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vendredi 11 août 2023

藤田『星の王子さまの教科書』訳例・解答 (1)

解答のついていない語学教科書に勝手に解答を作るシリーズ第 n 弾、藤田尊潮『星の王子さまの教科書——中級フランス語文法読本』(武蔵野美術大学出版局、2007 年)。各課冒頭の『星の王子さま』訳読 (なるべく直訳調で) と終わりの練習問題を解きますが、ディクテは残念ながら CD の再生環境がないため省略します。もとよりフランス語のプロでもない私が勝手に解いただけのものなので je ne suis pas responsable s’il y a des erreurs.


LEÇON 1


À Léon Werth

Je demande pardon aux enfants d’avoir dédié ce livre à une grande personne. J’ai une excuse sérieuse : cette grande personne est le meilleur ami que j’ai au monde. J’ai une autre excuse : cette grande personne peut tout comprendre, même les livres pour enfants. J’ai une troisième excuse : cette grande personne habite la France où elle a faim et froid. Elle a bien besoin d’être consolée. Si toutes ces excuses ne suffisent pas, je veux bien dédier ce livre à l’enfant qu’a été autrefois cette grande personne. Toutes les grandes personnes ont d’abord été des enfants. (Mais peu d’entre elles s’en souviennent.) Je corrige donc ma dédicace :

À Léon Werth
quand il était petit garçon.


レオン・ウェルトへ

私はこの本をある大人の人に捧げたことについて子どもたちに許しを乞う。私にはれっきとした言い訳がある:この大人の人は私の世界で最良の友人なのだ。もうひとつ言い訳がある:この大人の人はなんでも理解できるのだ、子どものための本でさえも。3 つめの言い訳がある:この大人の人はフランスに住んでいて、そこでひもじくて凍えているのだ。この人は慰められる必要があるのだ。もし以上すべての言い訳で十分でないならば、私はこの本を、この大人の人がかつてそれであったところの子どもに捧げたい。すべての大人はまずは子どもだったのだ。(だが彼らのうちほとんどはそのことを覚えていない。)それゆえ私は献辞をこう書きなおす:

小さな少年だったときの
レオン・ウェルトへ


練習問題


1.

1) J’ai demandé pardon aux enfants.

2) Cette grande personne a pu tout comprendre.

3) Elle a bien eu besoin d’être consolée.

4) J’ai bien voulu dédier ce livre à l’enfant.

5) Le petit prince a été sur sa planète.

2.

1) Toutes les grandes personnes sont d’abord des enfants.

2) Il y a beaucoup de roses dans le jardin.

3) Je réfléchis beaucoup sur les aventures de la jungle.

4) Il devient pilote.

5) Il réussit à tracer son premier dessin.

3.

1) Saint-Exupéry est le meilleur écrivain du monde.

2) Le vin français est bien meilleur que le vin japonais.〔比較級に合うように副詞 très も bien に変更した:「日本のワインよりはるかに良い」。〕

3) Sylvie chante mieux que Marie.

4) Paul joue au tennis le mieux de l’école.

5) Le Petit Prince est le roman le plus connu du monde.

4.

1) うわっ寒い、すぐ暖房をつけないと。

2) まっすぐ行ってください。それから 3 番めの通りを左に行ってください。

3) この子は病気だ。本当に治療が必要だ。

4) 私があなたに言ったことがぜんぶ理解できましたか。

5) 私は子どもだった昔の日々をよく覚えている。

5.

1) Hier je suis allé au cinéma avec ma petite amie.〔恋人のほうの「彼女」のつもりで訳した。〕

2) Le(s) TGV français roule(nt) le plus vite du monde.

3) Est-elle là ? — Non, elle est partie [sortie] depuis peu.

4) Saint-Exupéry est né le 29 juin 1900 dans une ville française appelée Lyon.

5) Il est devenu le meilleur ami de Léon Werth.


LEÇON 2


[ボアと野獣の絵]

Lorsque j’avais six ans j’ai vu, une fois, une magnifique image, dans un livre sur la forêt vierge qui s’appelait Histoires vécues. Ça représentait un serpent boa qui avalait un fauve. Voilà la copie du dessin.

On disait dans le livre : « Les serpents boas avalent leur proie tout entière, sans la mâcher. Ensuite ils ne peuvent plus bouger et ils dorment pendant les six mois de leur digestion. »

J’ai alors beaucoup réfléchi sur les aventures de la jungle et, à mon tour, j’ai réussi, avec un crayon de couleur, à tracer mon premier dessin. Mon dessin numéro 1. Il était comme ça :

[傑作 1 号]

J’ai montré mon chef-d’œuvre aux grandes personnes et je leur ai demandé si mon dessin leur faisait peur.

Elles m’ont répondu : « Pourquoi un chapeau ferait-il peur ? »

Mon dessin ne représentait pas un chapeau. Il représentait un serpent boa qui digérait un éléphant. J’ai alors dessiné l’intérieur du serpent boa, afin que les grandes personnes puissent comprendre. Elles ont toujours besoin d’explications. Mon dessin numéro 2 était comme ça :

[傑作 2 号]

Les grandes personnes m’ont conseillé de laisser de côté les dessins de serpents boas ouverts ou fermés, et de m’intéresser plutôt à la géographie, à l’histoire, au calcul et à la grammaire. C’est ainsi que j’ai abandonné, à l’âge de six ans, une magnifique carrière de peintre.


私は 6 歳だったときに、いちどすばらしい絵を、『本当の話』と題する処女林に関する本のなかで見たことがある。それは野獣を呑みこんでいるところのボア蛇を描いていた。これがその絵の写しだ。

本ではこう言われていた:「ボア蛇はその獲物を咀嚼することなしに丸のまま呑みこむ。そうすると彼らはもはや動くことができず、その消化のための 6 ヶ月間眠っている。」

そこで私はジャングルでの冒険についてたくさん思いめぐらし、今度は私じしんが色鉛筆でもって、自分のはじめての絵を描くことに成功した。私の絵第 1 号だ。それはこんなふうだった:

私は自分の傑作を大人たちに見せ、私の絵が彼らを怖がらせるかどうか彼らに尋ねた。

彼らは私に答えた:「どうして帽子が怖いことがあろうか?」

私の絵は帽子を描いたものではなかった。それは象を消化しているところのボア蛇を描いていた。そこで私はボア蛇の内部を描いた。大人たちが理解することができるように。彼らはいつだって説明を必要とするのだ。私の絵第 2 号はこんなふうだった:

大人たちは私に、〔内側を〕開いたものだろうと閉じたものだろうとボア蛇の絵は脇に置いておいて、それよりは地理や歴史や算数や国語に関心をもつようにと忠告した。こうして私は 6 つの歳にして、絵描きという華麗な生きかたを断念したのだった。


練習問題


1.

1) Je savais reconnaître, du premier coup d’œil, la Chine et l’Arizona.

2) Je voulais savoir si elle était vraiment compréhensive.

3) Ça ne pouvait pas m’étonner beaucoup.

4) Le petit prince me posait beaucoup de questions.

5) Il me croyait peut-être semblable à lui.

2.

1) Je dois donc choisir un autre métier et j’appris à piloter des avions.

2) Je vole un peu partout dans le monde.

3) La planète d’où il vient est l’astéroïde B 612.

4) Le cours qu’il fait alors en vaut la peine.

5) La preuve que le petit prince existe, c’est qu’il est ravissant, qu’il rit, et qu’il veut un mouton.

3.

1) Quand le petit prince est arrivé sur la Terre, il n’a rencontré personne dans le désert.

2) On disait dans le livre que les serpents boas avalaient leur proie.

3) Chaque jour j’apprenais quelque chose sur la planète, sur le départ, sur le voyage.〔これは第 5 章に出てくる文がもとであり原文は半過去だが、継続・段階的のニュアンスを出さずに過去の一定期間のことを全体として語るときには複合過去 j’ai appris も可能ではないか?〕

4) Il était une fois un petit prince qui habitait une planète à peine plus grande que lui.

5) J’ai ainsi vécu [Je vivais ainsi] seul, sans personne avec qui parler véritablement jusqu’à ce moment-là.〔第 2 章冒頭の文がもとでそこでは複合過去だが、アスペクトの違いであってどちらも可能。次のスレッドを参照:« imparfait / passé composé + jusqu'à ce que X | WordReference Forum »〕

4.

1) そこで私はボア蛇の内部を描いた、大人たちが理解できるように。

2) 私はジャングルでの冒険についてたくさん思いめぐらし、今度は私じしんが、色鉛筆でもって私のはじめての絵を描くことに成功した。

3) 大人たちは私に、開いたものだろうと閉じたものだろうとボア蛇の絵は脇に置いておいて、それよりも地理や歴史や計算や文法に興味をもつように忠告した。

4) こうして私は 6 つの歳にして、絵描きという華麗な生きかたを断念した。

5) こうして私は人生の道行きで大勢のまじめな人々と多くの付きあいをもった。

5.

1) Quand le petit prince est rentré à sa planète, le mouton dormait.

2) Les grandes personnes n’ont pas pu comprendre ce que le dessin représentait.

3) J’avais soif et je ne pouvais plus marcher.

4) À quoi donc cela sert-il ?

5) Les grandes personne ne comprennent jamais rien toutes seules.

mercredi 1 avril 2020

星の王子さまのキツネを女性として訳す

星の王子さま』XXI 章に登場するキツネは、「大切なものは目には見えない」をはじめとして数々の重要な教えを「王子」に伝える作中屈指の重要人物だ (言うまでもなく人間ではないが「人物」という語を使うことにする、以下同様。また『星の王子さま』の訳文については、私はいまのところ稲垣訳をもっとも推奨できるものとみなしているので、以下でもこれに依拠する;とはいえキツネの章に関しては賛同しない部分も少なくないのだが)。

このキツネのモデルは——少なくともそのうち核の部分は——サン゠テグジュペリの女友達、というかはっきり言うと浮気相手であった、アメリカ人ジャーナリストのシルヴィア・ハミルトン (のちに結婚してシルヴィア・ラインハルトになる) であったことがはっきりしている。有名な話なので『星の王子さま』関連書の多くに出ていると思うが、たとえばステイシー・シフ『サン゠テグジュペリの生涯』(檜垣嗣子訳、新潮社、1997 年) の第 16 章を参考に指示しておく。詳細にして雄弁すぎるシフの伝記にはいくぶん疑義のある点もあるので、食い違うところでは『イカール』誌に寄稿されたシルヴィア自身の証言にもとづいて書かれた藤田尊潮『『星の王子さま』を読む』27–29 頁も有益である。

キツネとシルヴィアとの符合としてもっとも典型的なものはやはり次の箇所だろう:
「同じ時間にやって来たほうがよかったね」とキツネが言いました。「例えば、午後四時に君がやって来るとする。そうなれば、もう三時からぼくは幸せな気分になりはじめるのさ。そして、時間が近づくにつれて、ぼくはだんだん幸せな気持ちが強くなる。四時になろうものなら、ぼくはもうそわそわして、わくわくする。自分は幸せなんだなあ、とぼくは心底思うことだろうよ。それにひきかえ、君がでたらめな時間にやって来たら、何時に自分の心の着がえをしたらいいか、ぼくにはまるで見当がつかなくなってしまう……。ならわしというものが、どうしてもなくっちゃならないんだ」
放埒なサン゠テグジュペリはシルヴィアのマンションを訪れるのに時間の予告をせず、深夜でも構わずやってくるので、彼女は会えなくなることを恐れてやきもきしながらずっと家にいたものだった。そしてあるとき彼女はそのつらさを彼に訴え、あらかじめ時間を決めて来訪するよう願ったおり、言い逃れるサン゠テグジュペリに対し「あなたがもうすぐ来ると思うと、心がはずみだすの」と語ったそうである。この言葉の反映は明らかであろう。

それからキツネには、仲よくなるための手続きを説明するくだりで「言葉というのは、なにかと誤解を招くもとだからね」というセリフもある。サン゠テグジュペリは英語をまったく解さなかったし、シルヴィアのほうもフランス語はあまりできなかったから、2 人は身振りを交えたり、どちらも得意ではないドイツ語を介して会話したりしていたらしい。言葉がなくても——あるいはないからこそ——気もちが通じあえる関係という点で、「王子」とキツネはサン゠テグジュペリとシルヴィアの間柄と二重写しになる。

キツネ以外の部分でもシルヴィアが『星の王子さま』に影響を与えた箇所は多い。VIII 章でバラを威嚇するトラの絵はシルヴィアの飼っていた (あるいは彼女がサン゠テグジュペリにプレゼントしたとも言われる) ボクサー犬、また II 章の羊はやはり彼女が飼っていたプードルがモデルであると言うし、「王子」の容姿でさえシルヴィアの家にあった金髪の人形がモデルのひとつとなったらしい。

『星の王子さま』の執筆が行われた期間のおよそ半分はシルヴィアの居宅においてなされた。彼女は甲斐甲斐しくこの作家の世話をし、出版後まもなく彼が戦場に復帰するためアメリカを発つとき、『星の王子さま』の手書き第一稿は、別れを告げにきた作家の手ずからシルヴィアに——妻のコンスエロにではなく!——委ねられた。1943 年 4 月のことであった。

さて以上のようなあからさまな照応をもとに『星の王子さま』のキツネの言動を見かえしてみると、ここからは私の想像ではあるが、シルヴィアの姿がダブって見えてくる部分はまだほかにもあるように思われる。たとえば「王子」とキツネの出会いに際してはキツネのほうから声をかけているが、ここにもシルヴィアとサン゠テグジュペリとの最初の出会いが彷彿される。それはシルヴィアのほうからの一目惚れで、まずは 2 人の共通の知人 (サン゠テグジュペリの作品の英訳者ルイス・ガランティエール) を介してアプローチ、その意思疎通がうまくいかないと見ると直接に言葉の通じない彼に迫り電話番号を伝えたという。

また最後にはサン゠テグジュペリ/「王子」の都合でシルヴィア/キツネのもとを去らなければならなくなる点も符合する。もちろん作家がシルヴィアと別れるのは『星の王子さま』執筆時点から見れば未来に属する事柄だが、彼が祖国フランスのためにいずれ亡命先のアメリカを離れ戦線に復帰するということはだいぶ以前から心に決めていたのである。これに関して、フランスという国は妻コンスエロとともにバラの「モデル」をなしているという解釈は意義深い。

それにもまして意味深長なのはキツネのいちばん最後の発言だ。「君が自分でなじみになった〔=飼いならした〕ものに対して、君はずっと責任があるんだからね。君は君のバラに対して責任があるんだよ……」。これは『星の王子さま』を読んでいて昔からどうにも引っかかるセリフであった。

本作のキーワードのひとつに違いない「飼いならす」(apprivoiser、稲垣訳では「なじみになる」) という概念はやはりキツネが「王子」に教える言葉であって、「王子」はそれ以前に自分がバラとそういう関係になっていたことを悟るのだが、それはバラのほうが彼を飼いならしたのだし (もっともこの主客はやがて混同されるのだが)、なにより「飼いならす」ことをそれとはっきり自覚したうえで行うのはキツネに対してが最初だ。「王子」はキツネから請われてとはいえ、意図的にキツネを飼いならすのである。

そうだとすれば、いわば成りゆきで飼いならすことになったバラとの関係にもまして、キツネに対して責任があると言うべきではないか。三野博司『『星の王子さま』の謎』145–46 頁が指摘するように、飼いならすことは一生で一度きりとは限らず「人は複数の相手と絆を結ぶことができる。そのときには、絆のあいだの優先順位が問題になるだろうし、そこからいわゆる嫉妬、三角関係、憎悪などが生じる危険がある」のである*。「王子」は少なくともバラとキツネの両者に対して責任があり、これが恋愛だとすればここには三角関係が生じている。サン゠テグジュペリと妻コンスエロ、およびシルヴィアとのあいだの微妙な関係がオーバーラップする (というか現実にはこの時期サン゠テグジュペリと関係した女性はシルヴィアだけではないのだが)。

* ただし誤解を与えることを避けるため付言すると、三野の論では「王子」とキツネとの関係は恋愛ではなく友情関係だとされており、この 2 組の絆のバッティングは恋愛と友情のどちらを優先するかという問題と捉えられる。さらにキツネの秘義伝授者としての性格を考えあわせるとこれは師弟関係でもあるから、師を乗りこえた弟子は師のもとを去っていかねばならないという形で解決される。

このことを踏まえて先述のキツネの発言を聞くと、キツネは「王子」が「バラに対して責任がある」と指摘するまえに、飼いならした関係から生じる一般論に言及することで、言外に「自分に対しても責任がある」ことを糾弾、あるいはアピールしているのではないのかと思われてくる。賢いキツネは「王子」との別れは引き止められないことを了解しているので、このように遠回しに言うしかなかったのである。

それともひょっとすると、「バラに対して」と言うのさえ迷いの所産だったかもしれない。ここは原文では « Tu deviens responsable pour toujours de ce que tu as apprivoisé. Tu es responsable de ta rose... » であって、日本語と異なり目的語が出てくるのは文の最後である。「飼いならしたものに……」と口に上せたとき、「飼いならされた私」のことが思い浮かぶのは至当であろう。だがそれを相手に突きつけると「面倒くさい女」になってしまう。だから本当は « de moi »「私に対して」と結びたかったところをぐっと呑みこんで、物わかりのいい彼女は « de ta rose »「あなたのバラに」と言いなおしたのかもしれない……。

だがこのいじらしい訴えは「王子」にはまったく聞きとられない。「王子」はこの前後で三度伝えられるキツネの重要な教えを口に出して反復し心に刻もうとするのだが、この最後の場合には「ぼくはぼくのバラに対して責任がある……」と言葉の後半部を繰りかえすだけである。飼いならしたものに対して、の部分を反復してフォーカスしてしまうと、どんな読者にもキツネに対する責任があからさまになってしまうから、作者によって意識的に省かれたのであろうが、あるいは「王子」じしん気づいていてなお、別れの場面をこじらせないために無視したのだとも解釈できる。VIII 章末などに見られるとおり、地球に来てからの「王子」はもはや恋愛面に関してうぶではないからだ。

私が知るかぎりこの最終行の「王子」の応対についてこのような注意が払われたことはこれまでいちどもない。キツネに対する責任の重視も含めて、こうした読みは厳密に言えばキツネを女性とみなすことを必須の要件とするわけではないが (男性相手であろうと責任があることには違いないし、このあと「王子」は語り手の飛行士をも「飼いならす」ことになるがこちらは曖昧さなく男性どうしの関係である。そこはひょっとしてクィア批評に開かれている部分かもしれない)、そうすることによって見やすくなることは間違いないと思われる。これはキツネを女性として訳すことの実用的な価値である。

しかるに数ある『星の王子さま』の日本語訳において、キツネはふつう男性 (オス) として、それもほとんどの場合に判で押したように活発でわんぱくな少年のような人物として描かれてきた。古典的な内藤訳では「おれ、キツネだよ」、稲垣訳では「ぼくはキツネさ」のような口調である。観察されるかぎりキツネの一人称は「おれ」か「ぼく」が圧倒的である。ここに比較した全 28 種の内訳を明かすと、
なお最後の「わたし/私」だが女性らしくはなく、三田では「わたしはキツネだ」「あんたは、遠くから来たんだろ? なにをさがしているんだね?」「忘れてしまいがちのことだけどな」といった要領で、偉そうな男性という雰囲気であった (大橋も同様)。したがって公刊されている 28 種もの邦訳のすべてが、ただの 1 例の例外もなく、キツネを男性としていることになる。

それはある意味では当然のことであって、サン゠テグジュペリの原文フランス語が男性で書いているからである。しかし「キツネ」という名詞を男性名詞の le/un renard としているのは、動物名の総称であるからまだしもメスである可能性を即座に排除するものではないし、それを男性の代名詞 il で受けるのも文法上の制約にすぎないから、ここまでなら女性であってもおかしくはないのである。とはいえキツネ自身のセリフのうちで « Je ne suis pas apprivoisé. » (イタリックは引用者。以下同様) のように男性形を用いているところが痛い。女性なら過去分詞は apprivoisée でなければならないからだ。

それでもこの両者は発音はまったく同じであるから、一種のトリックのようなものとして、語り手あるいは「王子」の認識をもとに男性形の apprivoisé とつづられている……と食い下がれる可能性も私は考えた。unique のように男女同形の形容詞も支障はない。だがこの仮説に抗する致命的なセリフがただ 1 つだけあった。それはシルヴィアの困惑が透けて見える箇所として先にも引用した、君が 4 時に来るなら 3 時にはうれしくなる、というくだりである:« Si tu viens, par exemple, à quatre heures de l’après-midi, dès trois heures je commencerai d’être heureux. Plus l’heure avancera, plus je me sentirai heureux. » という部分だ。2 度現れる heureux「うれしい」という単語は、主語が女性なら heureuse でなければならず、これらははっきりと発音が違うのである。

では原文がこのとおりだとすると、キツネを女性として訳すことはまったく許されないのか。じつはそうとは限らないのである。フランス語と同様に文法上男女を区別する各種のヨーロッパ語訳、たとえばイタリア語訳やチェコ語訳、スロヴァキア語訳などでは、問題なくキツネを女性にしてしまっているのだ。

イタリア語訳を例にとって説明しよう。私は都合 13 種類の (標準) イタリア語訳 Il piccolo principe を所有しているので (この内訳は N. Bompiani Bregoli, E. Tantucci Bruzzi, B. Masini, A. Colasanti, Y. Melaouah, L. Carra, R. Piumini, C. L. Candiani, R. Gardini, M. Di Leo, G. Corà, E. Bruzone, S. Cecchini)、以下の比較はこれらにもとづく。

まずキツネ当人のセリフのうちはじめて性が表れる場面、つまり飼いならされていないからと遊ぶことを拒否するセリフを比べてみると、これはなんと 13 種類すべてが “Non sono addomesticata.” で一字一句まで符合している (最初の non に小文字の場合があることを除いて)。日本語訳が苦労に苦労を重ねている「飼いならす」の訳語を addomesticare ひとつで済ませてしまえることはうらやましいかぎりだが (もっともどれほど熟慮しているのかは怪しいものだ)、ともあれ過去分詞が女性単数形に置かれていることがわかる。つまりこのキツネは自身を女性として表現しているのである。

また「王子」が 5 千本のバラに向かって演説し、キツネを友達にしたからこの世でたった 1 匹のキツネになった、と語るシーン。これはさすがに十人十色だが、たとえば Masini 訳では “Ma io l’ho fatta diventare la mia amica, e adesso è unica al mondo.” となって、イタリックにした部分はすべて「女友達」「唯一の女性」であることを明示している。ほか 11 種も同様。Carra 訳だけは “Ma siamo diventati amici”「僕たちは友達になった」と言って「王子」自身を含めた表現のため男性複数だが、キツネが女性であることには矛盾しないし (男女混合の集団は男性複数になる)、彼の訳でも XXIV 章で飛行士にキツネの話をするときには “La mia amica” と言っており結局女性であったとわかる。

おもしろいのは「王子」がキツネの姿を認めてからの第一声、「君は、なかなかすてきだね……」というセリフだが、上述のようにキツネ自身のセリフで女性と判明するまえの段階のため男女が割れている。語尾の -o が男性で -a が女性だが、Bompiani Bregoli 訳の “sei molto carino” に対して Candiani 訳 “Sei molto carina”、また Piumini 訳 “Sei molto grazioso” に対して Tantucci Bruzzi 訳 “Sei molto graziosa” というふうである。だが全体的にはここも女性形のほうが優勢であった。

煩瑣になるのでこれ以上の比較は差し控えるけれども、ともあれイタリア語訳ではキツネ本人の発言以降一貫して女性として取り扱われており、これは 13 通りもの翻訳を確認してもひとつも例外がなかった。またチェコ語訳 7 種とスロヴァキア語訳 4 種についても事情はまったく同様であり、これも例外なくすべて女性であった (たとえばバラたちへの演説における「友達」はチェコ語 přítelkyně, スロヴァキア語 priateľka)。

むろん、この現象の背後には、「キツネ」を表す普通名詞の性の問題が決定的に影響している。フランス語では renard は男性名詞だが、イタリア語の volpe や、チェコ語 liška, スロヴァキア語 líška は女性名詞なのである。したがってこれらの言語への翻訳でキツネが女性になっている理由は、別段シルヴィアがモデルだからというような考察を踏まえての判断ではなく、むしろ反対にキツネの性別などどちらでもよいと等閑視しているからこそこれほど一致しているのではないかとも疑われる。

しかしそうだとしても、翻訳の作法において、フランス語の原文が男性のキツネだからとてこれを女性に移すことを妨げはしないのだという事実は揺るぎない。とすれば『星の王子さま』を日本語訳するにあたっても、キツネを女性にして悪いということはないはずであろう。ましてキツネのモデルとしてシルヴィア・ハミルトン゠ラインハルトの影を透かし見る読者にとってはなおさらである。既存の邦訳ではそういうことは行われてこなかったが、もし私が自家版『星の王子さま』の翻訳を手がけるとすればこれはかならず女性にすると心に決めている。この選択には十分な根拠があり、なおかつ清新な解釈を開く点で有意義でもあることは上で論証したとおりである。

最後に余談をひとつ。キツネのモデルであるシルヴィアの姓がラインハルトになるとはなんという運命のいたずらであろう。キツネを意味するフランス語 renard はラインハルト Reinhardt と同源の語である。そもそも古フランス語でキツネを表す語は goupil であったが、中世フランスに成立した『狐物語』の主人公の名ルナール Renart そのものがキツネ一般を意味するようになりこれに取って代わったのである。日本で言えば「ごんぎつね」が有名すぎるからと「ごん」がキツネを意味する普通名詞になるようなことであろうか。このルナールがラインハルトのフランス語形である。シルヴィアが未来の夫ゴットフリート・ラインハルトに見初められるのは、『星の王子さま』が出版されサン゠テグジュペリがアメリカを去って間もなくのことだった。


〔2020 年 9 月 11 日追記〕邦訳の比較例に奥本訳、永嶋訳、浅岡訳を加えて 25 種とした。論旨にはまったく変更なし。

〔2022 年 2 月 1 日追記〕邦訳の比較例に大橋訳と助川訳を加えて 27 種とした。同前。

〔2022 年 7 月 21 日追記〕邦訳の比較例に加藤訳を加えて 28 種とした。同前。

vendredi 8 novembre 2019

ポケモン XY (カロス地方) の道路名の意味

ポケットモンスター XY』の道路にはすべて別名がついており、大部分はフランス語から名づけられている。カナ表記にはヴァ行を使わずバ行になっているが、基本的には読みかたはあっているのでフランス語を知っていればすぐに由来がわかる。6 年まえの作品だが意外にもこれをまとめたページが見あたらなかったので解説してみた (フランス語でないものは原則として除いた)。


1 ばんどうろ=アサメのこみち

2 ばんどうろ=アバンセどおり──過去分詞アヴァンセ avancé「(文化・文明的に) 進んだ、発達した;進歩的な」ととると最序盤の道路にはそぐわないし、不定詞アヴァンセ avancer「前進する」なら通るが以下でほかに動詞を使っている例はない。たぶん名詞アヴァンス avance「前進」の読みかたを間違えたものではないか。

3 ばんどうろ=ウベールどおり──ウヴェール ouvert「開いた、開いている;公開・開放された」。

4 ばんどうろ=パルテールかいどう──パルテール parterre「花壇」。

5 ばんどうろ=ベルサンどおり──ヴェルサン versant「斜面」。

6 ばんどうろ=パレのなみきみち──パレ palais「宮殿」。パルファムきゅうでんにつながる道だから。

7 ばんどうろ=リビエールライン──リヴィエール rivière「川」。ラインは英語。バトルシャトーのある川沿いの道。

8 ばんどうろ=ミュライユかいがん──ミュライユ muraille「壁;城壁、城塞」。コウジンタウンを取り囲む切り立った断崖にちなむか。

9 ばんどうろ=トゲトゲさんどう

10 ばんどうろ=メンヒルロード──メンヒル menhir はヨーロッパ先史時代の、数メートルの細長い石を直立させた巨石記念物を指す、ブルトン語から作られた術語 (maen「石」+ hir「長い」)。ブルトン語はフランス北西部ブルターニュ地方の言語で、フランスをモデルとしたカロス地方でもちょうどセキタイタウンはブルターニュのあたりに位置している。ロードはもちろん英語。

11 ばんどうろ=ミロワールどおり──ミロワール miroir「鏡」。うつしみのどうくつにちなむ。

12 ばんどうろ=フラージュどおり──フラージュ fourrage「まぐさ、飼い葉」。メェールぼくじょうにちなむ。余談ながらメェールぼくじょうはメェークルの脱字ではなく、メール mer「海」に由来するようだが (アズールわんにつながる立地から)、わざわざ「ェ」をはさんでいるのはメェークルともかけているために相違ない。

13 ばんどうろ=ミアレのこうや

14 ばんどうろ=クノエのりんどう

15 ばんどうろ=ブランどおり──ブラン brun「褐色の、茶色の」。カタカナで見るとブラン blanc「白い」のほうがさきに思いうかびやすいが (モンブラン Mont-Blanc のブラン)、現地の色あいからして前者のほうだろう。

16 ばんどうろ=トリストどおり──トリスト triste「悲しげな;陰気な、陰鬱な」。

17 ばんどうろ=マンムーロード

18 ばんどうろ=エトロワ・バレどおり──エトロワ étroit「細い、狭い」とヴァレ vallée「谷、渓谷」からなるが、フランス語では形容詞は一部の語を除いて後置で、しかも vallée は女性名詞なのでエトロワ étroit ではなくエトロワト étroite にしてヴァレ・エトロワトが正しい。

19 ばんどうろ=ラルジュ・バレどおり──ヴァレ vallée「谷」は上と同じもの。前半ラルジュ large「幅の広い」はエトロワと対になっている。

20 ばんどうろ=まよいのもり

21 ばんどうろ=デルニエどおり──デルニエ dernier「最後の」。チャンピオンロードにつながる最後の通りだから。

22 ばんどうろ=デトルネどおり──デトゥルネ détourné「遠回りの、迂回した」。序盤のハクダンシティから来られるが、チャンピオンロードに入るには遠回りしてすべての町を回ってこなければならないから。

vendredi 29 décembre 2017

M で始まるものの絵を

アリスが帽子屋たちの「気違いお茶会」に参加する『不思議の国のアリス』VII 章は私のいちばんお気に入りの章で,開幕から最後までひたすら笑えます.現代の目から見るといくぶん過激で乱暴だと感じるシーンもありますが,ここで帽子屋 (Hatter) と三月兎 (March Hare) とヤマネ (Dormouse) のトリオが演じるドタバタは,ちょうどいまどきの (あるいは一昔まえの?) お笑い芸人がそっくりそのままコントとして発表してもなんら違和感がないように思われます.

さてこの章でヤマネの最後のセリフとなるのが,彼の即興話に出てくる 3 人の女の子がお絵描きを習って「M で始まるあらゆるもの」(everything that begins with an M) の絵を描く話です.ヤマネがその内訳を語りだすまえに「なんで M?」(Why with an M?) とアリスが口をはさみますと,すかさず三月兎が「なんでいけない?」(Why not?) と言いかえします.

ここには 2 つの不思議があります.ひとつは言うまでもなく,アリスも気づいているとおり M というイニシャルになにか特別な意味があるのかという問題.そしてもうひとつは,これまでアリスに話の腰を折られるたびに怒っていた語り手のヤマネ本人ではなく,言いかえすのが三月兎である点です.

例によって Martin Gardner の The Annotated Alice に頼ってみますと,みごとにこれらの疑問を解決してくれる解説が注記されています.それは Selwyn Goodacre による説で,三月兎は自分の名前 (March Hare) も M で始まるのでそうあってほしかったという解釈です.

続けて ‘molasses’ が M で始まるという点が指摘されています.ヤマネの即興話のなかで女の子たちが最初に draw する (引きだす=絵を描く) 対象が「糖蜜」(treacle) ですが,これはイギリス英語で,アメリカ英語では molasses と言います.こちらのほうはあまり関係がなさそうというか,説得力を感じません.イギリス人のキャロルがアリスに語りイギリスの読者のために書かれた本文では molasses でなく treacle と呼んでいるわけですから,draw treacle からここまでつながっているなら T であってしかるべきでしょう.

ともあれ M が March Hare と関係しているとすると,日本語訳をするさいもここに気をつけたほうがよさそうです.March Hare を「三月兎」とするなら,絵を描くものの名はサで始まるにあわせるといった要領ですね.ここまで徹底した訳はあまり例がありませんが,私の手もとにある十数冊のなかでは「さ行」と訳した佐野真奈美訳と,三月兎をカタカナの「マーチヘア」と呼び「『ま』で始まる」としている楠本君恵訳の 2 例が見つかりました.

このさいキャロルも監修した 1869 年のドイツ語訳・フランス語訳を確認してみるとおもしろいことに気がつきました.まずはドイツ語版から見てみますと,英語とドイツ語は姉妹言語ですから,多くの場合苦労もなくそのまま訳せてしまいます.「M で始まる」を保持しながら,当の単語も半数は直訳で済ませています (mouse-traps = Mausefallen, moon = Mond).

しかし不可解なのは三月兎の名前で,1869 年のアントニー・ツィマーマン (Antonie Zimmermann) 訳では Faselhase と書かれていますが,March はドイツ語で März ですからすなおに Märzhase と呼べるはずです.じっさい,現代の『アリス』のドイツ語訳では後者で呼ばれているようで,ドイツ語版 Wikipedia でもこちらで立項されています.もともと ‘mad as a March hare’ という英語の成句に由来するという三月兎の名は,最初の翻訳当時に直訳してはドイツ語で意味が通らないと懸念されたのかもしれませんが,そのために F で始まる名前に変えることが許容されていたという事実は示唆的です.

さらに奇妙なのはアンリ・ビュエ (Henri Bué) による同年のフランス語訳です.ここでは驚くべきことに,「M で始まるものの絵に関する一連のくだりがばっさりと,完全に省かれています.会話の成りゆきは以下のように飛んでいます:
Alice, craignant d’offenser le Loir, reprit avec circonspection : « Mais je ne comprends pas ; comment auraient-elles pu s’en tirer ? »
« C’est tout simple, » dit le Chapelier. « Quand il y a de l’eau dans un puits, vous savez bien comment on en tire, n’est-ce pas ? Eh bien ! d’un puits de mélasse on tire de la mélasse, et quand il y a des petites filles dans la mélasse on les tire en même temps ; comprenez-vous, petite sotte ? »
« Pas tout à fait, » dit Alice, encore plus embarrassée par cette réponse.
« Alors vous feriez bien de vous taire, » dit le Chapelier.
ここにはいくつもの言葉遊びがあって直接訳文を示すことは難しいので,順を追って解説していきます.まず英語の to draw にあたる動詞が tirer です.最初にアリスが「でもわからないわ.どのようにして彼女たちは s’en tirer できたのでしょうか?」と問うのに対し (s’en tirer のダブルミーニングについては後述します),帽子屋が「井戸に水があるなら,どのように水を tirer するかはよくご存知ですよね? では糖蜜の井戸からは糖蜜を tirer するんですよ」と返す応酬は英語の原文どおりです.しかしその次に「そして女の子たちが糖蜜のなかにいるなら,彼女たちもいっしょに tirer されるというわけです」という原文にない一節が加わっています.

それから帽子屋のセリフが「わかりますか,お馬鹿さん?」(comprenez-vous, petite sotte ?) で終わるのはまた原文どおりです.しかるに本来ならこの次にヤマネの ‘in the well ― well in’ の言葉遊びがあって,アリスはそこではじめて「この答えにますます混乱してしまい」(encore plus embarrassée par cette réponse) となるはずのところ,フランス語訳では ‘well in’ も「M の絵」もなく,ヤマネがしゃべらないままアリスは帽子屋の口ぶりに当惑して「ぜんぜんまったく」と答えてしまい,原文では会話の最後を画する帽子屋の「それなら黙っていなさい」というセリフに飛ぶことになります.

この理由はおそらく明らかです.英語の draw と違いフランス語の tirer には,「(線や図を) 引く」くらいはあってもはっきりと「絵を描く」(peindre, faire de la peinture) という意味はありません.そのためヤマネとアリスの会話ですれ違うはずの「糖蜜をどこから draw する」の言葉遊びがうまくいかず,絵の話題をすっぱり訳し落とすことになったのでしょう.

そのかわりにフランス語訳では独自に 2 つの言葉遊びを加えています.ひとつは上で指摘した帽子屋の新セリフで,糖蜜の井戸から糖蜜が tirer  (=引きだす) されるとき,同時にそのなかに住んでいた三姉妹も tirer (=助けだす) されるというものです.もうひとつは最初のアリスのセリフで,原文では糖蜜の「絵をどこから描きだす」だったのが,仏訳では代名動詞 s’en tirer すなわち「うまく切りぬける,なんとかやっていく」の意味で彼女は言っているのだと思われます.「彼女たちはどうやって暮らせていたのでしょうか」とアリスは尋ねているわけです.

こう言ったとき,ではなぜその質問から帽子屋は「どうやって糖蜜を引きだしていたのか」という井戸の話に曲解できたのかと疑問に思われるかもしれません.これは再帰代名詞の se を「自分たちのために」という間接目的語,また中性代名詞 en を部分冠詞つき目的語の「糖蜜」(de la mélasse) を指すと再解釈することで,文法的にも問題なく s’en tirer「なんとか暮らしていく」を「自分に糖蜜をとってあげる」とのダブルミーニングに読めているのです.もしフランス語訳の『アリス』を翻訳するとしたら,このことを日本語の訳文に組み入れるのは至難の業です.

フランス語の解説がずいぶん長引いてしまいましたが,本題に戻って結論めいたことを申しておきます.ドイツ語では March Hare の M の字にこだわっておらず,フランス語では M の絵の件がまるごと消し去られている,という改変を私たちは確認しました.かりにこれがキャロルの見落としではなく本人の許可のもと行われたのだとすると,M の文字の意味も口をはさむのが三月兎であることも,たんなる後代の解釈にすぎないということになってしまいます.どちらにしても証拠のない話ではありますが,M と三月兎を関連づける訳に縛られたくない人にとっては気休めになるでしょうか.

mardi 5 décembre 2017

アリスが読んだフランス語教科書

このあいだの「4 × 5 = 12」に引きつづき,ふたたび『不思議の国のアリス』II 章から話題をとる.II 章の後半で体が小さくなりネズミに出会ったアリスはそれに話しかけるのだが,英語が通じていないと早とちりをしてもろもろ連想の結果,唐突に « Où est ma chatte ? »「私の猫はどこ?」と口走ってネズミを怒らせる.

この顛末は脇に置くとして,問題はアリスがこのフランス語文を口にした経緯である.あるいはキャロルが作中にこの文を登場させた理由と言ってもいい.ルイス・キャロル協会の木下信一氏によるページ「ウ・エ・マ・シャット?」にて基本的な事項を学べるので,まずはそちらをご覧いただきたい.簡単に繰りかえすと,これは当時のイギリスで幼い子向けに家庭教師がフランス語を教えるときの教科書でいちばん最初に登場する文で,現代日本の環境に照らせば ‘This is a pen.’ のような立ち位置だったということである.

実在のアリスやその姉妹たちが読んだフランス語の教科書! それだけでもじつに興味を惹かれるではないか.この教科書の正体,木下氏は Gardner の注釈本の最終版 (the Definitive Edition) から引いて,La Bagatelle: Intended to Introduce Children of Four or Five Years Old to Some Knowledge of the French Language, 初版 1804 年としている.

ただ私の手もとにある Gardner では ‘three or four years old’ と書かれているのだが……? また Gardner じしんはこの注において Hugh O’Brien という人物の論文を典拠としている.

いかにも 19 世紀の本らしく,長ったらしい説明的な副題がついた書物だ.言うまでもなくもはや著作権で保護などされていないだろうから,ジャンルからいっても Google あたりがデジタイズして Google Books や Internet Archive (archive.org) などで全文 PDF が公開されていてもいいはずであるが,どうにも見つからない.

見つからないのだが,見つからないなりに調べたことをいったん記録しておこう.初版年は 1801 年と書かれている情報源もあるし (Joyce Irene Whalley, Cobwebs to Catch Flies, p. 132. これは 18–19 世紀の児童文学や挿絵つきの本を扱った研究書),京大図書館の蔵書検索では 1793 年となっている.ともあれ短く見積もっても,1852 年生まれのアリス・リデルがこの本でフランス語を勉強する歳になるまで,半世紀以上使われつづけたロングセラーである.著者は Madame N. L. というイニシャルの匿名の女性らしい.

また本の副題のうち ‘Four or Five Years Old’ とされている部分にも疑問がある.調べてみるとなんと,上でも触れたとおりここが ‘Three or Four’ になっているものや,さらに ‘Five or Six’ となっているものまである.3–4, 4–5, 5–6 歳の計 3 通り.日本で言えばちょうど幼稚園・保育園の年少・年中・年長組にあたる年齢だ.この 3 つのタイトルが,多年にわたる増刷の過程で教育事情の変化などに起因する同じ本の改題であるのか,それとも学年別に 3 段階のグレードが設けられた別種の本であるのかもわからないが,おそらくは前者だろう.

PDF で手に入らない以上は,古本で実物を購入するしかない.19 世紀全体を通じて読まれつづけた本であり,ちょうどアリスの学んだ 1850 年代なかばを考えればいまから 160 年も昔の本であるが,本の状態と何年発行の版であるかについていっさいこだわらなければ現在でも入手することは不可能ではない.5 千円から 1 万円ほども出せばいずれかの版は注文できるだろう.

ただしちょくちょく内容が変わっているようなので,資料として厳密にアリスが読んだ可能性のある版を求めようとするなら注意が必要である.たとえば前掲の木下氏のページでは氏の所有する 1834 年版の最初のページが見られるが,この 3 番めの例文 « J’ai du lait pour elle. » が,1867 年版では (ほぼ同義ではあるが) « Je lui ap-por-tais du lait. » に差しかえられ,挿絵もべつのものになっている.この中間である 50 年代の本文がどちらであったかはわからない.もっとも当の « Où est ma chatte ? » は (少なくともこの 2 者のあいだでは) 変わっていないようである.

vendredi 3 novembre 2017

谷口訳『中世アルメニア寓話集』「雌獅子と狐」の誤訳

ムヒタル・ゴッシュ,ヴァルダン・アイゲクツィ;谷口伊兵衛訳『中世アルメニア寓話集』(渓水社,2012 年) という本がある.中世のアルメニアなどというたいへんロマンのある時代・地域についての本が日本語で読めるという非常に意欲的な訳業なのであるが,いろいろと難点があって手放しでおすすめはできない.

その難点については Amazon レビューのほうで簡単に書いたのでそちらをご覧いただくとしてなるべく繰りかえさないようにしたいが,そこで指摘した本書 19 頁「獅子と狐」の寓話の誤訳について,正しい訳文を与えるべくここで原文を詳しく検討してみよう.ただし「獅子と狐」という同名の話が本書にはもうひとつ 36 頁にもあってまぎわらしいので,本稿で詳論する 19 頁の話のほうは内容に即して「雌獅子と狐」と以降呼ぶことにする.

訳書でわずか 6 行の短い話なので,まずは問題の邦訳の全文を読んでいただこう.
ある雌獅子が子を産んだため、すべての動物たちがその雌獅子を祝福したり、その子への儀式に参加したりしようとして集まりました。儀式の間、狐がみんなの面前で獅子を大声でしかりつけ、こう言って怒らせたのです、「これがあんたの権限なんだ、これだけが。一匹の子だけで、もうこれ以上は一匹たりとも駄目だぞ。」すると獅子は平然と応えて言うのでした、「さよう。儂は一匹の子を産ませた、でも、それは獅子であって、貴様のような狐なぞではないんだぞ。」
一見して,まんなかにある狐のセリフがまったく意味不明なのである.この狐はいったいなぜ「権限」などということを言いだして,他人である雌獅子の出産の権利を制限しようとするのか? これが本当に正しい訳であったとすれば,この寓話はいかなる寓意をもっていると解釈すべきなのだろう?

この大問題に比べれば,本書全体に蔓延する「儂」という独特の一人称 (獅子や狼のみならず,スズメですら「儂」と言う.30 頁) や突然言及される「儀式」,「産ませた」という言いかた (会話相手がいつの間にか夫の獅子にすりかわったのか?),相手は平然としているのに「怒らせた」という言葉 (後掲の仏訳 injuria < injurier, 露訳 поносила < поносить のごとく「侮辱する,ののしる」や「悪口を言う」くらいが適切だろう) などはものの数ではない.

ここでいったん立ち止まって,この支離滅裂な訳文は誰に責任があるのかということを一考しておこう.いや,ふつうに考えれば訳者の谷口氏なのである.しかしこの訳書,Amazon レビューのほうでも書いたが,なんと翻訳の底本が明示されていない.訳者あとがきに「本訳書は一九五二年にポヴセブ・オルベリにより中世アルメニア語から露訳されたもの(抄訳)の英訳からの、重々訳である」と説明があるばかりで (「ポヴセブ」には改めて突っこむまい),誰が英訳したなんという英題の本なのか不明なのである.つまり谷口氏が依拠している英語の原文を確認できないので,英語の時点ですでにまずいのかもわからないのである (もっともそれも含めて訳者の責任ではあろうが).

底本の情報もなく,また本書中でどれがムヒタル・ゴッシュ (Մխիթար Գոշ) の作でどれがヴァルダン・アイゲクツィ (Վարդան Այգեկցի) の作かすら記載されていないことから調査に手こずったが,私の調べたところによるとこの「(雌) 獅子と狐」(Առիւծն եւ Աղուէսն) はヴァルダンのほうの作で,フランスの東洋学者でアルメニア研究の先駆けだというアントワーヌ゠ジャン・サン゠マルタン (Antoine-Jean Saint-Martin) が 1825 年に出版したアルメニア語・フランス語対訳本 Choix de fables de Vartan のなかに見いだすことができたので,これによってアルメニア語の原文テクストを翻刻すると以下のとおりである (行の区切りも再現):
ԻԶ
ԱՌԻՒԾՆ ԵՒ ԱՂՈՒԷՍՆ
Առիւծ մի կորիւն ծնաւ, եւ ժողովեցան կեն-
դանիքն ’ի տես եւ յուրախութիւն։ Գայ
աղուէսն ’ի մէջ բազմամբոխին, եւ մեծա-
հանդիսիւ նախատեաց զառիւծն յատեանն
բարձր ձայնիւ եւ անարգեաց՝ թէ ա՞յդ է քո
կարողութիւնդ, զի մի կորիւն ծնանիս՝ եւ ո՛չ
բազում։ Պատասխանի ետ առիւծն հանդար-
տաբար՝ եւ ասէ• այո՛ մի կորիւն ծնանիմ,
բայց առիւծ ծնանիմ, եւ ոչ աղուէս քան ըզ-
քեզ։
Ցուցանէ առակս՝ թէ լաւ է մի որդի բարի,
քան հարիւր որդի անօրէն եւ չար։
便宜のためサン゠マルタンによる仏訳も掲載しておく:
XXVI.
la lionne et le renard.
Une Lionne ayant mis bas un lionceau, les ani-
maux se réunirent pour la voir et lui présenter
leurs félicitations. Le Renard vint dans la foule,
et, au milieu de l’assemblée, il injuria la
Lionne, avec affectation et à haute voix, en lui
disant avec mépris : Voilà donc toute ta puis-
sance ; tu n’enfantes qu’un Lionceau et pas da-
vantage. La Lionne lui répondit tranquillement :
Oui, je n’ai donné le jour qu’à un petit, mais
j’ai enfanté un Lion et non un Renard comme
toi.
Cette fable montre qu’il vaut mieux n’avoir
qu’un fils vertueux, qu’une centaine d’enfans
méchans et sans foi.
ただし以上のテクストはロシア語訳が参照しているものではない.そこでそのヨシフ・オルベリ (Иосиф Орбели) による露訳もついでに併載しておこう.谷口氏が依拠した英訳がわからない以上,確実に影響をたどれるのはその英訳が下敷きにしているというこのロシア語テクストまでである:
23. львица и лисица.
Львица родила львенка, и собра-
лись все животные, чтобы повидать его
и принять участие в празднестве. При-
ходит лиса и во время торжества, среди
всего этого собрания, громко упрекнула
львицу и поносила ее: «В этом ли твоя
мощь, что рожаешь одного детеныша,
а не многих?». Львица спокойно отве-
тила: «Да, я рожаю одного детеныша,
но рожаю льва, а не лисиц, как ты».
このオルベリの露訳の底本は,ニコライ・マル (Николай Яковлевич Марр) によるヴァルダンの校訂版 Сборники прич Вардана: материалы для истории средневѣковой армянской литературы (テクスト篇の ч. II は 1894 年) であるようだ.これも Google Books で Google によるデジタイズ版を閲覧できるが,ところどころ完全に文字がつぶれた部分がありあまり役に立たない.ただ下記の訳出作業の (9) でいちどだけ利用するので,どんなふうかいちおう画像を掲載しておく (стр. 116–7):



上掲のサン゠マルタン版と見比べてみれば,前半はところどころ単語のつづりに 1 文字加わったり減ったりしているほかは同じだが,後半の教訓部は明らかにサン゠マルタンのものより長い.ともあれこの段落はオルベリの露訳ではまるごと削られており,そのため谷口訳にもないので無理に判読することはやめておく.


(1) Առիւծ մի կորիւն ծնաւ,


それでは本題に戻って,サン゠マルタン版のアルメニア語をもとに「雌獅子と狐」の日本語訳をしてみよう.アルメニア語の知識がまったくない人でも諸訳 (私のものを含む) の妥当性を検証できるよう,初歩から文法の解説をしていく.全体の訳出結果は本稿の末尾にあらためて載せるので,細部に関心のないかたは飛ばしてもよい.

まずアルメニア語には,印欧語としては驚くべきことに,名詞の性がないのである.したがってここまで雌獅子雌獅子と言ってきた առիւծ であるが実際には性別不明である.しかし仏訳も露訳も明示的に「雌のライオン une Lionne, Львица」と書いているのだからとりあえず従ってみよう.英語でも lioness や she-lion と言えるわけであるが,邦訳から唯一知られる英訳の情報であるところの各話の英題では ‘The Lion’ と載っているので,谷口氏の依拠した英訳では性別不明の獅子になっていたと見える (露訳からの重訳なのになぜ反抗したのか?).

次の մի は数詞の「1」,կորիւն は「動物の仔」,ծնաւ は ծնանիմ「産む」の直説法アオリスト 3 人称単数である.これは自動詞として「生まれる」にも使われる (アルメニア語ではしばしば能動と中・受動の境が曖昧である).さらにアルメニア語では名詞の単数主格と対格がつねに同形なので,このままでは獅子と仔のどちらが主語ともとれそうだが (タイトルにはある指示接尾辞 -ն もここではついていない),仔を自動詞の主語にとると առիւծ の主・対格が浮いてしまうので,順当に「獅子が一頭の子を産んだ」である.

なお単語の語義につき,中世アルメニア語の辞典などおそらく本国にしかなかろうから,ここでは手もとの千種眞一編『古典アルメニア語辞典』(大学書林,2013 年) に頼ることにする.これに見られるかぎりでは ծնանիմ の主語は男性の場合もあり,「Abraham cnaw z-Isahak アブラハムはイサクを生んだ Mt 1,2」との例が出ている.ということは文中の「獅子」が父親のほうであっても (少なくとも古典期には) 矛盾はないことになる.


(2) եւ ժողովեցան կենդանիքն ’ի տես եւ յուրախութիւն։


եւ は接続詞「そして」.ժողովեցան 直アオ 3 複 < ժողովեմ「集める;集まる」.կենդանիքն は「生きている」の意の形容詞 կենդանի を名詞として「生きもの,動物」として用い,その複主 կենդանիք に指示接尾辞 -ն のついたもの.これは定冠詞のような働きをするので,全体で the animals の意.ここまでで「ので動物たちが集まった」.この動物たちはいきなり定冠詞つき複数で出てきているので,谷口訳の「すべての動物」というのもおかしくはない.

’ի のアポストロフは,ի- で始まる単語から前置詞の ի を区別するための記号.この前置詞はさまざまな格を支配し多様な意味をもつが,ここでは対格支配で「するために」の意か.同じく対格支配で「〜の方向へ」や「〜とともに」などの意味がある.տես は動詞 տեսանեմ「見る」から来た「見ること」という名詞.յ- は ի が母音の前でとる形.ուրախութիւն「喜び」.したがってここまでを直訳すれば「見る/会うことと喜びとのために」または「喜びをもって見ることのために」となろうか.

ここで 2 つの現代語訳を参考にしてみると,仏訳は « pour la voir et lui présenter leurs félicitations »「彼女に (la) 会い,彼女に祝福/おめでとう (félicitations) を伝えるため」,また露訳は «чтобы повидать его и принять участие в празднестве»「彼に (его, acc.) 会い,祝典 (празднество) に参加するため」となっている.

まず前半に注目すれば,原文で表されていない「見る」の目的語が補われていることに気づく.この補足じたいはそれぞれの言語の文法的制約からしかたのないことである (他動詞は目的語をとらざるをえない).ただしフランス語ではその対象が女性名詞=母ライオン la Lionne であり,ロシア語では男性名詞すなわち (最初の獅子を母親とみなしていたことを確認したので) 子ライオン львёнок と解釈されている.

より著しい違いがあるのは後半である.仏訳は「喜びをもって」の線ですなおに訳しているように見えるが,ロシア語ではなにやら祝祭が行われることになっている.これははっきり言ってどうなのかわからない.古典アルメニア語の辞典には「喜び」の一義しかないのであるが,あんがい時代が下るにつれて「祝典」の意味が加わったことを否定する根拠を私はもたないからである.

谷口訳の「儀式」もこの露訳の延長線で生じた訳語だろうか.しかし谷口訳をよくよく見ると「その雌獅子を祝福したり、その子への儀式に参加したりしようとして」となっており,獅子の親子に会うことが完全に消えて,празднество「祝典」由来と思われる「祝福」と「儀式」が重複してしまっている.これはまず間違いなく誤訳とみなしていいだろう (繰りかえすがそれが谷口氏の責任なのか英訳者の責なのかは判定できない).また追加そのものを脇に置くとしても「その子への儀式」は日本語として言葉足らず.


(3) Գայ աղուէսն ’ի մէջ բազմամբոխին,


Գայ 直現 3 単 < գամ「来る」.աղուէս「狐」(希 ἀλώπηξ).ի մէջ + [属]「〜のただなかに,のあいだで」.բազմամբոխի は բազմ- < բազում「多数の」と ամբոխի 単属 < ամբոխ「群衆,民衆」の複合語.「狐が大群衆のただなかに来る」.


(4) եւ մեծահանդիսիւ նախատեաց զառիւծն յատեանն բարձր ձայնիւ եւ անարգեաց


մեծահանդիսիւ は մեծ「大きい」と հանդիսիւ 単具 < հանդէս「行列;見世物;祝賀祭」の複合語.(2) における露訳の「祝典」はここからきたものか? 具格はふつう「〜とともに,によって」を意味するが,ここでは様態の副詞として使われているであろう (Thomson, An Introduction to Classical Armenian, p. 56).現代アルメニア語でこの語 մեծահանդես は「壮麗な,豪奢な」という形容詞になっているようだが,中世ですでにこのような変化が進みつつあったのか? いずれにせよ副詞として「見世物的に=壮大に,盛大に」のような意味かと推測される.

նախատեաց 直アオ 3 単 < նախատեմ「侮辱する,罵る;非難する」.զ- は対格を支配し直接目的語を標示するマーカー.つまり զ-առիւծ-ն で the lion(ess) の目的格.

ատեան「集まり,評議会;訴訟,弁論;演壇」.ここでは յ- + 対格なので「〜に向かって」のようにしかとれず,「〜のなかで,において」とするには古典語では処格を要するはずだが,これも通時的変化があったとすればわからない.無難に方向の対格としてとっておこう.

բարձր「高い」(その具格は բարձու だがここでは一致していない).ձայնիւ 単具 < ձայն「声」.「大声で」は ի + 対格で ի ձայն բարձր とも言える (ի ձայն բարձր աղաղակեաց 彼女は大声を上げて叫んだ.ルカ 1,42).

անարգեաց 直アオ 3 単 < անարգեմ「侮辱する,軽蔑する;忌避する」.露訳 «поносила ее»「彼女を侮辱した」や仏訳 « en lui disant avec mépris »「彼女に軽蔑を込めて言い」はやはり目的語代名詞を補っている.

以上よりこの箇所の原意は,「そして盛大にその集まりに向かって大声で獅子を罵り,侮辱した」.


(5) թէ ա՞յդ է քո կարողութիւնդ,


թէ は英語の that のような接続詞で,発話の内容を導く.այդ は 2 人称直示 (つまり相手のがわにあるものを指示する) の指示代名詞「それ」.この上に疑問符  ՞ がついている.アルメニア語では疑問符は文末ではなく,文中で重要な単語のアクセント母音の上に書かれる.է はコピュラ動詞 եմ の直現 3 単 (つまり英語の is).

քո は 2 人称単数の所有形容詞「おまえの,あなたの」.կարողութիւն は形容詞 կարող「可能な,力のある」から派生した抽象名詞「力,能力」で,これに 2 人称の指示接尾辞 -դ がついている (これは「その」と訳せるが,所有詞と補いあって要するに「おまえの」を意味しているのであえて訳出しなくてよい.ギリシア語で所有のとき冠詞がつくようなもの).

この「力」が英訳で power かなにかと訳され,谷口訳の「権限」につながったのだろう.仏訳の puissance も同じく「能力」と「権限」の両方の意味をもつ.しかし日本語ではこの 2 つはかなり違った言葉なので,少なくともこの文脈で権限と訳すわけにはゆかない.以上より「それがおまえの力なのか?」で,どんな力かの説明は次に続く.

ここで「能力」や「力」という語を不自然に感じるとすれば,「可能な」という原義に遡って「できること」くらいに訳すことも許されるだろう.文脈を重視し多少敷衍して訳すなら「全力」あるいは「限度,限界」ほどにもとれる (現に仏訳は « toute ta puissance » としている).


(6) զի մի կորիւն ծնանիս՝ եւ ո՛չ բազում։


զի は「〜なので;〜するために,するように;〜ということ」といった広い意味あいをもつ接続詞.մի կորիւն は (1) で見たとおり「一頭の仔」.ծնանիս もすでに見た ծնանիմ「産む」の直現 2 単.ここまでで「一頭の仔を産むこと」の意.

ոչ は否定辞 (英 not).բազում「多くの,多数の」も既出.あわせて「多くではなく」,つまり意味あいとしては「たった一頭であってそれ以上ではなく」ということ.仏 « et pas davantage » や露訳 «а не многих» も完全に逐語的に移しており,英語でもすなおに訳していたとしたら ‘and not many [more]’ になる.谷口訳の「もうこれ以上は一匹たりとも駄目だぞはまったくの妄想であって,この話の訳文のなかでいちばんひどい部分である.


(7) Պատասխանի ետ առիւծն հանդարտաբար՝ եւ ասէ•

Պատասխանի「返事,弁明」.ետ 直アオ 3 単 < տամ「与える」.この 2 語の組みあわせでふつう「答える,返事をする」の意.առիւծն は既出で「その獅子」.հանդարտաբար は հանդարտ「静かな,穏やかな,穏和な」という形容詞に,「〜のように」を意味する接尾辞 -աբար がついて副詞になったもの.ասէ 直現 3 単 < ասեմ「言う」.「獅子は静かに/穏やかに答えて言った」.


(8) այո՛ մի կորիւն ծնանիմ,


այո は肯定の返事「はい,そうだ,しかり」.ծնանիմ 直現 1 単「産む」.よって単純に「そうだ,私は一頭の仔を産む」で,露訳 «Да, я рожаю одного детеныша» も同様だが,仏訳は « Oui, je n’ai donné le jour qu’à un petit »「そうだ,私は一頭の仔しか産まなかった」と,ニュアンスを重視してか否定の表現 ne ... que を加えている.日本語では否定詞を加えないとしても語順を変えて「私が産むのは一頭だが」のようにすれば含意は通じるだろう.なお谷口訳が同じ動詞なのに「産ませた」に変えている理由は謎.


(9) բայց առիւծ ծնանիմ, եւ ոչ աղուէս քան ըզքեզ։


բայց は反意の接続詞「しかし,そうではなく;もっとも〜だが」.以下 առիւծ「獅子」,ծնանիմ「私は産む」,եւ「そして」,ոչ「でない」,աղուէս「狐」はすべて既出.前半の主語は動詞に含まれている 1 人称単数の「私」なので,「獅子」は対格で,それゆえ後半で対比される「狐」も対格と解するのが相当である.

քան は比較の副詞「〜よりも」(英 than).しかし ըզքեզ の最初の ը- は意味不明.以下の画像のとおりサン゠マルタンの版には間違いなくこの文字があるのだが,誤植か.上に挙げたマルの校訂版にはなく զքեզ となっている.


քան զքեզ と読むとして,քան զ- で対格を支配して「〜よりも」,քեզ は 2 人称単数代名詞 դու の与対処格である.この「おまえよりも」というのは訳しにくいが,仏訳 « et non un Renard comme toi » および露訳 «а не лисиц, как ты» は一致して「〜のような/ように comme, как」と解し「おまえのような [に] 狐ではなく」としている.つまりこの「おまえよりも」というのは「おまえと違って」(cf. other than you) くらいの意味だろう.

以上をまとめると,この箇所の直訳は「しかし [もっとも] 私は獅子を産むのであって,おまえのように狐をではない」.


(10) Ցուցանէ առակս՝ թէ լաւ է մի որդի բարի, քան հարիւր որդի անօրէն եւ չար։


最後に,オルベリの露訳以降で割愛されているこの教訓段落を訳出しよう.

Ցուցանէ 直現 3 単 < ցուցանեմ「示す,見せる;立証する」.առակս は առակ「たとえ,ことわざ,格言,寓話」の複数対格・処格とも見えるが,ここでは առակ に 1 人称指示接尾辞 -ս「この」がついたもので,単数主格である.つまり「この寓話が示している (のは թէ 以下のことである)」.

լաւ「よりよい,優れた」.է「〜である」,մի「一人の」は既出で,որդի は「息子」,բարի は「良い,善い」.հարիւր は基数詞「100」.անօրէն に見える օ という文字は中世 11 世紀末の発明で,本来は二重母音 աւ にあたる.そして անաւրէն は「無法の,不正な,邪悪な,犯罪者」の意.չար もこれと類義語で「悪い,不道徳な,悪意のある」といった意味.

以上で「この寓話が示しているのは,一人の善良な息子は百人の邪悪で非道な息子 (をもつこと) にまさるということである」.獅子が「善良」なのか,狐は逆に貶められすぎではないかという疑念もあるが,これが中世ヨーロッパの動物寓意譚における各動物の印象なのかもしれない.


最終結果


これまでの分析をまとめると,サン゠マルタン版のアルメニア語原文に忠実な (余計な付け足しを極力排した) 日本語訳は以下のようになろう:
獅子が一頭の仔を産んだので,動物たちは見て [見舞い] 喜び (を伝える) ために集まった.狐がその大群衆のなかにやってきて,盛大に獅子を罵りその集まりに向かって大声で「それがあんたのできることか,たくさんではなく (たった) 一頭の仔を産むことが?」と侮辱した.獅子は静かに答えて言った,「そのとおり,私が産むのは一頭だ,もっとも私が産むのは獅子であって,おまえのように狐ではないが」.
この寓話が示しているのは,一人の善良な息子は百人の邪悪で非道な息子 (をもつこと) にまさるということである.

mardi 30 mai 2017

『星の王子さま』で学びたい世界の言語

私は『星の王子さま』(Le Petit Prince) に関してはちょっとしたオタクで,多数ある日本語訳と関連書籍,それに各国語訳をも含めると計 100 冊くらいの蔵書を有しています〔追記。2020 年 9 月には 200 冊になりました〕.もっとも『星の王子さま』には世界中に熱心な愛好家たちがいて,世界のオタクのなかには 1 000 冊を軽く超えていく蒐集家が何人もいるので,この程度ではあまり自慢にならないのですが.

その翻訳先言語の数は,三野博司『「星の王子さま」事典』(大修館書店,2010 年) によると「二〇〇九年九月までに〔……〕二〇八となっている」(198 頁) と言い,その後も増えつづけていることが示唆されています.これは一説には聖書に次いでもっとも多く翻訳された作品だとも聞いたことがありますが,三野によれば「毛沢東とレーニンの著作に次いで、四位を占める」(同書,200 頁) ということです.いずれにせよ,文学作品のなかではもっとも多くの言語に訳されているようです.

ここ 10 年ほどはとりわけドイツのティンテンファス出版 (Edition Tintenfaß, 「インク壺」の意) から,同じ版型の白い表紙で統一感のある装丁で,次々に世界中の言語・方言で『星の王子さま』の翻訳が刊行されています.一般に各国でばらばらに出版されている各国語訳は,Amazon も進出していない国や地方となると入手に相応の手間がかかる (もしくは根本的に入手不可) のですが,このシリーズだけは日本の Amazon からも購入しやすいためおすすめで,驚くべきことに古英語中英語古高ドイツ語中高ドイツ語版なんてものも出ています.もちろん私はぜんぶ買っています (読んだとは言っていない).

『星の王子さま』に限らず,同じ文章,意味の判明している文章 (翻訳の等価 equivalence についての難しい問題は脇に置くとして) がいくつもの言語に訳されているということは,それを用いて語学の学習に役立てられるのでないかという期待を抱かせます.しかも日本語訳が最たる例ですが,ひとつの言語のなかでも何通り (ときには何十通り) もの翻訳があるとなれば,表現の言いかえを知るにも好個の材料を提供してくれそうです.

むろんあくまで翻訳表現である危険性がある,少なくとも翻訳元のフランス語の影響がありうるという難点がありますから (じっさい日本語でも「いかにも翻訳調の文」というのはありますね),その言語を学びたいなら最初からその言語のオリジナルで書かれた文学作品のほうがよいという意見は可能ですが,そうなると前述した複数通りの表現比較はありえないということ,そしてマイナーな言語の作品となると日本語訳はおろか英訳なども存在しないか入手困難ということも多いので,「答え」がないのでは学習用には使いづらいのが実情です.

星の王子さま』にはそれらをクリアする利点があるわけですが,ここでもうひとつ懸念となる (というか偏見がありそうな) のは,『星の王子さま』は子ども向けの作品なので大人の言語学習には向かないという疑いです.なるほど幼児向けの絵本のように平易な言葉で何度も同じパターンの文章を繰りかえし,たとえば時制も現在形しか出てこないというようなことであれば役には立ちませんが,『星の王子さま』はまったくそうではありません.

三野博司『「星の王子さま」で学ぶフランス語文法』(大修館書店,2007 年) という本があります.フランス語は緻密に体系立った文法,とりわけ複雑な時制組織をもつ言語です.この本は文法の解説に際して極力実際に作中にある例をとっているのですが,これを見ると『星の王子さま』の作中にはほとんどありとあらゆる文法事項の実例が見いだされること,とくに時制について言えば大過去や前未来,単純過去,そのうえ条件法過去に接続法半過去・大過去すらも確認されることがわかります!(惜しくも直説法前過去だけは見られないようです)

こうした豊かな時制,それからフランス語学習のもうひとつの難所である中性代名詞 en, y, le などといったさまざまな文法事項が,各国語訳でどのように反映されているのかを見るのは楽しいことです.言うまでもなくフランスにはフランス人が他国語を学ぶための語学書があり,また逆に世界各国にはその国の言葉でフランス語の文法を教える語学書があります.私はそうした世界中の語学書も好んで集めていますが,『星の王子さま』を各国語で読むことは,そういう各国語とフランス語との文法知識のインタラクションを思い起こさせます.

直近の体験では 1 年ほどまえに,リトアニア語を勉強してリトアニア語版の『星の王子さま』(Mažasis princas; ヴィータウタス・カウネツカス Vytautas Kauneckas 訳とプラナス・ビエリャウスカス Pranas Bieliauskas 訳の 2 通り存在します) に取り組んだことがあります (通読とはいきませんでしたが).リトアニア語は豊富な分詞の体系をもち,それでもって微妙な時間的関係を表現する言語で,現在・過去・未来それから習慣過去という耳慣れない時制それぞれの能動分詞,現在・過去・未来の受動分詞に「必要分詞」と「半分詞」,そして現在・過去・未来の「副分詞」という恐るべきバリエーションがあります.

ということはこれらを縦横無尽に駆使することで,フランス語の複雑な時制を翻訳文に表現することができるわけで,実際にリトアニア語訳にはありとあらゆる分詞が見られました.前述のようなフランス語の複合時制をさまざまな時制と法のコピュラ + 能動/受動分詞に移すことはもちろん,付帯状況のジェロンディフ « tout en regardant mon avion »「僕の飛行機を見ながら」(第 3 章) は半分詞 „žiūrėdamas į mano lėktuvą“ に,また « J’étais bien plus isolé qu’un naufragé sur un radeau au milieu de l’océan »「(直訳) 海のただなかで筏の上の難船した人よりもずっと孤独だった」(第 2 章) は,que 以下を „negu žmogus, laivui sudužus, klaidžiojantis plaustu vidury vandenyno“「船が難破してしまい,海のただなかで筏によって漂っている人より」というふうに,原文では名詞的な過去分詞のなかに含意されている「船が難破した」という主節と異なる主語の過去の動作を過去副分詞の独立分詞構文に変え,そして彼が現在漂流していることを現在能動分詞で表しています.またフランス語の半過去はしばしば習慣過去に移っていました.

こういう調子でまんべんなく文法事項がちりばめられているわけですから,おそらく『「星の王子さま」で学ぶリトアニア語文法』もやろうと思えば有意義なものになるはずで (望むらくは自分で作りたいのですが),これはどんな言語にも敷衍できる話だということは想像に難くありません.それだけ『星の王子さま』は教育的にも優れた作品なのです.

星の王子さま』でフランス語を学ぼうという趣旨の本は,前出の三野のフランス語文法のほかに,
などがあります.また変わったところでは,1958 年のノーラ・ガリ (Нора Галь) によるロシア語訳『星の王子さま』(Маленький принц) をもとに対訳と語注をつけた,
という本もあります.看板どおり訳と注はロシア語訳にもとづいてつけられているので,フランス語原文とは内容が異なっている部分があります (たとえば第 2 章冒頭に « à mille milles de toute terre habitée »「人の住むあらゆる地から千マイル……」とありますが,ノーラ・ガリ訳では «на тысячи миль вокруг» と複数対格なので「何千マイル」となっています).この本は私の知るかぎり,フランス語以外の言語についての唯一の試みです.

さきのリトアニア語の話ではありませんが,もっとこうしたものがどんどん増えてくれればよいのですが,今度は翻訳後の作品についての著作権も問題になりますから,なかなか実現が難しいのでしょうか.

dimanche 28 mai 2017

マビノギオンのフランス語版

前回は『マビノギオン』のドイツ語訳の状況について,幻の (?) マルティン・ブーバー訳を中心に紹介しましたが,今日はそれに引きつづいてフランス語訳 Les Mabinogion の来歴について概観しましょう.

前回すでに触れましたが,まずはジョゼフ・ロト (Joseph Loth, 1847–1934) による 1889 年および 1913 年の訳業が挙げられます.彼の訳は現在「マビノギオン」と呼ぶときにいちばん一般的なくくりである 11 話 (シャーロット・ゲスト版の 12 話からタリエシンの物語を除いたもの) すべての完訳であり,フランス語では 1993 年に後述する新訳が登場するまでは唯一の選択肢でありつづけました.

その仏訳は先駆的な仕事としては驚くほどに正確かつ充実したものであったようで,中期ウェールズ語から日本語への直接訳という大業を達成された中野節子氏も「ゲスト夫人訳よりも原典に忠実な訳で、注も豊富である」(p. *32) と評するほか,ゲスト夫人訳の省略にはもちろん第 2 の英訳 Ellis and Lloyd (1929) にも若干の不満を漏らす Jones and Jones (1949) がロトには ‘brilliant French translation’ との一言です (Everyman Library 1993 年版,p. xxviii.これは言語の違いのためもあるかもしれませんが).ブーバーが翻訳の種本にするのも納得というものです.

フランス語版 Wikipedia によればこのジョゼフ・ロトは,1847 年,現在のブルターニュ地域圏の中央やや西寄りにあるゲムネ゠スュル゠スコルフ (Guémené-sur-Scorff) に生まれていますから,おそらく幼いころからブルトン語には親しむ機会があったのでしょう.1870–71 年の普仏戦争が終わったあと,彼より 20 歳年上のケルト学者アンリ・ダルボワ・ド・ジュバンヴィル (Henri d’Arbois de Jubainville ; また稿を改めて述べるつもりですが,こちらは『クアルンゲの牛捕り』の最初の仏訳者です) と知りあったことがきっかけでケルト諸語の研究に入ります.

彼の初期の研究業績としては 1883 年の『5–7 世紀におけるアルモリカへのブルトン〔ブリトン〕人の移住』(L’Émigration bretonne en Armorique du Ve au VIIe siècle de notre ère),そして翌 1884 年の『古ブルトン語の語彙』(Vocabulaire vieux-breton) があり,この後者はウェールズ語・コーンウォール語・ブルトン語・アイルランド語はもとよりラテン語・ギリシア語・サンスクリット語などとも対照した比較言語学の労作です.こうした積み重ねが基礎となって 1889 年の『マビノギオン』完訳 (de Jubainville et Loth (éds.), Cours de littérature celtique, tt. III et IV) に結実したのでしょう.

ロト訳の『マビノギオン』は 1979 年に Les Mabinogion : Contes bardiques gallois として Les Presses d’Aujourd’hui 社から,当時までの最新の情報を付した新しい紹介文つきで再版されています.この序文は 22 ページにわたるしっかりした分量のものですが,署名がなく本にも編者の名前がないので誰が書いたものかはわかりません.専門家によるものではなく出版社の編集部と考えるのが妥当でしょうか.当時のフランスの一般読者向けに概要を解説したものとして一定の役割があったでしょうが,そう思うと内容もどこか胡散臭いものです.

というのも,この解説文は冒頭で『レゼルフの白い本』の年代を「13 世紀」,『ヘルゲストの赤い本』を「14 世紀初頭」と称していますが (« le Livre blanc de Rhydderch datant du XIIIe siècle et le Livre rouge de Hergest rédigé au début du XIVe »),1970 年代末の研究状況に鑑みてもこれは根拠がなく,それぞれ 14 世紀前半から中葉,14 世紀末から 15 世紀初頭とする当時のコンセンサス (現在もほぼ同様) から 100 年ほどもずれています.じっさい,この序文は先行する英訳である Jones and Jones (1949)Gantz (1976) に言及しているにもかかわらず,当の Gantz のイントロダクションでは『白本』を ‘c. 1325’, 『赤本』を ‘c. 1400’,Jones and Jones は順に ‘1300–1325’ と ‘1375–1425’ (これは Ford 1977 も同様), また R. L. Thomson の Pwyll Pendeuic Dyuet (1957) と D. S. Thomson の Branwen Uerch Lyr (1961) それぞれのイントロダクションは一致して ‘mid-fourteenth’ と ‘late fourteenth/early fifteenth’ に比定しています.さらに次のページではシャーロット・ゲスト夫人が「1833 年に」これら 11 の物語をひとつに集成したと書かれていますが (« le regroupement qu’effectua, en 1833, Lady Charlotte Guest de ces onze contes à première vue un peu disparates, pour leur première traduction en langue anglaise. »),これもなにかの勘違いではないかと疑ってしまいます.ゲスト夫人は 1838 年から 45 年 (49 年) にかけてタリエシンを含む 12 の物語を順次英訳・出版しますが,1833 年と言えば 21 歳の彼女がはじめてウェールズ語を学びはじめた年ですから.

ともあれそんな謎の解説文はさておいてロト本人による訳文そのものは評判がよかった仏訳ですが,1993 年にやはりケルト語学者であるピエール゠イヴ・ランベール (Pierre-Yves Lambert) がガリマール社から刊行した新訳 Les Quatre Branches du Mabinogi et autres contes gallois du Moyen Âge によって役目を終えてしまったのかもしれません.ランベールはさすがに新訳をあえて世に問うだけのことはあって,その序文は「ジョゼフ・ロトは 19 世紀ウェールズの文献学の伝統に依拠しすぎていた」(« Joseph Loth était trop dépendant de la tradition philologique du XIXe siècle gallois ») 云々と辛口です.

この新訳はシャーロット・ゲスト夫人と同じくタリエシンの話を含む 12 話構成という点でどちらかといえば例外的なつくりです.各話の冒頭には 1992 年までの学界の最新の研究動向を踏まえたおのおの数ページの解説が付されており,巻末には小さい活字で全 50 ページにも及ぶ注がつけられています.数ある英訳と比べてももっとも充実した決定版と呼ぶべき現代語訳のひとつと言え,2000 年の中野訳がまったく触れていないのはかえって不思議なほどです.

以上の 2 種が,フランス語でマビノギオン (マビノジョン) を読もうと思ったとき候補になる選択肢です.最後に余談として,時系列では逆順になってしまいますが,テオドール・エルサール・ド・ラ・ヴィルマルケ (Théodore Hersart de La Villemarqué) の発表した,ロト以前の「最初のフランス語訳」について一言触れておきましょう.

「ヴィルマルケ」をブルトン語に逐語訳したという「ケルヴァルケル」(Kervarker) の名でも知られる,ブルターニュ民族運動の英雄の一人であった彼は,1842 年に『古代ブルトン〔ブリトン〕人の民話』(Contes populaires des anciens bretons) という 2 巻本のなかで,マビノギオンを構成する 11 話のうちアーサー王ロマンスに属する 3 話,すなわちオワイン (Owain),ゲライント (Geraint),ペレディル (Peredur) の物語をフランス語訳しました (彼によるつづりでは Owenn, Ghéraint, Pérédur).

ところがこの仏訳をめぐってはひとつの醜聞があります.梁川英俊 (2004)「ラヴィルマルケとリューゼル (二) ―いわゆる『バルザズ・ブレイス論争』について」(『鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集』59: 53–80 頁) はそれを「シャーロット・ゲスト夫人との確執」とまとめており,この論文はオープンアクセスで閲覧できるのでその 60 頁以下を見ていただければいいのですが,要するにヴィルマルケは実際にはウェールズ語の知識に乏しく,ほとんどゲスト夫人の英訳からの重訳であったにもかかわらずそのことを明らかにしておらず,重訳と注の剽窃につき夫人から訴えられたという話です.

さきにも述べたとおり,シャーロット・ゲスト夫人は 1838 年から 49 年にかけて彼女の英訳を順次発表していくのですが,その手始めが『オワインあるいは泉の貴婦人』の物語で,ヴィルマルケが 1842 年に仏訳した 3 話はその時点までにゲスト夫人が英訳していたものに限られていたとのことです.前述した最新訳のランベールもそのイントロダクションで,ヴィルマルケの仏訳につき「1842 年に発表された彼の翻訳は,ゲスト夫人のそれに大きく依存していたにもかかわらず,そのことは言及されなかった」(« sa traduction, publiée en 1842, dépendait largement de celle de Lady Guest, bien que cela ne fût pas mentioné. ») と述べています (脚注によればこの指摘はもともとレイチェル・ブロミッチ R. Bromwich 1986 の見解であったようです).

lundi 29 juin 2015

Hélix『古フランス語 18 課』第 3 課

Laurence Hélix, L’Ancien français en 18 textes et 18 leçons, Armand Colin, 2014 をもとにまとめた résumé.  諸注意は最初のエントリを参照のこと.前回までのエントリ:第 1 課前半後半第 2 課前半後半


第 3 課 品質形容詞と副詞/音声の問題 Les adjectifs qualificatifs et l’adverbe / la question de phonétique


第 1 部 品質形容詞 Les adjectifs qualificatifs


名詞と同様,形容詞も AF では 2 つの格に曲用する.名詞との違いは中性形があることで,これはたとえば中性代名詞の属詞として用いられる.

AF では 2 つの型の形容詞を区別する:多いのは 2 形 biforme と呼ばれるもので,男性と女性で異なる形を示す.もうひとつは性無変化 invariable en genre で,男性と女性でほとんど同形である.


1. 2 形 (または「性変化」) 形容詞 Les adjectifs biformes (ou « variables en genre »)

2 形形容詞は多くラテン語の -us, -a, -um〔第 1・第 2 変化形容詞〕に由来する.男性と女性でそれぞれの 1 型名詞のように曲用する.中性は無変化で〔語尾に〕s をとらない.

男性単数男性複数女性単数女性複数中性
主格bonsbonbonebonesbon
斜格bonbonsbonebonesbon

注意:過去分詞 participe passé はすべてこの型の変化をする;第 8 課で詳しく見るが,分詞 perduz の例を示しておく.

男性単数男性複数女性単数女性複数中性
主格perduzperduperdueperduesperdu
斜格perduperduzperdueperduesperdu


2. 性無変化形容詞 Les adjectifs invariables en genre

2 形形容詞には 3 つの特徴があることを見た:1. 男性で e をとらない;2. 女性で e をとる;3. 1 つしか語基 base をもたない.そういうわけで「性無変化」形容詞のなかで 4 つの型を区別する習慣である:1 型と 2 型は男性形が -e (1 型) または -re (2 型) で終わる;3 型は女性で e をとらない;4 型は 2 つの異なる語基をもつ.

―〔1 型:〕男性が -e の形容詞

男性単数男性複数女性単数女性複数中性
主格sagessagesagessagessage
斜格sagesagessagesagessage

変遷:AF と FM のあいだで,この型はほとんど変化しなかった;sage, jeune, noble, amable (FM aimable), humble 等々は今日も両性で語末の e をもつ.

―〔2 型:〕男性が -re の形容詞

この型は男性主格単数で s がないことで前者〔=1 型〕と区別される.しかし男性名詞 2 型 (pere, frere, ...) と同様,この形容詞も,ほかの形容詞との類推 analogie によって,男性主格単数で s をとる傾向がある.

男性単数男性複数女性単数女性複数中性
主格povre(s)povrepovrepovrespovre
斜格povrepovrespovrepovrespovre

変遷:前者と同様,FM で両性とも語末の e を保っている.

―〔3 型:〕女性で -e がない形容詞

この型の代表例の大部分は,ラテン語ですでに男性と女性が同形であった通性 épicène 形容詞に由来している.

男性単数男性複数女性単数女性複数中性
主格granzgrantgranzgranzgrant
斜格grantgranzgrantgranzgrant

変遷:中世以来,女性の語末に e がないのは話し手には奇妙に思われたらしく e が加えられた.FM では,grand-mère のような若干の決まった連語において,grant/d が無変化であった名残を残している.

―〔4 型:〕2 つの語基をもつ形容詞

2 つの語基をもつ形容詞の大部分は,ラテン語の総合的比較級 comparatif synthétique [訳注] からきている;これらは AF でそれほど数は多くないので,使用頻度の高いものを記憶するとよい:graindre/graignor, mieudre/meillor, mendre/menor, maire/maior, pire/peior.  このカテゴリはまた,形容詞として用いられた若干の普通名詞を含む.

男性単数男性複数女性単数女性複数中性
主格graindregraignorgraindregraignorsgraignor
斜格graignorgraignorsgraignorgraignorsgraignor

変遷:〔3 型の〕grant や fort と同様,女性の語末に e がないのは中世の人々には奇妙に感じられたらしい.

[訳注] 語基に男・女性 -ior, 中性 -ius の接尾辞を付したり,まったく異なる語基を用いたりすることによって,1 語で比較級を表す形.対義語は分析的 analytique で,英語の more, 現代フランス語の plus + 原級形容詞のような,2 語による比較級の作りかたを指す.


第 2 部 古フランス語における副詞 L’adverbe en AF


副詞は AF でも FM と同様に無変化で,動詞や形容詞やほかの副詞の意味を修飾する語である.

1. -ment で終わる副詞 Les adverbes en -ment

仕方 manière の説明のさいラテン語では,mens, mentis, f. の奪格 mente とそれに一致する形容詞とからなる副詞句 locution adverbiale を用いた.

オイル語はロマンス語の多くと同様,この副詞句を継承したが,7–8 世紀ころ,形容詞と名詞 mente との一体化が起こった.例:bona mente > bonement.

無変化形容詞では,e のない女性形の改変に伴って,対応する副詞も改変された:fortment > fortement, grantment > grandement.


2. 副詞のその他の特徴 Les autres marques de l’adverbe

標識 -e

AF では多くの副詞が,語末に e のない形とある形の交替を示していた:or/ore, voir/voire, encor/encore, onc/onque, ...  かなり早い時期に,e のある形が副詞の「有標の marquée」形と感じられ,実際に語末の e は副詞の標識として現れた.

標識 -s

LC の副詞の多く (minus, magis, plus, ...) と,postius や *alioris のような後期ラテン語 bas latin のほかの副詞の形は,s で終わる.これらは現代に保たれている:moins, mais, plus, puis, ailleurs.  その頻繁さのために,この s は中世に副詞の標識と考えられ,類推作用を及ぼした.たとえば semper に由来する *sempre は,ラテン語に存在しない語末の s を伴った sempres の形で AF に現れる.

NB : 語末の e と s を兼ね備えた onques, ores, lores の形もしばしば見られる.

標識 -ons

前置詞 a と -ons で終わる名詞からなる副詞句:a genoillons, a tatons, a chatons, a reculons, a croupetons.  この形は AF ですでにまれであり,FM ではなおさらである:「手探りで à tâtons」や「後ずさりして à reculons」の決まり文句にのみ残っている.


第 3 部 歴史音声学の問題 La question de phonétique historique


〔音声変化の〕法則を学ぶまえに,ロマンス語学者 romaniste の音声記号 alphabet phonétique, より正確にはブルシエ Bourciez の記号,に親しんでおく必要がある.これはのちの課で説明するが,いまは以下の慣習を覚えてほしい:

  • ラテン語とフランス語の語は下線 souligné またはイタリック italique にする.例:manducare または manducare ;
  • 音声転写 transcription phonétique は角括弧 crochet droit に入れる.例:[mandukare] ;
  • 記号 > は「に達する aboutit à」を意味する.


第 4 部 読解と翻訳:マルコ・ポーロ Marco Polo『世界の記述 Le Devisement du monde』(1298) (省略)


第 5 部 応用練習 (省略)

dimanche 28 juin 2015

Hélix『古フランス語 18 課』第 2 課後半

Laurence Hélix, L’Ancien français en 18 textes et 18 leçons, Armand Colin, 2014 をもとにまとめた résumé.  諸注意は最初のエントリを参照のこと.前回までのエントリ:第 1 課前半後半第 2 課前半


第 2 課 (承前)


第 2 部 知っておくべき接続語 Les mots de coordination à connaître


1. ET, ラテン語 etiam (「もまた aussi」,「すら même」) に由来

中世の et は非常にしばしば FM の接続詞 et に対応する.しかしこの時代にはさまざまの要素が等位接続された coordonné ので,今日の言語では et をあてられない場合もある.
  • 文頭の et はしばしば副詞 alors に相当する.例:Atant se leva. Et il prist la pucele par la main. (その瞬間彼は目覚めた.それで彼はその娘の手をつかんだ)
  • Et はラテン語の語源となる語 etiam の意味を保っていることがある.例:Et je sai ou il converse. (私もまた彼がどこに住んでいるか知っている)
  • Et は軽い逆接 adversatif の意味のことがある.例:Vos deüssiez combatre et de vos deduire toz jorz pensez. (あなたは戦わねばならないだろうに,あいかわらず楽しむことを考えている)

2. NE, ラテン語 nec に由来する,否定的文脈の接続語

否定的文脈 contexte négatif において et は ne に交替することがあり,ちょうど FM で et が ni に置きかわることと同じである.ただし AF ではその文脈は完全な肯定でないというだけで十分である (たとえば疑問の interrogatif あるいは仮定の hypothétique 文脈).

例 1 (疑問):Quel deables a ce dit a cest vilain ne de quoi s’entremet il ? (どんな悪魔がそんなことをあの野郎に言い,そしてあいつはなにをやらかそうというのか)

例 2 (否定):Je ne vos sai plus dire, ne je n’i os plus demorer. (私はあなたがなにをこのうえ言うのか知らないし,私はこれ以上ここにとどまるつもりはない)

NB : 接続詞の ne を否定の副詞 ne と混同しないこと.


3. MAIS (または mes), ラテン語 magis (「より多く plus」,「むしろ plutôt」) に由来

FM と同じく AF でも mais は 2 つの文の対立を表す.一定の文脈では mais はまた説明 explication や正当化 justification を導き,FM の「つまり cela dit」や「もっとも,たしかに……だが d’ailleurs」にあたる.

例:Il set bien que vos le querez, mais vos nel trouverez point, se il ne viaut. (彼はよく知っている,あなたがそれを探しているが,彼がそれを欲しないならばあなたはそれを見つけられないだろうことを) Mais tant me comenda il que je vos deisse que por noiant vos travailliez de lui querre. (もっとも,彼は私に対してあなたに言うことを命じた,あなたが苦労してそれを探しても無駄であるということを)

NB : 語源 magis の意味は AF において ne ... mais の表現を説明している (〔現代語の〕ne ... plus).


4. AINZ (または einz), ラテン語 ante (「前に avant」) の比較級 *antius に由来

語源から ainz は「前に avant」,「以前に auparavant」という時間の意味をひきついでいる.この意味 (「より早く plus tôt」) から「むしろ plutôt」の意味は容易にわかるし,さらに強い逆接の意味「まったく反対に bien au contraire」にもなる.

例:Ma vie ne me plaist point ; ainz pri Deu que la mort me doint. (私の人生は私を満足させない;それどころか私は神に,私に死を与えてくれるよう頼む)

NB : ainz の同義語に ainçois (または einçois) がある.13 世紀以降 ains というつづりも見かけるようになる.


5. CAR (または quar), ラテン語 quare (「なんとなれば c’est pourquoi」) に由来

Car は FM と同様 AF でも原因の causale 意味をもつ.文の副詞をして用いられることもある:節のはじめに置かれて,命令法または勧告の exhortatif 接続法の動詞の前で,命令をさらに強める.

例:Car conseilliez ceste chaitive ! (この不幸を助けてくれ!)


6. OR (または ore), ラテン語 *hac hora (「この時に à cette heure」) に由来

語源と同様,AF の or は時間の意味をもつ (意味は現在).文脈によっては直前の過去 passé immédiat および近い未来 futur proche のこともある.命令表現の前では,or は本来の意味 (「いま」) または,car のように強調 insistance の意味もある.

例:Or joing tes mains ! (さあ手をあわせなさい)

NB : or の現代の意味は中世の終わりに現れる.


第 3 部 読解と翻訳:ジャン・ダラス Jean d’Arras『メリュジーヌ物語 Le Roman de Mélusine』(1393–1394) (省略)


第 4 部 応用練習 (省略)

Hélix『古フランス語 18 課』第 2 課前半

Laurence Hélix, L’Ancien français en 18 textes et 18 leçons, Armand Colin, 2014 をもとにまとめた résumé.  諸注意は最初のエントリを参照のこと.前回までのエントリ:第 1 課前半後半


第 2 課 名詞と格の用法/接続語 Les noms et l’emploi des cas / les mots de coordination


第 1 部 名詞の曲用と格の用法 La déclinaison des noms et l’emploi des cas


1. 名詞の曲用 La déclinaison des noms

古フランス語 (AF) では古典ラテン語 (LC) のように名詞は曲用する se décliner が,AF には 2 つの格しかないので単純である:ラテン語の主格 nominatif に由来する主格 CS と,対格 accusatif に由来する斜格 CR である.また中性 genre neutre もないため簡単である:AF には男性名詞 nom masculin と女性名詞 nom féminin しかない.

― 男性名詞

AF には 3 種類の男性名詞がある.1 型 type 1 はもっとも多く,たいていラテン語の第 2 曲用に由来するものでただ 1 つの語基 base をもつ.単数主格と複数斜格では語根 radical に s が加わる (例:mur-s, moulin-s).しかし語根の末子音は s のつくとき修正を受けることがあるので注意せよ;例:port + s > porz.

男性 1 型単数複数単数複数
主格mursmur porzport
斜格mur mursportporz

無変化の特殊な場合:語根がはじめから s または z で終わっている cors, tens, mois のような語は曲用しない.「無変化 indéclinable」語はすべて,それが FM に残っている場合には,無変化のままである.

非常に少数の語が 2 型 type 2 を形成する:pere, maistre, frere 等々は 4 つの形に対して同一の語基をもつが,1 型の名詞に比べると単数主格で s をとらない.すべて -re で終わることに注意せよ (しかし sire や emperere のように,-re で終わっても 2 型でない名詞もある).

男性 2 型単数複数単数複数
主格pereperearbrearbre
斜格pereperesarbrearbres

NB : 単数主格に peres の形を見ることもまれではない.これは類推現象 phénomène d’analogie である:AF には 1 型の名詞が非常に多いので,中世の人々は本来つかない語にも s をつける傾向があった.

3 型 type 3 の名詞は 2 つの異なる語基をもつ特徴がある.たとえば ber/baron, cuens/conte, huem/home, niés/neveu のように,日常語の多くはこの型であり,ふつう -ere (単数主格) または -eor(s) (その他の格) で終わる:emperere/empereor(s), contere/conteor(s), travaillere/travailleor(s), ...  3 型の名詞はすべて男性の人間を意味する.

男性 3 型単数複数単数複数
主格sireseigneurenfesenfant
斜格seigneurseigneursenfantenfanz

NB 1 : 中世の接尾辞 -ere/-eor はラテン語の -ator/-atorem からきており,FM の接尾辞 -eur に対応する.

NB 2 : 複数では,やはり語末の t に s が続くとき z に変わる.


― 女性名詞

女性名詞も 3 つの型にわけられる.1 型がもっとも多い;たいていラテン語の第 1 曲用に由来し,ただ 1 つの語基をもち,e で終わり,複数では s がつく.1 型の名詞では主格と斜格の区別がない:唯一の区別は,s のない単数と s のある複数との対立だけである.

女性 1 型単数複数単数複数
主格damedamesfillefilles
斜格damedamesfillefilles

2 型の名詞は,語基は 1 つだが,e 以外の文字で終わり,それは子音または é である.単数主格と複数で語末に s がつく.

女性 2 型単数複数単数複数
主格maisonsmaisonsveritezveritez
斜格maisonmaisonsveritéveritez

NB 1 : 男性 1 型と同様,s または z で終わる女性名詞も無変化である;例:paiz, croiz.

NB 2 : -é の女性名詞はすべて 2 型であり,単数主格と複数で z で終わる.

3 型の女性名詞は男性と同様 2 つの異なる語根をもつ.数はそれほど多くはない.

女性 3 型単数複数単数複数
主格nonnenonnainssuerserours
斜格nonnainnonnainsserourserours


2. 格の用法 L’Emploi des cas


主格はその名詞が節の主語 sujet であるときまたは主語の属詞 attribut であるとき用いられる.呼びかけ apostrophe における名詞の大部分もまた主格である (しかし例外も多い).

例:Li mesagier errent par vaus et par montaignes. (使者は山を越え谷を越え旅する) 動詞 errer の主語 li mesagier は複数主格である.

斜格はそれ以外の機能すべてに用いられる:直接目的語 COD, 間接目的語 COI, 名詞の補語 complément du nom, 状況補語 complément circonstanciel, 等々.

例 1:La tor del chastel esgarde. (彼は城の塔を見る) 直接目的語 la tor (女性 2 型) と名詞の補語 del chastel (男性 1 型) が斜格である.AF ではしばしばあることだが,代名詞主語 il は明示されず COD が動詞に先行している.

例 2:Messire Gauvains cele nuit en une forest jut. (今夜ゴヴァン殿下は森のなかで休む) 時の補語 complément de temps である cele nuit (女性 2 型) と場所 lieu の補語である en une forest (女性 2 型) が斜格である.

Hélix『古フランス語 18 課』第 1 課後半

Laurence Hélix, L’Ancien français en 18 textes et 18 leçons, Armand Colin, 2014 をもとにまとめた résumé.  諸注意は最初のエントリを参照のこと.前回のエントリ:第 1 課前半


第 1 課 (承前)


第 2 部 細かいが重要な事柄:AF における si の語 Tout petit mais essentiel : le mot si en AF


Si は LC で「そのように ainsi」を意味する副詞 sic に由来する.これを従位接続詞 se と混同してはならない.後者は AF において条件の従属節を導入し,FM の接続詞 si に相当する.中世のテクストのあらゆるところに現れ,si は非常にさまざまの語義と用法をもっている.


1. 語源の意味:「そのように」,「こうしたしかたで」 Valeur étymologique : « ainsi », « de cette manière »

Si は語源〔本来〕の意味を保っていることがある.すなわち様態の副詞で,AF の同義語に副詞 issi と ainsi がある.例:Si entra en la maison. (このようにして彼は家に入った)


2. 時間の意味:「次に」,「それから」 Valeur temporelle : « puis », « alors »

複数の行為が継起する文において,si は puis, alors に近い意味,さらに単純に et の意味をもつ.例:Li chevaliers s’est esveillez, si l’ad veüe. (騎士は目覚め,それからそれを見た)

NB : こうした時間の意味は,si が quant のような時の接続詞と相関するときはっきりする.例:Quant ele l’oï, si suspira. (彼女はそれを知ったとき,ため息をついた)


3. 強調の意味:「非常に」,「それほど」 Valeur intensive : « tellement », « si »

この意味は FM にもある.非常にしばしば,強意の si は接続詞 que で導かれる結果節 proposition de conséquence とともに働く.例:Estoit si esbahiz que ne pooit soner mot. (彼はとても仰天しており言葉を発されぬほどであった)

NB : si は接続詞 que と結合することがある.例:Il chaï envers, / si que la teste li seingne. (彼はあおむけに倒れた/そのため頭が出血した)


4. 結果の意味:「それゆえ」,「そういうわけで」 Valeur consécutive : « donc », « c’est pourquoi »

例:La damoisele estoit bele et bien fete. / Si la regarda Gauvains volentiers. (その娘は美しくよくできていた/それでゴヴァン殿下は彼女を喜んで見つめた)


5. 逆接の意味:「にもかかわらず」 Valeur adversative : « pourtant »

この意味は si が et とともに用いられるとよくわかる.例:Molt est sages, et si n’est pas voisous. (彼はとても賢い,それにもかかわらず先見の明がない)


6. 特殊な場合:si com の成句 Un cas particulier : la locution si com (autres graphies : si come, si comme, si cum, si cume)

この成句は比較の意味 valeur comparative (「と同様に ainsi que」,「のように comme」) または時間の意味 (「のときに comme」,「するあいだに tandis que」) をもちうる.

例 1 (比較の意味):Crestïens comence son conte, si com l’estoire le reconte... (クレティアンは話を始める,話がそれを語るように……)

例 2 (時間の意味):Si come il dormoit, une dame entra. (彼が眠っているときに,夫人が入ってきた)


第 3 部 若干の翻訳の指針 Quelques conseils de traduction


  • 翻訳するまえにテクストを全部読む:登場人物を特定し (少なくとも大づかみに) なにが起こるかを理解したあとなら文章を翻訳するのはより容易である.
  • 古風になった語や意味が変わった語を翻訳する:〔現代語の母語話者向けの例示のため省略〕
  • si, et, par, or のような小さな語を無視しない.これらはしばしば翻訳が難しいが,さまざまな節を論理的に配列しており,FM におけると同様 AF においても不可欠のものである.
  • chose, faire, dire のような非常に一般的であいまいな語の意味をなるべくはっきりさせる
  • 動詞の時制を調和 harmoniser させる:中世のテクストでは,著者たちは過去と現在とを行ったり来たりする習慣をもち,同じ段落のなかで,さらには同じ文のなかで,単純過去 (または半過去) と物語的現在 présent de narration [訳注] を交互に使う.これは FM では不可能なので,時制を一貫させること.
  • 時制の一致 concordance des temps を尊重する:AF では義務的でないが FM では強く要求される.
  • テクストの動きに従う:〔これも母語話者向け.節の順番はなるべく保つほうがよいが,S-V-C が今日では自然だということ〕
  • 翻訳を文脈にあわせる:〔テクストの種類と時代によって選ぶべき訳語は異なるということ〕
[訳注] 歴史的現在 présent historique に同じ.


第 4 部 読解と翻訳:オウムの物語 Le Conte du Papegau (15 世紀初頭) (省略)


第 5 部 応用練習 (省略)

samedi 27 juin 2015

Hélix『古フランス語 18 課』第 1 課前半

古フランス語の教科書は,日本語で書かれたものは数えるほどしかないが,解説がフランス語になることを許せば大小数えきれないほどのものがある.現代語であると古語であるとを問わず,学習人口の少ない言語では入門者向けの本がなく研究書や体系的なレファレンスにかぎられることがあるが,フランスで出版されている古フランス語の書籍のリストはかならずしもこれにあたらず,前者の種類の本も何種類かの選択肢がある.ここに紹介する本もそれで,文法事項を重要度と難易度に応じて少しずつ説明する漸進的なタイプに近い学習書である.

今回は,Laurence Hélix, L’Ancien français en 18 textes et 18 leçons, Armand Colin, 2014 をもとに古フランス語の学習を行う.非営利の勉強メモとはいえ著作権・翻訳権等の問題が気にかかること,また現実的な作業量を勘案して,原文の記述を適度に割愛した résumé である.読解演習の節はいっさい扱わず,また文法説明の節の例文については古文と日本語訳のみを示し,現代フランス語訳は再掲しないので,必要に応じて原書を参照されたい.

凡例
  • カギ括弧「  」は原文の «  » である.ただし原文では «  » があってもカギ括弧を省略した場合もある.
  • 亀甲括弧〔  〕は訳者による補足で,原文にない語句や,原文を思いきって短くまとめた場合,またごく短い訳注を示すために用いた.
  • 丸括弧 (  ) はおおむね原文どおりだが,原語を示すためのものはもちろんそのかぎりでない.
  • ボールドは原文どおり.イタリック italique は,原文で古語やラテン語を示すために用いられているものは反映させていない.
  • 重要な用語はつとめて原語を併記しているが,それ以外にも非常にしばしばそうしてある.フランス語の原語を示すことが日本の読者のためになると考えられる場合や,訳者が訳語に確信をもっておらず誤訳を恐れた場合などがそうである.


第 1 課 古フランス語に出会おう À la rencontre de l’ancien français


古フランス語 (ancien français, 以下 AF) は現代フランス語 (français moderne, FM [訳注]) の祖先である.数世紀のあいだ,われわれの領土の大部分,ロワール川の北で話されてきた.それにもかかわらず AF はわれわれにとって難しい.この課ではわれわれの古い言語が同時にどれほど近くまた遠いかを見る:
  • AF では名詞 nom, 代名詞 pronom, 限定詞 déterminant, 形容詞 adjectif は曲用する se décliner.
  • 主語 sujet が動詞 verbe のあとに置かれることがある.
  • つづり graphie は固定されておらず,正書法 orthographe の概念が意味をもたない.
  • AF は複数の言語である:この呼び名の裏に複数の方言,たとえばシャンパーニュ語 le champenois, ピカルディ語 le picard, ワロン語 le wallon, アングロ・ノルマン語 l’anglo-normand があり,それぞれ音韻 phonétiques, 書字法 graphiques, 語彙 lexiques が異なっている.
[訳注] 17 世紀から 19 世紀までの近代フランス語 français moderne と,20 世紀以降の現代フランス語 français contemporain とを区別する著者もあるが,ここでは「現代」ととってよかろう.


第 1 部 中世のフランス語の異質さ L’étrangeté du français médiéval


1. 曲用の言語 Une langue à déclinaisons

FM では名詞はふつう単数 singulier と複数 pluriel の 2 つの形態しかとらない.しかし AF では単数・複数の対立に加えて格の casuelle 対立があり,主格 (cas sujet, CS) と斜格 (cas régime, CR [訳注]) を区別する.このことをよく理解するために,2 つの抜粋を『獅子の騎士 Chevalier au Lion』から見る.イヴァン Yvain の題でも知られ,クレティアン・ド・トロワ Chrétien de Troyes の 1176 年から 1180 年のあいだの作である.

[訳注] Cas régime は被制格と訳すのがもっとも正確だろうが,要するに主格以外の格のことなので,わかりよい斜格 cas oblique とする.
Li chevaliers ot cheval buen / Et lance roide. (主格) : 騎士はよい馬と/硬い槍をもっていた.
Le chevalier siudre n’osai (斜格) : 私はその騎士にあえて従わなかった
どちらも単数なのに,統語上の問題で形を変えている:前者では li chevaliers は動詞 ot (avoir) の主語であり,後者では le chevalier は動詞 siudre (suivre) の直接目的語である.

CS と CR の区別は冠詞と名詞だけではない.所有〔形容〕詞 possessif と指示詞 démonstratif, 品質形容詞 adjectif qualificatif, 代名詞 pronom もまた格に応じて異なる形をとる.これは 6 つの格をもっていた古典ラテン語 (latin classique, LC) の名残である.時の経過とともに,「俗ラテン語 latin vulgaire (VL)」と呼ばれる話し言葉のなかで,格の大部分は CS にあたる主格 nominatif と CR にあたる対格 accusatif の 2 つを残して消えた.

しだいに,とりわけ 12 世紀のはじめまでには,曲用はもはや尊重されなくなっていた:まず口頭で,それから文字上で,CS の形は CR の形にとってかわられた.おそらく話し手も書き手も,もっともよく使った形である CR を特別視したため,しだいに CS の形はほとんどまったく消えてしまった.中世の終わりまでには,残った区別は単数と複数の対立だけであり,これが FM に保たれている.


2. 語順は現代と大きく異なる Un ordre des mots bien différent du nôtre

語順は複雑な問題であり,韻律上の rythmique 理由には第 8 課で立ち戻る.ここでは『獅子の騎士』からもう 2 つの引用を見よう.文法上の主語に下線,動詞の活用形をイタリックで示す [訳注].

[訳注] 原文では AF の文全体がイタリックのため,動詞の活用形を太字 gras で示している.
An piez sailli li vilains, lues / qu’il me vit vers lui aprochier. 両足でヴィラン [訳注] は跳びあがった/私が彼のほうへ近づくのを見るやいなや.
Vers l’ome nu que eles voient / cort et descent une des trois. 彼女たちがちらと見る裸の男のほうへ/3 人のうちの 1 人が [馬から] 降りて走る.
[訳注] ヴィラン vilain は中世の農村に居住する自由平民のこと.

この 2 つの章句を見ると,主語は動詞の前の場合も後の場合もある.このことは 13 世紀まで文証されている attesté 統語現象を例示している:S-V-C の語順が従属節 proposition subordonnée 内では支配的であった一方で,C-V-S の語順が独立節 proposition indépendante および主節 prop. principale 内では支配的である.FM に保たれる S-V-C の語順はわれわれに親しいが,C-V-S は現代の読み手にとっては当惑させられる,というのもこれは中世の終わりには廃れ,現代の用法に対応しないからである.動詞の前に置かれた名詞がかならずしも主語でないことに注意せよ.


3. 正書法のない言語 Une langue sans orthographe

LC や FM に比して,AF は正書法をもたず,辞書も「よい慣用 bon usage」を定める文法も存在しない.中世の大部分を通して,確立された規則はなにもなかった.

あるテクストのうちで同じ語が異なる形に現れたとしても驚くべきではない.写本によってまた写字生によって,語は非常にさまざまの形で現れる.こうした状況において,AF の辞書に頼ることは困難である:どのつづりを信頼すればよいのか,どの見出し語を選べばよいのか,honor/anor/enor の語を探すには h を見るのでよいのか.


4. ひとつの言語と複数の方言 une langue et des dialectes

長いあいだフランス語は「複数的 plurielle」であり,多くの方言からなっていた.より正確には,AF と呼ぶものはオイル語 la langue d’oïl にあたり,これはロワール川の北で話されていた方言をまとめたものであった (オイル oïl は FM の oui にあたる).ロワール川の南ではオック語 la langue d’oc が話されており (oui にあたるオック語),これもまたガスコーニュ語 le gascon やプロヴァンス語 le provençal のような方言にわかれる.

本書ではオック語を取り扱わない.これはオイル語よりもラテン語に近く,すなわちゲルマン語の影響をあまり受けなかった.そのかわりに,AF の本格的な学習を始めるまえに知っておいてほしいのは,本書に現れる活用と曲用は,イル・ド・フランスで話され FM の直接の祖先になった「中央フランス語 français central」という方言に対応するということである.初学者は何々の方言の特質にかかずらって古語の学習を複雑にさせぬほうがよい.