『不思議の国のアリス』IX 章は作中でも訳出が屈指の難しさを誇る章ではなかろうか.この章で登場する代用ウミガメ (Mock Turtle) は「海の学校」で習う科目の名前を列挙し,それが「陸の学校」すなわちアリスの知るふつうの学校の科目名を数文字変えたダジャレになっているのである (ただし「陸の学校」のほうの科目名は読者が当然に察するべき事柄であり,これらの単語は原文にひとつとして明示的に出てこない).その一覧は次のとおり:
海の学校 | 陸の学校 |
---|---|
Reeling | Reading |
Writhing | Writing |
Ambition | Addition |
Distraction | Subtraction |
Uglification | Multiplication |
Derision | Division |
Mystery | History |
Drawling | Drawing |
Stretching | Sketching |
Fainting in Coils | Painting in Oils |
Laughing | Latin |
Grief | Greek |
これらをまったく自然に日本語に訳出すること,すなわちどんな読者からも不満を抱かれない日本語に完璧に移すことはほとんど不可能だろう.試みにいくつかの訳例を比較してみる (なお引用の出典表記については Amazon の商品リンクにてこれに替えさせていただく):
原語 | 河合 2010 | 高橋 1988 | 柳瀬 1987 | 生野 1971 |
---|---|---|---|---|
Reeling | もみ肩 | 酔いかた | 海用感字の読み書き | 読ろめき方 |
Writhing | 掻き肩 | かみかた | 足書き方 | |
Ambition | めでたし算 | イイコノワタシ算 | 海程式 | つけ足し算 |
Distraction | かぜひき算 | ワルイコノソウシキ算 | 釣亀算 | 引きくるい算 |
Uglification | かびかびぶっかけ算 | イッパイヒッカケ算 | 因数分海 | 追いかけ算 |
Derision | わりぃわりぃ算 | クルクルメガマワリ算 | 侮数計算 | あざ割り算 |
Mystery | おせっかい史 | 溺死 | 礫史 | まやか史 |
Seaography | 海理 | 世界チリヂリ | 海理学 | トチ理 |
Drawling | ビジツ,デッぷりおっサン *1 | 図画島工作 *2 | 貝画 | 水描き |
Stretching | 写らく生 | ストレッチつまり躁病法 | 蛤作 | うで描き |
Fainting in Coils | 天ぷら油絵 | ガマブラエつまりガマの油で絵を描く方法 | 捻努細工 | ぶらぶら描き |
Laughing | チンプン漢文 | ゲラゲラテン語の喜劇 | 悲事記 | ラクテン語 |
Grief | ギリギリシア語の悲劇 | 万陽集 | クルシャ語 |
*1: この段落中に 3 回現れる Drawling という語を 2 通りに訳している.
*2: 科目名ではなくそれを教える先生の名前という設定に変えている.
じつに,これを見ただけでも訳者の先生がたの涙ぐましい努力のほどが窺われるではないか.何十通りもある『アリス』の翻訳のなかからとくに代表的と思われる 4 つを選んでみたつもりだが,こうした訳語はすべてがこれら 4 先生の創案とは限らず先行訳に負っている部分もあろう.ここで訳出の歴史と誰に発明の先取権があるのかについての詮索はよしておき,とにかく書かれているとおりの比較に留める.
一見して気がつくのは,直接に英語の字義どおりの意味を訳出しようとしている箇所がほとんどないことだ.たいていの場合にこのかたがたは,日本語訳だけを読んで完結した文章になるように心がけているように見受けられ,本来の「陸の学校」における科目の日本語名をもとにしてそれと似た音を選ぶ傾向にあるようである.
たとえば Mystery の原義を残そうとしているのは 4 つのうち生野訳の「まやか史」が唯一であり,ほかの 3 者は History に対応する「歴史」または「世界史」を基礎にして言葉遊びを独立に作っている.Ambition や Uglification, Fainting in Coils に関しては,原義をわずかでも伝えようとしているものは皆無である (こじつけようとすれば最後の例で,柳瀬訳の「捻」の字はコイルとつながっていないでもないかもしれない).
それはそれとして諸先生の最大限の努力を認めるとしても,どうにもオヤジギャグ臭さが全面に立ちのぼっておりこっ恥ずかしいものがある.私じしんこれを引用のためタイピングしながら何度も赤面してしまった.このあたりオリジナルではどうなのだろう.私たちはどうも欧米のものと見るとそれだけで洒落ていると感じてしまいがちだが,存外いまどきのイギリスの若い読者にとってキャロルの原文も見るに堪えないオヤジギャグに思われるのだろうか.もしそうだとすれば上のような日本語訳は完璧に雰囲気を伝えていることになるのだが.
では話を戻して個別の単語の検討に進もう.上の表に見える 13 × 4 の訳語について,まったく手放しで完璧だと賞賛できるものがただひとつある.それは Seaography を「海理 (学)」と訳している例で (河合訳・柳瀬訳),余計な付け足しもなくすっきりしていて意味もしっかり原文どおりであり,これに関してはこれ以上を望めないと思う.
ここで代用ウミガメは Geography (地理) との対応で陸ではなく海だからとこう言っているので,日本語だけで読んでもそのことがちゃんと推察されるところがよい.もっとも河合訳などは (原文ではただ Seaography と言うだけで説明せずほのめかしに留まっているのに対し) 明示的に補足説明を加えてしまっているのだが.
たぶん,この「海理」は「カイリ」ではなく「うみリ」とふりがなを振るほうがいいと思う.それは Seaography という語の成りたちがさように不格好であるからである.Geography も含め,こういう学問の名前というのはたいていギリシア語とラテン語由来の形態素を使っている.この事情はちょうど日本語のなかで中国語由来の漢語をお堅い言葉と感じることとパラレルである.
一見して気がつくのは,直接に英語の字義どおりの意味を訳出しようとしている箇所がほとんどないことだ.たいていの場合にこのかたがたは,日本語訳だけを読んで完結した文章になるように心がけているように見受けられ,本来の「陸の学校」における科目の日本語名をもとにしてそれと似た音を選ぶ傾向にあるようである.
たとえば Mystery の原義を残そうとしているのは 4 つのうち生野訳の「まやか史」が唯一であり,ほかの 3 者は History に対応する「歴史」または「世界史」を基礎にして言葉遊びを独立に作っている.Ambition や Uglification, Fainting in Coils に関しては,原義をわずかでも伝えようとしているものは皆無である (こじつけようとすれば最後の例で,柳瀬訳の「捻」の字はコイルとつながっていないでもないかもしれない).
それはそれとして諸先生の最大限の努力を認めるとしても,どうにもオヤジギャグ臭さが全面に立ちのぼっておりこっ恥ずかしいものがある.私じしんこれを引用のためタイピングしながら何度も赤面してしまった.このあたりオリジナルではどうなのだろう.私たちはどうも欧米のものと見るとそれだけで洒落ていると感じてしまいがちだが,存外いまどきのイギリスの若い読者にとってキャロルの原文も見るに堪えないオヤジギャグに思われるのだろうか.もしそうだとすれば上のような日本語訳は完璧に雰囲気を伝えていることになるのだが.
Seaography の訳語について
では話を戻して個別の単語の検討に進もう.上の表に見える 13 × 4 の訳語について,まったく手放しで完璧だと賞賛できるものがただひとつある.それは Seaography を「海理 (学)」と訳している例で (河合訳・柳瀬訳),余計な付け足しもなくすっきりしていて意味もしっかり原文どおりであり,これに関してはこれ以上を望めないと思う.
ここで代用ウミガメは Geography (地理) との対応で陸ではなく海だからとこう言っているので,日本語だけで読んでもそのことがちゃんと推察されるところがよい.もっとも河合訳などは (原文ではただ Seaography と言うだけで説明せずほのめかしに留まっているのに対し) 明示的に補足説明を加えてしまっているのだが.
たぶん,この「海理」は「カイリ」ではなく「うみリ」とふりがなを振るほうがいいと思う.それは Seaography という語の成りたちがさように不格好であるからである.Geography も含め,こういう学問の名前というのはたいていギリシア語とラテン語由来の形態素を使っている.この事情はちょうど日本語のなかで中国語由来の漢語をお堅い言葉と感じることとパラレルである.
参考までに,海洋学を意味するふつうの語は oceanography で,これは (究極的にはギリシア語 Ὠκεανός に遡るが) ラテン語の oceanus にもとづいている.
しかるに sea というのは英語 (ゲルマン語) にとっては本来語 (native word) であって,海を意味するラテン語 (前掲 oceanus のほか mare など) ともギリシア語 (θάλασσα, πέλαγος, πόντος など) とも似ておらず,その立ち位置は日本語における大和言葉に似ている.それがギリシア語由来の接尾辞 -graphy とくっついた奇妙な結合 (ちょうどいまどき流行りの「見える化」のような気持ち悪いつくり) を果たしているのであるから,それを思わせるように読ませるのがいいだろう.
反対にこのなかでいちばん悪い訳を決めることには意味がない.というのもここに引いたのは何十種類もある訳書のなかからわずかに 4 つのしかもとくに完成度の高い事例であり,もっと見るに堪えない拙劣な訳はこれらのほかにいくらでもあろうからだ.
しかしそれでもあえて指摘せねばならないと思われるのは Uglification (または Derision) に関する箇所である.というのも,この点を悪くするとたんにひとつの訳語の良し悪しにとどまらず,続く話の展開が理解不能になってしまうからだ.そして実際にどの訳でも意味不明になってしまっている.代用ウミガメが四則の名前を挙げたあと尋ねかえしたアリスに対し,グリフォンは彼女を馬鹿にして次のようにまくしたてるのだが (セリフのみ抜粋),これら 4 つの訳を読んで彼がなぜこんなふうな言いかたをするのかわかる人がいるだろうか:
英語のおさらいになるが,-(i)fy という接尾辞は形容詞や名詞について「〜 (の状態) にする,変える」という動詞を作る.だから beautify と見れば,かりにそれまでその動詞をいちども聞いたことがなくとも「beautiful にする=美しくする」だとアリスにはわかったのだ.Uglify のほうも同様に「ugly にする=醜くする」であり,-fication で名詞になることも誰でも想像がつく.そして言うまでもなく beautiful と ugly は日本でも中学 1 年生で習う単語であり,ネイティブなら幼児でも知っている形容詞だ.
つまり,上で「見える化」という新語に触れたが,それになぞらえていえばちょうど「美し化」「みにく化」のようなもので (単語の自然さはぜんぜん違うにしろ),たとえ納得はできなくてもなにが言いたいかはたちどころにわかる.だからこそここでグリフォンは「それでわからないなら馬鹿だ」とまで言えるのである.もとより人に悪口を言っていいかは別問題としても,ある意味では正当な指摘を彼はしているわけで,会話の流れとしては自然である.ここはナンセンスでもなんでもなくちゃんと筋の通った話なのである.
これに反して日本語訳のほうはどうか.「美化」がわかるなら「かびかびぶっかけ算」の意味もわかる,「一杯食わせる」がわかるなら「一杯ひっかける」も想像がつく,などとはどうあっても言えないだろう.英語では beautiful と ugly は対になる単語だが,これらの日本語ではぜんぜんつながりがなく,また -fy のような透明 (semantic transparency の意味で) な造語法でもないからである.そうするとどうして「まぬけ」「ばか」「頭がよくない」「あほう」とまで馬鹿にされねばならないのか理解できなくなる.「かびかびぶっかけ算」とか「侮数計算」とかいったありもしない言葉が聞いてわからないのはむしろあたりまえのことだからだ.これではグリフォンはオリジナルとかけ離れてむやみに口が過ぎるというか,理不尽な言いがかりをつけている嫌味ったらしいキャラクタに変じているし,読者は唐突な暴言に面食らってしまう.
ではどう訳すべきか.それは難しいが,まず問題は Uglification という語に端を発しているので,さきにこれの訳語を決定しないと始まらない.それを模索するにあたって,別段,意味としては「かけ算」に似せることにこだわる必要はないはずだ.というのは原文で Uglification らの 4 語は Multiplication らとただ音が似ているのみで,いずれも算数となんらの関係もなく,キャロルじしん意味に拘泥していないからである.ここでは韻が優先というのが彼のメッセージなのだ.であれば私たちが注力すべきは,(1)「足し算」「引き算」等々とただ音だけが似た言葉を,(2) 造語ではなく ambition のようにふつうの単語から探すことだろう (もっとも uglification だけはキャロルの当時なじみのない語なのかもしれない).この 2 つが原文から読みとれる原則であって,四則にこだわるあまりありもしない言葉を作り文字数まで引きのばしてしまっている既存訳は,この箇所にかぎり原文の精神を見失っていると言われてもおかしくないと思われる.
参考に資するべく,キャロル本人が知っていた 1869 年のドイツ語訳とフランス語訳においてこれらの箇所がどうなっているかを見てみよう.彼じしんがどこまで翻訳に口を出したものかは知らないが,本人が認める翻訳とはどういうものかを知るうえでもっとも有力な証拠がこれら以上にないことは確かである.
いずれの訳も会話の成りゆきは原文と同じだが,すべて忠実に訳しているわけではない.まず代用ウミガメが「四則」の名を挙げ,その後アリスが「かけ算」にあたる 3 番めの語すなわち »Vervielfraßen« および « Enjolification » に疑問を呈している.そこにグリフォンが驚いて口をはさみ,»Verhungern« または « embellir » なら知っているはずだと問う.そちらも確信のないアリスは一語一語区切るように訥々と正解を答える.あとは同じで,それがわかるならもとの語もわからなきゃ馬鹿 (Pinsel, niaise) だと言われておしまいになる.
ポイントとしては,フランス語の接頭辞 en- もドイツ語の前つづり ver- も,英語の -fy と同じくもとの名詞の表す事物・性質にするという意味の動詞を作るので,やはりアリスは聞いてすぐに意味を推測できねばならないということだ (en- のほうは英語にもある;cf. enable, embody).前節の分析でもすでにわかっていたことではあるが,このことはやはり翻訳に際して動かしがたい方針であるように思われる.つまり一見知らない語に見えても考えればわかるはずの言葉がここには充当されねばならないということだ.馬鹿だと言われるためには考えを放棄するという前段階が必要なのである.
もっともフランス語では addition 等々のほうも ambition 等々のほうもまるっきり同じ単語で直訳して通じるので,この点では私たちの参考にならない.ただ気になるのは当の enjolification だけかなり異なる語になっていることである.この語 (およびその動詞形の enjolir) は辞書にないが,だからといってわからないのではグリフォンに馬鹿だと言われてしまう.Joli が「きれいな,かわいい」という形容詞なので「美しくする (こと)」という意味だろう (ちなみに joli から作られる「美しくする」というふつうの動詞は enjoliver で,こちらは辞書に載っている).
ところでグリフォンが引きあいに出している « embellir » のほうも,アリスが答えているとおり belle/beau「美しい」にすることなので,ここでは原文にあった対義語という性質が消えてしまっている.もっとも対義語のペアであることそのものにたいした価値があったわけではなく,要するに uglify/enjolir を理解させるために beautify/embellir というよりわかりやすい語を提示することが肝心だったということか.たださらに奇妙なことには,enjolification では音としても multiplication とさほど似ていないような気がする.これはまったく謎であるが,フランス語で似た単語をあてることは不可能だったのかもしれない.
ドイツ語訳のほうはこの改変がさらに顕著だ.グリフォンが例示する語 »Verhungern« は,アリスが「なにも―食べず―そのために―死ぬこと」と説明しているとおり「餓死する」という衝撃的な語である.そしてそこから »Vervielfraßen« を推測しろという話で,例によってこれも辞書にはない言葉だが,Vielfraß というのは動物の貂の一種で比喩的に大食家という意味もあるらしい.これに前つづり ver- と動詞の不定形語尾 -en をつけて動詞化しているので (厳密にはそれをさらに大文字書きによって名詞に転用しているのだが),大食いになるとかするとかいう意味あいだろう.こちらはかなり »Vervielfachen« によく似ているので,まずここの音合わせを優先して,ver- の例解のために verhungern を決めて原語の beautify を捨てた,という翻訳の流れが見えてくる.
Enjolification と Vervielfraßen が新造語であるとすれば新たに蓋然性が高まってきたのは,やはり当時 uglify, uglification は造語として認識されていた可能性である.Merriam-Webster 英語辞典によれば uglify は早くも 1576 年に初出だそうだが,あまり一般的には使われていなかったのかもしれない.この例に鑑みれば私たちは,韻のためには少しだけなら人工的な語をあててもキャロルから許されるということが結論される.
四則演算の訳語について
反対にこのなかでいちばん悪い訳を決めることには意味がない.というのもここに引いたのは何十種類もある訳書のなかからわずかに 4 つのしかもとくに完成度の高い事例であり,もっと見るに堪えない拙劣な訳はこれらのほかにいくらでもあろうからだ.
しかしそれでもあえて指摘せねばならないと思われるのは Uglification (または Derision) に関する箇所である.というのも,この点を悪くするとたんにひとつの訳語の良し悪しにとどまらず,続く話の展開が理解不能になってしまうからだ.そして実際にどの訳でも意味不明になってしまっている.代用ウミガメが四則の名前を挙げたあと尋ねかえしたアリスに対し,グリフォンは彼女を馬鹿にして次のようにまくしたてるのだが (セリフのみ抜粋),これら 4 つの訳を読んで彼がなぜこんなふうな言いかたをするのかわかる人がいるだろうか:
河合 2010:「《かびかびぶっかけ算》を聞いたことないって!」「《美化》って言葉は知ってるよね?」「そうだよ、じゃあ、」「かびかびぶっかけ算がなにかわからなかったら、君はまぬけだよ」
高橋 1988:「ヒッカケを知らないって? しかしイッパイクワセルなら知ってるだろう?」「それじゃ、イッパイヒッカケルを知らないはずはないさ。おまえさんはばかだね」
柳瀬 1987:「侮数計算も聞いたことがないんか!」「ぶすってのはどんなのか、知っているんだろうな?」「ぶすがなにか知ってるのに、それで侮数計算がわからないってんなら、おまえさんも頭がよくないね」
生野 1971:「あざ割り算を聞いたことがねえって!」「まさか、あざわらうってことばは知ってるだろうな?」「それでもあざ割り算がわからないのなら、あんたはまったくあほうさ」原文で話の流れを確認してみよう.ここで代用ウミガメが「算数」の内訳として Ambition, Distraction, Uglification, Derision という 4 語を挙げるのを聞き,アリスは「Uglification なんて聞いたことがない」と異議を申したてる.するとグリフォンが驚いて,「でも beautify という言葉はわかるよね」と確認し,アリスはつっかえながらもそれを肯定する.そのとたんグリフォンは「それなら Uglification もわからなきゃ馬鹿だ」と嘲るのである.
英語のおさらいになるが,-(i)fy という接尾辞は形容詞や名詞について「〜 (の状態) にする,変える」という動詞を作る.だから beautify と見れば,かりにそれまでその動詞をいちども聞いたことがなくとも「beautiful にする=美しくする」だとアリスにはわかったのだ.Uglify のほうも同様に「ugly にする=醜くする」であり,-fication で名詞になることも誰でも想像がつく.そして言うまでもなく beautiful と ugly は日本でも中学 1 年生で習う単語であり,ネイティブなら幼児でも知っている形容詞だ.
つまり,上で「見える化」という新語に触れたが,それになぞらえていえばちょうど「美し化」「みにく化」のようなもので (単語の自然さはぜんぜん違うにしろ),たとえ納得はできなくてもなにが言いたいかはたちどころにわかる.だからこそここでグリフォンは「それでわからないなら馬鹿だ」とまで言えるのである.もとより人に悪口を言っていいかは別問題としても,ある意味では正当な指摘を彼はしているわけで,会話の流れとしては自然である.ここはナンセンスでもなんでもなくちゃんと筋の通った話なのである.
これに反して日本語訳のほうはどうか.「美化」がわかるなら「かびかびぶっかけ算」の意味もわかる,「一杯食わせる」がわかるなら「一杯ひっかける」も想像がつく,などとはどうあっても言えないだろう.英語では beautiful と ugly は対になる単語だが,これらの日本語ではぜんぜんつながりがなく,また -fy のような透明 (semantic transparency の意味で) な造語法でもないからである.そうするとどうして「まぬけ」「ばか」「頭がよくない」「あほう」とまで馬鹿にされねばならないのか理解できなくなる.「かびかびぶっかけ算」とか「侮数計算」とかいったありもしない言葉が聞いてわからないのはむしろあたりまえのことだからだ.これではグリフォンはオリジナルとかけ離れてむやみに口が過ぎるというか,理不尽な言いがかりをつけている嫌味ったらしいキャラクタに変じているし,読者は唐突な暴言に面食らってしまう.
ではどう訳すべきか.それは難しいが,まず問題は Uglification という語に端を発しているので,さきにこれの訳語を決定しないと始まらない.それを模索するにあたって,別段,意味としては「かけ算」に似せることにこだわる必要はないはずだ.というのは原文で Uglification らの 4 語は Multiplication らとただ音が似ているのみで,いずれも算数となんらの関係もなく,キャロルじしん意味に拘泥していないからである.ここでは韻が優先というのが彼のメッセージなのだ.であれば私たちが注力すべきは,(1)「足し算」「引き算」等々とただ音だけが似た言葉を,(2) 造語ではなく ambition のようにふつうの単語から探すことだろう (もっとも uglification だけはキャロルの当時なじみのない語なのかもしれない).この 2 つが原文から読みとれる原則であって,四則にこだわるあまりありもしない言葉を作り文字数まで引きのばしてしまっている既存訳は,この箇所にかぎり原文の精神を見失っていると言われてもおかしくないと思われる.
ドイツ語訳とフランス語訳
参考に資するべく,キャロル本人が知っていた 1869 年のドイツ語訳とフランス語訳においてこれらの箇所がどうなっているかを見てみよう.彼じしんがどこまで翻訳に口を出したものかは知らないが,本人が認める翻訳とはどういうものかを知るうえでもっとも有力な証拠がこれら以上にないことは確かである.
»Legen und Treiben, natürlich, zu allererst,« erwiederte die falsche Schildkröte; »und dann die vier Abtheilungen vom Rechnen: Zusehen, Abziehen, Vervielfraßen und Stehlen.«
»Ich habe nie von Vervielfraßen gehört,« warf Alice ein. »Was ist das?«
Der Greif erhob beide Klauen voller Verwunderung. »Nie von Vervielfraßen gehört!« rief er aus. »Du weißt, was Verhungern ist? vermuthe ich.«
»Ja,« sagte Alice unsicher, »es heißt — nichts — essen — und davon — sterben.«
»Nun,« fuhr der Greif fort, »wenn du nicht verstehst, was Vervielfraßen ist, dann bist du ein Pinsel.«
« À Luire et à Médire, cela va sans dire, » répondit la Fausse-Tortue ; « et puis les différentes branches de l’Arithmétique : l’Ambition, la Distraction, l’Enjolification, et la Dérision. »ちなみに四則の呼び名は,フランス語では英語と同様に addition, soustraction, multiplication, division である.ドイツ語でも Addition, Subtraktion, Multiplikation, Division と言えるがこのラテン語由来の用語はむしろ学術的な響きがあり,より一般的なのは Zusammenzählen, Abziehen, Vervielfachen, Teilen で (ちょうど日本語の「加法」と「足し算」のような関係か),ドイツ語訳の言葉遊びもこの後者に拠っている.
« Je n’ai jamais entendu parler d’enjolification, » se hasarda de dire Alice. « Qu’est-ce que c’est ? »
Le Griffon leva les deux pattes en l’air en signe d’étonnement. « Vous n’avez jamais entendu parler d’enjolir ! » s’écria-t-il. « Vous savez ce que c’est que « embellir, » je suppose ? »
« Oui, » dit Alice, en hésitant : « cela veut dire — rendre — une chose — plus belle. »
« Eh bien ! » continua le Griffon, « si vous ne savez pas ce que c’est que « enjolir » vous êtes vraiment niaise. »
いずれの訳も会話の成りゆきは原文と同じだが,すべて忠実に訳しているわけではない.まず代用ウミガメが「四則」の名を挙げ,その後アリスが「かけ算」にあたる 3 番めの語すなわち »Vervielfraßen« および « Enjolification » に疑問を呈している.そこにグリフォンが驚いて口をはさみ,»Verhungern« または « embellir » なら知っているはずだと問う.そちらも確信のないアリスは一語一語区切るように訥々と正解を答える.あとは同じで,それがわかるならもとの語もわからなきゃ馬鹿 (Pinsel, niaise) だと言われておしまいになる.
ポイントとしては,フランス語の接頭辞 en- もドイツ語の前つづり ver- も,英語の -fy と同じくもとの名詞の表す事物・性質にするという意味の動詞を作るので,やはりアリスは聞いてすぐに意味を推測できねばならないということだ (en- のほうは英語にもある;cf. enable, embody).前節の分析でもすでにわかっていたことではあるが,このことはやはり翻訳に際して動かしがたい方針であるように思われる.つまり一見知らない語に見えても考えればわかるはずの言葉がここには充当されねばならないということだ.馬鹿だと言われるためには考えを放棄するという前段階が必要なのである.
もっともフランス語では addition 等々のほうも ambition 等々のほうもまるっきり同じ単語で直訳して通じるので,この点では私たちの参考にならない.ただ気になるのは当の enjolification だけかなり異なる語になっていることである.この語 (およびその動詞形の enjolir) は辞書にないが,だからといってわからないのではグリフォンに馬鹿だと言われてしまう.Joli が「きれいな,かわいい」という形容詞なので「美しくする (こと)」という意味だろう (ちなみに joli から作られる「美しくする」というふつうの動詞は enjoliver で,こちらは辞書に載っている).
ところでグリフォンが引きあいに出している « embellir » のほうも,アリスが答えているとおり belle/beau「美しい」にすることなので,ここでは原文にあった対義語という性質が消えてしまっている.もっとも対義語のペアであることそのものにたいした価値があったわけではなく,要するに uglify/enjolir を理解させるために beautify/embellir というよりわかりやすい語を提示することが肝心だったということか.たださらに奇妙なことには,enjolification では音としても multiplication とさほど似ていないような気がする.これはまったく謎であるが,フランス語で似た単語をあてることは不可能だったのかもしれない.
ドイツ語訳のほうはこの改変がさらに顕著だ.グリフォンが例示する語 »Verhungern« は,アリスが「なにも―食べず―そのために―死ぬこと」と説明しているとおり「餓死する」という衝撃的な語である.そしてそこから »Vervielfraßen« を推測しろという話で,例によってこれも辞書にはない言葉だが,Vielfraß というのは動物の貂の一種で比喩的に大食家という意味もあるらしい.これに前つづり ver- と動詞の不定形語尾 -en をつけて動詞化しているので (厳密にはそれをさらに大文字書きによって名詞に転用しているのだが),大食いになるとかするとかいう意味あいだろう.こちらはかなり »Vervielfachen« によく似ているので,まずここの音合わせを優先して,ver- の例解のために verhungern を決めて原語の beautify を捨てた,という翻訳の流れが見えてくる.
Enjolification と Vervielfraßen が新造語であるとすれば新たに蓋然性が高まってきたのは,やはり当時 uglify, uglification は造語として認識されていた可能性である.Merriam-Webster 英語辞典によれば uglify は早くも 1576 年に初出だそうだが,あまり一般的には使われていなかったのかもしれない.この例に鑑みれば私たちは,韻のためには少しだけなら人工的な語をあててもキャロルから許されるということが結論される.
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