このあいだ「フェーロー語研究 (前) 史 1650–1900」というエントリで紹介したように、1800 年にデンマーク人の牧師・植物学者であった Jørgen Landt という人に『フェーロー諸島に関する記述の試み』(Forsøg til en Beskrivelse over Færøerne) という著作があり、この第 4 章 3 節 (s. 436–440) が「その言語について」(Om Sproget) と題しフェーロー語 (フェロー語) の解説を行っているのであった。
本稿ではこの部分の訳出紹介を試みようと思う。これは 1800 年という年代に照らして知られるとおり、まだ正書法すなわちフェーロー語の単語をどのようにつづったらよいかの指針すら定まっていなかった時期のこと (この間の消息は前エントリで詳述した)、解説の内容じたいもさることながら、フェーロー語をどのように書き表わそうとしたかその努力にも興味がある。もっともラントはラスクのような専門の言語学者ではなく、かつ当時はほかに頼れる文献もなかったゆえであろう、表記の不徹底・不注意さやフェーロー語そのものの理解に難がある部分も散見される (日本人になじみのある例で言うと 16 世紀ころのポルトガル人やスペイン人による日本語の説明や日本地図の表記で起こったのと同じことである)。
訳では現代フェーロー語のつづりに修正したものも逐一併記し、デンマーク語も 200 年以上昔のものなので現代語と異なる場合にはこれも付記した (違いが名詞の大文字書きのみの場合は特記せず)。ラントの誤解によるものか、フェーロー語がふつう見出し語形とする単数主格未知形ではなく斜格や既知形 (定形) になっている場合があり、あるいはデンマーク語と定不定が一致していない場合があるので、そのさいはすべて注記した (特記なき場合は単数主格未知形)。また原文では区別していないが、ここではわかりやすいようフェーロー語をイタリック、デンマーク語をローマンで区別した。補足説明が必要な場合、亀甲括弧〔・〕に入れて示すか、長いものは * などの印を付して字下げした段落に述べた。
ここで試みられているフェーロー語表記を見れば、この言語の発音は 18 世紀の時点ですでにほぼ現在のとおりであったことが知られる。ラントのつづりから現行の正書法によるつづりを導きだすのはなかなか困難な作業であったが、デンマーク語訳が付されていることに助けを得て、また同時代の仕事であるスヴェアボの辞書 Dictionarium Færoense とも照らしあわせつつ誤りのなきを期した。しかし調査が及ばない部分も一部に残ってしまった。
§. 3.
言語について
フェーロー語 (det færøeske Sprog) は余所の者には最初のうちきわめて理解不能のように思われるが、〔われわれデンマーク人にとっては〕待つこともなく理解できるようになる;というのは単語の大部分が古いデンマーク語、あるいはむしろノルウェー語であって、歪められた発音が奇妙な見せかけを与えている〔だけ〕だからである。それは以下のようである〔次の単語の列挙は原文では左右 2 段組。上の画像のとおり〕:
- a spujsa at spiise.〔現 at spisa*, at spise。食べる、食事する〕
- a triqve at troe.〔現 at trúgva, at tro。思う〕
- a smuja at smedde.〔現 at smíða, at smede。(鉄などを) 打つ、鍛える〕
- a sejma at sye.〔現 at seyma, at sy。縫う〕
- a gænga at gaae〔現 at ganga, at gå。行く、歩く〕
- a standa at staae.〔現 at standa, at stå。立っている、立つ〕
- a regva at roe.〔現 at rógva, at ro。漕ぐ〕
- a sujgja at see.〔現 at síggja, at se。見る〕
- Fræ, Frøe, Sædekorn.〔現 fræ。穀物の種〕
- Sjegverin, Søen.〔現 sjógvurin。湖、海 (既知形)〕
- ojn Skegv, en Skoe.〔現 ein skógv [ein skógvur の対格], en sko。靴 (の片方)〕
- Løret, Lærred.〔現 lørift。亜麻布〕
- ojn Baug, en Bog.〔現 ein bók。本〕
- Ditnar, Dør.〔現 dyrnar [dyr (複数のみ) の主・対格既知形]。扉 (デンマーク語訳は単数未知形)〕
- Pujpa, Pibe.〔現 pípa。パイプ〕
- Høddet, Hovedet.〔現 høvdið [høvd または høvur の既知形]。頭 (既知形)〕
- Skortin, Fjæs (Ansigt)〔現同 [skortur の対格既知形]。顔 (デンマーク語訳は未知形)〕
- Ejen, Øjnene.〔現 eygum** [eyga の複数与格]。目 (デンマーク語訳は複数既知形)〕
- Nøsin, Næsen.〔現同 [nøs の既知形]。鼻 (既知形)〕
- Muveren, Munden.〔現 muðurin [muður の既知形]。口 (既知形)〕
- Høkan, Hagen.〔現同 [høka の既知形]。顎 (既知形)〕
- Øjrene, Ørerne.〔現 oyruni [oyra の複数主・対格既知形]。耳 (複数既知形)〕
- Mæjin, Maven.〔現 magin [magi の既知形]。腹 (既知形)〕
- Bojnene, Beenene.〔現 beinini [bein の複数主・対格既知形], benene。脚 (複数既知形)〕
- Brej, Brød.〔現 breyð。パン〕
- Bødn, Børn.〔現 børn [barn の複数主・対格]。子ども (複数形)〕
- Talve, Tavle.〔現 talvu*** [talva の対・与・属格]。平らな板、黒板〕
- Knujv, Kniv.〔現 knív [knívur の対格]。ナイフ〕
- Song, Seng.〔現同。ベッド〕
- Gjadn, Jern.〔現 jarn。鉄〕
* 現代フェーロー語では使わず、Jacobsen og Matras のフェーロー語・デンマーク語辞典 Føroysk-donsk orðabók (2. útg., 1963) や Jóhan Hendrik W. Poulsen ほか編 (1998) のフェーロー語国語辞典 Føroysk orðabók には立項されていない。デンマーク語からの借用語であったと思われ、Jógvan við Ánna, Føroysk málspilla og málrøkt IV (1977) に見いだされた。スヴェアボには spujssa として出ている。
** eyga「目」の複数は、未知形で主・対格 eygu(r), 与格 eygum, 属格 eygna, また既知形で主・対格 eyguni, 与格 eygunum, 属格 eygnanna である。このうちラントの記す Ejen にいずれが近いかという問題だが、既知形は音節数があわないので除外し、未知形のうち [n] の音で終わるのは eygum しかないのでこれをあてはめた (フェーロー語の名詞類複数与格の -um は [-ʊn] と発音される)。
*** talve の -e をどう受けとるかには異論の余地もあろうが、ラントのほかの記法を見るかぎり、彼は原則として a は正しく a と聞きとっているに対して、アクセントのない i および u を一律に e としがちな傾向がある (muðurin を Muveren、oyruni を Øjrene とするなど)。さらに斜格を見出し語に取り違えてしまう例のあることも見てのとおりである (ojn Skegv, Skortin, Knujv)。それゆえこの語も主格 talva ではなく talvu のつもりと解した。
** eyga「目」の複数は、未知形で主・対格 eygu(r), 与格 eygum, 属格 eygna, また既知形で主・対格 eyguni, 与格 eygunum, 属格 eygnanna である。このうちラントの記す Ejen にいずれが近いかという問題だが、既知形は音節数があわないので除外し、未知形のうち [n] の音で終わるのは eygum しかないのでこれをあてはめた (フェーロー語の名詞類複数与格の -um は [-ʊn] と発音される)。
*** talve の -e をどう受けとるかには異論の余地もあろうが、ラントのほかの記法を見るかぎり、彼は原則として a は正しく a と聞きとっているに対して、アクセントのない i および u を一律に e としがちな傾向がある (muðurin を Muveren、oyruni を Øjrene とするなど)。さらに斜格を見出し語に取り違えてしまう例のあることも見てのとおりである (ojn Skegv, Skortin, Knujv)。それゆえこの語も主格 talva ではなく talvu のつもりと解した。
だがフェーロー語には多くの特異な点もあり、それらについて若干を列挙したいと思う。たとえば次のようである〔前と同じく原文 2 段組。また、形容詞で性による違いがある場合、ラントはローマン体 (本文のブラックレターに対して) で hic, hæc, hoc; hi, hæ というラテン語の指示代名詞を用いて性を明示している。なおコンマやピリオドの有無が不統一なのはすべて原文どおり〕:
- a qvuja at frygte.〔現 at kvíða。恐れる、不安に思う〕
- a atla, tænke, slutte.〔現 at ætla。〜するつもりである〕
- a kujla, dræbe.〔現 kíla。殺す。フェーロー語 kíla は Jacobsen og Matras によれば現在ではまれ〕
- a fjoltra, skjelve.〔現 at fjøltra (?)*, at skælve。震える〕
- a tarna, forsinke.〔現 at tarna。邪魔する、阻止する、遅らせる〕
- a hikja, see.〔現 at hyggja, se。じっと見る、見まわす、観察する。ラントのデンマーク語訳 se はたんに「見る」だが、詳細別記**〕
- Ogn, Ejendom.〔現同。財産、とくに土地・不動産。〕
- Huur, Dør.〔現 hurð。扉〕
- Got, Dørstolpe.〔不明。dørstolpe は戸枠、扉を据えつけるところの枠や柱のことだが、それをそのままフェーロー語に直すと durastavur となる。got という音に対応しそうなつづり (たとえば gott) で似た意味の語は見つからず〕
- Likel, Nøgel.〔現 lykil, nøgle。鍵〕
- Munere, Forskjel.〔現 munur。差、違い〕
- Tkjæk, Disputeren.〔現 kjak。口論、論争〕
- Tkjolk, Kind.〔現 kjálki。頬〕
- Vørren, Læben.〔現 vørrin [vørr の既知形]。唇 (既知形)〕
- Ylverin, Drøvelen.〔現 úlvurin [úlvur の既知形]。口蓋垂 (既知形)。úlvur は同音同綴で「狼」の意もあるが、デンマーク語訳 drøvelen (= drøbelen) に従った。〕
- Spjarar, Pjalter.〔現 spjarrar [spjørr の複数主格]。ぼろきれ、くず〕
- qviik, hurtig.〔現 kvik, hurtigt [-ig の形容詞の副詞的用法が様態を表す場合、現代では -t]。速く、急いで〕
- erqvisin, ømskindet.〔現 erkvisin。敏感な、脆弱な、傷つきやすい〕
- fit, flink, ferm.〔現 fitt [fittur の中性]。器用に、巧みに〕
- prud, pyntet.〔現 prútt [prúður の中性]。堂々として、華美に、派手に〕
- hunalir, tækkelig.〔現 hugnaligur。楽しい、心地よい〕
- hic vækur.
- hæc vøkur. } vakker.〔現 vakur, vøkur, vakurt。きれいな、美しい〕
- hoc vækurt
- reak, maver.〔現 rak。痩せこけた、貧相な。デンマーク語 maver は mager の古い異綴〕
- bujt, halvtosset.〔現 býtt [býttur の中性]。愚かに、間抜けに〕
- raaka, topmaalt.〔現 rokað [rokaður の中性], topmålt。まったく、徹底的に〕
- hic lofnavur
- hæc lofnad } kold〔現 lofnaður, lofnað。かじかんだ。ラントのデンマーク語訳 kold はたんに「寒い」だが、Jacobsen og Matras の説明では „stiv af kulde om hænderne (fingerne)“「手や指が寒さでこわばっている」さまを言う〕
- hic gæmalor
- hæc gomal } gammel.〔現 gamalur***, gomul, gamalt。古い、年老いた〕
- hoc gæmalt
- hi trytjir
- hæ trytjar } tre.〔現 tríggir, tríggjar (中性 trý)。(基数詞の) 3〕
- imist, forskjellig.〔現 ymiskt または ymist [発音は同じ。ymiskur または ymissur の中性形], forskelligt [前掲 hurtigt の注を参照]。さまざまに〕
- ivarlest, uden Tvivl.〔現 ivaleyst。疑いなく、確かに〕
- korteldin, alligevel.〔現 kortildini [= kortini, korti]。それにもかかわらず、〜であるけれども〕
* 現代のフェーロー語辞典には見いだされないが、スヴェアボに中性名詞 Fjøltur が立項されており、それに対応していた動詞形ではないか。
** スヴェアボの語釈 (higgja の項) では « circumspicere »「見まわす」、« oculis perlustrare »「目を通す」、« oculos advertere »「目を向ける」、« collustrare oculis »「目で精査する」などとされている。しかし Jacobsen og Matras による現代語では betragte「観察する」より先に se, kigge「ちらっと見る、のぞき見る」、se (kaste et blik) på「一瞥する」が出る。
** スヴェアボの語釈 (higgja の項) では « circumspicere »「見まわす」、« oculis perlustrare »「目を通す」、« oculos advertere »「目を向ける」、« collustrare oculis »「目で精査する」などとされている。しかし Jacobsen og Matras による現代語では betragte「観察する」より先に se, kigge「ちらっと見る、のぞき見る」、se (kaste et blik) på「一瞥する」が出る。
*** ラントの gæmalor という表記から推して男性単数主格語尾に音節を加えたが、規範的には現在 gamal である。語尾をもつ gamalur という形は現代でも話し言葉においてしばしば見られる (Thráinsson et al. 2012: p. 103, n. 3)。
フェーロー語の見本として、2 人の農夫のあいだの会話を、その翻訳を加えつつ書き写してみよう〔文番号は原文にない。またこれより下はほぼすべてフェーロー語なのであえてイタリックにはしない〕:
- Geûan Morgun! Gud signe tee! Qveât eru Ørindi tujni so tujlja aa Modni?
- E atli meâr tiil Utireurar.
- Qvussu eer Vegri? qvussu eer Atta?
- Teâ eer got enn, men E vajt ikkji, qvussu teâ viil teâka se up mouti Dei.
- Viil tu ikkji feâra vi?
- Naj!
- Qvuj taa?
- Tuj E vanti mêar ajnkji aa Sjeunun, o tea eer betri a feâra eât Seji.
- Góðan morgun! Gud signi teg! Hvat eru ørindi tíni so tíðliga á morgni?
- Eg ætli mær til útiróðrar.
- Hvussu er veðrið? Hvussu er ættað?
- Tað er gott enn, men eg veit ikki, hvussu tað vil taka seg upp móti degi.
- Viltú [= Vilt tú] ikki fara við?
- Nei!
- Hví tá?
- Tí eg vænti mær einki á sjónum, og tað er betri at fara at seyði.〕
- おはよう。神の祝福が君にあるように。こんな朝早くになんの用だ?
- 釣りに出ようと思ってな。
- 天気はどうだ? 風向きは?
- まだ良好だよ、だが明け方にはどうなるかわからん。
- 一緒に行かないか?
- いいや。
- なんで?
- なんか釣れるとは思えないし、羊たちの世話をするほうがいいからだよ。
〔文法の解説はないので、ここでは私が独自に付す:
- signi は signa「祝福する」の接続法。フェーロー語の接続法はきわめて衰退しており、現在形しかなくまた人称および数の別なく同形で、このように決まった言いまわしにのみ用いる。ørindi「用事、使い」は単複同形の中性名詞。ここでは複数であることが tíni「君の (tín の中性複数主・対格)」と eru「〜である (vera の現在複数)」との一致から知られる。
- ætla「〜するつもりである」のあとの再帰代名詞 sær (ここでは mær) はあってもなくてもよい (少なくとも現代語では)。する内容には at 不定詞をとるが、ここでは動詞なしに使われている。útiróðrar は útiróður「漁、船釣り」の単数属格。úti- は út- とも。このように前置詞 til「〜へ」は本来属格を支配したが (アイスランド語では現在もそう)、いまのフェーロー語では属格はかなり廃れて決まり文句か文語にのみ用い、til のあとには対格がふつう。
- ættaður はこの言いまわしにしか使わない形容詞で、ættað は中性形。男性形で Hvussu er hann ættaður? とも言える (これは 3 人称単数男性の人称代名詞 hann を天候を表す仮主語にした表現)。名詞 ætt「向き、方角」を使って言う Hvaðan er ættin? も同じ意味。
- 天候を表す仮主語 tað。veit は vita「知っている」の直説法現在 1 人称単数、これはいわゆる過去現在動詞で特殊な活用をする。taka seg upp は「上昇・増加・発展する」で、天気について言う場合「発達する、なる、変わる」ということ。ここでは文脈から悪くなることが想定されているが、よくなる場合にも言える。
「朝早く」に来てまだ「明け方」まで時間があるとは不思議に思われるが、北緯 60 度を越えるフェーロー諸島の日の出の時間は季節によって大きく変わり、試しに本日 12 月 12 日のそれを調べてみたら現地時間で朝 9 時 41 分であった (ちなみに日の入りは 14 時 59 分、たった 5 時間あまりしか日が出ていない!)。電灯のない 18 世紀の農民はいまの私たちよりよほど早寝早起きであっただろうし、これなら彼らの言う「朝早く」から「明け方」まで時間の開きがあってもおかしくはない。 - tá は「そのとき、それから」という副詞で、アイスランド語 þá やデンマーク語 da に対応する。この hví tá はこのまとまりとして Jacobsen og Matras で „hvorfor det?“, Timmermann で „warum/wieso das?“ と出ているので、深く考えないほうがよいかもしれない。もしかするといまで言うところの心態詞的用法か?
- tí は「〜だから」という理由を表す接続詞として使われており、これはもともと人称代名詞の中性単数与格形である。アイスランド語 því と平行。単独でもこのように使えるが、av tí at (アイスランド語 af því að) という組みあわせでも言う。
ついでにデンマーク語 thi も同じく代名詞 den の古い格変化形に由来し同じ意味である。これは現代デンマーク語では古めかしく格式張った語だが、この時代にはまだ一般的でたとえばアンデルセンの童話にもふつうに使われている (fordi のほうが口語的であったが)。vænta「待つ、期待する」。einki は eingin「なにも」の中性単数対格。sjónum は sjógvur「海」の単数与格既知形 (sjógvinum という形もある)。この前半を直訳すれば「海でなにも〔得られると〕期待できない」ということ。seyði は seyður「羊」の単数与格。この単語はしばしば集合名詞的に用いられ、単数だが実際には多くの羊が意図されている。ラントはこの箇所のデンマーク語訳で脚注に „Svabos Efterretning“「スヴェアボの修正」と記し、本文で正しく „Faarene“ と複数既知形にしている。
ことわざ
Sjoldan kemur Du-Ungje eâf Rafes Æg.〔Sjáldan kemur dúvungi úr ravnseggi.〕カラスの卵からハトの雛が孵ることはめったにない。その心は:悪い親からよい子どもが生まれることはめったにない。〔ラントの eâf を見るかぎりここの前置詞は av のつもりに見えるが、現在通用しているものは前掲括弧内の úr の形。〕
Ommaala døjr ikkje.〔Ámæli doyr ikki.〕中傷は死なない。その心は:他人を中傷する者は、ついには翻って中傷される運命に違いないのである。
Got eer oufotun a beâsa.〔Gott er óføddum at bæsa.〕生まれていない者に勝つことは容易い。その心は:相手が誰もいないところで勝利を得ることは容易い。〔óføddum は複数与格。この節ほかの例文も似たり寄ったりだが、格言のためにかかなり変則的な語順である。〕
Ofta teâka Trodl gaua Manna Bødn.〔Ofta taka Trøll góða manna børn.〕邪霊 (トロル) はしばしば優れた者の子をさらっていく。こう言われるのは、尊重・崇敬さるべき人物の娘が惨めでその身分より下の男と結婚するときである。
Betri eer a oja end Braur a bija.〔Betri er [sjálvur] at eiga enn bróður at biðja.〕兄弟に乞うよりも〔自分で〕所有するのがよい。
Ojngjin vojt aa Modni a sia, qvær han aa Qvøldi gistir.〔Eingin veit á morgni at siga, hvar hann á kvøldi gistir.〕誰も朝のうちに自分が晩には誰の客となるか言うことはできない。その心は:誰も朝のうちには自分になにが起こるかわからない。
Ojngjin stingur anna Mans Badn so uj Barman, a Føterne hængje ikkje êut.〔Eingin stingur anna[rs] mans barn so í barmin, at føturni[r] hangi ikki út.〕誰もほかの人の子どもをその足が外にぶら下がらないように胸に突っこむことはない。〔stinga「(e-t í e-t …を〜に) 突き刺す」。barman はデンマーク語訳 Barmen に照らして barmur「胸」の単数対格既知形 barmin と解した。føturnir は fótur「足」の複数主格既知形。〕
Sjoldan kemur Flua uj Fojamannas Feâd.〔Sjáldan kemur fluga í feiga manna fat.〕Fojaman とは、運命の定めに従ってその年の終わりまでに死すべき者のことである。そのような者の皿からハエが出ることはめったにない〔と訳される〕。それゆえもしハエが料理に入るようなことが起これば、このことわざによると、人はその年のうちに死ぬはずではないというよい予兆であることになる。
依然として使われている古い人名のうちに以下のものが見られる:男性名。John. Haldan. Harald. Gulak. Gutte. Djone. Anfind. Ejdan. Guttorm. Kolbejn. Hejne. Likjir. Jeser. Øjstan. 女性名。Sunneva. Zigga. Ragnil. Femja. Armgaard.
そのほか注意に値することとして、フェーロー諸島人はいつも彼ら自身の言語を話すにもかかわらず、そのアクセントはノルウェー語におけるものといくぶん近いもので、彼らはしかしまたほとんど完全によくデンマーク語を理解するのであり、この言語でキリスト教が教えられ礼拝が執り行われ、じっさい彼らのうち多くは正確で上等なデンマーク語を話しさえするし、彼らの口から聞くこの言語こそはその他のデンマークの属領 (Provintser) に住む農村民衆のそれと比べてもはるかに明瞭できれいなのである。
Ommaala døjr ikkje.〔Ámæli doyr ikki.〕中傷は死なない。その心は:他人を中傷する者は、ついには翻って中傷される運命に違いないのである。
Got eer oufotun a beâsa.〔Gott er óføddum at bæsa.〕生まれていない者に勝つことは容易い。その心は:相手が誰もいないところで勝利を得ることは容易い。〔óføddum は複数与格。この節ほかの例文も似たり寄ったりだが、格言のためにかかなり変則的な語順である。〕
Ofta teâka Trodl gaua Manna Bødn.〔Ofta taka Trøll góða manna børn.〕邪霊 (トロル) はしばしば優れた者の子をさらっていく。こう言われるのは、尊重・崇敬さるべき人物の娘が惨めでその身分より下の男と結婚するときである。
〔副詞 ofta が文頭に出て倒置。単複同形の trøll はここでは複数で taka が 3 人称複数形。góða manna は複数属格 (未知形のため強変化) で børn の所有者を示している。現在であれば属格ではなく対格として所有者を後置か (しかしこれも 20 世紀後半のあいだに後退しつつある表現という)、あるいはもっと普及しているのは〈til + 対格〉か〈hjá + 与格〉の前置詞句である。さらに詳しくは Barnes and Weyhe 1994, pp. 207f. を見よ。〕
Tunt eer thæ Blau, ikkje eer tjukkare end Vatn.〔Tunt er tað blóð, [ið] ikki er tjúkkari enn vatn.〕水よりも濃くない血は薄い。
〔「血は水よりも濃い」の意、つまり他人より血縁者のほうが信頼できるという謂い。tunt は tunnur「薄い」の中性単数主格。コンマのあとには関係小辞 ið または sum を補うのが現代のふつうの言いかたで、これは関係節内で主語の役割であるから現代語では省略できない。tjúkkari は tjúkkur「濃い、厚い」の比較級。なお、これまでラントは teâ や tea と書いてきた現 tað をここだけ thæ というかなり異色な (まるで古デンマーク語に見える?) 表記をしている。〕
Betri eer a oja end Braur a bija.〔Betri er [sjálvur] at eiga enn bróður at biðja.〕兄弟に乞うよりも〔自分で〕所有するのがよい。
〔現在一般的な形は sjálvur「自分自身」を含んでおり、これを欠くと意味も通りづらいので脱字でないかと思うが、昔はそれでも通用したのかもしれない。enn「〜より」の前後でパラレルな文になっているように見えるがじつはそうではなくて、sjálvur は男性単数主格で、ここでは動詞 eiga の意味上の主語と同格として働いているに対し、bróður は bróðir「兄弟」の単数対格で、biðja「乞う、頼む」の目的語である。〕
Ojngjin vojt aa Modni a sia, qvær han aa Qvøldi gistir.〔Eingin veit á morgni at siga, hvar hann á kvøldi gistir.〕誰も朝のうちに自分が晩には誰の客となるか言うことはできない。その心は:誰も朝のうちには自分になにが起こるかわからない。
Ojngjin stingur anna Mans Badn so uj Barman, a Føterne hængje ikkje êut.〔Eingin stingur anna[rs] mans barn so í barmin, at føturni[r] hangi ikki út.〕誰もほかの人の子どもをその足が外にぶら下がらないように胸に突っこむことはない。〔stinga「(e-t í e-t …を〜に) 突き刺す」。barman はデンマーク語訳 Barmen に照らして barmur「胸」の単数対格既知形 barmin と解した。føturnir は fótur「足」の複数主格既知形。〕
Sjoldan kemur Flua uj Fojamannas Feâd.〔Sjáldan kemur fluga í feiga manna fat.〕Fojaman とは、運命の定めに従ってその年の終わりまでに死すべき者のことである。そのような者の皿からハエが出ることはめったにない〔と訳される〕。それゆえもしハエが料理に入るようなことが起これば、このことわざによると、人はその年のうちに死ぬはずではないというよい予兆であることになる。
依然として使われている古い人名のうちに以下のものが見られる:男性名。John. Haldan. Harald. Gulak. Gutte. Djone. Anfind. Ejdan. Guttorm. Kolbejn. Hejne. Likjir. Jeser. Øjstan. 女性名。Sunneva. Zigga. Ragnil. Femja. Armgaard.
そのほか注意に値することとして、フェーロー諸島人はいつも彼ら自身の言語を話すにもかかわらず、そのアクセントはノルウェー語におけるものといくぶん近いもので、彼らはしかしまたほとんど完全によくデンマーク語を理解するのであり、この言語でキリスト教が教えられ礼拝が執り行われ、じっさい彼らのうち多くは正確で上等なデンマーク語を話しさえするし、彼らの口から聞くこの言語こそはその他のデンマークの属領 (Provintser) に住む農村民衆のそれと比べてもはるかに明瞭できれいなのである。