トリエステ方言訳『星の王子さま』El Picio Principe の第 2 章の解説。凡例など詳しいことは序文を参照のこと。
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P. 10
solo per oto giorni「8 日間だけ」――oto は伊 otto で、前回述べたようにトリエステ方言には重子音がないことが反映している。フランス語 huit jours、イタリア語 otto giorni と同様、「8 日」で「1 週間」を表す用法があるようだ。
sora ’na zatera「いかだの上で」――sora が伊 sopra なのは少々見抜きにくいか (じつは前回も登場していたが指摘しそびれた)。zatera は伊の gia や cia ではなく zattera。
’na strana voseta me ga sveià「奇妙な小さな声が私を目覚めさせた」――voseta は vose に接尾辞 -eto/eta (伊 -etto) のついた指小形 (Zeper, 216)。ga sveià は sveiar (伊 svegliare) の近過去 3 単で、もののついでに注意しておくと、トリエステ方言にはほかのすべての北部方言と同様、遠過去が消えており近過去で代用される。Zeper, 172.
Te me dissegni「僕に描いて」――me は弱形の間接補語人称代名詞、だが te はもちろんそうではなく、弱形の主語人称代名詞。ところでこの箇所はフランス語原文ではまず vouvoyer をしたあとに tutoyer に切りかわるところだが、このトリエステ方言訳では最初から ti (伊 tu) で話している。トリエステ方言にももちろん敬称の lei, la はあり、la me dissegni と言えたはずのところだが、意図的な判断かは不明。
Dissegnime「僕に描いて」――上は直説法の言いかただったが、こちらは命令法。dissegnar は第 1 活用なので、単独では 2 人称親称の命令法は dissegna であるが、後ろに代名詞が結合する場合に限り、第 2・第 3 活用の影響によって語尾が -a でなく -i になる (dar, far, andar のような命令法が単音節の動詞を除く)。Zeper, 173 の 6. a. 標準イタリア語ではそういうことはなく disegnami。
come che fussi sta’ ciapà de un fulmine「雷に打たれたように」――come che は標準イタリア語のように come se とも言える (Zeper, 135 の 9. b.)。動詞は ciapar の受動態・接続法半過去 (伊訳 fossi stato colpito、ただし語源的に単語を対応させれば動詞は (ac)chiappato)。つまり sta’ は esser の過去分詞男性単数だが、これはふつうの第 1 活用が vardà (= vardado) のようになるのと違って、アポストロフォで sta’ (= stado) とつづる (Zeper, 144)。その理由は、音節の省略によって母音で終わる単音節語になる場合には、そのことがアポストロフォで示されねばならないからである (Zeper, 43 の 3.)。前置詞 de はこれまで見てきたように伊の di だけでなく da にも対応し (Zeper, 117)、ここでは受動態の動作主を示す da。
vardandome ben ’torno「あたりを見まわしながら」――vardandome は vardarse のジェルンディオで、その vardar は伊 guardare と同源。これらは古フランク語 *wardon に遡る語で、その言語の *w はしばしばロマンス語の gu に対応するが、トリエステ方言を含むヴェネト語では v を残した。’torno は atorno (伊 attorno) の語頭音消失。
’Sto qua xe el meo ritrato che [...]「これは〔……〕最良の肖像だ」――文法・語彙には改めて説明することはないが、本来あるはずの王子さまの絵が編集で入っていないため意味不明の文になっている (私の依拠するのは紙の本だが、Kindle 版にもないようだ)。
vardavo coi ioci spalancai「目を見開いて見つめた」――coi は con と定冠詞 i の結合。たぶん、ioci は oci (ocio「目」の複数) の誤記であろう。spalancai は spalancar の過去分詞・男性複数。
Co finalmente go ’vudo la possibilità de parlarghe「ようやく話せるようになったとき」――過去分詞の男性複数には avù と avudo の 2 形 (およびそれらの語頭音省略をしたもの) がある。この章のはじめには co go avù un incidente col mio aroplan「私の飛行機の事故があったとき」という例があるので、理由は不明だが、同じ話者 (著者) であっても両方の形を場合に応じて使うようだ。
調べたついでに触れておくと、このように複合時制において過去分詞 avudo は、その目的語が非強勢形人称代名詞であるときに la go avuda などとなる場合を除いて、ほかは「中性形」avù, avudo を用いる (Zeper, 152)。ここでは la possibilità は女性だが名詞なので ’vudo。
また parlarghe の ghe は「彼に」ではなく、伊 ci にあたる代名小詞で一種の冗語ともみなせる用法 (Zeper, 97 の 2. d.) かと解する。つまり伊 vederci「目が見える」や sentirci「耳が聞こえる」と同じ「口が利ける」の謂いか。
E lu me rispondi「すると彼は私に答える」――この箇所は当然意味的に過去のはずで、じっさい伊訳を引き比べると遠過去 (lui) mi rispose が多数派だが (N. Bompiani Bregoli, A. Colasanti, Y. Melaouah, R. Gardini, L. Carra;また B. Masini も lui mi disse)、すでに説明したようにトリエステ方言には遠過去はないので、じつは現在である。これは標準イタリア語にもある物語の現在、つまり歴史的現在かと思われるが (坂本『現代イタリア文法』217 頁)、Zeper の文法は語形変化には詳しいものの動詞の法や時制のそれぞれの用法は説明していないので確証はない (もっとも確立した文法として文学的用法を語れるほどトリエステ方言の文学そのものがイタリア語を離れて存在しうるものでもないだろうが)。
quei due dissegni che gavevo fato tante volte「私が何度も描いたことのあったあの 2 つの絵」――大過去。フランス語原文は « deux seuls dessins dont j’étais capable »「私が描くことのできたただ 2 つの絵」なので、けっこう表現を変えていることになる (tante volte を加えて関係節内を大過去に、また仏 seuls を削除し指示形容詞 quei を追加)。
当然 C. L. Candiani 訳や A. Colasanti 訳のイタリア語 «due soli disegni che sapevo fare» のように逐語訳することもできただろうに、N. Bompiani Bregoli (1949 年) による古典的な伊訳 «quei due disegni che avevo fatto tante volte» と完全に一致しているのは偶然とは考えがたいものがある。フランス語から直接移したのではなく NBB の伊訳が下敷きになっているのではないかという疑いを容れさせる。
この点ではほかに、前章にあった「私の絵は帽子を描いたのではなかった」、すなわち仏 « Mon dessin ne représentait pas un chapeau. » に対する、伊 NBB «Il mio disegno non era il disegno di un cappello.» とトリエステ «El mio dissegno no iera el dissegno de un capel» の合一も思いおこされる。これも動詞を era にして il disegno を反復するのではなく、raffigurava や rappresentava と逐語訳できたはずのところで (前者は Candiani, Carra, Melaouah、後者は Gardini, Masini の訳に見られる)、もちろん逐語訳を避けたい気もちは誰しもあるとしても、その変えかたがまったく同じになる必然性はない。だが後述するように、NBB に反して仏原文に近い文もあり、そこでは仏語を参照していることは確からしい。
e son restà a sentirme risponder「そして私に答えるのを聞くままでいた (?)」――restà は restar (伊 restare) の過去分詞で近過去だが、ここは原文 « Et je fus stupéfait d’entendre le petit bonhomme me répondre »「すると坊やが私に答えるのを聞いて驚いた」、伊 NBB も «e fui sorpreso di sentirmi rispondere» なので、なぜ restar か不明。私に調べのつかないべつの語義があるのかもしれない。伊 restare には「(ある状態に) なる」という意味があり、restare sorpreso「驚く」と言うが、restà (伊 restato) だけでそうなるのはわからない。下記に再出、後述する。
No voio「ほしくない」――voler の直説法現在の活用は、voio, te vol, el vol, volemo, volè, i vol。Zeper, 301.
Indove che vivo mi「僕の住んでいるところ」――イタリア語なら dove 一語ですむところ、冗語。Zeper, 139.
Lu la varda con atenzion e po el me disi「彼はそれを注意深く眺めて、それから私に言う」――やはり varda, disi は現在。イタリア語では順に guardò, disse と遠過去で言うところ (仏原文でも単純過去 regarda)。ひょっとして、語尾変化により一語ですむすっきりした遠過去に比べ、迂言的構成の近過去は字面が間延びするからか、あるいは標準語の遠過去に比較的語形が似ているためにか、一定の条件が整うと現在を過去のかわりに使う頻度が高まるのではないか? 研究が必要なテーマ。
’Sta qua xe za ’sai malada「これはもうかなり病気だ」――za は伊 già。NBB «Questa pecora è malaticcia» に反し仏原文 « Celui-là est déjà très malade. » にそっくりなので、ここは重訳を否定する材料。
Fame n’altra「ほかのを僕に描いて」――上述 dissegnime の項で説明したとおり、単音節の命令法 fà では例外的に語尾が変わらない。ただしイタリア語 fa’ + mi = fammi のように子音を重ねないことを念のため注意。n’ は不定冠詞 ’n’ < una で、読みやすさのため前のアポストロフォが消える。Zeper, 44 の 8.
la xe serada qua dentro「このなかにしまわれている」――serada は serar の過去分詞女性単数で、これはイタリア語 serrare にあたるが、意味的には chiudere。
Ma son restà co go visto [...]「だが〔……〕を見たとき驚いた」――前出のとおり、やはり restar 単独で「驚く」の意味に使われているとしか考えられない。2 度めなので脱字ということもないだろう。だが Zeper, 145 の表では restar は伊 restare としか書かれていないので、意味不明。
Perchè ’ndò che vivo mi「なぜなら僕の住んでいるところでは」――’ndò は indò の語頭音脱落。この後者はさらに indove の語末音脱落だが、語末のほうはアポストロフォでは書かない (書いてはならない)、というのは省略によって母音で終わる多音節語になる場合である (これは大部分の動詞の過去分詞男性単数形にもあてはまる)。Zeper, 43 の 2. a.
El ga piegà la testa verso el dissegno「彼は頭を絵のほうに傾げた」――ここも NBB ではなく仏に忠実。仏 « Il pencha la tête vers le dessin », 伊 NBB «Si chinò el disegno»。
La se ga indormenzà「それ (=羊) は寝入った」――再帰動詞の近過去だが、過去分詞は女性名詞の主語に一致しない。男性および女性の複数でも同じく -à。これが -ada, -ai, -ade と変わるのはイタリア語形。Zeper, 159.
sora ’na zatera「いかだの上で」――sora が伊 sopra なのは少々見抜きにくいか (じつは前回も登場していたが指摘しそびれた)。zatera は伊の gia や cia ではなく zattera。
’na strana voseta me ga sveià「奇妙な小さな声が私を目覚めさせた」――voseta は vose に接尾辞 -eto/eta (伊 -etto) のついた指小形 (Zeper, 216)。ga sveià は sveiar (伊 svegliare) の近過去 3 単で、もののついでに注意しておくと、トリエステ方言にはほかのすべての北部方言と同様、遠過去が消えており近過去で代用される。Zeper, 172.
Te me dissegni「僕に描いて」――me は弱形の間接補語人称代名詞、だが te はもちろんそうではなく、弱形の主語人称代名詞。ところでこの箇所はフランス語原文ではまず vouvoyer をしたあとに tutoyer に切りかわるところだが、このトリエステ方言訳では最初から ti (伊 tu) で話している。トリエステ方言にももちろん敬称の lei, la はあり、la me dissegni と言えたはずのところだが、意図的な判断かは不明。
Dissegnime「僕に描いて」――上は直説法の言いかただったが、こちらは命令法。dissegnar は第 1 活用なので、単独では 2 人称親称の命令法は dissegna であるが、後ろに代名詞が結合する場合に限り、第 2・第 3 活用の影響によって語尾が -a でなく -i になる (dar, far, andar のような命令法が単音節の動詞を除く)。Zeper, 173 の 6. a. 標準イタリア語ではそういうことはなく disegnami。
come che fussi sta’ ciapà de un fulmine「雷に打たれたように」――come che は標準イタリア語のように come se とも言える (Zeper, 135 の 9. b.)。動詞は ciapar の受動態・接続法半過去 (伊訳 fossi stato colpito、ただし語源的に単語を対応させれば動詞は (ac)chiappato)。つまり sta’ は esser の過去分詞男性単数だが、これはふつうの第 1 活用が vardà (= vardado) のようになるのと違って、アポストロフォで sta’ (= stado) とつづる (Zeper, 144)。その理由は、音節の省略によって母音で終わる単音節語になる場合には、そのことがアポストロフォで示されねばならないからである (Zeper, 43 の 3.)。前置詞 de はこれまで見てきたように伊の di だけでなく da にも対応し (Zeper, 117)、ここでは受動態の動作主を示す da。
vardandome ben ’torno「あたりを見まわしながら」――vardandome は vardarse のジェルンディオで、その vardar は伊 guardare と同源。これらは古フランク語 *wardon に遡る語で、その言語の *w はしばしばロマンス語の gu に対応するが、トリエステ方言を含むヴェネト語では v を残した。’torno は atorno (伊 attorno) の語頭音消失。
’Sto qua xe el meo ritrato che [...]「これは〔……〕最良の肖像だ」――文法・語彙には改めて説明することはないが、本来あるはずの王子さまの絵が編集で入っていないため意味不明の文になっている (私の依拠するのは紙の本だが、Kindle 版にもないようだ)。
vardavo coi ioci spalancai「目を見開いて見つめた」――coi は con と定冠詞 i の結合。たぶん、ioci は oci (ocio「目」の複数) の誤記であろう。spalancai は spalancar の過去分詞・男性複数。
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Co finalmente go ’vudo la possibilità de parlarghe「ようやく話せるようになったとき」――過去分詞の男性複数には avù と avudo の 2 形 (およびそれらの語頭音省略をしたもの) がある。この章のはじめには co go avù un incidente col mio aroplan「私の飛行機の事故があったとき」という例があるので、理由は不明だが、同じ話者 (著者) であっても両方の形を場合に応じて使うようだ。
調べたついでに触れておくと、このように複合時制において過去分詞 avudo は、その目的語が非強勢形人称代名詞であるときに la go avuda などとなる場合を除いて、ほかは「中性形」avù, avudo を用いる (Zeper, 152)。ここでは la possibilità は女性だが名詞なので ’vudo。
また parlarghe の ghe は「彼に」ではなく、伊 ci にあたる代名小詞で一種の冗語ともみなせる用法 (Zeper, 97 の 2. d.) かと解する。つまり伊 vederci「目が見える」や sentirci「耳が聞こえる」と同じ「口が利ける」の謂いか。
E lu me rispondi「すると彼は私に答える」――この箇所は当然意味的に過去のはずで、じっさい伊訳を引き比べると遠過去 (lui) mi rispose が多数派だが (N. Bompiani Bregoli, A. Colasanti, Y. Melaouah, R. Gardini, L. Carra;また B. Masini も lui mi disse)、すでに説明したようにトリエステ方言には遠過去はないので、じつは現在である。これは標準イタリア語にもある物語の現在、つまり歴史的現在かと思われるが (坂本『現代イタリア文法』217 頁)、Zeper の文法は語形変化には詳しいものの動詞の法や時制のそれぞれの用法は説明していないので確証はない (もっとも確立した文法として文学的用法を語れるほどトリエステ方言の文学そのものがイタリア語を離れて存在しうるものでもないだろうが)。
quei due dissegni che gavevo fato tante volte「私が何度も描いたことのあったあの 2 つの絵」――大過去。フランス語原文は « deux seuls dessins dont j’étais capable »「私が描くことのできたただ 2 つの絵」なので、けっこう表現を変えていることになる (tante volte を加えて関係節内を大過去に、また仏 seuls を削除し指示形容詞 quei を追加)。
当然 C. L. Candiani 訳や A. Colasanti 訳のイタリア語 «due soli disegni che sapevo fare» のように逐語訳することもできただろうに、N. Bompiani Bregoli (1949 年) による古典的な伊訳 «quei due disegni che avevo fatto tante volte» と完全に一致しているのは偶然とは考えがたいものがある。フランス語から直接移したのではなく NBB の伊訳が下敷きになっているのではないかという疑いを容れさせる。
この点ではほかに、前章にあった「私の絵は帽子を描いたのではなかった」、すなわち仏 « Mon dessin ne représentait pas un chapeau. » に対する、伊 NBB «Il mio disegno non era il disegno di un cappello.» とトリエステ «El mio dissegno no iera el dissegno de un capel» の合一も思いおこされる。これも動詞を era にして il disegno を反復するのではなく、raffigurava や rappresentava と逐語訳できたはずのところで (前者は Candiani, Carra, Melaouah、後者は Gardini, Masini の訳に見られる)、もちろん逐語訳を避けたい気もちは誰しもあるとしても、その変えかたがまったく同じになる必然性はない。だが後述するように、NBB に反して仏原文に近い文もあり、そこでは仏語を参照していることは確からしい。
e son restà a sentirme risponder「そして私に答えるのを聞くままでいた (?)」――restà は restar (伊 restare) の過去分詞で近過去だが、ここは原文 « Et je fus stupéfait d’entendre le petit bonhomme me répondre »「すると坊やが私に答えるのを聞いて驚いた」、伊 NBB も «e fui sorpreso di sentirmi rispondere» なので、なぜ restar か不明。私に調べのつかないべつの語義があるのかもしれない。伊 restare には「(ある状態に) なる」という意味があり、restare sorpreso「驚く」と言うが、restà (伊 restato) だけでそうなるのはわからない。下記に再出、後述する。
No voio「ほしくない」――voler の直説法現在の活用は、voio, te vol, el vol, volemo, volè, i vol。Zeper, 301.
Indove che vivo mi「僕の住んでいるところ」――イタリア語なら dove 一語ですむところ、冗語。Zeper, 139.
Lu la varda con atenzion e po el me disi「彼はそれを注意深く眺めて、それから私に言う」――やはり varda, disi は現在。イタリア語では順に guardò, disse と遠過去で言うところ (仏原文でも単純過去 regarda)。ひょっとして、語尾変化により一語ですむすっきりした遠過去に比べ、迂言的構成の近過去は字面が間延びするからか、あるいは標準語の遠過去に比較的語形が似ているためにか、一定の条件が整うと現在を過去のかわりに使う頻度が高まるのではないか? 研究が必要なテーマ。
’Sta qua xe za ’sai malada「これはもうかなり病気だ」――za は伊 già。NBB «Questa pecora è malaticcia» に反し仏原文 « Celui-là est déjà très malade. » にそっくりなので、ここは重訳を否定する材料。
Fame n’altra「ほかのを僕に描いて」――上述 dissegnime の項で説明したとおり、単音節の命令法 fà では例外的に語尾が変わらない。ただしイタリア語 fa’ + mi = fammi のように子音を重ねないことを念のため注意。n’ は不定冠詞 ’n’ < una で、読みやすさのため前のアポストロフォが消える。Zeper, 44 の 8.
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la xe serada qua dentro「このなかにしまわれている」――serada は serar の過去分詞女性単数で、これはイタリア語 serrare にあたるが、意味的には chiudere。
Ma son restà co go visto [...]「だが〔……〕を見たとき驚いた」――前出のとおり、やはり restar 単独で「驚く」の意味に使われているとしか考えられない。2 度めなので脱字ということもないだろう。だが Zeper, 145 の表では restar は伊 restare としか書かれていないので、意味不明。
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Perchè ’ndò che vivo mi「なぜなら僕の住んでいるところでは」――’ndò は indò の語頭音脱落。この後者はさらに indove の語末音脱落だが、語末のほうはアポストロフォでは書かない (書いてはならない)、というのは省略によって母音で終わる多音節語になる場合である (これは大部分の動詞の過去分詞男性単数形にもあてはまる)。Zeper, 43 の 2. a.
El ga piegà la testa verso el dissegno「彼は頭を絵のほうに傾げた」――ここも NBB ではなく仏に忠実。仏 « Il pencha la tête vers le dessin », 伊 NBB «Si chinò el disegno»。
La se ga indormenzà「それ (=羊) は寝入った」――再帰動詞の近過去だが、過去分詞は女性名詞の主語に一致しない。男性および女性の複数でも同じく -à。これが -ada, -ai, -ade と変わるのはイタリア語形。Zeper, 159.
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