呑みこんでいるところのボア蛇を描いていた。これがその絵の写しだ。

本ではこう言われていた:「ボア蛇はその獲物を咀嚼することなしに丸のまま呑みこむ。そうすると彼らはもはや動くことができず、その消化のための 6 ヶ月間眠っている。」

そこで私はジャングルでの冒険についてたくさん思いめぐらし、今度は私じしんが色鉛筆でもって、自分のはじめての絵を描くことに成功した。私の絵第 1 号だ。それはこんなふうだった:

私は自分の傑作を大人たちに見せ、私の絵が彼らを怖がらせるかどうか彼らに尋ねた。

彼らは私に答えた:「どうして帽子が怖いことがあろうか?」

私の絵は帽子を描いたものではなかった。それは象を消化しているところのボア蛇を描いていた。そこで私はボア蛇の内部を描いた。大人たちが理解することができるように。彼らはいつだって説明を必要とするのだ。私の絵第 2 号はこんなふうだった:

大人たちは私に、〔内側を〕開いたものだろうと閉じたものだろうとボア蛇の絵は脇に置いておいて、それよりは地理や歴史や算数や国語に関心をもつようにと忠告した。こうして私は 6 つの歳にして、絵描きという華麗な生きかたを断念したのだった。


練習問題


1.

1) Je savais reconnaître, du premier coup d’œil, la Chine et l’Arizona.

2) Je voulais savoir si elle était vraiment compréhensive.

3) Ça ne pouvait pas m’étonner beaucoup.

4) Le petit prince me posait beaucoup de questions.

5) Il me croyait peut-être semblable à lui.

2.

1) Je dois donc choisir un autre métier et j’appris à piloter des avions.

2) Je vole un peu partout dans le monde.

3) La planète d’où il vient est l’astéroïde B 612.

4) Le cours qu’il fait alors en vaut la peine.

5) La preuve que le petit prince existe, c’est qu’il est ravissant, qu’il rit, et qu’il veut un mouton.

3.

1) Quand le petit prince est arrivé sur la Terre, il n’a rencontré personne dans le désert.

2) On disait dans le livre que les serpents boas avalaient leur proie.

3) Chaque jour j’apprenais quelque chose sur la planète, sur le départ, sur le voyage.〔これは第 5 章に出てくる文がもとであり原文は半過去だが、継続・段階的のニュアンスを出さずに過去の一定期間のことを全体として語るときには複合過去 j’ai appris も可能ではないか?〕

4) Il était une fois un petit prince qui habitait une planète à peine plus grande que lui.

5) J’ai ainsi vécu [Je vivais ainsi] seul, sans personne avec qui parler véritablement jusqu’à ce moment-là.〔第 2 章冒頭の文がもとでそこでは複合過去だが、アスペクトの違いであってどちらも可能。次のスレッドを参照:« imparfait / passé composé + jusqu'à ce que X | WordReference Forum »〕

4.

1) そこで私はボア蛇の内部を描いた、大人たちが理解できるように。

2) 私はジャングルでの冒険についてたくさん思いめぐらし、今度は私じしんが、色鉛筆でもって私のはじめての絵を描くことに成功した。

3) 大人たちは私に、開いたものだろうと閉じたものだろうとボア蛇の絵は脇に置いておいて、それよりも地理や歴史や計算や文法に興味をもつように忠告した。

4) こうして私は 6 つの歳にして、絵描きという華麗な生きかたを断念した。

5) こうして私は人生の道行きで大勢のまじめな人々と多くの付きあいをもった。

5.

1) Quand le petit prince est rentré à sa planète, le mouton dormait.

2) Les grandes personnes n’ont pas pu comprendre ce que le dessin représentait.

3) J’avais soif et je ne pouvais plus marcher.

4) À quoi donc cela sert-il ?

5) Les grandes personne ne comprennent jamais rien toutes seules.

mardi 28 décembre 2021

古代ギリシア語訳『星の王子さま』を読む:序文

現代の文学作品が古代ギリシア語に翻訳された例は数少ないのだが、そのわずかななかに『星の王子さま』が含まれているのは幸運というべきか、それとも必然であるかもしれない。この訳業はセント・アンドリューズ大学で長年ギリシア語とラテン語を講じている Juan Coderch 氏が 2017 年に公にしたもので、氏は現代の世界のニュースを古代ギリシア語で紹介するという活動 (Akropolis World News) をすでに 2002 年から 20 年来続けてこられている、生きた言語としての古代ギリシア語の普及に熱心な人物である。

そしてたいへんありがたいことに、彼はギリシア語とラテン語の文法書をはじめとした自著のほとんどをホームページで無償で公開しておられるのだが、『星の王子さま』のギリシア語訳もまたその例に漏れていない (ちなみに紙の本の販売も行われている)。この訳書は CC BY-NC-SA 3.0 のライセンスで公開されており、著者名を正しくクレジットし非営利の利用であるかぎりは全文の転載も翻案も自由である。

この恩恵にあずかって、以下では古代ギリシア語版『星の王子さま』の精読を行い、翻訳に加えて文法の分析・語彙の解説をしていきたい。本書は副題に ‘with vocabulary help’ とあるとおり難しい単語に語注がついているのではあるが、(私のように) 文法を通り一遍終えた程度で語彙力はぜんぜんない者にとってはこれでも不足しており、ギリシア語で説明されている語注それじたいが理解できないということもまれではない。イマージョン教育を目的とした本書の編集方針をぶち壊しにすることになってしまうが、私は日本人の学習者のために日本語で語義を与え日本語で文法を説明していくことにする。

では、例によって序文 (献辞) から順番に読みはじめるとしよう。


Τῷ Leon Werth


レオン・ヴェルトに

献辞。名前の部分はラテン文字表記で無変化で使われており、定冠詞によってこれが与格であることが示されている。ちなみに Léon のアクサンはなぜか落ちている。


Tοὺς παῖδας συγγνώμην αἰτοῦμαι διότι ταύτην τὴν βίβλον ἀνθρώπῳ τινὶ καθιέρωσα ἤδη τελείῳ ὄντι.


私は子どもたちに許しを請う、この本をすでに成人しているある人物に捧げたことについて。

συγγνώμην (女) 単対 < συγγνώμη「許し、容赦」。

αἰτοῦμαι 直現中 1 単 < αἰτέω「求める」。自分のために求めるという中動態。

διότι 接「〜なので、という理由で」。理由を表す接続詞。διὰ ὅτι より。

καθιέρωσα 直アオ能 1 単 < καθιερόω「捧げる」。

τελείῳ 男単与 < τέλειος, (α,) ον「最終的な、完全な;大人の」。


ὅμως δέ, μεγάλη μοι πρόφασις ὑπάρχει· οὗτος ὁ ἄνθρωπος βέλτιστός ἐστί μοι τῶν ἐμῶν ἐν πάσῃ τῇ οἰκουμένῃ φίλων·


とはいえ、私には大きな言い訳がある:この人は全世界の私の友人たちのうちで最良の (友人) なのである。

ὅμως 接「しかしながら、それにもかかわらず」。

πρόφασις, εως (女) 単主「動機、理由;口実、言い訳」。

ὑπάρχει 直現能 3 単 < ὑπάρχω「根底にある、以前に存在する;[与] の手にある、自由に使える」。

βέλτιστος 最・男単主 < ἀγαθός「よい」。不規則な最上級 (補充形)。

οἰκουμένῃ (女) 単与 < οἰκουμένη「人の住む領域、世界」。πᾶς は位置によって意味が変わる単語なので、教科書どおりに考えると「全世界」というには冠詞の内側で ἡ πᾶσα οἰκουμένη ということになりそう——外側では「すべての世界、どの世界でも」になりそう——だが、なんでかこのように言うらしい。


καὶ δὴ καὶ ἄλλην πρόφασιν ἔχω· οὗτος ὁ ἄνθρωπος οἷός τ’ ἐστι πάντα συνιέναι, ἄλλα τε καὶ τὰς βίβλους τὰς τοῖς παισὶ γεγραμμένας·


さらにまたほかの言い訳もある:この人はすべてを理解できる、ほかのことも子どもたちのために書かれた本をも (理解できる人なのである)。

καὶ δὴ καί このような小辞のニュアンスのちゃんとした説明は私の手に余る。Denniston, Greek Particles, pp. 253, 255 によれば、καὶ δὴ καί の第一義的な意味は καὶ ... δή と基本的に異なるところがなく、この後者は καί による付け加えが重要なものであることを意味するという。

οἷός τ’ ἐστι「できる、能力がある」。οἶος だけでは「そのような、どのような」という関係代名詞であるが、οἶός τ’ εἶναι になるとどんなわけかそういう意味になる。

συνῑέναι 不現能 < συνῑ́ημι「知覚する、理解する」。


τρίτη δὲ πρόφασίς μοι κεῖται· οὗτος ὁ ἄνθρωπος ἐν τῇ Γαλατίᾳ οἰκεῖ, οὗ πεινῶν τε καὶ ῥιγῶν πάσχει, δεῖ οὖν μάλιστα πραΰνειν αὐτόν·


また 3 つめの言い訳も私にはある:この人はガリアに住んでいて、そこで彼は飢えと寒さに苦しんでいる、それゆえ彼を慰めることが大いに必要なのである。

Γαλατίᾳ (女) 単与 < Γαλατίᾱ「ガラテア;ガリア」。新約聖書にも出てくる小アジアの地方ガラテアと、アルプスの両側のガリアいずれをも指すが、ここではもちろんガリア=フランスのこと。

πεινῶν (女) 複属 < πεῖνα「飢え」。

ῥῑγῶν (中) 複属 < ῥῖγος, εος「冷気、寒さ」。

πραΰνειν 不現能 < πραΰνω「和らげる、なだめる、落ちつける」。


εἰ δὲ αὗται αἱ προφάσεις οὐχ ἱκαναί εἰσιν, βούλομαι ταύτην τὴν βίβλον τῷ παιδὶ καθιεροῦν ὅς ποτε οὗτος ὁ ἄνθρωπος ἦν,


だがもしこれらの言い訳が十分でないならば、私はこの本を、かつてこの人がそれであったところの子どもに捧げることにしたい。

ἱκαναί 女複主 < ἱκανός, ά, όν「十分である、満足である」。

καθιεροῦν 不現能 < καθιερόω。οω 動詞の不定法語尾の形に注意。だがなぜここに不定法アオリスト καθιερῶσαι でなく現在が選ばれたのかはいまいちわからない。「捧げようとしたい」という起動 (inchoative) の感じか?


πάντες γὰρ οἱ ἄνθρωποι παῖδες ἦσαν τὸ πρότερον (καὶ εἰ ὀλίγοι τινὲς τούτου μέμνηνται)·


というのもすべての人間は以前には子どもだったのだから (たとえ少数の人しかそのことを覚えていないとしても)。

πρότερον 中単対 < πρότερος「前の、以前の;前者の」。πρό から作られた比較級。この中性はもちろん副詞として働いている。

μέμνηνται 直現完中 3 複 < μιμνήσκω「思いだす、覚えている」。記憶に関する動詞は属格目的語をとるのが相場 (高津春繁『基礎ギリシア語文法』§118.2.a.)。


ἐπανορθῶ οὖν τὴν ἐμὴν καθιέρωσιν· Τῷ Leon Werth τότε ποτὲ παιδὶ ὄντι


それゆえ私は私の献辞を書きなおす:かつて子どもだった当時のレオン・ヴェルトに

ἐπανορθῶ 直現能 1 単 (約音後) < ἐπανορθόω「修正する、改訂する」。

καθιέρωσιν (女) 単対 < καθιέρωσις, εως「献呈」。

vendredi 20 août 2021

ノルン語訳『星の王子さま』を読む:第 1 章

ノルン語版『星の王子さま』Litli prinsen 第 1 章の読解メモ。本編に入っても、いきなりそんなに難しい文がたくさんあるわけではない。Tutorial と Grammar に目を通していれば、あとはほとんど単語の問題である。

まずは朗報をひとつ。前回注意した esi「この」という指示代名詞の変化表が、新たに 1 マス埋まった。ボアの中身のゾウが描かれている絵のすぐ下に、tekna esar mynter (女性複数対格) という例がある。通常の名詞や形容詞と同じく、女性複数対格は主格と同形である。

この章で現れる最大の難問は、sojna「見せる;見える」という動詞に関わっている。古ノルド語・アイスランド語・フェーロー語の sýna と対応することは明白で、意味そのものに不可解なところはない。まず本章における用例を一挙に並べてみよう:
  1. Hun sojnaði kvalaraslangu, [...] (p. 9)
  2. Mynten sojndi sikkt ut. (p. 9)
  3. Hun sojndi sikkt ut: (p. 9)
  4. Eg sojnaði dem vaksnu mesterverkið [...] (p. 9)
  5. Nesta mynten min sojndi sikkt ut: (p. 10)
  6. [...], sojndi eg honon altið fyrstu tekning mina, [...] (p. 11)
すべて直説法過去形単数で現れている (1 人称と 3 人称があるが、過去ではつねに同形なのでそこは問題にしない)。いずれも弱変化の活用で、歯音接尾辞 ð または d によって過去を作っているが、なぜか 2 通りの形がある。しかしこれらは原形 (不定詞) に戻せばどちらも sojna という同じ形にならざるをえない。もし sojna が弱変化 I 類なら語幹 sojn- に続けて歯音、ここでは幹末が n だから d を使って sojndi となる。他方、弱変化 II 類ならつなぎ母音 a があって sojna- の後ろに過去接尾辞だから sojnaði となる。

ひょっとしてこれらは 2 種類の異なる動詞なのだろうか? 用例を詳しく検討してみよう。6 つの文のうち、2. と 3. と 5. は主語がそれぞれ「絵は」「それは」「私の次の絵は」と異なっているだけで、残りはまったく同じだ。sikkt は sikk「このような」の中性単数主・対格形で、ここでは副詞的に「このように」という意味で使われていると思われる。つまり「絵はこんなふうに見えた・こんな見た目だった」という文である。副詞 ut とあわさって、ここでは「見える」という自動詞的に使われている。フェーロー語で言えば sá soleiðis út、デンマーク語なら så sådan ud というところだ。

これらに対して 1. と 4. と 6. は他動詞である。1. では「それ=原始林についての本」が主語で、それが獲物を呑みこむボアの絵を「示して」いる。4. と 6. は「私」が主語で、誰々に自分の絵を「見せた」という文である。

困難を引き起こしているのは 6. だ。もし 6. がなかったら、sojndi (ut)「見えた」という自動詞と sojnaði「見せた」という他動詞があるということで話は片づく。だが 6. の文は存在し、しかもそれは 4. と平行な用法でありながら、動詞の形がそれとは異なっているのだ。4. と 6. は明らかに同じ動詞の同じ活用形であると思われるのに、形が揺らいでいる。

フランス語原文に拠ってみると、4. のほうは J’ai montré mon chef-d’œuvre「私は私の傑作を見せた」という単純な表現だが、6. はじつは素直に訳されてはいない。6. に対応する箇所の原文は、je faisais l’expérience sur elle de mon dessin numéro 1「私はその人に対して私の絵 1 号を実験した」である。だがノルン語がこのような言いかたをしているとは思えない。具体的に行った行為は絵を見せたということだから、ノルン語はやはり「見せた」と訳したのだろう。

6. だけが仲間はずれなら 6. は sojnaði の間違いだ、と結論づけたくなる誘惑に駆られるが、いったん臆断は避けて次章以降に先送りすることにしよう。活用のタイプが異なるので、もし弱変化 I 類 sojndi なら過去分詞は男・女性 sojnd, 中性 sojnt、弱変化 II 類 sojnaði なら全性で sojnað となる。また現在形は複数では同じ sojna だが、単数では語尾が -i, -er と -a, -ar というように異なってくるはずである。こうしたことに気をつけつつ、さらに用例を積み重ねていく必要がある。

sojna の話はこれくらいにして、あとは『星の王子さま』の話がわかっていれば解釈に悩む部分はほとんどない。ほんの 2, 3 文ほどそういうものがあるので検討してみよう。

2 番めの絵を描く直前の文、De skulu altið hava alt rett ut fyri dem. とある。フランス語原文では Elles ont toujours besoin d’explications.「大人たちはいつも説明が必要なのだ」。同じように主語 de は中性複数の「大人たち」であることは疑いない。続く hava alt rett ut は「すべてのことをはっきりさせる」といったところだろう。それはフェーロー語訳 Tey skulu altíð hava alt inn við skeið. やデンマーク語訳 De skal altid have alting forklaret. と見比べればわかる。どうも「説明が必要」という簡潔な仏文を北欧語では逐語訳するわけにいかず、「すべてを説明された状態にする」のような構文に訳したがるようだ。

だが末尾の fyri dem「それら・彼らのために」とはどういうことか。「自分たちのために」であれば再帰代名詞で fyri sjer でないといけないから、そうではない。この dem が指すのは主語とはべつの物や人でなければならない。かといって説明される「すべてのこと」alt は文法的には中性単数なので、これもまた候補から外れる。fyri dem、この 2 語がなければ意味は明解なのだが……。いまいちしっくり来ないが、ボアとゾウの関係のことだろうか? それ以外にこの近辺で指示できそうなものはない。

絵描きへの道をあきらめたという理由については、こう言っている:Eg havdi mist manndyrd veð tabi mynta minna numer ett og tvø, di båðar tekningarne fingu so illt veðtak. 仏語では J’avais été découragé par l’insuccès de mon dessin numéro 1 et de mon dessin numéro 2. というだけの文なので、もしコンマまでの前半がこれにぴったり対応するとすれば、di 以降はノルン語訳の補足ということになる。di はたぶん því にあたる理由の接続詞で、「2 つの絵が悪い反応 (=不評) を受けたから」といったところと思われるが、だとすればどうも前半の繰りかえしになって冗長だ。「私の絵 1 号と 2 号の tabi」(主格は tab?) というのが、かりに insuccès「不首尾、失敗」と同じでないのだとしたら正確なところどういう意味かわからない。やはり辞書がないということが大きなネックになっているのだが、Litli prinsen の訳者まえがきで予告されていた語彙集はいつ発表になるのだろうか。

最後の疑問点はいくぶんスキャンダラスだ。画家の道をあきらめたあと語り手は、フランス語原文では J’ai donc dû choisir un autre métier et j’ai appris à piloter des avions.「そこで私はべつの職業を選ばねばならず、飛行機の操縦を習得した」と言っている。2 つの文が結ばれた重文だ。ここがノルン語訳では、Eg varg di strunken at velja mjer annað atdriv, eg havdi ofta drømt um at vara fljogmann og eg lerdi di at fljuga fljogfar. という 3 文の連結になる。いささか不格好に見えるのは、最初のコンマのあとが接続詞もなしに続いていることで、この真ん中の部分、意味は「私は飛行士になることをしばしば夢見ていた」となろうが、フランス語原文にはない。

ここで注意を惹かれるのがフェーロー語訳 Eg noyddist tí at velja mær annað starv; eg hevði ofta droymt um at verið flogskipari, og eg lærdi tí at flúgva. である。第 1 文のあとはセミコロンで区切られており、単語を順番に 1 対 1 に対応づけられそうなほど酷似した 3 つの文で訳されている (verið という完了分詞になるのはフェーロー語特有の牽引だが、ここでは説明しない)。この「しばしば夢見ていた」という過去完了で語られる設定は、原作にないどころかデンマーク語やアイスランド語訳にも Woods の英訳にもなく、フェーロー語に固有の付け足しと判断される。なぜそれが一語一句同じ形でノルン語に登場するのだろうか。

このことはノルン語版がフェーロー語版からの重訳であるという疑いを提起する。そうでもなければ説明は難しいだろう。しかしこの直後、J’ai volé un peu partout dans le monde.「私はほとんど世界中を飛びまわった」という文が続くのだが、これはフェーロー語版では消えている* のにノルン語訳には復活するのだ。その点を重視するならやはり重訳ではないという方向に傾く。次の章でさらなる例を見るように、またべつのフェーロー語独自の点についてはノルン語は従っていない場合もあるのだ。ともかくいまのところはいずれとも即断しかねる。

* ちなみにこの箇所はデンマーク語版 (Asta Hoff-Jørgensen 訳、1950 年) にも欠けている。また違う機会に論じたいが、このほかにもフェーロー語版は原文からの逸脱においてデンマーク語版と奇妙な符合を示す箇所がいくつもあり、デンマーク語からの重訳であろうと私は判断している。

jeudi 19 août 2021

ノルン語訳『星の王子さま』を読む:序文

「現代ノルン語」Nynorn もしくは Hjetmål (シェトランド方言) で全編書かれた最初の成書として、『星の王子さま』の翻訳 Litli prinsen が昨 2020 年 2 月に現れた。この言語は、シェトランド諸島を中心に話されていたが 19 世紀までに消滅した西ノルド語のひとつ (フェーロー語やアイスランド語の仲間) であるノルン語 Norn を再興しようとして構想された一種の人工言語であり、それが現代に話されていたらどのように発達したであろうかということを、古ノルド語やフェーロー語などとの音韻対応を考慮し、かつ近隣のスコッツ語や英語などからの借用語を適宜取り入れつつ作りあげられたものである。より詳しいことはそのプロジェクトのホームページをご覧いただきたい。

ホームページには Tutorial として学びやすい順に文法事項を解説したものが現在 12 課まで掲載されており、また別立てで Grammar のページには同じ文法が品詞別で体系的に紹介されている。しかしながら、Tutorial はそのディスカッションにあてられた掲示板のスレッドを見るかぎりは少なくとも 17 課まで予定されていたようだが長らく更新が停止してしまっているし、Grammar のほうも後の改訂に委ねるとして記述の足りていない箇所が散見される。

とくに両者に共通する問題点として、正書法が完全に固まるまえに見切り発車で書かれたものか、つづりが一定していない箇所がかなり多く見られ学習者を混乱させる。たとえば gott「よい (中性単数主・対格)」や åttendi「第 8 の」のように、tt のまえにある o, å はオではなくオイと読むという規則 (Tutorial, Lesson 3) があるのだが、べつの場所ではそれを発音どおり goitt や åittendi とつづるような表音的な正書法を模索していた様子がある。同じく、gamel「古い」のような語の変化形で弱音節の e が落ちて gamlan, gamler のように ml が接触するときは、文字には現れない b を gamblan, gambler のように挿入して読む (Lesson 9) と決まっているのが、つづりにも書いてしまっているところがある。ll と nn のような重なりのときはたいてい [ʎ, ɲ] という湿音の長子音として読むのを、文字でも表すべく lj, nj のようにつづったりつづらなかったりしている、など。

単語のつづりそのものに迷いが見られる例もある。Lesson 10 末尾の Reading には、ひとつの文章のなかに「(彼は) 買った」という動詞が købdi と kjobdi という 2 つの形で現れる。つまり原形不定詞は køba と kjoba である。そのすぐ下の単語欄には kjoba とあげられているのだが、それ以前の Lesson 5 では køba として紹介されていたもので、揺らぎがある。また Lesson 7 に出てくる soina「見せる」という動詞は Litli prinsen 中では sojna という形でつづられている、などなど。さらに悪いことに、Dictionary と称された単語集のページは古い Jakobsen の辞書にもとづいており、そこに掲載されている単語のつづりはほかの箇所の説明と食い違うことが多くててんであてにならないのである。

このように、おそらく 10 年近くまえに書かれたホームページの文法は粗削りで未完成との印象が否めないが、2020 年に出て 1 冊のまとまった本という形になっている Litli prinsen のなかではともかくも一貫しているはずだ、と期待して読んでみることを決心した。なにしろホームページが更新されないことには、この訳書のなかに現れている単語のつづりと文法規則こそが現代ノルン語の最新版、現在における一応の決定版だということにならざるをえないのだ。Grammar や Tutorial で解説されていない事項についても、この本と Le Petit Prince のフランス語原文を突きあわせながら推測するほかない。外国語で書かれた本を読むことはいつだって文法や単語の勉強を伴う営みだが、通常あてはまる以上にノルン語の場合はそうである。いまのところこの言語の文法・語彙の模範はこれに勝るものがないのだから。


それではさっそく読みはじめることにしよう。「レオン・ヴェルトに捧ぐ」というおなじみの献辞からであるが、上の前置きで触れたようにノルン語の Grammar および Tutorial のページは不完全であると言ったことの意味をさっそく痛感させられる。

献辞はこうなっている:Esi buk er jenkað til Leons Werth (原文はすべて大文字)。ここにはすでに、ごく基本的で必須であるにもかかわらず Grammar, Tutorial から抜けている事項が 2 つ現れている。ひとつは er jenkað「捧げられる」という、おそらく受動を表す表現。状態受動だとすれば「捧げられた」とも訳せそうだ。過去分詞じたいは説明されているので、これは女性単数主格の形であるとわかる (男性も同形だが、buk なので女性だろう)。

そして esi という語だ。文脈から見て「この」にあたる指示代名詞 (形容詞) であることはまず間違いないのだが、なんとこれほど基本的なものも Grammar に載っていないため、私たちはこれからこの語の変化表を独力で作る必要がある (2 数 3 性 4 格で 24 マス、ただし複数属格と複数与格はそれぞれ 3 性同形と予想できるので実質 20 マス)。ここは主語であるから女性単数主格とわかる。この献辞だけでもほかに、女性単数対格 isa buk、男性単数主格 esi vaksni mann、女性複数主格 allar esar hviflikationer と、あわせて 4 例が見つかるので幸先はよさそうだ。今後もこれほど容易に esi の変化形であることがわかればいいのだが。

フランス語の原文——日本語訳でもいいが——を念頭に置いて読めば、ほかにはさして突っかかるところは多くない。Tutorial を読みこなしていれば、あとは Grammar で名詞の既知形と形容詞の弱変化の知識を補ってだいたいぜんぶ読める。読めないところ、つまり指示代名詞に関わる部分だけ取りあげておこう。

先述の esi「これ、この」とは別の、もうひとつの重要な指示代名詞らしきものがある。これはおそらく古ノルド語の sá「それ、その」に連なるもののはずだ。古ノルド語ではそれは、3 人称代名詞の中性単数と全性の複数に転用された。そのことは現代のフェーロー語でもそのままだし、ノルン語も同様と信じていいと思う。すると逆に、Grammar に載っている人称代名詞のその部分を見れば、男性・女性単数以外は指示代名詞と共通であることが期待される。中性単数ではそれは主 dað, 対 dað, 与 di, 属 dess; 男性複数 der, då, dem, derra; 女性複数 der, der, dem, derra; 中性複数 de, de, dem, derra である (以後、格の順番はこれと同様)。

以上を念頭に読んでみると、(献辞を除いて) 2 行めの dem vaksnu と、下から 3–2 行めの All de vaksnu が指示代名詞の例であるように見える。これらがなんという変化形なのか、どちらも慎重な検討を要する重要な点だ。

まず後者から。意味は「すべての大人たち」で、現在完了の定動詞 hava varið を従えているとおり、これは複数主格である必要がある。de という形から見れば一致するのは中性複数だけだ。そのことは all という形からも裏づけられる。さきほど allar esar hviflikationer が女性複数主格だと見たとおり、all は形容詞の変化をするので、男性複数なら aller でないといけない。ではなぜ「大人」が中性複数か。それは男女混合の集団を考えられているからである。古ノルド語やフェーロー語でもそうだが、その場合は中性複数になるのだ。ほかの多くの印欧語のように男性になるのではないから要注意。

さて後回しにした dem vaksnu はこの序文最大の疑問点である。さきほどの人称代名詞からすると、dem は複数与格ということになる。理由はほかにもある。まず形がわかっていない男性単数与格については、フェーロー語では中性単数与格と同形なので、ノルン語では di と推定されること。しかし古ノルド語ではそうではなかったので (中性 því, 男性 þeim)、これは確実な推定ではない。もっと明確な理由は vaksnu の語尾だ。vaksen「大人」はもともと過去分詞から発した名詞で、形容詞の変化に従う。いまこれは指示代名詞がついて弱変化になっているのだが、-u という語尾は単数にはどこにも現れない。他方複数ではすべての性と格で -u である。したがって結論としてはこれは性が不明の複数与格ということになる。前段で説明したことと同じならこれも中性と解するのが相当だろう。(そして実際、続く第 1 章を先取りすると、Eg sojnaði dem vaksnu mesterverkið「私は大人たちに (私の絵の) 傑作を見せた」という文で同じ形が現れる。)

だが原文と比べるとそれはおかしなことだ。このまま訳すと「私はこの本を大人たち (男女問わず) に捧げることについて子どもたちに許しを乞う」となってしまうが、言うまでもなく本当はレオン・ヴェルトという 1 人の大人の男性に捧げられたのだ。もっと言えば原文は不定冠詞の une grande personne なので、厳密に訳すなら (enon) vaksnon ではないのかと思われるし、「捧げる」の時制も正しくは複合時制で「捧げたこと」なので at hava jenkað とするのが本当だろう。ここまでいろいろ変だとこれは「大人」の数も含めてノルン語訳が間違っているのではないかと考えざるをえない。

最後に関係小辞について (これも載っていなかったので) 一言補足を。sen と eð がそれで、フェーロー語の sum と ið にあたるだろう。古ノルド語では前者は sem に対応するが、後者がもうひとつの関係小辞 er にあたるわけではないようだ。ともかくこれらは格変化しない小辞なので、そういう単語があるとだけ知っておけば読解に悩むことはないだろう。

dimanche 28 mars 2021

塚崎『星の王子さまの世界』フランス語文献一覧

塚崎幹夫『星の王子さまの世界』(中公文庫、2006 年〔初版は中公新書、1982 年〕) は『星の王子さま』解釈の必読文献のひとつである。Amazon レビューのほうにも概略を書いておいたとおり、塚崎説といえば「3 本のバオバブ=枢軸国」の提唱に代表されるように、『星の王子さま』を戦時下の状況を反映した一種の戦争文学のように読むものとして有名であって、その印象が独り歩きしている感もあるが決してそればかりに尽きる本ではない。

さて本書の文庫版 155–168 頁にあたる「読み方くらべへの招待」という節では、『星の王子さま』に関して分析したフランス語文献から注目すべき箇所を拾い出して集めており、これらの文献は現在に至るもなおほとんどが未邦訳であるゆえに貴重な紹介となっている。もとより本書の初版が出た 1982 年以前の古い文献ばかりではあるが、内容は古びているわけではなく、その所論のうちいくつかは現在まで影響を及ぼしている。

ところが本書ではそれらの文献名は日本語訳され著者名はカタカナ表記でのみ掲げられているために、参照にあたってきわめて不便である。類書でしばしば引かれている有名な文献はすぐにピンとくるが、そうでないものも若干ある。そこでこの記事では自分用のメモとしてそれらの原語 (フランス語) でのタイトル・著者名を探してまとめておくことにする。
  1. ルネ・ゼレル『アントワーヌ・ド・サン゠テグジュペリの知られざる生活、あるいは星の王子さまの寓話』一九四八年刊 → Renée Zeller, La vie secrète d’Antoine de Saint-Exupéry ou la parabole du Petit Prince, 1948.
  2. イヴ・ル・イル『サン゠テグジュペリの星の王子さまのなかの幻想と神秘』一九五四年刊 → Yves Le Hir, Fantaisie et mystique dans Le Petit Prince de Saint-Exupéry, 1954.
  3. R.-M. アルベレス『サン゠テグジュペリ』一九六一年刊 → René Marill Albérès, Saint-Exupéry, 1961.〔邦訳あり:中村三郎訳『サン゠テグジュペリ』白馬書房、1970 年;水声社、1998 年。〕
  4. ピエール・パジェ『サン゠テグジュペリと子供の世界』一九六三年刊 → Pierre Pagé, Saint-Exupéry et le monde de l’enfance, 1963.
  5. ピエール゠アンリ・シモン「星の王子さまとの出会い」(アシェット社編『サン゠テグジュペリ』一九六三年刊)→ Pierre-Henri Simon, « A la rencontre du Petit Prince » ; René Marill Albérès et al., Saint-Exupéry, 1963 所収。
  6. クレマン・ボルガル『サン゠テグジュペリ、信仰なき神秘家』一九六四年刊 → Clément Borgal, Saint-Exupéry : Mystique sans la foi, 1964.
  7. ジャックリーヌ・アンシー『サン゠テグジュペリ、人と作品』一九六五年刊 → Jacqueline Ancy, Saint-Exupéry : l’homme et son œuvre, 1965.
  8. セルジュ・ロジック『サン゠テグジュペリの人間の理想』一九六五年刊 → Serge Losic, L’Idéal humain de Saint-Exupéry, 1965.
  9. ジョゼット・スメタナ『サン゠テグジュペリとヘミングウェイにおける行動の哲学』一九六五年刊 → Josette Smetana, Philosophie de l’action chez Saint-Exupéry et Hemingway, 1965.
  10. ピエール・ド・ボアドフル「われわれのジャン゠ジャック」(ルネ・タヴェルニエ編『裁かれるサン゠テグジュペリ』一九六七年刊)→ Pierre de Boisdeffre, « Notre Jean-Jacques » ; René Tavernier (éd.), Saint-Exupéry en procès, 1967 所収。
  11. イヴ・モナン『星の王子さまの秘教』一九七六年刊 → Yves Monin, L’Esotérisme du Petit Prince de Saint-Exupéry, 1976.
  12. マリ゠アンヌ・バルベリ『サン゠テグジュペリの星の王子さま』一九七六年刊 → Marie-Anne Barbéris, Le Petit Prince de Saint-Exupéry, 1976.
これらのうち 1., 2., 11., 12. の 4 書は山崎庸一郎『星の王子さまの秘密』(彌生書房、新装版 1994 年) でも参照され、とくに参考にしたと評されている。また藤田尊潮『『星の王子さま』を読む』(八坂書房、2005 年) の参考文献には 3., 5., 8., 10., 11. (5. と 10. については個別の論文名ではなくそれを収載している編著のほう) が、三野博司『「星の王子さま」事典』(大修館書店、2010 年) には 1., 2., 3., 11., 12. が挙がっている。以上、作品研究を進めフランス語文献に直接あたる人の助けともなれば幸いである。

dimanche 5 juillet 2020

ロマンシュ語訳『星の王子さま』を読む:序文・第 1 章

Wikisource にてロマンシュ語版『星の王子さま』が公開されているのを見つけたので、それを素材に勉強してみることにする。ロマンシュ語には 5 つの方言と、その標準化を目指す人工的な文章語ルマンチュ・グリシュン (Rumantsch Grischun) があることが知られているが、今回扱うのはこのルマンチュ・グリシュン版である。

なおロマンシュ語訳『星の王子さま』はほかにもすでに諸方言のうちの 3 つ、すなわちスルシルヴァ方言 (1975 年)、スルミラン方言 (1977 年)、ヴァラーデル方言 (1979 年) に訳されていることがわかっているが、いずれも古くいまとなっては入手困難である。

ロマンシュ語の文法書は日本語では『スイス「ロマンシュ語」入門』(大学書林、2013 年) が唯一のものである。これは主にスルシルヴァ方言の文法を扱ったものだが、ルマンチュ・グリシュンについてもわずかながら記述がある。

以下の転載はライセンス CC BY-SA 3.0 に従う。


A LÉON WERTH

Jau dumond per perdun ils uffants d’avair deditgà quest cudesch ad in creschì. Jau hai ina stgisa seriusa: quest creschì è il meglier ami che jau hai sin quest mund. Jau hai anc in’autra stgisa: quest creschì è bun da chapir tut, perfin ils cudeschs per uffants. E la terza stgisa: quest creschì stat en Frantscha, nua ch’el ha fom e fraid. El ha grond basegn da vegnir consolà. Sche tut questas stgisas na tanschan betg, vi jau deditgar quest cudesch ad el cur ch’el era anc in uffant. Tut ils creschids èn stads uffants ina giada (dentant mo paucs sa regordan anc da quai). Jau curregel pia mia dedicaziun e scriv:

A Léon Werth
cur ch’el era anc in mattet


I

Cur che jau aveva sis onns, hai jau vis ina giada in grondius dissegn en in cudesch davart la tschungla. Il cudesch aveva num: ‹Istorgias vividas› ed il dissegn mussava ina boa che tragutteva in animal selvadi.

En il cudesch steva scrit: «Las serps boa traguttan lur preda entira ed entratga, senza mastegiar. Suenter n’èn ellas betg pli bunas da sa mover e dorman sis mais per digerir.»

Jau hai alura studegià ditg e lung davart las aventuras da la tschungla e la finala sun jau stà bun da far cun ina colur mes emprim dissegn.

Jau hai mussà mi’ovra d’art als creschids ed hai dumandà, sche mes dissegn als fetschia tema.

Els m’han respundì: «Pertge avess in chapè da far tema?»

Ma mes dissegn na represchentava betg in chapè. El mussava ina serp che digeriva in elefant. Alura hai jau dissegnà l’intern da la boa, per ch’ils creschids sajan buns da chapir. Els dovran gea adina explicaziuns.

Ils creschids m’han cusseglià da laschar star ils dissegns da serps boa avertas u serradas e da m’interessar plitost per la geografia, l’istorgia, ils quints e la grammatica. Uschia hai jau, cun sis onns, chalà da dissegnar ed hai qua tras manchentà ina grondiusa carriera da pictur. Jau era decuraschà, suenter che mes dissegns numer 1 e numer 2 n’avevan betg gì success. Ils creschids na chapeschan mai insatge tut sulets ed igl è stentus per ils uffants d’adina stuair declerar e declerar...

Jau hai damai stuì tscherner in auter mastergn ed hai emprendì da pilotar aviuns. Jau sun sgulà per tut il mund enturn. E la geografia, quai è vair, m’ha propi gidà. Jau era bun da distinguer cun l’emprima egliada tranter la China e l’Arizona. Quai è fitg pratic, sch’ins è sa pers durant la notg.

Tras quai hai jau gì en il decurs da mia vita blers contacts cun ina massa glieud seriusa. Jau hai vivì bler cun ils creschids ed als hai pudì observar fitg damanaivel. Quai n’ha betg meglierà fitg mi’opiniun. Cur che jau entupava in creschì che ma pareva in pau pli scort, fascheva jau l’emprova cun mes dissegn numer 1 che jau aveva tegnì en salv. Jau vuleva savair, sch’el era abel da chapir. Ma mintga giada survegniva jau la resposta: «Quai è in chapè.» Alura na discurriva jau ni da boas, ni da tschunglas, ni da stailas. Jau ma metteva sin il medem stgalim cun el. Jau discurriva da bridge, da golf, da politica e da cravattas. E la persuna creschida era fitg cuntenta d’enconuscher in um uschè raschunaivel...


ロマンス語――もっぱらフランス語とイタリア語――の知識があれば、この原文を与えられただけで少なくとも以下の文法事項を容易に推定できる:
  • 定冠詞・男単 il, 男複 ils, 女単 la, 女複 las (il と la は母音の前では l’)。不定冠詞・男 in, 女 ina (母音の前で in’)。
  • 主語人称代名詞 1 単 jau, 3 単男 el, 3 複男 els, 女 ellas。
  • 指示形容詞「この」男単 quest, 女複 questas。
  • 所有形容詞 1 単・男単 mes, 男複 mes, 女単 mia。
  • 名詞の複数形は uffant → uffants「子ども」、cudesch → cudeschs「本」、stgisa → stgisas「言い訳」のように -s がつく。creschì → creschids「大人」は過去分詞由来の名詞 (cf. 伊 crescere「成長する」) なのでそれと同じように変化する。
  • 形容詞はふつう ina stgisa seriusa のように後置。しかしときに grond basegn, ina grondiusa carriera のように前置されることもある。
  • être 動詞:直説法現在 1 単 sun, 3 単 è, 3 複 èn ; 半過去 3 単 era ; 過去分詞 stà。
  • avoir 動詞:直説法現在 1 単 hai, 3 単 ha, 3 複 han ; 半過去 1 単・3 単 aveva, 3 複 avevan ; 不定形 avair。
  • 規則動詞:不定形に少なくとも -ar, -er, -ir の類がある。直説法現在 1 単は語尾をもたない (e.g. jau dumond, jau curregel)。半過去は幹母音 + 3 単 -va (e.g. mussava, tragutteva)。
  • 複合時制の助動詞はほかのロマンス語と同様 avair と esser を使いわける。後者の例として jau sun sgulà「私は飛んだ」、tut ils creschids èn stads uffants「すべての大人は子どもだった」;したがって esser はフランス語と違いイタリア語と同様に esser を助動詞にとる。
  • 過去分詞は -ar 動詞なら -à (e.g. deditgà, consolà) で、ほかに -ì (e.g. creschì) になるものもある。これらは語末の -d が落ちていると思われ、男単以外では女単 -da, 男複 -ds (creschida, creschids) のように復活する (これはトリエステ方言にもあった現象)。
  • 受動態にはイタリア語と同じく〈esser + 過去分詞〉と〈vegnir + 過去分詞〉という 2 つの形式がある。
  • 否定はフランス語のように na (母音の前では n’) と betg で (助) 動詞をはさむ。
  • 副詞 (句) や副文など主語以外の要素が文頭に出たとき倒置が容易に起こる。

vendredi 26 juin 2020

『星の王子さま』サンスクリット語訳・献辞

ここまでずいぶん回り道をしてきたが、ようやくサンスクリット語をまともに勉強しようという意欲が芽生えたので、まずはデーヴァナーガリーを覚えてみた。例によって『星の王子さま』にはサンスクリット語訳 कनीयान् राजकुमारः (kanīyān rājakumāraḥ) も出ているようなので、これを読むことを目標とする。

余談ながら、この本の表紙にデーヴァナーガリーのタイトルの下にラテン文字で Kaniyaan RaajakumaaraH と書かれているのは間違いであろうと思う。ここでは長母音を ā, ī などでなく aa, ii と、またヴィサルガ ḥ を H とするなどして、扱いづらい特殊な文字を避けた記法がとられているが、最初の i も長母音なので正しくは Kaniiyaan となるはずである。もっと言えば語頭に大文字を使っているのも不用意である:この翻字方式は ITRANS かなんなのか少しはっきりしないが、ヴィサルガを H で表していることから見て大文字と小文字で意味が変わる方式なのは確実であり、単語の頭だからと勝手に大文字にすることはできない。

次のとおり版元のページにはその冒頭の献辞の部分がサンプル画像として掲載されている。今回は文字を読む練習としてそれをラテン文字に翻字してみた。方式は IAST によるが、大文字は使わなかった。まだ勉強を始めたばかりで単語の区切りはよくわからないので後の課題とし、スペースは白文と同じ、つまりシローレーカーがつながっているかぎり分かち書きせずにそのまま書いておく。



“leoṃ vartham” uddiśya...

pustakam idam ekasmai prauḍhajanāya samarpyamāṇam asti iti ataḥ bālamitrāṇāṃ purataḥ kṣamāṃ yāce | etasya kṛte mama nikaṭe vyājaḥ kaścid vartate eva : ‘astim saṃsāre saḥ mama atīva antaraṅgaṃ mitram asti’ iti | aparaḥ api ekaḥ vyājaḥ asti — ‘saḥ prauḍhaḥ janaḥ sarvaṃ kimapi avagantuṃ śaknoti, bālānāṃ kṛte uddiṣṭāni pustakāni api’ iti | mama pārśve tṛtīyaṃ kāraṇam api asti, tad ittham asti — ‘eṣaḥ prauḍhaḥ janaḥ phrāṃs-deśe vasati, tathāpi saḥ bubhukṣayā śaityena ca pīḍitaḥ asti | saḥ aparasya sahānubhūtim apekṣate | kaścit tasmai sahānubhāvaṃ darśayet’ iti | ete vyājāḥ yadi paryāptāḥ na syuḥ, tarhi mayā etat pustakaṃ tasmai bālāya utsargīkriyate yasmin bālye kadācid eṣaḥ prauḍhaḥ janaḥ āsīt | sarve prauḍhāḥ janāḥ ādau bālāḥ eva tu āsan (kintu katipayāḥ janāḥ eva etaṃ viṣayaṃ smaranti yat te api tasyāṃ bālyāvasthāyām āsan iti) | ataḥ kiñcit parivartanaṃ vidhāya eṣaḥ utsargaḥ idānīṃ prastūyate —

“leoṃ vartha” sya kṛte
yadā saḥ bālaḥ āsīt |


とりあえず文字を読んでみただけだが、連声規則をしっかり覚え、文法をちゃんと学んだうえで辞書を引けば単語を分けられるようになるはずなので、これを正しく読めるようになることが当面の目標である。


〔2022 年 6 月 30 日追記〕上の記事を書いたあと、私は結局すぐにサンスクリットの勉強に飽きてしまい継続できなかった。デーヴァナーガリーが (かなりゆっくりではあるがいちおう) 読めるようになったことだけがこのときの成果であった。

しかしその後ちょうど 2 年を経た現在、ふたたび興味が再燃してとうとう本当に勉強を始め、この数日集中して上村・風間『サンスクリット語・その形と心』をまもなく通読するところまできている。それとともに定番の教科書、ゴンダの『サンスクリット語初等文法』に取り組みはじめ練習題を VI まで終えたところであり、これについては近いうちに (これまでにラテン語・ギリシア語の多くの教科書の解答を作ってきたと同様に) 解答の記事を作成する予定でいる。

このように最小限の勉強を経たことで気づくようになったのだが、上のサンスクリット文を改めて眺めてみると、これはひょっとして単語をすでに (複合語以外あらかた) 区切った形で提示してくれているのではないだろうか。スペースがいっぱいあり、子音で終わっているのにシローレーカーが切れているところが多数あるではないか。文の途中でヴィラーマが現れるということは本来の書法ではありえないはずである。またもうひとつすぐに目につく奇妙な点がある:何度も出てくる saḥ という単語 (指示代名詞 tad の男性単数主格) が、子音で始まる単語のまえでもその形であることだ。もっとちゃんと単語を調べながら読んでみないとしかとはわからないが、まだ二、三不可解な箇所も散見される。

といっても間違いを疑っているのではない。訳者はインド人のサンスクリット学者なのだから、素人の気づくようなミスはするまい。となればこのサンスクリット語はひょっとして、かなり学習者に親切な形でわざと書かれているのではないかというのがいまの所見である。想定していたよりもハードルが低いのかもしれず、早いところゴンダを読み終えてこの読書に進んでみたいと思っている。

mercredi 1 avril 2020

星の王子さまのキツネを女性として訳す

星の王子さま』XXI 章に登場するキツネは、「大切なものは目には見えない」をはじめとして数々の重要な教えを「王子」に伝える作中屈指の重要人物だ (言うまでもなく人間ではないが「人物」という語を使うことにする、以下同様。また『星の王子さま』の訳文については、私はいまのところ稲垣訳をもっとも推奨できるものとみなしているので、以下でもこれに依拠する;とはいえキツネの章に関しては賛同しない部分も少なくないのだが)。

このキツネのモデルは——少なくともそのうち核の部分は——サン゠テグジュペリの女友達、というかはっきり言うと浮気相手であった、アメリカ人ジャーナリストのシルヴィア・ハミルトン (のちに結婚してシルヴィア・ラインハルトになる) であったことがはっきりしている。有名な話なので『星の王子さま』関連書の多くに出ていると思うが、たとえばステイシー・シフ『サン゠テグジュペリの生涯』(檜垣嗣子訳、新潮社、1997 年) の第 16 章を参考に指示しておく。詳細にして雄弁すぎるシフの伝記にはいくぶん疑義のある点もあるので、食い違うところでは『イカール』誌に寄稿されたシルヴィア自身の証言にもとづいて書かれた藤田尊潮『『星の王子さま』を読む』27–29 頁も有益である。

キツネとシルヴィアとの符合としてもっとも典型的なものはやはり次の箇所だろう:
「同じ時間にやって来たほうがよかったね」とキツネが言いました。「例えば、午後四時に君がやって来るとする。そうなれば、もう三時からぼくは幸せな気分になりはじめるのさ。そして、時間が近づくにつれて、ぼくはだんだん幸せな気持ちが強くなる。四時になろうものなら、ぼくはもうそわそわして、わくわくする。自分は幸せなんだなあ、とぼくは心底思うことだろうよ。それにひきかえ、君がでたらめな時間にやって来たら、何時に自分の心の着がえをしたらいいか、ぼくにはまるで見当がつかなくなってしまう……。ならわしというものが、どうしてもなくっちゃならないんだ」
放埒なサン゠テグジュペリはシルヴィアのマンションを訪れるのに時間の予告をせず、深夜でも構わずやってくるので、彼女は会えなくなることを恐れてやきもきしながらずっと家にいたものだった。そしてあるとき彼女はそのつらさを彼に訴え、あらかじめ時間を決めて来訪するよう願ったおり、言い逃れるサン゠テグジュペリに対し「あなたがもうすぐ来ると思うと、心がはずみだすの」と語ったそうである。この言葉の反映は明らかであろう。

それからキツネには、仲よくなるための手続きを説明するくだりで「言葉というのは、なにかと誤解を招くもとだからね」というセリフもある。サン゠テグジュペリは英語をまったく解さなかったし、シルヴィアのほうもフランス語はあまりできなかったから、2 人は身振りを交えたり、どちらも得意ではないドイツ語を介して会話したりしていたらしい。言葉がなくても——あるいはないからこそ——気もちが通じあえる関係という点で、「王子」とキツネはサン゠テグジュペリとシルヴィアの間柄と二重写しになる。

キツネ以外の部分でもシルヴィアが『星の王子さま』に影響を与えた箇所は多い。VIII 章でバラを威嚇するトラの絵はシルヴィアの飼っていた (あるいは彼女がサン゠テグジュペリにプレゼントしたとも言われる) ボクサー犬、また II 章の羊はやはり彼女が飼っていたプードルがモデルであると言うし、「王子」の容姿でさえシルヴィアの家にあった金髪の人形がモデルのひとつとなったらしい。

『星の王子さま』の執筆が行われた期間のおよそ半分はシルヴィアの居宅においてなされた。彼女は甲斐甲斐しくこの作家の世話をし、出版後まもなく彼が戦場に復帰するためアメリカを発つとき、『星の王子さま』の手書き第一稿は、別れを告げにきた作家の手ずからシルヴィアに——妻のコンスエロにではなく!——委ねられた。1943 年 4 月のことであった。

さて以上のようなあからさまな照応をもとに『星の王子さま』のキツネの言動を見かえしてみると、ここからは私の想像ではあるが、シルヴィアの姿がダブって見えてくる部分はまだほかにもあるように思われる。たとえば「王子」とキツネの出会いに際してはキツネのほうから声をかけているが、ここにもシルヴィアとサン゠テグジュペリとの最初の出会いが彷彿される。それはシルヴィアのほうからの一目惚れで、まずは 2 人の共通の知人 (サン゠テグジュペリの作品の英訳者ルイス・ガランティエール) を介してアプローチ、その意思疎通がうまくいかないと見ると直接に言葉の通じない彼に迫り電話番号を伝えたという。

また最後にはサン゠テグジュペリ/「王子」の都合でシルヴィア/キツネのもとを去らなければならなくなる点も符合する。もちろん作家がシルヴィアと別れるのは『星の王子さま』執筆時点から見れば未来に属する事柄だが、彼が祖国フランスのためにいずれ亡命先のアメリカを離れ戦線に復帰するということはだいぶ以前から心に決めていたのである。これに関して、フランスという国は妻コンスエロとともにバラの「モデル」をなしているという解釈は意義深い。

それにもまして意味深長なのはキツネのいちばん最後の発言だ。「君が自分でなじみになった〔=飼いならした〕ものに対して、君はずっと責任があるんだからね。君は君のバラに対して責任があるんだよ……」。これは『星の王子さま』を読んでいて昔からどうにも引っかかるセリフであった。

本作のキーワードのひとつに違いない「飼いならす」(apprivoiser、稲垣訳では「なじみになる」) という概念はやはりキツネが「王子」に教える言葉であって、「王子」はそれ以前に自分がバラとそういう関係になっていたことを悟るのだが、それはバラのほうが彼を飼いならしたのだし (もっともこの主客はやがて混同されるのだが)、なにより「飼いならす」ことをそれとはっきり自覚したうえで行うのはキツネに対してが最初だ。「王子」はキツネから請われてとはいえ、意図的にキツネを飼いならすのである。

そうだとすれば、いわば成りゆきで飼いならすことになったバラとの関係にもまして、キツネに対して責任があると言うべきではないか。三野博司『『星の王子さま』の謎』145–46 頁が指摘するように、飼いならすことは一生で一度きりとは限らず「人は複数の相手と絆を結ぶことができる。そのときには、絆のあいだの優先順位が問題になるだろうし、そこからいわゆる嫉妬、三角関係、憎悪などが生じる危険がある」のである*。「王子」は少なくともバラとキツネの両者に対して責任があり、これが恋愛だとすればここには三角関係が生じている。サン゠テグジュペリと妻コンスエロ、およびシルヴィアとのあいだの微妙な関係がオーバーラップする (というか現実にはこの時期サン゠テグジュペリと関係した女性はシルヴィアだけではないのだが)。

* ただし誤解を与えることを避けるため付言すると、三野の論では「王子」とキツネとの関係は恋愛ではなく友情関係だとされており、この 2 組の絆のバッティングは恋愛と友情のどちらを優先するかという問題と捉えられる。さらにキツネの秘義伝授者としての性格を考えあわせるとこれは師弟関係でもあるから、師を乗りこえた弟子は師のもとを去っていかねばならないという形で解決される。

このことを踏まえて先述のキツネの発言を聞くと、キツネは「王子」が「バラに対して責任がある」と指摘するまえに、飼いならした関係から生じる一般論に言及することで、言外に「自分に対しても責任がある」ことを糾弾、あるいはアピールしているのではないのかと思われてくる。賢いキツネは「王子」との別れは引き止められないことを了解しているので、このように遠回しに言うしかなかったのである。

それともひょっとすると、「バラに対して」と言うのさえ迷いの所産だったかもしれない。ここは原文では « Tu deviens responsable pour toujours de ce que tu as apprivoisé. Tu es responsable de ta rose... » であって、日本語と異なり目的語が出てくるのは文の最後である。「飼いならしたものに……」と口に上せたとき、「飼いならされた私」のことが思い浮かぶのは至当であろう。だがそれを相手に突きつけると「面倒くさい女」になってしまう。だから本当は « de moi »「私に対して」と結びたかったところをぐっと呑みこんで、物わかりのいい彼女は « de ta rose »「あなたのバラに」と言いなおしたのかもしれない……。

だがこのいじらしい訴えは「王子」にはまったく聞きとられない。「王子」はこの前後で三度伝えられるキツネの重要な教えを口に出して反復し心に刻もうとするのだが、この最後の場合には「ぼくはぼくのバラに対して責任がある……」と言葉の後半部を繰りかえすだけである。飼いならしたものに対して、の部分を反復してフォーカスしてしまうと、どんな読者にもキツネに対する責任があからさまになってしまうから、作者によって意識的に省かれたのであろうが、あるいは「王子」じしん気づいていてなお、別れの場面をこじらせないために無視したのだとも解釈できる。VIII 章末などに見られるとおり、地球に来てからの「王子」はもはや恋愛面に関してうぶではないからだ。

私が知るかぎりこの最終行の「王子」の応対についてこのような注意が払われたことはこれまでいちどもない。キツネに対する責任の重視も含めて、こうした読みは厳密に言えばキツネを女性とみなすことを必須の要件とするわけではないが (男性相手であろうと責任があることには違いないし、このあと「王子」は語り手の飛行士をも「飼いならす」ことになるがこちらは曖昧さなく男性どうしの関係である。そこはひょっとしてクィア批評に開かれている部分かもしれない)、そうすることによって見やすくなることは間違いないと思われる。これはキツネを女性として訳すことの実用的な価値である。

しかるに数ある『星の王子さま』の日本語訳において、キツネはふつう男性 (オス) として、それもほとんどの場合に判で押したように活発でわんぱくな少年のような人物として描かれてきた。古典的な内藤訳では「おれ、キツネだよ」、稲垣訳では「ぼくはキツネさ」のような口調である。観察されるかぎりキツネの一人称は「おれ」か「ぼく」が圧倒的である。ここに比較した全 28 種の内訳を明かすと、
なお最後の「わたし/私」だが女性らしくはなく、三田では「わたしはキツネだ」「あんたは、遠くから来たんだろ? なにをさがしているんだね?」「忘れてしまいがちのことだけどな」といった要領で、偉そうな男性という雰囲気であった (大橋も同様)。したがって公刊されている 28 種もの邦訳のすべてが、ただの 1 例の例外もなく、キツネを男性としていることになる。

それはある意味では当然のことであって、サン゠テグジュペリの原文フランス語が男性で書いているからである。しかし「キツネ」という名詞を男性名詞の le/un renard としているのは、動物名の総称であるからまだしもメスである可能性を即座に排除するものではないし、それを男性の代名詞 il で受けるのも文法上の制約にすぎないから、ここまでなら女性であってもおかしくはないのである。とはいえキツネ自身のセリフのうちで « Je ne suis pas apprivoisé. » (イタリックは引用者。以下同様) のように男性形を用いているところが痛い。女性なら過去分詞は apprivoisée でなければならないからだ。

それでもこの両者は発音はまったく同じであるから、一種のトリックのようなものとして、語り手あるいは「王子」の認識をもとに男性形の apprivoisé とつづられている……と食い下がれる可能性も私は考えた。unique のように男女同形の形容詞も支障はない。だがこの仮説に抗する致命的なセリフがただ 1 つだけあった。それはシルヴィアの困惑が透けて見える箇所として先にも引用した、君が 4 時に来るなら 3 時にはうれしくなる、というくだりである:« Si tu viens, par exemple, à quatre heures de l’après-midi, dès trois heures je commencerai d’être heureux. Plus l’heure avancera, plus je me sentirai heureux. » という部分だ。2 度現れる heureux「うれしい」という単語は、主語が女性なら heureuse でなければならず、これらははっきりと発音が違うのである。

では原文がこのとおりだとすると、キツネを女性として訳すことはまったく許されないのか。じつはそうとは限らないのである。フランス語と同様に文法上男女を区別する各種のヨーロッパ語訳、たとえばイタリア語訳やチェコ語訳、スロヴァキア語訳などでは、問題なくキツネを女性にしてしまっているのだ。

イタリア語訳を例にとって説明しよう。私は都合 13 種類の (標準) イタリア語訳 Il piccolo principe を所有しているので (この内訳は N. Bompiani Bregoli, E. Tantucci Bruzzi, B. Masini, A. Colasanti, Y. Melaouah, L. Carra, R. Piumini, C. L. Candiani, R. Gardini, M. Di Leo, G. Corà, E. Bruzone, S. Cecchini)、以下の比較はこれらにもとづく。

まずキツネ当人のセリフのうちはじめて性が表れる場面、つまり飼いならされていないからと遊ぶことを拒否するセリフを比べてみると、これはなんと 13 種類すべてが “Non sono addomesticata.” で一字一句まで符合している (最初の non に小文字の場合があることを除いて)。日本語訳が苦労に苦労を重ねている「飼いならす」の訳語を addomesticare ひとつで済ませてしまえることはうらやましいかぎりだが (もっともどれほど熟慮しているのかは怪しいものだ)、ともあれ過去分詞が女性単数形に置かれていることがわかる。つまりこのキツネは自身を女性として表現しているのである。

また「王子」が 5 千本のバラに向かって演説し、キツネを友達にしたからこの世でたった 1 匹のキツネになった、と語るシーン。これはさすがに十人十色だが、たとえば Masini 訳では “Ma io l’ho fatta diventare la mia amica, e adesso è unica al mondo.” となって、イタリックにした部分はすべて「女友達」「唯一の女性」であることを明示している。ほか 11 種も同様。Carra 訳だけは “Ma siamo diventati amici”「僕たちは友達になった」と言って「王子」自身を含めた表現のため男性複数だが、キツネが女性であることには矛盾しないし (男女混合の集団は男性複数になる)、彼の訳でも XXIV 章で飛行士にキツネの話をするときには “La mia amica” と言っており結局女性であったとわかる。

おもしろいのは「王子」がキツネの姿を認めてからの第一声、「君は、なかなかすてきだね……」というセリフだが、上述のようにキツネ自身のセリフで女性と判明するまえの段階のため男女が割れている。語尾の -o が男性で -a が女性だが、Bompiani Bregoli 訳の “sei molto carino” に対して Candiani 訳 “Sei molto carina”、また Piumini 訳 “Sei molto grazioso” に対して Tantucci Bruzzi 訳 “Sei molto graziosa” というふうである。だが全体的にはここも女性形のほうが優勢であった。

煩瑣になるのでこれ以上の比較は差し控えるけれども、ともあれイタリア語訳ではキツネ本人の発言以降一貫して女性として取り扱われており、これは 13 通りもの翻訳を確認してもひとつも例外がなかった。またチェコ語訳 7 種とスロヴァキア語訳 4 種についても事情はまったく同様であり、これも例外なくすべて女性であった (たとえばバラたちへの演説における「友達」はチェコ語 přítelkyně, スロヴァキア語 priateľka)。

むろん、この現象の背後には、「キツネ」を表す普通名詞の性の問題が決定的に影響している。フランス語では renard は男性名詞だが、イタリア語の volpe や、チェコ語 liška, スロヴァキア語 líška は女性名詞なのである。したがってこれらの言語への翻訳でキツネが女性になっている理由は、別段シルヴィアがモデルだからというような考察を踏まえての判断ではなく、むしろ反対にキツネの性別などどちらでもよいと等閑視しているからこそこれほど一致しているのではないかとも疑われる。

しかしそうだとしても、翻訳の作法において、フランス語の原文が男性のキツネだからとてこれを女性に移すことを妨げはしないのだという事実は揺るぎない。とすれば『星の王子さま』を日本語訳するにあたっても、キツネを女性にして悪いということはないはずであろう。ましてキツネのモデルとしてシルヴィア・ハミルトン゠ラインハルトの影を透かし見る読者にとってはなおさらである。既存の邦訳ではそういうことは行われてこなかったが、もし私が自家版『星の王子さま』の翻訳を手がけるとすればこれはかならず女性にすると心に決めている。この選択には十分な根拠があり、なおかつ清新な解釈を開く点で有意義でもあることは上で論証したとおりである。

最後に余談をひとつ。キツネのモデルであるシルヴィアの姓がラインハルトになるとはなんという運命のいたずらであろう。キツネを意味するフランス語 renard はラインハルト Reinhardt と同源の語である。そもそも古フランス語でキツネを表す語は goupil であったが、中世フランスに成立した『狐物語』の主人公の名ルナール Renart そのものがキツネ一般を意味するようになりこれに取って代わったのである。日本で言えば「ごんぎつね」が有名すぎるからと「ごん」がキツネを意味する普通名詞になるようなことであろうか。このルナールがラインハルトのフランス語形である。シルヴィアが未来の夫ゴットフリート・ラインハルトに見初められるのは、『星の王子さま』が出版されサン゠テグジュペリがアメリカを去って間もなくのことだった。


〔2020 年 9 月 11 日追記〕邦訳の比較例に奥本訳、永嶋訳、浅岡訳を加えて 25 種とした。論旨にはまったく変更なし。

〔2022 年 2 月 1 日追記〕邦訳の比較例に大橋訳と助川訳を加えて 27 種とした。同前。

〔2022 年 7 月 21 日追記〕邦訳の比較例に加藤訳を加えて 28 種とした。同前。

lundi 1 juillet 2019

トリエステ方言訳『星の王子さま』を読む:第 5 章・第 6 章

トリエステ方言訳『星の王子さま』El Picio Principe の第 5 章・第 6 章の解説。凡例など詳しいことは序文を参照のこと。


P. 21


le pegore magna albereti「羊たちが小さな木々を食べる」――動詞 magnar は伊 mangiare。トリエステ方言の gn という二重子音字は標準イタリア語のような ñ の音ではなく別々の [gn] という子音連続であるというが (Zeper, 35–37, とくに 36 の注 4, 7)、しかし ñ の音の場合もあるようで、この動詞ではどうか定かでない。またここでは伊 ng に対するトリエステ gn という転倒が起きているが (もっとも語源のラテン語 manducare を思えば音位転換の例とは言いがたいが)、歴史音声学的な Zeper, 29–32 に記述を見いだせないため散発的な現象と思われる。


P. 22


なし


P. 23


un picio buto「小さな芽」――この buto「芽」という語は直接には標準語にないようだが、buttata「発芽、新芽」に名残をとどめているようだ。動詞 butar に対応するイタリア語 buttare はふつう「投げる、放る」の意だが、「(植物が) 芽生える、(泉などが) 噴出する」という語義もある。

se pol lassarlo cresser, come che ’l vol「それが望むように成長させておくことができる」――第 2 章では come se と同義の come che があることを確認したが、今回の come che はそれではなく、標準イタリア語で言うたんなる come であって che は冗語 (Zeper, 139, d.)。最初の se はもちろん伊 si と同じ非人称の si。放任動詞 lassar (伊 lasciare) の語法もイタリア語と同じ。

se devi subito tirarlo fora de la tera, ’pena che se lo riconossi「それとわかるや否や、すぐにそれを地面から引き抜かなければならない」――se devi の se は同上。’pena は apena の語頭音省略で、che はやはり冗語で伊なら appena だけで済むところ。Zeper, 138.

i lo fa s’ciopar「それらはそれを破裂させてしまう」――s’ciopar (伊 scoppiare) のアポストロフォは音の脱落を表すのではなく一種の分音符。破擦音の c のまえでのみ用い、s と ci が「シ」ではなく別々に「スチ」と発音されることを示す。Zeper, 36.


P. 24


なし


P. 25


Basteria ’ndar in Francia in un minuto「1 分でフランスに行けば事足りるだろう」――めずらしくと言うべきか、接続法半過去ではなく標準イタリア語と同じ条件法現在 basteria (伊 basterebbe) を使っている。この bastar (伊 bastare) は非人称の用法で不定詞を従えている。

co se xe ’sai tristi「とても悲しいとき」――se は非人称の補語代名詞 (伊 si)。このように人一般を表すとき、意味上の一致をして形容詞が男性複数形 tristi になることは標準イタリア語でも同じ (坂本『現代イタリア文法』190 頁)。続く後半の inamorai (inamorar の過去分詞男性複数) も同様。


さてここまでの章をお読みになっておわかりのとおり、トリエステ方言とはいっても相当の部分は標準イタリア語の知識で読めるしその知識が第一に重要であるのであって、この解説も章を追うごとに改めてトリエステ方言に独自の文法事項として説明することがいよいよ少なくなり、たんなるイタリア語の文法の確認に陥るようになってきたので、このあたりで連載を切りあげたいと思う。次はまたべつの言語で読むことにしよう。

dimanche 30 juin 2019

トリエステ方言訳『星の王子さま』を読む:第 4 章

トリエステ方言訳『星の王子さま』El Picio Principe の第 4 章の解説。凡例など詳しいことは序文を参照のこと。


P. 17


no poderli veder gnanche col telescopio「望遠鏡でさえ見えない」――gnanche は伊 neanche。ほか、gnente = 伊 niente や gnora = 伊 nuora のように、n が gn になっていることがある。Cf. Zeper, 31, n. 8.

el ghe da「彼はそれに与える」――動詞 dar の直説法現在は、dago, te da, el da, demo, de, i da。Zeper, 241.

’Sto asteroide lo ga visto [...], un astronomo turco「この小惑星は〔……〕トルコの天文学者が見た」――文脈から判断がつくであろうが、この文頭の ’sto asteroide は主語ではなく目的語。もしこれが主語だったとすれば次の直接補語代名詞 lo が浮いてしまう、というのはその仮定のもとでは文末の un astronomo turco が目的語ということになるが、その不定の名詞句を lo で先取りすることはできないので。したがってその場合は lo ではなく非強勢形の二重主語 el であるか、あるいはなにもなく ga visto と続くのでなければならない。このように、直接目的語を文頭に出して倒置する場合、直後に直接目的補語代名詞 (いまは lo) を反復するのは、トリエステ方言の文法というよりは標準イタリア語にある用法 (坂本『現代イタリア文法』338 頁)。Zeper にも二重目的語という節があるが (§8.1.7, p. 108)、そこにはこの件に関連した説明は見いだされない。

Per fortuna, per la reputazion de l’asteroide B 612「幸運なことに、小惑星 B 612 の評判のために」――日本語の訳者もしばしば誤訳する箇所。フランス語原文は « Heureusement pour la réputation de l’astéroïde B 612 » で、「小惑星 B 612 の評判にとって幸運なことに」という意味であり、per 前置詞句は fortuna と強く結びついているので、ここにコンマを挟んではいけない。ケマル・アタテュルクがモデルと考えられるこの「トルコの独裁者 un ditator turco」は、わざわざ小惑星 B 612 のために法令を制定したのではないからである。

参考までに手もとのイタリア語訳 Il Piccolo Principe 11 種を見比べると、Bompiani Bregoli, Bruzone, Candiani, Carra, Colasanti, Di Leo, Gardini, Masini, Piumini の 9 種がコンマなしの «Fortunatamente per la reputazione/fama» (fama は Piumini のみ)、これに対して Cecchini 訳 «Fortunatamente, per la reputazione» と Melaouah 訳 «Fu una vera fortuna, per la reputazione» のみがコンマを挿入している。


P. 18


su’ papà「その人の父親」――単数形の所有形容詞 tuo, tua および suo, sua は語末音が脱落して tu’, su’ となることがあるが、今日これは親族名称の前に来る場合にのみ生き残っている。複数形 tui, tue, sui, sue もかつてそうなることがあったが廃用。Zeper, 78.

Cussì se ghe dirè [...] lori alzerà le spale e i ve traterà come un fioluz「だからもし君たちが彼らに〔……〕と言ったら、彼らは肩をすくめ、君たちを子ども扱いするだろう」――dirè は 2 人称複数、alzerà と traterà は 3 人称複数の未来形。後 2 者は第 1 活用の動詞だが、第 1 活用の未来および条件法の活用語尾にはこの -erà, -eria のほか -arà, -aria も認められており、両方の形が同じほど使われるが、-ar- のほうがより純粋な方言形という。Zeper, 174.


P. 19


Gavessi volù cominciar「始めたかった」――接続法大過去が条件法過去の意味で用いられている。このことは第 1 章で説明した。次の文 Me gavessi piasso dir「言いたかった」も同様。

Per chi che capissi la vita, un principio cussì gavessi avù un’aria ’sai più vera「人生がわかっている人にとっては、このような始めかたがもっとずっと本当らしく思われただろう」――やはり前件だけでなく後件も接続法になっている。この文についてもう 1 点注意すべきは、chi che という冗語で標準語なら che は不要。Zeper, 138. このすぐ次の文にもまた chi che が現れる。

solo che de numeri「数字にしか」――この che もやはり冗語。Zeper, 139.


P. 20


che fussi come lu「〔私が〕彼のようであると」――pensava che の従属節なので接続法半過去になっている fussi の主語は mi だが省略されている。この法と時制では (noi) fùssimo 以外すべて同形の fussi になる (Zeper, 143) ので混同しそうだが、もし主語が彼だとすれば非強勢形主語代名詞 el が省略できないはずである。

Pol darse che mi sia [...]「私は〔……〕なのかもしれない」――伊 può darsi che + 接続法 (io sia) と同じ。すでにここまでの読解で (取りあげなかったものも含めて) 何度も実例を見てきたように、イディオム単位でも標準イタリア語とパラレルになる言いまわしが多いので、方言とはいっても堅実なイタリア語力が求められる。

samedi 29 juin 2019

トリエステ方言訳『星の王子さま』を読む:第 3 章

トリエステ方言訳『星の王子さま』El Picio Principe の第 3 章の解説。凡例など詳しいことは序文を参照のこと。


P. 14


Ghe go messo ’sai tempo「多くの時間がかかった」――この文の残りの語も含めて、訳語の選択と語順まで N. Bompiani Bregoli による伊訳 «Ci misi molto tempo a capire da dove venisse» の敷き写しだが、これは仏原文からすればすなおな訳なので別段どうということもない。そこからも見てとれるように最初の ghe は伊 ci で、伊 metterci「費用・時間をかける」と同じように言えるらしい。

ma ’l pareva no sentir mai le mie「だが彼は私の〔質問〕をまったく聞いていないように見えた」――’l は el で、非強勢形の主語代名詞。誰に「見えた、思われた」pareva かを示す間接補語の「私に」はない。le mie は言うまでもなく所有代名詞「私のもの=質問」(前出 domande を受ける) でイタリア語と同じ。

Solo dele parole, [...], le me ga, [...], svelà tuto「ただ〔……〕言葉だけが私に〔……〕すべてを明らかにした」――コンマで何度も分断されているが、いま掲げた部分が骨格で、dele parole が主語、le はそれを受けてふたたび言われている非強勢形の主語代名詞で二重主語 (Zeper, 104、§8.1.5 の 1.)、me は間接補語、ga ... svelà が動詞で近過去の 3 人称複数である (2 単・3 単・3 複が同形。ga = 伊 a だからといって単数と間違えないように)。第 1 章で説明したとおり、前置詞 de であれば女性冠詞 le とは結合せず de le だが (Zeper, 52s.)、この dele は部分冠詞 (articolo partitivo) なので女性でも dela, dele となる (Zeper, 59)。


P. 15


Lu el me ga dito「彼は私に言った」――lu el の二重主語。3 人称の場合、主語代名詞の強勢形 lu と非強勢形 el の両方を省略することはできず、少なくとも一方は言われねばならない (Zeper, 104)。二重に言ったからといって特別にどうという記述は見いだせないが、Zeper, 106 (§8.1.6 の 1.) によれば「暗示されている場合も含め、強勢形の主語 (代名詞・名詞) の用法はイタリア語のそれと同一である」というから、lu があることそのものが、伊でわざわざ lui の言われる場合と同様の重みをもつと考えてよいと思う。

Te son cascà zo del cel「君は空から落ちたのか」――te は非強勢形の主語代名詞で、3 人称と異なり 2 人称単数では、ti te の両方を言う場合と非強勢形 te だけを言う場合の 2 通りのみが認められ、強勢形 ti だけというのと両方の省略とのパターンは許されない (Zeper, 95, 104, 107)。son cascà は cascar の近過去 2 単で、助動詞 esser の活用形 son は 1 単と同形 (3 人称と同じ ×te xe もあったが廃用。Zeper, 141)。zo は伊 giù。

Mi voio che le mie disgrazie vegni ciapade sul serio「私は私の不運がまじめに捉えられてほしいのだ」――vegni は vignir (伊 venire) の接続法現在 3 複。イタリア語 venire の場合と同じく、vignir を用いた受動態は単純時制でしか用いられない (Zeper, 170)。過去分詞 ciapade は女性複数なので性数一致している。

anche ti te vien del cel「君も空から来たのか」――これは過去の意味の現在というよりは、出身を表すふつうの現在と解すべきだろう。vegnir (不定形は vignir と 2 つの形がある) の直説法現在の活用は vegno, te vien, el vien, vegnimo, vegnì, i vien。ついでに 1 つ前で出た接続法現在は vegno, te vegni, el vegni, vegnimo, vegnì, i vegni。Zeper, 295s.

Go visto tutintun una luce「不意に光を見た」――tutintun「突然、不意に」(伊 all’improvviso) は標準イタリア語にパラレルな単語がないかもしれない。ひょっとして tutto a un tempo か?

Con ’sto trabicolo non te pol esser vignù de ’sai lontan「このおんぼろでは君はそう遠くから来たはずはない」――『小学館 伊和中辞典』を引くと伊 trabiccolo にも、「釣鐘状の輪骨入りの木枠」の次に、諧謔的として「がたのきた道具、がたがたの車」という語義が出ているが、トリエステ方言ではふつうに «veicolo vecchio e sgangherato»「古くて壊れそうな乗り物」の意味に使われているようだ。

ちなみにこの箇所はフランス語の原文では « C’est vrai que, là-dessus, tu ne peux pas venir de bien loin… » となっており、伊 NBB の訳 «Certo che su quello non puoi venire da molto lontano...» は全体を逐語的に移しているが、su quello とはどうも玉虫色の訳である。もともと仏の là-dessus からしてそれほど判明だとは言えないことは、日本語の内藤訳がここを「じゃ」と接続詞のように解したことにも影響を落としているが、それを加藤『自分で訳す星の王子さま』は内藤の誤訳と判定している。トリエステ方言訳 con ’sto trabicolo はこれらに反し、わかりやすく語句を修正したようである。また esser vignù という複合形の不定詞によって時間的先行を示したのもトリエステ独自の改変。


P. 16


’ndò che stago mi「僕のいるところ」――stago は star (伊 stare) の直説法現在 1 単。その他の人称の活用は te sta, el sta, stemo, ste, i sta。Zeper, 283.

vendredi 28 juin 2019

トリエステ方言訳『星の王子さま』を読む:第 2 章

トリエステ方言訳『星の王子さま』El Picio Principe の第 2 章の解説。凡例など詳しいことは序文を参照のこと。


P. 10


solo per oto giorni「8 日間だけ」――oto は伊 otto で、前回述べたようにトリエステ方言には重子音がないことが反映している。フランス語 huit jours、イタリア語 otto giorni と同様、「8 日」で「1 週間」を表す用法があるようだ。

sora ’na zatera「いかだの上で」――sora が伊 sopra なのは少々見抜きにくいか (じつは前回も登場していたが指摘しそびれた)。zatera は伊の gia や cia ではなく zattera。

’na strana voseta me ga sveià「奇妙な小さな声が私を目覚めさせた」――voseta は vose に接尾辞 -eto/eta (伊 -etto) のついた指小形 (Zeper, 216)。ga sveià は sveiar (伊 svegliare) の近過去 3 単で、もののついでに注意しておくと、トリエステ方言にはほかのすべての北部方言と同様、遠過去が消えており近過去で代用される。Zeper, 172.

Te me dissegni「僕に描いて」――me は弱形の間接補語人称代名詞、だが te はもちろんそうではなく、弱形の主語人称代名詞。ところでこの箇所はフランス語原文ではまず vouvoyer をしたあとに tutoyer に切りかわるところだが、このトリエステ方言訳では最初から ti (伊 tu) で話している。トリエステ方言にももちろん敬称の lei, la はあり、la me dissegni と言えたはずのところだが、意図的な判断かは不明。

Dissegnime「僕に描いて」――上は直説法の言いかただったが、こちらは命令法。dissegnar は第 1 活用なので、単独では 2 人称親称の命令法は dissegna であるが、後ろに代名詞が結合する場合に限り、第 2・第 3 活用の影響によって語尾が -a でなく -i になる (dar, far, andar のような命令法が単音節の動詞を除く)。Zeper, 173 の 6. a. 標準イタリア語ではそういうことはなく disegnami。

come che fussi sta’ ciapà de un fulmine「雷に打たれたように」――come che は標準イタリア語のように come se とも言える (Zeper, 135 の 9. b.)。動詞は ciapar の受動態・接続法半過去 (伊訳 fossi stato colpito、ただし語源的に単語を対応させれば動詞は (ac)chiappato)。つまり sta’ は esser の過去分詞男性単数だが、これはふつうの第 1 活用が vardà (= vardado) のようになるのと違って、アポストロフォで sta’ (= stado) とつづる (Zeper, 144)。その理由は、音節の省略によって母音で終わる単音節語になる場合には、そのことがアポストロフォで示されねばならないからである (Zeper, 43 の 3.)。前置詞 de はこれまで見てきたように伊の di だけでなく da にも対応し (Zeper, 117)、ここでは受動態の動作主を示す da。

vardandome ben ’torno「あたりを見まわしながら」――vardandome は vardarse のジェルンディオで、その vardar は伊 guardare と同源。これらは古フランク語 *wardon に遡る語で、その言語の *w はしばしばロマンス語の gu に対応するが、トリエステ方言を含むヴェネト語では v を残した。’torno は atorno (伊 attorno) の語頭音消失。

’Sto qua xe el meo ritrato che [...]「これは〔……〕最良の肖像だ」――文法・語彙には改めて説明することはないが、本来あるはずの王子さまの絵が編集で入っていないため意味不明の文になっている (私の依拠するのは紙の本だが、Kindle 版にもないようだ)。

vardavo coi ioci spalancai「目を見開いて見つめた」――coi は con と定冠詞 i の結合。たぶん、ioci は oci (ocio「目」の複数) の誤記であろう。spalancai は spalancar の過去分詞・男性複数。


P. 11


Co finalmente go ’vudo la possibilità de parlarghe「ようやく話せるようになったとき」――過去分詞の男性複数には avù と avudo の 2 形 (およびそれらの語頭音省略をしたもの) がある。この章のはじめには co go avù un incidente col mio aroplan「私の飛行機の事故があったとき」という例があるので、理由は不明だが、同じ話者 (著者) であっても両方の形を場合に応じて使うようだ。

調べたついでに触れておくと、このように複合時制において過去分詞 avudo は、その目的語が非強勢形人称代名詞であるときに la go avuda などとなる場合を除いて、ほかは「中性形」avù, avudo を用いる (Zeper, 152)。ここでは la possibilità は女性だが名詞なので ’vudo。

また parlarghe の ghe は「彼に」ではなく、伊 ci にあたる代名小詞で一種の冗語ともみなせる用法 (Zeper, 97 の 2. d.) かと解する。つまり伊 vederci「目が見える」や sentirci「耳が聞こえる」と同じ「口が利ける」の謂いか。

E lu me rispondi「すると彼は私に答える」――この箇所は当然意味的に過去のはずで、じっさい伊訳を引き比べると遠過去 (lui) mi rispose が多数派だが (N. Bompiani Bregoli, A. Colasanti, Y. Melaouah, R. Gardini, L. Carra;また B. Masini も lui mi disse)、すでに説明したようにトリエステ方言には遠過去はないので、じつは現在である。これは標準イタリア語にもある物語の現在、つまり歴史的現在かと思われるが (坂本『現代イタリア文法』217 頁)、Zeper の文法は語形変化には詳しいものの動詞の法や時制のそれぞれの用法は説明していないので確証はない (もっとも確立した文法として文学的用法を語れるほどトリエステ方言の文学そのものがイタリア語を離れて存在しうるものでもないだろうが)。

quei due dissegni che gavevo fato tante volte「私が何度も描いたことのあったあの 2 つの絵」――大過去。フランス語原文は « deux seuls dessins dont j’étais capable »「私が描くことのできたただ 2 つの絵」なので、けっこう表現を変えていることになる (tante volte を加えて関係節内を大過去に、また仏 seuls を削除し指示形容詞 quei を追加)。

当然 C. L. Candiani 訳や A. Colasanti 訳のイタリア語 «due soli disegni che sapevo fare» のように逐語訳することもできただろうに、N. Bompiani Bregoli (1949 年) による古典的な伊訳 «quei due disegni che avevo fatto tante volte» と完全に一致しているのは偶然とは考えがたいものがある。フランス語から直接移したのではなく NBB の伊訳が下敷きになっているのではないかという疑いを容れさせる。

この点ではほかに、前章にあった「私の絵は帽子を描いたのではなかった」、すなわち仏 « Mon dessin ne représentait pas un chapeau. » に対する、伊 NBB «Il mio disegno non era il disegno di un cappello.» とトリエステ «El mio dissegno no iera el dissegno de un capel» の合一も思いおこされる。これも動詞を era にして il disegno を反復するのではなく、raffigurava や rappresentava と逐語訳できたはずのところで (前者は Candiani, Carra, Melaouah、後者は Gardini, Masini の訳に見られる)、もちろん逐語訳を避けたい気もちは誰しもあるとしても、その変えかたがまったく同じになる必然性はない。だが後述するように、NBB に反して仏原文に近い文もあり、そこでは仏語を参照していることは確からしい。

e son restà a sentirme risponder「そして私に答えるのを聞くままでいた (?)」――restà は restar (伊 restare) の過去分詞で近過去だが、ここは原文 « Et je fus stupéfait d’entendre le petit bonhomme me répondre »「すると坊やが私に答えるのを聞いて驚いた」、伊 NBB も «e fui sorpreso di sentirmi rispondere» なので、なぜ restar か不明。私に調べのつかないべつの語義があるのかもしれない。伊 restare には「(ある状態に) なる」という意味があり、restare sorpreso「驚く」と言うが、restà (伊 restato) だけでそうなるのはわからない。下記に再出、後述する。

No voio「ほしくない」――voler の直説法現在の活用は、voio, te vol, el vol, volemo, volè, i vol。Zeper, 301.

Indove che vivo mi「僕の住んでいるところ」――イタリア語なら dove 一語ですむところ、冗語。Zeper, 139.

Lu la varda con atenzion e po el me disi「彼はそれを注意深く眺めて、それから私に言う」――やはり varda, disi は現在。イタリア語では順に guardò, disse と遠過去で言うところ (仏原文でも単純過去 regarda)。ひょっとして、語尾変化により一語ですむすっきりした遠過去に比べ、迂言的構成の近過去は字面が間延びするからか、あるいは標準語の遠過去に比較的語形が似ているためにか、一定の条件が整うと現在を過去のかわりに使う頻度が高まるのではないか? 研究が必要なテーマ。

’Sta qua xe za ’sai malada「これはもうかなり病気だ」――za は伊 già。NBB «Questa pecora è malaticcia» に反し仏原文 « Celui-là est déjà très malade. » にそっくりなので、ここは重訳を否定する材料。

Fame n’altra「ほかのを僕に描いて」――上述 dissegnime の項で説明したとおり、単音節の命令法 fà では例外的に語尾が変わらない。ただしイタリア語 fa’ + mi = fammi のように子音を重ねないことを念のため注意。n’ は不定冠詞 ’n’ < una で、読みやすさのため前のアポストロフォが消える。Zeper, 44 の 8.


P. 12


la xe serada qua dentro「このなかにしまわれている」――serada は serar の過去分詞女性単数で、これはイタリア語 serrare にあたるが、意味的には chiudere。

Ma son restà co go visto [...]「だが〔……〕を見たとき驚いた」――前出のとおり、やはり restar 単独で「驚く」の意味に使われているとしか考えられない。2 度めなので脱字ということもないだろう。だが Zeper, 145 の表では restar は伊 restare としか書かれていないので、意味不明。


P. 13


Perchè ’ndò che vivo mi「なぜなら僕の住んでいるところでは」――’ndò は indò の語頭音脱落。この後者はさらに indove の語末音脱落だが、語末のほうはアポストロフォでは書かない (書いてはならない)、というのは省略によって母音で終わる多音節語になる場合である (これは大部分の動詞の過去分詞男性単数形にもあてはまる)。Zeper, 43 の 2. a.

El ga piegà la testa verso el dissegno「彼は頭を絵のほうに傾げた」――ここも NBB ではなく仏に忠実。仏 « Il pencha la tête vers le dessin », 伊 NBB «Si chinò el disegno»。

La se ga indormenzà「それ (=羊) は寝入った」――再帰動詞の近過去だが、過去分詞は女性名詞の主語に一致しない。男性および女性の複数でも同じく -à。これが -ada, -ai, -ade と変わるのはイタリア語形。Zeper, 159.

jeudi 27 juin 2019

トリエステ方言訳『星の王子さま』を読む:第 1 章

いよいよ今回から本編に入って、トリエステ方言訳『星の王子さま』El Picio Principe の第 1 章を解説していく。凡例など詳しいことは序文を参照のこと。ページ番号は紙の本を基準とするので、Kindle 版では対照しづらいかもしれないが容赦いただきたい。


P. 7


Co gavevo sei ani「私が 6 歳だったとき」――接続詞 co はイタリア語の quando にあたる。しかし注意すべきこととして、トリエステ方言にも quando (che) という語があって、これも「いつ」という意味なのである。どう異なるかというと、quando che は時の副詞であって、疑問文やそれに対応した間接話法 (voleria saver quando che posso vignir「いつ来られるか知りたいのだが」のような saver (伊 sapere) などの目的語) に用いるのに対し、co は接続詞であって時の従属節を導入する。Zeper, 90s.

su la foresta vergine「処女林についての」――伊 sulla と異なり、前置詞 su は女性の定冠詞 la, l’, le と結合せず su la, su l’, su le。しかし男性の場合 sul, sui (l’ のみ女性と同じく su l’)。Zeper, 54.

no i riva più moverse「もう動くことができず」――i riva < rivar は伊 arrivare で、イタリア語と同じすべての意味に用いられるので、ここでは〈a + 不定詞〉をとって「〜に成功する、うまく〜できる」の意。主語が i boa (男性複数) なのでその人称代名詞非強勢形 i を伴っている。これに続く i dormi も同様。

i sei mesi che ghe dura la digestion「消化が続く 6 ヶ月間」――トリエステ方言の関係代名詞 che はよく言えば万能、悪く言えば乱雑であって、伊と同じ主語ないし直接補語のほか、(前置詞を伴わずに che 単独で) 伊の di cui, da cui, in cui, con cui, per cui など何にでも対応する (Zeper, 115。もっとも in cui に代わり時を表す che の用法は標準語にも認められている:坂本『現代イタリア文法』168 頁)。dura は自動詞なので、後ろの la digestion のほうがその主語。すると与格の ghe (i boa を受けている間接補語代名詞) が浮くことになるが、これは標準語にもある利害の与格ととれば収まると思う (坂本 145 頁)。


P. 8


de la giungla「ジャングルの」――やはり della にはならないことに注意。del, dei はあるが残りは de l’, de la, de le。Zeper, 53.

anche mi son rivà「私も首尾よく〜した」――son は esser の現在 1 単で、ここは rivar の近過去の助動詞として用いられている。トリエステ方言の自動詞で助動詞に esser を用いるもののリストは Zeper, 145 に提示されている。ただしその次の p. 146 注 14 によれば、rivar は伊 giungere「〜するに至る」の意味では助動詞 esser のみ、伊 riuscire「うまく〜する」の意では esser と gaver の両方が認められ、同じほど使われているが gaver のほうが純粋な方言形だという。

co’na matita colorata「色鉛筆で」――co’na は前置詞 con と女性単数の不定冠詞 una の結合形。これには何通りかの形が許されていて、con は co’ やときに c’ となり (後者は un, una の前でのみ生じる)、また una は ’na や ’n’ にさえなる。いまの co’ + ’na の場合 co’ ’na ではなく co’na が推奨されるが、co’ una ではスペースを入れて分かち書きするし、c’ + un(a) ではくっつけて c’un, c’una となる。さらに co’ + ’n’ + altra (伊 con un’altra) では co’ n’altra と co’n’altra の両方が可能とされている (以上 Zeper, 45。なお n’ の前のアポストロフォが消えることについては同書 p. 44 の 8)。

el mio primo dissegno「私の最初の絵」――トリエステ方言には標準イタリア語と違い重子音がない。dissegno の -ss- は重子音ではなくて、母音間の位置で無声の s を表すために使うつづり字である。

Ghe go mostrà el mio capolavor ai grandi「私は私の傑作を大人たちに見せた」――やはり ghe = ai grandi が重複して用いられている。前回を参照。2 つ先の文 farghe paura a qualchidun も同様、以下略。

Perchè mai un capel dovessi farghe paura a qualchidun?「いったいどうして帽子が誰かを怖がらせねばならないというのか」――dovessi は dover の接続法半過去で、本当なら条件法現在 doveria と言うところ。実際にイタリア語訳を参照すると、C. L. Candiani 訳や Y. Melaouah 訳は «perché mai un cappello dovrebbe fare paura?»、A. Colasanti 訳は «Perché mai dovremmo aver paura di un cappello?» などと、条件法現在を用いていることが確認される。

これはトリエステ方言では接続法と条件法がかなり自由に交換して用いられるからで、とりわけ仮定文ではきわめて頻繁という (Zeper, 172)。たとえば標準イタリア語では〈Se + 接続法半過去、条件法現在〉と言うところ、〈Se + 条件法現在、接続法半過去〉でもいいし、両方とも接続法半過去や両方とも条件法現在という形も認められている。

perchè che lo capissi anche i grandi「大人でもわかるように」――perchè che の che は冗語 (プレオナスム) であって、標準イタリア語ではたんに perché または affinché と言うところ。Zeper, 139.


P. 9


A colpo de ocio「一目で」――伊 a colpo d’occhio。ラテン語 cl に由来し、イタリア語 chi に規則的に対応する ci。例として occhio – ocio「目」のほか、chiave – ciave「鍵」、chiodo – ciodo「釘」があげられる。Zeper, 29.

se un se perdi de note「もし人が夜に迷ったら」――un は不定代名詞で、uno という形も今日使われかなり普及しているが、これはイタリア語に影響された形。Zeper, 112, 114.

nela mia vita「私の人生において」――nela は伊 nella と同じく結合した形。既出の de la, su la および (あえて取りあげなかったが) a la に見るように、女性の定冠詞は結合する場合のほうをとくに覚えるべきかもしれない。nela, cola (= con + la), pela (= per + la)、この後 2 者は伊では逆に結合形 colla, pella のほうがすでに廃用である。Zeper, 53s.

che me pareva un fià più lucido「多少明晰そうに見えたところの」――fià は伊 fiato「息」にあたる語だが、un fià de ... で un poco di ... の意味になる。

Zercavo「〜しようとした」――伊 cercavo、zercar (伊 cercare) の半過去 1 単。イタリア語のチャ行 ce, ci はトリエステ方言のツァ行 z [ts]、また伊のヂャ行 ge, gi はヅァ行 z [dz] に映る傾向がある。Zeper, p. 30 の 12。

mercredi 26 juin 2019

トリエステ方言訳『星の王子さま』を読む:序文

最近、イタリア語を勉強したついでに、イタリアの諸方言に関心を抱くようになった。イタリアでは『星の王子さま』の翻訳が、日本に匹敵するかあるいはそれ以上に活発に行われていて、これまでに標準イタリア語への翻訳だけでおよそ 20 種類、さらにそれとはべつに諸方言 (それをイタリア語の方言とみなすか別個の言語と呼ぶかはべつとして、とにかくイタリア語と密接な関係にあり国内で話されている言語) への訳も、やはり 20 ないし 30 種類ほどもあるようだ (ピエモンテ語、リグリア語、ヴェネト語、エミリア・ロマーニャ語、ナポリ語、シチリア語等々。これらのなかにさらにいくつもの下位方言があり、そのそれぞれに至るまでが『星の王子さま』の翻訳をもっている)。日本語にはただのひとつも方言訳がないこと (これじたい大問題だが!) と対照的である。

そんな多種多様の方言訳のなかで、今回とりあげるのはイタリア北東部の端、北・東・南の三方をスロヴェニアと接する国境の街トリエステの方言に訳された『星の王子さま』El Picio Principe である。

第一次大戦まではオーストリア゠ハンガリー帝国に所属していたトリエステという街は、イタリア語、ドイツ語、そしてスラヴ語 (スロヴェニア語やクロアチア語) が接触するコスモポリタンな都市であった。したがってトリエステ方言とはそれらすべての言語の混交した国際色豊かな言語……、という予断を抱いていたのであるが、実際に読みはじめてみると意外にもそんなことはない (この訳書がとくに注意してそうした借用語を回避しているという可能性もあるが)。

これはトリエステ方言に限らないことで、あくまで素人の個人的な印象にすぎないが、イタリアの方言訳をいくつか見比べたかぎり、北イタリアの諸方言は標準イタリア語の知識に若干の細かな点の追加・修正を加えればほとんどそのまま読めてしまう部分が多い。これに対し南イタリアの方言は字面が大きく違ったり、語彙そのものが標準語と異なっていたりすることが北よりも頻繁で、読解に困難を感じる。耳で聞いたことはないのでそちらの方面はどうかわからないが。

このブログでは Valentina Burolo e Andrea Andolina 訳 El Picio Principe (2016 年) の読書を通じて、ヴェネト語トリエステ方言の文法事項をややランダムに解説していく。そのさい標準イタリア語の初歩的な知識は仮定されることを了承いただきたい。私が用いるテクストはイタリアから取り寄せた紙の本になるが、じつは日本の Amazon でも Kindle の電子書籍版を購入することができるので、入手は容易である。したがって文章全体についてはそちらを参照いただきたい。

トリエステ方言の文法については、Nereo Zeper, Grammatica del dialetto triestino, 2015 を参照する (参考のためいちおう Amazon のリンクを貼ったが、これは Amazon からは注文できないと思う)。以下、この本の xx ページを参照するさい、たんに Zeper, xx と指示する。

では順番どおり、まずはレオン・ヴェルトへの献辞を含む序文から読んでいくことにしよう。続きへのリンク:第 1 章第 2 章第 3 章第 4 章第 5 章・第 6 章


ai fioi「子どもたちに」――標準イタリア語と同様、前置詞と定冠詞の結合がある。ai は a + i。トリエステ方言の定冠詞はイタリア語よりも簡単で、男性は単数が el (’l) と l’、複数が i だけで、女性は単数が la と l’、複数が le である。男性単数名詞は子音で始まるなら el、母音で始まるなら l’ であって、s impura などにまつわる場合分けは生じない。’l という形はまえの語と弱い母音の連続を避ける場合で、義務的ではないようだが発音のしやすさのためしばしば生じる。女性の la と l’ も基本的には子音か母音かということだが、アクセントのある母音のまえで la aca, la una のように la を使う例外も少数ある。Cf. Zeper, 58.

fioi は fiol の複数。複数形の作りかたは Zeper, 66–68 で語尾に応じて詳細に分類されており、-ol の場合原則として -oi。ごく少数の例外において sol, soli のような -oli、また gol のように不変化の場合がある。

gaver dedicà「献げたこと」――gaver は伊 avere にあたる語だが、その不定詞のみならず、直説法現在 go, te ga, el/la ga, gavemo, gavè, i/le ga、半過去 gavevo, te gavevi, ...、未来 gaverò, te gaverà, ...、接続法現在 gabi, ...、半過去 gavessi, ...、条件法現在 gaveria, ... のごとく、分詞 avù(do) を除くすべての法と時制と人称で g- がつくのが特徴的。Zeper, 148ss.

-àr で終わる動詞を第 1 活用といい、その過去分詞は -à と -ado の両形が認められている。性数の変化は -ada, -a(d)i, -ade。また -er の第 2 活用では過去分詞 -ù(do), -uda, -u(d)i, -ude、-ìr の第 3 活用では -ì(do), -ida, -idi, -ide。

xe「〜である」――イタリア語の è にあたる、esser (伊 essere) の直説法現在 3 人称単数の活用形で、x は IPA で [z] と読む。この s の有声音を表す文字はふつうイタリア語と同じく s であるが、この xe という語でのみ x の字を使うことになっている。Zeper のとくに p. 36 の注 10。

’l meo amico che mi go「私がもっている最良の友人」――me(i)o は伊 migliore にあたる語で (Zeper, 83)、イタリア語と違い所有形容詞 mio とよく似るのでうっかり混同しないこと。

go はすでに見たように gaver の直説法現在だが、ここは最上級を修飾する関係節なので、規範的なイタリア語なら接続法 abbia で言うはずのところである (もちろん現代語では直説法 ho で言うこともかなり多いが)。しかるに Zeper の文法には統語論に関する記述がほとんどなく、かろうじて p. 172 に「トリエステ方言は接続法の使用に関してかなり保守的」云々という一方で条件法との交換可能性を注意しているだけである (いま述べたことの詳細は次の回で実例が出てくるときに改めて説明しよう)。「保守的」という言葉の印象からすればここは接続法を使いそうな場面にも思われるが、どうもそういう意味ではないのだろうか?

pol capir tuto「すべてを理解できる」――不規則動詞 poder の直説法現在は posso, te pol, el pol, podemo, podè, i pol と活用する。Zeper, 268.

la ga fame, fredo e la ga ’sai bisogno [...]「飢えて凍えており〔……〕とても必要としている」――前出の主語 ’sta persona granda を引きついでいるが、動詞の活用形 ga のまえで人称代名詞 la が 2 回とも繰りかえされている。これを非強勢形の人称代名詞 (pronome personale atono) といい、2 人称単数および 3 人称の単・複にのみあるもので、これらの人称では強勢形の主語 (3 人称では具体的な名詞も含む) か非強勢形のどちらかをかならず言い表さねばならない (Zeper, 104)。この省略できない理由は、前掲 gaver や poder の活用例に見てとれるとおり、2 単・3 単・3 複では動詞の活用形がほとんどの場合に同一につぶれてしまうことと関係があるであろう。’sai は assai「非常に」の語頭音消失 (Zeper, 48)。

ghe dedicherò ’sto libro al fioluz「この本を子どもに献げよう」――ghe は伊 gli, le にあたる 3 人称の間接補語、あるいは伊 ci, vi にあたる場所などの代名詞だが、文脈から見て al fioluz と同じことを表している。このことにつき Zeper には特段の説明は見いだされずトリエステ方言に特殊な用法ではないと思われ、標準イタリア語にもある〈a + 名詞・代名詞〉と重複する冗語的な ci, vi の用法 (坂本『現代イタリア文法』143 頁) ではないか。fioluz は既出の fiol に指小形の接尾辞 -uz (Zeper, 217) がついたもの。

xe stai「〜だった」――esser の近過去 3 複 (男性)。さきに過去分詞の男性複数形として -a(d)i と説明したが、本書は d のない -ai の形を採用しているようだ。

fazo de novo「やりなおす」――不規則動詞 far の直説法現在は fazo, te fa, el fa, fazemo, fazè, i fa。Zeper, 256.

co ’l iera muleto「少年だったときの」――接続詞 co については次の第 1 章で改めて詳しく見る (Zeper, 90s.)。定冠詞と同様、非強勢形人称代名詞の el も語頭音消失 (aferesi) をして ’l になることがある (Zeper, 48)。iera は esser の直説法半過去 3 単 (iero, te ieri, el iera, ièrimo, ieri, i iera。Zeper, 141)。

mardi 30 mai 2017

『星の王子さま』で学びたい世界の言語

私は『星の王子さま』(Le Petit Prince) に関してはちょっとしたオタクで,多数ある日本語訳と関連書籍,それに各国語訳をも含めると計 100 冊くらいの蔵書を有しています〔追記。2020 年 9 月には 200 冊になりました〕.もっとも『星の王子さま』には世界中に熱心な愛好家たちがいて,世界のオタクのなかには 1 000 冊を軽く超えていく蒐集家が何人もいるので,この程度ではあまり自慢にならないのですが.

その翻訳先言語の数は,三野博司『「星の王子さま」事典』(大修館書店,2010 年) によると「二〇〇九年九月までに〔……〕二〇八となっている」(198 頁) と言い,その後も増えつづけていることが示唆されています.これは一説には聖書に次いでもっとも多く翻訳された作品だとも聞いたことがありますが,三野によれば「毛沢東とレーニンの著作に次いで、四位を占める」(同書,200 頁) ということです.いずれにせよ,文学作品のなかではもっとも多くの言語に訳されているようです.

ここ 10 年ほどはとりわけドイツのティンテンファス出版 (Edition Tintenfaß, 「インク壺」の意) から,同じ版型の白い表紙で統一感のある装丁で,次々に世界中の言語・方言で『星の王子さま』の翻訳が刊行されています.一般に各国でばらばらに出版されている各国語訳は,Amazon も進出していない国や地方となると入手に相応の手間がかかる (もしくは根本的に入手不可) のですが,このシリーズだけは日本の Amazon からも購入しやすいためおすすめで,驚くべきことに古英語中英語古高ドイツ語中高ドイツ語版なんてものも出ています.もちろん私はぜんぶ買っています (読んだとは言っていない).

『星の王子さま』に限らず,同じ文章,意味の判明している文章 (翻訳の等価 equivalence についての難しい問題は脇に置くとして) がいくつもの言語に訳されているということは,それを用いて語学の学習に役立てられるのでないかという期待を抱かせます.しかも日本語訳が最たる例ですが,ひとつの言語のなかでも何通り (ときには何十通り) もの翻訳があるとなれば,表現の言いかえを知るにも好個の材料を提供してくれそうです.

むろんあくまで翻訳表現である危険性がある,少なくとも翻訳元のフランス語の影響がありうるという難点がありますから (じっさい日本語でも「いかにも翻訳調の文」というのはありますね),その言語を学びたいなら最初からその言語のオリジナルで書かれた文学作品のほうがよいという意見は可能ですが,そうなると前述した複数通りの表現比較はありえないということ,そしてマイナーな言語の作品となると日本語訳はおろか英訳なども存在しないか入手困難ということも多いので,「答え」がないのでは学習用には使いづらいのが実情です.

星の王子さま』にはそれらをクリアする利点があるわけですが,ここでもうひとつ懸念となる (というか偏見がありそうな) のは,『星の王子さま』は子ども向けの作品なので大人の言語学習には向かないという疑いです.なるほど幼児向けの絵本のように平易な言葉で何度も同じパターンの文章を繰りかえし,たとえば時制も現在形しか出てこないというようなことであれば役には立ちませんが,『星の王子さま』はまったくそうではありません.

三野博司『「星の王子さま」で学ぶフランス語文法』(大修館書店,2007 年) という本があります.フランス語は緻密に体系立った文法,とりわけ複雑な時制組織をもつ言語です.この本は文法の解説に際して極力実際に作中にある例をとっているのですが,これを見ると『星の王子さま』の作中にはほとんどありとあらゆる文法事項の実例が見いだされること,とくに時制について言えば大過去や前未来,単純過去,そのうえ条件法過去に接続法半過去・大過去すらも確認されることがわかります!(惜しくも直説法前過去だけは見られないようです)

こうした豊かな時制,それからフランス語学習のもうひとつの難所である中性代名詞 en, y, le などといったさまざまな文法事項が,各国語訳でどのように反映されているのかを見るのは楽しいことです.言うまでもなくフランスにはフランス人が他国語を学ぶための語学書があり,また逆に世界各国にはその国の言葉でフランス語の文法を教える語学書があります.私はそうした世界中の語学書も好んで集めていますが,『星の王子さま』を各国語で読むことは,そういう各国語とフランス語との文法知識のインタラクションを思い起こさせます.

直近の体験では 1 年ほどまえに,リトアニア語を勉強してリトアニア語版の『星の王子さま』(Mažasis princas; ヴィータウタス・カウネツカス Vytautas Kauneckas 訳とプラナス・ビエリャウスカス Pranas Bieliauskas 訳の 2 通り存在します) に取り組んだことがあります (通読とはいきませんでしたが).リトアニア語は豊富な分詞の体系をもち,それでもって微妙な時間的関係を表現する言語で,現在・過去・未来それから習慣過去という耳慣れない時制それぞれの能動分詞,現在・過去・未来の受動分詞に「必要分詞」と「半分詞」,そして現在・過去・未来の「副分詞」という恐るべきバリエーションがあります.

ということはこれらを縦横無尽に駆使することで,フランス語の複雑な時制を翻訳文に表現することができるわけで,実際にリトアニア語訳にはありとあらゆる分詞が見られました.前述のようなフランス語の複合時制をさまざまな時制と法のコピュラ + 能動/受動分詞に移すことはもちろん,付帯状況のジェロンディフ « tout en regardant mon avion »「僕の飛行機を見ながら」(第 3 章) は半分詞 „žiūrėdamas į mano lėktuvą“ に,また « J’étais bien plus isolé qu’un naufragé sur un radeau au milieu de l’océan »「(直訳) 海のただなかで筏の上の難船した人よりもずっと孤独だった」(第 2 章) は,que 以下を „negu žmogus, laivui sudužus, klaidžiojantis plaustu vidury vandenyno“「船が難破してしまい,海のただなかで筏によって漂っている人より」というふうに,原文では名詞的な過去分詞のなかに含意されている「船が難破した」という主節と異なる主語の過去の動作を過去副分詞の独立分詞構文に変え,そして彼が現在漂流していることを現在能動分詞で表しています.またフランス語の半過去はしばしば習慣過去に移っていました.

こういう調子でまんべんなく文法事項がちりばめられているわけですから,おそらく『「星の王子さま」で学ぶリトアニア語文法』もやろうと思えば有意義なものになるはずで (望むらくは自分で作りたいのですが),これはどんな言語にも敷衍できる話だということは想像に難くありません.それだけ『星の王子さま』は教育的にも優れた作品なのです.

星の王子さま』でフランス語を学ぼうという趣旨の本は,前出の三野のフランス語文法のほかに,
などがあります.また変わったところでは,1958 年のノーラ・ガリ (Нора Галь) によるロシア語訳『星の王子さま』(Маленький принц) をもとに対訳と語注をつけた,
という本もあります.看板どおり訳と注はロシア語訳にもとづいてつけられているので,フランス語原文とは内容が異なっている部分があります (たとえば第 2 章冒頭に « à mille milles de toute terre habitée »「人の住むあらゆる地から千マイル……」とありますが,ノーラ・ガリ訳では «на тысячи миль вокруг» と複数対格なので「何千マイル」となっています).この本は私の知るかぎり,フランス語以外の言語についての唯一の試みです.

さきのリトアニア語の話ではありませんが,もっとこうしたものがどんどん増えてくれればよいのですが,今度は翻訳後の作品についての著作権も問題になりますから,なかなか実現が難しいのでしょうか.