mercredi 12 décembre 2018

18 世紀のフェーロー語瞥見

このあいだ「フェーロー語研究 (前) 史 1650–1900」というエントリで紹介したように、1800 年にデンマーク人の牧師・植物学者であった Jørgen Landt という人に『フェーロー諸島に関する記述の試み』(Forsøg til en Beskrivelse over Færøerne) という著作があり、この第 4 章 3 節 (s. 436–440) が「その言語について」(Om Sproget) と題しフェーロー語 (フェロー語) の解説を行っているのであった。

本稿ではこの部分の訳出紹介を試みようと思う。これは 1800 年という年代に照らして知られるとおり、まだ正書法すなわちフェーロー語の単語をどのようにつづったらよいかの指針すら定まっていなかった時期のこと (この間の消息は前エントリで詳述した)、解説の内容じたいもさることながら、フェーロー語をどのように書き表わそうとしたかその努力にも興味がある。もっともラントはラスクのような専門の言語学者ではなく、かつ当時はほかに頼れる文献もなかったゆえであろう、表記の不徹底・不注意さやフェーロー語そのものの理解に難がある部分も散見される (日本人になじみのある例で言うと 16 世紀ころのポルトガル人やスペイン人による日本語の説明や日本地図の表記で起こったのと同じことである)。

訳では現代フェーロー語のつづりに修正したものも逐一併記し、デンマーク語も 200 年以上昔のものなので現代語と異なる場合にはこれも付記した (違いが名詞の大文字書きのみの場合は特記せず)。ラントの誤解によるものか、フェーロー語がふつう見出し語形とする単数主格未知形ではなく斜格や既知形 (定形) になっている場合があり、あるいはデンマーク語と定不定が一致していない場合があるので、そのさいはすべて注記した (特記なき場合は単数主格未知形)。また原文では区別していないが、ここではわかりやすいようフェーロー語をイタリック、デンマーク語をローマンで区別した。補足説明が必要な場合、亀甲括弧〔・〕に入れて示すか、長いものは * などの印を付して字下げした段落に述べた。

ここで試みられているフェーロー語表記を見れば、この言語の発音は 18 世紀の時点ですでにほぼ現在のとおりであったことが知られる。ラントのつづりから現行の正書法によるつづりを導きだすのはなかなか困難な作業であったが、デンマーク語訳が付されていることに助けを得て、また同時代の仕事であるスヴェアボの辞書 Dictionarium Færoense とも照らしあわせつつ誤りのなきを期した。しかし調査が及ばない部分も一部に残ってしまった。




§. 3.
言語について

フェーロー語 (det færøeske Sprog) は余所の者には最初のうちきわめて理解不能のように思われるが、〔われわれデンマーク人にとっては〕待つこともなく理解できるようになる;というのは単語の大部分が古いデンマーク語、あるいはむしろノルウェー語であって、歪められた発音が奇妙な見せかけを与えている〔だけ〕だからである。それは以下のようである〔次の単語の列挙は原文では左右 2 段組。上の画像のとおり〕:
  • a spujsa at spiise.〔現 at spisa*, at spise。食べる、食事する〕
  • a triqve at troe.〔現 at trúgva, at tro。思う〕
  • a smuja at smedde.〔現 at smíða, at smede。(鉄などを) 打つ、鍛える〕
  • a sejma at sye.〔現 at seyma, at sy。縫う〕
  • a gænga at gaae〔現 at ganga, at gå。行く、歩く〕
  • a standa at staae.〔現 at standa, at stå。立っている、立つ〕
  • a regva at roe.〔現 at rógva, at ro。漕ぐ〕
  • a sujgja at see.〔現 at síggja, at se。見る〕
  • Fræ, Frøe, Sædekorn.〔現 fræ。穀物の種〕
  • Sjegverin, Søen.〔現 sjógvurin。湖、海 (既知形)〕
  • ojn Skegv, en Skoe.〔現 ein skógv [ein skógvur の対格], en sko。靴 (の片方)〕
  • Løret, Lærred.〔現 lørift。亜麻布〕
  • ojn Baug, en Bog.〔現 ein bók。本〕
  • Ditnar, Dør.〔現 dyrnar [dyr (複数のみ) の主・対格既知形]。扉 (デンマーク語訳は単数未知形)〕
  • Pujpa, Pibe.〔現 pípa。パイプ〕
  • Høddet, Hovedet.〔現 høvdið [høvd または høvur の既知形]。頭 (既知形)〕
  • Skortin, Fjæs (Ansigt)〔現同 [skortur の対格既知形]。顔 (デンマーク語訳は未知形)〕
  • Ejen, Øjnene.〔現 eygum** [eyga の複数与格]。目 (デンマーク語訳は複数既知形)〕
  • Nøsin, Næsen.〔現同 [nøs の既知形]。鼻 (既知形)〕
  • Muveren, Munden.〔現 muðurin [muður の既知形]。口 (既知形)〕
  • Høkan, Hagen.〔現同 [høka の既知形]。顎 (既知形)〕
  • Øjrene, Ørerne.〔現 oyruni [oyra の複数主・対格既知形]。耳 (複数既知形)〕
  • Mæjin, Maven.〔現 magin [magi の既知形]。腹 (既知形)〕
  • Bojnene, Beenene.〔現 beinini [bein の複数主・対格既知形], benene。脚 (複数既知形)〕
  • Brej, Brød.〔現 breyð。パン〕
  • Bødn, Børn.〔現 børn [barn の複数主・対格]。子ども (複数形)〕
  • Talve, Tavle.〔現 talvu*** [talva の対・与・属格]。平らな板、黒板〕
  • Knujv, Kniv.〔現 knív [knívur の対格]。ナイフ〕
  • Song, Seng.〔現同。ベッド〕
  • Gjadn, Jern.〔現 jarn。鉄〕
* 現代フェーロー語では使わず、Jacobsen og Matras のフェーロー語・デンマーク語辞典 Føroysk-donsk orðabók (2. útg., 1963) や Jóhan Hendrik W. Poulsen ほか編 (1998) のフェーロー語国語辞典 Føroysk orðabók には立項されていない。デンマーク語からの借用語であったと思われ、Jógvan við Ánna, Føroysk málspilla og málrøkt IV (1977) に見いだされた。スヴェアボには spujssa として出ている。

** eyga「目」の複数は、未知形で主・対格 eygu(r), 与格 eygum, 属格 eygna, また既知形で主・対格 eyguni, 与格 eygunum, 属格 eygnanna である。このうちラントの記す Ejen にいずれが近いかという問題だが、既知形は音節数があわないので除外し、未知形のうち [n] の音で終わるのは eygum しかないのでこれをあてはめた (フェーロー語の名詞類複数与格の -um は [-ʊn] と発音される)。

*** talve の -e をどう受けとるかには異論の余地もあろうが、ラントのほかの記法を見るかぎり、彼は原則として a は正しく a と聞きとっているに対して、アクセントのない i および u を一律に e としがちな傾向がある (muðurinMuverenoyruniØjrene とするなど)。さらに斜格を見出し語に取り違えてしまう例のあることも見てのとおりである (ojn Skegv, Skortin, Knujv)。それゆえこの語も主格 talva ではなく talvu のつもりと解した。

だがフェーロー語には多くの特異な点もあり、それらについて若干を列挙したいと思う。たとえば次のようである〔前と同じく原文 2 段組。また、形容詞で性による違いがある場合、ラントはローマン体 (本文のブラックレターに対して) で hic, hæc, hoc; hi, hæ というラテン語の指示代名詞を用いて性を明示している。なおコンマやピリオドの有無が不統一なのはすべて原文どおり〕:
  • a qvuja at frygte.〔現 at kvíða。恐れる、不安に思う〕
  • a atla, tænke, slutte.〔現 at ætla。〜するつもりである〕
  • a kujla, dræbe.〔現 kíla。殺す。フェーロー語 kíla は Jacobsen og Matras によれば現在ではまれ〕
  • a fjoltra, skjelve.〔現 at fjøltra (?)*, at skælve。震える〕
  • a tarna, forsinke.〔現 at tarna。邪魔する、阻止する、遅らせる〕
  • a hikja, see.〔現 at hyggja, se。じっと見る、見まわす、観察する。ラントのデンマーク語訳 se はたんに「見る」だが、詳細別記**〕
  • Ogn, Ejendom.〔現同。財産、とくに土地・不動産。〕
  • Huur, Dør.〔現 hurð。扉〕
  • Got, Dørstolpe.〔不明。dørstolpe は戸枠、扉を据えつけるところの枠や柱のことだが、それをそのままフェーロー語に直すと durastavur となる。got という音に対応しそうなつづり (たとえば gott) で似た意味の語は見つからず〕
  • Likel, Nøgel.〔現 lykil, nøgle。鍵〕
  • Munere, Forskjel.〔現 munur。差、違い〕
  • Tkjæk, Disputeren.〔現 kjak。口論、論争〕
  • Tkjolk, Kind.〔現 kjálki。頬〕
  • Vørren, Læben.〔現 vørrin [vørr の既知形]。唇 (既知形)〕
  • Ylverin, Drøvelen.〔現 úlvurin [úlvur の既知形]。口蓋垂 (既知形)。úlvur は同音同綴で「狼」の意もあるが、デンマーク語訳 drøvelen (= drøbelen) に従った。〕
  • Spjarar, Pjalter.〔現 spjarrar [spjørr の複数主格]。ぼろきれ、くず〕
  • qviik, hurtig.〔現 kvik, hurtigt [-ig の形容詞の副詞的用法が様態を表す場合、現代では -t]。速く、急いで〕
  • erqvisin, ømskindet.〔現 erkvisin。敏感な、脆弱な、傷つきやすい〕
  • fit, flink, ferm.〔現 fitt [fittur の中性]。器用に、巧みに〕
  • prud, pyntet.〔現 prútt [prúður の中性]。堂々として、華美に、派手に〕
  • hunalir, tækkelig.〔現 hugnaligur。楽しい、心地よい〕
  • hic vækur.
  • hæc vøkur.  } vakker.〔現 vakur, vøkur, vakurt。きれいな、美しい〕
  • hoc vækurt
  • reak, maver.〔現 rak。痩せこけた、貧相な。デンマーク語 maver は mager の古い異綴〕
  • bujt, halvtosset.〔現 býtt [býttur の中性]。愚かに、間抜けに〕
  • raaka, topmaalt.〔現 rokað [rokaður の中性], topmålt。まったく、徹底的に〕
  • hic lofnavur
  • hæc lofnad  } kold〔現 lofnaður, lofnað。かじかんだ。ラントのデンマーク語訳 kold はたんに「寒い」だが、Jacobsen og Matras の説明では „stiv af kulde om hænderne (fingerne)“「手や指が寒さでこわばっている」さまを言う〕
  • hic gæmalor
  • hæc gomal   } gammel.〔現 gamalur***, gomul, gamalt。古い、年老いた〕
  • hoc gæmalt
  • hi trytjir
  • trytjar } tre.〔現 tríggir, tríggjar (中性 trý)。(基数詞の) 3〕
  • imist, forskjellig.〔現 ymiskt または ymist [発音は同じ。ymiskur または ymissur の中性形], forskelligt [前掲 hurtigt の注を参照]。さまざまに〕
  • ivarlest, uden Tvivl.〔現 ivaleyst。疑いなく、確かに〕
  • korteldin, alligevel.〔現 kortildini [= kortini, korti]。それにもかかわらず、〜であるけれども〕
* 現代のフェーロー語辞典には見いだされないが、スヴェアボに中性名詞 Fjøltur が立項されており、それに対応していた動詞形ではないか。

** スヴェアボの語釈 (higgja の項) では « circumspicere »「見まわす」、« oculis perlustrare »「目を通す」、« oculos advertere »「目を向ける」、« collustrare oculis »「目で精査する」などとされている。しかし Jacobsen og Matras による現代語では betragte「観察する」より先に se, kigge「ちらっと見る、のぞき見る」、se (kaste et blik) på「一瞥する」が出る。

*** ラントの gæmalor という表記から推して男性単数主格語尾に音節を加えたが、規範的には現在 gamal である。語尾をもつ gamalur という形は現代でも話し言葉においてしばしば見られる (Thráinsson et al. 2012: p. 103, n. 3)。

フェーロー語の見本として、2 人の農夫のあいだの会話を、その翻訳を加えつつ書き写してみよう〔文番号は原文にない。またこれより下はほぼすべてフェーロー語なのであえてイタリックにはしない〕:
  1. Geûan Morgun! Gud signe tee! Qveât eru Ørindi tujni so tujlja aa Modni?
  2. E atli meâr tiil Utireurar.
  3. Qvussu eer Vegri? qvussu eer Atta?
  4. Teâ eer got enn, men E vajt ikkji, qvussu teâ viil teâka se up mouti Dei.
  5. Viil tu ikkji feâra vi?
  6. Naj!
  7. Qvuj taa?
  8. Tuj E vanti mêar ajnkji aa Sjeunun, o tea eer betri a feâra eât Seji.
〔現代フェーロー語の正書法に改めると次のとおり:
  1. Góðan morgun! Gud signi teg! Hvat eru ørindi tíni so tíðliga á morgni?
  2. Eg ætli mær til útiróðrar.
  3. Hvussu er veðrið? Hvussu er ættað?
  4. Tað er gott enn, men eg veit ikki, hvussu tað vil taka seg upp móti degi.
  5. Viltú [= Vilt tú] ikki fara við?
  6. Nei!
  7. Hví tá?
  8. Tí eg vænti mær einki á sjónum, og tað er betri at fara at seyði.〕
デンマーク語では〔ここでは日本語にする〕:
  1. おはよう。神の祝福が君にあるように。こんな朝早くになんの用だ?
  2. 釣りに出ようと思ってな。
  3. 天気はどうだ? 風向きは?
  4. まだ良好だよ、だが明け方にはどうなるかわからん。
  5. 一緒に行かないか?
  6. いいや。
  7. なんで?
  8. なんか釣れるとは思えないし、羊たちの世話をするほうがいいからだよ。
〔文法の解説はないので、ここでは私が独自に付す:
  1. signi は signa「祝福する」の接続法。フェーロー語の接続法はきわめて衰退しており、現在形しかなくまた人称および数の別なく同形で、このように決まった言いまわしにのみ用いる。ørindi「用事、使い」は単複同形の中性名詞。ここでは複数であることが tíni「君の (tín の中性複数主・対格)」と eru「〜である (vera の現在複数)」との一致から知られる。
  2. ætla「〜するつもりである」のあとの再帰代名詞 sær (ここでは mær) はあってもなくてもよい (少なくとも現代語では)。する内容には at 不定詞をとるが、ここでは動詞なしに使われている。útiróðrar は útiróður「漁、船釣り」の単数属格。úti- は út- とも。このように前置詞 til「〜へ」は本来属格を支配したが (アイスランド語では現在もそう)、いまのフェーロー語では属格はかなり廃れて決まり文句か文語にのみ用い、til のあとには対格がふつう。
  3. ættaður はこの言いまわしにしか使わない形容詞で、ættað は中性形。男性形で Hvussu er hann ættaður? とも言える (これは 3 人称単数男性の人称代名詞 hann を天候を表す仮主語にした表現)。名詞 ætt「向き、方角」を使って言う Hvaðan er ættin? も同じ意味。
  4. 天候を表す仮主語 tað。veit は vita「知っている」の直説法現在 1 人称単数、これはいわゆる過去現在動詞で特殊な活用をする。taka seg upp は「上昇・増加・発展する」で、天気について言う場合「発達する、なる、変わる」ということ。ここでは文脈から悪くなることが想定されているが、よくなる場合にも言える。
    「朝早く」に来てまだ「明け方」まで時間があるとは不思議に思われるが、北緯 60 度を越えるフェーロー諸島の日の出の時間は季節によって大きく変わり、試しに本日 12 月 12 日のそれを調べてみたら現地時間で朝 9 時 41 分であった (ちなみに日の入りは 14 時 59 分、たった 5 時間あまりしか日が出ていない!)。電灯のない 18 世紀の農民はいまの私たちよりよほど早寝早起きであっただろうし、これなら彼らの言う「朝早く」から「明け方」まで時間の開きがあってもおかしくはない。
  5. tá は「そのとき、それから」という副詞で、アイスランド語 þá やデンマーク語 da に対応する。この hví tá はこのまとまりとして Jacobsen og Matras で „hvorfor det?“, Timmermann で „warum/wieso das?“ と出ているので、深く考えないほうがよいかもしれない。もしかするといまで言うところの心態詞的用法か?
  6. tí は「〜だから」という理由を表す接続詞として使われており、これはもともと人称代名詞の中性単数与格形である。アイスランド語 því と平行。単独でもこのように使えるが、av tí at (アイスランド語 af því að) という組みあわせでも言う。
    ついでにデンマーク語 thi も同じく代名詞 den の古い格変化形に由来し同じ意味である。これは現代デンマーク語では古めかしく格式張った語だが、この時代にはまだ一般的でたとえばアンデルセンの童話にもふつうに使われている (fordi のほうが口語的であったが)。
    vænta「待つ、期待する」。einki は eingin「なにも」の中性単数対格。sjónum は sjógvur「海」の単数与格既知形 (sjógvinum という形もある)。この前半を直訳すれば「海でなにも〔得られると〕期待できない」ということ。seyði は seyður「羊」の単数与格。この単語はしばしば集合名詞的に用いられ、単数だが実際には多くの羊が意図されている。ラントはこの箇所のデンマーク語訳で脚注に „Svabos Efterretning“「スヴェアボの修正」と記し、本文で正しく „Faarene“ と複数既知形にしている。
この一連の文章を見てもラントの表記法が不注意であることが知られる。たとえば語頭の子音以外はまったく同じ音韻的環境にある代名詞 eg, teg, seg の e が E, tee, se とばらばらにつづられている。また彼は (同時期のほかの著者と同様に) eâ や eû のようにサーカムフレックスを用いて一部の二重母音を記すが、同じ mær「私に」が 2 文めでは meâr、8 文めでは mêar と別様に書かれているし、同じく 8 文めでは Sjeunun, tea とサーカムフレックスなしの二重母音が見えるがこれはほかの箇所の teâ や Geûan と不整合である。〕


ことわざ

Sjoldan kemur Du-Ungje eâf Rafes Æg.〔Sjáldan kemur dúvungi úr ravnseggi.〕カラスの卵からハトの雛が孵ることはめったにない。その心は:悪い親からよい子どもが生まれることはめったにない。〔ラントの eâf を見るかぎりここの前置詞は av のつもりに見えるが、現在通用しているものは前掲括弧内の úr の形。〕

Ommaala døjr ikkje.〔Ámæli doyr ikki.〕中傷は死なない。その心は:他人を中傷する者は、ついには翻って中傷される運命に違いないのである。

Got eer oufotun a beâsa.〔Gott er óføddum at bæsa.〕生まれていない者に勝つことは容易い。その心は:相手が誰もいないところで勝利を得ることは容易い。〔óføddum は複数与格。この節ほかの例文も似たり寄ったりだが、格言のためにかかなり変則的な語順である。〕

Ofta teâka Trodl gaua Manna Bødn.〔Ofta taka Trøll góða manna børn.〕邪霊 (トロル) はしばしば優れた者の子をさらっていく。こう言われるのは、尊重・崇敬さるべき人物の娘が惨めでその身分より下の男と結婚するときである。

〔副詞 ofta が文頭に出て倒置。単複同形の trøll はここでは複数で taka が 3 人称複数形。góða manna は複数属格 (未知形のため強変化) で børn の所有者を示している。現在であれば属格ではなく対格として所有者を後置か (しかしこれも 20 世紀後半のあいだに後退しつつある表現という)、あるいはもっと普及しているのは〈til + 対格〉か〈hjá + 与格〉の前置詞句である。さらに詳しくは Barnes and Weyhe 1994, pp. 207f. を見よ。〕

Tunt eer thæ Blau, ikkje eer tjukkare end Vatn.〔Tunt er tað blóð, [ið] ikki er tjúkkari enn vatn.〕水よりも濃くない血は薄い。

〔「血は水よりも濃い」の意、つまり他人より血縁者のほうが信頼できるという謂い。tunt は tunnur「薄い」の中性単数主格。コンマのあとには関係小辞 ið または sum を補うのが現代のふつうの言いかたで、これは関係節内で主語の役割であるから現代語では省略できない。tjúkkari は tjúkkur「濃い、厚い」の比較級。なお、これまでラントは teâ や tea と書いてきた現 tað をここだけ thæ というかなり異色な (まるで古デンマーク語に見える?) 表記をしている。〕

Betri eer a oja end Braur a bija.〔Betri er [sjálvur] at eiga enn bróður at biðja.〕兄弟に乞うよりも〔自分で〕所有するのがよい。

〔現在一般的な形は sjálvur「自分自身」を含んでおり、これを欠くと意味も通りづらいので脱字でないかと思うが、昔はそれでも通用したのかもしれない。enn「〜より」の前後でパラレルな文になっているように見えるがじつはそうではなくて、sjálvur は男性単数主格で、ここでは動詞 eiga の意味上の主語と同格として働いているに対し、bróður は bróðir「兄弟」の単数対格で、biðja「乞う、頼む」の目的語である。〕

Ojngjin vojt aa Modni a sia, qvær han aa Qvøldi gistir.〔Eingin veit á morgni at siga, hvar hann á kvøldi gistir.〕誰も朝のうちに自分が晩には誰の客となるか言うことはできない。その心は:誰も朝のうちには自分になにが起こるかわからない。

Ojngjin stingur anna Mans Badn so uj Barman, a Føterne hængje ikkje êut.〔Eingin stingur anna[rs] mans barn so í barmin, at føturni[r] hangi ikki út.〕誰もほかの人の子どもをその足が外にぶら下がらないように胸に突っこむことはない。〔stinga「(e-t í e-t …を〜に) 突き刺す」。barman はデンマーク語訳 Barmen に照らして barmur「胸」の単数対格既知形 barmin と解した。føturnir は fótur「足」の複数主格既知形。〕

Sjoldan kemur Flua uj Fojamannas Feâd.〔Sjáldan kemur fluga í feiga manna fat.〕Fojaman とは、運命の定めに従ってその年の終わりまでに死すべき者のことである。そのような者の皿からハエが出ることはめったにない〔と訳される〕。それゆえもしハエが料理に入るようなことが起これば、このことわざによると、人はその年のうちに死ぬはずではないというよい予兆であることになる。

依然として使われている古い人名のうちに以下のものが見られる:男性名。John. Haldan. Harald. Gulak. Gutte. Djone. Anfind. Ejdan. Guttorm. Kolbejn. Hejne. Likjir. Jeser. Øjstan. 女性名。Sunneva. Zigga. Ragnil. Femja. Armgaard.

そのほか注意に値することとして、フェーロー諸島人はいつも彼ら自身の言語を話すにもかかわらず、そのアクセントはノルウェー語におけるものといくぶん近いもので、彼らはしかしまたほとんど完全によくデンマーク語を理解するのであり、この言語でキリスト教が教えられ礼拝が執り行われ、じっさい彼らのうち多くは正確で上等なデンマーク語を話しさえするし、彼らの口から聞くこの言語こそはその他のデンマークの属領 (Provintser) に住む農村民衆のそれと比べてもはるかに明瞭できれいなのである。

dimanche 9 décembre 2018

フェーロー語強変化動詞の分類

フェーロー語 (フェロー語) はアイスランド語に比べれば変化が進んでいるとはいえ、ゲルマン祖語にあった強変化動詞の 7 分類をアイスランド語と同じくそれと明瞭に見てとれる形で現在も残している古風な言語である。

私はゲルマン語一般の研究および研究史についてはとんと暗いほうなので、前記事で紹介したラスクによる 1811 年のアイスランド語文法以来どのようにして動詞の活用分類が現行の形と順番に落ちついたのか知るよしもないが、わかっているのは遅くとも Prokosch による 1938 年の定評あるゲルマン語比較文法の時点ではすでにそのとおり完成されているということである。

現代のフェーロー語文法を手当たりしだいに見比べてみると、少なくとも強変化動詞については、Prokosch や Gordon and Taylor に見るようなゲルマン祖語・古ノルド語文法におけるアプラウト系列の分類・番号づけをそのまま継承した呼び名になっているように見える。

フェーロー語文法として以下のもの (並びは刊行年の新しい順) を参照し、略号として著者名の頭文字を用いる:
  • [TPJH] Höskuldur Thráinsson, Hjalmar P. Petersen, Jógvan í Lon Jacobsen, and Zakaris Svabo Hansen (2012). Faroese: An Overview and Reference Grammar.
  • [DM] Kári Davidsen og Jonhard Mikkelsen (2011). Ein ferð inn í føroyskt. 2. útg.
  • [PA] Hjalmar P. Petersen and Jonathan Adams (2009). Faroese: A Language Course for Beginners. Grammar.
  • [AD] Paulivar Andreasen og Árni Dahl (1997). Mállæra.
  • [H] Jeffrei Henriksen (1983). Kursus i færøsk II.
  • [L] William B. Lockwood (1955). An Introduction to Modern Faroese.
  • [K] Ernst Krenn (1940). Föroyische Sprachlehre.
これらのうち、古いほうに属する K および L を除いて、すべての文法で強変化動詞はゲルマン祖語・アイスランド語のそれと一致する 7 分類が行われている。すなわち、強変化 I 類とは (2 番めに現在単数を入れる 5 項の書きかたもあるがここでは除いて) 不定法・過去単数・過去複数・完了分詞の順に í–ei–i–i というアプラウトのパターンを呈するもの、II 類とは ú/ó–ey–u–o、III 類とは代表的には e–a–u–u/o、といった要領で、番号づけも同じものを使っているのである。

(注 1) ここでゲルマン語・古ノルド語の知識がある人には II 類過去単数の ey がひっかかったかもしれないが、古ノルド語の二重母音 au は規則的にフェーロー語の ey に対応するのでこれでよいのである (たとえば中性複数代名詞 ON. þau 対 Før. tey「それら」や、基数詞の「7」ON. sjau 対 Før. sjey、名詞 ON. auga 対 Før. eyga「目」といった基本的な例が挙げられる)。

(注 2) 非常に古い K (これは実質的には 1908 年の Jákup Dahl のフェーロー語文法の翻訳だとも言われる) はしかたないとして、L がかなり大雑把な分類をしていることは少し不思議である。彼の分類では I 類から III 類までは現在主流のものに一致し、そのうち III 類は 3-1 と 3-2 に細かく分けているのだが、その次に来るのが ‘Miscellaneous vowel changes’ として現行の IV 類から VII 類までをすべてごちゃまぜにした ‘Class 4’ なのである。

なお K はどうかというと、これは意外にも番号が違うだけでほぼ現在の分類と平行している。すなわち K の言う強変化第 1 類は現在の III 類、第 2 類が IV 類と V 類の合併、第 3 類は VI 類、第 4 類が I 類、第 5 類が II 類、そして第 6 類 (これは 6A と 6B に細分されているが) は VII 類にあたっている。

ただし分類がそのとおり祖語や古語のアプラウトの 7 系列に沿って行われているとしても、現代フェーロー語の個別の動詞がどの類に属することになるかは共時的な記述の問題である。たとえば古ノルド語で IV 類とされていたある動詞に対応する同じ語が現代語でもかならず IV 類にあたるとは限らない。実際には類間の移動どころか強変化だったものが弱変化になることさえままあるのである。

また、7 分類そのものの大枠の特徴づけは一致しているとしても、フェーロー語の経た発達の結果として、パターンの記述が複雑になりがちなきらいはある。たとえば TPJH と PA は一致して強変化 V 類の「主な母音交替」(main vowel alternations) のパターンとして、1. e–a–ó–i, 2. i–á–ó–i, 3. e–á–ó–e, 4. ø–a–ó–ø, 5. i–á–ó–æ, 6. e–a–ó–e という 6 通りを掲げているが、これらに間違いなく共通しているのは過去複数の ó だけで、あとは過去単数でアクセント記号があったりなかったりする a/á、残りの不定法と完了分詞の母音では共通点を探すことも難しい (なおフェーロー語の ø は前舌ではない)。

このように、不定法 (や現在) ならびに完了分詞では母音のバリエーションが多様なため、H のように各類の特徴づけをただ過去単数と過去複数のみによって説明している本もある。以下の解説では AD (bls. 34) をベースにして各類のうちもっとも主要なるアプラウトパターンを最初に示し、細かな差異は都度補っていくこととする。

フェーロー語の強変化動詞 I 類は、í–ei–i–i という系列で特徴づけられる。これはラスクが対応するアイスランド語文法の「第 2 活用第 3 類」についてもっとも単純と評したとおり (前記事参照)、種々のバリエーションの例外というものに煩わされることのない簡単なパターンである。代表例は bíta「噛む」で、過去単数 beit, 過去複数 bitu, 完了分詞 bitið と活用する。ほか、blíva「〜になる」、grípa「つかむ」、skína「輝く」、svíkja「だます」などを全員が一致してここに挙げている。ドイツ語の ei–i–i (beißen–biß–gebissen, greifen–griff–gegriffen) あるいは ei–ie–ie (bleiben–blieb–geblieben, scheinen–schien–geschienen) と並行していることが見てとれる。

II 類は ú/ó–ey–u–o で、代表例は bróta「壊す」(現在 3 単 brýtur)、過単 breyt, 過複 brutu, 完分 brotið である。このように現在形で母音変異 (これはウムラウト) が起こる場合もあるので、親切な本 (DM や AD) は系列を ó–ý–ey–u–o のように 5 項で記している。またこの類に属する特殊な活用として、leypa–loypur–leyp–lupu–lopið「跳ぶ」が特別に言及されている場合がある (DA および L)。しかし現在で ó が ý に、ey が oy になるのは i-ウムラウトの規則的な適用であるから、それを知っていればじつは新しく覚えることはない (ただし VII 類に分類する人もいる。後述)。

III 類は e/i–a–u–u/o で、その 4 通りをすべて列挙すると brenna–brann–brunnu–brunnið「燃やす」、sleppa–slapp–sluppu–sloppið「逃げる」、binda–bant–bundu–bundið「縛る」、svimja–svam–svumu–svomið「泳ぐ」が見いだされる。brenna 型として drekka「飲む」や renna「流れる」、binda 型として finna「見つける」を代わりに用いてもよいであろう。

驚くことに、H はこの類に verða「なる、起こる」を含めている。これの時制変化は彼じしん書いているように varð–vórðu–vorðið であって過去複数が ó であるから、本当のところはすぐ下の IV 類に入れられるべきものである (DM と AD ではそうなっている)。なぜ H がそうしたのかは判然としないが、古ノルド語では verða は III 類に属していた (varð–urðu–orðinn) こととひょっとして関係があるのかもしれない。

IV 類は e–a–ó–o がもっとも典型的なパターンで、次の V 類との違いはもっぱら過去分詞の母音だけである (それゆえ前述のように K がこの 2 つの類を区別しなかったのは理由のないことではない)。代表に挙げられることの多い動詞は bera–bar–bóru–borið「運ぶ」または nema–nam–nómu/numu–nomið「とる」(独 nehmen)。また不定法の母音が o のパターンもあり、そこには sova–svav–svóvu–sovið「眠る」や koma–kom–komu–komið「来る」が属している。

最後の koma は過去単数が a でなく o になっているがこれは古ノルド語の時点からそうで、もと *kwam の wa が w の影響で wo に変わりのちに w が消失したのである (Gordon and Taylor, §§51, 63)。いま挙げた 4 つの動詞はすべて ON. でも IV 類であったが、しかし ON. sofa はさらに元来は V 類に属していたという (Ibid., §130)。

奇妙なこととして、AD は vera–var–vóru–verið (英語の be 動詞にあたる語) をこの IV 類に含めているのだが、これは他書 TPJH, PA, H では V 類である。すでに注意したとおり IV 類と V 類の違いは主に過去 (完了) 分詞の母音であるから、verið の e は IV 類の o よりは V 類の i に近いのではなかろうか?

V 類を特徴づけるアプラウトパターンはとりあえず e–a–ó–i と言っておく。しかし前述したとおり TPJH と PA はこの「主な母音交替」を 6 通り掲げるなど、一言で説明するのが難しい一筋縄でいかないグループである。e–a–ó–i 型の代表例は geva–gav–góvu–givið「与える」あるいは drepa–drap–drópu/drupu–dripið「殺す」が挙げられることが多い。

そのほか、分詞が e になる e–a–ó–e 型 (すぐ上で注記した vera が属する)、さらに過去単数が á になる e–á–ó–e 型 (eta–át–ótu–etið「食べる」)、最初と最後が i になる i–a–ó–i 型 (sita–sat–sótu–sitið「座る」や biðja–bað–bóðu–biðið「請う」) と、同じく最初と最後が ø である ø–a–ó–ø 型の kvøða–kvað–kvóðu–kvøðið「歌う、詠唱する」、そしてこれらと比べればかなり特異に見える í–á–ó–æ の交替を示す síggja–sá–sóu–sæð/sætt「見る」がある。

ただしこの最後のものについては困難があること、TPJH, p. 146 が「síggja『見る』の母音交替はまったく不規則であり、この動詞がそもそもここに挙げられたほかの動詞といっしょに分類されるべきかどうかすら議論の余地がある」(The vowel alternations of síggja ‘see’ are quite irregular, so it is debatable whether the verb should at all be classified with the other verbs listed here.) と評価するとおりである。

私見では、ø–a–ó–ø の kvøða とてかならずしも納得しやすいわけではない。共時態を見るとき、フェーロー語において e や i がなんらかの作用によって ø に変わることはありえないのであるから、これはむしろ IV 類の o–a–ó–o の特殊例とみなしたほうが理解しやすい気がする。しかし事実を言うとこれは古ノルド語の kveða (e–a–ó–e, すなわち V 類) から変化して生じた語形であるからここに属せしめることが正当なのである。この動詞を V 類とすることでは TPJH, PA, H が一致しており異論はない (DM および AD には見いだされない。また K では第 2 類 [= IV+V 類]、L では第 4 類 [= IV+V+VI+VII 類] の粗い分類だが少なくとも反対的ではない)。

VI 類は a–ó–ó–a のほか、細かく言えば a–ó–ó–i, á–ó–ó–i, ø–ó–ó–o というパターンが主にあるが、いずれにせよ過去単数・複数がともに ó であるという特異な性質を共有している。代表例は fara–fór–fóru–farið「(乗り物で) 行く」、standa–stóð–stóðu–staðið「立つ」、taka–tók–tóku–tikið「とる」など重要で基本的な単語が多い。不定法が á の例は sláa–sló–slógu–sligið「殴る」、ø の例は svørja–svór–svóru–svorið「誓う」がある。

VII 類にアプラウト系列の規範を立てようとすることはほとんど不可能に見える。TPJH, PA は 8 種類の下位分類を設けているが、これはほとんど無秩序に観察事実を並べただけのように見える。ともあれその 8 つのうち最初に置かれているのが a–e–i–i という系列で、これは AD も bls. 34 では VII 類の代表のように言っているが、同書は実際に活用を論じる bls. 126 に至ってはパターンを挙げることを断念している。DM および H はこの類に母音交替の型を示さず、ただこのグループを畳音動詞 (重複動詞、tvífaldanarsagnorð, reduplikationsverb) と呼んでいる。

例としては halda–helt–hildu–hildið「保つ;考える」、ganga–gekk–gingu–gingið「行く、歩く」、falla–fall–fullu–fallið「落ちる」、fáa–fekk–fingu–fingið「得る」、eita–æt–itu–itið「〜という名である」、lata–læt–lótu–látið「させる」などがある。古ノルド語の対応語を示すと、順に halda, ganga, falla, fá, heita, láta/lata である。TPJH, PA および H はなぜかここに leypa を含めているが、これはすでに検討したように II 類として説明可能である。おそらく古ノルド語の hlaupa(–hljóp–hljópu–hlaupinn, VII 類) を意識しての分類ではないか。

ラスクによるアイスランド語動詞の活用分類

強変化・弱変化という名づけこそヤーコプ・グリムにちなむものの、アイスランド語の動詞活用の形式にこの二大分類を認めたのはやはりラスムス・ラスクが最初の人であった。彼はあの 1811 年のアイスランド語文法 Vejledning til det islandske eller gamle nordiske Sprog において、なるほど無味乾燥な名ではあるがそれを第 1 活用・第 2 活用 (弱のほうが第 1) と呼んだのであった (s. 111):
Den første af disse Konjugatsioner endes i 3. Person Imperf. paa -di eller -ti, og i Partis. Pass. paa -dr eller -tr, f. Eks. baka bage, bakadi, bakadr; brenna brænde, brenndi, brenndr; den anden gjør Imperf. til Enstavelsesord, som almindelig endes paa den Medlyd, der stod foran a i Infinitivet, og som tillige gjerne forandrer Selvlyden i den første Stavelse; i det passive Partisip endes den paa -inn, f. Eks. taka tage, tók, tekinn; renna rinde, rann, runninn.〔強調原文、ただしボールドとイタリックの区別は引用者による。〕
「これらの活用のうち第 1 のものは、未完了〔=過去〕3 人称が -di または -ti で、受動分詞が -dr [= -ðr] または -tr で終わる。例として baka「(パンなどを) 焼く」〔英 bake〕, bakadi, bakadr;brenna「燃やす」, brenndi, brenndr。第 2〔の活用〕は未完了〔=過去〕を単音節語で作り、それはふつう不定法〔語尾〕の a の前に立つ子音で終わるもので、かつまた概して第 1 音節における母音を変化させるものである。その受動分詞は -inn で終わる。例として taka「とる」〔英 take〕, tók, tekinn;renna「流れる、漏れる」〔英 run〕, rann, runninn。
ところがラスクが間違えたと言ってよいものか、今日の目から見て不可解に思われるのは、彼が第 1 活用 (=弱変化) 動詞の最後のグループ「第 4 類」として次のような特徴をもつ動詞を含めていることである (s. 125):
45. §. Den fjerde Klasse bestaar af nogle faa Ord, der alle følge en og samme Lighedsregel, og med Imperf. høre til den første Forandringsmaade, med Partisippet derimod til den anden.〔強調は原文のゲシュペルト体。〕
「第 4 類は若干の少数の語からなる。それらはすべてひとつの同じ類似の規則に従っており、未完了では第 1 の変化様式に属し、〔過去〕分詞では反対に第 2 のものに属する。」
この次にラスクは「そのうちもっとも重要なものは」(De vigtigste af dem ere) として snúa, núa, gróa, róa の 4 語の 4 基本形を表にして並べている。この例を見てわかるとおり、これは現在の分類で言うところの強変化 VII 類、別名を畳音動詞 (または重複動詞、ドイツ語で [というかほとんどラテン語だが] Reduplikationsverb) というものである (しかし VII 類のすべてではない、後述)。

強と弱の区別は過去時制形をアプラウトによって形成するか歯音接尾辞を付して作るかによるのであり、上に見たとおりラスク自身の定義もそうなっているように見える。またラスクはここで snúa–snýr–sneri–snúinn, róa–rœr–reri–róinn といった正しい変化形を把握している。にもかかわらず「未完了は第 1 変化に属する」と判断したのはなぜだろう。ラスクの定義に従えば過去単数が -di, -ti で終わるものがそれにあたるのであるから、ラスクは sneri, neri, greri, reri の -ri を -di の音韻変化したものと推測したのであろうか。

そこでちょうど第 1 変化の節は終わり、次のページから第 2 変化の分類が始まる (s. 126ff.)。ラスクの分類で第 2 変化第 1 類とされているのがほぼ現在普通の分類で言う強変化 III, IV, V 類を合併したものにあたる。ただし IV 類動詞の例は表のあとに続く説明の最後に出てくる bera しか見あたらないが。

ラスクの第 2 類は現在の VII 類の一部に相当するが、その基準は「〔過去〕分詞が不定法と同じ母音を保持している、ただし á が ng の前で現在形と同様に ei に変わることを除く」(Partisippet beholder i denne Klasse samme Selvlyd som Infin., undtagen at á foran ng forandres til ei, ligesom i Præsens) というもので、もともと VII 類はアプラウトのパターンが多様であることを思えばこれはかなり狭いグループになる。VII 類のうち snúa などが第 1 活用第 4 類とされて除外されることは上で見たとおりだが、さらにまたべつの若干の動詞は彼の言う第 2 活用第 4 類に入っている (後述)。

第 3 類はラスクが「もっとも単純なもののひとつ」(Denne Klasse er en af de allersimpleste) と呼ぶクラスで、現在の I 類と完全に一致しているようだ。彼の説明によれば「ここに属するすべての語は母音 i をもち、それは過去単数においてのみ変化する」(Alle dertil hørende Ord have Selvlyden i, som blot i Enkelt. af Imperf. forandres) と言うが、正しくは stíga–stígr–steig–stigu–stiginn のように í–í–ei–i–i という系列で i には長短の違いがある。

第 4 類は fara, standa, taka, draga, slá, vaxa などおおむね VI 類に見えるが、koma (IV 類) や búa, høggva など (VII 類) も含まれ混沌としている。そのことについてラスク自身「この類はこの変化様式〔=強変化〕のうちでもっとも多種多様で困難な語を含んでいる」(Denne Klasse indbefatter de forskjelligste og vanskeligste Ord af denne Forandringsmaade) と言うとおりである。

そして第 5 類はアプラウトの系列につき不定法では「アクセントつき母音または二重母音」(en aksentueret Selvlyd eller Tvelyd)、現在 ý、過去単数 au、過去複数 u、分詞 o と明快に説明しているように、ほぼ現在の II 類に一致しているも、ウムラウトを見抜けなかったためか søckva [= søkkva] (III 類) が混入している。

その後、ラスクは §54 (s. 133f.) において不規則性について言及し、sveria [= sverja], hiálpa [= hjálpa] など若干の動詞が強弱いずれもの活用形を呈することを説明している。

samedi 8 décembre 2018

フェーロー語文法研究 (前) 史 1650–1900

フェーロー語 (フェーロー語:Føroyskt, デンマーク語:Færøsk, ドイツ語:Färöisch, フランス語:Féroïen, 英語:Faroese;フェロー語とも) に関する記述として、もっとも古いものは 17 世紀に遡る。フェーロー諸島の気候・風土や政治・文化・宗教などに関する著述のなかに見いだされる断片的な記載がそれで、この種の著作として、
  • Wolff, Jens Lauritzsøn (1651). Norrigia Illustrata, eller Norriges med sine underliggende Lande oc Øer, kort oc sandfærdige Beskriffvelse [...].
  • Tarnovius, Thomas (1669). Ferøers beskrifvelser. [現物未見、完全なタイトル不明。]
  • Debes, Lucas Jacobsøn (1673). Færoæ et Færoa reserata: Det er Færøernis oc færøeske Indbyggeris beskrifvelse [...].
を挙げることができる。たとえば Wolff の s. 201 に次のような描写がある:
Dette Lands underliggende Øer, er hen ved sytten, oc lige som at Øerne ere store til, saa haffve de oc der paa mange Kircker, oc Prædicker deris Præster, Danske Maal for deris Tjlhører, huilcket de vel forstaar, oc kunde Lands Folcket lige som de Norske, læse udi Danske Bøger, oc den ene den anden, der udi lærer oc underviser; Men ellers tale de oc naar de ville, saaledis imellem sig sielff, at huo som er icke vant med dem at omgaas, da kand mand dem icke forstaa.
古いデンマーク語でどうも理解しづらいが、だいたいのところを解釈してみる:フェーロー諸島の 17 の島々にはおのおのの面積に応じて大小の教会があり、そこで牧師たちはデンマーク語で聴衆に説教をする。島民たちはそれを「ノルウェー語」と同様によく理解できており、デンマーク語の本を読み教えあっている。しかし彼ら島民どうしのあいだでは、彼らとつきあいなれていない者には理解ができないしかたで話したがるという。

もうひとつ関連箇所、すなわち Debes, s. 253 から引用してみよう:
Deris Spraack er Norsk, dog udi disse Tjder meest Dansk, dog hafve de endnu beholdne mange gamle Norske Ord, oc er der ellers stoer Forskiel mellem deris Tale hos det Folck som boer Norden i Landet, oc hos dem som boe udi Suderøerne.
これは上のものに比べればずいぶんと読みやすいが、しかしその意味するところがはっきりしているとは言いがたい:彼ら〔フェーロー諸島人〕の言語はノルウェー語であるが、この時代においては主としてデンマーク語である。しかるに彼らはいまだ多数の古いノルウェー語の単語を保持している。また島の北部に住む人々の言葉と南部に住む人々のそれとのあいだには大きな違いがある。

Mitchinson (2012, p. 92) もこの „meest Dansk“ (‘mostly Danish’) という箇所を ‘hard to interpret’ としているが、彼が引いているように Debes の復刻版を刊行した Rischel (1963) の序説の示唆するところでは、この当時に諸島の教会・教育・行政の言語がデンマーク語であったという意味だとすれば前掲 Wolff と軌を一にするであろうということである。

もっともそういった詳細はいまは脇においてよい。われわれがまず注目すべきところはひとつで、このとおり 17 世紀にはフェーロー諸島人の話している言語はノルウェー語、あるいはそれが理解しがたいほどに訛ったもの、とみなされていたという事実である。フェーロー語という独立の言語として扱う意識はまだ存在しなかった。

この見かたは次の 18 世紀後半から 19 世紀はじめにかけて変わっていく。デンマーク人の牧師 Jørgen Landt は世紀末の 1800 年に、上掲のテーマと同じようにフェーロー諸島の風土や文化を取り扱った書籍 Forsøg til en Beskrivelse over Færøerne を刊行しているが、その「言語について」(Om Sproget) と題する節 (s. 436–440) は次のように書きだされている:
Det færøeske Sprog forekommer en Fremmed i Begyndelsen meget uforstaaeligt, men man lærer at forstaae det, førend man ventede det; thi en stor Deel af Ordene er gamle danske eller rettere norske, hvilke ved en fordrejet Udtale have faaet et fremmed Udseende;
ここにはまず「フェーロー語」(det færøeske Sprog) という名前が現れている。そして (デンマーク語母語話者にとっては)「〔長く〕待つこともなく理解できるようになる」と述べる点ではあまり言語間の違いを認めていないようにも見えるが、このような事態が出来するのはもともと北欧語間に大きな差異がない事情にもよる。じっさい、ラントがフェーロー語習得の容易さの理由を「大部分の単語が古いデンマーク語、あるいはむしろノルウェー語であるから」と言っているとき、1800 年にはまだデンマーク゠ノルウェー同君連合が生きていたことを思いおこせば、デンマーク語とノルウェー語を別物とみなすのと同程度にはフェーロー語もまた別個の言語であると考えていたことになろう。

そしてこの段落の下にラントはデンマーク語とフェーロー語で発音が少し違うだけの単語の対を数十組並べたあと、「しかしフェーロー語には多くの独自の点があり、それについて若干の列挙をしたいと思う」(Dog ere mange egne for det færøeske Sprog, af hvilke jeg vil anføre nogle) として、デンマーク語話者には一見してわからないと思われるフェーロー語の単語と、日常のシーンの会話見本にことわざ (デンマーク語の対訳あり)、フェーロー人の男女の人名例を紹介している。

〔12 月 12 日追記。ラントのこの部分を訳出し、現代フェーロー語のための訳注を施した記事を書いたのであわせてご覧いただきたい:「18 世紀のフェーロー語瞥見」〕

ところで順番は前後するが、この間にフェーロー諸島生まれのイェンス・クリスティアン・スヴェアボ (Jens Christian Svabo, 1746–1824) という人が出て 1770 年代ころから仕事を始め、フェーロー語・デンマーク語・ラテン語辞書 Dictionarium Færoense やフェーロー諸島のバラッド (民謡、デンマーク語で言うフォルケヴィーサ) を書きとめて編纂したのだが、いずれも手稿のままに終わり出版されることがなかったためこの時点で影響を及ぼすことがなかった。彼のこれらの著作はメアトラス (Christian Matras) の編集によって 20 世紀のなかばになってからようやく刊行されている (民謡集は 1939 年、辞書は 1966–70 年)。

フェーロー語の学問的な取り扱いに先鞭をつけたのはなんといってもラスクに始まると言っていいだろう。ラスクは 1811 年に世界初の体系的な (そしてすでにかなりの程度完成されていた) アイスランド語文法として名高いあの『アイスランド語あるいは古ノルド語への手引』(Vejledning til det islandske eller gamle nordiske sprog) を出版したが、このなかに若干のフェーロー語文法が描かれている (第 7 部 §§16–24: s. 262–282)。その前置きとして §3 (s. 240) に
[...] Paa Færøerne derimod har det gamle Sprog endnu vedligeholdt sig i en egen fra Islandsken noget afvigende Sprogart. Imidlertid er det dog gaaet med Islandsken paa Færøerne, som med Dansken i Slesvig;
と言うように、この本で彼はまだフェーロー語をアイスランド語の多少異なった方言として扱っているのであるが、実際のところ彼はフェーロー語の位置づけに迷っていたのであって、総じてこの『手引』以外の著作では、アイスランド語に非常に近いが独立したノルド語のひとつとして扱っているという、Skårup (1964, s. 5) の次の証言を引いておく:
Den placering af færøsk i forhold til de andre nordiske sprog, som Rask foretog allerede i sin skoletid alene på grundlag af eksemplerne hos Landt, ændrede han således ikke siden. Han vaklede mellem at regne færøsk som en sprogart inden for det islandske sprog og som en selvstændig nordisk sprogart, som dog lå islandsk meget nær. Den sidste opfattelse var den almindeligste hos ham, den første findes kun i Vejl.
さてその『手引』はラスク自身の手によってスウェーデン語訳された増補版 Anvisning till isländskan eller nordiska fornspråket が 1818 年に出ている。これは章や節の番号づけが通し番号に変えられているほか随所に差異があり一見すると同じ著作とは思われない見かけだが、じつはフェーロー語に関しても大きな違いがある、というのは 1811 年版にあった文法の一切が削除されてしまっているのである。唯一残っているのは先の引用部分 (Rask 1811, s. 240) に対応する第 7 部第 24 章 §519 (s. 278f.) の次の記述である:
På Färöarne talas ännu en folkdialekt, som nårmar sig Isländskan betydligt, men som dock har litet intresse, emedan den har ingen Litteratur, utom några folkvisor, hvilka likvål hittills icke genom trycket blifvit utgifna.
つまるところ、フェーロー語には (未刊の) 若干のバラッドを除いて文学というものがないため関心がないというのである。もっともこの書物が古アイスランド語文学のための文法であることを思えば当然の判断と言えよう。

ところでその「若干のバラッド」(några folkvisor) というのが前出スヴェアボの未公刊の著作を指していたのかどうかは定かでない。というのは、ラスクはたしかにスヴェアボの仕事を知っていたようなのであるが、このすぐ 4 年後の 1822 年には別の人 H. C. Lyngbye がフェーロー語版ジークフリート伝説とも言うべきバラッドをまとめた著作 Færøiske Qvæder om Sigurd Fofnersbane og hans Æt を出版するからである。ラスクのスウェーデン語版『手引』の英訳 (George Webbe Dasent による。1843 年) を見るとこの箇所の脚注で ‘These ballads were published with a Dansk translation by Lyngbye, Randers 1822.’ と言われているのである。ただし 1843 年といえばすでにラスク死後 (1832 年没) のことであるから英訳者は著者に確かめてこう記したはずはなく、いまだ発表されていないスヴェアボの仕事を彼が知らなかっただけかもしれない。

このほかにもフェーロー語を本文とする出版物がだんだんと現れてくる。まずは 1823 年の J. H. Schrøter によるマタイ福音書のフェーロー語訳。それから 1832 年にはこのブログでもすでに取りあげた『フェーロー諸島人のサガ』のフェーロー語訳を含む C. C. Rafn の Færeyínga saga eller Færöboernes historie i den islandske grundtekst med færöisk og dansk oversættelse が登場する (フェーロー語の訳者は Schrøter)。1822 年のリュングビューから始まるこれら 3 冊こそ、フェーロー語による最初の印刷出版物として永久に記念されているのである。

この間に注目されるのは、1829 年ころ Jacob Nolsøe (1775–1869) なる人物がフェーロー語文法 Mállæra を書きあげていたらしいという事実である。しかしながらこの作品は現在に至るまで公刊されておらず、ただアウルトニ・マグヌソン写本コレクション (Den Arnamagnæanske Samling) のうちの写本番号 AM 973 として保存されているとの由である。彼は晩年のラスクとも交際があり、そのフェーロー語文法や正書法に関して書簡のやりとりが知られている (Skårup, s. 6)。またフェーロー諸島に移住したアイスランド人 Jón Guðmundsson Effersøe という人も同様にフェーロー語の正書法に関して同じころラスクと文通していたそうだ。

すなわち、ラスクはこの最晩年の時期 (彼は若死であったため、晩年といっても 40 代前半である) にもフェーロー語に関心を抱いていた。既述のとおりこのころフェーロー語の出版物はようやく出はじめたばかりであったので、まだフェーロー語の正書法というものは固まっておらず、18 世紀のスヴェアボの辞書やラスクの文法、シュレーターのフェーロー語訳マタイ伝やフェーロー人のサガ等々は、現代の正書法とはまったく異なる、むしろ実際の音声に即したつづりを試みていた。

現在のフェーロー語のような、実際の発音とはかなりかけ離れて語源的配慮にもとづいた、かつアイスランド語に強く影響を受けた正書法を確立させたのは、V. U. Hammershaimb の尽力によるところが大きい。この人は早くも 1854 年にデンマーク語でフェーロー語文法の小冊子 Færøisk sproglære を書いているが、彼のものはその後の半世紀以上にわたって唯一のフェーロー語の手引でありつづけた (Jákup Dahl による 1908 年の学校教育用文法が登場するまでのこと)。

ところでこの間にあまり知られていないスウェーデン語の論文、Nore Ambrosius による Undersökningar om ordfogningen i färöiskan (1876 年) という本文 30 ページほどの小冊子がある。これはどうやらフェーロー語の統語論を取り扱った時代に先駆けた研究であるようだが、私じしんスウェーデン語がよく読めないことと、諸研究もこの著作を名前だけ挙げているばかりで詳細な書評が見あたらないのでどの程度のものか判断がつかない。

19 世紀最後のそしてもっとも重要な仕事として挙げられるのが、Hammershaimb と Jacobsen の編になる Færøsk anthologi 全 2 巻 (1886–91) である。第 1 巻選文篇の巻頭には、ハンマシュハイムによる先の文法を増補改訂した 100 ページを超える「歴史的・文法的序説」(historisk og grammatisk indledning) が収められている。また第 2 巻はほとんどフェーロー語・デンマーク語辞典とも称すべき大きな語彙集になっている。この本に見られるフェーロー語正書法は、まだ ö と ø が入りまじっている (当時のデンマーク語では開音と閉音で使いわけていた) ことなど些細な相違を除けばすでに現代のそれと見分けがつかないものである。

歴史的・語源的な意識に導かれた現行のフェーロー語正書法にはいまも異論がなきにしもあらずのようだが、ハンマシュハイムの当時からすでに反対派は存在していた。考えてもみれば、先駆者たるスヴェアボやラスク、リュングビューやシュレーターたちがみな発音に忠実なつづりかたを試行錯誤していたのだから (あれだけ古アイスランド語を偏愛したラスクからしてそうだったのだから!)、むしろハンマシュハイムのほうが異色で急進的だったはずである。じつはハンマシュハイム自身ももともとは前者に近い立場だったが、N. M. ピーターセン (この人はラスクの学生時代からの友人でもあった言語学者) の説得の影響があったらしい (Hovdhaugen et al., §4.5.2.2 参照)。デンマークが誇る言語学者イェスペルセンは自叙伝のなかで次のように述べるところがある (前島訳、20 頁):
私が王立学生寮にいたころ、フェーロー語学者 V. U. Hammershaimb の二人の令息達もそこに住んでいた。私は多数のフェーロー語の音韻関係を調べ、Hammershaimb とその若い助手 Jacob Jacobsen を助けて「フェーロー詩華集」の中の音標文字を執筆した。私はまた 1884 年の五旬節に南ゼーランドの Hammershaimb の牧師館の客となった。彼はフェーロー文語を創ったが、それは彼の若いころの見地に基づいて(古代)アイスランド語の綴字法に似せたきわめて擬古的なものであった。私は彼に対してスウィートの語を引用した:語原が興味があり有益であるとの理由で、現代語を歴史的・語原的見地から綴ることは、すべて綴字の固定化をはかる者が分別くさく首にマコーレーの『英国史』をぶら下げて歩くようなものだ。」古代やアイスランドに拘泥せずに、もっぱらこの言語の現在の語形に基づいてフェーロー文語を創造する方が正しいというのが私の考えであった。しかし彼は自己流を固執した。
結局イェスペルセンのこの諫言は容れられず、ハンマシュハイムとヤコブセンによる大部な Anthologi の採用した歴史的つづり字が影響力をもつようになった。

とはいえ学習者にとってこれはかならずしも悪いことばかりではない。学習者はつづり字から発音を導きだす規則を大量に覚えねばならなくなったが、それとひきかえに文字上の語形変化には混乱する点が少なくなっていると言える。

例として英語の to have にあたる動詞 at hava は、過去単数 hevði、過去複数 høvðu のように変化するが、これらを発音に忠実に、たとえばラスクの 1811 年文法に従ってつづると、順に heava, heji, höddu となる。歴史的綴字法では h_v- という語幹の子音字のおかげで同じ動詞の活用形であることが明瞭、また共通する弱変化過去接尾辞の -ð- のおかげで hevði, høvðu はその過去形であることがわかりやすく見てとれるのに対し、heava, heji, höddu では同じ動詞なのかどうかすら見かけには明らかでない。名詞でも同様で、たとえば dagur (英 day) の格変化をどうつづることになるか考えてみるとよろしい。

フェーロー語の母語話者ではない私たちにとって、このために読み書きはむしろ容易になっている。この正書法の弊害を被っているのはむしろ母語話者のほうなのではないか。ネイティヴはいちいち意識しなくとも自然に格変化を体得している。そうすると dagur の変化形を文字で書かねばならないとき、主格 dagur [dεavʊr] では [v] なのに g を、与格 degi [deːjɪ] では [j] なのにまた g を、対格 dag [dεa] ではなにもないのにやはり g を書かねばならない。上述の hava の活用形も同様だし、そこで見た ð の文字 (フェーロー語ではいっさい発音しない!) が動詞の過去形に限らずフェーロー語全体にいかに溢れているかに思いを致せば、彼らの苦労は日本語の四つ仮名などの比ではなさそうだ。ハンマシュハイム以来の正書法がいつまで存続するか、百年を経ても安心してよいかはまだわからない。


参考文献 (刊行年順。上記で紹介した 19 世紀までの文献は除く)
  • Jespersen, Otto (1938). En Sprogmands Levned.〔前島儀一郎訳『イェスペルセン自叙伝』1962 年。〕
  • Skårup, Povl (1964). Rasmus Rask og færøsk.
  • Hovdhaugen, Even, Fred Karlsson, Carol Henriksen, and Bengt Sigurd (2000). The History of Linguistics in the Nordic Countries.
  • Petersen, Hjalmar P. (2010), The Dynamics of Faroese-Danish Language Contact.
  • Mitchison, John (2012). ‘Danish in the Faroe Islands: A Post-Colonial Perspective’.