vendredi 17 septembre 2021

シンオウ神話翻訳集成 (2) シンオウちほうの しんわ

旧作『ダイヤモンド/パール』における「シンオウ神話」の読みなおしを期して、ここに日本語版と欧米 5 言語版との翻訳比較を試みる。この記事では「シンオウちほうの しんわ」を扱う。


ちなみに前回これらの表題について、もし本のタイトルのつもりなのであれば二重カギで『シンオウ地方の神話』と表記すべきと述べた。しかしこの「〜地方の神話」というのはどうも書名にしては間延びしている。『シンオウ神話』や『シンオウの神話』とも呼べるのだからなおさらである。ここでかりに、カントー・ジョウト・ホウエン・シンオウなどをあわせた地域名 (国名) をニッポンと呼べるとして、『ニッポンの神話』という本のなかに——あるいはもっと広く『世界の神話』や『世界神話事典』といった本のなかに——「ジョウト地方の神話」や「シンオウ地方の神話」といった章や項目が含まれているのだとすると、これは単括弧でくくるのが日本語のルールである (この場合二重括弧は使ってはならない)。作中で読めるごくわずかな断片だけではいずれなのか決定できない。

各言語版のテクストは以下の各国語版ポケモン wiki より引用した (閲覧した版はこの記事時点における最新版)。ただし改行位置などについて細かな改変をとくに断らずに加えた場合がある。


日本語版:シンオウちほうの しんわ

むかし シンオウが できたとき
ポケモンと ひとは
おたがいに ものを おくり
ものを おくられ ささえあっていた
そこで ある ポケモンは
いつも ひとを たすけてやるため
ひとの まえに あらわれるよう
ほかの ポケモンに はなした
それからだ
ひとが くさむらに はいると
ポケモンが とびだすようになったのは
草むらからポケモンが飛びだすという自然現象の由来を擬人的に説明した、これはまぎれもない神話的テクストである。時代としてもシンオウの大地が誕生した創世のころに設定されており疑義を容れない。

ここでイニシアチブをとった「あるポケモン」の正体については確かなことはわからない。アルセウスであるという説については、「はじまりの はなし」によると世界が作りだされたあと「眠りについた」とされているので支持しがたいように思う (もっとも神話のことだから、たがいに矛盾したからといって即ありえないということにはならないが)。

『DP』の物語には大きなモチーフのひとつとしてアイヌの文化や神話があり、〈アイヌ=人間〉に対する〈カムイ=ポケモン〉という対応関係があることはつとに指摘されている (この点には「(7) シンオウ むかしばなし」のその2でもういちど触れる)。この物語に見られる贈与交換に関してたとえば次の記述を参考に引いておこう:「獣や道具など人間に有用なものは、すべて神があたえてくれるお土産であり、人間はその返礼として神にお土産をもたせ、神の威信を高めなければならない——これがアイヌの神観念です」(瀬川拓郎『アイヌ学入門』8 頁)。


英語版:Sinnoh Region’s Mythology

Long ago, when Sinnoh had just been made, Pokémon and humans led separate lives.
That is not to say they did not help each other. No, indeed they did.
They supplied each other with goods, and supported each other.
A Pokémon proposed to the others to always be ready to help humans.
It asked that Pokémon be ready to appear before humans always.
Thus, to this day, Pokémon appear to us if we venture into tall grass.
はるか昔、シンオウができて間もなかったころ、ポケモンと人間は別々の暮らしを送っていた。
彼らがたがいに助けあっていなかったというのではない。いやそれどころか、事実は助けあっていたのだ。
彼らはたがいに品物を与えあい、たがいに援助しあっていた。
あるポケモンがほかのポケモンたちに、いつでも人間たちを助ける用意をしておこうと提案した。
ポケモンたちがいつでも人間たちのまえに現れる用意をしておくよう求めたのだ。
こうして今日でもなお、草むらに分け入るとポケモンが私たちに向かって現れるのである。
1 行め後半から 2 行め末までは、日本語版に対応する原文がない独自の追加になっている (そしてこれは重訳によって残り 4 言語に波及する)。ここではまず始まりの時代においてはポケモンと人間が別々に暮らしていたことが確言されている。しかしたとえこれがなくとも、「あるポケモン」が提案を行うまでは草むらでかならず会えるわけではなかったのだから、分かれて暮らしていたはずだというのは論理的な帰結であって日本語版からも読みとれないことはない。

これによってより明瞭に示唆されるのは、人とポケモンが物を贈りあい助けあっていたというとき、彼らは原則的にはたがいの姿を見ることなくこの関係を続けていたようだということである。それはたとえば森のなかの空き地のような、両者のコミュニティの境界上にある決まった場所で、そっと獲物や採集物を横たえておくというような形で行われたのだろう (これがもう少し発展すると、アイヌにおいても行われていた沈黙交易を連想させる。瀬川前掲書 106 頁以下を参照)。ただし「あるポケモン」がそれでは「いつも」人を助けることはできないと悟って提議を行ったのだから、それまでの顔をあわせない交換は不定期で不確実なものであったこともわかる。


ドイツ語版:Die Mythologie der Region Sinnoh

Vor langer Zeit, als Sinnoh entstand, lebten Pokémon und Menschen unabhängig voneinander.
Das heißt aber nicht, dass sie sich nicht gegenseitig geholfen haben. Dies haben sie in der Tat getan.
Sie versorgten sich gegenseitig mit Waren und unterstützten einander.
Ein Pokémon schlug den anderen vor, stets den Menschen zu helfen.
Und es bat die anderen Pokémon, stets vor den Menschen zu erscheinen.
Und so erscheinen, bis zum heutigen Tag, Pokémon vor den Menschen, wenn diese durch hohes Gras laufen.
はるか昔シンオウが起こったころ、ポケモンと人間はたがいに依存せずに暮らしていた。
とはいえ彼らが相互に助けあわなかったというのではない。実際にはそれを彼らはしていたのだ。
彼らは相互に品物を与えあい、たがいを援助しあっていた。
あるポケモンがほかのポケモンたちに、いつでも人間を助けることを提案した。
そしてほかのポケモンたちに、いつでも人間のまえに姿を現すことを求めた。
こうして今日に至るまで、ポケモンたちは人間たちが草むらに飛びこむとそのまえに現れるのである。
1 行めではほかの言語が「分かれて、離れて」と言っているところを unabhängig「依存せず、独立して」としている。続きにあるとおり相互援助は行われていたわけだが、かりに相手が存在しなくてもポケモンはポケモンだけ、人間は人間だけで生活や社会が成り立っていたことになる。

あとは 4–5 行めで「助ける」「現れる」について「用意しておく」が消えたこと——これによってかえって日本語版に近づいた——以外は英語版と選ぶところがないため、新しく説明することはない。


フランス語版:Mythologie de la région de Sinnoh

Il y a fort longtemps, peu après la création de Sinnoh, les gens et les Pokémon vivaient séparément.
Ce qui ne veut pas dire qu’il n’y avait aucune entraide, loin de là.
Ils échangeaient de la nourriture et se soutenaient mutuellement.
Un Pokémon proposa aux siens d’être toujours prêts à aider les humains.
Il leur demanda d’aller au devant des humains pour leur proposer leur aide.
Depuis, les Pokémon se montrent à ceux qui s’aventurent dans les hautes herbes.
久しき昔、まだシンオウが作られてほどないころ、人とポケモンは分かれて暮らしていた。
助けあいがなかったというのではない。それとは程遠い。
彼らは食べものを交換し、たがいに支えあっていた。
あるポケモンが仲間たちに、いつでも人間たちを助ける用意をしておこうと提案した。
彼ら〔=人間たち〕に対し助けを申し出るために、人間たちのまえに先回りすることを求めたのだ。
それ以来、ポケモンは草むらに突っこむ人々のまえに姿を現す。
興味深い差異は第 3 行で、取引するものが nourriture「食品」に限定されていることで、フランス語版独自の点である。これは日本語の「もの」や英 goods、独 Waren などが——食べものを含みつつも——より広い一般の品物を思わせることと対照的である。これはポケモンが人工的な道具を使わないという理解から出た翻訳であろうか。あるいはこの原始の時代には人間もまだ道具をもっていなかったと考えたのかもしれない。

もう 1 点、第 5 行ではポケモンが人間のまえに登場することにつき、leur proposer leur aide「彼らに自分たちの援助を持ちかける」という目的が補われている。aller au devant de「先回りする」という述語ともあいまって、ポケモン側の主体的な意志、人間を助けることへの積極性が強調されているように見受けられる。そして相対的に、人間がまだ弱く無力であるという印象が強まっている。


イタリア語版:Mitologia della regione di Sinnoh

Tanto tempo fa, agli albori della regione di Sinnoh, Pokémon ed esseri umani vivevano vite separate.
Questo non significa che non si aiutassero vicendevolmente.
Al contrario, si procuravano prodotti e si sostenevano a vicenda.
Un Pokémon avanzò agli altri la proposta di essere disponibili con gli uomini.
Chiese che i Pokémon fossero pronti a comparire sempre di fronte agli umani.
Per questo al giorno d’oggi i Pokémon ci compaiono davanti nell’erba alta.
ずっと昔、シンオウ地方の黎明期には、ポケモンと人間は別々の暮らしを送っていた。
これは彼らが相互に助けあっていなかったという意味ではない。
その反対に、彼らは品物を世話しあい、たがいを支えあっていたのだ。
あるポケモンがほかのポケモンたちに、人間たちに協力する準備をしておこうという提案を出した。
いつでも人間たちのまえに現れる用意をしておくよう求めたのだ。
このために今日ポケモンたちは草むらのなかで私たちのまえに現れるのである。
ドイツ語版と同様、英語版との違いがまったくと言っていいほどなく、したがって新たにわかることもない。


スペイン語版:Mitología de la región de Sinnoh

Hace mucho tiempo, cuando se creó Sinnoh, Pokémon y humanos tenían vidas separadas.
Esto no quiere decir que no se ayudaran mutuamente, todo lo contrario.
Se intercambiaban bienes y se apoyaban unos a otros.
Un Pokémon propuso a los demás estar siempre dispuestos a ayudar a la gente.
Pidió que los Pokémon acudieran siempre a la llamada de los humanos.
Y, desde entonces, los Pokémon se aparecen al caminar por la hierba alta.
ずっと昔、シンオウが作られたころ、ポケモンと人間は別々の暮らしをしていた。
これは彼らがたがいに助けあっていなかったと言いたいのではなく、まったくその反対である。
彼らは財産を交換し、たがいにたがいを支えあった。
あるポケモンがほかのポケモンたちに、いつでも人間たちを助ける準備をしておこうと提案した。
ポケモンたちがいつでも人間たちの呼びかけに駆けつけられるよう求めたのだ。
そうしてそのとき以来、ポケモンたちは草むらを歩いているときに現れるのである。
このスペイン語版で唯一にして最大の特色として、第 5 行では人間たちの llamada「呼びかけ、呼び声」に対してポケモンたちが馳せ参じることになっている。ポケモンのほうがさきに準備万端整えている点ではほかと変わりないが、人間側の能動性が必要とされている点で興味を引く。ポケモンが常時主導権を握っているフランス語版のテクストとは逆を行っていることになる。

しかしこれもまったく根拠なく言いだしたというよりは、どの版でも人間は草むらに思いきって飛びこむことが最後のひと押しとして要求されていることでは共通しているので、草むらへの冒険=ポケモンへの呼びかけという点を鮮明にした表現であると解しうる。このように多言語を通じて書きなおし/読みなおすことで、同じ事柄でも多角的に見なおして新たな光をあてられるということの好個の証左と言えよう。


総括とあとがき

  • ポケモンが飛びだす現象を古代人なりに説明したこの物語は純然たる神話と呼べる。
  • シンオウ地方が誕生して間もない最初の時代、ポケモンと人間は分かれて暮らしていた。
  • 両者はおそらくたがいの顔を見ることなく間接的にものを融通しあっていた。
  • その取引するものはとくに食べものに限定されていたかもしれない。
  • ポケモンには人間を助けようという積極的な意志がある。
  • 人間が危険を冒して草むらに飛びこむことがポケモンへの意思表示となる。

改めて確認すると、このように英語版のみならずフランス語版やスペイン語版から、それらの独自な点を抜きだして新たな発見とみなすことには一定の危うさもある。日本語から英語、英語からフランス語へと翻訳を重ねるにつれて、不可避的に生じるわずかな言いまわしの違いを針小棒大に取りあげているのではないかといううらみはある。さらに、時としてそれぞれのバージョンがたがいに矛盾し不整合をきたすことさえありうる件を重く見れば、これらを平等かつ統合的に扱うことには原理的に方法論的な困難があると言わざるをえない。

しかるに、すべての版はそのそれぞれの言語のプレーヤーにとっての真実であるということもまた否定しえないであろう。そしておよそ作品というものは——小説・映画・ゲームなどなんであれ——いったん作者の手を離れて公の世に問われたらば、あとは作者であれ変えることのできない自律・独立した存在となる (変えたとすればそれは新旧 2 つの異なるバージョンでしかない)。よしんば翻訳が理想的に遂行されていないとしても、英語のシンオウの世界、フランス語のシンオウの世界、等々はすでに存在してしまっている。

それらは日本語のシンオウの世界とどのような関係を取り結ぶのだろうか。関係がないということはありえない。まったく同じ自然環境があり、まったく同じ姿形の人間たちとポケモンたちがいて、さらに彼らはまったく同じ行動をとる。日本語でシンオウ神話を読んでも、フランス語で読んでも、それぞれの世界のアカギやシロナやその他すべての人々は完全に同じ歴史をたどるのである。各言語版の世界におけるシンオウ神話の偏差は、誰の行動にも寸毫の変化をももたらさないほど小さいことの証拠であろう。

このように考えてくるとき、じつは日本語のシンオウの世界でさえひとつのバージョンにすぎないのではないか、という相対化の契機にわれわれは逢着する。これまでの 3 回の——そして今後も続く——ケーススタディから判明するように、われわれの目に見えている各言語版のシンオウ神話にはそれなりの相違点があり、とくに日本語版とそれ以外との違いは大きい。もし内容の違うものを読んでいるなら理解も異なり、そこから受ける影響もなにかしら違ってくるはずではないか。そのことはミオ図書館の蔵書のみならず、作中のありとあらゆる文書や発言のすべてについて言えるため、なんらの変化も生じないということはとうてい考えがたいのだが、現に世界にそういうことは起こっていない。

このことをもっとも合理的に説明する仮説は、本当はシンオウの世界で話されているのは「シンオウ語」とでも名づくべき、日本語とはまた異なるひとつの言語であって、日本語版とてもその翻訳に過ぎないという考えかたである。実際にはシンオウ語で動いている世界ただひとつだけが存在して、その唯一の世界の歴史をわれわれは日本語や英語などへの翻訳を通して目撃している、だから何語で読んでも起こるできごとが一定なのだというわけだ。

シンオウ語の存在が決して突飛な推測などでないことは、作中の固有名詞からも裏づけられる。ディアルガ (Dialga)、パルキア (Palkia)、アルセウス (Arceus) といった名称はどう考えても日本語ではないが、そういう名前の存在が神話の昔からこの土地には伝わってきているのである。これらのポケモンは日本語を含むどの言語でも共通する名前で呼ばれており、日本語も英語その他もシンオウ語本来の音の転写をしているものと考えられる。これに対して、主人公や博士やジムリーダーらの人名や町々の地名は各国語版で異なっているため、シンオウ語における名前——それらの原音は知りえない——を訳してわかりやすくしているものと理解しうる。

したがって、われわれはふつう、日本語版の世界がオリジナルであって日本語のテクストが唯一の正文であると考えがちだが、それはこのゲームが日本で制作されたと知っていることから来る、まったくメタ的な視点からもたらされる先入見であった。自律した作品世界内の人々にとってはそんなことは知ったことではないのである。現実には日本語版のテクストがまず書かれ、それが英語その他に翻訳されていることは言うまでもないが、そのような論理はゲーム作品の制作史の研究、制作過程の社会学ではありえても、シンオウ世界そのものの理解に際しては力をもたない。レイヤーが異なるのだ。

どの言語のプレーヤーも、実際にはシンオウ語を話す作中の人々の言葉を翻訳で読んでいるにすぎないのだとすれば、どうして日本語版テクストが特権的位置を占めると言えるか。むしろ日本語版も英語版もフランス語版もすべて平等な立ち位置にあることにはならないか。これが翻訳比較によるシンオウ神話研究を正当化する論理である。どの言語版も「シンオウ語の原文」の意味をいくらかずつ伝えているのであって、だからこそ日本語版だけではなくすべての翻訳を参照するべきなのである。……以上はいわば形而上学的な理由づけであったが、これに加えて翻訳比較には、上にスペイン語版の項で言及したようなプラグマティックな効用もあることを確認しておく。

そうはいっても、最初に触れた方法論上の問題点が解消されたわけではない。内容の整合しない複数のテクストがあったときどのように取り扱うべきか、それをたとえば単純な多数決に依拠することはあまり実りある結果を生むとは思われない。「現実には」独・仏・伊・西語版は英語版からの重訳によっていることがその原因であるが、そのことを形而上学的な議論とどう接続するべきかは未解決である。

さらに、私はさきに「シンオウむかしばなし その3」を扱ったおりに、人とポケモンとの結婚という日本語版 (と中国語版) に特有の記述を強く擁護すべき立場を表明したけれども、これは今回到達したような各言語版を平等に遇するべきという視座からすれば再考を余儀なくされるであろう。だがすでに抽象的な議論が長くなりすぎたゆえ、以上の問題点の検討についてはまた他日を期したい。

jeudi 16 septembre 2021

シンオウ神話翻訳集成 (1) シンオウしんわ

リメイク作品『ブリリアントダイヤモンドシャイニングパール』の発売を前にして、『ダイヤモンド/パール』における「シンオウ神話」を読みなおすことを企図し、これから日本語版と欧米 5 言語版との翻訳比較を試みる。欧米語版は原文と並べて翻訳を提示し、原文を読めない読者にも違いを比較しやすいようなるべく過不足のない直訳を与えるよう努めたので、ぜひ今後の考察の基礎資料として利用されることを希望している。これから作中で見られる神話関連のテクストを網羅する予定であり、この記事ではミオとしょかん 3 階の上列左端の棚にある「シンオウしんわ」について扱う。


2021 年にあえて古い『DP』版のテクストを取りあげることについては、リメイクおよび『LEGENDS アルセウス』に向けた復習ということのほかに、ひょっとすればリメイク版で日本語版あるいは欧米語の翻訳テクストに変更・修正が加わる可能性があるので、それに備えた記録も兼ねていると理解されたい。もし修正が行われるとすればその点こそが「神話」の正しい理解にとって枢要だということが明白であるから、その比較のためにも旧版を知っておくことは有益だということになる。反対に修正がないならこの記事は以後もそのまま役に立つので、どちらに転んでも無駄にはならない。

ところで、用語についてはひとつ明確にしておくべきことがある。ここで括弧なしもしくは単括弧つきで「シンオウ神話」と称するのは、ゲーム中のミオとしょかん 3 階で閲覧できるテクスト、すなわち「シンオウしんわ」「シンオウちほうの しんわ」「シンオウの しんわ」「トバリの しんわ」「はじまりの はなし」「おそろしい しんわ」、ならびに「シンオウ むかしばなし」その 1 からその 3 までの計 9 編のテクストと、プレートに刻まれた 8 種類の銘文、シロナやカンナギタウンの老人などが語ってくれる話などによって描かれている神話体系のこと、要するにこれらの文献や証言から構成される、シンオウに伝わる神話の全体系のことを言う。現実世界において「ギリシア神話」や「北欧神話」などと呼ばれるものとパラレルな用法と考えてよい。

❀ 正確には「昔話」は「神話」から区別されるべきだが、ここでは便宜的に一括りにしてしまった。今回、翻訳比較の連続記事を出すにあたって別扱いにするのが面倒だという事情が直近の理由である。

しかしもっと根本的な問題として、作中で「神話」あるいは「昔話」と称せられているものが、神話学や口承文芸研究の立場から見て本当にそれらの名に値するのかは、より細密な検討を要するように思われる。直木孝次郎がいわゆる記紀神話について「神に関する話だから神話だというような単純な考え方は、学問的ではない。神話といわれるためには、いくつかの条件がいる」(『日本神話と古代国家』35 頁) と批判することは、文脈から切り離して読んでもなお有効であろう。

ポケモンにはさらに「伝説」という言葉も頻出する。これには初代以来の事情もあっていまさら整理するのも困難があるのだが、神話・伝説・昔話といったジャンルの区別が制作者たちによく理解されていないおそれがある。もっとも原理的にこれらの区別は文化によっても異なって難しく、とりわけ神話と昔話とには密接な関係があって境界が曖昧なところがあるのだが (詳しくはたとえば大林太良『神話学入門』の II 章を参照)。ともかくそれゆえ、少なくともその検討が一段落するまでは、あえて「シンオウ神話」の各話を分類しようとすることは無謀だと考えている。

〔2021 年 11 月 22 日追記〕3 つのジャンルの区別について「(16) ポケモン図鑑:アルセウス」の記事で簡単に解説しておいたので参考にされたい。

上述の意味の「シンオウ神話」に対して、ミオとしょかんの本にも——漢字かかなかは問題ではないので以下ではもっぱら漢字を使うが——「シンオウ神話」「シンオウ地方の神話」「シンオウの神話」という名称があるためにややこしい。しかしこれらは正しくは二重カギ括弧で『シンオウ神話』などと書かれるべきものであろう。「シンオウ神話」と「シンオウの神話」という別々の名のついた異なる神話があるのではなく、これらはたんに本のタイトルの違いと思われるからである (現実にもたとえばケルト神話を扱った本に『ケルト神話』『ケルトの神話』『アイルランドの神話』などさまざまな題名がありうるのと同じ)。日本語のルールでは書名は二重カギでくくることになっている。

各言語版のテクストは、以下の各国語版ポケモン wiki より引用した (閲覧した版はこの記事作成時点における最新版)。ただし改行位置などについて細かな改変をとくに断らずに加えた場合がある。


日本語版:シンオウしんわ

おこるな ??が くるぞ
かなしむな ??が ちかづいてくるぞ
よろこぶこと たのしむこと
あたりまえの せいかつ
それが しあわせ
そうすれば ??? サマの
しゅくふくが ある
というのが くちぐせ だ
合計 3 ヶ所ある「??」「???」にあてはまる言葉がなんであるかについては定説がない。ただし前半が感情について語っていることから、最後の「???サマ」はエムリットでないかとする説が有力であるようだ。異説として、最初の 2 回の「??」がダークライであるとし、それに対応して最後をクレセリアと解する意見もあるが、以下の欧米語版を考慮に入れると賛同できかねる。

文字数についてとくに注意すると、この「???」という表記はかならずしも 3 文字と解する必要はないかもしれないし、あるいはエムリットの昔の名称であると考えることもできる。「??」と「???」でわざわざ変えていることを重視すれば文字数には意味があると思われ、後者の解決法のほうが納得しやすい。しかしながら、そもそも本に「???」と記されていることじたいが問題含みであり、名前が現代に伝わっていないのであれば著者じしん正解の文字数など知らないことになるからその場合はあてにならない。それとも本にはちゃんと書いてあるのだが塗りつぶされているのを主人公が「???」と読んだだけかもしれない。

「というのが口癖だ」という結末部もいささか謎めいている。いったい誰の口癖なのだろうか。この全体が「神話」のエピソードなのだとすれば、これも含めて神話時代の神的存在の言動を描いているのかと思ってきたが、英語版その他はそうではなく、現代に近い時代の人々の口癖として訳している。たしかに「口癖」と言うからには言葉を話していることになるが、神話のなかでもポケモンが話す例はわずかに『トバリの神話』の 1 例しか観察されないので、人間と解するのがふつうだろう。「???サマ」を自分より上位の存在として崇めている点も、この人物 (?) が神 (?) に比べれば卑しい存在であることを示唆している。より詳しくは次の英語版へのコメントを参照。


英語版:Sinnoh Myth

Betray not your anger, lest ??? will come.
Weep not with sorrow, or ??? will draw near.
When joy and enjoyment come natural as the very air, that is happiness.
Let such be blessed by the hand of Master ???.
Those words were spoken often as customary.
怒りをあらわにするなかれ、???が来たらぬように。
悲しみに涙するなかれ、さもなくば???迫り来ん。
喜びと楽しみがまさしく空気のごとく自然となるとき、それが幸福なり。
かくのごときが???様の手にて祝福されてあれ。
これらの言葉が習慣としてしばしば語られていた。
1–2 行めの not の用いかたは文語的であって、口語ではふつう Don’t ... と言うべきところである。また 1 行めの lest もかなり堅い単語であり、これらのことから古臭い感じに訳しておいた。(ただ私見では will の存在のせいで文語調になりきれていない感じがする。lest 節は仮定法現在でただの come とするほうが高級な雰囲気が出ると思う。)

第 4 行で日本語原文の「サマ」を表すべく ??? のまえに付された Master が注目に値する。強く男性を思わせる表現であり、100 % メスであるクレセリアにあてはめるには適当と思われない。このことは以下で見るさらなる他言語訳でも確証される。

さてこの Master はどうやら大文字で人の名前のまえにつく用法で使われている。ただし「人」というのはもちろんわれわれの世界の場合であって、ポケモン世界の英語では偉いポケモンにつけていけないことはないだろう。そのような Master の用法としてまずは、Mr. (Mister) に代わる古語もしくは方言であるか、あるいは Mr. をつけるには早いような年少の男子に対して言い、「ぼっちゃん」や「若様」などと訳せるような場合かが考えられるが、いまひとつしっくりこない。「修士 (号)」と無関係であることも言うまでもない。ここはむしろ「(主に宗教的な) 師・上位者に対する敬称」ととるのがいちばんもっともらしく思われる。

❀ もしこれらでないとすればまた、神話で「人間と特定の動物の間の仲介者とみなされる超自然物」(『小学館ランダムハウス英和大辞典』) という語義も master にはあるようで、エムリットたちとディアルガ・パルキアとの関係を考えると一見意味ありげだが、このような場合に使えるかは疑わしく、他言語訳にもその反映を見ることはできない。

最終行は、日本語の「というのが口癖だ」に対応して「これらの言葉が〜」と言われており、上の 4 行がよく人々の口に上った言いまわしの引用であることを示している。つまり厳密に言えばこの行は神話そのものではなく、『シンオウ神話』という本の著者による解説文であって、この本が書かれた現代に近い時代の習慣であったということだろう。

このことを踏まえて全体を見なおしてみると、この話は現在と地続きの時代の、一般の人間が守るべき教訓を語っており、タイトルに反してむしろ神話らしくはない。「???」にあてはまる具体的な固有名詞が本来あったであろうことを考えあわせると昔話でもなく、歴史的な事実にもとづいた「伝説」というジャンルにいちばん近いようだが、できごとそのものを語ることより人々への忠告を伝えようとする比重があまりに大きく、ここだけではそもそも説話ですらないと言うべきかもしれない (この部分よりまえに、これらの教訓を引きだすような物語がついているというなら別だが)。


ドイツ語版:Sinnohs Mythologie

Lebe deine Wut nicht, damit ??? nicht erscheinen wird.
Weine nicht vor Kummer, oder ??? wird näher kommen.
Natürliche Freude, natürlich wie der Wind, das ist Glück.
Mögen jene durch die Hand von Meister ??? geweiht sein.
Diese Worte werden oft auf Glückwunschkarten geschrieben.
憤怒の生活を送ることなかれ、以て???の現ることなきように。
悲痛のために涙するなかれ、さもなくば???が近づくであろう。
自然なる喜び、風のごとく自然なる、それが幸福である。
かのことごと (人々) が???様の手により清められますように。
これらの言葉がしばしば祝いのカードに書かれる。
冒頭のように leben が目的語をとる他動詞として用いられるのは典雅な用法で、逐語訳すれば「汝の憤怒を生くることなかれ」のような言いかたになっている。

第 4 行 mögen は話し手の願望を表す接続法 I 式の 3 複。この文の主語 jene は複数形で性別が消えるせいで人とも物ともとれるが、これは次に見るフランス語版では人、イタリア語版では物、スペイン語版では「私たち」とされている。さらに動詞として「祝福する」を表すふつうの segnen ではなく、weihen「聖別する、清める」(英語の consecrate にあたる) が使われている点もあいまって容易な解釈を許さない。英語の such「そのようなこと/人?」が bless されてあるように、という文がいかに曖昧で翻訳者たちが混迷したかということを端的に示すものといえよう。

最終行は日本語はもとより欧米 5 言語のなかで比べても特異であり、口で言われるのではなく Glückwunschkarte (文字どおり「幸福を願うカード=賀状」) に「書かれる」ことになっている。しかもそれが現在形で語られている点でも独自路線を行っているが、日本語版は「口癖だ」という非過去であったからある意味先祖返りである。とにかくドイツ語版のシンオウではほかとはまったく異なる慣習が生まれているようだ。


フランス語版:Mythes de Sinnoh

Ne trahissez pas votre haine, pour ne pas précipiter la venue de ???.
Chassez au loin vos sanglots, pour éviter que ??? ne s’approche.
Lorsque la joie et la célébration seront pour vous des sentiments naturels, vous aurez atteint la béatitude.
Ceux-là seront bénis par le Maître ???.
Autrefois, on avait coutume de prononcer cette formule.
憎悪を漏らすことなかれ、???の到来を焚きつけぬために。
嗚咽を遠くへ追い立てよ、???の接近を避けるために。
歓喜と賛美があなたがたにとって自然な感情となるとき、至福に到達しているだろう。
その人たちは???様によって祝福されるだろう。
かつてはこのような決まり文句を唱える習慣があった。
1 行めで「???」を呼びこむトリガーとなる感情は、日本語を含むほかの 5 言語における「怒り、憤り」と異なって、haine「憎しみ、憎悪」という重い言葉になっている (この語は仏仏辞典 TLF では「誰かに対する深甚な反感の思いで、ときにその者の衰弱または死を願わしめるようなもの」と語釈されている)。これほどの強い感情によって招かれる「???」とは何者なのだろうか。

3 行めの描写も他言語版とは異なっている。ここでは従属節が単純未来、主節の時制は前未来に置かれている。つまり歓喜と賛美が自然なものとなるとき、「そのときにはすでに」浄福の境地に達してしまっているという表現である。「あたりまえのせいかつ/それがしあわせ」という素朴な日本語版から英訳を経由してこのフランス語に至るまで、ずいぶん遠くにきたという印象をもつ。論理的なフランス語話者の思考によればこの至福状態はどうしても前未来でなければならないようだ。


イタリア語版:Sinnoh mitologica

Non rivelate la vostra collera, per tema che venga ???.
Non versate lacrime di dolore, altrimenti ??? si avvicinerà.
La felicità si raggiunge quando gioia e piacere giungono naturali come l’aria.
Lasciamo che tutto venga protetto dalla mano del Signore ???.
Quelle parole venivano usate spesso come abitudine.
怒りをあらわにするなかれ、???が来るおそれがあるから。
悲しみの涙を流すなかれ、さもなくば???が近寄るだろう。
幸福は喜びと楽しみが空気のように自然に至るとき得られる。
一切が???様の手で護られるままにしておこう。
これらの言葉が習慣としてしばしば行われていた。
英語版に忠実な訳になっている部分がほとんどだが、第 4 行だけは大きく異なっている。この文は 1 人称複数の勧誘で始められており (これは次のスペイン語版と共通)、続く tutto は単数であるから「すべてのこと」であって「すべての人々」ではない (この点ではフランス語版と真っ向対立している)。そしてそのすべてのことが「???様」によって「保護・庇護される」ようにと言われているが、第一候補であったエムリットはこのような強力な庇護者として適格であろうか


スペイン語版:El mito de Sinnoh

No traiciones tu ira, o llegará.
No llores con pesar, o se acercará.
Cuando la alegría y el gozo de vivir nos inundan, estamos ante pura felicidad.
Seamos bendecidos por la mano del Maestro.
Estas palabras se decían de forma habitual.
怒りを漏らすな、さもなくば来らん。
悲しみに涙するな、さもなくば近づかん。
生きる喜びとうれしさに満たされるとき、私たちは純粋な幸福に出会う。
師の手によって祝福されようではないか。
これらの言葉が習慣的に言われていた。
他言語と比べたときまっさきに気づかれる違いは「???」がどこにもないことである。たしかにもともと「???」の正体がわからないからには文章全体の情報量は変わっていないかもしれないが、「???」があることによってなにか失伝もしくは削除された単語が存在することがわかるのに対し、このスペイン語版はあたかも最初からこのような完全な文章であるかのように見えてよろしくない。

第 3 文では「生きることの」喜びという限定が加わっている点が特色である。「よろこぶこと たのしむこと/あたりまえのせいかつ」という日本語版と比べたとき、いくぶん大仰になってはいるが欧米語中で唯一「生活」の語の反映を見られる点で原文の純朴さにもっとも近い訳であると言えそうだ (フランス語版の高尚さとは好対照である)。

第 4 文では「師=???サマ」によって祝福される主語が「私たち」になっているが、この点もまた日本語版にいちばん近いと言えるのではないか。日本語ではこの一連の忠告を受けている「おまえたち」、あるいは語り手自身も含めた「私たち」というべき、語りの場に居あわせている身近な人たちが当事者だったのだから。


総括とあとがき

  • 『シンオウ神話』という題だがこの部分は神話とは言いがたい。
  • 「??」は怒りもしくは憎しみの発露によって呼びこまれる存在である。
  • 「???=クレセリア」説は欧米 5 言語すべてによって棄却される。
  • 「???=エムリット」説はイタリア語版によるといささか怪しい。
  • これらの文句を記念のカードに書いてやりとりする習慣が現在もある?

最後にいまさらのように付け足すけれども、この対訳による検討が意味をもつためには、すべての翻訳版が制作サイドの意図を適切に汲んだ正統なテクストであることが必要である。今回の「シンオウしんわ」に即して言えば、たとえば「??」と「???」にあてはまる語は裏設定としてしっかり用意されており、その設定は翻訳者たちに共有されていてそれに沿った翻訳がなされていることが当然期待される。制作者じしんよくわかっていないものを他人に訳せというのは無理な相談だからだ。

ところが以上仔細に検討してきたように、なかんずく第 4 行の比較に顕著であるように、英訳 (Let such be blessed...) が残り 4 言語に引きおこした混乱を見るかぎり、はたして日本語版の制作者の意図が十全に伝わっているのかという、この根底からして揺らいでいるように見える。そうだとすれば英語版、さらにはそこから重訳された他言語版の単語選びを根拠に「神話」の内容について推論を導くことは基盤が不安定であると認めねばなるまい。

しかしながら、日本語版によってのみ考察するという試みが早くに壁にぶちあたっていることもまた事実である (そうでなければこの 15 年でもっと多数のかつ堅固な結論が出ているはずではないか)。このような桎梏を脱するために、ひとつでも新たな判断材料を提供することができれば、この翻訳はシンオウ神話研究にわずかなりと貢献できたことになるだろう。それを目的としてこのような対訳を提供するしだいである。また後日、リメイク版『ブリリアントダイヤモンド/シャイニングパール』においてよりよい (翻訳) テクストが現れた場合には、改めてそれについて検討するつもりである。

mardi 14 septembre 2021

ひとと けっこんした ポケモンがいた——ローカライゼーションの悲劇

『ダイヤモンド/パール』のリメイク作、『ブリリアントダイヤモンドシャイニングパール』の発売までいよいよ残すところ 2 ヶ月あまりとなった。そのさらに 2 ヶ月後には同じ地方の過去の時代を描く『Pokémon LEGENDS アルセウス』も出ることが予定されており、そのホームページの告知には「ダイヤモンド/パールとのつながり」が言及されているからには、おそらく『BD/SP』にもすでにいくらかは過去の出来事、すなわちナナカマド博士の祖先についてやポケモン図鑑の原型を作った先達について、そして本来はこのように立派な目的に邁進していた草創期のギンガ団の活動についてなどの話が盛りこまれているに違いないと期待される。

過去の時代のシンオウ地方といえばわれわれがまっさきに思い起こすのはやはり、『DP』のミオとしょかんで読むことのできたシンオウ神話や昔話のことである。前作までに比べて圧倒的にスケールアップしたポケモン世界の創世神話、そしてなによりポケモンと人間との境界を曖昧にした「シンオウむかしばなし」のグロテスクな内容は、当時のプレーヤーに決して忘れられない絶大な印象ないし爪痕を残した。ポケモンを食べていた話、ポケモンが皮を脱ぐと人間であるという話、最後に極めつけが、ポケモンと人間が結婚するのが普通のことだったという話である。

リメイク作でもこれらはそのまま再掲されるのだろうか。もちろんすでに描かれたことについては覆してほしくないが、たんなるコピー & ペーストでは芸がない。爾来 15 年、世界の設定について考えを深め、練りなおす時間はいくらでもあったはずだ。アニメや映画などで同じ舞台や伝説のポケモンなどを扱うたび、それはそのまま設定を熟考するまたとない機会となったはずである。ぜひとも当時よりも深く掘り下げられ肉づけされた世界の物語に出会いたいものである。

そういった願望を抱きつつミオとしょかんのテクストを読みなおしていたおり、ふとこれは翻訳版ではどうなっているのかという疑問に立ち至った。当時の私にはできなかった各国語版の翻訳比較をこの機会にしてみてはどうか。そう思って目を通してみたところ、「シンオウむかしばなし その3」の内容に奇妙に大きな違いがあることに気がついた。それが今回の記事のテーマである。

まずは日本語版の原文を確認しておくと、次のとおりである。(なおテクストについては、他言語版も含めて各国語版のポケモン wiki に依拠した。)
日本語版
ひとと けっこんした ポケモンがいた
ポケモンと けっこんした ひとがいた
むかしは ひとも ポケモンも
おなじだったから ふつうのことだった
これに対し英語版では次のようになっている:
英語版
There once were Pokémon that became very close to humans.
There once were humans and Pokémon that ate together at the same table.
It was a time when there existed no differences to distinguish the two.
〔拙訳:
かつて人ととても親しくなったポケモンがいた
かつて同じ食卓につき食事をともにした人とポケモンがいた
両者を区別するなんらの違いも存在しない時代であった〕
驚くべきことに、人とポケモンとの結婚についてただの一言も触れられていないのである。ここで「親しい」という形容詞の原語は close である。これは余人を交えない親密な関係を意味するが、intimate のように性的な含みはない。続く 2 行めではその関係の具体的な描写がされており、気のおけない対等な仲であることはわかるが、やはり「結婚」を読みとるにはまだ距離があるように思われる。そもそもこの文章には性別がいっさい出ていないのだから、これだけ読んで男女の仲だと思うのは飛躍だろう。

❀ ここで同性婚とかのややこしい問題にはかかずらわない。このテクストが「むかしばなし」と銘打たれていること、つまり伝統的な価値観で読みとくべきことをお忘れなきよう。それに性指向にかかわらずこの文章から「結婚」と解釈するのが飛躍であるという論旨にも変更はない。

ただし、同じ食卓で食事をともにするということを聞いたとき、この英語版の読者がキリスト教徒であれば連想するであろう事柄がある。イエスが罪人や徴税人とも分け隔てなくいっしょに食事していたという福音書のエピソード、それからユダヤ人の律法と、パウロがペテロを非難したアンティオキア事件である。ユダヤ人には罪人や異邦人といった「穢れた人」とは食卓をともにしてはならないという掟があったのだが、すべての民に福音を宣べ伝えるという使命から彼らは、もともとユダヤ教徒でありながらあえて会食していた。だがエルサレムの権威におもねったペテロのほうが保守的な態度に戻ってしまい会食を取りやめたとき、パウロは断固としてそれを叱責したのである。このことは後でもういちど触れる。

話を戻して、ほかの諸訳も参照してみると以下のとおり:
ドイツ語版
Einst lebten Pokémon, die den Menschen sehr nahestanden.
Einst gab es Menschen und Pokémon, die am selben Tisch speisten.
Einst gab es eine Zeit, als es keine Unterschiede zwischen diesen gab.
〔拙訳:
かつて人ととても親密なポケモンが暮らしていた
かつて同じ食卓で食事をする人とポケモンがいた
かつてこれらの間に区別がない時代があった〕
フランス語版
Il fut un temps où certains Pokémon étaient très proches des humains.
Un temps où humains et Pokémon mangeaient à la même table.
Un temps où aucune différence ne permettait de les distinguer.
〔拙訳:
人ととても親しいポケモンがいた時代があった
人とポケモンが同じ食卓で食事した時代
それらの区別を許すなんらの違いもなかった時代が〕
ドイツ語版はほぼ英語版と同じ、フランス語版も「時代」が最初から出て 3 度繰りかえされていることのほかはたいした相違点がない。
イタリア語版
Un tempo esistevano Pokémon molto legati agli esseri umani.
Un tempo Pokémon ed esseri umani mangiavano alla stessa tavola.
A quel tempo non c’erano differenze tra Pokémon e uomini.
スペイン語版
Érase una vez un Pokémon muy cercano a los humanos.
Éranse una vez humanos y Pokémon que comían en la misma mesa.
Érase una vez un tiempo en el que no había diferencias entre los dos.
これらもほぼ同文なので改めて訳文は繰りかえすまい。強いて言えばスペイン語版のみ 1 行めで「ポケモン」が単数になっていることが引っかかるが (英・独・仏・伊はすべて複数)、目につく違いはそれくらいである。ほかのゲームでもたいていそうであるように、英語以外の欧米語版のローカライゼーションというのは英語からの重訳なのであろう。そうでなく別々に日本語から直接訳しているのであればこれほど一致することはありえまい。

❀ なお、中国語版は私が読めないのでここでは扱わないが (機械翻訳にかけることは「読む」とは言わない。念のため)、どうも「结婚」という字が見えるので日本語版に忠実らしいようには思える。これもまたローカライゼーションではありがちなことである。

こうして見てくると結局、欧米語訳ではどの翻訳も「結婚」を思わせるところはまったくないことがわかる。そしてこれが重訳なのであれば、その理由と責任は全面的に英語版の翻訳に帰されるだろう。

なぜこのような変更がなされたか。それは想像の域を出ないが、もっともらしい理由はいくつか考えられよう。日本人でもただちに考えたであろうように、この文章は獣姦のタブーを思わせる。またキリスト教原理主義者のうるさいアメリカで提供するにあたって、人間とポケモンがかつて同じであったという記述は人間進化の問題に抵触するし、結婚の聖性をおびやかすところもある。こうした難点から誰かが日和った、あるいはそうしなければレーティングの審査に引っかかったというようなよんどころない事情があったのだろう。

だがだからといってこのような歪曲・捏造を許容できるかとなると別問題である。人とポケモンが結婚していた……この強烈なインパクトを与え、15 年たっても鮮烈な印象を残している記述抜きに、『ダイヤモンド/パール』の世界を語ることはできまい。ここが違うのでは日本のプレーヤーと欧米のプレーヤーは同じゲーム体験をしていないと言ってもいいくらいである。

日本語でこの「むかしばなし その3」を読んだ当時のプレーヤーは、ある者はその衝撃的な発想に嫌悪感を覚えトラウマ化したかもしれないし、ある者は興奮し悶々と妄想をたくましくしたかもしれない。よかれ悪しかれ、この刺激的なテクストはわれわれの脳裏に深く刻まれ、そうしてポケモンと人間の関係、ポケモンの起こりと存在様態、そしてポケモン世界の歴史などに関するさまざまな想像・考察・議論を惹起した。あのころリアルタイムに Twitter はなかったが、それから何年たったあとでもこうした根源に関わるテーマの考察では食傷ぎみなほど頻繁に引かれる一節となっている。このような喚起力を欧米語版のプレーヤーは体感できなかったことになる。

テクストの解釈に戻ろう。「結婚」はこのテクストを、ひいてはシンオウ地方の文化・風土を理解するための必須のキーワードである。最後の 1 文、「ひともポケモンもおなじだった」という部分は、翻訳でも「区別する違いはなかった」とやや後退しつつもおおむね同じ内容を伝えている。しかし「結婚」というキーワードを抜きにしてはこの「おなじだった」「違いはなかった」というのがどういう意味なのか、正しい把握に近づくことができない。

結婚ができて、生殖が可能であるから「おなじ」というのであれば、これはただちに生物学的種が同じであると解釈できよう。もちろんそれだけには尽きない。このような雑婚が「ふつうのことだった」のだから、人とポケモンの生活圏は緊密に混じりあっており、地理的・歴史的・文化的などさまざまな側面でも「おなじ」になっていたと考えるのが自然だ。というのは 2 国間の国際結婚に置きかえて考えてみると、自由にかつ頻繁にそれが行われるのであれば、まず前提として日常的に交流があり、かつ言語や習慣の違いといった障壁が低いことが要請されるし、これが長く続いて血縁が入り交じるにつれて融和が進み、国が分かれている必要さえ薄れてくるのではないか。

❀ であれば、最終的に人とポケモンの結婚の習慣が廃絶されるまえには、それほど密に混交していた両集団が引き離されるようななんらかの重大事件があったはずで、それこそがトバリ神話の描いているできごとなのではないかとも想像が膨らむが……これ以上は脱線が過ぎるので控えよう。ともあれ、こういったことを読者に想像させ、世界についておのずと深みを感じさせることに成功している点で、じゅうぶんこのテクストには大きな価値があるといえる。

❀ もう 1 点念のため注記しておくが、この話は作中においても昔話として語られているのであり、(前述の推論も含めて) 作中世界における歴史的事実であるとは限らない。しかしたとえ事実でないとしても、作中の「昔」の人たちによってそう信じられていたということはべつの事実であり、そういったことからこのテクストじたいに解釈・研究する価値が生じるのである。

翻って欧米語版では、同じ食卓を囲むほど親しかったら「おなじ」というのだが、これではなんのことだか意味がわかるまい。同じ食卓だから「違いはない」……まさか小泉構文ではなかろう。最大限好意的に解釈してみると、人とポケモンのあいだに「差別」がない、ということを言いたいのかもしれないと考えうる。あるいは前述したように、分け隔てなく食卓をともにするということは聖書の教えにもかなっているからか。たしかにこれなら——オリジナルとかけ離れた勝手な主張ではあれ——子どもたちに伝えるぶんにも立派なテーマに違いない。ただその時代が「かつて」のことだというのでは現在のシンオウには差別があることになってしまうが。

考えてもみれば、食事をともにするほど親密だった「時代があった」などということじたい話がおかしいではないか。人とポケモンが並んで席につくくらいに仲がいいシーンなど、アニポケでもいくらでも見られる現代のありふれた光景だろう。その程度のことを聞かされても「ああそうだね」としか思わないし、それを民話・昔話として「かつてそういう時代があった」というのは意味不明である。いまの時代ではポケモンとの関係はそうでないとでも言うのだろうか? 「結婚」という現在とは隔絶した習慣だからこそ意味をなしていた文献を下手に改変したせいで話そのものが成り立たなくなってしまっている。

以上論じきたったように、この英語版における「結婚」の削除と翻訳の捏造は、もし忠実に訳していたらば欧米のプレーヤーも楽しめたであろう作品のインパクトを完全に消し去り、本来の日本版の世界観を見失わせたうえに、ポケモン世界の考察に資する重大なヒントをひとつ奪った。かてて加えて、訳文を単独で読んだとしてもよくて無意味、悪ければ意味不明で混乱させるものになっているとあっては、この「むかしばなし その3」は欧米語版ではむしろ訳さずまるごと削除したほうがまだしもましだったのではないかと思いたくなる。これを悲劇と言わずしてなんと呼ぼうか。

そしてこの悲劇は、重訳をしていなければ英語版だけで食い止められたかもしれないものである。一口に英語と言ってもアメリカ・イギリス・オーストラリアその他多くの地域に、またフランス語もフランスとカナダ、スペイン語はイベリアとラテンアメリカの諸国に買い手をもっている。前述のとおりこの歪曲が行われた理由の「タブー」については憶測の域を出ないが、国も言語も違えば文化も異なり、なかにはアメリカほどタブー視されず直訳が可能であったところもあるのではなかろうか (中国語版のように)。そういった細やかな対応ができないせいで、アメリカ英語版の事情だけによって全ヨーロッパと南北アメリカのすべてが一蓮托生、同じ不利益を被ってしまうというのも遺憾にたえないところである。コスト面で難しいというのであれば、せめて日本語を読めている英訳者が自身の捏造した点について重訳者たちへ申し送りを残すことを願いたい。近年の作品でも状況は変わっていないとおり、重訳のベースとなる英訳の責任の重大さはなお十分には認識されていないように思われてならない。


〔2021 年 10 月 29 日追記〕「シンオウ昔話その1」および「その2」の翻訳比較は別記事「シンオウ神話翻訳集成 (7) シンオウ むかしばなし」に与えてある。さらにその記事を含む連載においては、ミオ図書館のすべてのテクストを含む、作中の神話資料の翻訳作業を進めているのであわせてご覧いただきたい。

〔2021 年 11 月 29 日追記〕幸運にも当初予想していたより多くのかたの目に止まり読んでいただく機会に恵まれ、いろいろな反響を頂いているのだが、そのなかにひとつ誤解と言いたくなるものがあった。「これを『悲劇』と言いきってしまうのもエスノセントリズムじゃないのか」というご批判であるが、誤解ではあってもそこにはなお重要な論点が含まれていると思われるので、本論の補足も兼ねて返答をここに追記することは無駄ではあるまい。

原典をそのまま忠実に他言語に移すのではなく、異質な文化を背景にもつ海外の受け手に配慮して、その人たちに受容されやすいように翻訳するというのはたしかにひとつの戦略であり、それには翻訳理論で同化 (domestication) というれっきとした名前がついている。そこで問題はこの「シンオウ昔話その3」の翻訳にあたって同化的翻訳を行ってよいか、あるいは行うべきか、というのが焦点になるわけで、上で論じたように私はそれはすべきでないというか、少なくとも『DP』で実際に行われたやりかたは不適切であったという立場に立っているのだが、それをエスノセントリズム (自民族中心主義) と評されたことになる。

ただ、この同じかたが続けておっしゃることには、「現実の土着の神話について言及するならまだしも、『シンオウ神話』は 21 世紀の人間がつくったフィクション」だから改変も禁忌ではないという。これは裏を返すと、たとえば「日本神話」を海外に翻訳して紹介するときには内容の改変などは許されない、そんなことをすれば本末転倒だということは誰にも同意いただけるはずである。結局そこにこそ温度差があるのであって、私は「日本神話」と同様に「シンオウ神話」を考え、日本があると同様にシンオウ世界も存在——「実在」とは違う——しているとみなしているので、それを改変されるのはうれしくない、シンオウ世界のあるがままを尊重すべきだと感じている、ただそれだけの違いであってイデオロギーの問題ではないと思う (むろんイデオロギーとまったく無縁な議論などありえないにしても)。

❀ それにそもそもシンオウ世界は日本ともイコールではない。たびたび強調したとおりポケモンとの「結婚」という発想が私を含む多くの日本人に衝撃を与えたことからしても、シンオウの文化が日本の文化とは異質であるということこそ本稿の前提であり、したがってその点でもシンオウ文化の尊重がエスノセントリズムだというレッテルはあたっていない。

❀ シンオウ世界の「存在」ということについてもう少し付け加えるなら、フィクションの存在物というのは制作者が描くことを通してのみ存在が成りたつのであるから、改変の影響はむしろ実在の対象よりもはるかにセンシティブゆえに重大であって、現実に存在の基盤をもつものに対する以上に改変に関し慎重であらねばならないとさえいえる。実在のものについてなにを語っても物そのものが変化するわけではないが、虚構の存在物についていわば「公式の力」をもって語ることは存在そのものを書きかえてしまう効力を有するからである。ちなみに、フィクションの存在という観念になじみのない人には三浦俊彦『虚構世界の存在論』(勁草書房、1995 年) や倉田剛『現代存在論講義 II』(新曜社、2017 年) などをさしあたりおすすめする。

もうひとつつまらないことを確認するが、私が本稿で「悲劇」と申しているのはたんに同化的翻訳が悪いという話ではなくて、それを中途半端に試みたことによって翻訳後の結果が矛盾した理解困難な文章になってしまったことも含めて言っている。さらに英訳だけに影響がとどまらなかったことまで含めてもいいかもしれない。私としてはこのように難の多い仕事ぶりの遺憾であることを主張した表現である。

最後に、正直なところを言うと私の立場じたいこの記事以降に揺らいでおり、そのあたりのことは「シンオウ神話翻訳集成 (2) シンオウちほうの しんわ」のあとがきで論じた内容と関連するのだが、そもそも翻訳の差異や多様性ということを積極的に認めないと翻訳比較ということの意義が薄れてしまうので、現在の私の考えはかならずしも本稿のままではない。ただし以上の追記はあくまで本稿への批判に応える目的であるから執筆当時の立場を考えながら書いた。