samedi 25 août 2018

16 世紀北ゲルマン語圏の聖書を読むための覚書

ヨーロッパの 16 世紀は宗教改革の世紀である。ルターがいわゆる 95 箇条の提題を (ラテン語で) 張りだしたのが 1517 年の 10 月 31 日、そして聖書のもっとも重要な (初期新高) ドイツ語訳であるルター聖書が世に出たのは、1522 年のいわゆる 9 月聖書であった (新約のみ。旧約および外典を含む完訳は 1534 年)。

このときルターが翻訳の基礎としたのは、エラスムスの手になるギリシア語新約聖書 Novum Testamentum omne の第 2 版 (1519 年) である。エラスムス校訂のギリシア語テクスト (初版は 1516 年) は公認本文 (テクストゥス・レケプトゥス textus receptus) と呼ばれ、ルター訳のみならずそれを通して以下の北欧語訳に、それからなにより英訳聖書のティンダルや KJV のもととなっていくもので、現代の本文批評からすればさまざまの問題があるにせよいまも熱心な支持者はいるようだ。

デンマーク語で印刷された最初の聖書は 1524 年のクリスチャン II 世聖書で、これも新約のみであったが、最初の完訳は 1550 年のクリスチャン III 世聖書 (Christian III’s Bibel) である。この底本についてはいまいちよくわかっていないが、王の希望でルターのドイツ語訳に可能なかぎり近づけられたものらしい。そのためデンマーク語訳ではあっても教養のない農民階級にとっては理解困難なものだったという。この聖書はノルウェーでも用いられた。

スウェーデン語訳はやはり翻訳を命じた王の名前をとったグスタフ・ヴァーサ聖書 (Gustav Vasas bibel) が重要であり、これは新約部分が 1526 年、完訳は 1541 年。スウェーデン語は私の守備範囲外なので詳しく調べていない。

アイスランド語の最初の完訳聖書は、ホーラル司教グヴュズブランドゥル・ソルラウクスソンによるグヴュズブランドゥル聖書 (Guðbrandsbiblía) で、これは 1584 年に刊行された。ただしその新約部分は先行する 1540 年出版のオッドゥル・ゴットスカウルクソンの新約聖書 (Nýja testamenti Odds Gottskálkssonar) をあまり変えずに用いているということである。

フェーロー語に聖書が翻訳されるのは残念ながら 19 世紀に入ってからのことなのでここでは取り扱わない。宗教改革期以降フェーロー諸島ではデンマーク語の影響が顕著になり、聖書以下宗教関係の文献はデンマーク語のまま用いられた。


さてこれらの聖書は (エラスムスのものを除いて) 当時のゲルマン語の出版物であるからすべてブラックレター体で印刷されている。ブラックレターは俗にドイツ文字と呼ばれるフラクトゥールの同義語として用いられることも多いが、正確にはより広い呼び名であって、ここではフラクトゥール (Fraktur) の作られるまえに使われていたシュヴァーバッハー体 (Schwabacher) の名をとくにあげておく。

というのは、このシュヴァーバッハー体はだいたい 1530 年ころからフラクトゥールに取って代わられていくのだがそれ以前には広く使われ、とりわけ 1522 年のルター聖書ではシュヴァーバッハー体が用いられているのに加えて、先述のもののなかではオッドゥルのアイスランド語新約聖書もこの書体で組まれているからである。

シュヴァーバッハーにせよフラクトゥールにせよ、読むうえでの注意点はだいたい共通している。まず、何度も頻出する単語や語尾などは略記される場合があるということ。どういう語がそうであるかは言語によって違うので一概に言えないが、その言語を読めるほどに習熟していれば難しくはない。

それからいくつか特殊な文字があるということ。代表例は ſ すなわち「長い s」だが、これはあまりにも有名であって、ブラックレターのみならずかなり最近 (19 世紀) のローマン体の文書でもおなじみであるからあえて贅言を要しない。

しかし s に 2 種類あることは周知でも、r にも 2 種類 (あるいはそれ以上) あったことはあまり知られていないのではないか。ブラックレターを読むときに覚えておかなければならないのは r rotunda「丸い r」と呼ばれるもので、ローマン体の r と似ていてすぐにわかる 𝔯 のほかに、一定の場合に ꝛ という数字の 2 に似たべつの形をとるのである。

その一定の場合というのはかならずしも明らかでなく、前の字が右側に弧状の丸みをもつ場合 (b, o, p など) と説明されていることがあるが、それはドイツ語あるいはラテン語などでは正しかったのかもしれないがどうもそうではない例も見受けられる。


この画像はオッドゥルの新約からルカ伝 4 章冒頭の段落である。いちばん上の行は „fiordi capitule“ と書かれている。その 2 行下の最初の単語は „Jordan“ である。いずれも o の直後に r が来るが、見慣れた r が書かれている。

一方この段落のいちばん最後の単語 „ordi“ では、同じ o のあとなのに r rotunda が使われている。その真上の語 „madrin̄“ (現代のつづりでは maðurinn にあたる) もそうであるが、d はブラックレターでは右側が丸い文字にあたるのでこれは法則どおりである。しかし 1 行め後ろから 2 番めの „aptr“ はそれでは説明がつかない。


いま掲げた画像はグヴュズブランドゥル聖書からルカ伝 4 章の続き。顕著なのは 3 行め右から 5 番めの単語 „fellr“ で、明らかにどこも丸い部分がない l の直後で r rotunda が用いられている。


ダメ押しにもうひとつだけ示しておく。これは 1526 年のスウェーデン語の新約マタイ伝 1 章冒頭だが、1 行め大きい活字の最後 „Chri⸗[sti]“ の r も、この行だけテクストゥールらしい書体で、たまたまどこも丸くない h の直後に r rotunda が置かれている (もっとも r rotunda を使う基準として、その書体のグリフが丸いかどうかはあまり関係がないようだが)。

ところでこれらの文書は s の使いかたもわれわれの知る常識どおりではないところがある。さきほどのグヴュズブランドゥル聖書の画像の 2 行め中央から „⁊ þeſſ pryde mun eg ...“ とあって、明らかに語末なのに長い s が使われている。逆に最初のオッドゥルの最下行を写すと „dr af sier hueriu gudz ordi“ となっているが、語頭で丸い s が使われている。まあどちらの形でも s は s、r は r なので読解上の支障はないと思う。

では最後に、すでに画像から気がついていたかもしれないが、オッドゥルの紙面ではギリシア文字の τ かひらがなの「て」に似た、あるいはグヴュズブランドゥルの活字では数字の 7 か ƶ にでも似た謎の文字が頻出している。

これはアイスランド語では og、すなわち英語の and にあたる記号である。もともとローマ時代の速記官ティロ Tiro の記法 (にあとから付け加えられたもの) といい、とりわけ古英語やアイルランド語で ⁊ の形でよく見かけられるもので、Tironian ond や Tironian et などと呼ばれている (ond は古英語で and にあたる語、et はラテン語で & の字形のもとになった語。アイルランド語のため agus と呼ばれることもある)。

vendredi 24 août 2018

フェーロー諸島人のサガ (3 章)

昨日公開した 1–2 章の続き。底本は C. C. Rafn (1832), s. 7–13. なおコメントで私が「原語」というとき、翻訳元であるデンマーク語と、そのさらなる原文である古アイスランド語のいずれを指す場合もあるが、つづりから明らかなので混乱はないだろう。


3. そのすぐあとにシグルズルは天幕にいる彼の弟のところに〔戻って〕きて、言った:「銀をもってこい、いまや売買はまとまった」。「一瞬まえに* 俺は兄さんに渡したじゃないか」と彼は答えた。「いいや」とシグルズルは言った、「俺はそれを受けとっていない」。

* なんだか誇張めいているがれっきとした直訳 (D. for et Öieblik siden = E. lit. an eye-blink ago)。より自然に訳すなら「(ほんの) ついさっき」とでもするか。

そこで彼らはこの件をめぐって喧嘩になり、そののちにそのことを王に言った。するとほかの者たちはもちろん彼も悟った、〔銀入りの〕袋は盗み去られたのだと。そこで王は、この件が解明されるまえにはいかなる船も出航してはならないように、出発に対する禁止を行った。そのことを多く〔の人々〕が大きな不便であると考えた、それは長引くと市が終わったあとになってもそうであったので。

ノルド人たちはそこで審議のために彼らのあいだで集会をもった。そこにスラーンドゥルが出席しており、こう話した:「ここにいる人々はたいそう解決に困っているようだ」と彼は言った。「ではおまえはなにか解決策を知っているのか」と彼らは彼に尋ねた。「俺はたしかに知っている」と彼は答えた。「ではおまえの解決策を持って前に出てくれ」と彼らは続けた。「俺は無駄にそれをしたくない」と彼は答えた。

彼らは尋ねた、なにを彼は要求しているのかと。彼は答えた:「あなたがたのうちおのおのが俺に 1 オーレ* の銀をくれるべきだ」。彼らはそれは多いと言った。だがしかしながら妥協が成り、おのおのが彼に即座に半オーレを手渡し、さらにもし彼の提案が望ましい成果を生んだならばもう半オーレを約束した。

* デンマーク語 Øre (クローネの 100 分の 1 の補助通貨) をそのまま訳したが、古アイスランド語原文では eyrir で銀 1 オンスのことという (E. V. Gordon, A. R. Taylor (rev.), An Introduction to Old Norse)。それは貴金属の計量に用いられる金衡オンス (トロイオンス) のことだとすれば約 31.1 グラム。一方 Faulkes の英訳の脚注によれば eyrir は 10 世紀には約 25 グラム半であった。

その翌日、王は会議を催し、そのさい彼の決定を表明した。それはこの窃盗についての確かな情報がもたらされないうちは、何人も決してそこから離れ去ることはまかりならないということであった。

そのとき若い男が歩み出た。頭の毛はだらりと長く伸びて赤毛で、顔にはそばかすがありたいそう荒々しかった;彼は話しはじめ、こう話した:「ここにいる人々はたいそう解決に困っているようだ」と彼は言った。王の相談役は尋ねた、それではどんな解決策を彼は見いだしたのかと。

「これが俺の解決策だ」と彼は答えた、「ここに来ているめいめいが、王が要求するだけ多くの銀を前に置く。そしてその金がひとつところに集められたとき、人が被った〔ぶんの〕損害が補償されるが、王は残りのものを名誉の贈り物* として保有する。俺は知っている、彼〔=王〕はご自分の取り分をうまく用いられるであろうと。そうすると民衆はあたかも固く築かれた** かのようにここにいつづけ、ここに集まってきているこれほど多数の人々の大きな損害になる必要はない〔」〕。

* 原語 Hædersskjenk (現代語では -skænk になる)、Mohnike の独訳では Ehrengeschenk。次の段落の同じ語句は原語 Æresskjenk だが、これは Ehrengeschenk によりよく対応し同義であろう。

** デンマーク語 fastmurede、しかし G. festgebannt「(呪文や魔法で) 呪縛された」、OIcel. veðrfastir「(悪) 天候に妨げられた」(Powell の英訳で ‘weather-bound’)。

〔このセリフはどうも全体的に意味不明だし、後述する莫大な報酬に値するほどのたいした解決案にも思われないのでまったくの誤訳かも。機会があれば再検討したい。〕

この提案はただちに全体の賛成を勝ちとった。そして船長たちは言った、ここでぐずぐずして大きな損害になるよりは、喜んで金を出し王に名誉の贈り物とすると。そこで決定がなされ、金が集められ、それは相当な額になった。

すぐあとに彼らは船の大部分を海に出して去った。それから王はふたたび会議を催し、相当の多額の金が観察された。同じ〔金〕によっていまや最初の兄弟の損害は償われた;その次に王は彼の〔伴の〕男たちと話した、この大きな富によってなにがなされるべきであるかと。

そこで 1 人の男が話しはじめて、言った:「陛下* はこの解決策を与えた者になにが値すると思われますか」。それで彼らは気づいた、いま王のまえに立っている同じ若者が、その解決策を与えた者であったと。

* 原文はただ「あなたに eder」、しかし OIcel. は「わが主人よ」„herra minn!“ との呼びかけで始めており、私訳はこれに近い。

そこでハラルドゥル王は言った〔:*〕「このすべての財が 2 つの等しい部分に分けられ〔=2 等分され〕、一方の半分はわが〔伴の〕男たちがとり、もう半分はその後いまいちど 2 つの部分に分けられ、この若者がこれらの半分のうち一方の部分をとり、しかしてもう一方の部分は私が求めたい〔」〕。

* 底本デンマーク語の箇所ではセミコロンだがこれは誤植で、古アイスランド語・フェーロー語の対応箇所ではコロン。

スラーンドゥルはこのために美しく丁重な言葉を用いて王に感謝した、そしてスラーンドゥルに割りあてられた富は並外れて大きかったので、はっきりした数字を算出するのが困難なほどであった。

ハラルドゥル王は出航し、そしてそこにいた多くの民衆もみな同じように〔出航〕した。スラーンドゥルは彼が伴ってきていたノルウェー人の商人たちとともにノルウェーへ向かった。彼らは彼に留保していたところの金を支払った。

彼はそこで大きくてよい貨物船を買い、彼がこの旅で得たところの相当額の財をそれに積んだ。この船によっていまや彼はフェーロー諸島へと舵をとった、そして彼の全財産をもって無事にたどりついたのである;春には住居をガータに用意し、そしてなお富に不足はしていなかった*。

* 最近の Faulkes の英訳ではこの文までで第 3 章が終わる。また最新のフェーロー語訳 (Bjarni Niclasen, 1995) も同様。おそらくより最近の編集になる刊本の古アイスランド語テクストがそうなっているのだろう。次の文はたしかに部分的にはすでに書かれたことの繰りかえしに見えるし、あとはひどい悪口雑言である。

スラーンドゥルは体の大きな男で、髪は赤く、赤いひげで、顔にはそばかすがあり荒々しく、心は陰気で、悪賢くすべての陰謀の第一人者であり、ひねくれていて人々に対し邪悪、自分より立場が上の者に対しては甘い言葉を話したが、いつも心のなかでは不実であった。

jeudi 23 août 2018

フェーロー諸島人のサガ (1–2 章)

Carl Christian Rafn による 1832 年の版 Færeyínga saga eller Færöboernes historie i den islandske grundtekst med færöisk og dansk oversættelse をもとにした『フェーロー諸島人のサガ (フェロー人のサガ)』の試訳 (今回の 1–2 章は同書 s. 1–7)。この底本は表題のとおりフェーロー語訳・デンマーク語訳との対訳になっている。また翌 1833 年にはこれにさらに G. C. F. Mohnike のドイツ語訳を付した版が刊行されている。

アイスランドのサガは先達の努力によってかなりの程度まで日本語訳されているが、このサガはアイスランドが舞台でなく周辺的であるせいか、私の知るかぎり邦訳はまだないはずである (とりわけ日本アイスランド学会のサイト「中世北欧文学日本語翻訳リスト」を参照)。

ここに行う私の翻訳は Rafn のデンマーク語からの重訳である。ただし固有名詞は古アイスランド語の表記・発音に則っている (主格語尾の -r はわずらわしく略すこともふつうに行われているが、ここでは一貫してつけたままにした)。固有名詞は初出のさいに古アイスランド語の原語表記を付したが、それが原文で斜格の場合は私が主格に直しているので不測の誤りなしとしない。

そのほかデンマーク語の文意がよくわからないときもアイスランド語その他を参照することがあるが、これは逐一断っている。亀甲括弧〔……〕は訳者による敷衍ないし補足説明。また、段落については原文よりもかなり細かく短めに分けている。


1. グリームル・カンバン (Grímr Kamban) という名の男がいた。彼はフェーロー諸島に定住した最初の者で、それはハラルドゥル美髪王 (Haraldr hinn hárfagri)〔=ハーラル 1 世、在位 c. 871–c. 932〕の時代のことだった。そのころ王の支配の強さのゆえに逃亡する者が多く、そのうちのいくばくかがフェーロー諸島に落ちついて居を構えたが、またいくばくかはほかの未開の地を求めた。

大金持ちのアウズル (Auðr hin djúpauðga) はアイスランドへ赴き、その途上でフェーロー諸島まで来たところ、そこで彼女は赤毛のソルステイン (Þorsteinn rauði) の娘オーロヴ (Ólof) を結婚させた。その女からフェーロー諸島人のもっとも家格の高い家柄は源を発するのであり、〔その一族は〕ゴートゥスケッグ (Götuskegg=ガータ Gata の髭男) と呼ばれており、東島 (Austrey)* に住んでいた。

* 「東島 Austrey」は Rafn のデンマーク語訳では Østerø、併記されたフェーロー語訳 (Johan Henrik Schrøter による) では Estroj となっており、この後者は現代の正書法に直せば Eysturoy である。これはそのまま現在 Eysturoy = Østerø と呼ばれている、フェーロー諸島で 2 番めに大きい島のことであって、言及されている Gøta (あるいは Norðragøta) の村はいまもこの島に現存する。

2. ソルビョルン (Þorbjörn) という名の男がいて、ゴートゥスケッグと呼ばれていた;彼はフェーロー諸島の東島に住んでいた。彼の妻はグズルーン (Guðrún) という名であった。

彼らには 2 人の息子がいて、そのうち兄のほうがソルラークル (Þorlákr)、弟のほうがスラーンドゥル (Þrándr) という名だった;彼らは将来を嘱望された男たちだった。ソルラークルは体が大きく強かったし、スラーンドゥルも成長すると同じ性質をもった;しかしほかの点では大きな違いがこれらの兄弟にはあった。スラーンドゥルは髪が赤く、顔にはそばかすがあり、外見が荒々しかった。ソルビョルンは富裕であり、このことが起こったときすでに年がいっていた。

ソルラークルは〔フェーロー〕諸島で結婚して、それでもなおガータ (Gata)〔その斜格が前出のゴートゥ Götu〕にある彼の父の家にとどまっていた;しかしソルラークルが結婚したすぐあとにソルビョルン・ゴートゥスケッグは死に、彼は古い慣習に従って運びだされ* 埋葬された、というのはそのころまだフェーロー諸島人はみな異教〔を信仰して〕いたからである。

* D. udbaaren (= udbåren) の調べがつかず、OIcel. útborinn の直訳とみられるがこれも不明で、bære ud, bera út に戻しても特別に語義が載っていないので、やむをえず「外に-運ぶ=運びだす」と直訳した。しかし Mohnike の独訳は「埋葬され盛り土 (または丘) の下に横たえられた wurde bestattet und in einen Hügel gelegt」で、F. Y. Powell による古い英訳 (1896 年) も同様 (was laid in the barrow and buried)。最近の英訳 (Faulkes, 2016) は「葬儀が執り行われた his funeral was carried」と訳している。

彼の息子たちは自分たちのあいだで遺産を分けあった;双方ともガータの荘園を得たがった、というのはそれが最大の財産だったからである;そこで彼らはそれをめぐってくじを引いた、するとそれはスラーンドゥルに帰した。遺産分割のあとでソルラークルはスラーンドゥルに頼んだ、動産のより多くの部分をスラーンドゥルに得させるかわりに荘園は彼がもらえないかと;しかしこれをスラーンドゥルは望まなかった。そこでソルラークルは去り、諸島内にべつの住居を構えた。

スラーンドゥルはガータの土地をさまざまの男たちに貸しだし、そうしてそこから彼の得られる〔かぎりの〕多額の賃料を得た。その次に彼は夏に航海に出たが、少数の貿易品だけを持っていた。彼はノルウェーへ行き、そこで冬のあいだ屋敷に滞在したが、たえず暗い心持ちのようであった。この時代には灰外套のハラルドゥル (Haraldr gráfeldr)〔=ハーラル 2 世灰衣王、在位 c. 959–970〕がノルウェーを統治していた。

その次の夏、スラーンドゥルは海運業の者たちとともにデンマークへと下り、その夏のあいだハル浜 (OIcel. Haleyrr, D. Haløre) に来ていた。当時そこには多数の人々が集まっており、この場所には市の時期に、ここノルドの地で出会う最大の人々が集合したと伝えられている。

デンマークをこのころ統治していたのは青歯 (D. Blaatand, OIcel. blátönn) の通称をもつハラルドゥル・ゴルムソン王 (Haraldr konúngr Gormsson)〔=ハーラル青歯王、在位 958–987〕であった。ハラルドゥル王は夏のあいだハル浜にいて、多くの従者に伴われていた。王の廷臣のうち 2 人、シグルズル (Sigurðr) とハーレクル (Hárekr) 兄弟の名をあげられる。この者たちは途切れなく市をめぐった、得られる〔かぎり〕最良にして最大の金の指輪を買うことが目的であった。

彼らはとうとう、たいそうよい作りの店へとたどりついた。そこには 1 人の男がいて、彼らをよく応対し、彼らがなにを買いたいのか尋ねた。彼らは答えた、大きくて良質な金の指輪がほしいと。すると彼は言った、そのなかから選ぶべきいいものがいくつかあると。そこで彼らが彼に名前を尋ねると、彼は金持ちのホールムゲイル (Hólmgeir auðgi) と名乗った。

さて彼は彼の宝石類をとりだし、彼らに重厚な金の指輪を見せた。それは大変な値打ちものであった;しかし彼はそれにとても高い値段をつけており、彼が請求するとても多額の銀を即座に準備してのけることは、どんな方策でも達せられないと思われるほどであった。それゆえそこで〔彼らは〕彼に翌日まで未払いのままそれを取り置いてくれることを頼み、彼もまたそのことを約束した。

そうして要件が果たされると彼らはそこを離れ、その〔日の〕夜が過ぎた。〔次の〕朝にシグルズルは天幕を出たが、ハーレクルは居残った。すぐあとにシグルズルは天幕の布張りの外まで来て、こう話した:「わが弟* ハーレクルよ」、〔続けて〕言った、「急いで俺に渡してくれ、指輪を買うためにと決めていた銀の〔入った〕袋を。いまや売買はまとまったからだ。だがおまえはそのあいだここで待ち、幕屋を見張っていろ」。そこで彼〔=ハーレクル〕は彼〔=シグルズル〕に天幕の布を通して銀を手渡した。

* 原文は「親族、親戚」(D. Frænde, OIcel. frændi)、しかし日本語での呼びかけには適さないので、Mohnike の独訳 („Bruder Harek“) を参考に「弟」とした。